>>246 わぁ、これはえらい真っ正面からの質問だな。
これは、これできちんと受け止めるべき質問だよな。
おいらで答えられるかどうか分からんが、どれ一つ挑戦してみようか。
釈迦は、現象として生・老・病・死の苦しみがあることを直視してしまった。
生きることは、辛いことばかりだ。
老いていくことは、辛いことだ。
病にかかれば、大変苦しい。
死んでしまうことは、とても怖い。
だから、贅を尽くして快楽の坩堝に逃げ込んで忘れてしまえ。
病にかからないように、死なないように、老いないように不死の薬をみつけろ。
どのようなことをしても、生・老・病・死からは逃れられない。
そしてそれに右往左往すること。それは空しいと知ってしまった。
では、それらから受ける苦しみの元を断てばいいじゃないか。
その元は、どこにあるんだ?
あれやこれ考えて考え抜いて、それはココ、自分自身にあったと知ったわけです。
それからは苦しみを発生させている自分自身を滅するように修行していくわけだけれども
その方法は、苦行によるモノではなく、主に瞑想によるモノで、現象とそれから受ける変化を
丹念に一つづつ検証していく瞑想をやられたようです。
それにより全ては変化し、一定のモノはない。それらは自然だ。
だから自分が老いること、病にかかること、死ぬこともまた自然で、苦しいモノではない。
と覚られたと。苦しいモノでなく、自然のモノであれば、腹も立たないし。
あれやこれの物質だって無くなるんだから。別に要らないし、欲しいならやるよ。と思える。
もっとも、生きていく分の最低限のモノは必要だけれど。それも目の前にもっと必要な人が
いればその人にあげるよと。