1 :
名無しさん@京都板じゃないよ :
2008/03/28(金) 21:30:41 法句経 と スッタニパータ
2 :
名無しさん@京都板じゃないよ :2008/03/28(金) 21:45:57
1、ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。 もしも、汚れた心で話したり行ったりするならば、苦しみはその人に付き従う。 −−−車をひく(牛)の足跡に車輪がついてゆくように。
3 :
名無しさん@京都板じゃないよ :2008/03/28(金) 21:47:41
2、ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。 もしも清らかな心で話したり行ったりするならば、福楽はその人に付き従う −−−影がそのからだから離れないように。 3、「彼はわれを罵った。彼はわれを害した。彼はわれにうち勝った。 彼はわれから強奪した。」という思いを抱く人には、怨みはついに息むことがない。
4 :
名無しさん@京都板じゃないよ :2008/03/28(金) 21:49:50
4、「彼はわれを罵った。彼はわれを害した。彼はわれにうち勝った。彼はわれから強奪した。」 という思いを抱かない人には、ついに怨みが息む。
いい加減宗教板に帰れよ。
6 :
名無しさん@京都板じゃないよ :2008/03/28(金) 23:05:26
提案して良いですか。法旬がもらっても良いですかね。潰すのもったいないからよ。良いならもらうよ。>>5番さん。 俺が立ち上げた訳ではナイヨ。
7 :
名無しさん@京都板じゃないよ :2008/03/28(金) 23:07:00
5、実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息むことがない。 怨みを捨ててこそ息む。これは永遠の真理である。 6、「われらは、ここにあって死ぬはずのものである。」と覚悟をしょう。 −−−このことわりを他の人々は知ってはいない。しかし、このことわりを知る人々があれば、争いはしずまる。 7、この世のものを浄らかだと思いなして暮らし、(眼などの)感官を抑制せず、 食事の節度を知らず、怠けて勤めない者は、悪魔にうちひしがれる。 −−−弱い樹木が風に倒されるように。
8 :
名無しさん@京都板じゃないよ :2008/03/28(金) 23:08:07
原始仏典
9 :
名無しさん@京都板じゃないよ :2008/03/28(金) 23:08:44
この内容は、以前、法句が説いていた内容だな。
>>6 法句経 と スッタニパータについて論じるならなんらOKですよ。
11 :
名無しさん@京都板じゃないよ :2008/03/28(金) 23:15:15
「いかりをすてたかぶりを離れ、ありとあるまつわりをこうよ。ひともし言葉とすだたにしゅうちゃくすることなく、 わがもののおもいなくば、かかるひとにすべてのくるしみはきたらず。」
12 :
名無しさん@京都板じゃないよ :2008/03/28(金) 23:24:37
誰が訳したのを読んでいる。中村訳・水野訳・友松訳等が有るが、訳す方に応じて宗教色が違うから注意した方が良い。
13 :
名無しさん@京都板じゃないよ :2008/03/28(金) 23:24:38
原始仏教を論じるなら、リグベーダや釈迦が生存していた頃のバラモン教の内容とか詳しく教えて貰わないと! 道教や儒教の影響を受けた中国仏教のコピーにすぎない日本の仏教とはゼンゼン別の宗教だからな!
14 :
名無しさん@京都板じゃないよ :2008/03/28(金) 23:32:49
>>13 良い提案で有るが、立ち上げた人は意味が解ってないと思うよ。 専門知識が無いと書けない内容だよ。大学等でインド仏教学等を選考したいら書けるが、立ち上げた人が一般素人なら解らない次元が発生すると思う。
15 :
名無しさん@京都板じゃないよ :2008/03/28(金) 23:38:47
解っている人が論じればいいだけです。
16 :
誘導 :2008/03/29(土) 06:28:00
17 :
名無しさん@京都板じゃないよ :2008/03/30(日) 02:23:58
8、この世のものを不浄であると思いなして暮らし、(眼などの)感官をよく抑制し、食事の節度を知り、信念あり、勤めはげむ者は、悪魔にうちひしがれない。−−−岩山が風にゆるがないように。 9、けがれた汚物を除いていないのに、黄褐色の法衣をまとおうと欲する人は、自制がなく真実もないのであるから、黄褐色の法衣はふさわしくない。 10、けがれた汚物を除いていて、戒律を守ることに専念している人は、自制と真実とをそなえているから、黄褐色の法衣をまとうのにふさわしい。
18 :
名無しさん@京都板じゃないよ :2008/03/30(日) 07:05:35
11、まことではないものを、まことであると見なし、まことであるものを、まことではないと見なす人々は、あやまった思いにとらわれて、ついに真実(まこと)に達しない。 12、まことであるものを、まことであると知り、まことではないものを、まことではないと見なす人は、正しい思いにしたがって、ついに真実に達する。 13、屋根を粗雑に葺いてある家には雨が漏れ入るように、心を修養していないならば、情欲が心に侵入する。 14、屋根をよく葺いてある家には雨の漏れ入ることがないように、心をよく修養してあるならば、情欲の侵入することがない。 15、悪いことをした人は、この世で憂え、来世でも憂え、ふたつのところで共に憂える。 彼は自分の行為が汚れているのを見て、憂え、悩む。 16、善いことをした人は、この世で喜び、来世でも喜び、ふたつのところで共に喜ぶ。 彼は自分の行為が浄らかなのを見て、喜び、楽しむ。 17、悪いことをなす者は、この世で悔いに悩み、来世でも悔いに悩み、ふたつのところで悔いに悩む。 「私は悪いことをしました。」といって悔いに悩み、苦難のところ(地獄など)におもむいて(罪のむくいを受けて)さらに悩む。 18、善いことをなす者は、この世で歓喜し、来世でも歓喜し、ふたつのところで共に歓喜する。 「私は善いことをしました。」といって歓喜し、幸あるところ(天の世界)におもむいて、さらに喜ぶ。 19、たとえためになることを数多く語るにしても、それを実行しないならば、その人は怠っているのである。−−−牛飼いが他人の牛を数えているように、かれは修行者の部類には入らない。 20、たとえためになることを少ししか語らないにしても、理法にしたがって実践し、情欲と怒りと迷妄を捨てて、正しく気をつけていて、心が解脱して、執着することの無い人は、修行者の部類に入る。
19 :
名無しさん@京都板じゃないよ :2008/03/30(日) 23:39:34
20 :
名無しさん@京都板じゃないよ :2008/03/30(日) 23:43:41
21、つとめ励むのは不死の境地である。怠りなまけるのは死の境涯である。 つとめ励む人々は死ぬことがない。怠りなまける人々は、死者のごとくである。 22、このことをはっきりと知って、つとめはげみを能(よ)く知る人々は、つとめはげみを喜び、聖者たちの境地を楽しむ。 23、(道に)思いをこらし、堪え忍ぶことつよく、つねに健(たけ)く奮励する、思慮ある人々は、安らぎに達する。 これは無上の幸せである。 24、こころはふるいたち、思いつつましく、行いは清く、気をつけて行動し、みずから制し、法(のり)にしたがって生き、つとめ励む人は、名声が高まる。 25、思慮ある人は、奮い立ち、つとめ励み、自制・克己によって、激流も押し流すことのできない島をつくれ。
21 :
名無しさん@京都板じゃないよ :2008/04/01(火) 13:34:57
26、智慧乏しき愚かな人々は放逸にふける。 しかし心ある人は、最上の財宝(たから)をまもるように、つとめ励むのをまもる。 27、放逸にふけるな。愛欲と歓楽に親しむな。おこたることなく思念をこらす者は、大いなる楽しみを得る。 28、賢者が精励修行によって怠惰を退けるときには、智慧の高閣(たかどの)に登り、自らは憂い無くして(他の)憂いある愚人どもを見下ろす。 ____山上にいる人が地上の人々を見下ろすように。 29、怠りなまけている人々の中で、ひとりつとめはげみ、眠っている人々の中で、ひとりよく目覚めている思慮ある人は、疾くはしる馬が、足のろの馬を抜いて駆けるようなものである。 30、マガヴァー(インドラ神)は、つとめ励んだので、神々の中での最高の者となった。 つとめはげむことを人々はほめたたえる。放逸なることは常に非難される。 31、いそしむことを楽しみ放逸に恐れをいだく修行僧は、微細なものでも粗大なものでも全て心のわずらいを、焼きつくしながら歩む ____燃える火のように。 32、いそしむことを楽しみ、放逸に恐れをいだく修行僧は、堕落するはずはなく、すでにニルヴァーナの近くにいる。
22 :
名無しさん@京都板じゃないよ :2008/04/01(火) 16:05:28
考えてもどうにもならないことを延々と考え続けても結論はでないし、 良い結果を導き出すことも不可能である。 しからば、考えるのをあきらめよ。 考えるのをあきらめて、祈りに没頭すべし。 祈りへの没頭は、考える余裕をなくし、考える暇を奪い去ってくれる。 考える余裕を奪い、祈りに没頭できるようになれば、 無意識の扉がひらき、思わぬ良い方向に自分を運び、導いてくれる。 これこそ、無上最高なる仏陀の知恵の真骨頂也!!
23 :
名無しさん@京都板じゃないよ :2008/04/03(木) 13:43:16
原始仏典もいいな
24 :
名無しさん@京都板じゃないよ :2008/04/03(木) 21:43:16
いい事書いてあるね。
25 :
名無しさん@京都板じゃないよ :2008/04/03(木) 21:57:37
イネーポート イエーポート オトシブーウ ヒーブームー! (姫神 神々の歌)
26 :
名無しさん@京都板じゃないよ :2008/04/11(金) 01:36:07
心は動揺し、ざわめき、護り難く、制し難い。英知ある人はこれを直くする____弓師が矢の弦を直くするように。
27 :
名無しさん@京都板じゃないよ :2008/04/11(金) 03:53:43
>>26 この状態に入る為にには、座禅という瞑想が必要だよね。
28 :
名無しさん@京都板じゃないよ :2008/04/11(金) 09:26:23
大和は言霊の幸(さき)はう國 しからば、祝詞の音声(おんじょう)に耳を澄まし、 また、自らも祝詞を唱え、神々に祈るべし。 しからば、巧まないでも、おのずと怒りを去ることができる。 巧まないでも、自ずから成る!! これこそ神国大和の最高の道理なり!!
29 :
名無しさん@京都板じゃないよ :2008/04/11(金) 09:56:56
真澄なる 鏡に映る わが心 なお研ぎ澄ませ 真心込めて
30 :
名無しさん@京都板じゃないよ :2008/04/12(土) 01:46:55
>>29 著作権がないのなら、托鉢中に書かれている言葉を使用したいと思っています。
駄目でしょうか。
31 :
名無しさん@京都板じゃないよ :2008/04/12(土) 01:49:48
仏陀に 真心なぞ ねえよ
32 :
名無しさん@京都板じゃないよ :2008/04/12(土) 01:58:43
この部分は、改良するから問題ないがね。
33 :
,名無しさん@京都板じゃないよ :2008/04/12(土) 09:01:54
原始教典に近くなればなるほど不純物が少ないから素直に共感できるものが多いと思う。 日本の古典神道にせよ仏教にせよ、最終的に言いたい事って似たようなもんじゃないかと。
34 :
名無しさん@京都板じゃないよ :2008/04/12(土) 09:16:15
35 :
名無しさん@京都板じゃないよ :2008/04/15(火) 20:39:02
心が安住することなく、正しい真理を知らず、信念が汚されたならば、さとりの智慧は全うからず。
四向四果。 阿羅漢果を「無学位」。 不還果、一来果、預流果を「有学」位。 煩悩の賊(ari)を殺す(han)から殺賊(せつぞく)と言われたり、 涅槃に入って迷いの世界(三界)に生れない(a(不)+ruh(生ずる))から「不生」と言われたりする。 これはいずれも通俗語源解釈であり、本来は「価値ある」「立派な」などの意味を持つ語根〈arh-〉の派生語。
37 :
名無しさん@京都板じゃないよ :2008/04/18(金) 18:29:24
悟りの四段階、四番目の段階は阿羅漢、最終的な解脱。 第1段階、sotapatti(預流果)に達するものは聖者の仲間入り。 仏陀の教えを理解するという「見・理解・納得」によって「預流果」の悟りに達する。 瞑想・修業しなくても悟れる、真理を理解・納得すること。 「煩悩」とは無知・無明。
38 :
名無しさん@京都板じゃないよ :2008/04/22(火) 14:21:26
心が煩悩に汚されることなく、おもいが乱れることなく、 善悪のはからいを捨てて、目ざめている人には、何も恐れることが無い。
39 :
名無しさん@京都板じゃないよ :2008/04/29(火) 17:14:32
178 大地の唯一の支配者となるよりも、全世界の主権者となるよりも、 聖者の第一階梯(かいてい)(預流果)のほうがすぐれている。
40 :
名無しさん@京都板じゃないよ :2008/04/30(水) 19:11:47
180 正しいさとりを開き、念いに耽り、瞑想に専中している心ある人々は 世間から離れた静けさを楽しむ。 神々でさえもかれを羨む。
83 高尚な人々は、どこにいても、執着することが無い。 快楽を欲してしゃべることが無い。 楽しいことに遭っても、賢者は動ずる色がない。
42 :
名無しさん@京都板じゃないよ :2008/05/16(金) 01:53:47
203 飢えは最大の病いであり、形成せられる存在(わが身)は最もひどい苦しみである。 このことわりをあるがままに知ったならば、ニルヴァーナという最上の楽しみがある。
43 :
名無しさん@京都板じゃないよ :2008/05/28(水) 05:10:41
縁起は、「因縁生起」の略。 縁起は「縁って起こる」こと。 「因」は直接原因、「縁」は間接原因のことであり、 世界の一切は直接にも間接にも何らかのかたちで それぞれ関わり合って消滅変化しているという考え方をさす語である。 釈迦は、 「私の悟った縁起の法は、甚深微妙にして一般の人々の知り難く悟り難いものである」 と言った。また、この甚深なる法は わが作るところにも非ず、また余人の作るところにも非ず。 如来の世に出ずるも出てざるも法界常住なり。 如来は、この法を自ら覚し、等正覚を成じ、 諸の衆生のために分別し演説し開発顕示するのみなり この世の自然のあり方であり、真実であると言う。
44 :
名無しさん@京都板じゃないよ :2008/05/29(木) 02:20:57
縁起の意味は、関係の中での生起であり、 此があれば彼があり、此がなければ彼がない。 此が生ずれば彼が生じ、此が滅すれば、彼が滅す これは「此」と「彼」とがお互いに相依相成しているのであり、 それぞれ個別に存在するものでないことをいう。 すなわち有・無によって示される空間的にも、 生・滅によって示される時間的にも、すべての存在現象は、孤立してでなく 相互の関係性によってのみ現象していることが説かれている。 釈迦がさとったように、いっさいのものは、独一存在でなく、無我である。 しかし、すべてが無我でありながら、価値を持ち、 存在性を持ちうるのは、すべてが縁起であるからである。 この関係においてのみ存在者は存在性を獲得することができる。
47 :
名無しさん@京都板じゃないよ :2008/08/01(金) 04:04:17
無
48 :
名無しさん@京都板じゃないよ :2008/10/06(月) 04:48:26
原始仏典を読むと戸惑うよ その後の大乗仏教や日本の仏教とあまりにも違って 原始仏典も、お釈迦様の教えの全てを伝え切れてないとは思うし、また当時の社会背景と切り離せないものだから、現代の日本人が理解できない部分が沢山あるのは仕方ないし当然だとも思うけど 他の人達は、どうやって折り合いつけてるの?
49 :
名無しさん@京都板じゃないよ :2008/10/06(月) 06:50:24
方法論は違っても本質は同じ。
50 :
名無しさん@京都板じゃないよ :2008/10/06(月) 08:16:02
>>49 レスありがとう
お釈迦様の初期仏教は少欲知足を説いてるよね
占いや呪術を禁じてるし(蛇、虫避けや病気直し等の呪術は多少許してたそうだけど)
でも、密教は全く違う、むしろ呪術呪術だ
こういうところが解らなくなって来る
51 :
名無しさん@京都板じゃないよ :2008/10/06(月) 10:36:08
>>50 密教が
呪術といってもその効果の理解の仕方、真言の道具としての意味は
例えばヒンズー教の方法などとだいぶ異なってるのではないかな。
一口に現世利益と言っても
どのような行為を通して現世利益を求めるかで意味が180度変わる。
低レベルな行為を通して自分の利益しか考えないならそのレベルのものになるし、
自他両方の幸せを考えての長期的・全体的な行為(修行)を通してなら。。
52 :
名無しさん@京都板じゃないよ :2008/10/06(月) 10:43:11
>>50 >お釈迦様の初期仏教は少欲知足を説いてるよね
たしかに密教は矛盾しているようにも一見見えるが、
私論ですが、
シンプルな欲望の充足より高いレベルのものがあるという捉え方(初期仏教)
エネルギーの根源である欲・願望を清浄に見つめて昇華する捉え方(密教)
どちらも出発点はべつですが、空の領域をみてるのではないでしょうか。
密教僧にもさっぱりした生活の人はいるでしょうし、
上座部の東南アジア、または今のインド仏教の人にもエネルギッシュな人はいるでしょう。
最終的な行為になにがもっとも近いか、立場によって変わってくるでしょうね。
366 :大人の名無しさん:2008/10/06(月) 09:25:20 ID:gHaYHP/B
>>365 好かれようとすると嫌われ、自分をぶつけていじめてやると好かれる。
自分は親のようにはなれないが、親になることはできた。
野球は小さい頃の思い出から大嫌いだが、それがきっかけで野球に興味が出た。
男らしくあろうとすれば焦ってしまうが、焦ってしまう自分を見たとき男らしくなれた。
なんかね、表の裏は裏の表。さらにいえば、どっちが表かも分からん。そんなかんじのカオス。
54 :
名無しさん@京都板じゃないよ :2008/10/06(月) 11:13:31
なるほど、何となく理解はできるんだけど 大乗仏教が、あれだけ小乗といってアラカン達を蔑んでたのは、大乗仏教が盛んだった頃は、自分だけの悟りと救いを求めて、さっさと涅槃に入ってしまう比丘が大勢いたからかな?と考えてるんだけど、この推理で合ってる? 在家が出家と同じことが出来るわけないから、在家はどのようにして救われて行くか?が大きな問題になる 在家は仕事もきちんとして、日々の糧も稼がなければならないから、「必要な収入が欲しい」との願望を充足させたい 「日常の生活であまり苦しい目に遭いたくもない」という願望もある 雑多な用事もあるので、出家とは違う修行をして行かなければならないし 初期仏教は主に出家のための教え、大乗仏教は主に在家のための教えと言えるのかな? 仏教を体系的に学びたくても、どうしたら勉強できるか分からないんだ お釈迦様は好きだけど、初期経典を読むとどう解釈して良いか解らなくて、気分が沈んで来るんだ
>>54 これも私見ですが
最終的に自分なりに解釈するしかないと思います。
人の言葉は参考にしかならない。
お釈迦様の言葉は私も好きですが、
もし解釈がわからなかったら、自分の状況・感覚(直観)、行動から
判断するしかないのではないでしょうか。
密教では仏様との一体感が売りなので密教で解決をはかればいいのではないでしょうか。
お釈迦様の真言っていいですよね。
禅も密教も根本的には同じと思います。
迷いを解きやすいほうを常に選べばいい。
あとひとつ思うのは お釈迦様の言葉を学校の暗記物のように捉えて、 ひたすら金科玉条のごとく従ってみたりする生活ってどうなのかな と思うのです。 お釈迦様の弟子である我々人間は個性がそれぞれあり、 教えを説く仏教の偉い人の立場では、その人の状況・個性にあわせて それこそ無限のパターンを駆使しなければならない。 だとすれば、教えの言葉=絶対というのもナンセンスで、 自分を知る、自分の個性を知る 自分の今の問題がなにか?どう解決できるか 言葉だけなく 選び取った行動や行法 で解決するしかないのでは無いかと思う。 最終的に自分の行動・方向を決めるのは自分という感覚です。
57 :
名無しさん@京都板じゃないよ :2008/10/06(月) 11:28:57
>>54 横からのレスになるけど、
初期経典を拠所としている南伝仏教の国の僧侶を見れば分かるけど、
ホスピスで在家の苦しみを聞いたりする僧侶も居るし、
寺院のお堂は常に開かれていて誰でも僧侶に相談できる。
上座部の僧侶は決して自分だけの悟りと救いだけが目的ではない。
津波で多くの死者がでたことは記憶に新しいけど、
僧侶は率先して遺族の苦しみの救済にあたった。
在家は功徳を積む事、寺院で礼拝すること、なかには瞑想を学ぶ人、
そんな感じですかね。
現実的な願望成就ですが、
上座部の人もブッダ像や仏教の神々の像に礼拝して、願望成就を祈りますよ
58 :
名無しさん@京都板じゃないよ :2008/10/06(月) 11:41:36
その密教がまた解らないです 初心者のための密教解説書はありますかね? 密教の修法の専門書は何冊か持ってますが、とても素人にできるものではないし この前Googleで曹洞宗のお坊さんだかのブログを読んだら、道元は読経の功徳を否定していたとか? お経の意味が理解できてて読経するなら、教えを心に刻み続ける等のことで功徳もあるかとは思いますが、私には般若心経の意味が解らないので、読経する気になれないです 般若心経をあげてますか? 効果(と言っては語弊があるでしょうが)はありますか? 不動経と36童子経は、そのままの意味だからご加護を願って時々あげてますが テーラワーダでは、教えを覚えて行くために原始仏典を読経するそうですね いや、テーラワーダの信者というわけでもないですが、覚えるため、噛み締めるため、覚醒を促すために原始仏典や大乗経典の読経は良いかもしれないとも思います 今、迷ってるから文章が支離滅裂です、すみません
>>58 ちなみに般若心経の意味は調べていけばある程度わかると
自分では思います。
ですが、真言を繰り返し唱えることによってわかってきたという思いがあります。
真言は意味というより、仏様とのメールみたいな直通ルートと考えています。
象徴的にいろんな身の回りの出来事から教えていただけると感じています。
密教が素晴らしいのもありますが、個々の仏様(文殊菩薩など)が素晴らしいです。
>>58 読経の功徳については
私もわかりせんが、基本的にいいものと思ってたまに読みます。
私の場合、真言を唱えるほうが多いです。
ただ、どちらにしろ、ましてや在家なら日常の生活行動が中心になると
いえるのではと思います。
仏教徒としてちゃんとした人物であるために絶対にお経を読むことが必要か?
といえば、そうじゃない人もたくさんいると思います。
でもそういう人でも仏像を通して仏様を拝んでいると思います。
表(信仰活動)と裏(日常生活の充実)の両方が必要でしょうか。
ランボー 乙
いや、ちがいますw
65 :
名無しさん@京都板じゃないよ :2008/10/06(月) 15:32:45
皆さんレスありがとうございます
後でまたレスします
>>57 さん、上座部もそうでしたか
66 :
名無しさん@京都板じゃないよ :2008/10/06(月) 18:11:50
質問してた者です 待機説法ですね だから阿含経でも、全ての人に当てはまる言葉もあれば、そうでないものもある そう考えていれば良いわけですね? たとえば、私は樹木が好きですが 木を見て、綺麗だ、好きだと思う、そういう感情も持ってはいけないものなのか?と、原始仏典を読むと考えてしまうのです これも悟りには邪魔な感情なのでしょうか? 日本で、お経をあげない仏教徒の人もいるんですか、参考になりました お釈迦様在世当時、神々に祈ることは許されてましたか?
67 :
僕 ◆8Xoh0TGibo :2008/10/06(月) 18:24:03
>>66 新釈尊伝嫁(o‘∀‘o)♪♪♪
原始仏教ヾ(●>∀<)ノキャッキャッ
68 :
62 :2008/10/06(月) 18:29:04
>>66 私は専門家ではないので直接答えることはできませんが、
個人の感想なら言えます。
>木を見て、綺麗だ、好きだと思う、そういう感情も持ってはいけないものなのか?
まず、木や花などの植物を見て、きれいだと思う。
この気持ちを素直に持ったことがおありでしょうか?
仮に女性が相手でもきれいだと思うことはまともなことだと思います。
その時の気持ちを自分の生活全般にどう反映させるか、だと思います。
耽溺はさけるべきでしょうが、一瞬一瞬の気持ちはむしろすべてに優先される
のではないでしょうか?
ただし、なにかを傷つける可能性がありそうな場合や執着に発展しそうな場合、
役に立たない妄想の原因になりそうな場合は正しい判断が求められますが
(具体的には冷静になってみることだと思います)
正しいことや行為というものも、なんだかんだいって
やりすぎや後悔がまったくない状態の人は判断できないのではないでしょうか?
良かれと思ってやる場合も慎重さ(相手の立場を思う)ことが必要です。
ただし、なにかをやる時は善いことをしようと思うことは大事だと思います。
善いことをやろうと思って、問題が生じた場合、軌道修正しやすいのです。
69 :
62 :2008/10/06(月) 18:29:47
>日本で、お経をあげない仏教徒の人もいるんですか、参考になりました >お釈迦様在世当時、神々に祈ることは許されてましたか? 仏教徒というものを特に厳密には定義してませんが、 柔軟に解釈していいのでは、という意味で述べました。 長いお経を読んだりしない、素朴な生活スタイルの在家仏教徒もインドには 多いようですね。詳しいことはわかりませんが、向こうではかなり簡素な信仰実践のようです。 >お釈迦様在世当時、神々に祈ることは許されてましたか? これはわかりませんが、私の判断では 神も優れた性質のものなら敬うということだと思います。
僕 大自然がとっても大好き(o^T^o) 世界最大の滝 エンゼルホールなんか素晴らしいよ 噂で聞いてる摩天楼にもいってみたい 摩天楼はね 一番高いビルから氷が降ってきて 人に当たると死んじゃうんだって 降ってくる現象をみてみたい(o‘∀‘o) 僕 大自然に埋もれたい(〃д〃) 深夜の山の中はとても静かで恐怖 その恐怖がとっても美しい 月夜茸が美しいく光よ(*・v・)ニョホホ カサn(..n(n ..)n))カサ 聞こえる 風の音 風が運ぶ大自然の香り いつくまが出てくるか分からないよね{{・`д・´;}} あまりにも静かで耳鳴りがうるさいほどに聞こえるときもある でも大自然は素晴らしいエネルギーを与えてくれるんだよ(o‘∀‘o) 僕は大自然が大好き 僕の大事な癒し所なの 月も星全て太陽の大自然も大好き(*′∀`Pq) 宇宙も素晴らしいよ(☆´・д・)(・д・`♪)ネー
71 :
名無しさん@京都板じゃないよ :2008/10/06(月) 22:05:54
Y ,. '"´三二二三`ヽ _ノ r┐ /,ィ彡'"´ ̄  ̄ ``ヾミヽ 〈 r‐-┘└っ / / 殺 ', ヽ ノ r‐-' 'ーっ / /::( ノ:::) ヽ く 二」 こ / /く´‘`ヽ ',从,' ∠‘``', ヽ ノノ (__=ノヽ〉 / ハ´ ̄`フ.:;;;;;:: ヽ ̄`フ', ヽ ) ____
72 :
名無しさん@京都板じゃないよ :2008/10/07(火) 18:35:26
執着にならないようにする、すなわち中道ということでしょうかね? 木や花を見て綺麗と思うのは、確かにパワーをもらえる感じがするし、心身が気持ち良くなるから好きという理由もあるでしょうね 部屋に10鉢くらい観葉植物を置いています、見ると心身が元気になれるようです 今、思い出したけど、以前病気で凄く苦しんでた時、生けられてある花を見てるだけで、苦痛が大分和らいだ経験があります 見るのを止めると途端に苦痛が戻るのが不思議でした 好きという感情は、自分に有益なものを選別するものでもあるのかもしれませんね 新釈尊伝は、渡辺師の書かれた本でしょうか?
73 :
名無しさん@京都板じゃないよ :2008/11/09(日) 01:25:28
昔サンスクリット語を訳す過程で訳者が意味を付加したり削除したりしていたらしいな
74 :
名無しさん@京都板じゃないよ :2008/11/09(日) 07:35:06
インド仏教指導者 佐々井秀嶺さんの本を読んで感動しました。 そしてインド、仏教にはまりました。 で、日本でインド仏教を支援する団体をいくつか調べました。 でもがっかりでした。 僧侶などでインド仏教を支援する人たちの多くで派手に宣伝している人たちは、 インドの日本人高僧を支援し、宣伝することによって、自分の寺のセールスをしている感じなのです。 お話を聞いていると自分を褒める話ばっかり。自分の現在の肩書きをひけらかし、 自分が、インド仏教を指導しているような発言でした。 いいインド仏教支援団体などあれば紹介してください。
75 :
名無しさん@京都板じゃないよ :2008/11/09(日) 07:47:37
そうそう。 インド仏教復活など大きいこと檀家の前で言って、 自分自身の箔付けに利用しているやつ。いるいる。
76 :
名無しさん@京都板じゃないよ :2008/11/09(日) 08:10:20
仏教は広義ではインド宗。
77 :
名無しさん@京都板じゃないよ :2008/12/04(木) 00:56:20
ブッダってインド人?それともネパール人?
78 :
僕 ◆8Xoh0TGibo :2008/12/04(木) 19:46:55
おそくなってごめんなさい(´・ω・)
>>72 著:渡部照宏さん(o^T^o)
なのなのね 私は精神的に辛くなると活力もらいに また嫌なことを何度も思い出さない
辛い感情を捨てるために アプリでオセロ仲間と遊んだり 音楽を音をすごくでっかくして聞いたりするの(o‘∀‘o)
中道かどうか分からないけど 悲しいとか辛いとか切ないとかこうゆう感情は
極力避けたいですね
原始仏典はいいのだけど、それの解釈としてテーラワーダ仏教の考え方を見ると やはり小乗としか思えないな。 引きこもって自分だけが小さく生きるだけで己だけ滅苦に至れるという発想事態が 縁起によって己も相手も全てが成り立っているという根本理論を理解していない。 世の救済こそが己の救済であり、真の悟りの完成への道という大乗が やはり根本仏教の精神を正しく伝えているよ。 その後の大乗仏教のごてごてくっついてきたものは余分ということはあっても テーラワーダを小乗と言った大乗成立期の理論は正しいと思う。 原始仏典読んで特に思った。
80 :
名無しさん@京都板じゃないよ :2008/12/20(土) 19:50:48
81 :
タイ人 :2008/12/20(土) 21:20:41
>>79-80 そうでもないみたいよ
↓
285 :名無しさん@京都板じゃないよ:2008/07/29(火) 16:55:22
>>245 現地を知る人ならではの話だね。
実際に行けばわかるけど、本当にそうだよ。
上座部でも、在家の人々の多くに
天部もなかなか人気がある。これが実際。
金持ちになりたい、良い女・男と結ばれたいとか病気を治したいとかそんな内容。
占い大好きだし、ご利益大好き。
それは‘本で読んだ上座部や原始経典’と違うって厨房が言ったって、
上座部の在家が実際にそうなんだから仕方が無いじゃん。
そりゃ中には、本気で勉強したり瞑想したりする人は居るけど少数。
だけど男子は一生に一度は出家する慣わしの国もあるから、
誰でも出家しやすい環境にある。
自分が普通の一般ピーポーな友人に、「お釈迦様がね・・・」などと話始めたら、
「それよりビールでも飲み行こう」「それよりディスコ行こうよ」
そんなのりで返事されちゃうこともしばしば。国にもよって多少の差はあるけど。
色んなスレで上座部は聖人君子のような人だと勘違いしている発言を見かけるけど、
自分が見た光景は、‘日本の仏教と相体的に比べて’、
教えも、僧侶もリアルな実際の信仰も上座部の方が良いなと思う感じ。
上座部の在家だって喧嘩もすりゃー、酒で酩酊する奴もいりゃー、売買春、違法薬物する奴も居る。
そういうのを全部ひっくるめて上座仏教国。
82 :
名無しさん@京都板じゃないよ :2008/12/21(日) 19:52:44
イソド哲学
83 :
名無しさん@京都板じゃないよ :2008/12/22(月) 13:30:20
>>81 > 上座部の在家だって喧嘩もすりゃー、酒で酩酊する奴もいりゃー、売買春、違法薬物する奴も居る。
> そういうのを全部ひっくるめて上座仏教国。
大乗の禅で十分じゃない?
Tンド哲学
85 :
タイ人 :2008/12/23(火) 21:32:39
>>83 充分ではないですよ。
こちらでは仏教が国教ですから。
仏教の重要な行事日と、国王陛下の誕生日は全国が禁酒になります。
お店でもお酒は販売禁止になります。
日本はどうですか?
新興宗教が政党を持ち、
国民は異教のクリスマスを楽しみ、天皇陛下の誕生日は祝わない。
こんな日本の宗教観は不幸せだと思いますよ。
86 :
名無しさん@京都板じゃないよ :2008/12/24(水) 00:44:43
イリド哲学
そんな強制されなきゃいけない信仰はどうかと思うよ そんな決まり作らなくてもそうなるように布教すべきで 法で取り締まるってのはどうか
日本はそうなるように布教されているの?
自由意志で信仰は選べるよ。
90 :
タイ人 :2008/12/24(水) 20:57:23
タイでも自由意志で信仰は選べるよ。 国王が仏教徒で、仏教が国教だけの話で。 創価学会や真光も進出してきていますよ。
91 :
名無しさん@京都板じゃないよ :2008/12/24(水) 22:03:49
92 :
名無しさん@京都板じゃないよ :2008/12/24(水) 22:30:38
イソド哲学
93 :
名無しさん@京都板じゃないよ :2008/12/25(木) 21:27:15
94 :
名無しさん@京都板じゃないよ :2008/12/25(木) 23:13:46
>>93 創価は自宗の宗教国家を目指している訳だ。
91は創価ではないw
96 :
神も仏も名無しさん :2008/12/28(日) 15:39:14
スマナサーラ日本テーラワーダ仏教協会のパート10を立てるヤツがいないね?保守だね?よほど誰かさんが怖いらしい…スーパードクター「K」
97 :
名無しさん@京都板じゃないよ :2008/12/28(日) 15:44:07
日本語でおk
立てても良いけど、宗教論議は疲れた。 「上座部はお釈迦様の言葉を直に伝えたという自負がある」という時点で、 キリスト教とか大乗仏教にはない「おごり」のようなものが発生するんじゃないかと思う。 それに、どちらかといえば、「黙って瞑想している人間ほど価値がある」というイメージが出てくるから、 2ちゃんねるで書きっぱなし、出ずっぱりの人のレスを見ていても面白みがあるとは言えない。 誰か寺和田方式で資質のある人が風格のある言葉でスレに書き込んでくれて、 説法みたいな形で進んでいくならいいけど、それ以外じゃ… 本当に華厳ちゃんの勝利宣言しか書き込まないよ。
99 :
名無しさん@京都板じゃないよ :2008/12/29(月) 04:02:10
>>79 小乗って言うけど、上座部の僧侶だって在家に説法するでしょう。
在家は、僧侶に布施することで功徳になるし、修行したければできるし。
そもそも、ろくに修行してない素人みたいな僧侶に教えてもらいたくない。
できれば、悟った人にだけ説法して欲しい。
悟ってない僧侶は、布教はいいから悟るまで修行してくれよって感じ。
本当に教えを説ける資格のある本物の僧侶になってくれ。
それが長い目でみたら布教に役立つ。
まず自分の修行、その後で布教という順番は当然でしょう。
100 :
神も仏も名無しさん :2008/12/29(月) 17:27:58
↑悟った人なんていくらでもいる。それに気付けないお前はただのアホ、グズでのろまな外道坊。死ねば?
101 :
名無しさん@京都板じゃないよ :2008/12/29(月) 17:43:23
南伝と禅 どちの悟りが本物?
102 :
神も仏も名無しさん :2008/12/29(月) 17:56:58
↑禅。ぜんぜん楽だ(なんちゃって)たわけ!キサマらは座ればもう仏なんだ!バカもん!ただそれを信じきる忍耐が無い。頭ん中は疑念や不安でいっぱいだ。うつけ者!
103 :
名無しさん@京都板じゃないよ :2008/12/29(月) 18:16:17
104 :
名無しさん@京都板じゃないよ :2008/12/31(水) 10:31:02
だいたいアーナンダ中傷しすぎだろw 経歴見れば明らかにブッダ後継者にふさわしいアーナンダを貶める意図なんだろうけど 愚か者として酷い書かれよう しまいにはアーナンダの妹の尼さんがマハーカッサパに反感を持ったので 地獄行きになったとまで書かれている 確実にマハーカッサパ派と他派の対立があったのを思わせるね
玄奘の記録によれば、ヴェーサリーのヴァッジ族が アーナンダを凄く崇拝してると記しているね ヴェーサリーのヴァッジ族といえば、根本分裂で大衆部を支持したとされる人々。 結局、アーリアの仏教と、非アーリアの仏教という流れが一次結集からずっと連綿とあるんだろうよ。 そう考えると、むしろ中心的であったろうはずの非アーリアのシャカ族の諸弟子がみな中傷され アーリア系の長老マハーカッサパが神格化されまくってる理由が分かる。 ブッダの説いた教えは、従来のバラモン教の苦行主義を否定する革新的な アーリアの価値観から離れたまさに非アーリア的発想だったが 教団を継いだマハーカッサパや彼らの教団は苦行者的な人物で、アーリア的価値観の範疇にあった人であった。 その後の国教化でアーリア化していった仏教と 非アーリア的思想を持ちつづけた人々の仏教。 大乗が生まれた地方がやはり非アーリアの傾向の強い地域であったのは偶然ではない。
107 :
名無しさん@京都板じゃないよ :2009/04/16(木) 16:19:50
物乞う仏陀って本いいよ。
108 :
名無しさん@京都板じゃないよ :2009/04/17(金) 13:31:31
109 :
名無しさん@京都板じゃないよ :2009/04/19(日) 00:43:00
我々が今日持っている人類文化、芸術、科学、技術の成果はアーリア人のものに他ならない。 アーリア人は人類のプロメテウスなのであり、いかなる時代にも天才的火花を散らしていた。 アーリア人はこの世界の支配者たるべき存在なのであり、最大の敵はユダヤ人に他ならない。 もしユダヤ人が自分たちだけの民族になってしまえば、彼らは泥や汚物にまみれるだけの存在であり、 憎しみに満ち満ちた中で互いをだまし合おうと努めるだろう。 我々民族主義国家はアーリア人を一般生活の中枢に据え、純粋維持のために配慮しなければならない
110 :
名無しさん@京都板じゃないよ :2009/04/23(木) 13:33:55
僕は今日初めて読んだのですが、
>>4 などは、
今でも、生かされているのですか?
単純というか、なんというか、少しショックを受けました
111 :
名無しさん@京都板じゃないよ :2009/04/23(木) 20:57:44
>>110 何がショックなの?
過去は過ぎ去りもうありません。
過去のことを考えてムカついてストレスになるなら、
過去のことを考えなければいい。
妄想をしなければ、余計な感情も起きない。
思いださなければムカつかないのだから、
思いださなければいい。
思いださない訓練(妄想にひたらない訓練)をすればいい。
112 :
菅ちゃん ◆BDKyieznDk :2009/04/24(金) 12:48:06
私たちは受け取ることではなく、与えることに情熱的でなければなりません。 一人の笑顔は250人の笑顔を誘うことができます。 幸せは私たちの中から、存在から、そして無限を感じ、無限になれる能力からやってきます。 憐れみの最も良い例は次の言葉です。赦しましょう。彼らは、自分のしていることが分かっていないのですから。 意識的に考え、発言し、行動する。それすなわち、革命的であることです。 人間は基本的に善いです。苦しみのせいで悪意を持つようになるのです。 人類の意識のレベルを引き上げるには、個人の意識レベルを引き上げることです。他の人たちを助ける最良の方法は、あなた自身がありのままでいることです!それを人々は真似するでしょう!。 世界をエロヒムの視点で見てください。あなたは笑うでしょう。笑いますよ。 『最も強い人が常に正しい』こういうことを言うのは知恵の反対です。ガンジーがそうでないことを実際に見せてくれました。 真の幸福は内側からやって来ます。 脳の中で過ぎ去る一秒一秒は、失ってはいけない味を持つ花蜜のようなものです。 何も考えないことよりも、美しい考えが浮かぶときだけ考えなさい。 ユーモアは、知恵の一部です。理由があって笑うことはいいことです。でも、理由がなく笑うことはもっといいことです。 私たちは全てを知ることはできず、全てを所有することはできません。でも、全てであることはできます。 誰も私が調和する権利や、私のエロヒムへの愛を奪うことはできません。 愛することは、とても貴重な贈り物をあげることです。
ハーモニーとは、物事を楽しんで、素早く、ストレスなくできる能力のことです。 謙虚さは常に知性の証明です。人がありのままであるとき、ほんの少しのプライドすら持つことはできないのです。 人生にイエスといいましょう。イエスの振動、イエスの考えがあなたの人生を愛と幸せと達成の人生にするのを助けるのです。 完璧さは、そうなることはできないと意識 しながら、そうなろうと努力するときに現れます。 記憶はありのままであることの反対です。記憶とは過去のもので、それは過去にあった考えです。人は忘れる訓練をしなければなりません。私がより多くのことを忘れるほど、私はより自分らしくあるのです。 あなたは、人類に光と無限との一体感をもたらすことにおいては、私と同じくらいに責任があるのです。 宇宙の中で、個人の意識と集団の意識には違いはありません。それは普遍的で無限なのです。 非暴力と愛は、常に勝利します。 物を多く得るほど、より不幸になります。 あなたが自分を変えてありのままの自分でいるときに、他人を変えることができるのです。 謙遜は賢さと最もよく結びついています。 過ぎ去っていく一分一秒は、二度と生きることはできません。 脳と存在の開花は外部に依存しません。 幸せは私たちの遺伝子コードの中にあります。私たちは自然に無限と調和しているんです。そうでなければ、自己破滅になってしまいます。 怠惰は天才の現れです。怠けるためには規律をしっかりしていなければなりません。 私たちは私たちを憂鬱へと導く文化の中にいます。観るもの、聞くものに注意しなければなりません。それが自分を成長させるものか、破壊するものか自問しなければなりません。調和が最優先の一つです。 愛するということは、何の見返りも期待せずに、与えることそれ自身の喜びのために与えるということです。最高に愛することができる人とは、最高に与えることができる人です。 私は永遠です。ですから、いつでも死ぬ準備ができています。 ほんとうの幸福とは、内面から来るものです。 あなたは、天界のような神々しい何かを成し遂げつつあるのです。 「自由」は、私達の遺伝子コードに刻み込まれています。 私たちが愛を考えることで、世界を治しているのです。
115 :
名無しさん@京都板じゃないよ :2009/05/17(日) 19:51:27
なんでラエリアンw
116 :
名無しさん@京都板じゃないよ :2009/05/20(水) 10:51:57
ラエリアンもけっこう楽しいよ
117 :
名無しさん@京都板じゃないよ :2009/05/20(水) 11:23:17
ラエリア〜ン♪破れかけのタロット投げて♪
それはボヘミアン
119 :
名無しさん@京都板じゃないよ :2009/06/13(土) 18:51:25
だんまりパンダ
>>105 日本書紀とか古事記
日本の神話みたいなものだね
スサノオさんなんてすんごい糞味噌に書かれてるしw
まぁ処分されずに遺ってるだけいいけど、、、
でも文字の限界だよね、そりゃ政治的に政権が変われば
権力が映れば、生き延びたものたちが自分たちを肯定して
都合良く世の中を動かしていかざるをえない。
たぶん、瞑想が真実の入り口になっているのだと感じる。言葉ならざる
世界に入る入り口は、まだ遺ってる。
脳内宗教論争に必死で
そこに入っていけない人は哀れだと思う。
はやく妄想はやめて、心を浄化していきましょう。
自分の心が浄化していけば、自ずからすべてを知ることになるよ。
スッタニパータの 実践法って曖昧だよね。みんなどーしてんの?
八正道じゃないの?
だけど…体系的に整理して見てる? ことばそのままを受けとる意義っていうか…なんていうか…。
原始仏教の経典は、「経蔵」、「律蔵」、「論蔵」という「三蔵」で 構成されており、「経蔵」だけでも、 ・長部経典 (ディーガ・ニカーヤ) ・中部経典 (マッジマ・ニカーヤ) ・相応部経典 (サンユッタ・ニカーヤ) ・増支部経典 (アングッタラ・ニカーヤ) ・小部経典 (クッダカ・ニカーヤ) の五つのニカーヤに加え、 ・法句経 (ダンマパダ) ・感興偈 (ウダーナ・ヴァルガ) ・経集 (スッタニパータ) ・長老喝 (テーラガーター) ・長老尼喝 (テーリーガーター) ・本生物語 (ジャータカ) などで構成されている。 また、「蔵外」にも「弥隣陀問経(ミリンダ王の問い/ミリンダ・パンハ)」や 「清浄道論」、「摂阿毘達磨義論(アビダンマッタサンガハ)」などの重要・ 有名で経典扱いされているものがある。
127 :
名無しさん@京都板じゃないよ :2009/06/25(木) 16:23:07
ラエリアンの本 「マイトレーヤ」もなかなかよい
128 :
名無しさん@京都板じゃないよ :2009/06/25(木) 20:57:43
昔ポストに入ってた幸福の科学のアンケートハガキ Q 大川髢@がブッダの生まれ変わりだということを知っていますか? ・知っていた ・今知った なんだ この二択w
そんなヤバイこと書いてあるか? 経典の構成を書いてあるだけだが。
解脱できなかったんか?
134 :
名無しさん@京都板じゃないよ :2009/08/24(月) 10:35:02
法(真理)の施しは、一切の施しに勝つ。 法(真理)の味わいは、一切の味わいに勝つ。 法(真理)の喜びは、一切の喜びに勝つ。 渇愛の滅尽は、一切の苦しみに勝つ。 『法句経』
135 :
名無しさん@京都板じゃないよ :2009/08/24(月) 12:36:15
原始仏教と部派仏教がごちゃまぜ 部派の中でも分家の分家でしかない現代テーラワーダが 原始仏教名乗って権威で客引きしようとするから わけわからんことになる
本家もういないやん
137 :
名無しさん@京都板じゃないよ :2009/09/19(土) 09:30:03
寺和田とか、神智学とか、幸福の科学とか、〜とか、〜とか、とか、とか、 異物、寄生虫がたかってくるなあ。 ブッダを権威主義的に利用したいだけじゃんw
138 :
名無しさん@京都板じゃないよ :2009/11/27(金) 10:30:23
どなたか解説をお願いします。 第一 蛇の章 四 田を耕すバーラドヴァージャ 何で、乳粥を水に投げ捨てて湯煙が立つのを見て、ゴータマに帰依する事になるのですか? さっぱり意味が分らない。
139 :
菅ちゃん ◆BDKyieznDk :2009/11/27(金) 10:39:58
140 :
名無しさん@京都板じゃないよ :2009/11/27(金) 10:42:51
141 :
菅ちゃん ◆BDKyieznDk :2009/11/27(金) 11:46:09
>>140 名無しさんたちから回答がきてますよ よかったね(^_^*)
>>128 輪廻したら仏陀じゃねーじゃん!アリガタくね〜
143 :
名無しさん@京都板じゃないよ :2010/07/22(木) 06:46:43
ゴータマさん、まだ迷いがあったんですか・・・?w
144 :
名無しさん@京都板じゃないよ :2010/07/24(土) 01:04:28
32 いそしむことを楽しみ、放逸におそれをいだく修行僧は、墜落するはずはなく、すでにニルヴァーナの近くにいる。
348 前を捨てよ。後を捨てよ。中間を棄てよ。生存の彼岸に達した人は、あらゆることがらについて心が解脱していて、もはや生れと老いとを受けることが無いであろう。
146 :
名無しさん@京都板じゃないよ :2010/07/27(火) 10:18:37
同じ物を訳すだけでこんなに解釈が違ってくるんですね・・・ 中村元氏の訳が根拠も述べているし参考文献も膨大みたいだし、日本語訳の中では一番信憑性が高いのかな? 例 ・ダンマパダ99 aranna (grove or forest? 林 or 森?) 中村元 訳 真理のことば 人のいない林は楽しい。世人の楽しまないところにおいて、愛著なき人々は楽しむであろう。かれは快楽を求めないからである。 荻原雲來訳註 法句經 林は愛樂すべし、これ俗人の好まざる所、離欲の人は此を樂しむ、彼等は愛欲を求めざるが故なり。 片山一良 訳 ダンマパダ 全詩解説 世人が楽しむことのない 森はいずれも楽しいところ 離貪の者らは楽しむでろう かれらは貪り求めぬゆえに The Dhammapada and Sutta Nipata, by Max Muller and Max Fausboll, [1881] Forests are delightful; where the world finds no delight, there the passionless will find delight, for they look not for pleasures. 中村元注釈 人のいない林 - aranna. この語を日本の専門家達は「森」とか「森林」と訳すが、誤解を生じ易い。 日本のインド学はヨーロッパから入ってきたが、インドの現地の風土に注意しなかったために、梵英辞典にforestという訳語がついでに挙げられていて、 次にforestを英和辞典で引いてみると「森」とか「森林」となっているために、そのように訳すことが定着してしまった。 しかし日本語の「森林」を連想すると、とんでもない間違いになる。ゴータマ・ブッダの活動した地域には密林のようなものを殆ど見かけない。 むしろ人里離れた静かな空地をいう。その証拠には、萩原『梵語辞典』に挙げられているaranyaの多数の漢訳語を見ても、「森」という漢字は出てこない。 漢訳『法句経』羅漢品にはただ「空閑」と訳し、Udanavarga. XXIX, 17 (岩波 ブッダ感興のことば24章17) に対応する『出曜経』双要品、『法集要頌経』相応品にもaranyaを「空閑」と訳している。
147 :
名無しさん@京都板じゃないよ :2010/07/27(火) 10:20:29
続き ・ダンマパダ221 namarupa (name-form or mind-matter 名称と形態 or 精神と物質?) 中村元 訳 真理のことば 怒りを捨てよ。慢心を除き去れ。いかなる束縛をも超越せよ。名称と形態とにこだわらず、無一物となった者は、苦悩に追われることがない。 荻原雲來訳註 法句經 二二一 忿を棄てよ、慢を離れよ、一切の結を越えよ、精神と物質とに著せざる無所有の人に諸苦隨ふことなし。 片山一良 訳 ダンマパダ 全詩解説 怒りを捨てよ、慢を捨てされ あらゆる縛りを脱するがよい 名と色とに執着しない 無一物者には苦は従わず The Dhammapada and Sutta Nipata, by Max Muller and Max Fausboll, [1881] Let a man leave anger, let him forsake pride, let him overcome all bondage! No sufferings befall the man who is not attached to name and form, and who calls nothing his own. 中村元注釈 名称と形態 - namarupa. この語は古ウパニシャッドにおいては「名称と形態」すなわち現象界のすべてを意味する。 この語は仏教にも継承されて「名称」(nama)とは人間の精神的方面、形態(rupa)とは人間の物質的側面を意味すると解釈されているが、 教義学者たちが無理にこじつけた解釈(すでにパーリ聖典の散文の中に現れる)でろう。インド思想一般の用例としてはnamaを精神と解することは無理である。 パーリ語とかサンスクリットが直接スラスラ読めれば苦労はないんだろうなぁ
148 :
名無しさん@京都板じゃないよ :2010/07/31(土) 13:51:49
33 心は、動揺し、ざわめき、護り難く、制し難い。英知ある人はこれを直くする。──弓矢職人が矢柄を直くするように。
27 放逸に耽るな。愛欲と歓楽に親しむな。おこたることなく思念をこらす者は、大いなる楽しみを得る。
151 :
名無しさん@京都板じゃないよ :2010/08/02(月) 21:03:48
35 心は、捉え難く、軽々とざわめき、欲するままにおもむく。その心をおさめることは善いことである。心をおさめたならば、安楽をもたらす。
152 :
名無しさん@京都板じゃないよ :2010/08/02(月) 21:05:42
34 水の中の住居(スミカ)から引き出されて陵の上になげすてられた魚のように、この心は、悪魔の支配から逃れようとしてもがきまわる。
153 :
名無しさん@京都板じゃないよ :2010/08/04(水) 00:21:28
35 心は、捉え難く、軽々とざわめき、欲するままにおもむく。その心をおさめることは善いことである。心をおさめたならば、安楽をもたらす。
154 :
test :2010/08/09(月) 18:35:58
36 心は、極めて見難く、極めて微妙であり、欲するがままにおもむく。英知ある人は心を守れかし。心を守ったならば、安楽をもたらす。
155 :
名無しさん@京都板じゃないよ :2010/08/09(月) 18:37:07
37 心は遠くに行き、独り動き、形体なく、胸の奥の洞窟にひそんでいる。この心を制する人々は、死の束縛からのがれるであろう。
156 :
名無しさん@京都板じゃないよ :2010/08/09(月) 18:41:40
欲深いと言われてもCDと本と趣味は縁が切れない
別に在家は趣味は普通に楽しめばいいんだよ。とらわれなければ。