952 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2006/02/26(日) 17:50:47
大谷派は雇われ門首だしな。
しかし、それ以外の諸派には当てはまらないことになる。
953 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2006/02/26(日) 18:18:23
両本願寺以外は眼中にありません。
>>953 そもそもここは両本願寺系以外が主として取り扱われるスレなんだが?
>>954 たまに浄土宗系の変な人が荒らしていきますけどね。
956 :
転載:2006/02/26(日) 19:24:30
708 名前:名無しさん@京都板じゃないよ :2006/02/26(日) 19:22:17
>>703 何故そんなにも信に偏るのか。
親鸞が法然に反しないのであれば
信行不二にも反した事は
伝法しないのでは?
一枚起證文は真宗では
拝読されてはいないのだろうか。
大体、信のみにて往生を遂げるのも
法然は誤りとしているのに
成仏まで至るというのは
仏典のどこをどう解釈すれば
そのような解に至るのか。真宗にだけ通用する理屈ではなく
誰にでも通じるように説明して頂きたい。
957 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2006/02/26(日) 19:27:45
真宗は仏教ではないから。以上。
958 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2006/02/26(日) 19:29:43
>>957 おまえか。
711 名前:名無しさん@京都板じゃないよ :2006/02/26(日) 19:26:46
>>708 阿呆っ、法然上人の言う通りしたら、真宗が仏教になってまうやんけ!!
959 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2006/02/26(日) 19:35:18
>>956 >信のみにて往生を遂げるのも
では聞こう。往生の「正因」とは何か?
960 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2006/02/26(日) 20:01:02
>>959 その定義自体がもはや両教団で噛み合ってないんですよ。
浄土真宗における「往生」とは「信心決定」において私の内に確かめられるわけでしょう。
如来の本願大悲(=大信心)のことを「信心」として、それに対する憶念の信(=個々の信心)を
「決定」としているわけで。
私の上に往生が成り立つのは、如来の本願大悲(=大信心)のおかげであって、私はそれに
ただ頷き、憶念(個々の信心)するだけなのです、という構造ですからね。
『歎異抄』にそのことを求めれば、
「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて、念仏まうさんとおも
ひたつたこゝろのをこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり」
となるわけですが、この「念仏まうさんとおもひたつたこゝろのをこるとき」には既に救われている
(=摂取不捨の利益にあづかる)という考え方ですね。
「をこるとき」の次の瞬間に我々は称名しているわけですが、結果、それは賛嘆として称名念仏
であるということになりますね。
では、如来の本願大悲とは何か?それは「行」そのもの、すなわち「名号」ということです。
ここに五劫思惟の願、その万徳が満ちていると考えるわけです。
>>960 俺たちにはもの凄く分かる話なんだけど、多分それでも伝わらないと思うよ。
おそらくだけど、「行」は与えられるもの、という感覚が分からないはず。
>>961 そのあたりの親鸞の「深さ」というのが理解できるかどうかの問題でしょうね。
963 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2006/02/26(日) 20:28:43
>>962 救いたまえ!と念仏行に明け暮れる生活ができる人ってどれだけいるんでしょうね?
兼職ですけど、仕事中に念仏をしていたらお客さんドン引きですって(w
964 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2006/02/26(日) 20:45:05
>>963 だめだなあそういう時は頭使って
周りに気づかれないように中国語で
オミ〜トフォ って早口で三回言えば無問題
966 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2006/02/26(日) 21:41:44
>>964 そんなモンですかね。じゃ、トイレとか行く時にやってみましょう(w
968 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2006/02/26(日) 23:36:40
釈迦は4つの人については死後に墓をつくって花,香をささげ礼拝せよといってる。
4つの人とはブッタと一人で悟りを開いた人とブッタの教えをきいて実行する人、
世界を支配する帝王の4つに属する人は墓をつくり礼拝せよというわけ。
すると礼拝した人は心が静まり天の善い世界に生まれるというわけ。
969 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2006/02/26(日) 23:58:54
>>967 工エエェェ(´д`)ェェエエ工 「往生するぞ」と念仏すると往生するんじゃないのぉ〜????
971 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2006/02/27(月) 00:16:24
>>967 今やすっかり「おまじない」になってますねぇ・・・念仏。
歩いても、とどまっても、座っても、横になっても、
その立ち振る舞いのすべてが、
ナムの一言さえ発さずとも、南無阿弥陀仏になっている。
これを本当に念仏の人という。
例の浄土宗のオカルト坊さんは、
混乱をもたらす疫病神のようですね。
まあ、彼にとっては疫病神も神さんだから拝むんでしょうが・・・
ホントいいかげんにしてほしいですね。
975 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2006/02/27(月) 00:47:15
でも、真宗は基本が違っているような気がする。
976 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2006/02/27(月) 01:26:14
>>967 別に中国語読みでもいいと思うけどね
善導さんは中国語で念仏しただろうし
>>972 南無には特別の意味がある
浄土宗は知らんが少なくとも真宗は見出している
南無が無ければ、単なる呪文になる。
浄土宗なら、それでいいんだろうが・・
979 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2006/02/27(月) 01:43:03
980 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2006/02/27(月) 02:13:22
そりゃ納品書と領収書が二枚一組になっているって事よ。どこかに書き込みしてあった。
それに念仏をとなえるっていっても親鸞は唱っていう字じゃなく称っていう字を
使ってるやん。唱っていう字だったら口でなんまんだぶと唱える事だけど称の字の
意味は違ってくる。現に親鸞は横にわざわざふりがなをうってハカリって書いてるやんか。
そうなると口で唱えるというより聞という意味の方強くなるね。おそらく親鸞にとって
念仏は聞名という意味があったんだろうね。結論としては念仏を称える、あるいは申すというのは
念仏を聞く、聴聞する、ということだったんだろう。
981 :
972:2006/02/27(月) 02:20:40
ナムアミダブツととなえさえすれば、それで念仏と思っているようだが!(では聾唖の人はどうなるのか?)
人はたとえ偈文の一つ、念仏の一声さえとなえずとも、全身立ち振る舞いナムアミダブツになれば、
これこそ本当のお念仏ということだ!
となえる自分も忘れ、となえられる六字も忘れ、ただナムアミダブツに成り切る。
するとあら不思議や、死を待つまでもなく、現今に往生である!
982 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2006/02/27(月) 02:22:29
983 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2006/02/27(月) 02:50:20
ところがこの信が難中の難なんだ。これにすぎたるはなしって言ってる。
念仏の教えを信じろ。易行道だといっておきながら難中の難というわけ。凡夫は信じられないのよ。
信じるってことはどうゆう事で信じた人間はこうなると言うことを親鸞は本典の信の巻でとくわけ。
で最後に悲しきかな−−愛欲の広海に名利の大山に迷惑するはずべしいたむべしと
信じるどころか教えを聞いても信じられず教えに背いている自分だというわけね。
要は18願の唯除の存在の自分であるというわけ。そこでそれじゃこの信じられない唯除5逆誹謗正法の
人間はどうなるんだと親鸞は考えたんだよ。親鸞や法然はこの唯除の自分を見いだしたわけ。だから
自らグチの法然といったり愚禿釈親鸞といっておろかなとかバカなって名前の前についてるだろ。
よってこの信じることの出来ない唯除の5逆罪や誹謗罪の人間がどうやって救われていくのか明らかにしなくてはいけないのよ。
984 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2006/02/27(月) 03:07:35
985 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2006/02/27(月) 03:48:17
>>983 「誠に知りぬ。悲しきかな、愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数
に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、恥ずべし、傷むべし、と」ですね。
これについて『歎異抄』に言葉を求めれば、第九章でしょうか。
ここでは第八章までとは打って変わり、親鸞さんが自分自身の人間存在というか、等身大の
事実から開いていく内容を唯円が書き留めていくわけです。
それはもはや学問や論理的追求ではなく、自身に踏み込んでいますね。
986 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2006/02/27(月) 03:49:23
「仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫とおおせられたること」であると前置きしたうえで、
「他力の悲願は、かくのごときのわれら(=五逆・謗法)がためなり」とする。
すなわち「煩悩の所為」の前にどうにも抗し得ない我ら、ということです。
「久遠劫よりいままで流転せる苦悩の旧里はすてがたく、いまだうまれざる安養の浄土はこい
しからずそうろう」というくらいに煩悩は深いものであるが、その深さ故に、如来は大悲の本願
を起こさずにはおれなかった、わけですね。
「恥ずべし、傷むべし」こそ親鸞さん自身の表白ですよね。そこに「真証」があったわけです。
煩悩を恥じ、痛み入り、悲しむところ、すなわち「たすからない身である」という絶望が、転じて
如来の大悲であったのだ、という開き方ではないかと。
自身を「たすからない身である」と阿弥陀如来の大信心の前に投げ出してみたら、大悲という
着地点がそこにあったということですね。
987 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2006/02/27(月) 03:59:14
>>980 「私が捨てた念仏を喜んで拾う者がいる」という妙好人・庄松の話を思い浮かべますね。
989 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2006/02/27(月) 05:38:19
誰も信によって成仏する事については
説明しないんですね。
990 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2006/02/27(月) 08:02:34
>>989 あんた、成仏したいの?
あんたなら、どうやって成仏する?
991 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2006/02/27(月) 08:37:18
糞みたいな理屈の結果が葬式坊主と。。。
992 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2006/02/27(月) 09:15:53
>>991 どうやったら成仏できるのかを、自分なりに考えることも必要では?
人に聞いて、文句垂れてるだけじゃ能がないでしょ。
993 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2006/02/27(月) 09:35:49
>>991 創価さん、糞みたいにキレがない突っ込みだな。
994 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2006/02/27(月) 11:16:34
理屈ではないのよ。理屈を超えたところにあるんだよ。それから真宗は出家じゃ
ないんだよ。在家なんだな。聖もしくは非僧非俗なんだよ。親鸞は法然からそこを
習ったんだよ。1つは選択という取捨のこと。選び取るということはそれによって
何を捨てるのかということね。もう一つは肝心なのは念仏できるかということであって
妻をめとって念仏がでるなら妻をめとればいいし、家にすんで念仏がでないのなら出家すれば
いいし、要は念仏出来ることが肝要なんだぜってことを
教えてもらったんだ。一遍さんなんか念仏に上、中、下の三つあるといってる。下の念仏者は
妻子をもたず家ももたず、すべて捨てないと念仏が相続できないもの、中は家があってそこに定住
して念仏が相続できるもの、上の念仏者は妻をもち家をもち日々生活する在家の中にあって念仏出来る者なんだよ。
よく考えてみろよ。出家して念仏していくのより在家の生活にあって念仏相続の方がはるかに
難しいのよ。一遍にとって親鸞はそれができる念仏者だったんだ。在家の生活の中で念仏を相続していくというか
その道を歩んでいくから念仏の行者というのよ。
995 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2006/02/27(月) 11:24:16
念仏は分かったけど、成仏はどうなったのさ。
996 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2006/02/27(月) 11:26:24
もう善いじゃん梅。
997 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2006/02/27(月) 11:27:37
ちぎに・・・じゃなくて、
次に移動梅。
998 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2006/02/27(月) 11:28:20
成仏・・・勝手にするさ梅。
999 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2006/02/27(月) 11:29:09
もうどうでもいいや梅。
1000 :
妖輝緋 ◆Tyn2tfw0AU :2006/02/27(月) 11:29:13
1000げっとぉ!
1001 :
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