いのち教(真宗大谷派東本願寺諸派)総合part31

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1名無しさん@京都板じゃないよ
「いのち」教

小川一乘 教学研究所長  「いのち」という言葉が飛び交い、真宗大谷派は「いのち」教になっているのではないかと指摘されて久しい。
それでも私は相変わらず、「いのちは平等」などと、「いのち」を連発している。この度、親鸞聖人七百五十回御遠忌のテーマが決定されたが、
そこでも「今、いのちがあなたを生きている」と、「いのち」という言葉が主語になっている。 
ところで、「いのち」が粗末にされ阻害される現代社会となって、「いのち」からのうめき声を聞き取った人たちの口から、
「いのち」という言葉が飛び交うようになったのは何時の頃からであろうか。それは多分、人間にとって「いのち」とは何か、
という問いが等閑にされてきた結果、「いのち」は私の生まれと共に生まれ、私の死と共に死ぬという、
現代人の自我の観念による「いのち」の私物化が始まった頃からではなかろうか。
 「いのち」がその人の所有物となって物化された、その自我の観念を見事に利用したのが臓器移植医療である。
物と化した「いのち」が、生きる価値のある「いのち」と生きる価値のない「いのち」とに分けられた脳死による臓器移植が現実となった。
 加えて、ヴァーチャルな映像の世界において、熱い血の流れない「いのち」の奪い合いが、そのまま現実に持ち込まれ、
ゲーム感覚で「なぜ人を殺してはいけないの」と子どもから問われて、戸惑う時代となった。かって、カブトムシが死んで動かなくなったとき、
「カブトムシの電池を入れ替えて」と言った子どもがいたという話を聞いたことがある。
子どもの世界でも、「いのち」は物化され、映像か物質でしかなくなっている。 
2名無しさん@京都板じゃないよ:2007/07/20(金) 09:50:11
このような時代にあって「今、いのちがあなたを生きている」というテーマは、私たちに対して「いのち」とは何かを問い、
それを確かめることこそが、現代に生きる人間にとって緊急で深刻な課題であることを意図しているのであろう。
このテーマにおける「いのち」について、様々な見解が提示されるであろうが、それが多ければ多いほど、
それだけ私たちが「いのち」への問いを忘れていた証拠に他ならないことにもなろう。真宗における「いのち」とは何かが確認されるまで、
「いのち」は徹底的に問われなければならない。

 「いのち」からのうめき声が聞こえなくなったとき、「いのち」は死して、単なる肉の塊と化するであろう。
「いのち」からのうめき声が聞こえている間に、それを「いのち」からの喜びの声へと転じていかなければならない。
そのために、「いのち」を問う「いのち」教であるならば、それはそれでよいのではないかと、私は思う。
 (『真宗』2005年9月号掲載)

真宗大谷派をはじめとして浄土真宗東本願寺派、宗教法人本願寺(下烏羽)及び本願寺
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教団問題の他、教義・教学、声明作法・儀式、堂宇・荘厳、教師養成機関、全国各地の
別院・所属寺院などについて幅広く展開していきます。

過去ログほかは>>3以降を参照願います。
3終了:2007/07/20(金) 10:14:00
>>1
重複スレです。

●誘導●
真宗大谷派・東本願寺系諸派総合スレッド Part.30
http://love6.2ch.net/test/read.cgi/kyoto/1182013732/
4名無しさん@京都板じゃないよ:2007/07/22(日) 00:16:24
>>3
sono sure no tugi no sure desu
5名無しさん@京都板じゃないよ
>>4
却下。