389 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2009/02/14(土) 19:37:01
>>388 僧侶遥拝所がいつまであったかを質問する事自体が出雲や伊勢などの
仕える神職や宗教家の間では論争が絶えません
なぜならば、伊勢神宮の神事や制度は一般に公開されていない事の方
が圧倒的に多いからです、つまり情報公開があまりなされておらず
秘密のベールに包まれていることのほうが多いのです
嫌々ながら時の権力者の意向で伊勢神宮は僧侶が神前で読経する
ことを許可することもありました、しかし、奥まで通される事は
なかったようです、奥とは神職がみけを供えたり神事を行う場所
です
結局、明治政府は神仏分離令に挫折しました、理由は寺院側が緊急で
鳥居を設けて神社としたり(豊川稲荷はこの方法で取り壊しから免れた)
あまりにも各地の神社から仏像を処分したりするのも膨大な手間や労力
を必要とされたからです
390 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2009/02/14(土) 19:46:07
391 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2009/02/14(土) 21:31:39
>僧侶遥拝所がいつまであったかを質問する事自体が出雲や伊勢などの
>仕える神職や宗教家の間では論争が絶えません
意味がよく分かりません。
社外の僧侶遙拝所と神宮の神事がなぜ関係するのですか?
つまり、あなた自身は知らないと言うことですね?
それなら、せめて「五十鈴川の対岸から拝む「僧尼拝所」」がどこに作られていたのか、
場所だけでも教えて下さい。
>嫌々ながら時の権力者の意向で伊勢神宮は僧侶が神前で読経する
>ことを許可することもありました
この場合の神前とはどこを意味するのですか?
僧尼拝所ですか?
>寺院側が緊急で鳥居を設けて
四天王寺はじめ鳥居を持つ神仏習合の寺院も多かったようですが?
392 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2009/02/14(土) 21:57:47
伊勢神宮の神仏習合は奈良時代聖武天皇の時から始まるみたいですね。
続日本紀に「天平神護二年秋七月(766)使を遣はせて伊勢大神宮寺に六丈の仏像を造らしむ」
翌年天平神護三年には伊勢国逢鹿瀬寺を伊勢大神宮寺とする宣旨を下したようです。
鎌倉お時代に重源が同じく大仏再建を祈念して伊勢神宮に参拝しています。
伊勢神宮の古代の神仏習合については皇學館大学の岡田登先生の論文を参照すると良いでしょう。
393 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2009/02/14(土) 22:06:12
念のため勝手に補足。
神宮と神宮寺は違うぞ。誤解しそうなやつがおるでな。
394 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2009/02/14(土) 22:09:32
>>389 ほう。明治政府が廃仏毀釈を命じたと言ったな?
395 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2009/02/14(土) 22:13:30
神宮=明治神宮
神宮寺=野球場
東京ではデフォ
396 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2009/02/14(土) 22:27:40
>
>>394 明治政府は神仏分離を命じたのであって
廃仏毀釈は民衆がやったのだ式のことを言う人が居るけど
実際には江戸時代には大規模な土地を所有していた各寺が
「寄付」という名目で政府に召し上げられ、神社や公園になっているな
まあ明治政府のご意向と言って問題無いでしょう
397 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2009/02/14(土) 22:30:58
>>384 非神道の縁起棚的なものを含めて神棚としてしまえば
なんでも神棚で話広げすぎでしょう
現代でも鏡餅備えるからどこの家でも神棚があるとなってしまうよ
あくまで江戸後期の神仏分離論により縁起棚から神道棚が分離する時点を持って
神棚の成立とすべきであろうと思います
398 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2009/02/14(土) 22:32:20
廃仏毀釈と土地の収公は別な話だろう?
399 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2009/02/14(土) 22:34:35
>>386 どこがオカルト話なんだか。
家内の神様や禁忌はそのほとんどが陰陽道を通して普及した風習なのは常識でしょう?
井戸や便所のそれは典型的なものだと思いますが?
400 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2009/02/14(土) 22:39:20
>>397 神棚の定義をよく嫁。縁起棚なんかお呼びじゃねぇよ
それから馬鹿の一つ覚えみたいに鏡餅鏡餅うるさい
401 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2009/02/14(土) 22:40:54
>>398 大きな寺院がそれで廃寺や廃寺同然になったりもしてるというのに?
明治期の廃寺事例でもググってみなさいな
廃仏毀釈が民衆の自発的に行われたというのこそ、明治政府の建前でしかないことが分かります。
多くの寺の解体と土地の没収は明治政府の指導の下行われている。
402 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2009/02/14(土) 22:42:59
>>400 よく読めってなに?
その定義が定まってないまま議論があるから紛糾してるのだろう
祭祀棚という意味でキミが言ってるなら、なおのこと護摩札だろうとビリケンだろうとOKになるが?
403 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2009/02/14(土) 22:47:12
>>401 はいはい読んだよ
何でも明治政府が悪い、江戸時代最高、俺の元号は慶應で止まってる
迄ね
404 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2009/02/14(土) 22:47:53
>>379 >これは『通海参詣記』や「大菩薩御託宣状」が神仏習合の立場なのでそうなるわけです。
それが荒木田家(内宮)、渡会家(外宮)共に主流の見解だったということ。
伊勢神宮は神仏超越した特別な神社で、仏教会からもずっと崇拝を受けていて
神宮側もそれを受け入れてきたというのが正しい。
伊勢が仏教排斥が特徴の神社というあなたの見解は、排斥論者であるあなたの理想でしかなく
神社の中でも伊勢にそれを言うのは妄言がすぎるよ。
405 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2009/02/14(土) 22:52:11
>>383 >ですから、僧侶の参拝は僧侶遥拝所でね
違うよ。鎌倉時代の僧侶の伊勢参拝の記録は中まで入って神前で奉納や読経を行っている。
僧侶遥拝所なんてものは全く出てきていず、神宮側が受け入れている様子が描写されています。
406 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2009/02/14(土) 23:01:43
>>402 今の所定義は
>>321だ
流れを読めば皆その線に沿って話しているんじゃないのか?それで伊勢信仰と神棚、護摩札を置く事について話してるんだが
ついてけないのは仕方ないし、お前だけ納得しないのは勝手だが、それならはっきり定義を示せ
ここはお前の思考の過程を発表する場でないし、ましてや知識をひけらかす場でもない
407 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2009/02/14(土) 23:03:59
格下で新参者の仏教が騒いでいるスレはここですか?
408 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2009/02/14(土) 23:06:12
>>389 >嫌々ながら時の権力者の意向で伊勢神宮は僧侶が神前で読経する
ことを許可することもありました、
逆逆荒木田氏などが寺社勢力を進んで招いているよ。
上に挙がってた文献にも出てるでしょう。
勝手に「嫌々」とかあなたの分離論者のイデオロギーを仮託しなさんな
>結局、明治政府は神仏分離令に挫折しました、理由は寺院側が緊急で
>鳥居を設けて神社としたり
なに言ってんの。そういうのを戒めて分離させたのであって、
逆に設置したなんてのはない。
寺が神社になったという回避はあっても、習合を新たにやってお上のお目こぼしは無い。
旧来の鳥居が残った寺は寺が政府関係者にコネがあったなどの少数派でしかなく
新たに作ったものでは決して無い
>(豊川稲荷はこの方法で取り壊しから免れた)
豊川稲荷は鳥居を作ったから取り壊し免れたんじゃないでしょ
あくまでインドの神様、ダキニ天という仏天を祭るのであると主張して逃れたのであって
全く認識がおかしい。
こちらに詳しい経緯が載ってたのでどうぞ。
http://www.taineiji.jp/episod/episod_1.htm
409 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2009/02/14(土) 23:08:54
>>406 違うでしょ
それじゃあ神道の神棚が分離確立する前まで含まれ際限無いわけで
江戸期の神道神棚の成立とすべきであるとその後の議論では進んでるではないか
その神棚定義でいいなら、護摩札でもなんでもOKで議論終わり。
410 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2009/02/14(土) 23:11:26
411 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2009/02/14(土) 23:12:04
>>406 神棚が伊勢信仰からという説はあなたのなかでは決着付いてるの?
伊勢信仰といっても伊勢神宮の信仰ではなく
ここで言うのは伊勢の天照を頂点とする江戸後期の国学者の復古神道ですよ。
伊勢神道という意味では無いし、それら分離神道の興隆に伴うものです。
412 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2009/02/14(土) 23:55:53
>>355 豊川稲荷が仏式であることと
豊川門前で一式揃うこととは
どういう理由でそこに述べたんだか意味がワッカラン!
413 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2009/02/15(日) 00:00:39
>>409 あれ?あんた定義と成立についてと話がごっちゃになってるな。というか、定義出さないの?
>>411 護摩札を置くことの是非と神棚の成立時期を定めることとは、直接には関係ないだろう。明治以降というやつは宮型とごっちゃにしてるからまず定義を、ということ。
伊勢信仰うんぬんはその歴史や経緯などから徴して、良い・ダメ…って判断するための話であって、そこから具体的な成立時期を定めようとするのはスレ違いの議論。
そもそも定義自体にはっきり異を唱えたり、自分の定義を提示したりする人はいなかった。その時点で、もしくは安価をつけるなどして、「その定義は違う」「おれの定義はこう」と、はっきり言うべきではないか。
414 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2009/02/15(日) 00:19:55
明治政府は寺領上知令を出して寺の土地を取り上げて
不満を言う寺は容赦無く廃寺を命じてますね
ま、実質的な廃仏政策でしょ
415 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2009/02/15(日) 00:22:33
>>413 縁起物含めた神道に限らない祭壇一般と
神道の祭壇として分離した「神棚」は分けなければ話にならないと言ってるのだから
神道祭壇としての神棚の分離独立を定義としているのでしょ
ありがたいもの置けばなんでも神棚とするのではそんなもの縄文時代でもあるだろ
416 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2009/02/15(日) 00:29:09
>>413 俺ははっきり意義を唱えたし、他の人も同様な意見があったと思うけど?
縁起棚と神棚は分けなければならないとね
神棚を拝む芸者図と挙げた浮世絵も、よく見ると吉祥絵の掛け軸を飾って拝んでいる
これ神棚の成立と言い出すと、平安時代にも貴族が御利益のある仏画や吉祥絵を描かせているわけで
それを当然屋敷で飾っていたのであろうし、ありがたいものを飾ればみな神棚になってしまう。
ここで議論されている神棚とは、そういうレイヤーの話ではなく、あくまで神道祭祀としての神棚の成立でしょ
それを意図的か知らないが場面場面で混ぜるのは卑怯ってはなし。
神棚の歴史的権威を誇るときは神道神棚が分離する前のただの縁起物を飾る分化までを入れつつ
神仏同様に神棚に祀る是非の話になると、急に江戸後期の復古神道の神道分離論に依拠するでは
話にならないと思います。
417 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2009/02/15(日) 00:40:18
中世に発生した伊勢の御師は国学以前から”伊勢の御祓”神札を配布していて、それを祀る為の「大神宮棚」が現在の神棚のルーツの一つなんです。
安永六年(1777)の『私祈祷檀家帳』には、国別の信者数が掲げてあり、それを統計すると、
多少は誇張があるにしても約四一九万戸となるので日本全体のおよそ七、八割にもするようになると言われています。
418 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2009/02/15(日) 00:41:08
>388
>405
>その僧侶遙拝所っていつ頃発生しいつ頃まであったんですか?
僧尼拝所で検索するとたくさん引っかかりますし、
(1318)に「大神宮参詣精進法」というものが発表され僧尼が忌避されています。
あなたは神宮祭祀に際して仏法が禁忌されることと
神宮祠官に仏法が一時期受容されていたことを混同してますね。
"神前読経"に関しては重源の「読経」は”翌二十九日御経供養が天覚寺において行ったものですし、
内宮の参拝も"僧都以下が一鳥居に着くと、僧徒群参憚りありとのことで、成長がまず二、三人の僧を誘導して宝前に参り"
としてこっそりと参拝させたので、神前読経などしてません。
>404
通海は僧侶で"顕密仏教の側から"なので神仏習合の立場ですね。
通海の経歴から考えて、彼は中世の正統的な宗教であった顕密仏教の教義と、
伊勢に関わる様々な古伝承を繋ぎ合わせ、しかも顕密仏教の側からそれらを
再編成していくという作業の最適任者であったと思われます。このことが、
『参詣記』を考える際の前提となります。
http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/just-nishiyama-masaru-tukaisankeikiwo-kataru.htm (つづく)
419 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2009/02/15(日) 00:42:29
(つづき)
僧尼拝所に関しては下記のものが参考になります。
『西行物語』上、続群書書類従三
伊勢大神宮にまいりつゐて、みもすそ川のほとり、
杉のむらだち中にぞ、一の鳥井を見つけまいらせて(中略)、
ひそかにおもふ様、(中略)ぶつきやう、法師、あま、ずず、けさ、
などをとゞむれども、
(中略)
伊勢の大神宮に巡礼すべく西行法師が五十鈴川の河畔を遡上すると、
参道にそびえ立つ杉木立に埋まるように「一の鳥居」が立っている。
内宮を参拝する僧尼たちは、この「一の鳥居」の手前で衛士の検問を受ける。
「すす(数珠)、けさ(袈裟)」を身に付ける僧尼は、一の鳥居の左手に架けられた
小橋を渡って五十鈴川の対岸を遡上し、内宮正殿の対岸に設置された
僧尼礼拝所から川を隔てて神殿を造拝する。
(中略)
『伊勢参宮名所図会』(寛政9年5月、京都書林菱屋孫兵衛他刊によると、
内宮・外宮共に川を隔てて、神殿と向かい合う位置に僧尼のための礼拝所が設置されている。
同書内宮「僧尼拝所」参照。
http://miuse.mie-u.ac.jp:8080/bitstream/10076/6628/1/AN101977030160007.pdf また後には慶光院の尼(守悦・清順・周養)たちが式年遷宮の費用を調達するために、
やはり全国を勧進しました。この時代、個人の働きが非常に大きくなってきたわけです。
(中略)
あるいは伊勢神宮に参拝するとき、僧や尼たちは風日祈宮橋を渡った
島路川の対岸にある僧尼拝所からでなければお参りできなかったのです。
http://isenet.jp/senguu/html/isegaku2/5/5_text.pdf (つづく)
420 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2009/02/15(日) 00:43:12
(つづき)
"神前読経"に関しては重源の「読経」は”翌二十九日御経供養が天覚寺に行われた。”
読経したのは、いずれも寺ですし。
"この夜僧徒少々瑞垣の辺に参拝した。白昼は憚りありと禰宜方からいわれていたためである。"
"僧都以下が一鳥居に着くと、僧徒群参憚りありとのことで、成長がまず二、三人の僧を誘導して宝前に参り"
というようにこっそり参拝しなければならなかったわけです。
http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/just-hagiwara-tatuo-sankeiki.htm ちなみに蛇足ですが、筑後守 藤原実重の作善日記では
嘉禎 3年(1237)10月26日 寺名:杉谷 嘉禎二年同月廿三日大般若経始め参らして、
同三年十月廿六日供養し参らせ、太神宮に法楽いる
延応2年(1240年)7月8日 寺名:杉谷 杉谷にて一日大般若読み参らせて、太神宮又熊野の法楽、
http://kmi760.web.infoseek.co.jp/ise33-3003.htm とあるように杉谷の阿弥陀堂での読経になってます。
>392
『続日本紀』宝亀11年(780)2月丙申朔条によると、伊勢大神宮寺が神郡に
近い為に祟りがあったということで他所に移転してます。
このことからも仏教忌避がわかりますね。
『続日本紀』宝亀11年2月丙申朔条(780)
神祇官言。伊勢大神宮寺。先為レ有レ祟遷二-建他処一。
而今近二神郡一。其祟未レ止。除二飯野郡一之外移二-造便地一者。許レ之。
421 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2009/02/15(日) 01:12:49
>>419 >『伊勢参宮名所図会』(寛政9年5月、京都書林菱屋孫兵衛他刊によると、
>内宮・外宮共に川を隔てて、神殿と向かい合う位置に僧尼のための礼拝所が設置されている。
まさに江戸末期ですね。
神仏分離論が強まった結果厳しくそのようなことになっていったわけです
西行の記録でもこれが問題になってる様が書かれているように
伊勢において仏教需要は常に議論のまとであり、振り子のように時代時代でゆれてるというのが正しい。
あなたがなぜかスルーしている西大寺との交流では明らかに中に入ってますわな。
曼荼羅やお経まで収められている。
そもそも上記でも挙がってるように第一段階として朝廷の意向で伊勢に仏像が納められたり
神宮寺が出来たりと習合が成り立つ
その後揺り戻しとして神宮寺をどけようとなる(西行はここ)
その後真言宗との接近によって西大寺流との交流などを経て再び神仏和合の時代が来る
習合理論である渡会神道が広がり、一定の抵抗
江戸期の吉田神道の公認によって帰依者の領地で廃仏が起こる(伊勢は伊勢神道であり及ばず)
国学隆盛の結果、復古神道が起こり神仏分離論が隆盛を極める
このように伊勢神道は時代時代で神道家が独自の理論を紡いで
仏教徒の関連性を変遷させています。
伊勢はこういうとこと決め付けるのは誤りです。
422 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2009/02/15(日) 01:29:22
西行は神道優位論の垂迹説を説いた渡会神道が成立する時期だから
厳しく僧侶へあたるのは当然だね
423 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2009/02/15(日) 01:33:33
424 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2009/02/15(日) 01:41:30
>>423 当初外宮渡会氏は仏教受け入れに厳しく
内宮荒木田氏こそが積極的だったということ。
その後渡会氏は両部神道に影響を受け、神道優位の習合説である
渡会神道を提唱しだし、こちらも違った思想で神仏の和合を説きだす。
(さらにこの度会神道理論をヒントにのちに吉田兼倶がより神道優位を際立たせた吉田神道を生む)
伊勢と簡単に言うけど、内宮と外宮で仏教への態度が時代時代で違うという点も
見逃してはいけないよ。外宮は厳しいが内宮はゆるいといったようなことがあったようです。
425 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2009/02/15(日) 01:55:54
西大寺流や修験との接近史では両部神道の流れも抑えるべき
西大寺と伊勢神宮は時代によっては極めて接近しており
神宮周辺に寺を作り、一体となって両部思想を元に伊勢を奉じます。
(渡会神道はその神宮内での両部神道の盛り上がりへ対抗として本来あるものです。)
この時代には神仏習合になっていて僧はたくさん当然のように
参拝している記録が多く残るのはこれまで挙がった資料の通り。
伊勢神宮側でも密教要素を受け入れた結果として両部神道が生まれ
周囲でそういう形式の神道が盛り上がるわけです。
曼荼羅奉納などが行われているように、伊勢神宮内の祭祀自体にも習合があったのです。
それを神道優位にしたのが度会神道。習合は習合ですが神道優位という理論。
しかしこの時点では仏教排斥とまではいっていないようです。
426 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2009/02/15(日) 03:39:40
>421
伊勢の大神宮に巡礼すべく西行法師が五十鈴川の河畔を遡上すると、
参道にそびえ立つ杉木立に埋まるように「一の鳥居」が立っている。
内宮を参拝する僧尼たちは、この「一の鳥居」の手前で衛士の検問を受ける。
「すす(数珠)、けさ(袈裟)」を身に付ける僧尼は、一の鳥居の左手に架けられた
小橋を渡って五十鈴川の対岸を遡上し、内宮正殿の対岸に設置された
僧尼礼拝所から川を隔てて神殿を造拝する。
http://miuse.mie-u.ac.jp:8080/bitstream/10076/6628/1/AN101977030160007.pdf この方による西行法師の頃から僧尼礼拝所があったという書き方ですし、
また後には慶光院の尼(守悦・清順・周養)たちが式年遷宮の費用を調達するために、
やはり全国を勧進しました。この時代、個人の働きが非常に大きくなってきたわけです。
(中略)
あるいは伊勢神宮に参拝するとき、僧や尼たちは風日祈宮橋を渡った
島路川の対岸にある僧尼拝所からでなければお参りできなかったのです。
http://isenet.jp/senguu/html/isegaku2/5/5_text.pdf この岡田登氏(皇學館大学史料編纂所教授)の資料でも僧尼拝所がでてきます。
392の人が伊勢神宮の古代の神仏習合については皇學館大学の岡田登先生の論文を参照すると良いとの
ことです。
元寇の頃などの事例はあくまで例外で、全体的な傾向として神宮忌詞に見られるように神宮祭祀に際して仏法が禁忌されることは
否定できません。
それと、そもそも経文や曼荼羅が奉納されたからといって伊勢神宮内の祭祀自体が習合になるということはないのですけど。
もともとは神棚祭祀の話なので、両部習合を信仰しているなら、神仏習合の神社などの神札を受けるか、
両部習合の祭式で神札を作るかして護摩札と一緒に祀ればいいのです。
神社神道の祭式で祀られている神社の神札と護摩札などを一緒に祀るのは駄目でしょう。
427 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2009/02/15(日) 08:28:37
<<424
伊勢神宮とは単純ではありません、外宮と内宮が対立していた歴史もあります
また、神仏習合に対する見解も同一ではありません
また、外宮周辺では神仏分離令までは各宗派の寺院が多く存在していました
しかし、基本的には神宮側からすれば神仏習合という理論自体が冗談では
ないという姿勢が本音として感じ取れるのではないでしょうか
これは神宮の雰囲気や空気を読めば理解できそうです
伊勢神宮側の奉納品を受け取る姿勢としては基本的に特別な理由と危険物
でもない限り相手が僧侶でも受け取るという考え方です
神宮側がいらないから持って帰れとは申しません
奉納品を受理したから神仏習合の思想を受け入れたとするのは
論理的に考えても馬鹿げています
428 :
427:2009/02/15(日) 08:32:55
429 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2009/02/15(日) 09:37:58
>>416 まず、定義への異議があるなら先にあげた定義自体に対して「違う」と当該レスへの安価つきでレスすべき
それかはっきり「神棚は〜である」と別な定義をあげるか
そうもせんで定義について議論の俎上に乗せていると思ってたのか?葉を否定して根まで否定したとは恐れ入る 論理的手続きが本当に苦手なんだな…ま、いいけど
今までさ、
@「明治の令」とやらで神棚が成立した→法令を示していない
A文献に当ってみたが神棚はなかった→正月のみを調べ、多数だという出典も示さず
B明治に神棚が成立したとする文献をあげず
…などということをやって来て、あげられたソースを都合のいいところだけ否定しているよな
ごっちゃにしたいみたいだから、その線で話してもいいけど、次のレスで以下のことが書かれるのが条件だな
・自分の定義をあげる
・明治に成立したとする文献をあげる
で、否定するのに際しては、自分の意見じゃなく、違う見解の文献をあげて論理的に言ってくれな
それから、余計なお世話
どんだけ権威好きなんだか知らんが権威権威と言って判断停止していると、見えるものも見えんくなるからな 権威づけとか何とか言うのはいいが、思考がどうも板違い 民俗板に帰った方がいいかもよ?
430 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2009/02/15(日) 12:01:59
>伊勢神宮側の奉納品を受け取る姿勢としては基本的に特別な理由と危険物
>でもない限り相手が僧侶でも受け取るという考え方です
>神宮側がいらないから持って帰れとは申しません
空気や雰囲気で語られてもね・・・空想でしかない。
神宮の仏教との習合を拒絶する姿勢は歴史的事実だが
文献に基づかないと、論拠ないよ。
431 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2009/02/15(日) 12:13:28
>『続日本紀』宝亀11年(780)2月丙申朔条によると、伊勢大神宮寺が神郡に
>近い為に祟りがあったということで他所に移転してます。
>このことからも仏教忌避がわかりますね。
臨川書店『日本古代の霊と神』に神道側と仏教側の確執が詳しく述べられている。
432 :
427:2009/02/15(日) 15:45:28
433 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2009/04/11(土) 01:01:23
人それぞれ
434 :
名無しさん@京都版じゃないよ:2009/08/05(水) 21:00:20
本物の宗教は無いんだね。
何言ってるの
436 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2009/12/21(月) 00:49:18
うちも檀家になってる寺から大きなゴマ札と御幣をもらう。
神棚にまつってるが、やめるわけにもいかないし。
神棚の札って・・
何年も同じのでいいのかな?
438 :
名無しさん@京都板じゃないよ:
うちは毎年、氏子になってる神社から氏子総代が神宮大麻と地元の神様の御札を持ってくるから毎年代えている。