1 :
耶蘇華厳:
他のスレッドで「ここはお前の日記帳じゃねえんだ」と言われる前に作成しました。
もちろんどなたでも自分の日記帳として書き込んで良いのです。
では始めます。
2 :
耶蘇華厳:2006/12/19(火) 20:46:41
3 :
耶蘇華厳:2006/12/19(火) 20:59:50
さて、華厳宗スレにも書きましたが、
問題は断食か菜食かですね。
今日は寒くてと言っても今の室温はアナログ式で18度。ディジタル式で17.9度を指しています。
とても暖かいですね。ちなみに川崎市です。
でも今私はとても寒いのです。
今日はキャベツの千切りと野菜ジュースを摂取しただけです。
そのせいかと思われます。
華厳宗スレにも書きましたが、私は2001年にタバコを止めて以来一回も自室で暖房を
つけていないのです。
ですから、まぁ寒いと言えば寒いのですが、
部屋の心地よい暖かさは祈りの大敵です。
でも今日は食事が上記の通りなのでとても寒く感じます。
親から痩せろとうるさくやいのやいの言われているので、
一念発起して断食か菜食することに決めたのです。
といっても冷凍ピザに加えて買ってきたとろけるチ−ズをてんこ盛りして
レンジでチンして食べるとおいしいのですが、太ります。
ですから肉食を退けるだけでは痩せるには直結しないんですね。
4 :
耶蘇華厳:2006/12/19(火) 21:01:34
ただ永平寺/総持寺に行った際、あまりの食事の粗末さに
「人間ってのは何食っても生きられるんだ」
と思ったのを記憶しています。
幸い現在の自分は酒タバコセックスどれもしないので、
断食か菜食かの選択肢が可能なわけです。
タバコを2001年秋にやめたときには、
「ああ、これで俺も断食できる身体になった」
と思ったのを覚えています。
結婚前のセックスは1995年に洗礼(キリスト教です、はい)受けたときに、
モーセの十戒を授かるわけですから、その時から断つことになるわけですが、
幸い神の差し金であろう試みをも突破して、
今まで何とか戒律を破らずに来ることが出来ました。
5 :
耶蘇華厳:2006/12/19(火) 21:05:27
で自分はクリスチャンの癖に華厳経に興味を持ってしまったのです。
そして国書刊行会から出ている『口語全訳 華厳経』上下二巻本を45000円も出して
買ってしまいました。
一冊の本にこんな大金だしたのは初めてです。
「でも華厳経を読まずして死ねるか」という執念はあります。
6 :
耶蘇華厳:2006/12/19(火) 21:11:56
人がアウシュヴィッツを思い浮かべるとき、
まず過重労働・暴行・虐待・気ままな殺害等を思い浮かべますが、
それ以前にまず飢えと寒さがあります。
断食した経験のある方なら分かると思いますが、
とにかく身体が冷えるんですね。
熱い湯を入れた湯船に身体を浸してもそれでも寒いほどのものです。
次に寒さ、これがロクに食べてない身体にはこたえるんですね。
寒さが自乗になります。
ただアウュヴィッツでは更に不潔が加わりますが、
禅寺には不潔はありません。そこが違いますね。
やはりどんなときもきちんと洗濯や掃除やシャワー等で綺麗にすると
部屋の「気」自体も清浄になる気がします。
お前なぁ、スレタイも
>>1も神社仏閣と関係無いだろ!削除しておけよ
日記を書きたければブログでやれよ! 迷惑な香具師だな・・・
8 :
耶蘇華厳:2006/12/19(火) 21:39:02
>7
linux板にも「俺の日記帳」スレは存在し、長期間数名によって愛用されています。
存在も板内で認知されております。
ある種、隔離スレの機能を併せ持つからでしょう。
それにあくまで宗教に関係する内容の書き込みに限定しています。
というか
>>7さんも日記をお書きになったらいかがですか?
9 :
耶蘇華厳:2006/12/19(火) 21:47:53
ああ、本当に寒い。身体が冷える・・・。
シャワーは既に浴びてるが、
今これから食うべきか寝るべきか祈るべきか?
それが問題だ。
10 :
耶蘇善財:2006/12/21(木) 22:56:37
「耶蘇華厳」改め「耶蘇善財」と名乗ることにしました。
理由は簡単に推測出来ると思いますが、外道(異教徒)にすら教えを請いに行く
善財童子と耶蘇を掛け合わせたものです。よろしくお願いします。
11 :
耶蘇善財:2006/12/21(木) 23:00:29
さてただいまの室温はディジタル式で16.0度、アナログ式で17度を示しています。
でも寒く感じません。
さきほど蕎麦200g(乾燥重量)、ちくわ5本(133kcal)、と野菜ジュースを摂取したのでそのせいだと思います。
火曜日のように野菜ジュースとキャベツの千切りだけだと非常に寒かったので、
この雲泥の差に驚いています。
12 :
耶蘇善財:2006/12/21(木) 23:04:55
>>6の末尾の行もよく考えると華厳経『浄行品』そのものですね。
13 :
耶蘇善財:2006/12/22(金) 09:25:51
自分は、自然に振る舞っていると自分の言動行状の後を聖書が後追いしてきた。
つまり裏付けてきた。
華厳経もどうやら私の宗教観をそのまま自動的に表現してくれてる様子だ。
「なんだこれなら以前から私はそうだよ」
なんて思う箇所が多い。
ますます以てのめり込みそうだ。
14 :
耶蘇華厳:2006/12/22(金) 14:18:00
宗教に親和性のある人は、高い確率でコンピュータに対する適性も有意に高いと
思うのですが、そう考えるのは私だけでしょうか?
15 :
耶蘇善財:2006/12/22(金) 14:23:08
(耶蘇善財の誤りですた)
華厳も経を読んだだけでわかりませんよ。
17 :
耶蘇善財:2006/12/22(金) 20:59:34
>16
玉城康四郎『華厳入門』37頁に、悩んでる画家に向かって
「それでは華厳経を読みなさい。わかってもわからなくてもいいから、とにかく頭から
しっぽまで華厳経をぜんぶ読みなさい。」
という話が出てくるのでそれで調子こいて分からなくても読了してやろうと・・・。
読書百編意自ずから通ずというではないかと思って、読んでみようかと思ったのですが・・・。
18 :
耶蘇善財:2006/12/23(土) 18:00:14
明恵上人は華厳経と密教を結びつけた。
鎌田氏のように華厳経を禅と結びつけようとする人もあるようだが、
私には実践面では祈りがある。
祈りこそキリスト教信仰の真骨頂であると私は思うのだが、
"お願い事"の祈りをしたり顔して馬鹿にする向きがある。
が、これは良くない傾向だと思う。
祈りなき信仰なら、各種NPO法人の活動とか立派な活動しておられる方々があり、
そういう人たちのほうがよほど立派である。
19 :
耶蘇善財:2006/12/23(土) 19:30:17
華厳経「浄行品」を、修証一等と結びつけるのは私の好みに合わない。
たとえば掃除・食器洗い・洗濯をする。部屋に空気を通す。
すると場の「気」がきれいになる。淀んでいる「気が」一掃される。
電気洗濯機によるものであってもそうなる。
だからそれは"修証一等"は別物でしょう。
修証一等という宗教思想が悪いといいたいわけではない。
ただそれとこれとは別でしょうと言いたいだけである。
20 :
華厳命鬼と化す:2006/12/25(月) 11:37:42
耶蘇善財さま
華厳経はどこまで読みましたか
私は調子に乗って永久保存用としてもう1セット買ってしまいました
華厳経読まずして死ねるか!
いいですねその意気です
がんばれ耶蘇善財!
21 :
耶蘇善財:2006/12/25(月) 16:15:32
宗教では救いは万人に可能性があると一般論としては教えられる。
しかし牧師や僧侶として、あるいは宗教哲学者・神学者・仏教学者としての才能は
どうだろうか?
結論から言うと私の回答は「宗教も最後は本人の才能次第だ」ということである。
20代の頃既に、聖書について私に対等に伍することのできる牧師はいなくなっていた。
(もちろん断片的な知識は年齢に比例するのは当然である。餅は餅屋)。
ある三流の牧師が私に張り合おうとしていたが言語道断であり、無様な惨敗を喫した。
旧約聖書に預言者エレミヤというのが登場する。彼は神から必勝を約束されているが、
彼の年齢はエレミヤ書に記載されてる当時30歳程度である。
22 :
耶蘇善財:2006/12/25(月) 16:20:37
やや、華厳命さん、どうも!
今のところは解題を読んでから、思うところあって、浄行品を開いてみましたが、
>>19に書いたとおりの感想です。
聖書については自信がありますが、仏教についてはまっさらに近い状態なので、
常識的なことも知りません。
河波先生に連絡ついて初歩的なことを教わってから、最初から読もうと思います。
23 :
耶蘇善財:2006/12/26(火) 11:45:04
年末年始は、予定がごちゃごちゃしている上に
友人が年末年始に合計二回遊びに来る予定なので
(彼は女装愛好者だから一人暮らしの小生の部屋に場所を借りに来るんですね)、
華厳経読むのはお休みです。
あと以前お世話になったギリシャ哲学者のO先生のご病気の(癌再発)の為にも
祈らなければならないし(←実はこれが一番時間を食う)。
しかし自分の目の前で起こっていることを放置してどこか余所に自分のやるべきことを探すのは
華厳経からも法華経からすらも外れた行為であると思う。
今この瞬間に自分の目の前で起こっていることが大事なのだ。
24 :
耶蘇善財:2006/12/26(火) 17:42:17
華厳経は「頗る難解」とし知られている。
よっしゃ〜、読了してやるぞ〜!
と言う話はここでは置いておいて・・・。
聖書で特に難解なのは4つの福音書の中ではヨハネ伝です。
特に後半二分の一から三分の一が難解です。
というか解説できる人はまずいません。
皆逃げます。
十字架にかかって復活でもした人ならもちろん解説できるでしょうけど。
妙なことを言い出すと思われそうですが、振り返ってみると
自分は聖書に従って生きてきたという感じではなく、
自分の言動行状を聖書が裏付けてきたという感じです。
だから聖書読んでると「なんだ、ここに書いてあるじゃん」なんてことがしばしば。
もちろんそう言うときは後で引用できるように線を引くわけですが。
25 :
耶蘇善財:2006/12/28(木) 14:13:33
test
26 :
耶蘇善財:2006/12/29(金) 09:22:07
今日は起床してから換気してるだけで、北風が吹いてることもあって
あっという間に室温がグングン下がる。
これはPCの冷却と祈りには絶好の日よりだが、あいにく友人が遊びに来るので
ダイニングキッチンは暖房入れなくてはならない・・・。
ままならぬものよ。
27 :
耶蘇善財:2006/12/29(金) 19:44:14
先ほど、
柘植久慶 『栗林忠道』 PHP文庫を買ったが、本を開いて私はおったまげた。
なんたって
2006年12月18日第1版第1刷
2007年 1月5 日第1版第2刷
と書いてあったんだから、まだ除夜の鐘も聞いた覚えはないんだが。
柘植さんは軍事ものを書くことで有名ですね。
28 :
耶蘇善財:2006/12/30(土) 23:39:45
test
29 :
耶蘇善財:2006/12/30(土) 23:54:32
さて河波昌先生にお手紙書いてさきほど投函したが、届くのは何時になるやら・・・。
「今度遊びにいらっしゃい(訪問してお話をうかがって良い)」という破格のお申し出は
12月9日に頂戴した言葉である。
その後華厳経の口語訳(あの高いやつ)の入手や概説書を読むなど、
更に硫黄島の戦いのことを調べていたので、時間を食ってしまった。
(映画は見ていない。実は映画化される前からずっとアジア太平洋戦争を調べていた)
また先生も忘年会や年賀状書きなどで多忙だろうと思い、12月は遠慮していたわけだが、
河波先生が心変わりしてないと良いのですがが・・・。
学問上の質問のために念仏会などの会合に出席する事を求められたら、
日曜日教会をサボってでも行くつもりの決意を決めている。
というか私はキリスト教の連中や神学、
正確には西方教会の教理史や教義学にウンザリしているのである。
旧約/新約聖書そのものに基づく信仰は何があっても微動だにしないが、
それ以外が嫌になってしまっているのである。
おまけに日本の教会は既に2000年前のナザレ人イエスの時代と同レベルにまで腐敗が進んでいる。
昔の日本のキリスト教は外国人宣教師らから羨ましがられるほどだったものだが、
今は随分と墜ちたものである。
それで教会の連中とリアルに、あるいは2ちゃんねる上でやり合う時間すら空しい無駄に思えてくる。
宗教というのは、実は異教徒のほうが教える側にとっては素直に聞いてもらえる
というやりやすい面があることが私の強みかな?
30 :
耶蘇善財:2006/12/31(日) 02:46:49
最近、お世話になった先生方やその未亡人に音沙汰無し/音信不通状態で失礼を重ねているので、
挨拶状でも書こうかと思い、まず私に洗礼した牧師先生(昭和4年生まれ)に
書き終えたあと念のためネット検索かけたら、なんと6月に急性心不全で夭折なさってることを知り、
驚き急ぎつい先ほど未亡人に書簡を出した。
その牧師先生は生前「自分の葬式は○○教会で」と言っておられたが、
私は事情があって、
「私がその教会の金輪際敷居を跨ぐことはない。したがってご葬儀には出られません」
とハッキリ口頭で申し上げている。
しかし知るのが半年も遅かったのでは言い訳無用にもほどがある。
確かにあるギリシア哲学者の先生のご病気(癌)、手術、職場復帰、定年退職、
再発とこの2年間その先生のために毎日数回祈り続けたので他の先生の健康状態を
気にかける余裕がなかったのもあるがそれでも言い訳になっていない。
本当に恐縮した一件であった。
31 :
耶蘇善財:2006/12/31(日) 02:53:16
実は自分は良い先生に恵まれる幸運の元に生まれているようだが、
2000年4月にも同様のことがあった。
私が大学一年の終わり頃に弟子入りした宗教哲学者だった。
私はこの方から哲学とキリスト教のイロハを習った。
亡くなったのは2000年4月16日日曜日だった。
私はその2週間ほど前に今の(もう引退なすったU牧師)教会へ初めて行った
ばかりであった。つまり"神様からのバトンタッチ"(とある人が言った)のようなタイミングであった。
まさか今、癌の再発で、抗癌剤の副作用で苦しんでおられるギリシャ哲学者O先生と
河波先生とのことで、同じことが起こりゃせんかとつまらないことで気を揉んでいる。
32 :
耶蘇善財:2007/01/01(月) 00:18:24
華厳経に命スレにも書いたことだが、
「一年の計は元旦にあり」との言葉は華厳経に関心ある者なら軽視するわけにはいかないだろう。
というわけで、小生、少々祈ったら夜更かしせずにさっさと寝て、
元旦は規則正しい一日にしたいものである。
33 :
耶蘇善財:2007/01/01(月) 04:09:51
なぜか3時半頃に目が覚めてしまった。どういうことだか分からんが、
だらしなく何時までも寝ているよりも良いだろう。
せっかくだから、
「華厳経から多くの宝を読み取ることができるよう」祈ろうと思う。
34 :
耶蘇善財:2007/01/02(火) 01:59:04
華厳経は手足のないダルマさんみたいなものだろう。
手足もなければ道具もない。
だがそれは読む人が自分で用意すべきものであろう。
明恵上人がその代表的人物ということに異論は少なかろうが、
では明恵上人と、空海の十住心論での華厳経の(第九段階)という位置づけ方とでは
どう違うのだろうか?素朴な疑問であるが、私個人としては明恵上人に親近感を覚える。
私は耶蘇なので"祈り"を知っている。
感覚的には華厳で豊かになった世界を祈りで実現していくという関わり方をしていく。
自分は原点が道元禅師の正法眼蔵随聞記での説教を読みふけったことなので、
「とにかく悟りを得たいという執念を持て」
「道のために全て捨てろ。他人から悪く思われるのではないかというその懸念をこそ捨てろ」
という教えに遮二無二従って生きてきたら、気付いたら聖書の奥義を垣間見るところまできた。
聖書では「ただ神と神の言葉のみを求めよ」というそれだけである。
教えはシンプル。
ただ実践は馬鹿に徹するに限る。馬鹿に徹しなければ道を究めることなんぞできない。
"馬鹿を気取ってる"だけでは駄目だ。
「もはや偉いとも凄いとも立派だとも思わない。もはやアンタのはただの馬鹿だ」
と罵られるところまで行かなければ一つの道を究めることなんぞ到底叶わぬことであろう。
35 :
耶蘇善財:2007/01/02(火) 02:06:05
「ただ神と神の国とを求めよ」に訂正します。(お恥ずかしい・・・。
さて馬鹿に徹して道を求め道を歩んできたし、教える時も
「敢えて馬鹿に徹してみたらどうよ?」
と教える。
ただそれだけでは正しいとは言えても豊かとは言えない。
華厳経に対して今の私が求めるのは豊かさである。
もちろん1000ページからの旧約聖書は有機的に自在に引用できるようには素手になっている。
道を求める正しさと貧相さはもうしばらくは良いと思う。
今度は豊かさに目を向けたいのだ。
実践面ではいつも再三書いているとおり、私は祈りの鬼であって、
他人からどんなに揶揄されても私はますます祈りに励むばかりである。
学問と祈りの二本柱が自分の本業と心得ている。
36 :
耶蘇善財:2007/01/02(火) 02:27:16
ごめんなさい
「ただ神の国とその義とを求めよ」でしたね。
これじゃ馬鹿でなくて単なるアフォだ・・・。
37 :
耶蘇善財:2007/01/02(火) 22:45:49
ギリシャ哲学者のO先生の癌再発の件では、
今日届いた先生ご本人からの返信によるとどうも
「今度こそは死命を制せられたと観念していますが云々」
とあり、雲行きが激しく悪い。
ご本人が諦めてしまったら終わりなのに・・・。
この方は語学の天才であるが、同時に仁徳の人でもある。
71才で亡くなるにはあまりに惜しい。
自分はどういうわけか大事な先生を一人失うと、代わりに別に先生が与えられてきた。
しかも常に一級の人物ばかりである。
またこのパターンになるのか???私は嫌だよ・・・。
38 :
耶蘇善財:2007/01/06(土) 19:04:27
先ほど河波先生宅を訪問して良いというアポイントを取り付けた。
具体的な日時も決まった。
いやぁ、郵便受けを見たときゾクゾクしましたねえ。
私は哲学屋ですが、キリスト教寄りなんで仏教学を修めたと言い得る人物が全くいない。
これは困ったことだと思ってましたが、ヤスパース協会で以前から河波先生に目を付けていたんですね。
1996年大会での講演者だったので。
仏教には素人で、高校時代に禅宗系の学校に通ってた程度。
高校生用の教材程度しか知らないわけです。
・・・
>>31(2週間と書いたが一週間の誤り)でのことと同じことが起こりはしないかと
懸念している。
私はこの人生で第一級の人物の最も老成した人物にばかり師事してきたが、
神が私に要求する代償もまた大きいものである(現在進行形)。
一人先生を失うと即座に別の先生が天から与えられるのは、
第三者から見れば幸せに見えるかもしれない。
だが当人としては大変複雑な心境である。
39 :
耶蘇善財:2007/01/06(土) 19:09:00
「キリスト教寄りなんで仏教学を修めたと言い得る人物が全くいない。 」
→「仏教学を修めた人物が知り合いに全くいない」に訂正します。
余談ですが、自分は旧約含め聖書には自信がありますが、
神学(プロテスタント神学)は嫌いです。
H先生が「神学という泥沼」という表現を使っておられましたが、言い得て妙かと思います。
(なお当方は、カトリック神学は全く知らない。東方教会(ロシア正教・ギリシャ正教)のことは欠片も知らない)。
40 :
耶蘇善財:2007/01/07(日) 11:56:51
さあさっさと華厳経の概説書を読まなければ・・・。
それにしても法華経ってなんか付き合い辛いですね。
法華経に「常不軽菩薩品第二十」というのがありますが、
解説を読んでると「この常不軽こそ誰あらん、今の釈迦牟尼仏である」というくだりで驚いたが、
それのみならず、「「折伏逆化」で日蓮が下種の折伏を以て弘教の方針とした」と
岩波文庫版の解説にはあるので考え込んでしまった。
聖書にも御名の故に憎まれるというのがあるが、それは当人も逃れられない事態であるのに対して、
常不軽菩薩なり日蓮の下種の折伏なりのやり方は、自分で控えようと思えば出来る行為であった。
そこが私の思想と違うのでどうもシックリ来ない。
41 :
耶蘇善財:2007/01/08(月) 19:42:24
教養の裾野の広さというのは、昔はまず概説書の他に用語辞典、大事典類を買ってくることからすべてが始まった。
つまり買った大事典の種類と数によって教養の裾野の広さが制約されるのである。
ところが今はインターネットで簡単に検索かけてWikipediaの該当項目と
そこからのリンクをたどって広げて読めば、それ相応に分かるようになるから様変わりといえよう。
気功だって昔は一子相伝だったりしたものが簡単に本で読めたり、教室に通うことで習うことができるようになっている。
神・仏・神秘の領域と思われていたことも実は「気」の力が正体であることも判明している。
密教・道教・古神道の行法は気功経験者から見れば気功そのものなのである。
トホカミエミタメ等見れば気功以外の何者でもない。
恐ろしい時代だとも思うがともかく、この時代に生まれた幸運を最大限に生かしたいものである。
42 :
耶蘇善財:2007/01/09(火) 02:17:43
この数ヶ月大変困っていることがある。
それは去年夏から家庭の事情で一人暮らしを始めたが、
せっかくの機会なので、飢えと寒さに強い身体を作るようにした。
具体的には(5年前少し前に)タバコをやめて以来実家でも自室で暖房をつけたことがない。
これを拡張して、今の一人暮らしでは、来客がある時以外は一切暖房を使わない。
禅寺でストーブに当たってぬくぬくしている雲水が登場する時代になったら私も暖房を使おう。
さて次に粗食を心がけ、身体が慣れてしまった。
するとたまに栄養価やカロリーの高いものを食べると、それがそのまま体脂肪になってしまうのである。
最近数ヶ月で重数キロも太ってしまって大変困っている。
そこで数日前からより一層の粗食にしてみた。
一日で野菜ジュースと竹輪だけの日とか、
多くて自家製発酵乳や蕎麦一把(乾燥重量100g)をそれに加えたりする程度にしてみた。
それでも一向に辛くないし、何より痩せる気配もない。
仮にも宗教研究者なのだから仙人みたいな身体になれるのも面白いかもしれないが、
私だってたまには駄菓子を食べる。カップ焼きそばや、ポテトチップスやピザなども
好きだし食いたい。
しかし食えばテキメンに太るのである。困ったものだ。
43 :
耶蘇善財:2007/01/11(木) 10:17:12
今日、いざ出陣。
クリスチャンである私の本格攻勢(←何のだw)の第一歩が始まるのだ。
44 :
耶蘇善財:2007/01/11(木) 22:17:10
河波昌先生のお宅へお邪魔してきた。
仏教学と西洋哲学を双修した方とはこのようなものかとその学識に驚いた。
かな〜り勉強になった。
というより私自身の、キリスト教史上の思想家の思想に対する無知を思い知らされた。
余談だが河波先生は裏千家茶道の心得がある。
45 :
耶蘇善財:2007/01/12(金) 20:50:16
記憶に残ってるささやかな話を一つ。
ヘーゲルについて質問した。
「ヘーゲルに飲み込まれるのが怖いんですが」と。
すると
「ヘーゲルは精神現象学の序論だけ読めばよろしい」
との回答。抱腹絶倒モノの大笑いさせてもらった。
46 :
耶蘇善財:2007/01/12(金) 20:58:19
あと先生(以後はK先生と記述することにする)はニコラウス・クザーヌスに造詣がお深い。
『De Visione Dei』(岩波文庫版邦題では『神を観ることについて』)は読むように言われた。
私のほうが耶蘇の癖に読んでおらずお恥ずかしい限りであった。
私の手元にあるものを確認したら、岩波文庫の前掲書と
平凡社ライブラリー『学識ある無知について』があった。
47 :
耶蘇善財:2007/01/12(金) 21:08:41
あと龍樹前後の大乗経典をかたっぱしから読めと言われた。
48 :
耶蘇善財:2007/01/12(金) 22:40:23
四種法界
事法界
理法界
理事無礙法界
事事無礙法界
---------------------------------------------------------------------
(杜順の『法会観門』の第一 真空観がこの理法界に相当する。
第二 理事無礙観
第三 周遍含容観
49 :
耶蘇善財:2007/01/12(金) 23:42:47
杜順の『法界観門』ですた。
どうもIEだと改行をあわせにくいな。
50 :
耶蘇善財:2007/01/14(日) 09:41:09
今日も出撃!
ただ悪い話もある。
ギリシャ哲学者O先生が癌再発(肺癌)で胸水が溜まって入院。
去年春定年退職時点ではあんなにお元気に回復なさっていたのに・・・。
この方のご発病から2年間祈り通してきたが、運命の問題もあるから、
私一人の力量不足とは一概に言えないのではあるが、物悲しくもある。
51 :
耶蘇善財:2007/01/14(日) 18:33:07
K先生の念仏道場(光明園)に行ってきた。
半分大学の授業みたいな説明もあったが(私はうれしいけど)、
あとまぁ念仏やってきた。
木魚をポクポク叩いて念仏するのは初めてだった。
念仏ってのは合掌してやるものだと思ってたので少し面食らった。
合掌は最も簡単な気功なので念仏の際にも合掌で行うのが良いと思うのだが。
52 :
耶蘇善財:2007/01/15(月) 11:50:18
・ 田中木叉『日本の光(弁栄上人伝)』(山崎弁栄氏伝記)
・ 河波 昌 『光の現象学』2003年。
河波 昌 先生1930年生まれ。
53 :
耶蘇善財:2007/01/15(月) 20:00:41
O先生は定年退職後、他の教え子たちには勉強を見ていた。
が、命の恩人である私には声をかけなかった。
「声をかけようとしていた矢先であった」
と言う話だが、それは意思・意向の問題であって事実ではない。
キリスト教では神は結果しか見ない。
「わたしはあなたがたを行いの実によって罰する」。
とあるが、私を筆頭に招くべきところを後回しにしたというのが「事実」なのである。
結局命の恩人である私をないがしろにしたことが癌の再発に繋がったのだろう。
「耶蘇善財君には悪いことをした」
と何度も言っておられたそうだし、実際今日お見舞いに行った際にも言っておられた。
だが耶蘇善財に悪いことしたからご自身の命に障りが出たということにお気づきでない。
腹立たしいやら物悲しいやら・・・。
54 :
耶蘇善財:2007/01/15(月) 22:12:17
55 :
耶蘇善財:2007/01/16(火) 23:25:16
消6の時に2つ下の妹の服一式を着込んでリカちゃんハウス広げておままごと
してたら、突然帰ってきた母に見つかり、大笑いされた。
(夕方帰ると言ったのに、美容院が閉まってたとかでいきなり帰ってきた)
叱られるわけでもなく、「そのまま遊んでていいよ」と。
更に帰ってきた妹にも嫌がられるどころか「一緒に遊ぼ♪」と言われて
そのまま遊んでた。
夜になって、帰ってきたオヤジに妹の友達と間違えられた。
実の息子と判ったとたん、これまた大笑い。
その後もちょくちょく妹の服着てたりしたが、ある日母親が
妹とお揃いのワンピースを買ってくれた。
めちゃ嬉しくて、妹と並んで記念撮影してもらったっけ。
もちろん、その後も家族公認で、今も女児服&女性服着てます。
大学以降は表にも着て出るようになったし。
-----------------------------------------------------------------------
(見つけたコピペ保存のため、私の話ではありませんw)。
56 :
耶蘇善財:2007/01/17(水) 23:27:09
自分は今までの人生で何人もの一級の先生に師事してきた。
華厳経「入法界品」の善財童子は53人の善知識から学ぶ話である。
だから私のように何人もの先生につくことも、異教徒の先生に師事することも
華厳経の視点からは正しいことになる。
私こそがまさに善財童子を地で行っていることになる。
57 :
耶蘇善財:2007/01/19(金) 07:25:52
耶蘇善財は太った。
生活態度を改めねばならん。
道元禅師清規 [赴粥飯法(ふしゅくはんぽう)]を読んで気合を入れようかと思った。
旧字体の文語で結構手間取る割には、夢中になって読みふけった。
気がついたら夜が明けてた。
これも華厳経浄行品と重なって見えてしまう。
というかそういう発想が自然と出来るようにならなければ駄目だろう。
低い現金収入も、乞食(こつじき)を受くる者の心得と重ね合わせて見なければ駄目だろう。
58 :
耶蘇善財:2007/01/19(金) 20:45:38
私は曹洞宗系の高校に三年間在学した。
弟はそこに中学から6年間通った。
弟の卒業式の日、彼の同級生らは自発的自然発生的に肩を組み、校歌を高らかに歌った。
それを見た校長が大変感激したという。
…私はこの話を聞いて非常に苦々しく思った。
どこがおかしいのか分かってないから問題なのだ。
スクラム組んで校歌を歌ってる彼らがいったい道元禅師から何を学び取ったのか?
それが全く看過されているのである。
これは『臨済録』に言う「客が客を看る」という奴である。
苦々しい限りである。
59 :
耶蘇善財:2007/01/22(月) 01:19:55
60 :
耶蘇善財:2007/01/22(月) 20:18:32
中国仏教:円覚経
朝鮮仏教:華厳経
日本仏教:法華経
日本は法華経ばかり、ウンザリだわ。
61 :
耶蘇善財 :2007/01/23(火) 18:48:46
62 :
耶蘇善財 :2007/01/24(水) 21:25:30
食事前に道元禅師の『赴粥飯法』中の「五観の偈」を読もうかと思った。
理由は、この習慣をつければだらしなく食う癖が直るだろうと思ったからだ。
確かに間食や、ポテトチップス等のジャンクフードを食いにくい。
63 :
耶蘇善財 :2007/01/24(水) 23:50:15
角川ソフィア文庫(旧「角川文庫ソフィア」)で「仏教の思想」という12巻本のシリーズがあった。
元は昭和43年角川書店刊行、の文庫化板である。
どれも三部構成になっていて、第一部が専門家による概説、第二部が3人の鼎談、第三部が哲学者による執筆。
これで文庫本一冊のバランスが上手に取れる構成になっている。
さて私の"偏狭さ"とは何か?
人間というのは自分の事実にすらなかなか気付かないものである。
1996〜97年頃に買った時、全12巻中買ったものは丁度半分の6冊。その内訳は、
3 『空の論理』<中観>
4 『認識と超越』<唯識>
5 『無の探求』<中国禅>
9 『生命の海』<空海>
10 『絶望と歓喜』<親鸞>
11 『古仏のまねび』<道元>
64 :
耶蘇善財 :2007/01/24(水) 23:50:47
去年(2006年)になって残り6冊を慌ててまとめ買いして全巻揃えた。残り6冊の内訳は、
1 『知恵と慈悲』<ブッダ>
2 『存在の分析』<アビダルマ>
5 『絶対の真理』<天台>
6 『無限の世界観』<華厳>
8 『不安と欣求』<中国浄土>(「ごんぐ」と読む)
12 『永遠のいのち』<日蓮>
である。アビダルマは倶舎論そのものである。
<唯識>の巻を買ってなぜ倶舎論を買わないのか?
「唯識三年倶舎八年」という言葉を聴いたことはあったはずなのに、
アビダルマ=倶舎論と知らなかったのである。
そして更には<華厳>をなぜ買わんかったのだ!
後の(現在の)私の仏教への関心の焦点は、まさに華厳経である。
まことに無知とは「無恥」でもある。
65 :
耶蘇善財 :2007/01/25(木) 00:18:20
五観の偈<赴粥飯法より
一つには功の多少を計り、彼の来処を量る。
二つには己が徳行の全欠を忖って供(く)に応ず。
三つには心を防ぎ過(とが)を離るることは、貪等(とんとう)を宗(しう)とす。
四つには正に良薬を事とするは、形枯(ぎょうこ)を療ぜんが為なり。
五つには成道の為の故に、今此の食(じき)を受く。
以上岩波文庫版を主に参照。
以下解説は講談社学術文庫版より。
「貪等」とは貪・瞋・痴の三毒のこと。
「形枯」肉体がやせ衰えること。
66 :
耶蘇善財:2007/01/27(土) 23:43:04
67 :
耶蘇善財:2007/01/28(日) 00:48:33
今日は2食ともに五観の偈を唱えるのを忘れた。
いかんなぁ。だらしがない。
68 :
耶蘇善財:2007/01/28(日) 00:51:00
さっき友人が帰った後、晩飯食ったら急に眠くなり、眠りこけてた。
睡眠を貪るのも三毒の一つだろうが、持病で薬飲んでるので眠いのは仕方がない。
こういう時は思い切って寝て、それから起きて読み物すればよい。
69 :
耶蘇善財:2007/01/28(日) 00:53:04
1月29日午前10時(棚卸直後)から近所のスーパーで冷凍食品4割引セールをやる。
忘れないようにしないといかん。今月は食費がピンチなので。
25日に薄給が入ったばかりなのに・・・(つД`)
70 :
耶蘇善財:2007/01/28(日) 01:38:33
華厳経に早く入りたいのに、未だ概説書読みなどが終わらない。
ウズウズしているが仕方ない。早く読もう。
71 :
耶蘇善財:2007/01/28(日) 02:51:22
窓を開けていてもなかなか室温が下がらない。
困ったものだ。
72 :
耶蘇善財:2007/01/28(日) 15:47:08
鬱狸氏から宿題を出された。
Wikiの「華厳経重要概念」の項目にいくつか挙げておいたので後は自分で解説を書くように、
というものだった。
これを見た私は昔大学一年生の頃の話を思い出した。
それは一般教養社会学の時間だった。
その先生がいうには「社会学を修める為には先ず用語事典で重要語の500項目ばかり
覚えてしまうことです」と習った、というものである。
確かに一つの概念を調べていけば、そこから芋づる式に他の概念が登場する。
そしてそれは途中から原典に当たらなければならなくなることをも意味する。
勉強とはそうやって進捗していくものなのだろう。
話は変わるが『華厳五教章』を発注した。
これは法蔵による仏教概論なので、頗る難解であろうが、読むに値するものであるだろうし、
これを通過することは、華厳経を学ぶ上で重要な一里塚となるであろう。
・・・少なくとも品切れになる前に入手しておこうと思い、発注した。
これで今月の財政もますますヽ(゜∀゜))ノアヒャヒャ状態であるが、これも道の為である。
73 :
耶蘇善財:2007/01/29(月) 15:51:07
冷凍食品の4割引セールをやってた。結構買い込んだが、3168円で済んだ。これで既に備蓄してある糧秣と合わせれば今月25日までなんとか生きられるか?
貧乏人なのにネットオークションで中古のデジカメ1000円と安かったので落札できたが、送料と振り込み手数料で結局1780円になってしまった。
相手方がイーバンクしか受け付けない(「ぱるる」も利用不可)ので数百円も損した。
入札した理由は、単三乾電池が使えることとWinMEよりも後に出た(2001年製)というのも決め手になった。
しかしこれでもMy親父の持ってる2000年秋製モデルにはスペック面では劣る。→は私の今回のもの。
http://www.phileweb.com/news/d-av/200108/13/2881.html 本当は中古だろうが、親父の所有するものよりも高いスペックのものを入手しようと心に決めていたのに、結局仕事上の都合その他等でデジカメなしは自動車運転免許を取ってないことよりも不便な生活を強いられていたので、仕方がないのだ。
ただ自分は理趣経に特に暗いので、Amasonで
法蔵『華厳五教章』に加えて、
大栗 道栄『図説「理趣経」入門―密教の核心』、
松長 有慶『理趣経』、
まで注文してしまった。
2月9日には「一太郎2007」が届くというのに・・・。
一人暮らし板を見て参考にするか、それとも道元禅師清規等によって、粗末な料理に甘んじるか?この数ヶ月で急に太ってしまったので、ウェストが入らないズボンが多い。だから暴飲暴食を防ぐにも丁度良かろう。
ちなみに蕎麦はうどんよりも単位乾燥重量あたりの蛋白質含有量が多い。
74 :
耶蘇善財:2007/01/29(月) 16:45:45
私はだいたい十二時間に一回程度食事を取る。
最近は4時と16時頃が多い。
食事回数が多いと祈りの時間が取りにくくなる。
一日24時間中で空腹の時間をなるべく多くしたいのだ。
だから二食。
75 :
耶蘇善財:2007/01/29(月) 16:56:01
暴飲暴食は糖尿病の元。
そして糖尿病は、失明の可能性がある上、
合併症として脳梗塞(脳卒中)や心筋梗塞を誘発する可能性が高い。
私は学問できなくなったら祈り以外にできることがないので、
目だけは大切にしたい。だから緑内障も怖い。
ともあれ蕎麦一把に抑えて食事してきます。
76 :
耶蘇善財:2007/01/29(月) 17:36:15
やっぱり米飯炊くことにした。"やずや"の「16穀米」というのを使っている。
これで雑穀を取れるので栄養価がグンと上がる。
「一日30品目食え」と栄養学の世界では言うそうだが、私の場合、
内容面で貧相な食生活しているのでやめられない。
ちなみに曹洞宗大本山永平寺では入った雲水は最初の一週間で全員が脚気になるという。
その後は身体が適応するのかどうか分からないが、
天台比叡山の修行僧で山を山岳修験者のように行している僧もあるというが、
この人の食事も近代栄養学からはとてもじゃないが必要カロリーをまかなえてないそうだ。
南米だかどこだかで芋しか食わないのに、男たちは筋骨隆々の部族がある。
彼らは大腸に特殊な菌がいて、窒素等から蛋白質を合成しているのだ、という噂もある。
それにしても早く2月9日になって一太郎付属のATOK使いたい。
MS-IMEは作業効率を下げてくれるのに本当によく貢献してくれてる。
やる気ないんだろね。
77 :
耶蘇善財:2007/01/29(月) 17:41:31
レイキ創始者の臼井 甕男(うすいみかお)氏は
21日間の本断食をして最後の満願成就(するはず)の日に、色々な記号や文字などが
空海の逸話と似た仕方で自分に飛び込んできたのを見たという。
そしてそれからは手を当てた患部が治せる癒しの手を持つに至ったという。
つまり本断食しながら瞑想するということが、身体からは非常事態として受け取られ、
何とかして外界(/宇宙/天)からエネルギーを直接取り込もうとして、それで
ヒーリング能力が付くのではないか?と思うのだが。
ちなみに空海も若い頃本断食しながら瞑想していた。
78 :
耶蘇善財:2007/01/29(月) 17:46:58
79 :
耶蘇善財:2007/01/29(月) 18:02:23
すんません、間がぬけてましたね。
「あるユタの隣人が創価学会に入信した。
すると途端に隣家から強いエネルギー(気であろう)を感じるようになった」という。
創価学会員はそれをご本尊様から出てくる力だと考えるのだろう。
だが、真相は全く異なる。力の源は"ご本尊様"ではなく、
あくまで合掌という名の気功による「気」によるものである。
つまり創価学会員たちは赤子と産湯を取り違えていることになる。
80 :
耶蘇善財:2007/01/30(火) 01:02:38
23時過ぎ、デスクの机で居眠りしてる自分に気付き、寝室へそのまま行った私は眠り始めて数十分後、
なんと電話に叩き起こされた。
実家の姐御が「メールの送受信ができない。インターネットの接続もできない。父に訊いても解決しない」とのこと。
2月4日に実家へ行く(家族での食事会で)予定があるので、そのついでに見てくれと!
まぁ一週間もネットもメールもできないんじゃ気の毒だから数日内に行ってあげようかとも思う。
・・・お陰で目が覚めた。
鎌田茂雄氏の『華厳の思想』、まだ読みかけなので続きでも読もう。
81 :
耶蘇善財:2007/01/30(火) 17:42:39
『図説「理趣経」入門―密教の核心』が届いた。
自分としては『華厳五教章』を先に欲しかったが・・・。
82 :
耶蘇善財:2007/01/30(火) 19:17:26
実家の姐御のPCのインターネット接続不能は、My父が直したようだ。お陰で出張せずに済んだ。
それはいいとして、どうも読書/学問というのは祈りの時間を削る傾向がある。
副業で生活費を稼いではいるが、私の本業は学問と祈りである。祈りも私の重要な本業なのだ。
なぜかというと私は他人が思いつかない祈り方が閃いたりするので、
私が祈らないと世の為人の為に良くないと思うからである。
Windows Live Space (
http://yazozenzai.spaces.live.com/)にも書いたが
私は華厳経を学びたいという執念はあるがキリストに対する態度はいささかも変更はなく、
私が「卒業クリスチャン」(武田清子)になることはないであろうと思う。
83 :
耶蘇善財:2007/01/30(火) 23:39:55
WindowsではMS-IMEを未だ使ってるわけだが、般若心経・理趣経・法華経・華厳経は
一応一発変換できている。と思ったら「理趣経」は単語登録してあった。
それはともかく、理趣経は呉音ではなく漢音で読むんだそうで・・・。
84 :
耶蘇善財:2007/01/31(水) 17:56:53
ワープロ時代から思っていたのだが、
仏教絡みで何が辛いって、お経の正式名称一つ打ち出すにも厄介な点だ。
ATOKを使っていても事情はあまり変わらない。
更にお金出して辞書付きとか買わんといけないのだろうか?
易経の64卦すらPCで持ってる文字では全部は表示できない。
「44.天風[女后](てんぷうこう)」←こんな感じでごまかすしかない。
MS社が数年前ある文字を2文字新製品(Officeだったか?)から削除したことがある。
それは「卍」とナチスの鍵十字(ハーケンクロイツ)である。
しかし削除はおかしくないか?
卍が削除されるのは仏教関係者にとって迷惑以外の何ものでもなく、
ハーケンクロイツだって批判/非難の対象としては必要でしょう。
85 :
耶蘇善財:2007/02/01(木) 04:10:08
法蔵の『華厳五教章』Amasonに発注出してるが何時届くのかが未定。
これが手に入らなかったら非常に困るのだが。
86 :
耶蘇善財:2007/02/01(木) 04:22:52
鬱狸氏から
「月刊誌「大法輪」に竹村牧男先生の五教章講義「重々無尽のいのち」が連載されているからコピーでも取ったらどうか?」
と勧められた。
そうか雑誌があったか・・・、すっかり失念していた。
キリスト教世界でこそ(無冠の)帝王だが、仏教界では二等兵の耶蘇善財であった。
87 :
耶蘇善財:2007/02/02(金) 22:35:58
「Windows Live Spaces」は従来のMSNコミュニティよりも使いやすい面があり、
私は最近MSNコミュニティは例外的なものを除いてほとんど使わなくなった。
あと華厳経の勉強が忙しくなったので、興味本位で入っていたコミュニティもあらかた身辺整理の為に退会してしまった。
人生はなにごとかを成すには余りに短すぎる。
先日1930年(昭和5年)年生まれの老先生が「歳取ってる暇がない」と笑っておられたが言い得て妙かと思う。
で、小生は今日何をしていたのかというと、なんと「Windows Live Spaces」のブックリスト作成だった。
自分でも何やってるんだかとは思うが、気功本を加えたら膨大になってしまった。気功本だけでも未だ一部だけなのに…。
気功本をリストに入れる理由は、私の足跡である「宗教と気功」の関係についての文章をLivedoorsWikiで書いているので、
その関係で入れた。気功本だけで膨大になってしまった。
あと高僧/聖人/仙人列伝の類を書いた。結構読んでるものだ。こういう本は他宗教の人の伝記でも他山の石として大変参考になり、
また頭が下がる。
さてここまで話が来ると当然弘法大師空海の伝記が出てくるが、
これは空海だけで別リストを作成することにした。
空海伝だけでも膨大なのんだから、空海単独のリストにしないと見る人が読みづらいだろうと思う。
で、華厳経関係だけは自分の持っている本は網羅したが、
でこれAamasonとタイアップしているので入力が激しく楽で助かる。
驚いたのは非売品のはずの本がなぜかどこかの古本屋などにあったりというのがネット販売のリストに出ていたことである。
ある意味ショックだった。非売品として印刷される本というのは概して仲間内向けに刷られるものである。
遺族が処分したとも考えられるが、それにしても釈然としない気持ちになった。
88 :
耶蘇善財:2007/02/02(金) 22:37:09
ただ「ブックリスト」に単に自分の書棚の本を羅列していく人がいるが、
これでは単なる自己満足に過ぎないと思う。要するにに「オレってこんなにたくさん本読んだんだぜ!」と
赤の他人から言われて何の利益や快感があるだろうか?
見る人にとって全く何の利益もないのだ。そうではなくて、
「この分野ならこれを読んだがいいですよ」って方針を立て、それに基づいて書くことを格率とすべきであろう。
それはそうとトイレが詰まってしまった。
明日友人が(同性ですw)が遊びにくるのに…。
スッポンを使っても駄目。どうしたらいいんだろ…。
あのトイレ非常用スッポンは「スポイト」というそうで、理科の実験に出てくる。
5cc程度しか水分が入らないプラ製の10円のスポイトばかりではなかったのだ。
世間って広いんだなぁと改めて思った。
89 :
耶蘇善財:2007/02/02(金) 22:44:09
ところで件の「Windows Live Spaces」の編集作業は、
440BXの双発機(700MHz*2),PC100(reg付きECC)1GB,では非常に重い。
仕方なく、ServerSetIIIの866MHz*2,PC133(reg付きECC)1.5GB, のマシンで今書いているが、
こちらのほうが確かにスムーズだ。
440BXは癖がないところがいいのだが、だんだん単なるネット上に書いたものを編集するだけでも非力となり、
時間を無駄食いするようになった。困ったものだ。
90 :
耶蘇善財:2007/02/02(金) 23:14:38
明日友人が遊びにくる準備をしなければならないので、
(掃除するとかシャワー浴びるとか食器洗いとか…)、
結局ブックリストの「弘法大師空海」は日曜日以降になるだろう。
同じく、気功関係(特に密教・道教・古神道など宗教絡みのもの)も後日ですね。
91 :
耶蘇善財:2007/02/03(土) 20:51:42
紀野一義「名僧列伝〈4〉一遍・蓮如・元政・弁栄聖者 」講談社学術文庫、
の存在を昨日知り、あわてて発注した。三冊で終わりだと思っていたのである。
お恥ずかしい限りである。
92 :
耶蘇善財:2007/02/05(月) 19:55:15
2週間ぶりに体重を測ったら3kgほど減っていた。
やはり節食の効果はあったようだ。
自分は糖尿病を調べたら、糖尿病が引き起こす合併症の数々への恐怖心に駆られて、
それが暴飲暴食への歯止めになっている気がする。
そしてもっと言うならば、宗教の専門家たらんとする者には、
酒/タバコ/セックスの節制のみならず、食事までも修行僧らしい生活を
天(でも神でも)から課せられているのではないかとすら思うようになった。
実際私は糖尿病を罹患している僧侶を何人も見ている。
93 :
耶蘇善財:2007/02/06(火) 00:50:28
9日の日にWindows版一太郎2007が届くことになっていることを思い出した。楽しみだ。財布は軽くなるがw。
しかしそれにしてもコンピュータ上での作業というのは時間をあっという間に過ぎさせてくれる。困ったものだ。
それはともかく私は自分の宗教論の体系を完成させるために華厳経を勉強している。
空手の達人、極真会の大山倍達は「俺は強くなった」と思った瞬間が3回あるという。
一回目は山籠もりから降りてきて電柱に突きを入れたら、
電線に止まってる鳥が地面にぶつかる寸前まで飛び立てずに落ちてきたという時である。
2回目は香港で陳氏の元で攻防一体の交差法を学んだ(なんと一週間で極意を会得したという)時であり、。
3回目は田園調布のコロシアムで牛と対決しようとしたとき、牛が大山の目を見たらなんと逃げ出した、
ところが弱虫の牛などというのは存在しないそうで、勝てると見るや挑みかかってくるそうである。
つまり大山の目つきを見ただけで牛は怯えたのだ。
私はこの生涯で宗教の理解についてステージが上がったと感じたのは2回である。
一回目は1998年秋のある日、一瞬にしてそれまでの知識やイメージが有機的に組み上がっていった気がした。
そして「あ、宗教ってこういうものか」と思ったのを記憶している。
2回目は1999〜2000年にかけての私の身辺での事件で、その事件を創世記から黙示録までの
聖書正典66書を駆使して、事件を完全に解読し尽くした時、
「あ、キリスト教ってこんなものか」
と思った記憶がある。
一回目は「宗教」で二回目は「キリスト教」である。三回目が私が今生生きている間にくるのか、
来たらそれがどんなものか私は想像が付かない。楽しみではあるが、ともかくも読まねばならない東西の文献がたくさんある。
今はともかく華厳経のみにに没頭したいところである。
94 :
耶蘇善財:2007/02/06(火) 00:58:02
それにしても気になるのは、明恵上人の「厳密」と空海の『十住心論』の相違である。
何がどう違うのだろうか?
空海は第8段階に天台法華宗をおき、第9段階に華厳宗/華厳経を置いた。
もちろん第十段階に真言密教をおくわけだが。
華厳経というのは内容は豊かなのだが、「では何をどう実践したら良いのか?」がないのである。
まるでダルマのようなものだ。そこへ明恵は密教を持ってきた。
空海も真言密教を置いた。
私の場合は当然の事ながら祈りである。
95 :
耶蘇善財:2007/02/06(火) 01:54:16
数日ぶりに華厳宗に命をかけたいスレを覗いたら私の悪口が書かれている。
私は高校生の坊やから「全キリスト教徒の敵」と言って頂いたこともある。
よくよく言っておきますがこういう人たちがキリストを十字架にかけたんですよ。
「あなたがたを殺す者がみな、自分たちはそれによって神に仕えてるのだと思う時が来るであろう」
ヨハネ伝16章2節。
キリスト教の帝王を自称するのにも相応の理由があるんですが、
感情的に反発してる暇があったら、もっと理詰めで考えたらどうかと思うところである。
イエスの墓標にかけられた札もまた「ユダヤ人の王」ではなく、
「ユダヤ人の王と自称していた」になっているわけですね。
まぁ私の正体については河波昌先生にはキチンと話してあるわけですから。
私は(哲学神学問わず)師事する先生には自分の正体をちゃんと明かします。
96 :
耶蘇善財:2007/02/06(火) 18:37:18
法蔵の『華厳五教章』がまだ届かない。
Amasonさん頼みます。早く届けて欲しい。
注文をまとめてしまったのがいけなかったのか?
華厳五教章だけは何が何でも入手したい。私はジリジリしている。
97 :
耶蘇善財:2007/02/07(水) 04:41:25
2ちゃんねるには宗教板があり、隔離板として創価学会板がある。
そしてこの神社仏閣板があるわけだが、宗教板はハッキリ言って「気」が穢れている。
それに比べて神社仏閣板は気が比較的清浄である。
宗教板なんぞ行くもんじゃないですね。ホント。
98 :
耶蘇善財:2007/02/07(水) 20:34:13
ところで別スレ(華厳宗スレ)で私に暴言を吐いた華厳命氏は今後運命が暗転するであろう。
気の毒だが仕方がない。私が悪いわけではない。
ここで宗教の素人は私は呪いをその人にかけるのだと考える。
宗教の本当の専門家というのは恐いものです。
私に対してとった態度がそのまま自らの明暗を決めるのですから。
99 :
耶蘇善財:2007/02/08(木) 00:35:07
「素人は私は呪いを」→「素人は私が呪いを」に訂正。
さて『華厳五教章』が漸く発送準備に入ったようだ。
Win版一太郎2007が9日に届く予定なので、それとダブルかもしれない。
どちらにせよ楽しみである。
【ハニャーン心経】
とにかくみんな空(クウ)なにょな。そう思えばつらいことも何もないにょだYO!
モノが在ると思ってもその実体は無いわけだし、
実体が無いようなモノも在るように見えるものだにょ。感覚知覚するのもそういうもにょなの。
とにかくモノ・感覚・知覚、みーんな実体がないわけだから、生まれもしない滅びもしない、
汚くもならない浄くもならない、増えもしない減りもしない、当たり前の話だゴルァ。
実体がなく変化も無いんだから、縁起なんて表面的なこと、実体など無いわけでして、
無明がどうとか老死がどうとか、もう言うだけ無駄。悟りとか悟りを得るってことも無かったわけだ。
こう思えば何にも考えなくてすむし、考えないから怖いものナシ。
考え違いもないからもう究極だあーヽ(゚∀゚)ノアヒャ 。
ブッダというのはみーんなこんな風な修行をしたわけで(ホントか)、
それで究極の悟りを得たと(なんだ結局得たのかよ)。
まー智慧の修行ってこういうわけのワカランものだから、
もまえら愚民たちは最強のマントラとしてこのお経を繰り返し唱えるぐらいが関の山ってわけだ。
じゃあ唱えるぞ。
「逝ってよし、逝ってよし、もまえらみんな逝ってよし。漏れもなー」
ハニャーン心経
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以上面白いモノを見付けたので記録コピペ
昨夜は妙な夢を見た。
3時半に目が覚めてしまって起床してしまったが、それはよいとして夢の内容である。
「経/律/論」の三つを修めたという意味で三蔵法師という諡号になるんだとか、
「大智度論」は仏教の百科事典みたいなものだとか私がシタリ顔してしゃべっているのである。
お恥ずかしい限りである。
102 :
鬱狸 ◆2qu5tVDKNg :2007/02/08(木) 18:24:10
>ところで別スレ(華厳宗スレ)で私に暴言を吐いた華厳命氏は今後運命が暗転するであろう。
という書き込みを拝見いたしましたが、いかなる真意によるものでありましょうか。
まるでカルト教祖のいうようなことです。正直言ってこんなことをおっしゃる方とは怖くてお付き合いできかねます。
う〜ん、そうですねえ。
一応聖書の根拠としては、神がアブラハムに(創世記12:3)、イサクがヤコブに(創世記27:29)下記のようなセリフを言う場面が登場します。
「あなたをのろう者はのろわれ、あなたを祝福する者は祝福される」
やはり他人を妄りに侮って暴言を吐くのは好ましくないと思います。
私は「道徳」ではなくて一貫して「宗教」にしか興味ないんですが。
その「宗教」の視点からですね、暴言を他人に浴びせるのは、
その言動行状そのものがそのまま己れを損なう行為であると言いうるのではないでしょうか。
また宗教というのは決して観念上の遊技にあらずして、実際に事物が動くんですね。
だから密教僧らが「どうせ俺たち好ましくないは現世利益だから」と自嘲するのは間違っておろうと思います。
現実に力を行使して、世のため人のために行うのが密教僧の正しい道であ
ろうと思います。
私は不思議と立派な先生方に師事することを得てきました。先輩方にも恵まれてきました。
そして性質の良くない人とは不思議と自然に疎遠になってきました。
今よりももっと若い頃にそれに気付き、「なぜなんだろう?」と自分でも不思議に思っていました。
ただ道の為に無になるまで己れを捨てきって生きてきたつもりではあります。
そうでもしないと到底自分はこの人生を生き延びることはできないだろうと思ったからです。
すると今度は人間の「自由意思」の問題が出て参ります。果たして人間に自由意思はどこまで存在するのだろうか?
という古典的な哲学上の問題です。
鬱狸さんがご覧になった私の書き込みを、私が書かなくても事態はそのように動いていくでしょう。
そしてそれは私が自分で何か操作(呪い等)しているわけではなく、勝手にそうなっていくのです。
自分でしているわけではないので、私自身ただ眺めていることしかできないわけですが。
もし事態を好転させたいのであれば、その方が何らかの贖いに相当する行為を行うことでしょう。
ケースバイケースですが、まぁこの場合華厳経を日本で広めるのに協力しあう意思を持つとか(一例ですが)
まぁとにかく何か協力するとかでしょう。
急いで申し添えれば、鬱狸さんが、耶蘇善財ともうつきあいたくないとお考えになっても、
別に身辺に悪いことは何も起こらないと思います。
なぜって私は鬱狸さんから良くしてもらったという事実があるだけであって、何も悪しきものを受けていないのが事実だからです。
だからご心配は不要です。
もし付き合いを断ちたいということでしたら、安心して付き合いを断っても大丈夫だと思います。
「華厳経を学ぶ上で良き先輩に出会えた」と喜んでた矢先のことなので、大変残念ですし、悲しく思いますが。
御意志の通りになさって大丈夫です。保証できます。
既に書いたとおり私自身は何もしない(私は決してなんぴとにも呪いはかけない)ので、
私の意向ではなく、推論を書いているだけですが。
「だから密教僧らが「どうせ俺たち好ましくないは現世利益だから」と自嘲するのは間違っておろう」
→(好ましくない)を削除。
106 :
鬱狸 ◆2qu5tVDKNg :2007/02/08(木) 21:48:43
一応の「理屈」としては分かりました。
結局のところ、耶蘇様の公理体系が「聖書」であり、私の公理体系が「世間常識」である以上、やはりなかなか難しいものがあります。
華厳命氏の発言はたしかに粗暴にして礼を失する面がなきにしもあらずですが、批判の内容は当を得たものだと思います。私も機会を見てご忠告申し上げようかと思っていたところです。
そこであの発言です。あなたの内面では、筋の通ったことをおっしゃったつもりかもしれませんが、これを読む側に大変な恐怖を引き起こすのです。
このようなことをおっしゃる方とは、お付き合いしたくないというのが正直なところです。
107 :
鬱狸 ◆2qu5tVDKNg :2007/02/08(木) 21:53:00
重複になりますが、華厳命氏は自ら言いたいことを言ったわけです。
そしてそれに対して私は特に何もしませんが、何が起こるかは推論できます。
更に加えますと、ひょっとしたら今回の件が契機になって、
華厳命氏と私が(当然そのときは華厳経の周辺でしょう)協力関係になるための
「雨降って地固まる」プロセスの些細な出来事に過ぎないかもしれないわけです。
だって明らかに華厳命氏は私よりも華厳経に詳しい方なわけですから。
与えうるものを持ってるわけです。
与えるものを持ってなかったら、そもそも購わねばならない言動をしなかったかもしれません。
だから先ほど申した人間の自由意思の問題になるわけです。
ついでに申し添えますとキリスト教の時間観念は「将来から現在へ」と流れてきます。
「過去→現在→未来」という時間観念は仏教のものですね?
私のこの歳になるまでの短い人生でも、物事の動き方に随分と考え込まざるを得ない事がたくさんありました。
そして一切の事物・出来事ははみんな繋がってるんだなと。
普通に暮らしてて自分に見える部分も見えない部分もみな繋がって、物事が動いていくんだなと強く思う(いや確信する)ようになったのが
2000年秋頃でした。
それはカントのアンチノミー論の一方の「因果連関の無限の系列」というイメージではなく、
ひょっとして自分の抱くようになった世界観は華厳経に酷似しているのではないかと思うようになったわけです。
ただ俗な部分も多々持っていますし、また機が熟していなかったというのが真相でしょうか、
数年間概説書一つ読まずに放置しておりました。
それが急に狂ったように華厳経の周辺をネットなどで漁り始めたのが2006年(去年)秋でした。
何か内なる力が湧き上がってきて、それがなぜなのかは自分でも理由が分からないほどです。
話は大分逸れましたが、私はここで鬱狸さんに去られても恨みはいたしません。
とても残念には思いますが、恨みはしますまい。恨むわけがありません。
短い間ですが本当にとても良くして頂きました。ありがとうございました。
>>106 108の投稿後に読みました。
お話は了解しました。私にはどうすることもできません。
どうぞ何もご心配なく、小生のことは奇麗サッパリと忘れていただいて大丈夫です。
ごめんください。
[補足]
「鬱狸さんの身辺に悪いことなぞ起こらない」と書きましたが、
それのみならず、良きものを与えて下さったのですから、
何か良いことが起こると思います。
具体的にどんなことかは蓋を開けてみないと私にも分からないです。
更に・・・
今更ではあるが、鬱狸氏のご指摘を受けて、少し思うところもあり、ブログに書いたことを一部改変した。
改変前のものを読んだ人の記憶は消えないのは当然であるが、
鬱狸氏の指摘によって思うところあったことの"しるし"としてそれを行った。
元々私は世に名前を知られるのを好まない。
実はその手の野心はないのである。
一生涯、知ってる人だけが知ってればそれでいいじゃないかとも思う。
だから指摘を受けた部分について改変することにあまり抵抗はなかったというのが正直な実感である。
それでは私が華厳命氏から浴びた暴言はどうなるのか?だが
それは事態がどう推移していくか私自身も見守る他ないのである。
登場人物の全員に「雨降って地固まる」という結果になれば最高だと思うのだが。
こんな妙な時間ではあるが、まぁ比較的時間に融通のつきやすい立場ではある。
金銭の融通はつかないが(苦笑)。
さて、こんな時間になってしまったのは当然だが、私が鬱狸氏に与えた"恐怖"である。
つらつら考え事もしてこんな時間になってしまったが(眠れるわけがない)、要するにこれは私が悪いのである。
不注意なのである。色々反省もしてはいるが、氏に今後なんらかの災いを
もたらすことだけはないと確信と断言はできる。
人間関係私も人波に波乱もあり、この歳まで生きてきて(といっても未だ若造だが)、
「それは警察に言ったほうがいいんじゃないか」と言われる災いもあった。
週刊誌ネタに十分なり得るほどの事件もあった。
ただ自分を省みて「私は他人を滅ぼす為に生まれてきたわけではない」ということは頻繁に思う。
単にその力がないという意味ではなく、どんな使命を背負って生まれてきたのかという問題である。
私がこの世に現実に生きていて、それが単に災いをもたらす存在でしかないのなら
私は死んだ方がマシである。本気でそう思う。
ただ(一般論として)私は他人からナメられやすいところがある。
そんな私に仏教に詳しい(リアルの)知人が法華経の「常不軽菩薩品」を読むよう勧めてくださった。
もう何年も前の話である。
時々この品だけ読み返すのだが、読むたびに何とも言えない気持ちになり、また
その知人がどういう意図で私にそれを勧めたのか尋ねるのも憚られる。
そんな「常不軽菩薩品」。今後も何度も読み返し続けるのだろうと思う。
他人から侮辱されるのには慣れてるのでスルーするのは簡単だが、
他人様から恐怖されるのは珍しいので、仮眠して起きた後も今日一日色々思いが乱れる。
(元より相手が悪いのではなく私の不注意である)。
「おのれを高くする者は低くされ、おのれを低くする者は高くされるであろう」
と福音書には何度も出てくる。
しかし私が自分の背丈に見合った発言をすると傲岸不遜と言われ、謙遜すると相手は真に受ける。
「これはどうしたことか?」と私は訝しく思う。
私はまた暴言も浴びやすい。
あれはとんだ暴言だったと後で恐縮されることも頻繁にあるのだが、当人としては決して面白い事ではない。
経済学の景気変動の周期には大・中・小様々のものが矛盾無く整合性の取れた仕方で、同時並行で進んでゆく。
同様に私も同時並行で大きな事から小さなものまで起こる。
しかし人生の中でも大きなものは数十年単位になるわけだから、
「一体いつまで安く見られたままで居続けるのか?」と日々生活しながら答えを延々と待ち続けることになる。
聖書は「耐えて待て」としか教えないのだから、これまた辛い。
そもそも聖書というのは旧約も新約もちっとも哲学的でない。
対して、高校に入学して初めて仏教に接して何に驚いたかというと、仏教の持つ高度の論理性であった。
高校時代に仏教学者三枝充悳先生と岸田秀の対談『仏教と精神分析』(当時小学館、1500円。今は創価学会系の第三文明社?)の記憶は今も鮮やかである。
あれは高校生のポケットマネーからは痛い支出だったが、仏教という高度に哲学的な宗教が高校生にも理解できる対談形式で
話が進行していくので分かりやすく、仏教をもっと知りたいという思いを強く持たせたうちの一冊であった。
話は逸れた。
聖書の「(今の屈辱を)耐え忍んで(結果を)待て」ではどういう仕組みになっているのかが説明されていない。
だからこそ華厳経を学ばなければならないのである。
小さな事だと短いスパンで事態が収まるべきところに収まる経験は何度でもしている。
そこで登場願いたいのが華厳経なのである。私の中小の出来事が自身の既に経験で知ってる結末に終わるなら、
数十年単位の大きな出来事も同じ仕組みで動いていくことに、私自身が納得を得たいのである。
そもそも人は自分の生き延びる為の事なら死にものぐるいになれる。
私のWindowsLiveSpaceでの書評が妙にに気功本だらけなのも、「祈り」という作業に納得を得たい一念故であった。
ここで急にフッとおもったのだが、華厳命氏は確かに私に暴言を浴びせはしたが
(氏の言葉遣いが上品でないことには特に私は拘らない)、
その結末は単に「自分が他人に対してなしたことが、そのまま御自分に返ってきた」
という結果に終わるに過ぎないかも知れないのである。
とにかく時間の経過を待たねば私には本当に分からない。
そしてその出来事からその人が(誰であっても)何事かを学び取れればそれで良いだろう。
それ以外に何があるというのだろうか?
それにしてもお世話になった鬱狸氏に恐怖心を与えたという事実を思うと私自身苦しい。
居たたまれないとはこの事かと思った。
法蔵の『華厳五教章』が明日にも届きそうである。
一緒に発注した理趣経なんぞ読んで面白がってる暇は私にはないのである。
「おのれを高くするものは低くされ、おのれを低くする者は高くされるであろう」
との福音書の言葉(何度も登場する)。
私は「宗教」にしか興味がないので、これを道徳的見地から見ることを好まない。
宗教の論理というのは「肯定即否定」「否定即肯定」である。
だから前掲の引用は宗教のごく基本なのである。
そもそも己れの背丈を妄りに他人に見せる者は愚か者である。
そして私はその意味で実に愚かである。
今はともかく華厳経を読み進めたい。
「神話解釈の手法の問題」は一時棚上げして今年は華厳経三昧で過ごしたい。
justsystem社の一太郎2007は、本日2月9日に宅配便で届く予定だった。
しかし製品の一部に不具合が見つかり、全部の梱包を業者に預けてあり、
一つ一つ確認するため、不具合のない製品の購入者もお預けを食うハメになった。
ということを知ったのが昨日の夕方の緊急通知のメールでであった。
ちなみに私の発注したWindows版一太郎2007は特に不具合品に該当しない。
単に巻き添えを食っただけである。
おまけに今日はAmason発注の本『華厳五教章』その他、理趣味経本などが届かないので、
21時になっても届かないので、シャワー浴びて出てネットを見たら、
「不在なので持ち帰りますた」だと・・・。
私は21時まで待ったのに、それよりも遅く来て何を言うんだ、この業者は。
昨日は鬱狸氏には絶縁されるし、どうもバイオリズムでも悪いのか・・・。
さあ、土日ばかり予定が詰まっている生活であるが、今日も気を取り直していこう。
友人らにもこのスレを後日読んで貰って、私がu氏に与えた"恐怖"というものを
彼らの視点から説明してもらおう。
私にとっては長年積み上げた修練の果実の些細な一つに過ぎないので、
物事の道理そのもののどこが恐怖なのが分からないのである。
宗教というのは観念上の遊技や慰めにあらずして、現実に事を動かしめる為のものと私は理解している。
ギリシャ哲学者O先生が2年前に癌に罹患したとき、築地のがんセンターの最上階の食堂で奥様と話しをしていたとき、
この奥様はクリスチャンなんだが、両者(先生の周辺の人物)は「ともにO先生がどうしたら生き延びられるか、
用いうるあらゆる手段を考えよう」と言う視点から話しているわけだが、そのとき、
私は先生にキリスト教に改宗していただく(よう祈る)ことに難色を示した。
O先生のこれまでのギリシャ哲学者としての生き様に相応の敬意を支払い、それを尊重したいという
気持ちからだった。
すると奥様は「それはおかしいのではないか」という。お前もキリスト教徒ならそう言う方向でやって当然だという意味である。
しかしそもそも哲学屋といのは頑固者が多い。
というかそうでないと哲学屋なんぞ到底やっていけない。
しかもご高齢だから今更大転換という年齢でもない。若ければ話は別だが。
そしてそう祈ったところで、仮に先生が改宗なさならない場合、却って寿命が短くなるのである。
「つまり駄目でもともと、なれば儲けもの」ではないのである。
改宗なさったら、確かに寿命は延びるだろうが、そうでない場合、裏目に出るのが道理である。
ここで奥様も私もともに「今生の使命を負えたらその人間は死ぬ」という前提で話している。
ギリシャ哲学者がキリスト教に改宗したら、さぞかし多くのやるべき仕事が出現し、
死んでる暇がなくなるだろう。
∴先生の寿命が延びて良い。ということになる。
(1930年生まれのK先生も「忙しくて年取ってる暇がない」と笑っておられた)。
私は考え込んで一週間後、その方向で祈ることにしました。と言った。
実際そう祈り始めた。とにかくなんとしてでも先生のお命をのばす為である。
だが、結局裏目に出てしまった。
去年春定年退職なすったときには実に健康そのものだったのに、
わずかその半年後(去年秋)10月に肺癌が見つかり、
「今度ばかりは死命を制せられたかと観念しています」という悲しいお手紙を頂戴した。
やはり失敗したか、と悔やんだ。あんなこと祈らなければ良かったと思った。
長年の不摂生がたたって、抗癌剤を入れられるだけで不調をきたす有り様で、
もう見込みがないという雰囲気がご夫妻の様子ともどもから伝わってきた。
奥様からも去年春のような鬼気迫るものが全く感じられなくなっていた。
私もこの先生の病気(の治療の過程)には一枚噛んでるので、
非常に複雑な気持ちにならざるを得ないのである。
宗教とは決して観念上の遊技ではない。現実に物事が動く事柄なのである。
「去年春」→「一昨年(2005年)初頭〜春」に訂正。
さて"恐ろしい"ものとは何であろう。
カントの主著三大批判中に「神を畏れずして神を畏れる」という表現が出てくる。
"畏れる"の2語は原語で同じ語が当てられている。
意味/ニュアンスはなんとなく分からないでもない。
また哲学屋にとっては「神」というのは「人格性を持った実在する神様」などいるとは思ってはいない。
事物の道理に過ぎない、といのが本音である。
(これは歴史上神学サイドから「哲学者の神は蒼白の神だ」(血が通ってない)という批判を常に浴び続けてきた。
だが道理であるなら、それに反すればエライことになるのは当然であり、
逆に道理に背けば好ましくない事態を招くのも論理的必然であろう。
ちなみにヨハネ伝にも「私は道であり真理であり命である」とある。
だから哲学屋の端くれである私も「キリストの為に血の一滴までも捧げます」と安心して祈れるのである。
余談だが「「イエス」と「キリスト」は不可分一体の結合概念である」という神学説を私は認めていない。
夕べも夜中に目が覚めたりもしたが、今朝はもう時間がない。
見知らぬ私にネット上での短い付き合いではあったが、大変ご親切にしてくださったu氏に
ご迷惑な"恐怖"を与えた事態にもっと考察を加えたいが、
また後でゆっくり考えることにしよう。
件の話、ある友人に、華厳命氏の侮辱投稿(表現の汚さは構わないが内容が悪い)の
発端となる私の「無冠の帝王」発言から隠さずに話し、該当箇所を読んでもらい、感想を聞かせて貰った。
ちなみに彼は無信仰である。あらゆる宗教に対して一切関心がない(だからこそ参考になるだろうと思って彼に聞いた)。
私が侮辱を受けるのは日常茶飯事であり、背丈を低く見られるのが常態なので、とも思わぬのだが、
u氏の"恐怖"発言は私にはショックだった。
で、実際どんな印象を受けるのか宗教信仰を持ってない第三者に聞かせてもらった。
ここで細かくは書かないが、一つだけ書くと「私とu氏は宗教観がかなり異なるのではないか」
とは言われた。
私が弁明のつもりで書いたこと(「宗教は観念上の遊技にあらず、現実に事物が動くもの」)という考えは
却って逆効果だったのではないかとも言われた。
覆水盆に返らず。u氏から受けた恩義は忘れないが、だからといって
自説を撤回する意思は私にはない。むしろ、そういうことこそ一番やってはいけないことである。
私は自分の正体と背丈を知っており、師事する先生方には哲学/神学/仏教学問わず、
必ず文献上の論拠を挙げて説明している。知っていて亡くなった方も複数有り、亡くなる寸前の方もある。
仏教学者K先生にも、既に聖書の根拠に基づいて筋道立てて説明している。
友人は、u氏の表現にある「公理体系云々」についてもコメントをくれたが、
第三者の意見というのは実に参考になるものである。
本日漸く、待ちこがれた『華厳五教章』と『理趣教』中公文庫、『名僧列伝<4>』講談社学術文庫が届いた。
昨日業者は21時10分(機械の記録はごまかせない)に来たようである。
私は21時まで待っても来ないのでシャワーを浴びに行っていたのである。お陰で一日遅れになってしまった。
ともあれ華厳五教章がなんとか入手できたことは非常に嬉しい。
私は華厳経を読み進めたくてたまらない。
こんなに本を読みたくてウズウズするのは十数年ぶりである。
「読まなければ」と思ってする読書は楽しくない。そして楽しくない読書が多すぎる。
世間には「自分の好きなことを仕事にするべきではない(嫌いになるから)」という言葉があるようだが、
私は自分がせざるを得ないことをして生きてきただけなので、好きもへったくれもありゃしない。
しばらく本格的に華厳経に没頭してみよう。
ある知人は「(華厳経の読了に)半年かかりましたよ」と言っていた。
私が持ってる版とは違うようだったが。ともあれ没頭したい。
華厳経は私に豊かさを与えてくれる(であろう)。
私はこれまで道元禅師の「禅の語録を読むな、お経を読むな、そんな暇があったら、ただひたすらに坐禅に打ち込め」
「ただただ悟りを得たいという執念を持て」というワンターンの説教を読んで育った。
そしてそのように歩んできた。
「まず神の国とその義とを求めよ」と聖書にもある。
そして以前いた教会の青年会でもそのように教えて来た。
「下らない神学文献を読む暇があったら、遮二無二祈れ。道をがむしゃらに求めて歩め」と言ってきた。
そしてそれにより相応のものを得られるであろう。
だが私はある事件で新約聖書だけでは到底飽き足りず、旧約聖書まで真面目に読むようになった。
それはある意味の"豊かさ"を求めてであった。
新約聖書しか読まぬのは貧相な骨川筋右衛門である。
私は同様の意味で華厳経に豊かさを求めている。
華厳経を読んで「で、どうしたらいいの?」ということは本人が自分で考えて用意すべきものである。
明恵上人も空海もある意味華厳経を土台にして密教をそこに置いた。
禅を持ってくる人もあるだろう。各人が好きにすれば良いことである。
私には「祈り」がある。
「華厳経を読んでその後どうするか?」を用意してない人の話は私は特に読んだことがない。
いるのかもしれないが少なくとも私は知らない。
>>122『理趣教』→『理趣経』に訂正。
ところで、華厳命氏が耶蘇善財のどこが気に入らないのかは分かったが、
キリスト教のどこが駄目だと言いはするが、理由が書かれていない。
私はコーランを持っているが未だ読んではいない。
だからイスラム教について良いのか悪いのかはコメントできない。
>>121「背丈を低く見られるのが常態なので、とも思わぬのだが、 」
→「背丈を〜、何とも思わぬのだが、」に訂正。
>>122 「ワンターンの説教」→「ワンパターンの説教」に訂正。
一昨年のNHK大河ドラマで『義経』をやっていた。
この脚本家は、平清盛と源頼朝の両人に、
「「力」が要る!力が要るんだ!」
と言わせていた。
「ああ同じ事考えるんだなぁ」と思った記憶がある。
高い志を持つ者は、それを実現しようと本気で望んでいるいつかの時点で
「力が欲しい」といううめき声を腹の奥底から絞り出すはずである。
>>124 「キリスト教のどこが駄目だと言いはするが、〜」
→「キリスト教が駄目だと言いはするが、どこがどう駄目なのかが書いてない」に訂正。
法華経にさしたる関心のない私であるが、
また例の「常不軽菩薩品」を思い出してしまう。
あれを思い出し、反芻する度に複雑な気持ちになる。
私は勝手に憎まれることにももう慣れているし、侮辱軽侮を受けるのにも慣れている。
私の書いた言葉が妙に神経に触ってる向きがあるらしいが、
キリスト教世界の(無冠の)帝王を自称するということは一体どういうことか、
ご自分の性能の良い頭脳で考えて欲しいものである。
私の言動行状を気が付くと自然と聖書が後追いしてきた。
自分はただただ今この瞬間を生きてきただけのつもりなのだが、
気が付いたらそうなっているのである。それは単なる事実であって、
私の傲慢もへったくれもないのである。
「ん、自分なりによく考えたな、よし!」なんて考えていたら、あとで
「なんだ思い出してみればパウロが言ってるじゃねえか・・・」ということもあった。
だいたいキリスト教信仰というのは、アブラハム・ダビデ・エレミヤ・パウロ(そしてイエス)の立場や言葉が
わが身わが言葉として捉えられるところまで修練を積まねばならない。そうでない半端モノでは
せっかくその道に入る意味は半減するじゃぁないかと私は考える。
これが過酷なほど厳しく聞こえるのだろうか?
128 :
耶蘇善財:2007/02/11(日) 03:28:33
また夜更かししていると思われそうだが、実は単に仮眠して起きてきたところである。
この数年間ずっとそうなのだが、追いかけ回される夢が多くて苦しい。
さて仮眠から覚めてせっかく脳味噌が冴えてる状態なので華厳経をまた読もう。
華厳経を読む以外の時間の取れる暇な人は、
イザヤ書53章、黙示録11:1-12、歴代誌上16:22(詩編105:15)、エレミヤ書2:3、ロマ書8章29-30、
でも読むのが良かろう。
人生には、そこで引いてはならない肝腎な場面というのがある。
そうでないと一生の悔いを残すだけである。
逆に大きな損害を被っても「これですべて良かったのだ」と思える日が来るものである。
今日はギリシャ哲学者O先生の誕生日(S11.2.11)である。
去年のこの日には、私は「古希おめでとうございます」の祝電を打った。
癌はきれいに治り、定期的な検査でも最高の状態だった。
その前の年はご夫妻共々精神的に大変な状態だった。
そして今年の誕生日は・・・。
決して喜べる状態ではない71歳の誕生日である。
この先生は語学の天才にして仁徳の人である。
ここで命が尽きるのではあまりに若すぎ、大変勿体ない事である。
先日病院に見舞いに行ったとき、「耶蘇善財君には悪いことをしたと思っている」
と言っておられた。また「前世の因縁の相手かもしれん」とも言っておられた。
今は禅の語録などを読んでおられる日々のようだ。
定年退職後少し落ち着いてから、私もフランス語を習いたかったのだが、
もうそれも果たせないであろう。
だが別の知人(私に「常不軽菩薩品」を勧めた人)は、その間にチャッカリフランス語文法を
習ってしまったというのだから驚きもし、腹立たしくも思った。
最初の発病の時の完治に多大なる貢献をしたのは私なのに。
この先生からお仕事を奪うのはお命を奪う行為である。
だから件の知人と相談して、フランス語を習うことにしようなんて話していたのである。
大学最終講義の日に出勤後、奥様から直接私に電話があり、感謝の言葉を受けたほどであった。
そりゃ先生も「君には悪いことをした〜」になるに決まっている。
哲学は理想は、英・独・仏・羅・希(ギリシャ語はアッチカ方言)。
プロテスタント神学では、学部1年で独語、2年でギリシャ語(ただしコイネー)3年で古代ヘブライ語をやる。
ラテン語はプロテスタント神学では選択科目であろう。
カトリック神学ではラテン語は必修だが。
この方自身は、新制高校2年でフランス語、3年でドイツ語、(現役で東京大学に入学後)、
一年生でラテン語、、2年生で古代ギリシャ語に手を出した。
昔どこかで聞いた語学の達人も、新しい言語に着手するのはせいぜい3年に一度
という話だったから、これは尋常ではない。
もうどこか脳の構造が違うのだとしか考えられない。
こういう方にこそ長生きして貰いたいものだが・・・。
[ 少年老い易く学成り難し ]
私は過去に精神薬理学を勉強したことがある。
随分昔のことなので、日進月歩の世界であるからして、土台になる生理学知識、
たとえばセロトニンの受容体の数は私が勉強した頃はオートレセプター(自己受容体)を含めても一桁台だった。
それが90年代後半には立ち読みで読んだ新書本ですら20以上と記している。
生理学の土台の上に薬理学や病理学が成り立つわけだが、この病理学の広大さたるや、
医者は一生勉強し続けねばならない(本当はどの世界でもそれで当間だが)大変さも垣間見たし、驚嘆したものである。
気功が病気治しに大いに役立つからといっても医師の権能である診断/執刀/投薬の特に「診断」ができるというのが
まさに医師の医師たる所以であり、「お医者さんには相応の敬意を支払いましょう」という当たり前の結論が導き出される。
さて、華厳経の世界、華厳経スレに仏教学者の方も登場なさり、
出版されている翻訳そのものの正確性についての指摘がなされた。
聖書の世界では神経質な私もスッカリ忘れていた。
重要な指摘を投下なさった「貧乏仏教学者」氏に改めて敬意と感謝を表明する次第である。
早速発注した。
荒牧 典俊 (翻訳)『大乗仏典〈8〉十地経 』[文庫]2,100円。
高崎 直道 (翻訳)『大乗仏典〈12〉如来蔵系経典』 [文庫]2,100円。
渡辺 照宏 (翻訳)『ワイド版世界の大思想 (3-2)』 [単行本] 5,460円。
計 9,920円也。
今月は財政的に本当にきつい事態を自ら招いている。
どうやら体重を減らすのに一役買いそうだ。
自分は道元禅師が「頭の上に燃える炭火が乗ってるのを振り払うぐらいの勢いで修行に励まなければならない」
と言っておられる通りに生きてきた結果、キリスト教についてはいくらか悟るところがあった。
だが今のように少しでも仏教にガッツリ四つに組むとなると、
自分が仏教に対していかに無知で素人かを思い知らされる。
自らが仏教界では二等兵であると改めて思い知らされている次第である。
>耶蘇善財殿
>自分から縁を切っておいてまた声をかけるというのも変な話ですが、どうも貴殿のことが気になって仕様がない。
>キリスト教については、小生は何も知らないので教えを請いたいのですが、新約聖書に「放蕩息子の帰宅」というたとえ話がありますが、あの話を貴殿はどのように味わっておられるのでしょうか。
鬱狸さん
・ まず最初に、私は鬱狸さんに対して今も悪感情を抱いておりません。
感想を聞かせて貰う為に事情を話した友人にも「鬱狸さん」という"さん"づけの表現で話し、
悪口も一切言っておらず、「お世話になった方、ご親切を受けた方だ」と説明してあります。
華厳経スレに「今後は無関係〜」云々と書いたことはあくまで鬱狸さんにご迷惑がかからぬように
という意味であって、「フン、こっちからも絶交だぁ!」という趣旨ではありません。
それから私に対する呼称は"〜君"でも何でも結構です。
私は仏教界ではあくまで二等兵というのは厳然たる事実ですから。
・ さてご質問の「放蕩息子のたとえ」というのは、要するに
「ある者がキリスト教信仰からしばらく離れていても、いつか戻ってきたら、その時は
"離れていた"ことを責めるよりも、むしろ"帰ってきた"ということの方を重視して歓迎してやりましょうや」
という意味と素朴に解しております。
ただ神学なり牧師という立場の人から見たら現在の小生の姿はどうでしょうか?
ある命がけで説教壇に立つ昔気質の厳しいU牧師が引退なすってからフツリと来なくなってしまった。
かといって「移籍先を見つけましたので出ます」とも言ってこない。
こういうのは別帳会員と言って名簿上も位置づけが変わるのですが、
(今年は教会総会の資料すら送られてこなかった。去年までは出ない場合は
「議長に投票権を一任する」との書類に署名捺印する手続きがあったのだが)。
で、教会では私が「教会に顔を出さない」という事実を以て放蕩息子状態と見なされているだろうと思います。
私の内心では「別にキリストから離れるつもりはさらさらないんだけど」と思っているわけですが、
教会ではまぁ放蕩息子と見なされてるんだろうと憶測してます。
ですが、宗教哲学というのは「宗教性一般の真理」を求めるものですから、
自分の持ってる信仰が仏教キリスト教その他なんであろうとも、それを超えた
普遍的な「宗教」を求めるわけです。
つまり同一人物内で一見矛盾したようなことをやり続けるわけですね。
私自身はヨハネ伝の「わたしは道であり真理であり命である」を以て、
私はあくまで求道の旅を続けているつもりであると主張したいわけですが。
バルト神学の影響を強く受けた人にはなかなか理解していただけないだろうと
思います。バルト神学は昭和初頭生まれ前後の世代に大きな影響を振るいました。
そしてこの影響を多く受けた人は結局最後の最後の本音として「キリスト以外に救いはない」
という言葉を言いますね。これはその人の人柄/性格に無関係にそういう傾向があります。
わたくしはそれにどうしてもついていけません。私の立場は昔からある有名な歌の↓
「分け登る ふもとの道は多けれど 同じ高嶺の月を見るかな」
ですね。
137 :
鬱狸 ◆2qu5tVDKNg :2007/02/12(月) 18:04:25
>耶蘇さま
早速のご教示ありがとうございます。
「放蕩息子」を他人事のようにお書きになっているのが小生からすれば気になります。
小生がキリスト者だったとすれば、「放蕩息子」とは外でもない自分のことであったと、懺悔し、神の愛に随喜することでしょう。
「我こそは無冠の帝王」と称する者より、罪を犯し、迷い、苦しみぬく永遠の二等兵こそ真っ先に神がその愛を注ぐというのがキリスト教だと理解しますが間違っておりますでしょうか?
138 :
鬱狸 ◆2qu5tVDKNg :2007/02/12(月) 18:06:28
139 :
鬱狸 ◆2qu5tVDKNg :2007/02/12(月) 18:13:26
>>136を読ましていただきました。やはり、「放蕩息子」を他人事のように捉えておられるようですが、
一瞬たりともキリストから離れたことはないと、断言できますか?自分の行動を振り返ってキリストの教えと芥子粒ほどの違いはないと断言できますか?
お話の趣旨は分かりました。要するに「お前は傲慢だ」というご指摘ですね。
以前話しかかった「人間の自由意思」の問題なのですが、
自分の頭でどうこう考えるよりも祈ったほうが、自分の言動行状がより良い方向・結果に
なるのではないかと思います。
先に例に挙げましたU牧師は私との初対面以降2000年春から初夏にかけて、
私を叩いて叩いて叩きまくりました。
「信仰の衣装を纏った自慢話」とかその他足かけ三ヶ月やられ、耐えるのが大変でした。
その名その顔を思い出すだけでムカムカして。
しかしそこが肝腎なわけで、そしてそれが私の"茨の冠"の戴冠式だったわけです。
茨の冠とは汚名です。御名の故の苦しみとはまさにそれなんですよ。
世間の人たちはそこを誤解しています。というか理解できていない。
カトリック教会から列聖されるようではとうてい殉教の死とは言えますまい。
だって列聖され顕彰されること自体が人の世界の栄誉栄冠なのだから。
で、事情をほんの少し(だけしか知らない。なぜなら私はブチまけていないから)だけ知ってるH牧師が
電話でちょっと耳打ちしたようです。するとU牧師の態度はガラリと変わって、
「俺の負けだ。降参する」
というものになりました。まぁ事情を一部知ったに過ぎないだけでそうなったわけです。
鬱狸さんも今、当時のU牧師や「大審問官」と同じ事をやっておられるわけです。
ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』5-5「大審問官」です。
イエスが「ユダヤ人の王と自称していた」と墓標にかけられた札には書かれていた。
その汚名こそが「茨の冠」なんですね。それこそが神からの栄冠なのです。
「お前は修行が足りない」と罵られているその事実が、なんです。
・ Windows Live Spaceでの記述は、意見を求めた友人が
「ネット上では自分の背丈を低く見せるようにしたほうが無用のトラブルを防げるのではなかろうか」
と指摘したので、改変しました。
やっと解読できました。
今なぜここでこんなことが起こっているのかを私から解説します。
K先生に私は自分の正体を話した。自己紹介も必要です、
でK先生はU牧師がおやりになったようには私を叩いていない。
おそらく本当は叩きたい感情があるのを抑えているのであろうかと思われます。
そして人間みな繋がっているのですからして、K先生が私を叩く代わりに、
華厳命氏と鬱狸さんが身代わりになって(当事者の意向と無関係に神が身代わりにさせたのです)それを行っているのです。
したがって華厳命氏と鬱狸さんにはこの板でこの時期に私を叩かない自由意思はなかったのです。
「無冠の帝王」という表現は検索かけたところ私の用法が間違っていたようです。
元来は新聞屋・ジャーナリストが権力に屈することのない(好ましい)姿を指していう言葉だったのが、
意味が変じて実力に応じたタイトルなり栄誉なりを得ていない者を(少し)侮蔑して言う表現だそうです。
茨の冠とは、「お前は悪い。お前は低い。お前は修行が足りない。お前は間違っている」
という趣旨の罵声を浴びるという、その汚名こそが茨の冠なのです。
茨でできている故、当然それを頭に戴くとき、なお「傷を負い、血を流す」ことになります。
宗教画でよく描かれているのを今までに何度かご覧になっていると思います。
もっと言いますとK先生に自己紹介として言う関係上、
私もまたWindows Live Spaceにそれを書かない自由意思がなかった。
そしてK先生が私を叩く代わりに神は叩き役を華厳命氏と鬱狸氏にその役をやらせた。
確かに私も自分で不思議に思っていたところです。
「あんなこと書けば憎まれるに決まってる。にもかかわらずなぜ書いたのだろうか?」と。
結局のところ、初めから筋書きが決まっており、役者・役目も決まっており、展開も結末も決まっておったのです。
みんな神の手の掌の上で踊ってる役者に過ぎなかったのです。
もちろんかく言う私も含めてです。
だから私は「決定論」にかなり興味がありますね。
人間自由意思がどこまであるのだろうか?
「あまりない」のは確かですが、本当に「あまりない」だけなのか、それとも「全く無い」のか
で、意味は全然違ってきますが。
となると華厳命氏のこともわかりました。
私は数日前「蓋を開けてみないと本当のところは分からない」と書きました。
私はそれをその場凌ぎなんぞ言いません。大まじめに理詰めで考えて書いているのです。
氏についての結論を申します。
以前申した「運命が暗転する」ということはないだろうと思います。
K先生が私を叩く代わりの役を神から演じさせられていたに過ぎないということです。
さあ、この一件、時系列で整理してみましょう。
K先生から遊びにいらっしゃいと言われて実際に訪問したのが、1月11日です。
先生の念仏道場に顔を出してきたのがその数日後の14日です。
次回K先生の念仏道場へ行くのは2月18日です。
例の帝王発言は、記録を見ると1月28日になっています。
つまりK先生は私が聖書から引用した箇所をご覧になってるはずですので、
それで何か言いたくお思いになった。しかしそれを抑えていたというところでしょう。
U牧師がかつてしたように叩きたいと思ったのは確かでしょう。
そして神は別の人間を動かしてK先生が思い、言いたいと思ったことを両氏に言わせた。
華厳経読む方ならそれぐらい理解できると思います。
で、次の念仏道場の日、2月18日までの間に一連の出来事が起こることによって、地ならしされる、と。
だから物事、なんでも誤魔化しなんぞ効きません。
時間の経過とともに一切の真相は明らかになります。
「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない」
と聖書に書いてあるとおりです。
145 :
鬱狸 ◆2qu5tVDKNg :2007/02/12(月) 19:59:57
「叩いている」
という次元でしか捉えていただけないのは残念です。
ただ、目覚めて欲しい、それだけです。自分を見つめる眼を持った人ならば、このようなことはお書きにならないはずです。
比叡山始まって以来の秀才といわれた法然上人は自らを「愚痴の法然」と名乗りました。愚痴とは「おろかである」ということです。
そのあとを継いだ親鸞上人は「愚禿」と名乗っています。
「教行信証」にこのような言葉があります。
「悲しきかな愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑す」(うろ覚えなので不正確かもしれません。)
しっかりと自分を見つめることができなければ、どんなに尊い教えに出会っても、その真髄を味わいつくすことはできないでしょう。
「おれが」「おれが」という我がある限り、真実は見えてきません。
それは、私自身、血の汗を流して潜り抜けてきた経験からいうのです。
華厳経は一見非常に知的な経典です。
頭脳明晰なる貴殿なら、そこから多くの知的収穫を得ることはできるでしょう。
しかし、華厳経に限らず仏教は「慈悲」という大きなベースに乗っているのだと私は考えています。
慈悲の妙味は自分を最低の位置に置いて初めて味わうことができるのだと思います。
是非とも、自分を深く反省し、ほんとうの知恵と慈悲に目覚めて頂きたいと、2兵卒ながらお願いする次第です。
私は暴言を浴びやすい体質で慣れてはいますが、だからといってそれを平気でいられるというわけでもないです。
そこで「帝王発言」なんぞすれば叩かれるのはフツーに考えて誰でも分かりそうなものです。
意見を求めた友人も実際「控えたほうが良かったのではないか」と指摘していました。
さて、「お世話になった方に対しては言葉を慎むべきだ」というのが日頃の私の考えなので控えておりましたが、
一発だけお返したいところがあります。
「大変な恐怖」発言です。
華厳経スレに、たとえば創○学会を立派な団体だと思っている人はまぁないでしょう。
ですが、そこの人たちですら、私の発言に「大変な恐怖を感じる」ことはないと思います。
「勝手に言ってろ。自分にはご本尊様の加護がある」
との強い確信のもとに微動だにしない安心を持ち続けることでしょう。
ですが、私の依って立つ公理体系が「聖書」であって、鬱狸さんの公理体系がなぜ「世間常識」なのでしょうか?
なぜ鬱狸氏の依って立つ公理体系が「仏教」ではないのでしょうか?
自分の人生も守れない信仰ってなんですか?と私は思いますが、この辺の回答を頂戴したく思います。
>>146の投稿をした後で
>>145を読んだ後で読みました。
>>145の文章の内容が問題なのではないんですよ。
要するにお前は傲慢だと言われること(もちろん心底から)
私は自分の持ってないものを持つ人、自分の経験していないことを既にしている人、
自分の知らないことを知っている人、に対して当然にして相応の敬意を抱くことには
努めてきました。
私には「どんな人からでも誰からでも学び取ってやる」という貪欲さがあります。
その点が全くご理解いただけてないようです。
私がなぜ耶蘇「善財」を名乗るのかを。
>>147の投稿後に気付いたのですが、宗教というのは本当に難しいものです。
今度は「弟子たちの中で誰が一番偉いか」競争、が始まってしまったことに気付きました。
「どっちが謙遜なのか」の競争が・・・。馬鹿げた争いです。
ですが、忌憚なく言って頂いた後に一人でゆっくり言われたことを吟味してみるのも良い薬になるやもしれません。
>>145はコピペして保存し、後でゆっくり味わってみようと思います。
私は決して損はしますまい。
宗教は難しい」と言っておきながら実は日本人が誰でも知ってる言葉がありました。
鬱狸さんからならともかく、このスレを眺めている第三者から
言われるとシャクに触るので、その第三者より先に言ってしまいます。
「負けるが勝ち」
法然上人や親鸞聖人のお言葉、興味を持ちました。(ええ、私は欲張りなんです)。
というか、パウロ書簡にもそりゃ同様の言葉は幾らでもありますが、
「十字架の言葉は滅び行く者には愚かなり」(バカみたいに感じる)とか、
「われ誇らんと欲するするならものが弱さを誇らんとか・・・。
ここでチト質問があるのですが、『論語』には
「身を殺して仁をなす」と言う言葉があり、
イザヤ書53:11冒頭には、
「彼は自らの魂の苦しみにより光を見て満足する」という言葉があります。
法然上人か親鸞聖人の言葉あたりに、
「道のために自分が死ぬ、道のために名誉すら失ってしまう」
という趣旨の言葉があったらご存知なら教えて頂きたいのですが。
正直な気持ちとしては、「ある」ほうが同じ日本人として嬉しいんですが。
151 :
歎異抄:2007/02/12(月) 22:04:16
念仏は、実に、浄土に生るる種子にてや侍るらん、また、地獄に落つべき
業にてや侍るらん、総じてもつて存知せざるなり。
たとひ、法然聖人に賺され参らせて、念仏して地獄に落ちたりとも、
さらに後悔すべからず候ふ。
その故は、自余の行も励みて仏に成るべかりける身が、念仏を申して
地獄にも落ちて候はばこそ、賺され奉りてといふ後悔も候はめ、
いづれの行も及び難き身なれば、とても、地獄は、一定、住処ぞかし。
>>151 やや、どなたか知りませんが、(鬱狸さんかもしれないし違うかもしれない。
どちらであっても感謝!)。確かに法然上人に騙されたんであっても構わんという
親鸞聖人のその言葉は聞いたことがあります。が、そのご親切に感謝します。
さて、どんな言葉遣いであれ、どんな表現であれ、自分が貶される間はいいんですよ。
問題は自分が褒められ持ち上げられてる時です。これが一番危ない。
逆の例があります。
大リーグのヤンキースの松井秀喜選手は何年か前(といっても大リーグに入って以降の話)、
「自分の調子が良いときこそ注意するよう努めている」
と言っているのを聞いた。
「いやぁ、さすがだなぁ。若くても大物は言うことが違う」
と関心した記憶がある。
まぁ私も数年前U牧師の教会に移籍する時、ハッキリと明言した。
「飴玉ナメさせて貰おうとは思ってません。鍛えて貰うために入ります」
と。
厳しくて激しい言葉ばかりのU牧師の説教の3年間は私にとっては至福の一時だった。
説教を聴く態度として「うんうん」と首を縦に振る行為はしなかったが
(それをするのは説教を聴く態度ではない。それをやる人は別の時には首を横に振るのか?)、
礼拝堂の正面に目を据えながらも、腹の中では
「よくぞ言ってくれた!」と拍手喝采していることが多かった。
私が移籍した時期は、古参の教会員でU牧師の厳しさに耐えられない者たちは
反発して出て行き、そういった者たちが一掃された後の時期だった。
昔、京都の北白川教会に奥田成孝牧師という生きていれば100歳超えている人物ですが、
この方がまた命がけで説教壇に立つ、説教の非常に厳しい先生があったと恩師から聞いている。
そういう方は現代ではおらんのだろうかと思っていたので、U牧師の教会にたどり着いた時は大変喜んだ。
が、その至福の一時も3年で終わった(引退なすったので)。のでその後大変困り果てた。
ちょっと移籍先を探したところでピンと来るところがなかった。
だったらいっそのこと仏教のほうに良き師を求めようと思った。元々自分の原点なのだから。
線香の香り、チーンという音、五体投地、背筋をピッと伸ばしての合掌、そういったものすべてに
ある種のHeimatを感じるのである。
(いや、先日の某読書会の後の食事会で「どういうときにHeimatを感じるか」
という話題が出たので、こんな詰まらんことを書いた)。
自己レス
「歎異抄にあるから知ってるよ」という態度はいかん。
その既に知っているはずの言葉であっても、
「今この時にこの言葉を神が投下したのは何故なのか?
をよくよく考えなければいけないのだ。
逆に「それなら知ってるよ」という態度ではその人は伸びないのだ。
そういうものです。
>>146の「一発だけお返したいところがあります」発言のなんと愚劣なことか!
ああお恥ずかしい。
てめーで「お世話になった人に対しては言葉を慎むことにしている」
とか偉そうなことを言っておきながら、
その次の行でなんと愚劣なことを・・・。
ああ、恥ずかしい。
156 :
鬱狸 ◆2qu5tVDKNg :2007/02/13(火) 00:10:33
私が仏教徒であるかどうかなどということはどうでもいいことです。要するに人間としてどう生きるかが大事なのです。世間常識と書いたのは少し書きすぎましたが、常識も大切にしています。
非常に恐怖を感じるといったのはあなたの祈りのパワーのようなことではなくて、
自分と対立する人間に対して「運勢が低下する」などという脅迫めいたことを平気で言うメンタリティーが非常に怖いと思ったのです。「これは麻原かもしれない」と思ったわけです。
まあ、その後の他愛のない書き込みをみて「これは唯のオッチョコチョイだ」と思いましたけどね。祈りのパワーが本当に怖ければ、「怖い」と言うことすらできないでしょ。(爆)
157 :
鬱狸 ◆2qu5tVDKNg :2007/02/13(火) 00:22:51
>宗教というのは本当に難しいものです。
今度は「弟子たちの中で誰が一番偉いか」競争、が始まってしまったことに気付きました。
「どっちが謙遜なのか」の競争が・・・。馬鹿げた争いです。
そういうことじゃないんだよ。どれだけ自分がしっかり見えているかという問題。
自分がしっかり見えていれば、頭は自然に下がってくるのよ。この間の消息は経験した人でないと分からないかもしれないけど。
158 :
鬱狸 ◆2qu5tVDKNg :2007/02/13(火) 04:00:59
とにかく一つ謝っておかなければならないのは「恐怖」発言。恐怖感に駆られてとは言うものの、
これは全く自己中心的な言動により、貴殿に無用の困惑と迷惑をかけてしまった。
申し訳ありません。
や、眠れないご様子ですね。
実は私もカルシウムをたくさん取って布団に入ったが全く眠れない。
それで起き出してチェックしてみたらどうやら事情はこちらと同じご様子。
元はと言えば
>>146の小生の挑発的発言が、最後の引き金。
鬱狸さんの明日の(13日の)お仕事に寝不足で障りがでないかが気になります。
160 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2007/02/13(火) 13:28:52
実るほど頭の下がる稲穂かな
161 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2007/02/13(火) 14:22:39
162 :
笙山師 ◆d7FFxvxWvo :2007/02/13(火) 15:32:39
記念カキココ電逝ったああああああああああああ
>160
「実るほど頭を垂れる稲穂かな」
この有名な言葉、出典は知りませんが、全くその通りですね。
ところで今日は昔のことを思い出してました。
大学一年生の一般教養社会学の時間、その先生が、若い頃のある失敗談をした。
それはある時ある場面で、
「あの時のあの言葉、そっくりそのままあなたにお返しします。」
と言ったのだそうで。そして
「それを思い出すたびに自分の愚劣さに腹が立つ」
と言うものでした。当然
「今若いあなた方は今後私と同じ失敗をしないで欲しい」というメッセージでしょう。
私は
>>146を書いた自分を恥じています。
それが
>>156>>157のような発言を引き出したのは明白であり、身から出た錆というものです。
愚かさというものは時間が経過するにつれてこのように己を苦しめるものです。
164 :
鬱狸 ◆2qu5tVDKNg :2007/02/13(火) 20:09:29
>>163 は全体的によく意味が分からないレスですね。
>>156 >>157を引き出したのがなぜ「身から出た錆なのか」ご説明頂ければありがたく思います。
問題は深いところに向かっているように思うのですが。
>>164 あれを書いた時の自分は少し感情的になっていました。
そして書き方は明らかに挑発的でした。それだけです。
>>163の投稿は複数の話を同時に盛り込んでしまったから
読む人にとって訳分からんことになったんでしょうね。
それはともかく私の迂闊さのどこかが鬱狸さんの逆鱗に触れたようで、正直困惑しています。
白状すると、もうどうしたら良いのか分からなくなっています。
166 :
鬱狸 ◆2qu5tVDKNg :2007/02/13(火) 22:34:20
逆鱗には触れていませんよ。
「恐怖」発言については小生の悪かった点については謝っているし。
問題は貴殿に自分を客観的に捉える眼が確立していないということで、
これは若い人はみなそうなのです。若い人だけでなく、年取っても自分の見えない人は沢山居ますが。
「内観」をやってみてはどうでしょうか。
自分と関係の深かった他人に対する自分を三つの観点から調べるというものです。
「してもらったこと」「して返したこと」「迷惑かけたこと」これを研修所に篭って一週間かけて調べます。
浄土真宗の僧侶だった吉本伊信という人が考案した方法で、仏教徒だけでなく、プロテスタントやカトリックの人も信仰を深めるために実践する方が居ます。
これがうまくいけば、あたかも他人を見るように自分を見る眼が開けてきて、仏典や聖書に書いてあることの深い意味が見えてきます。華厳の重重無尽の縁起が感覚的に理解できるようになるかもしれません。もしその気があるなら、ご相談に乗りますよ。
ああ、内観の法ですね。
うろ覚えの知識では確か浄土真宗の「身調べ」(だったかな?)を基にして、考案されたという・・・、
>「してもらったこと」「して返したこと」「迷惑かけたこと」
ええ、この三つをやるという・・・読んだことあります。
イグナチティウス・ヨロラというカトリックの修道士が 『霊操』(岩波文庫)で書いてる、
まぁ浄土三部経の中でいうと『観無量寿経』に一番近いかなと思えるものがあります。
今受けた助言をヒントにして、これを引っ張り出しだしてきてやってみるというのも
良いかもしれません。今も本棚にありますが何年も放置してました。
×: イグナチティウス
○: イグナティウス
k検索かけるときには「イグナチオ・デ・ロヨラ」のほうが出やすいかもしれません。
170 :
鬱狸 ◆2qu5tVDKNg :2007/02/13(火) 23:20:21
内観、一応ご存知のようですね。できれば自己流でやらずにしかるべき研修所で指導を受けたほうがよいと思います。
171 :
鬱狸 ◆2qu5tVDKNg :2007/02/13(火) 23:26:01
自己流でやると、脱線したとき修正してくれる人が居ないので、変な方向に行く危険性があります。
ええ、「内観』以外にも、『森田療法』など世にはありますが、こういうものは特に
"我流は危険"というのも分かります。
ただ、ちょうど自分は田中木叉『日本の光(弁栄上人伝)』や河波昌先生の『光の現象学』を早期に読まねばならないので、
こういった本とこの時期に出会ったことの意味をよく考えねばなりません。
もちろん自分で(何にせよ)実践せねばなりません。
実は、私が祈る時、ただ言葉だけで祈るんではなく、強い光に一切の事物が包まれているイメージを
併用するのは何年も前からよくやっていました。
どうしたらよいのか分からんとかどういう「言葉」で祈ったらいいのか分からないというとき、
少なくとも「光」を用いて悪いことはなかろうと思って昔から使ってました。
実は白状すると
>>165を投稿した直後からずっと光を用いた祈りを数十分やってました。
(だってどうしたら良いのか分かららず途方に暮れていたので)。
で、せっかくの機会なので、せっかくK先生から頂戴した2冊の貴重なご本。
「光明無量〜」なんて話でしたら鬱狸さんはお詳しいと思いますが、
そこへ弁栄聖者、まぁ光明を強調される方また『観経』を用いる念仏者の先生とご縁ができた
ということで、このあたりは重視せねばならないかなと思います。何かの縁でしょうから。
元々キリスト教世界に身を投じたのも惚れ込んだ先生があって、
この先生と同じ道を歩みたいと思ったからです。
この時期に念仏道場と縁ができたのも何かの因縁ですから、
「華厳経」読みばかりでなく、このあたりの実践の方にも目を向けていこうと思います。
ちなみに本日2月13日は"光明"を重視する河波昌先生のお誕生日でございます。
「「内観」は勝手に一人でやるな、却って危ないぞ」と言う話ならまぁ分かります。
173 :
鬱狸 ◆2qu5tVDKNg :2007/02/14(水) 00:05:59
「内観」は勝手にやるな、却って危ないぞということです。
一週間時間をとるのはなかなか大変なことだと思いますが、きちんとした研修所で指導を受けながら内観するのが一番安全ですし、効果も挙がることと思います。うまく行けば一生の宝を得ることになるでしょう。
少しややこしい事情が私にはありまして、以前指導教授だった倫理学者のある先生が、
この手のものを非常に嫌っている方があります。
何年か前、私の先輩のある方に対して『内観』やりに行ってることを飲み会の席で
「私はもうあなたの指導教授ではないから言うけれど」と断りを冒頭に付けた上で、
要するに「内観やりに行くのは気に食わん」ということなわけです。
その先生は、臨床心理等人間一人の剥き出しの深層心理に直接介入していくものを極度に嫌っているんですね。
もうその時は周囲にいる者たちでどう取りなしても駄目でした。
取りなそうとした私まで
「ではあなたは牧師になら 何 で も 話すのか?」
と矛先は私にまで向けられ、もうあの時は大変でした。
今はともかくも華厳経もさることながら、河波先生から学べるものをすべて学ぼうということだけに集中せねばなりません。
(冷酷な事実としてたぶん残されてる時間は少ないはずです。)。
人間は状況内存在です。歴史的その都度一回きりの状況内での判断として、
河波先生や弁栄聖者の光明思想に特に今は専心すべきかと思います。
これだけは私一人が決定せねばなりません。
もちろん「内観や森田療法を一人でやるのは危険」ということに変わりはありませんし、
意見としては私も異存はありません。ただ内観そのものの問題ではなく、
私はこれまでの人生どういうわけか、その先生の最晩年の弟子になることが多かったのですが、
「私と河波先生との関係がいつまで続くか?」は文字通り火急の問題だと切迫感を持っています。
実際何時脳梗塞や心筋梗塞を起こしてもおかしくないと言われているそうです。
歴史上の例でも空海が恵果と出会ってわずか数ヶ月でその関係は終わってしまったわけです。
この例では空海が恵果の法灯のすべてを受け継ぐだけの器と準備が既にあったから数ヶ月でも
なんとかなったわけですが。
とにかく本当は華厳経だって今読んでいていいのか?というくらい火急のことだと思います。
好意的なお申し出には感謝しますが、ちょっと話を進めるのは待って下さいということです。
こんなところで落書きしてる場合ではなかった。
事は切迫しています。ああ、なぜ呑気に遊んでいたんだろう。
今は「頭の上の燃える炭火を振り払う勢い」(道元)で弁栄聖者の光明思想に専心せねばならない。
私はしばらく姿を消します。
その間にスレも落ちるかも知れませんが。
重大なことを思い出させてくれるきっかけを作って下さった鬱狸さんに感謝します。
176 :
法華経常不軽菩薩品:2007/02/14(水) 09:46:13
我深敬汝等、不敢軽慢。 所以者何。 汝等皆行菩薩道、當得作佛。
>鬱狸さん
>>176>>all
全く来ないというのも妙に極端なので、また時々覗きに来ます。
私は過去、「次にいつかまた会えるだろう」などと思っていたら、それがご尊顔を拝した最後になった、なんてことが何度かあった。
本当に一期一会である。
とにかく田中木叉『日本の光(弁栄上人伝)』、K先生『光の現象学』、華厳経華厳経とそればかり考えていて、忘れるところだった。
お話1月11日に伺ったときに、頂戴したのですが、弁栄上人の名前はこの時初めて知ったのですが、
この日、福音書でも光のように輝いてという記述があることにK先生は一寸言及しておられましたが
実は自分も数年前、聖書語句辞典(コンコルダンス))で「光」の出てくる箇所を洗いざらいピックアップしたこともあり、
「光(光明)」を扱った題材の本を取り寄せて買ってみたことがありましたが、ピンとくるものはなく、K先生から頂戴した本が
まさに数年前自分が探し求めていた本と言えるものと一致していました。
「光陰空しく渡ることなかれ」と道元禅師がいつも説教で言ってたのは、今調べ直してみたら単に「昔の人はそう言ってる」だけでした。
特に道元の言葉というわけでもなく、一般的な言葉のようです。
さて今は2月18日までにどれくらい読み進められるかです。これを読み進めないと行っても質問すらもも儘ならない。
>176
自分は法華経はまともに読んでもいないのですが、
少なくとも読んだその品は本当に含蓄深いですね。
179 :
普愚菩薩:2007/02/14(水) 13:31:52
「自分の背丈に見合った発言をすると傲岸不遜と言われ、謙遜すると
相手は真に受ける。」
キリスト教の帝王を自称するのが貴君にとって「自分の背丈に見合っ
た発言」であることは判ります。貴君がよくキリスト教を学んだ上で
自らの学力を客観的に評価し、他の人の学力よりも「ステージが上がっ
た」(
>>93)という結論に達せられたらしいことは推測できますし、
その結論もおそらく正当であろうと思います。
しかしそれを心中にひとり思うのみならず、安易に口外するという点
において、小生は一抹の違和感を抱かざるにおれません。これは小生
が自己主張に否定的感覚を有する日本人だからかもしれませんが。
180 :
普愚菩薩:2007/02/14(水) 13:42:25
「おのれを高くするものは低くされ、おのれを低くする者は高くされる
であろう」
小生はキリスト教については知りませんが、キリスト教の帝王であると
口外することは「おのれを高くする」傲慢にならないのでしょうか。
また、
「K先生が私を叩く代わりに、 華厳命氏と鬱狸さんが身代わりになって
(当事者の意向と無関係に神が身代わりにさせたのです)それを行って
いるのです。」
このように神の意図を勝手に忖度することは、かえって神を自分の器量
と同じであると見る傲慢にならないでしょうか。「「おれが」「おれが」
という我がある限り、真実は見えてきません。 」(
>>145)という鬱狸
氏の悲痛な助言も、そうした傲慢を危惧していらっしゃるかと思います。
181 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2007/02/14(水) 13:55:49
キチガイ煽っちゃ駄目
182 :
鬱狸 ◆2qu5tVDKNg :2007/02/14(水) 20:10:16
耶蘇ちゃん、もぐっちゃったか。
まあ、大人が判断したんだから他人がどうこう言うのもどうかって気がするけど、
眼が悪いといわれて眼医者に行かずに慌てて歯医者に飛んで行った感じだね。
「河波先生」がどんな人だか知らないけど、今大事なことは「頭の上の炭火を払うように」
自分を客観視することだと思うんだけどね。
まあ、また気が向いたらメールでも頂戴よ。
>>182 いやぁ、定期的に見に来ると申したとおり、今日も今見に来ました。
>179
その話なんですけどね。構図があるんですよ。
そりゃ確かに普段は言うわけないことです。面倒ですからね。
「脳病院でも行ったら如何か」と言われかねないところですから。
私も普段言わないことをなぜこんな事言ってしまったのかなぁと自分でも不思議に思っていたところです。
>このように神の意図を勝手に忖度することは、かえって神を自分の器量と同じであると見る傲慢にならないでしょうか。
言いたいことは分かりますが、説明も面倒ですが、結論一言だけ言うと「外れ」です。
私は「蓋を開けてみないと分からない」という言葉を相応の場面で使ってます。
今後も定期的に見には来ますが、必ずしもレスをつけるとは限りません。
ですが「目をそらすためにスレを覗かない」ということはないと思います。
私は書かれていることは直視します。
>>181 まぁいいじゃないですか。言いたいことを言えばよろしい。
>>182 私は自分の歴史と社会の中での位置は一応分かってるつもりですが、
ご理解いただけないのは仕方ないかとは思います
(ついでに言うと私は無名で一生を過ごすでしょう)。
・・・ですが昨日は良い示唆を戴きました。
あ、せっかくの機会なので書きますね。<all
私の動きを見切ろうと思うなら、聖書に全部書いてありますので極めて簡単です。
(「見切り」とは剣豪宮本武蔵の言葉だそうです)。
185 :
鬱狸 ◆2qu5tVDKNg :2007/02/14(水) 22:14:27
>私は自分の歴史と社会の中での位置は一応分かってるつもりですが、
ご理解いただけないのは仕方ないかとは思います
逆説的だけど、自分が見えている人はこういうことは言わない、いや、言えなくなるんだよ。
自分に「盲点」があることを本当に知ったら怖くてとてもこんなことはいえない。
「自分には見えない自分がある」ことを体験的に知り、常に警戒心を持つ人を「自分の見えている人」というんだよ。
186 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2007/02/14(水) 22:36:03
>>173 >「内観」は勝手にやるな、却って危ないぞということです。
自分は以前に専門の内観研修所で内観を体験しました。その経験を踏まえ少々
カキコします。
「危険だから勝手にやるな」との事ですが、普通の人はやろうと思っても
出来ないと思います。研修所という隔絶された場所であるから出来ることで
自宅や、その他ある程度自由の利く場所では不可能かと想います。
特に初めての人は、自分の心に何の変化も起きない事に嫌気が差して3日と
持たないでしょう。
ところが一週間も後半になってゆくと思い出すはずも無い幼い事の出来事やら
ホンの些細な出来事まで明確に思い出します。そして自分の身勝手で独りよがりな
生き方の数々に気付き深い深い懺悔の思いに包まれます。
体験者の多くが涙・涙で内観研修を終えます。
187 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2007/02/14(水) 22:47:04
>>186 > 思い出すはずも無い幼い事の出来事
この記述はリアルですね。僕は幼いころの親の恩を思い出そうとしても、
自分を弁護したい心の壁がはたらいて、なかなか思い出せません。我執
の根深さを感じます。
できるだけ自力でなんとか思い出したいですが、本当に行き詰った時、
機会があれば、内観研修に行きたいと思っています。
188 :
186:2007/02/14(水) 23:12:15
>>187 >機会があれば、内観研修に行きたいと思っています。
機会があれば、と言わずに是非機会を作って行かれる事をお奨めします。
ググれば日本中に多くの研修所が有る事がわかるでしょう。病院が運営
しているケースもありますし、普段何の問題も無い人でも十分に得るもの
が有ると思います。まさに「心の洗濯」成るものと信じます。
研修所では指導員と言われる人はいますが、こちらが考えて述べて事に
そ良し悪しの評を言う事は一切有りません。ただ淡々と話を聞き、では次は
〇〇才から〇〇才迄で「して頂いた事」「して返した事」「迷惑をかけた事」に
付いて考えて見て下さい・・・・といって部屋を去ります。
結局。自分と言う人間は周囲の人に全て「して戴き」「迷惑ばかりかけ」
「して返した」ことなど殆ど無いのだと言う事を鮮明に想いおこします。
189 :
186:2007/02/14(水) 23:14:17
↑ すみません。急いでレスしたために数箇所タイプミスがありました。
190 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2007/02/14(水) 23:25:34
>>188 ありがとうございます。しかし、生活に追われていて、やっぱり
一週間の時間がとれない。。。 また、正直に言いますと、我執
の壁が壊れるのを期待する反面、自分が変わってしまうことがこ
わいと思う面もあります。今、少しばかり自分を変える訓練をし
ていますので、もう少しそれをして、自分が変ってしまうことに
耐えられる強さができたら、行きたいと思っております。弱くて
申し訳ない。。。
(ちょっと原稿書いていたら内観の話が始まったようなので、
私の投稿が会話の邪魔にならぬよう、今日は控えます。どうかそのまま話をお続け下さい)
192 :
186:2007/02/14(水) 23:37:42
>>190 病気や事故で止む無く一週間は取れても普段の生活では
なかなか取れませんからね。まぁ仕方ないでしょう。
それと費用も掛かります。今は幾らか正確には知りませんが
1日当り一万位掛かるのかもしれません・・・・
自分が変ってしまうことに 耐えられる強さができたら・・・・・
とのことですが、その心配いりません。確かに内観で体験する
「感動」のようなものは強烈ですが、内観を続けない限りその心の
感動もやがて以前の精神状態に戻ります。
193 :
186:2007/02/14(水) 23:42:37
また、内観をやっておいてから坐禅の「接心」に参加するのも
非常に効果的かと思います。
>>191 恐れ入ります。途中を邪魔してしまったようでごめんなさい。
もうこれくらいにしますので、どうぞご遠慮なくお続けください。
失礼しました。
194 :
187=190:2007/02/14(水) 23:47:05
>>192 > 内観を続けない限りその心の感動もやがて以前の精神状態に戻ります。
なるほど、そうでしたか。
忘却は人を苦しみから救うとともに、感動をも薄れさせる。。。
個人的には自分で思い出せた人の恩などは書きとめて忘れないように
したいと思っているところです。それを読み返すだけでもましだ。。。
いろいろ教えてくださいまして、ありがとうございます。
>>185 心理学で言うジョハリの窓を連想する話ですね。
私の場合は心理学と無関係に聖書のみから答えを見いだしています。
(自分の運命があまりに数奇なので、裏付けとしてやむを得ず西洋占星術の勉強をしたこともあります)。
ですから手法・方法論が違うので、だからこの件については話は噛み合わないのでしょう。
噛み合わないからと行って、鬱狸さんの視点での記述が間違いだという言う意味には
決してならないとは思いますが。ただ視点が・切り口が両者では違うなとは感じました。
196 :
普愚菩薩:2007/02/15(木) 00:44:45
「私は「蓋を開けてみないと分からない」という言葉を相応の場面で
使ってます。」(
>>183)
>>143を拝読するかぎり、「蓋を開けてみないと分からない」という
ふうに、神の意図を忖度できないことを認めながら、結局は、自分
なりの結論として「以前申した「運命が暗転する」ということはな
いだろうと思います」というふうに、神の意図を忖度しておられま
すよね。そうなると、「蓋を開けてみないと分からない」という言
葉にはあまり意味がなくなるので、「相応の場面で使ってます」と
いわれても一抹の疑問が残るのですが、それは小生にキリスト教の
知識がないからでもありましょう。今後勉強させていただこうと存
じます。ありがたいご縁をいただきまして感謝いたします。横から
のスレ汚し、失礼いたしました。
記録(コピペ用) 「 辨榮 」
岡潔『無辺光』「辨榮上人は青年のころ浄土門に入って独自の方法で修行し、僅か四年足らずで仏眼了々と開いて見仏」から孫引き。
辨榮聖者24歳
弥陀身心遍法界 弥陀の身心は法界に遍く
衆生念仏仏還念 衆生、仏を念じ、仏もまた念ず
一心専念能所亡 一心専念にして能・所亡ず
果満覚王独了々 果(か)満じて覚王(かくおう)独り了々
1995.12.24〜2000年初夏で4年半。
200 :
鬱狸 ◆2qu5tVDKNg :2007/02/15(木) 21:06:53
>私の場合は心理学と無関係に聖書のみから答えを見いだしています。
「放蕩息子の帰宅」ひとつ自分の問題として捉えられていないのですよ。あなたの頭の上にはまさしく火がついているのに気付いておられないのです。
しつこく揚げ足取りのような問答をふっかけて実に五月蝿いと思いますが、私は私なりにあなたに何とか気付いて欲しいと文字通り祈っているのです。
ん〜、・・・・、ん〜、・・・・、
いくつか申したいこと、うかがいたいことがあります。
先ず第一に最初に私は鬱狸さんの本名を知りません。
鬱狸さんは私の本名をフルネームでご存知ですよね?
でもいつまで経っても一向に教えて下さる気配がない。
これについて私は一貫して不満を抱いていました。
最初のメールのお返事を受けた瞬間からずっと思っていたことです。
これは公平な関係とは到底思えないものです。
202 :
鬱狸 ◆2qu5tVDKNg :2007/02/15(木) 23:36:16
こういうプライバシーがらみの話はこういう場ではなく、メールで言ってほしい。問題の本質には全くかかわりのない話である。
不正確な記憶で申し訳ないが、仏陀の説話にこのようなことがあった。
あるとき若い数人のインドの金持ちの息子達が恋人と公園に遊びに行った。
そのうちの独りは恋人が居なかったので娼婦を同伴していた。
ところがその娼婦が金を盗んで逃げ出した。金持ちの青年達はその娼婦を大騒ぎで探しはじめた。
たまたまその公園で仏陀が静かに瞑想していた。青年たちは娼婦の行き先について釈尊に尋ねた。
仏陀は答えた。「青年たちよ、女を探すことと自分自身を探すこととどちらが大事だろうか?」
聞かれた青年たちはしばし困惑したがやがて答えた。
「それは自分自身を探すことです」
若者達は出家し、釈尊の指導の下で真実の自己を見出したという。
私に対する態度の不誠実さについて言っているのです。
他にも言いたいことがいくつかあります。
今日私は未だ晩飯も食べていません。シャワーも浴びます。今日はこれで失礼します。
仏陀のその話はとても良いお話だと思います。
私も聖書のあるお話を思い出しました。
「なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか?
自分の目にある梁は見ないでいて、どうして兄弟にむかって、兄弟よ、あなたの目にあるちりを取らせて下さい、と言えようか。
偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい、そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるちりを取りのけることができるだろう」
(ルカ伝6:41-42)。
私は鬱狸さんとの一方的な関係にこれ以上耐えられrません。
華厳命氏の場合は、私は何もしないで放置しておけばよいだけです。
本当に滅びるべき人なら滅びるだろうし、そうでなければ生き延びるでしょう。
なんにせよ、お互い構わなければ良いのです。
華厳命氏も私に構わないし、私も華厳命氏を構わない。これが華厳宗スレでの事実です。
それで良いじゃないかと思います。
でも鬱狸さんの愚弄と嘲笑を受けても我慢し続けることに私はもう耐えられません。
私は今までの人生で他人の急所を握ることは多かったのですが、
(なぜって勝手に相手が私に悪事を働くので)、
あ、思い出しました。
私は他人様から悪事を受けても申し立てないことが多い。
ところが鬱狸さんから一方的な関係を強いられていることをスレで書いたら文句言われましたね、
確かに受けている被害を他人の前で言うのは、私にしては非常に例外的で極めて珍しいことです。
ともあれ、故なく一方的に急所(このケースでは私の本名)を握られたのは初めてです。
こういう一方的な関係に私は耐えられません。
我慢しつづけるつもりもありません。
関係の状態が良好でなくても、トラブルの時も、私はその相手を愚弄することも嘲笑することも私はしません。
私はそうやって生きてきました。
何と言っても人間トラブルの時こそその人の正体が出ますからね。
私は鬱狸さんの愚弄や嘲笑を受けるのが苦痛で溜まりません。
私が何時誰を捕まえて絡んだというのでしょうか?
条件が平等で対等なら、話し合いをするのも良いでしょうが、
依然としてプライバシーについて何も通知せずに私の申し入れた苦情を無視して、
平然と俺の話を聴けと言ってくる人のお相手するのが異常に苦痛です。
私はこれまで色々な苦しみを経験してきており、
人生の苦しみを一通り味わうハメなのが自分の定めなのだと観念していますが、
この手の苦しみは初めてです。本当に苦しい。
同じ「苦痛」でも、やはり慣れない「苦痛」のほうが大変です。
私が一体誰を捕まえて裁いたというのか、私が誰に絡んだというのか?
私から損害を受けた人は申し出て欲しい。
もし私から損害を受けた人があれば4倍にして返して差し上げますから。
そうですね、華厳命氏から直接罵声を威勢良く遠慮無く言って頂くのも一興ですね。
気の済むまでやっていただくのもいいでしょう。
でも罵声は慣れてますが、愚弄嘲笑はキツイですね。
私も余計な事を言ったことに今は引け目を感じてますから、きっと幾ら言われても当然の報いとして耐えられるでしょう。
いや、これは天罰ですね、私が自分の背丈について言った内容は間違ってないが、
華厳命氏の今後の運命がどうこう言ったのが悪かったのですね。
そうだ、天罰だ。
なるほど、納得しました。
私は他人から異常なことを平然とされることが多いし、暴言を浴びやすいのですが、
これは「体質」みたいなもので、苦痛に感じながらも適応して生きてきました。
うん、確かにこれは天罰だ。バチが当たったんだ。
なるほど、華厳命さん良かったですね。貴方に代わって天が撃ってくれましたよ。
私も良い勉強になった。本当に私が悪かったのだ。
私は誰から何を言われようともやはり黙ってれば良かったのだ。
だって、いつもそうして生きてきたんだから。それでかろうじてこの人生を生き延びてきたのだから。
私も我ながら不思議に思いましたよ。
そうか、やりなれてない悪事を働いたからなんだ、納得納得。
で、この苦痛はいつまで続くのか?ん〜、分からない。
なるほどねえ、悪事を働いた者が受けるべき天罰の苦痛もまた良い経験だ。わっはっっは。
うん、私の生活としては珍しいくらいだからジックリこの苦痛を味わおう。
私は珍しい異常な事件ほどジックリ味わおうとする妙な癖がある。
だって面白いじゃないですか。こりゃ笑うしかない。
ベルグソン先生、アンタ本当に面白い事言うねえ。
先生が「笑うしかない」っていうのすら笑えるじゃないか。
さあ、神にジックリいたぶって貰おうか。
おもしれーじゃないか。
アンフェアな関係による苦痛もそれなりに経験してきましたが、今回のはなぜかとても新鮮な苦痛です。
なぜこんなに新鮮な苦痛なのか?却って不思議だ。
ああそれでも、もう鬱狸さんのお相手する気はありません。もうまったくありません。毛頭ありません。欠片もありません。金輪際ありません。一切関わりを断ちたいです。
ああ、なるほど、鬱狸さんに私が与えた恐怖というのがこれか!!!
確かに私は鬱狸さんに恐怖を感じると言われたし、それは偽りではないのだろう。
そうかこれがその恐怖なんだ。
なるほど、なんだ鬱狸さんに直接したことが返ってきただけじゃねえか、
自業自得だな、こりゃ。うんうん、なるほどね、耶蘇善財よ、ザマーミロってね。
・・・もう腹は据わった。私は一度腹を据えたらいかなる異常な出来事でも耐えられる力がある。
さっきは錯乱状態に近かったが、大分落ち着いた。
私は一度腹をすえてしまうと、トコトンそれを自ら味わおうとする。
「心頭滅却すれば火もまた涼し」とは快川紹喜師か・・・。
うんうん、そうだよ。
ここではとてもかけない(週刊誌ネタクラスの)異常な事件も、
それが極度の珍しさ故に故意にジックリ味わおうとした記憶がある。
酒だのトランキライザーだのヒーリングだのとか一切考えない、故意に退ける。
敢えて味わう。
だって面白いじゃない。
世の中の人は場面によっては「棺桶まで」と言う約束で信頼と尊敬のできる方に
事態の真相をぶちまける・・・、なんてことはいくらでもあろう。
そして私はそれを裁く気はない。それはそれで良いんだと思う。神はその人にはそれを認めたのだから。
でも神は私にはそんなこと赦してはくれん。
聖書一冊私にポンとくれてやり、
「あとは勝手にテメーで解読しやがれ」
これだけだよ。その時神が私にしてくれたのは。
身体壊す課と思うほどの苦痛の中で解読に数ヶ月かかった。
あれもまた良い思い出だ。
どんな種類の苦しみも一通り味わうのが良かろう。
人生生きてる間はなんでも経験だ。
「無事息災を祈願する」なんて芸がないよ。
退屈な人生を望むなら話は別だが。
人生は「辛いか楽か」が問題なのではない。
「充実しているか否か」が問題なのだ。
[教訓] 能ある鷹は爪を隠す
このたび愚か者の耶蘇善財が改めて思い知らされた日本人なら誰でも知ってる言葉である。
そして実は数年前、私は同じ失敗をやっている。
私が高校時代受験英語を教わった先生は神戸女学院英文科出の方だった。
家がご近所なので、私が赤ん坊の頃にダッコしたことすらあるという。
多くの教え子でもこの先生に赤子時代に抱っこされた教え子は流石にいないであろう。
私は高校時代「仏教は素晴らしい」の一言で脳内が埋まっていたので、
反対に聖書については「赤子」同然であった。
仏教の高度の論理性に驚嘆していた私は「キリスト教信者なんて頭がおかしいんちゃうか」と思っていた。
特に人格神に納得できなかった。私には汎神論的傾向が中学時代からあったので、尚更違和感を感じた。
さて、この先生「英語だけじゃつまらない」ということで、ある大学/大学院に進学して
刑事訴訟法専攻の(私の知ってた時点で既に)後期博士課程であった。
私は哲学で院に行ってしまったので、「流石に哲学ではもはや敵わないとはいえども、
少なくとも聖書に関しては自分の方が先輩だ」というハラがあったようだ。
2002年前後だったと思うが、道でばったり会った時、もうその二人の間の
話題の共通項といったら聖書以外無かったので、フツーに立ち話してたら、
フっと気付くと先生のお顔が引きつっているのである。
私は膨大な分量の旧約聖書から(いや、でも私の必要なところだけw)何々書何章何節「〜」って平気で暗誦で話すのでゾッとしたらしい。
「シマッタ!」と思った時にはもう遅い。あわてて
「あ、牧師でもこんなのいませんから。私ぐらいのもんです」
と付け加えはしたが、それだけでなくそもそも私の神話解釈の切り口がおそらく
前代未聞のものだったからというのもあったろう。
そしてそれ以来私はその先生からなんとなく嫌われ始めた。
私は元々その先生から見て、元々生まれたばかりのリアル赤子だったのが「哲学の院生」になり、
聖書では先輩だったハズの立場が逆転(私は神学嫌いであまりやらんのだが)したことを知られたのがいけなかったのである。
なんだ、結局ヴァカは死ななきゃ治らねえってか・・・。
ただ私のキリスト教世界での位置がどのあたりかについては、いかなる罵声を浴びようとも翻すわけにはいかない。
罵声を浴びれば私の身長が縮む訳ではないでしょう。
ただ「思っていても言うべきではないのではないか」という趣旨のご批判を受けたかと思うが、
そのご指摘ならまぁ確かにその通りかもしれない。
やはり妄りに口にするべきでは無かろう。私の現実の背丈が高かろうが低かろうがに関わらず・・・。
「自分もそれなりに悟るところはあった」という表現ぐらいにとどめておくべきだったか?
ちなみに辨榮聖者は正式に得度受戒してからの話だが4年程度、24歳で悟ったという。
私が洗礼を受けたのが1995年12月24日で、それなりに悟るところがあったと言いうる一応の線に到達したのが2000年初夏である。
その期間は4年半。
いや、別に辨榮聖者と張り合う必要なんぞ全くないが(当たり前だw)、辨榮聖者も修行の早い段階から華厳経研究に打ち込んでいたようである。
ちなみに私が今師事している仏教学者の河波先生は浄土宗の僧侶で、辨榮聖者の直系の孫弟子にあたる。
辨榮聖者 → 田中木叉 → 河波昌先生である。
パターナリズムの問題については後日書こうと思う。
元祖パターナリズムと通俗パターナリズムの2項目に分けて記述する。
通常世間でパターナリズムという場合は私がここで便宜上名付けた「通俗パターナリズム」に該当する。
ああ、明日友人が遊びに来るのに夜更かししていていいんだろうか?
・ パターナリズムの問題。
・ 「大人が子供に」や「親が子供に」ではなく、
「大人が大人に対して」宗教教育を行う際の注意事項について私はかなり厳しい規準を設けている。
具体的には教育する側に相当の覚悟と実力が必要であるということである。
(だがそれは聖書に端的に示されていることがらである)。
この2点を後日記述する。
読む人は相応の覚悟を決めて読んでいただきたい。
215 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2007/02/17(土) 14:07:50
連投規制にひっかからないね
216 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2007/02/17(土) 16:25:50
217 :
鬱狸 ◆2qu5tVDKNg :2007/02/17(土) 19:14:31
ずいぶんお書きになりましたね。あなたに苦痛を与え続けていることには心よ
りお詫びいたします。「天罰」というふうには受け取らないでください。むし
ろあなたがワンステージ上昇するための「産みの苦しみ」と捉えてはどうでし
ょうか。
私はあなたに何の恨みもありませんし、復讐しようなどという思いはありませ
ん。ただ、目覚めて欲しい、それだけを切に願っています。
私があなたの実名を知っていることを非常に気にしておられるようですが、
それを利用してあなたを脅迫したりしようというなどという気は毛頭ありませ
ん。どうしてそのようなことを気にされるのかよく分かりません。
教訓は「能ある鷹は爪を隠せ」ではなくて、「汝、自身を知れ」であります。
自分を偽って謙虚にしても問題は何も解決しません。自分を知らないで謙虚を
装うのを仏教では「卑下慢」といいます。「増上慢」の反対語です。
要はルカ伝に書いてある通りです。自分の目の梁を取り除くために私は日夜
努力していますが、なかなかうまく行かなくて、気がつくと、雨後の筍のよう
に無知とエゴが育っています。「ハッ」と気付くことがしばしばです。自分と
いうものが何と恐ろしいものか。
これに対処する方法は私の知る限り内観しかありません。聖書には言葉だけあ
って、実践方法が書かれていないようです。(断言は避けます)
実は華厳経にはプリミティヴではありますが、若干のことが書かれています。
「十無尽蔵品」の「慚蔵」・「愧蔵」の記述です。自分の過去を振り返って他
人にかけた迷惑や恥ずべき行為を反省するということが書いてあるのです。
しかし、内観に較べると非常に単純で効率的とは言いかねるものです。
「霊操」についてはよく知りませんが、自分の罪を反省するという意味では
意味のあることではないかと憶測します。
耶蘇様がいま全力で取り組むべきことは自分を正しく知ることであり、それを
怠り知識ばかり増やしても「野狐禅」ならぬ「野狐耶蘇」になるのがオチだ
と愚考します。
218 :
テイネー ◆9coRpu.8Vw :2007/02/17(土) 19:17:39
このスレは勉強になります。感謝。
>217
諸般の事情により、「内観」はいたしません。
ただ私は「内観」を否定するのではなく、それはキチンとした指導者の↓で行えば
素晴らしい効果を上げるであろうことも否定しません(本当です)。
さて私は「自分のことがまるで見えてない奴」と今も思い続けている鬱狸さんの
激しい思い込みに脱力感と、私を頭から呑んでかかっている鬱狸さんの態度に
勝利の予感を感じました。
>聖書には言葉だけあって、実践方法が書かれていないようです。
ちゃんと「祈り」があります。
取りあえず私がこのスレで挙げた聖書の箇所(下に再掲)全部ちゃんと目を通しておいて下さい。
鬱狸さんが聖書と言っても「新約聖書」しかお持ちでないのかと訝しく思っています。
ちゃんと旧約聖書をお持ちなのでしょうか?
読書家の鬱狸さんのことですからてっきりお持ちなのかと思いましたが、どうもおかしいなと首を傾げています。
イザヤ書53章、黙示録11:1-12、歴代誌上16:22(詩編105:15)、エレミヤ書2:3、ロマ書8章29-30、
>>179 :普愚菩薩:2007/02/14(水) 13:31:52
(中略)
>しかしそれを心中にひとり思うのみならず、安易に口外するという点
>において、小生は一抹の違和感を抱かざるにおれません。これは小生
>が自己主張に否定的感覚を有する日本人だからかもしれませんが。
この方のこの箇所の投稿には首肯できるものがある、と今この瞬間もやはり思っています。
妄りに言って良い発言ではありません。ただ例の「帝王」発言は元々は「〜から二等兵」へ
ということを強調する為に飛び出した言葉であるということは申し添えておきます。
ともあれ再三申している通り、 一 方 的 な 関 係 は お 断 り し ま す 。
「指導者の↓」を「指導者の下」に訂正。
221 :
鬱狸 ◆2qu5tVDKNg :2007/02/17(土) 21:03:45
勉強のために一つだけお聞きしたい。
「祈り」がいかなる意味において自己を見つめる手段なのでしょうか?
ちなみに私は不勉強で旧約聖書は殆んど読んでいません。これは明らかにしておきます。
>>218 「耶蘇善財」という名の狂人見物をごゆっくりお楽しみ下さい。
>ちなみに私は不勉強で旧約聖書は殆んど読んでいません。これは明らかにしておきます。
そうではなく、私の引用した箇所を読んだのですか?
それからとにかく本名を私に信頼できるもの(運転免許証や健康保険証等のコピーの
大事な数字などは黒塗りにして結構ですから)を私にメールで添付してご送付ください。
ただ「「○○」が私の本名です」と言われても、もう私は鬱狸さんを全く信用していないのです。
そこまで信用を失っているのです。
ともあれ再三申している通り、 一 方 的 な 関 係 は お 断 り し ま す 。
225 :
鬱狸 ◆2qu5tVDKNg :2007/02/17(土) 21:49:36
あなたとは喧嘩別れはしたくないのだが、不幸な縁になったようですね。
残念ながら、自分を批判する人間に「運勢が低下する」というようなことを平気で
言う人に無制限にプライバシーを公開することができるほど私は人間ができてはおりません。
勝手に本名を名乗った人間にこちらが本名を名乗らなければならない義務は法律的にも常識的にも発生しません。
まだ、機が熟していないところに私が焦って急いだのが良くなかったみたいですね。
今のあなたには何を言っても無駄でしょう。あなたの求道が成就することを祈らせていただいて、お別れしたいと思います。
気が向いたらまたメールでもください。
226 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2007/02/17(土) 21:51:09
・・・・・・・と、日記には書いておこう。
・ 一方的に絶縁を宣告しておきながら、自ら絶縁状態を一方的に破った。
これは筋を通す訓練ができていない。男らしくもなければ大人らしくもない。
筋を通すということは多くのものを失い、傷を負いますが、しかしそれを補って余りある
収穫があります。今どきの人はその筋を通すことができてない人が多い。
・ 次に「教えを請いたい」と貴重な華厳宗スレに書き込んで、実際には私に「教えに来た」だけだった。
私は価値ある「華厳宗スレ」の貴重な残りレス数を惜しむ気持ちから「こちらのスレで」と応じた。
・ 人にものを教わろうという態度とは到底思えない。私は他人様の慶事を喜び、また他者に貴重な情報を
与えることを喜ぶ者ですが、こういう方には何も教えてあげたくありません。
最後に一番重要なことですが、
・ 私はあなたに見下されている間は「自分も未だ安心だ」と考えています。
私は少しの期間といえども恩義を被った方に対してキツイ表現を
向けたくなかったのですが、もう今はやむを得ないと考えています。
それでは、さようなら。
>>218>>226 せっかく見物して楽しんで頂いてたところですが本日の劇はお終いです。次回は30年か50年後にでも。
228 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2007/02/17(土) 22:11:49
お疲れさんですた・・・・・( ^-)_旦~ドウゾ
229 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2007/02/17(土) 22:15:59
いや〜、手に汗握らせてもらった。
熱演ありがとう。
それにしても、結構見物人いるんだな
230 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2007/02/17(土) 22:17:00
宗論はどっちが勝っても釈迦の恥
という川柳があるが、今回は釈迦もキリストも恥をかいたな。(笑)
231 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2007/02/17(土) 22:18:32
結局、立会人は何人くらいいたんだろ。
俺を入れて3人か?
232 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2007/02/17(土) 22:19:37
鬱狸のしつこさにも辟易するが、耶蘇善財の未熟さはお笑いものだ。(藁)
>230
本当にお見苦しいところをお見せしてお恥ずかしいです。
>228
どうも!いただきます。
>>all
私の帝王発言ですが、まぁ確かにご指摘を受けたとおり、
思っていても口に出すべきではないんじゃないかという指摘に
心底から首肯するところあり、そのせいでクダララナイ騒ぎになって申し訳ない。
ただ華厳宗スレが汚れなくて(最小限で)済んで良かったです。
>232
ははは、笑って下さい。やっぱり帝王発言は良くないですよね。
235 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2007/02/17(土) 22:54:31
やっぱり華厳命の行ったとおりだな。耶蘇善財もだめ。耶蘇もだめ。
>235の発言と全く正反対のことを言うのですが、
聖書は新約聖書だけでなく、創世記から始まる旧約聖書もついてる本を買って下さい。
本棚の肥やしになるだけでも結構ですから。
なるべく「新共同訳」ではなく、「口語訳」(1954年新約、1955年旧約)がいいです。
もし新共同訳を買うときは「旧約続編付き」というほうを買うことをお勧めします。
これはカトリック用ですが、やはり必要になる場面も出てくるので。
イザと言うときに参照できず、これから買いに行くというのでは遅いわけです。
私も岩波書店から出ているプラトンの著作は、すぐに読む予定がないものでも
とにかく書棚に置くよう心がけています。
もちろnコーランもも四書五経もそろえています。
237 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2007/02/17(土) 23:11:38
(:D)| ̄|_ なぁーんだ。また再会かおー・・・・・・(・∀・)ニヤニヤ
238 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2007/02/17(土) 23:13:30
マザーテレサやヨハネパウロ2世みていてキリスト教には好感を持っていたのだが・・・。
239 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2007/02/17(土) 23:27:08
よほど本を持っているのを見せびらかしたいんだね。一種の露出症。
240 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2007/02/18(日) 00:15:36
つーか、耶蘇善財は『幻魔大戦』(平井和正のな)あたりから
やり直したらどうだ。
「光のネットワーク」という概念によってオウム真理教のバイ
ブルとなったあの宗教小説こそ、光好きの耶蘇善財にオススメ!
ついでに、宗教者が陥りやすい傲慢を、主人公東丈がいかに克
服して救世主として成長していくかを学ぶのもよろしい。
241 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2007/02/18(日) 00:33:08
未熟、未熟。
242 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2007/02/18(日) 01:03:06
神秘主義者グルジェフの『ベルゼバブの孫への話』(平川出版社)は
どーだ?
俺はまだ読んでないんだが(スマン)、神が人間の脳に神を信じるこ
とをインプットしたのは神が人間の死後に魂を食らうためであり、な
ぜなら神は人間の魂が大好物だからだ、しかし神の策略に目覚めた人
間の魂はまずくて食えたもんじゃないので神は食らわない、だから人
間は神の策略に目覚めなければならない、という話らしい(耳学問)。
山田正紀の小説『神狩り』(早川SF文庫)みたいなもんかのう。
>239
私には
その方々には私も敬意を抱きますが、
少々キツイ言い方すると、キリスト教の奥義を掴んでいたとは私は認めるわけにはいかないのです。
もちろん、その仕事は立派なものだとは評価しますが。
問題は自分が名声を得るような行動はしちゃいかんのですよ。
罵声をあびてるくらいでちょうどよろしい。
>240
小説は大学入って以降私は一切読みません。
「ドストエフスキーぐらい読んだらどうか」と言われるほどで。
でも私には世の中で起こることの現実は小説よりも複雑怪奇で面白いんです。
>242
いや、私には華厳経の勉強に興味の中心があります。つうか242さんも華厳経学びませんか?
まあ、結果的に名誉がついてきてしまったのならそれも仕方ないですけどね。
う〜ん、何と言ったらいいのか、チト適切な表現が浮かばない。↓の件。
「少々キツイ言い方すると、キリスト教の奥義を掴んでいたとは私は認めるわけにはいかないのです。 」
自分が死ぬことによって代わりに相手が生きるとか、
自分の名誉とそこにいる正当性なりをはぎ取られてでも泥を被る、
それによって損害がどこまで膨れあがっても、沈黙を守る。
これは片鱗ですけど、そういうことがキリスト教の奥義なんですね。
だからイエスの墓標にかけられた札は「ユダヤ人の王を自称していた」。
私がさんざん叩かれている帝王発言と同じですね。
「ユダヤ人の王」ではなく、「ユダヤ人の王を自称していた」
私も「キリスト教の帝王を自称した」故に皆さんから罵声を浴びているわけで・・・。
つうか少なくとも私が指示した聖書の引用箇所ぐらよんでくらはい。
248 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2007/02/18(日) 01:36:48
>>243 宗教書も文学書も他人の思考法を伝えるという点で同じであり、他人の
脳みそのバックアップコピーみたいなものさ。そもそも聖書も華厳経も
一種の小説だしな。
たまには小説でも読んでみると他人の思考法がわかってそれこそいろん
な方位からものごとを眺められるかもしれないぜ?
さて私は明日「クザーヌス的念仏」をする念仏道場へ行くのでもう寝ます。
>>248 一理ありますが、たとえばキリスト教の究極奥義を
ドストエフスキーのカラマーゾフの5-5「大審問官」を私は全肯定するわけにはいかない。
あれは良い線行っててさすがドストエフスキーだとは言えますが、
惜しむらくはその「大審問官」を悪者に描いているところです。
あれは完全な誤りです。
すんません、本当にもうオシッコしてねます。寝小便しないよう気をつけますw。
あかん、修正します
「たとえばキリスト教の究極奥義を表現しているとは言えない実例として」に訂正
さあ、気合いが入りすぎててもう目が覚めてしまった。
ただ天気が悪いので念仏道場に行くのがやっかいだ。
和菓子買ってきてくれとも言われてるから傘一本が重荷だ。
レスアンカー間違えていました。
「>239
私には
その方々には私も敬意を抱きますが、 」は、
>>238の誤りです。
変な間違いですんません。
255 :
くしこ:2007/02/18(日) 10:18:36
キリスト教ネタかい。宗教板でやればいいんじゃない?
256 :
くしこ:2007/02/18(日) 10:23:41
>>246 あっ、身代わり云々の話しはさ、
相手を怒らせて、周囲に相手を悪く見せるための手法。
私、旧典礼時代の信者だったからね。。。
>256
その話は知りませんが、私の説明が下手で違う話と混同させたようです。
もう今すぐ出かけますんですんません。
258 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2007/02/18(日) 17:59:18
だから麻原の墓標にかけられた札は「最終解脱者を自称していた」。
私がさんざん叩かれている帝王発言と同じですね。
259 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2007/02/18(日) 18:46:38
決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫より巳来常に没し、常に流転して、出離の縁有ること無しと信ず。(善導大師『観経疏』)
>>255 ここはキリスト教ネタじゃなくて謙遜の話が流行ってるところなのよ。
ホラ、このごろ都で流行る歌なんてのが社会科の教科書にあったじゃないさ。
で、今私はこの板の看板である「神社仏閣」から帰宅してきたところです。
>>259 「決定」って(けつじょう)と読むので正しいですね?
善導大師かぁ、今日の念仏道場での講話でも登場した名前だ。
さて、私は前回念仏道場で感じた疑問というか違和感というか私の趣味好みと合わないものがあった。
それは念仏しながら木魚を叩くことである。
で結構それが長いのが何回もあった。
で、今日終わってから、導師のK先生に「私は合掌の方が好きなんですがあ」と
とお話したら、では「合掌でも結構」とアッサリOKが出た。
木魚は要するにリズムを取るためだけだそうだ。
なんだ、これなら先月言っておけば良かった。
ただ礼拝(らいはい)前に、みなさんあちこちの部屋でベチャベチャおしゃべりしているのには閉口した。
私は礼拝開始数十分前に教会の礼拝堂で座って、ボーっとしているのも勿体ないので、
祈っている(ちなみに激しく目立つらしい)。
せめて黙って座って黙想でもしてろって思う。
今日びの人たちは一体修行道場というのを何と心得ているのだろう?
262 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2007/02/18(日) 19:51:44
信心もないのに念仏か。浄土宗は寛容でいいね。キリストさんからはおこられないの?
・ 余所の釜の飯を食うのもたまには勉強になっていいんじゃないかな?
自分が結婚して子供出来たら、中高ではミッションスクールなんぞいかせないで、
禅宗系の学校に行かせようかと思ってるくらい。
一つの世界しか知らない人間は貧しい。
そしてそれは第三者からみれば哀れにすら見える。
・ キリスト=「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ伝)。
イエスとキリストという異なる概念を混同してるんジャマイカ?以前書いた通り、
「イエスとキリストは不可分一体の結合概念である」という神学説を私は認めない。
ただ、そうですねえ、数十年前世界中のキリスト教世界で猛威を振るった
バルト神学の影響を強く受けた人なら怒るかもしれん。
バルト神学なんて糞食らえだ。(ぺっ)
哲学人文の世界では一般にバルトというとロラン・バルトを指す。
だが宗教論の世界ではバルトというと神学者のカール・バルトを指す。
紛らわしいので注意が必要。
264 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2007/02/18(日) 21:27:18
イエスはんとキリストはんは違うのですか?
265 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2007/02/18(日) 21:28:29
( ゚Д゚)<南無妙法蓮華経〜! ( ゚Д゚)<南無妙法蓮華経〜! ( ゚Д゚)<南無妙法蓮華経〜!
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>264
イエス様は確かにキリストです。
でもキリストがイエスだけかというとそうでもないでしょう。
大乗仏教での"釈迦如来"と歴史的人物のゴータマ・仏陀とを比較してみれば、
そう突拍子もない発想でもないことはわかっていただけると思います。
「南無妙法蓮華経」と唱えるのも一概に悪いとは思わないというのが私の考えです。
た だ し 、 キチンと「合掌しながら出来る限り長時間行って欲しい」というのが私からの注文です。
・・・なんか急にこのスレ荒れ始めたなぁ。
なぜだろう?
私が誰を愚弄したというのか?
私が誰を嘲笑したというのか?
私が誰を侮辱したというのか?
私が誰に損害を与えたというのか?
さて日曜日、念仏道場で、東洋大学哲学科出身でクザーヌスで卒業論文を書いたという女性が来てた。
K先生によると「大学院に上げたかった」くらい優秀だったそうで、ただ女子学生の大学院進学となると
諸々の制約が出てくるのでしょう。親が「嫁のもらい手がなくなる!」と反対するとか。
クザーヌスで論文ということは語学力もあるということですねえ。
で、私はクザーヌスをまともに読んだことがないので、その方に
「私は(クリスチャンの癖に)全然読んでなくてお恥ずかしい」と申し上げた。
本当に恥ずかしい。
K先生はニコラウス・クザーヌスをかなり重視する方なので、
私には本当にK先生との関係が様々な角度からの刺激になって、本当に良い先生が与えられたと喜んでいる。
あと帝王発言問題ですが、
既に書いたとおり「〜から転じて仏教の二等兵」として歩みたいという
「二等兵」に対する対極として飛び出したという経緯があるわけで、
その辺もご理解して頂きたいものである。
謙遜とはなんであろうか?最近の身辺での出来事で、私なりにつらつらと考えてみた。
§1
人は一般に優れた技能なり知識なりを持つ人を見ると、あるいは畏怖し、あるいは憎む。
そこで人は自分の精神の安定のを保つために心理学で言う「引き下げの心理」を行う。
「引き下げの心理」とは所謂"あら探し"である。
「あいつはこういうところだ駄目だ」と自らに、あるいは他人に言い聞かせ、それによって自らの精神の安定を図るのである。
さて、一体なぜ引き下げの心理はいけないのだろうか?
ふつう人はその答えを道徳に求める。だが、私の考えは全く異なる。
「孫子」を持ち出すまでもなく、敵の勢力を実際よりも低く見積もると、その戦はと敗北という結末へ行き着く。
旧ドイツ帝国の"鉄血宰相"ビスマルクの言葉に、
「愚者は経験から学び、賢者は歴史から学ぶ」という言葉がある。
ここでアジア・太平洋戦争での「ガダルカナル島の戦い」を例にとってみよう。
ミッドウェー島攻略部隊として派遣された陸軍兵士たちのうち、ガダルカナル島攻略へ転用された一木清直大佐の支隊は、
2,400名中わずか916名の先遣隊だけで敵に攻撃をしかけた。
これは敵勢力を2000名程度と誤認して実際よりも少なく見積もったからである。
そして「ただ上陸地点に残った留守部隊を除く戦闘参加者は約800名で、戦死者は実に777名に達し」、
「1日の戦闘で部隊は壊滅した」のであった(WikiPedia「ガダルカナル島の戦い」参照)。
後に同島で川口支隊が敗北したときも「日本軍はアメリカ軍を5,000名と判断していたが、実際には18,000名に増強されていた」。
もちろん同様に惨敗を喫した。
私が言うのはこれなのである。
私は宗教を道徳と分けて考えている。あるいは道徳に対する興味があまりない。
あくまで「宗教」である。ある哲学方面での読書会の後の高齢の食事解で(無信仰の)ある先輩が、
「お前はキリスト教じゃねえ。「宗教」だ!」と行ったことがある。
その通りである。良くも悪くも私は宗教であってキリスト教ではないのである。
私の研究対象も「宗教」であって仏教でもキリスト教ではない。
(勉強ならするが、勉強と研究は違います)。
さて、その「宗教」的見地から見て、相手を見くびることは何がどう良くないか?そしてそのからくりは?の問題である。
§2
預言者エレミヤは、必勝である。なぜなら神がエレミヤをそのように作ったからである。
エレミヤ書第1章19節にはこう書いてある。
「彼らはあなたと戦うが、あなたに勝つことはできない。わたしがあなたと共にいて、あなたを救うからである」と主は言われる。
このスレを見ている人は私のことを阿呆だと思っているだろう。確かに天然ヴォケであることは認める。とても莫迦っぽい。
だがこれこそが私が戦に強い原因なのである。
見せかけの謙遜には他人に与える不快感が少ないので、互いの平和には役立つが、
見た/聞いた瞬間に零コンマ何秒で「あ、謙遜してるだけだな」と分かるような謙遜は、
その平和にしか役に立たない。
(もちろんそれはそれで大事ではある。「あなたがたはできるだけ平和に過ごすようにしなさい」と聖書にも書いてある)。
「策士策に溺れる」という。だが私は断じて策士ではない。極度の不器用者であり、更には天然ヴォケである。だから他人から舐められやすい。
人間も動物である。そして動物というのは相手を自分より弱いと見るや攻撃しにかかる。
匿名掲示板の2ちゃんねるでは、これがモロに出ている。
当人(私)には不快ではあるがこれが逃れようのない定めなので仕方がないと諦観している。
預言者エレミヤは、生身の人間である。更には年齢も若い。聖書神学によると30才弱程度であって
その当時でも、重々しい「老人」と呼ばれる年齢ではなかったであろう。
そのエレミヤにも当然得手不得手があるハズである。
エレミヤを憎む者たちはエレミヤの弱点を突こうとする(当たり前だ)。
ところがエレミヤの得意とするところこそが、相手方からはエレミヤの弱点に見えるのである。
そうしてエレミヤと相対峙した時には、エレミヤに勝つ言動行状を行う自由意思を既に喪失しているのである。
これがエレミヤの必勝の理由である。
「将棋に必勝の手はないという。従ってエレミヤが生身の人間でありながら必勝だなんて、そんなの古代人の妄想の産物である」
と考えるべきではなかろう。
「高齢の食事解」→「恒例の食事会」に訂正。
私の急務 今年一年間(年末か来年3月末まで)でどこまで読めるか?
・ 華厳経 を読める限り(いつも言ってる通り)。
・ 華厳五教章 (挑戦する時間ができたら)。
・ 「辨榮聖者」関連(恥ずかしながら今年この年齢になるまで存じ上げなかった。もう存じ上げないこと自体が不敬だよこりゃ)。
・ ニコラウス・クザーヌス(Nicolaus Cusanus)の日本語訳で入手した限りのもの。
「学識ある無知について(De docta ignorantia)」平凡社ライブラリー、
『神を観ることについて(DeVisione Dei)(他二編)』岩波文庫、ちなみに他二編というのは
『オリヴェト山修道院での説教』『ニコラウスへの書簡』
『華厳五教章』については、辨榮聖者も二十代前半の若いころに、
しかも正式に得度出家して後の比較的初期に学んでおられるのだ。
さて、自分は妙な星の下に生まれたと見える(「星」という文学的修辞ぐらい許して下さい。
「いやどうしても許さん!」という方は自ら西洋占星術を学び、その知識からご自由に推測してください。)
・ 先ず、哲学/(宗教哲学)/(倫理学)/神学/仏教学のどれも問わず、常に一流の先生に師事する事を得てきた。
ただ、いかんせん高齢の先生にばかり師事してきたので、必然的に、遠からずこの世でのお別れの日が来る。そしてその繰り返しだった。
善財童子もまた、一人の先生から次の先生次の先生へと師匠を転々と移っていったのである。
私が耶蘇「善財」を名乗るにも相応の理由があるのである。
私を耶蘇善財と呼びたくない人はよくよく考えるが良い。
・ 次に私は「長子継承(権)」の星を持っている。
創世記25章末尾にあるお話が出てくる。エサウとヤコブが登場する場面である。
エサウは長子相続権を持つ人だった。
しかしたった一回の食事を得るために、「彼は誓って長子の特権をヤコブに売った」(創世記25:29-34)。
こういう星を持つ人の具体的な例として有名な逸話がある。
唐の青龍寺で若き空海に対し、恵果阿閑梨は、
初対面時点からすぐに「法」の一切を伝えるべく動き始めた。
そして空海初対面からわずか数ヶ月後に恵果阿閑梨は亡くなった。
既に高齢になっていた恵果阿閑梨は、1000人の門弟を抱えながら自分の法灯を受け継ぐに価する器の弟子がいないことに悩んでいた。
確かに数名はいくらか優秀な弟子もあったようだが、法灯の一切という器ではなかったそうである。
そこへ「異国の僧の空海とやらが、長安で文人らと交わり、異能異才を放っている。なんでも密教を習いたいのだそうだ」
といううわさ話が耳に入った。「大唐国広しといえども」密教の奥義を本気で学びたいなら自分のところ以外ない。
いずれ自分の所へ空海という修行僧は来るであろう。そう考えていた。だが一向に来ない。
これは準備として梵語を習ったりなんなりしていたのであって、決して遊んでばかりいたわけではない。
「空海は入唐する前に既に相応の水準に達しており、あとは仕上げの画竜点睛が必要なだけだった」。
というのがこの師弟関係は定説のようだし、私も同意見である。
U牧師との初対面のときの二人の最初の話題がイザヤ書53章であった。
こんな牧師と信徒はキリスト教史上まずないだろうと私は考える。
そして初対面の時の出来事は空海と恵果阿閑梨との邂逅時の有名な逸話と、寸分違わず同じであった。
私が書簡で書いてないことをもうわさ話で既に知っていた。それによって
「そういう奴ならいずれ自分のところへ来るだろう」とお考えだったようである。
だが数ヶ月間私はその教会のその牧師先生のところに足を運ばなかった。
私なりに準備をしていたからであった。
恵果阿閑梨は空海を、U牧師は耶蘇善財を数ヶ月間首を長くして待っていた。
U牧師は敵味方がハッキリ分かれる人だった。支持者と反対者とがクッキリと露わになるのである。。
そして私はその団体内ではU牧師の「秘蔵っ子」「筆頭の子分」などと陰口(悪く言われて)されているであろう。
それはともかく、結局U牧師の後継者に成り得る者は、
耶蘇善財以外いないであろうことは自他ともに認めるところである。
私は自分の運命があまりに過酷な上に異常なので不思議に思い、占星術の勉強までするハメになった。
私は自分が誰なのかを知っております。
[訂正]
>>277の2パラグラフ間に↓を挿入。
「私はエサウとヤコブの両人のうち、ヤコブの側の立場だった。」
>>278「恵果阿閑梨は空海を、U牧師は耶蘇善財を数ヶ月間首を長くして待っていた。 」
の後に
「一番後からやってきた弟子でありながら、師匠の持つ極意を会得してきた」を
を追加。
つらつら思い出してみる。
>「耶蘇ちゃん」
・・・・・・なんだこりゃ???
>「「野狐禅」ならぬ「野狐耶蘇」になる」
これもおかしい。
それを言うなら「耶蘇善財(やそぜんざい)ならぬ「野狐善財(やこぜんざい)になってしまう」
でそ?
だって善財童子の偽物版と言いたいなら、「野狐善財」より適切な表現はないでしょう。
要するに侮蔑の意図の現れに代わりはないが、
このようなミスをするに至るのはチト見苦しい。
私は他者から侮辱を受けるのに慣れているが、
「どうせやるならうまくやれよ」と思う。
さあ、今日も夜明けまで本を読もう。
(自分は本を読むのが異常に遅い。他人様の読書の速度に恐れを抱くばかりである)。
午前中用事を外で済ませて帰ってきてから眠ろう。
天気予報では南関東は寒くなる(最高気温9度)というが、
外気温が低いほうが、私はPCの冷却が出来て却って電気代が助かるのである。
ちなみに今この時間はどう考えても寒くない。セーター不使用。衣服も二枚しか着ていない。
思い返してみるとあの人はいつも上から下に向かっての口のきき方だった。
私が特定の事柄の先輩と仰いでいただけなのに、なぜか何時の間に人生の師匠ヅラを始めた。
そして私からは、何事かを学び取ろう(盗み取ろう)という態度を私は一回も感じたことがなかった。
これは全部両者の関係の状態が良好な頃の話である。
283 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2007/02/20(火) 07:20:17
ひょいひょい
「祈り」は「思う」行為とは全く異なる。
思うだけでは「祈り」ではない。
私は挨拶文の末尾に「〜をお祈りします」と書いて実際には祈らないということはない。
書いた以上必ず、それは祈る。
逆に祈って差し上げようと思うときには何か「〜を祈ります」と書く場合もあるし、
書かずに陰ながら祈ることもある。
「祈る」行為は「思う」こととは全く違う。
禁煙したい人はタバコをやめたい、と思っているわけである。
または禁煙続行中に「ああ、タバコを吸いたい」と思うわけである。
禁煙中に「タバコを吸いたい吸いたい、無性に吸いたい、タバコタバコ煙草ああ吸いて〜」
と頭の中は「タバコ」のことで一杯になる。
あれは依存性薬物ですからね。
でもその「タバコ吸いたい」という思いは「祈り」ではない。だが
「依存性薬物なくして健全な社会生活を送れるように」と「祈る」のは正真正銘の「祈り」である。
そう祈っていながらの禁煙中に「タバコ吸いたい」と「思う」のは思ってるだけであって、
タバコを吸いたいという「祈り」ではないのである。
つまり「祈る」のと「思う」のは違うのである。禁煙に成功した私はそう考える。
世の中には、仏教、と言っても興味があるのは禅宗のみであり、
禅[宗]と西田幾多郎と鈴木大拙しか読まず、
浄土教系の他力宗をバカにして見下している御仁がいる。
これはある耄碌爺さんのことなのだが、耄碌しているだけならいいんだが、
とても頑迷でみんなが迷惑していた。
「ああなってはいけませんよ」という良い見本にはなるが、それだけでなく、
禅宗のみを良しとし、他力宗をどこかでバカにしているフシがあるのは、
何を隠そう、十台後半頃の私の姿なのである。
あの爺さんを見る度に自分の過去の姿が思い出されて本当に恥ずかしい。
鏡、いやビデオテープを見せられているようだ。
旧約聖書と新約聖書の関係。
これを世間の人も、いや教会の人も、更に言えば牧師ですらも、
旧約聖書は新約聖書よりかなり格下のものと位置づける人がほとんど全てである。
「旧約の律法から新約の福音へ」などというバカなスローガンを掲げた議長すらいる。
(議長というのはプロテスタント教会のトップの椅子。左翼系のトップが「書記長」「委員長」などというのと同じ)。
仏教でいう教相判釈を思い浮かべそうなところだが、
私は旧約聖書をかなり高く評価する。
キリスト教の9割なんてものではなく9割9分までもが、
旧約聖書一冊で済むのではないかとすら思う。
「99%」と「100%」とでは大分違うぞと言われそうなところであるが、
どっちなのか余り考え込んでも単なる時間の無駄であろう。
要するに教会の人たちも新約聖書ばかりでなく、旧約もキチンと読みましょうね、
というつまらない結論になるわけだが。
旧約聖書というのは一旦目が見開かれて分かり始めると、
これはもう素晴らしい宝の山に見えてくるのである。
あんな素晴らしいものを捨てて顧みない人は随分損をしていると思う。
損であり、誤りであると思う。旧約をバカにしてはイカンです。
私はタバコをやめたとき、
「ああ、俺はこれで断食できる身体になった」
と思った。
食事はしないが、タバコだけ吸って「断食しましょう」もないんもんだ。
どこの文献にも書いてないが(少なくとも私は知らない)、断食して祈りたい人は
タバコをやめてからするべきでしょう。
そうでないなら断食はしてはいけないのではないかと思う。
「断食して祈る」具体的な方法というのは実は教会では伝わっていない。
私はプロテスタントだがもともと宗教改革者の先頭のルターは修道士だったのだから、
断食しながらの祈りの経験ぐらいあるだろう。自伝によると
「修行の激しさで天国行きが決まるなら、私は先ず一等に天国へ入れたであろう」
と言っている。
だが断食の手段が教会に伝わってないとはどういうことだろうか?
神学の方々はこの数百年間いったい何をしてきたのだろうか?
ウォッチャーの方々も多いようなので、断食について、
何か意見なり知識なり思うところなりある方に訊いてみたいのですが。どうでっしゃろか?
[ 才能について ]
道元も極真会空手の大山倍達も口を開くと
「人間持って生まれた素質に大した違いはないのだ。ただどれだけ努力したか、打ち込んだかの違いに過ぎないのだ」
とそればかり言う。
つまり「進歩向上が見られないのは本人の訓練不足」であるという論法になる。
私は少年時代から、読む本にそう書いてあるが故にそうなのだと思い込みながら生きてきた。
つまり鵜呑みにしていた。
ある程度の年齢になってから、ある牧師(私より15才年長)のレベルの低さに
(この人は私に対してたくさんの悪事を働き、罪を積み上げた)、
内心強く「裁く」ところがあった。「なんとだらしのない奴だ」と思っていた。
「人を裁くな」
というのが聖書の教えである。結構重要な教えである(そして私はちょくちょくそれを破っている現実がある)。
思うところあって西洋占星術の勉強をするようになってから、
「ああ、あの人やこの人がだらしないのは素質の問題なんだ」と分かるようになった。
譬えていうと、剣道初段ぐらいなら誰だって努力すれば、まぁなんとかなれるであろう。
では皆が皆、努力すれば宮本武蔵クラスになれるかといえば、そんなことはないだろう。
それは持って生まれた素質の違いだろう。
「だからあの人をそうそう裁いてもせんかたないことなのだ」
と思うようになった。
〜と、まぁ、なんだか偉そうなことを書いているように思われそうなところだが、
少なくともその牧師を強く裁く気持ちが薄れたのは事実である。
道元も臨済も大山倍達も、自分が尋常ならざるに素質に「恵まれている」のだということに気付いていない。
これは大事なことだと思う。
(余談漫談なのだが一応付記しておくと)
易/『易経』は別格として、
占いの勉強をするなら、まず西洋占星術をお勧めするが、
次に東洋の占術で何を学んだら良いかである。
結論申すと「四柱推命」である。
他の占術は手出ししなくてよろしい。
「四柱推命」と「占星術」が占いの王様の双璧である。
ちなみにキリスト教では占いは厳禁されている。
しかし私は占いの「是/非」ではなく「要/不要」が問題なのだと考えている。
「キリスト教信仰一本さえあれば、私はその他に占いなどもはや必要ありません」
と言いうる境地に達するには尋常ならざる修練を要するだろう。
「占いは×」
と他人から言われた事を鵜呑みにしてはいけないと考える次第である。
大昔、「NHK特集」の始まった初期の頃、「永平寺」という特集があった。
最近の「105歳の禅師」ではなく、昭和40年代のもので、今はNHKアーカイブに入っている方である。
私はそれの何回目かの再放送を最初に見たのが中学三年生だった。
その時まさか自分が翌年永平寺に行くとは思いもしなかった。
で、DVD化されている曹洞宗モノはその最近の「105歳の禅師」のほうなんですね。
2回見た感想として、正直に申すると、大変申し訳ないのだが、あまり感銘を受けなかった。
だが昭和40年代のものは、当時平凡な中学生だった私にも、何か自分の求法の志をかき立てるものがあった。
あれのDVD化されるといいのだが、残念ながらVHSで(実家で)録画したものしか持っていない。
更に白状すると私は貧乏なのでVTRを持っていないのである。
DVD-Video再生機なら数台あるし、PCも今9台くらいが稼働中であるが、
本当はlinux/UNIX系の仮想化技術でも用いて、一台のPCでDVD-Videoを何台も同時に回せれば
あまり電気代も食わずにすむのだが・・・。
292 :
鬱狸 ◆2qu5tVDKNg :2007/02/20(火) 22:35:22
もう静かに見守っていようと思っていましたが、根本的誤解があるようなので
老婆親切かと思いますが、一言説明させていただきます。
>それを言うなら「耶蘇善財(やそぜんざい)ならぬ「野狐善財(やこぜんざい)になってしまう」
でそ?
だって善財童子の偽物版と言いたいなら、「野狐善財」より適切な表現はないでしょう。
何か根本的な勘違いをされておられます。私が言いたいのは「善財童子」の偽者版ということではなくて、
「キリスト教徒の偽者版」ということです。「野狐善財」のほうが語呂がいいので、そちらにしようかとも思ったのですが、言葉遊びしている場合でもないので、「野狐耶蘇」になるぞと警告したのです。最大級の警告です。
ほんものの宗教は帝王になる道ではなく、二等兵になる道だと思います。
キリストご自身でさえ、最後の晩餐のとき、弟子たちの足を洗っているではありませんか。あの大きな愛と謙遜こそキリスト教の妙味だとおもうのですが間違いでしょうか?
釈尊の弟子にアヌルッダという人が居て、この人は説法を聞いている途中で居眠りして釈尊に叱られた。
それ以来、アヌルッダは眠らない行をしてとうとう失明してしまった。あるとき、アヌルッダが針に糸を通そうとして「誰か福徳を求めるものはこの針に糸を通してくれ」といった。
何者かが近づいてきてアヌルッダの針に糸を通した。それは外でもない釈尊であった。「福徳を求めること、私ほど強いものはない。」と釈尊は言ったとか。
皮肉なことですがもっともへりくだることができるものだけが、宗教においては「帝王」たりえるのではないでしょうか。
釈尊の弟子にアヌルッダ ← 凄いなまえ!!
>>292 >「野狐耶蘇」になるぞと警告
実はその可能性も考えはしました。
ですからそのように解することにしましょう。
今後は袂を分かち、お互いに自分の道を歩みましょう。
ただ数十年後の自分の姿は分かっても、
鬱狸氏の姿の確認の方法は私にはありません。
しかし、きっとこの人生を生き延びることができる方だと思います。
それではごめんください。
295 :
鬱狸 ◆2qu5tVDKNg :2007/02/20(火) 23:35:29
「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない」
久しぶりに聖書を紐解いたよ。それではA Dieu!
私はラテン語とフランス語習ったことがないので、
見たときには意味が分からなかったが、
それでもネットで検索ボタン押すだけなんだから本当に時代は変わったものだ。
「A Dieu!」ねえ。
ちなみに仏教学者ではドイツ語を主に使う人がまあフツーである。
さて、このスレは従来通り日記帳として使います。
実を言うと私は妙なことが分かるようになってしまって当惑している。
それはどこかで他人が私に怒りの感情を抱いていると私の胸がズキズキ痛むのである。
2003年頃だったか「ある人に悪いことをしたなあ」と思って、
その人の胸の傷を"瘤取り爺さん"の話じゃないが、
それを自分の胸にそっくりそのまま移すイメージでパントマイムみたいにやってみた。
するとしばらく時間が経つと胸がズキズキ痛み、激しく気分が落ち込んだ。
どうやら成功のようである。
懺悔の祈りというのは胸が痛み、気分が落ち込むところまでしなければしたうちに入らないからである。
ところがである。私がやったのは特定の人物の特定の件についてだけなのに、
それ以降他人様が私に怒りの感情を向けるとそれが私に分かるようになってしまった。
こんな話読んだことも聴いたこともない。
読み物していようが、外出中であろうがいつでも伝わってくるのである。
流石に誰からかまでは分からないからその辺は憶測するしかないのであるが・・・。
298 :
小谷野敦『評論家入門 清貧でもいいから物書きになりたい人に』:2007/02/21(水) 13:20:00
「いまインターネットのホームページなるものを覗くと、まあ実に多くの人
が、たくさんの本を読んではその感想文を日記のようなものに書きつけ
ている。実のところ、レヴェルの高いものは高いが、低いものは恐ろしく
低レヴェルで、読んでいて不快になることも少なくない。おそらく彼らは、
自分の書いたものを人に読んでほしいのだろう。ホームページに目を止
めた編集者から連絡があるのを待っているのかも知れない。それなら、
私はこうした人々に、やはり活字の世界へ浮上することを勧めたいので
ある」(p.18)
299 :
耶蘇善財:2007/02/21(水) 13:24:00
>>298 ん、面白い文章ですね。
それでは私は学問と学術論文の執筆に専念することにして私は消えましょうぞ。
今日はこれから出かけるのでこれにて失礼。
300 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2007/02/21(水) 22:37:49
ガイキチ曝し上げ
301 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2007/02/21(水) 23:04:48
302 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2007/02/22(木) 00:55:27
なんでもいいから誰か日記書けよ
>レヴェルの高いものは高い
>>301のはレヴェル高いと思うけど?そう思うのはおいらだけ?
へりくだることに徹底するとキリスト教の帝王になれるのか?
本当にそうなのか?本気で思ってるのか?その論法に決定的な誤謬はないか?
誰よりもへりくだるだけで、果たしてその人は十字架にかかって復活してみせることができるのか?
本当にその考え方でいいのか?
キリスト教の帝王の概念規定が間違ってないか?
実際"冠"を頂戴する(=帝王)のはキリストだ。
どんな冠かが問題なのではないか?
オリーブ・月桂冠・その他貴金属で出来た冠が通俗的な栄誉。
茨でできた冠(それを頭に戴くとなお新たに傷を負い血を流す)を頂戴するものが帝王ではないのか?
「愛」
「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない」
(ヨハネ伝15:13)
これは他ならぬイエスの言葉。パウロ書簡の言葉ではない。
そして
>>304はこれと矛盾しなく整合性の取れた様態で現実の物となる。
・・・私の知ってる限りでは。
屁理屈でない話し方をしようか。
私は口先だけの「愛」なんて知らない。
私の知ってる「愛」は、自分の側がズタズタになる「愛」だけだ。
憎まれ迫害され、挙げ句の果てに汚名と恥辱と屈辱のうちに消されてもなお話さない・・・。
イザ自分の身がヤヴァくなるとぺ〜らぺらしゃべり出す程度の者は駄目だ。
モノにはならない。
そういう地獄を見るのががキリスト教の「愛」なんだ。
毎度のことだが、上から下にむかっての態度で分かったような口を利くのは迷惑であり不愉快だ。
人類の歴史上マレに見る地獄をぐぐり、凄まじい生き様をしてきた人間に対して、
もう少し敬意を抱いたらどうか?バチは当たらんと思うが。
人間と人間の間のことだからトラブル、関係の状態が良好でないことだってある。
そこで批判することや苦情を申し入れるなら問題ないが、問題なのは、関係の状態が
良好でないときに、「愚弄」「嘲笑」という態度に出るのは人としてどうかと思う。
良くない癖だと思う。
ユーモアのセンスに恵まれていること自体は素晴らしいことだが、それを悪用しては
いけないのではないか?
私が本名を知られていることで何を畏怖しているか?
その理由を言おうか?
それは世に名前が知られること。
私は恥をかくことではなく、顕彰されることを恐れているのだ。
309 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2007/02/22(木) 14:17:03
> 人類の歴史上マレに見る地獄をぐぐり、凄まじい生き様をしてきた人間
> に対して、 もう少し敬意を抱いたらどうか?
ぜひその話を書いてくれ耶蘇善財
このスレの野次馬はみんな楽しみにしてるぞ
310 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2007/02/22(木) 14:21:37
>人類の歴史上マレに見る地獄をぐぐり、凄まじい生き様をしてきた人間に対して、
もう少し敬意を抱いたらどうか?
>私は恥をかくことではなく、顕彰されることを恐れているのだ。
311 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2007/02/22(木) 14:22:26
つうかその話はちゃんと鬱狸にはしたんだろうな
してないのに敬意を抱いてほしいというのは無理だぞ
312 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2007/02/22(木) 14:34:14
>>310は何を言いたいのか分からないんだが、敬意を抱かれたいというのと、
顕彰されるのを恐れるというのとが矛盾していると言いたいのかいね?
>>311 なにぶんあまりにも一方的な関係なんで、話す機会なんぞありゃせんかった。
あまりに重すぎて話したくない。
ただ
>>311のおっしゃることにも十分に理がある。
だから私はいつも鬱狸氏の前に屈辱を感じながら身を屈めてきた。
仕方がないからだ。
>>311の言う通りだからだ。
イザヤ書53章3節末尾に
「彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった」
と書いてあるとおりである。
しかし「この構図は間違っている」ことはやはり譲れない。
H牧師にすら「棺桶までという約束」でブチマケて・・・いないのだ。
そのH牧師も亡くなった。O先生も死に面している。U牧師はご存命だが。
私が迫害までされ(自分だけならいいんだが私は家族の心配までするハメになった)、
私が以前、教会で
「人間のやることなんぞ2000年前も今も何も変わらん」とボソっとつぶやいたら、
そばで聞いたU牧師夫人がハッとして一瞬で背筋をピッと伸ばし、
「そうですよねえ、本当にそうですよねえ」
と言うのを見て、
「あ、この人余計なことを知ってるな」
と思ったことがある。
とにかく守るべきものを持ってる人たちが何人もいるんだ。たくさんいるんだ。
だから事情なんぞ話せないから、ヒントになるものの欠片を出す以外できないんだ。
ああ、誰かが今も私に怒りなり憎悪なりの念を抱いているのが分かる。
誰からかは分からないというのは嘘偽り無く本当なのだが、
とにかく「誰かが」というところまでは分かる。誰かが私に怒りの念を抱いているところまでは分かる。
胸がズキズキ痛むので、今読み物していても本当にシンドイ。
ああ、こんな面倒な事態と大騒ぎになってつくづく例の帝王発言が悔やまれる。
そして私が鬱狸氏にさえ本名を知られていなければ、
私は屈辱のうちにも黙って消えることもできただろうに。
>>310が私の矛盾を指摘しているというなら、それも分かる。
イエスは十字架上で「わが神わが神、なんぞ我を見捨て給いし」と言った。
つまり内容を語らないが、苦しいことの表れとして、 う め き 声 を 漏 ら し た のだ。
話すわけにはいかないからこそ、なお私の屈辱が続く事態になるのだ。
あまりに話が大きすぎあまりに事情が重すぎるが故に話すわけにはいかない。
イエスがピラトからさ受けたれた行為は克明に描かれているが、
ユダヤ教の信仰のねじ曲がった人たちの誰が、イエスを憎み迫害したのかは全く描かれていない。
(その信仰の秩序が回復されること、その人たちが元通りの立派な信仰に立ち返ることを以て、
「三日で神殿を建て直す」と古代人の神話は表現しているのだ。これはダニエル書9章25節に
「エルサレム(=腐敗した信仰)は広場と街路とをもって、建て直されるでしょう(=信仰の秩序が回復される)」
を併せて参照してほしい。
ああ、今も胸がズキズキ痛む。苦しい。
さっき書いたとおり誰かが今、私に強い憎悪の念を抱いている。
観衆の皆さんもあまり面白がって囃し立てないで欲しい(ムリか・・・)。
鬱狸氏も何か言いたいことがあったら、掲示板ではなく私に直接メールして下さっても良いのだ。
本当は直接会うのが私の顔から真実みを読み取ることはできるであろうとは思う。
(持病持ちなので外出つらくて激しく嫌なんだが)。
それよりも、氏も、いつも御自分は安全な立場で、自身は何の屈辱もなく「教えを垂れる」という行為は
教育する者の立場としては間違っていないだろうか?
皮肉な者で教育(特に宗教教育は)は教える側の者が、「下なる者のごとく」振る舞わねばならないのだ。
要するに「上なる者は下なる者のごとく」と聖書に書いてあるとおりである。
言葉遣いは慇懃だが実際には常に反りかえってるあなたの前に、私はいつも膝を屈してきた。
(それから少々苦情を言うと、プロバイダのメルアド曝してる人に初メールを送るのに
自分の本名を隠して捨てアドで出すなんて失礼なマネはできなかった私の何が悪いのか?)
氏も私に憎しみを感じるのも致し方ないが、
(「俺は偉いんだ!エヘン!」という香具師見てムカつかないほうがおかしいのは確かだから)。
私が、自身ズタズタになってまで、そこまでして守ろうとしたものがあるということ、
「道以外に守るべきものなぞ何も無いのに・・・。ああ守るべきモノを持つ者のなんと貧しいことか」
というのは私の側の言い分であって、彼らの立場ではそれぞれが守るべきものを持っているのだということ、
どうかそのことに留意して欲しい。
私の為にではなく、(見当違いな)何かを守ろうと必死になってるその人たちのために。
「皮肉な者で教育」→「皮肉なもので教育」に訂正。
320 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2007/02/22(木) 15:35:37
現代のイエスの如き耶蘇善財の苦悩には同情するが、「現代のイエスは
2chにおいて苦悩のうめき声を漏らす」という事実に滑稽さを感ぜずに
いられない。
「イザヤ書53章」というのは「イエス・キリスト」(か若しくは「キリスト」)の出現を
予表したものというのが神学上の定説である。
しかしU牧師は何年間も、
「イザヤ書53章はキリスト信徒の一人一人に関わる問題であって、決してキリスト一人の出現の予告にとどまるものではない」
と説教壇で力強く説く続けてきた。
そして私がその教会に顔を出し始めて以降、その話をするのはピタリとお止めになった。
それはお説を撤回なさったのではなく、実際に我が身でやってみせた私の前で可能性を説くということが
〜まぁ、構図がおかしいということになろうか、だから何年間も説いて来た事を言わなくなったのだろうと推測している。
しかし私の側としては十字架(=イザヤ書53章=十字架)にかかるという表現を、
自分の身辺で実際に発生した事件に当てはめていいのだろうかということ、
「私が単に統合失調症患者の誇大妄想をしているだけかもしれない」と、
私は自らの精神神経系をも疑わなければならない立場に置かれていることに気付いた。
そしてU牧師と私との邂逅は、弘法大師空海と恵果阿閑梨の有名な劇的な邂逅と寸分違わず同じ仕方で起こったのだ。
バプテスマのヨハネに対してイエスが「いや、今はあなたから洗礼を受けたい」と言ったのと同様に、
私はその牧師の説教を聴くべく通った。
「空海が恵果阿閑梨から受けるべきものはもはや最後の画竜点睛を必要としたに過ぎなかった」
という定説と同じである。
>>320 滑稽と思っていただけるだけで済むなら私は助かる。
「なんかコイツむかつくんだよな」という考えから何か言われるより、
滑稽、笑止千万と思って頂いたほうがよほどマシだ。
心底助かる。
やっぱりコイツ頭イカレてるわ、と思って頂いたほうが皆が平和になって本当に助かる。
以前書いた通り、ドストエフスキーがカラマーゾフの兄弟5-5「大審問官」で、
ドスト氏が大審問官を悪者のように書いているのは間違いだ。
大審問官とイエスの関係が、そのままU牧師と私の関係なのだ。
だから大審問官(=教会の元老格)の元に足を運ぶのも当然であり
(「のがれて、自分の命を救いなさい。うしろをふりかえて見てはいけない。低地にはどこにも立ち止まってはならない。
山にのがれなさい。そうしなければ、あなたは滅びます」(創世記19:17)と書いてある。
逃れる先の「山」とは一流の先生=大審問官、が私の行くべきただ一つの場所だった。
だからあくまで大審問官は優れた先生であって、悪者でもなんでもない。
ただ、U牧師から足かけ三ヶ月叩かれ続けた。私は黙って耐え続けた。(イザヤ書53章7節参照)。
そしてH牧師が何かをU牧師に耳打ちしたらしい。
そうしたらU牧師の態度がガラリと変わって事態は収束した。
私はその時見せた根性故に、私は厳しいことで知られるU牧師から大変かわいがられた。
325 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2007/02/22(木) 16:24:58
>阿閑利
「阿闍利」または「阿闍梨」
「あじゃり」ね。
鬱狸氏にお願いがある。
私はどんな罵声を浴びても良いから、決して私の本名を口外しないでほしい。
私の仕事はあくまで、それを論理化抽象化して神話解釈の手法の体系にすることが
私の仕事(の一つ)であって、その事件の具体的な内容や登場人物の不名誉は必要ないのだ。
宗教哲学者波多野精一は神学側から「哲学者の屁理屈」みたいに悪く言われたが、
適当に何か神学概論一冊読んでみれば、その名前が出てくるでしょう。
そして決して褒めてはいないことが分かるでしょう。
その悪口こそが波多野が神から受ける茨の冠でしょう。
実際あの事件以降、私は波多野の文章が良く理解できるようになった。
その道の権威だからと無意味にありがたがるのではなく、
「ああ、これは分かってる人が書いた文章だ」と心底から驚嘆できた、
のは余談である。
>325
サンクス
328 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2007/02/22(木) 16:38:14
滑稽さというのは、たとえば道元が入宋求道日記『宝慶記』を2chで連載
しているのを見てしまった時に皆が感じるような滑稽さだ。
耶蘇善財の話は道元の入宋求道日記のようにすばらしいのかもしれない。
(その当否は知らんが。)しかし、たとえすばらしくても、若き道元が
中国から日本の不特定多数に向けてネット上に『宝慶記』をアップロー
ドしているのを見れば、そのすばらしさも滑稽さに取って代わられる。
ちなみに道元は『宝慶記』を死ぬまで一般公開しなかった。その存在を
知っていたのは少数の身近な弟子だけだった。
せっかくの機会ですから神話の読み方を少しばかり書きますね。
新約の福音書に「イエスは水の上を歩いた」と出てきます。
世界中の神学者はこれを誰も説明できません。
私は(キツイ表現で気の毒かもしれないが)聖書をマトモに読んでないか、
思索のネタになるだけの経験と修練を積んでないのだろうとしか私には思えない。
私はダニエル書12章5-6節を参照するべきだと考えます。
「ひとりは川のこなたの岸に、ひとりは川のかなたの岸に立っていた。
わたしは、かの亜麻布を来て川の水の上にいる人に向かって言った〜」
とある。
さあ、この「亜麻布」を着ている人であることを以て宗教関係の話であると解し、
そうすると川のこなたとかなたの岸とは「此岸」と「彼岸」であることを意味する。
すると「川の、水の上にいる人」とは"彼岸と此岸の間に立つ者"
だからして=仲保者キリストを意味するわけです。
したがって「物理の法則によると人間の体重を水の表面張力が支えられるわけがない」
というのは見当違いというものであって、ついていくのがフと怖くなって溺れかかった
(=社会生活の崩壊、身の破滅)ペテロに手を差し伸べて、
ああ、信仰薄き者よ、なぜ疑ったのか?」と言ったその時のイエスの立っている地点は
イエスの仲保者としての立場を表現しているわけです。
それが古代人の神話表現では「イエスは水の上を〜」になるわけですね。
モーセが「十戒」という映画で、自分の指導下にある人々の歩むべき方向性を指さすと
人々の目の前に(自分の歩むべき)「道が開ける」わけですね。
「お、(モーセの指差す)この道を歩めば生き延びられるのだ」
という道が開ける。
十字架上の死と「復活」も、そもそも死の概念規定が間違っているから
2000年もかけても神学者は誰も説明できないのですよ。
「死」を解剖学上生理学上の死だと思うから、死からの復活の意味も分からない。
この辺は私が論文にするつもりなので、まぁここでは書けません。
例として2〜3ばかり聖書の神話の読み方を書きましたが、
これでも私はキチガイでしょうか?
それは読んだ方が各自ご判断くだされば良いわけです。
・・・・それでも帝王発言はマズかったと思います。ハイ(冷や汗)。
>>328 そうですね。だから私は自分は莫迦だと思います。
333 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2007/02/22(木) 17:15:10
帝王発言よりは運命暗転発言のほうが直接のきっかけだったと思うが、
耶蘇善財は運命暗転発言にはさほど問題を感じていないようだ。
[マトメ]
・ 帝王発言は失言であり、耶蘇善財の愚かさの表れである。
・ 公表されるべきはあくまで私が自らの経験から抽出した理論の体系であって、
具体的に誰が私にどんな犯罪を行ったかは宗教哲学の学史上は全く不必要なことである。
ということですね。あとは
>>298が正しいでしょう。
私はここで悪戯書きしている暇があったら、その時間を読むべきものを読み、
書くべきものを書くことに専念すべきです。
今日ちょうどK先生から郵送された田中木叉編 『辨榮聖者遺稿要集 人生の帰趣』(非売品)
という大変貴重な書物が落手したところです。
差し入れしたお饅頭のお礼に頂戴した本なので、これでは"藁しべ長者"ですね。
あとは鬱狸さんには平に非礼をお詫びして、私のなすべきことに戻りたいのですが・・・。
ああ、そうですね。アレは悪かったです。
華厳命氏にどうお詫びしたらよいものやら。
本も読みたいけど、チト懺悔の祈りをしてきます。
ええ、もちろん私の胸がズキズキ痛み、気持ちがズンと落ち込むまで。
日記付けてるなんて凄いね。檀家の予定で一杯だぁ〜w
338 :
募集中:2007/02/23(金) 17:53:01
このスレで日記を書く人を募集しています。
希望する人はどうぞ!
339 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2007/02/23(金) 19:46:48
要するに耶蘇善財は逃走か・・・
俺たちは天使だ! が好きだったなw
思い出しちゃったよw
何それ?テレビドラマかなんか?
343 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2007/02/24(土) 04:13:20
誰かなんか日記書いてくれ。
344 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2007/02/24(土) 05:51:07
おまいが自分で書けば良いのだ。
女にフラれて泣いたとか、携帯を便器に落として泣いたとか、
エロ画像とエロ動画が詰まったHDDが故障して泣いたとか、
一週間に何回オナニーしてるかとかさ、そういうの書いてくれ。
な、そうしたらおいらの屁の臭いを瓶に詰めて郵送してあげよう。
希望があるならおいらの精液でも良い。千円という破格の安さで譲ってあげよう。
345 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2007/02/24(土) 12:41:47
346 :
耶蘇善財:2007/02/24(土) 13:00:19
>>339-344 好きな事書いていていいんですよ。落書き帳なんだから。
(もう出てこないことにしていたのですが、今回ばかりは書かせていただきたい)。
ところで重大なことに気付きました。
イエスが弟子の前に身を屈めて足を洗った。
「足を洗う」は、まぁ何かが以前より良い方向へと向かうよう何かしたという意味ではあるでしょう。
「弟子の前に身を屈める」というのが問題なんです。
そう、私は(軽くですが)屈辱感を感じながら、身を屈めていた。
そして
「仕えられる者(=例の「帝王」。思っていても口に出して言ってはいけないのではないかという指摘は今でも認めています)は、
仕える者のごとく」と聖書にある。
それは"この身を屈める"が重要なポイントなんだ、と閃いた。
つまり「屈辱」です。この屈辱にどれだけ耐えられるかが、キリスト教の大事なんだというのは、
私は数年来この主張を持っていました。
そう「自分が宗教教育する立場の者に対してわが身を屈める」ということ、
それが鬱狸氏がちょうど引用なすった、あの聖書の箇所の本当の意味だったんだ!
いやぁ、また一つ解読できてゾクゾクするほど嬉しい。
私は自分に自信があるので、神学者や牧師先生方のように誤魔化しの説明は
しませんからね。未解読のもの(例:五千人が満腹してなお余った、という話など)は
ハッキリと「これは私は未だ解読できてません」と言います。
重大なことに気付く機会を与えてくれた(神と)鬱狸氏他の皆さんに満腔の感謝を表明します。
いやぁ、本当に嬉しい。また一つ解読できた。本当に心の奥底からの喜びです。
つまり「弟子たちの前に身を屈める」がそのまま「"屈辱"に耐える」ということを表現していたんだ!
という意味です。
ああ嬉しい。本当に嬉しい。
神様仏様キリスト様阿弥陀様辨榮聖者様道元先生、I先生、O先生、H先生、H牧師、U牧師、K先生!
愚禿な耶蘇善財も今回のはささやかな部類ですが、また一つ掴みました!
法恩ありがとうございます。
もちろん神からのものですから、この我が身を以て神にお返しします。
349 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2007/02/24(土) 17:44:03
イエスは本当に「屈辱」に耐えて弟子たちの前に身をかがめたのだろうか。
イエスは誰にも強制されずに自発的に身をかがめたのだよ。
一人一人の弟子に、心底からの敬意を表したのではないか?
(「盧遮那仏」が抜けてましたね。華厳宗スレの方々に失礼した)。
>>349 どうかなぁ、お説は一理はあると思うが、
そもそもイエスが宗教家として活動し始めた時点で、
十字架にかけられることを逃れるすべというか、逃れる自由意思は既に全くなかった。
そこを考慮しないと、目が曇ってしまうかと思う。
イエス本人もどうしようもない流れでやむを得ず起こることだと思う。
そして口では「私がしたのと同じようにせよ」と言うわけだが。
無為自然
353 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2007/02/24(土) 18:02:55
>>351 意味不明。反論になっていない。時間かけてもいいから論理的な文を書いて欲しい。
354 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2007/02/24(土) 18:05:51
神様
悲劇の貧乏はもう嫌です。お金を恵んでください。頂けたらすぐにユニセフしますね。o(^-^)o マタネ
355 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2007/02/24(土) 18:13:42
イエスには屈辱などというケチな感情は超越していたと思う。屈辱は自己愛が冒されるときに起こる感情であるから、自己愛を超越していたであろうイエスには屈辱はなかったと思う。
自分の死後に弟子達が経験する苦労を予見して、最大限の愛と敬意を示したのではないか。
>>353 私の言うことが一見矛盾に満ちてるように見えるのは、聖書の構造のそのままの写しです。
それから頭で考えたことを必死こいて主張するのは、あまり意味がないと思う。
思索には経験が要る。そして思索のネタになるだけの経験を積むには、相応の修練が要る。
すると必然的に、昔から哲学史上の大問題だった、人間の「自由意思」の問題について考え込まざるを得なくなる。
私は自ら傷を負いながら歩み、イエスと同じ地獄を見てきた。
だからこそ見えるものがある。
それはその経験の無い人が想像するものとはかけ離れたところがある。
正直申して頭で考えてるだけのあなたとはお話したくない。
それからこのスレには上げて書くのが好きな人が多いですね。
というかこの板全体の傾向かな?
>>355を見たのは
>>356を投稿した後に見たが、それ見てハッキリした。
やはり完全に頭だけで考えてる人だ。
あなたとはお話したくない。
358 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2007/02/24(土) 18:19:17
だから、意味不明だから、じっくり時間かけて他人に分かるように書いたらどうだといってるんだ。
色々言われるのがいやなら2chで日記など書かなければいいのだ。
>>358 そりゃそうだ。うん、その通り。返す言葉なんぞない。
では。
360 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2007/02/24(土) 18:42:49
「山より大きなイノシシは出ない」という。ことわざの本来の用法とは違うが、自分の器より大きなキリストは描けないのではないか。
漏れもそうだが、耶蘇善財も自分の大きさに合わせてキリストを描いているのだと思う。それは、或る意味、当たり前のことであり、仕方のないことである。
361 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2007/02/24(土) 18:59:32
頭で考える = 洞察力
362 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2007/02/24(土) 19:23:44
物事を見抜く力 = 洞察力
耶蘇善財ついに撃沈!
10分くらい前にFirefoxが自動的に2.0.0.2に更新された。
Firefoxはエンジンが1.8系になってから動作が軽快になった気がする。
1.7系時代は重かった。Win版でもlinux版でも操作感の印象は同じ。
宗教版ではID制なんだけど、様子見てると、
どうやらこの板もID制を導入する必要があるみたいだね。
366 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2007/02/25(日) 01:50:09
燃料投下。再燃するかな?
「大物」の人物は大抵の場合童顔である。
何才になっても、実際よりも若く見える。
激しく驚かれるほど若く見えるか?
他人からナメられやすいのでやむなく髭を生やしている人もいる。
苦労を顔に刻んではいないか?
苦労を顔に刻んでいる者は大物ではない。
>>366 外野の見物人だからといって、あまり無闇やたらと悪戯に人を刺激するものではないと思うが・・・。
368 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2007/02/25(日) 22:44:21
おいっす
370 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2007/02/26(月) 01:29:05
344 :あなたのうしろに名無しさんが・・・ :03/09/08 08:00
昔こんな事あったのを思い出しました。当時中学生です。
初体験の相手だった当時の彼氏が合宿で数日間会えなくなった時の事。
彼はセックス大好きな人だったのでほぼ毎日やってました。
彼が合宿に行ったその日の夜、私はなかなか寝付けませんでした。
そして、ようやく眠気がきたと思った時、胸を揉まれる様な感覚におそわれました。
驚いて目を覚ますと彼の姿が。
驚いてる私の事などお構いなしに吸ったり舐めたりやりたい放題です。
名前を呼ぶとニヤニヤしながら私の顔を見つめます。
「なんでここにいるの?」と言うと、何も言わないで私の股を開き、手でかき回します。
普通に気持ちよくて、イッてしまいました。すると彼はいなくなっていました。
私は気持ちよくなってそのままぐっすり寝てしまいます。
そして、それは次の日も、続きました。
さすがに2日目は怖くなり、彼を拒もうとしました。
ですが金縛りのような力で動けなくなり、結局イカされて、またいなくなっていました。
3日目は、頑張って寝ないようにしましたが、ムダでした。
座っているときに、足下に彼が表れ、またヤラれてしまいました。
これはさすがに異常だと思いました。
合宿は4泊5日なので、次の日もやられる、と思うとゾッとしました。
ですが、両親に相談もできないし、周りに初体験終わってる友達もいなかったので、
相談するにもできなく、結局4日目もヤラれて、彼がすがすがしい顔で帰ってきました。
私は帰ってきてすぐの彼を問いつめると、毎晩おかずにされていた事が発覚。
そして、これは後からわかった事なのですが、「○○(彼の名前)の彼女でオナニーしようぜ」
と誰か言ったのをキッカケに、彼の部屋の人全員(4人)で一斉にオナニーしていたそうです。
371 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2007/02/26(月) 01:29:53
345 :あなたのうしろに名無しさんが・・・ :03/09/08 08:02
彼は私の話を聞いて反省したのか、怖かったのか、定かではありませんが、
毎日の様にしていたセックスをほとんどやらなくなり、高校進学と共に彼との関係も自然消滅しました。
ですが大学卒業後の同窓会で再び出会い、その日のうちにまた付き合う事になりました。
彼との関係はまだ続いています。
何故かこの事を忘れていたのですが、昨日彼がこの話をしたので急に思い出しました。
今思えば笑い話で済ませるんですが、当時はよっぽど怖かったんでしょう。
ちなみに今は幸せです。
346 :あなたのうしろに名無しさんが・・・ :03/09/08 16:40
>>344-345 イイ・・・ イイです・・・
>これは後からわかった事なのですが、「○○(彼の名前)の彼女でオナニーしようぜ」
私もこれから
>>344さんでします。
372 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2007/02/26(月) 01:30:35
347 :あなたのうしろに名無しさんが・・・ :03/09/08 21:09
従姉妹にしか相談したことがありませんが、重すぎるから書いてスッキリしたいです。
あまりHな話じゃないわりに結構長いんですが、
つまらなかったら言ってね。ヤメますから。
私が小5の時に隣のクラスの女の子が事故死しました。
そのクラスを覗くとTVみたいに机に花瓶が置いてあって、私のクラスで話題になったけど、
知らない子だったら私は特に気にしていませんでした。
そしてお葬式があった数日後から妙な事が起こり始めました。
夜寝ていたら、ふと目が覚めて「あ、まただ」という感じで金縛りにかかっていて、
それまで金縛りは何度も経験していて、
いつもいつの間にかとけていたので、気にせず放っておきました。
ところがその日は違っていて、下半身が妙に重くて、
自分の顔の両脇に誰かが手をついている温度が顔に伝わってきました。
咄嗟に二つ上の姉が悪ふざけしてるんだな?と思いましたが、
目は開かないし喋れないので、少し頭が混乱しかけた時でした。
唇に柔らかくて温かい感触があった瞬間、
口の中に熱いぬるぬるしたものが入ってきて驚きました。
それは舌で、しばらく、多分2分くらい姉に口の中をゆっくりと舐め回され続け、
私は姉弟でそういう行為をすることに嫌悪感を抱いていたので、
その時は気持ち悪くて思わず泣いてしまいました。
すると重みはスッと消えて、そのあとゆっくりと金縛りも解けて、
私は疲れ果てて眠ってしまいました。(続きます)
373 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2007/02/26(月) 01:32:27
348 :あなたのうしろに名無しさんが・・・ :03/09/08 22:04
続きまだー?
349 :347の続き :03/09/08 23:00
当然翌朝、起きてきた姉に「酷い!」と抗議すると、
姉は何も知らないとキョトンとしていたので、
もしかしたらイヤな夢でも見たのかとも思いました。
しかしその二日後もまた同じように舌を絡めてきました。
今度は泣いても重みは消えず、私が泣くと口から舌を抜いて、
頬にそっと唇を当てたり、涙を舐めたりして、
泣きやむとまた舌を入れてきました。もちろん私はまた泣いて、
そして重みは消えて、金縛りもとけました。
今度もすぐに姉に抗議をしようとしましたが、思い留まって様子をみる事にしました。
三度目があったらちゃんと話しをして、もう二度としないと誓ってもらおう。
そう思って姉を監視していると、姉の様子が少しおかしいことに気が付きました。
話しかると妙にうわずった感じの応え方をしたり、
いつもご飯の時には左に座っていたのにその日から向かい側に座ったり、
頼んでもいないのに上履きを洗っていてくれたり、
とにかく微笑みながらやたらと私の世話を焼くのです。
まさか、もしかしたら姉は自分の事が好きなのか?
ともしもの事を考えるといたたまれない気持ちになったので、
逆になるべく考えないようにしたくらいです。
(続きます)
374 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2007/02/26(月) 01:33:09
350 :349の続き :03/09/08 23:05
そしてその三日後あたりに、三度目がありました。
三度目で慣れてしまったのか、私はわりと冷静にキスを受け入れてしまいました。
ところがそこで在ることに気が付きました。
今まで罪悪感と嫌悪感が優先してまったく気が付きませんでしたが、
キスしてくる姉の髪の匂いが、姉の匂いではないのです。
その時私は初めてとても怖いと感じました。
知らない人が私の部屋で、私の口をゆっくり舐め回し、熱い息を吹きかけるのです。
このままでは死んでしまうと思うくらい心臓が高鳴って、
それから先の事を覚えていないので、おそらくそのまま私は気を失ったのだと思います。
問題は次の日でした。
姉だと思っていたのがそうでなかったので、私はとりあえず姉に対する考えを
改めようと思っていた時でした。
姉に「○○ちゃん、ちょっと来て」と言われて姉の部屋へ行って、
私は信じられない話を聞かされました。
まず最初に「ごめんなさい、ごめんなさい」と何度も謝られて面食らいました。
そして姉は、なんと三回のキスは全部自分であると言うのです。
姉自身が知らない内にしていたことで、姉の夢の中で知らない女の子が自分の身体に入ってきて、
いつも目覚めると自分が私に覆い被さっていて、唇に行為の感触が残っていること、
その度に慌てて自分の部屋へ戻っていたと言うのです。
そして今まで隠していたが小さい頃から私のことが好きで、
そのせいできっと夢遊病になってしまったのだと、涙ながらに告白したのでした。
(続きます)あ、書き忘れましたが私は♂です。
375 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2007/02/26(月) 01:34:29
351 :あなたのうしろに名無しさんが・・・ :03/09/08 23:25
(´Д`;)
352 :350の続き :03/09/08 23:54
衝撃を受けた私は姉弟でそういう事態になってしまったことに罪悪感を感じて、
その事を姉にいうと、それは姉も同じだと言って二人でしばらく泣きました。
姉は自分でも知らない内にどんどん私の事が好きなり、
この気持ちはどうしようもないと言いました。
この事態を親に話すべきどうか、私達は二人で相談して話さない事にしました。
というのも、姉は夢の中で自分の身体に入ってくる知らない女の子と
何度か会話をしたことがあり、その子はいつも「身体を貸して下さい」と、
一応お願いするのだそうです。姉が黙っていると勝手に使うので、
今度はちゃんと話をして断ればきっと大丈夫だろうと言ったからです。
私は半信半疑ながらも、決心をしている姉に従うことにしました。
しかし残念ながらその三日後に、四回目がありました。
今度もやはり姉の匂いではなく、それに私は恐怖しましたが、
キスしてくるのは姉であることは間違いないので泣きはしませんでした。
そして今度のキスは無理矢理舌を入れてくるようなものではなく、
幾分優しい感じで鳥が口を啄むような感じのキスだったので、
嫌々ながらも私は気持ちを放って置くと、今回は短めの時間でキスは終わり、
金縛りもすぐ解けました。
今までと違っていたのは、金縛りがとけても姉が自分の上に乗ったままであったことでした。
姉が「ダメだった、ごめんね、こめんね」としきりに泣いて謝るので、
私は別に怒っていないので謝らなくていいから、次ぎに頑張ればいいよと言って慰めました。
(続きます)
376 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2007/02/26(月) 01:35:14
353 :352の続き :03/09/08 23:55
それからしばらく何もなかったため、私達は二人でもう終わったのだと喜んでいましたが、
一月程経ってから五回目がありました。
行為自体は四度目と殆ど同じでしたが、金縛りのあと姉の話を聞いた私は驚きました。
姉は夢の女の子からその子の名前を聞いて、どうして自分に入ってくるのかを聞いたと言うのです。
「△△子ちゃんが私の中に入るのは、私と同じように○○ちゃんの事が好きだから」
と言うのです。
そしてなんとその子は、私と同じ学校に通っていると言ったらしいのです。
私はもちろんそんな馬鹿な話しは信じられませんでしたが、姉が何故か嬉しそうに話すので、
その時は黙って頷いていました。
ところが数日後、ふとあることを思いだして怖くなりました。
その子の名前は、一月ちょっと前に亡くなった隣のクラスの女の子の名前と同じだったのです。
(ラストへ続きます)
377 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2007/02/26(月) 01:36:12
354 :353の続き ラストです :03/09/09 00:00
姉がどこかでそれを知って、私とキスをするためにその子の名前を
利用しているのかもしれないと勘ぐった私は、
姉にそれを問いました。姉は泣いて、信じてもらえなくてもいいが、
そんな事は全く知らなかったと言いました。
そしてそんなにも迷惑で嫌われるくらいならば、
全てを親に話して病院へ行くと言い出したので、私はそんなに迷惑ではないが、
もしもこれ以上奇妙なことがある場合は、自分も一緒に親に言って、
二人で病院へ行こうと言いました。
姉は私にしがみついてずっと泣いていました。
罪悪感は残りますが、キス自体はそれほどイヤではなくなっていたので、
それで丸く収まるならばと子どもながらに思いました。
それからもほぼ一月に一度、姉からのキスは今も続いています。
でもそれ以外の害はないので、事態が変わるまで放っておこうと思っています。
終わり。
355 :あなたのうしろに名無しさんが・・・ :03/09/09 00:06
>>354 楽しかったが、最後にゾッとした。近親相姦には嫌悪を感じる人も
いるけれど、別段異常なことではない。嘘か真か実際に相思相愛で
やっている人もいる。但し、やるなら中田氏はするなよ。
で、ちみは今、何歳なのかな?
378 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2007/02/26(月) 01:37:08
356 :姉の弟 :03/09/09 00:35
>>355 もうじき二十歳です。私も他の人が近親者と相思相愛であっても異常だと思いません。
それは姉を異常と決めつけてしまうことだし、私は姉が嫌いじゃないですから。
でも恋愛するつもりはありません。私に彼女ができたとき、姉は喜んでくれました。
姉も最近彼氏ができたと喜んでいました。それがもし自然の事ではないとしても、
今のままならよいと思ってます。
万が一セックスを要求されたら、たとえ病院へ行くことになってもキッパリと拒否します。
というか、人生相談みたいな、妙な方向になってしまってスマソです!
357 :あなたのうしろに名無しさんが・・・ :03/09/09 01:11
355です。
>>356 レスありがとうです。今は、その金縛りはないのでしょうか?
うむうむ、お互いに恋人ができたならそれもまた良し。存分に恋愛を楽しんでください。
358 :姉の弟 :03/09/09 17:11
>>357 サンクスです。金縛りは今も続いています。
実家から大学に通っているので、今のところは大丈夫ですが、
就職して一人暮らしをする時まで続くようなら、
お祓いしてもらう予定ですが、それでもダメなら実家から通勤するか、
姉と暮らすか、まあその時になったらまた考えようと思ってます。
ここに書いたら妙にスッキリして、楽天的になった感じですw
379 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2007/02/26(月) 01:38:00
359 :あなたのうしろに名無しさんが・・・ :03/09/11 15:15
ちんこたってきた
360 :あなたのうしろに名無しさんが・・・ :03/09/13 12:31
そうゆう事ってあるんだろうね。
361 :あなたのうしろに名無しさんが・・・ :03/09/13 13:01
すごいリアルな話で夢中で読んでしまった…
362 :あなたのうしろに名無しさんが・・・ :03/09/13 13:04
おねえさんは綺麗な人でつか?
363 :姉の弟 :03/09/14 03:11
>>362 木村佳乃さんにとても似ています。
380 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2007/02/26(月) 01:39:10
340 :あなたのうしろに名無しさんが・・・ :03/09/07 06:36
すれ違いかもしれんがいいかい?
おれもともとよく夢見るのよ、んでこれが夢だって自覚してるの
だから夢の中ではこれ夢だから何やっても平気じゃんとか思うわけ
夢ん中で綺麗な女の子出てくると無理やりしちゃう
自分の夢だからか女の子は抵抗するどころか喜んでくれんのよ
そんなことをおれ厨房くらいのときからしてたのね
んで厨房のとき仲良かった女の子いるんだけどその子が夢に出てきたの
当然おれは夢だししちゃおうって思ったの
だけどなんか様子がおかしい
その子メッチャ嫌がるの
今までの夢に出てきた女の子は抵抗なんかしなかったのに
でもとりあえず夢だしと思って無理やり犯しちゃったんだよ
その子夢の中で泣きながらその行為に静かに耐えてた
そんでなんかあまりにもいい気しないから途中でやめたの
そしたらその子泣きながら俺に微笑んで・・・そこで夢から覚めた
なんだか後味悪いなぁ〜なんて思いながら学校いったらさ
その子学校休んでんの
んでその日から登校拒否
以来卒業してからもぜんぜん会ってないがいろいろうわさは聞いた
自殺したとか病院に入院してるとかいろいろ
341 :あなたのうしろに名無しさんが・・・ :03/09/07 07:07
>340
それはももしかして生霊で((((( ;゚Д゚)))))ガクガクブルブル
381 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2007/02/26(月) 01:40:11
421 :コピペ :03/11/15 20:58
203 名前:あなたのうしろに名無しさんが・・・ 投稿日:2003/11/14(金) 20:43
ある日の明け方頃、ふと目を覚ますと同じ会社のある女の子の事が急に愛しく思えてきた。
それで、枕をその女の子に見立ててギュッと抱きしめて、
エッチする様な感じで寝ぼけ眼でモゾモゾとやってたのよ。
そうしたら俺の首に腕が抱きついて来るのを感じてびっくりして飛び起きた。
エッチする時、女の人が男の首に抱きつくような感じ。
そんな事もあってか、その女の子の事が気になるようになって、
俺から彼女に声をかけて、その後付き合うようになった。
ある時、彼女と話していると霊体験の話になり、こんな話を聞かせてくれた。
明け方になぜか目が覚めて半分夢見てるような状態でぼんやりしていると、
俺が布団の中に入ってきて、ギュッと抱きしめられてエッチな事をされたそうだ。
なんか気持ちよかったと言っていた。
そんなこともあって俺が声をかけたとき素直にOKしたそうだ。
俺は枕を彼女だと思って抱きしめた件を話した事が無かったからびっくりしたよ。
ちなみにまだ話してはいない。なんとなく後ろめたいような気がして。
こういう場合って俺の生霊が彼女とエッチしたってことになるのかなあ。
487 :あなたのうしろに名無しさんが・・・ :04/01/03 22:31
やばい…リアルで
>>421休日の朝にやってるや。
気づくと1時間くらい経ってるんだよね。体感的には何分も
無いんだけど。
だからあの女の子、意味深な態度すんのかなぁ?
∧_∧
ピュー ( ^^ ) <これからも山崎を応援して下さいね(^^)。
=〔~∪ ̄ ̄〕
= ◎――◎ 山崎渉
何か悪戯書きが最近増えたなあ。
誰かに絡まれるよりはマシだが。
384 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2007/02/26(月) 12:59:40
>>383 まだここを読んでいたのか耶蘇善財
未練たらしい奴だ
385 :
耶蘇善財:2007/02/26(月) 14:56:31
http://yasozenzai.exblog.jp/ 「エキサイト」での耶蘇善財のブログ。
神社仏閣板での「俺の日記帳」の中でも特に記録として残しておきたいものを転載する。
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>>384氏へ
余談であるがここは私が日記帳として立てたスレである。
誰かが私にどんな罵声を浴びせるのかを確認している。
現に
>>384氏も私と同様にここを見ている事実がここにある。
人間、なんぴとも目の前にいる人から何事かを学び取ってやろうという精神が必要だと思う。
私は(その関係は短い期間で終わったので)鬱狸氏がせっかくキリスト信徒の知り合い(しかも尋常ではない香具師)
ができたのだから、自分の仏教を教え、耶蘇善財からはキリスト教の何かを」という精神がないのを、
関係の初期から私は非常に怪訝に思っていた。
私から何事かを学び取るものがないハズない。
私の聖書解釈は世界中/歴史上の神学者の誰もできなかったことを次から次へと解読している。
「(十字架上の死からの)復活」は20世紀にR・ブルトマンが一番近づいたと目されていたが、
結局できなかった。そしてその問題から逃げてごまかした。
少なくとも耶蘇善財の態度には、善財童子の精神があったと自分では思っている。
386 :
384:2007/02/26(月) 15:42:22
>>385 > 余談であるがここは私が日記帳として立てたスレである。
耶蘇善財が立てた日記帳であるにせよ、耶蘇善財の日記帳ではない。
耶蘇善財がみずから書いているとおり。↓
>>1 > もちろんどなたでも自分の日記帳として書き込んで良いのです。
日記帳の行く末なんぞ気にせず、耶蘇善財は修行に専念したほうがいい。
「もう出てこないことにしていたのですが」(
>>346)と言っていたから
今後はこのスレを去って一心不乱に修行するのかと思って、陰ながら幸
多かれと祈っていたのだが。
ちなみにこっちはこの日記帳が今後だれによって書かれていくかを見にき
ているのであって、すでに耶蘇善財の日記を見にきているのではない。
387 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2007/02/26(月) 15:50:05
ついでに言えば、往古の聖賢にならおうとするならブログも
やめたほうがいい。
往古の聖賢が現代に生きていたとしても、ブログなんぞやる
とは思えん。
尊敬されたい尊敬されたい尊敬されたい尊敬されたい
尊敬されたい尊敬されたい尊敬されたい尊敬されたい
尊敬されたい尊敬されたい尊敬されたい尊敬されたい
尊敬されたい尊敬されたい尊敬されたい尊敬されたい
尊敬されたい尊敬されたい尊敬されたい尊敬されたい
尊敬されたい尊敬されたい尊敬されたい尊敬されたい
尊敬されたい尊敬されたい尊敬されたい尊敬されたい
尊敬されたい尊敬されたい尊敬されたい尊敬されたい
>384
> もちろんどなたでも自分の日記帳として書き込んで良いのです。
ええ、誰に、(一方的に絶縁したのにそれを自ら破って)今度は「教えを請いたい」
という言葉で引きずり出して「実際には教えに行く」という仕方で相手に絡むのでもなく、
自分の日記帳として使うならよろしいかと思う。
>>387 私は見下されてる間は「自分もまだ大丈夫だな」だと思う。
一遍上人が死の直前に本を焼き捨てたのは好ましく無いことだと思う。
人類の歴史と社会
聖書ではイエスがピラトからどんな仕打ちをされたかだけは克明に描かれている。
(しかし(腐敗した信仰の)ユダヤ人の誰から憎しみとどんな迫害を受けたのかは示されていない。
そここそがしゃべったらいけないことだから)。
>388
私は誰からも尊敬されたことなぞない。
そしてそれこそが後の人生での大仕事の達成につながるものと考えている。
そのためにはあくまで今見下され、上から下への態度で冷笑されてるほうが本当は私にとってはいいんですよ。
それから祈るって何度か表現が私以外の人が書き込んでいるが、
祈るってあ〜た本当に祈ってるのですか?
「強く念じる」のは祈りではないわけだが。
それから私が書いてはいけないことは、
古(いにしえ)の聖賢も著作を記すのが普通である。
一遍上人は、人類の、そして日本人の貴重な著作を自ら焼き捨ててしまった。
こやつは「本を書いて有名にでもなろうという考えを持ってるのではないか」
という恐れこそ、避けるべき出会ったと思う。
道元が説教でいつも「こんなことすると出家修行者のくせにだらしないやつだ」
などという心配をするその気持ちをこそ捨てろと何度もしつこく言っている。
自分の
加筆訂正
「それから私が書いてはいけないことを言うと、
私がくぐってきた事件の具体的なことを書いてはいけないということである。」
宗教哲学の波多野精一は、ある神学者から「波多野の書いてる本は所詮血の通ってない哲学者の神だ」
と書かれて(たか、言われたか)、憤然として抗議の書簡を送った。
「私の著作は自らの血と涙とによって書かれたものである」と。
そう具体的な話は一切口外してはならない。一生涯沈黙を守らねばならない。
だからこそ、見事に抽象化して体系にして、けなされたのだ。
そういう仕方でけなされていること自体が、波多野がよくやったという最大の証拠である。
「自分の」削除
393 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2007/02/26(月) 20:28:55
触るとべっとりと油のように手について洗っても落ちない自己愛。
な〜んか、一生懸命叫んでいる香具師がだんだん哀れに見えてきた。
耶蘇善財の方がなんとなく余裕がありそうで、
罵ってる奴は金魚がアップアップするみたいに、余裕がない印象を受ける。
395 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2007/02/27(火) 09:02:03
>>394 そうか? 読んできた感じでは、耶蘇善財は単に人恋しいから、
ブログとか日記とか止めたくないだけで、それをピラトとか、
波多野精一とかで理屈づけているだけだ。だまされんな。
観客を意識している点でもうだめだ。
頭燃を払うように修行するんじゃなかったのか。
ピラトとか、波多野精一とか、前にも読んだ。
耶蘇善財はあんまり話のネタがないと見える。
396 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2007/02/27(火) 09:07:46
耶蘇善財が日記を書き続けるんなら、それでもいい。
だが、変な理屈づけはよせ。
人恋しい、尊敬されたい、だから日記を書く。
それでいいじゃないか。
397 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2007/02/27(火) 09:38:26
> それから祈るって何度か表現が私以外の人が書き込んでいるが、
> 祈るってあ〜た本当に祈ってるのですか?
> 「強く念じる」のは祈りではないわけだが。
日本語の「祈る」は「い宣る」から来ている。
「い」は強調をあらわす接頭語。 「宣る」は言うという意味さ。
耶蘇善財に幸多かれと陰ながら心の中で強く言ったのが日本人に
とっては「祈った」ということになるのさ。国語の普通の用法だ
ろうに。
> 「強く念じる」のは祈りではないわけだが。
これはどういう祈りの定義にもとづくのか知らんが、耶蘇善財独自
の定義だとしたら、普遍性がないから押し付けはよくないぞ。
398 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2007/02/27(火) 12:33:38
「復活」だって黄泉の国から生還するから「よみがえる」だしね。
このスレは勉強になるなぁ。
日本語で「幸運を祈る」というときの「祈る」は英語のwish
「神に祈る」というときの「祈る」は英語のpray
耶蘇善財はprayだけが「祈る」だと思ってんだろ
外国語ばかり一所懸命やっても肝心の母国語が疎かではお粗末ですね。
>397>399
一言で表現すると「気を操作するのが祈り」だと思っていた、ので。
ですが、受けたご指摘は正しいと思います。私が間違ってました。
402 :
耶蘇善財:2007/02/28(水) 17:39:04
>>227 >・ 人にものを教わろうという態度とは到底思えない。私は他人様の慶事を喜び、また他者に貴重な情報を
>与えることを喜ぶ者ですが、こういう方には何も教えてあげたくありません。
このときの私は明らかに意地悪でした。
自分のしていることの筋が通ってませんでした。
「両者の関係の状態が悪い時にもいかなるときにもとるべき態度」
と偉そうに言っていながら、自分で実行していませんでした。
お詫びとして遅まきながら補足をします。
先ず第一に「自分を一切の袋小路から脱却させてください」と執拗に祈ることが大事です。
そしてその次に
『してもらったこと、して返したこと、迷惑かけたこと』を私に思い知らせてくださいと祈れば良いと思います。
実際には「してもらったこと」を〜、「して返したことを〜」、「迷惑かけたことを〜」と
三項目に細分化して祈ったほうが「効果」という視点からはより良いかと思います。
小生の最後のスレ汚しをどうかご容赦ください。
403 :
鬱狸 ◆2qu5tVDKNg :2007/02/28(水) 20:56:39
>>402 さすがはクリスチャン!
自分が見えたのですね。
私こそ驕った態度で接していました。平にお許しください。
倦まずたゆまずその祈りを続けて行けばきっと得るものがあるでしょう。
405 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2007/03/09(金) 21:36:08
キリスト教徒仏教があるのではない。ただ偽者と本物があるのみだ。
407 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2007/03/10(土) 13:14:20
>>405 偽物に見える方こそが本物。
ただ
>>405にはどっちが「本物」に見えてるかは分からんが。
408 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2007/03/12(月) 15:08:48
>>407はどちらかに肩入れする気持ちがあるじゃないかな?
そうではなくて
>>407が言いたかったのは、
「その人が何教徒であるかが問題なのではなくて、
その人の信仰する宗教の教えを忠実に守ってるかどうかが問題なのだ」
という意味に解したが。
409 :
コピペ:2007/03/15(木) 00:46:00
池田大作死後の座談会 聖教新聞予定稿
佐藤 : ところで池田とか言う権力亡者が死んだが。
秋谷 : 全く見苦しい最期だった。不摂生と堕落した生活でブクブクに太った体は
全身チューブだらけ、心臓病の苦しみの形相は、まさに堕地獄としか例えようがない。
森田 : 思い出すだけでもおぞましい。あんな男が3代会長を務めていたのだからペテンだ。
秋谷 : 我々を騙し、脅し、支配し続けた極悪人だ。
佐藤 : 自ら本尊を模写していたところ、倒れたと聞いたが。
秋谷 : 悪魔に魅入られたとしか思えない所行だ。
森田 : まさに仏罰てきめんだ。(笑)
秋谷 : 自分の神格化の為に「3代会長」などと言うふざけた会則を作ると言いだした時には
まいったものだ。
森田 : そんな無茶苦茶な規定はいつ廃棄しても当然だ。
佐藤 : あいつは本当にたちの悪い悪党でした。息子の博正も悪い素行の噂を聞くが。
秋谷 : 全くどうしようもないお坊ちゃまだ。(笑)
森田 : 甘やかされて育った人間の性根なんてそんなものだろう。池田は自分の子供の
教育さえ、まともに出来なかった。
佐藤 : あの女狂い、金狂いがまともな教育を出来るはずがない。世襲などとんでもない。
秋谷 : 池田の個人的勲章コレクションのために、どれほどの貴重な学会のお金が使われたか。
森田 : あのふざけた豚野郎の死体を肥料代わりに売れば多少は弁償出来るのではないか(笑)
秋谷 : それは豚に対して失礼な話だ(笑)
410 :
名無しさん@京都板じゃないよ:
↑誤爆ですw