1 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2005/11/19(土) 20:09:29
大仏師定朝と藤原時代の仏像について語りましょう
2 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2005/11/19(土) 20:10:31
3 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2005/11/19(土) 21:04:35
修復後の平等院鳳凰堂の阿弥陀如来像見に行った人いるー?
4 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2005/11/20(日) 14:21:32
定朝いいね。見ていると心安らぐよ。
5 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2005/11/20(日) 15:18:38
定朝様の阿弥陀如来像の代表作品というとやはり平等院、法界寺、三千院だな。
6 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2005/11/22(火) 17:01:18
浄瑠璃寺もお忘れなく
7 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2005/11/22(火) 17:21:34
中尊寺、願成寺、富貴寺、臼杵石仏
8 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2005/11/22(火) 17:40:31
阿弥陀如来坐像がいいね
9 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2005/11/22(火) 18:00:47
>>3まだ見にいってないが、写真を見ると金箔をずいぶんときれいに押しなおしたみたいで
雰囲気変わったよな
10 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2005/11/22(火) 18:40:23
なんだ、全然盛り上がってないな。
やはりここは「いま最も定朝に接近し得る立場と経験を持っている」あの御方に
御光臨願いたいもんですなw
11 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2005/11/22(火) 23:48:02
↑それが目的でこのスレッドたてたなら迷惑な奴
12 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2005/11/23(水) 00:01:43
「そう、いま仏像を研究しておられるプロの方々の中でも、定朝が真に分かって
いらっしゃる方は非常に少ない。私の恩師、井上正先生は戦後の定朝仏研究の
実質的なパイオニアなんですが、その井上先生が、多くの研究者たちは定朝が
分かっていない、とおっしゃる。その言葉の意味を私は長いこと分からずにいた
のですが、最近少しずつ分かり始めた部分が出てきて、ああそうだったのかと気
付くことも多い。気付いてみると、従来の藤原彫刻への年代観がゆらいで、多く
の作品に新たな年代観が想定されて、藤原彫刻考察の新しいステージが次第に
広がってくる。その上を慎重に踏みしめながらゆっくりと歩いているのが、いまの
私の状況ですな」
「すると、代表は、もう定朝の事は分かってきているのですか」
「分かってきている、というと語弊があります。おぼろげながら次第に見えつつあ
る、という感じですね。私の場合、平等院の完成された様式は終着点であると見
ていますから、そこへたどり着くまでのプロセスに興味がある。若き日の定朝の
作風というのはいまだに確実な形で捉えきれていないから、そのへんをどうやっ
て突き詰めてゆくか。その対象資料としてどこのどういう仏像を取り上げて絞りこ
めばいいか、ということをいまやっている最中なのです」
13 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2005/11/23(水) 00:05:12
骨皮道賢代表は、古代仏像彫刻研究の一環として平安彫刻史を重視しており、そ
うでなくても平安時代に大変な関心を寄せている。その情熱的な研究ぶりは、かねて
京都の美術史関連の友人から聞いていたものの、その実態は筆者の予想をはるか
に上回っていた。毎月一回ずつ京都府立図書館および京都府立歴史資料館に通っ
て京都関連を学び、また京都造形芸術大学にて平安時代仏教美術を中心とした美
術や歴史文化財の様相を追いかけている。その情熱的で真摯な姿勢に、筆者は思
わず襟を正したことだった。この人に接したことで、筆者の進むべき方向も見えてき
たのであり、これが当サイトスタッフへの参加を引き受けることにもつながった。
初めて骨皮と出会い、平安時代についても語り合った際、相手は録音テープを用意
していて我々の会話を収録した。これは今になってみると価値があり、おかげで筆者
は骨皮の語った平安時代への見解をそのまま紹介出来る。しかし字数が限られてい
るので、とりあえず要点だけを抜き出しておこう。
14 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2005/11/23(水) 00:05:50
「・・・平安時代というのは、日本の歴史の中ではあんまり変化がなくて、とにかく平和
で穏やかな時代だと思います。どこかしら現代に通じるものがあるようにみえますね。
九、十、十一、十二世紀の約三百五十年余りにわたって平和が保たれたわけですが
、私としてはね、この三百五十年の平和というのは、芸術という分野からみるなら大変
貴重で価値あるものだったと思いますね。この場合の芸術というのは、主に仏教芸術
ですね。文学も発達したけど、長文形式のものは廃れてしまうでしょう。短詩形文学に
とって代わられてしまったところに、平安朝文学の限界がありますね。女性たちが色
々小説や随筆や日記を書いていますけど、ほとんどは手遊び程度で、本人たちに文
学的創造の意識があったかどうかは疑問です。流通品ではないから、貴族社会の中
での鑑賞物にとどまっています。それに女性たちの地位がこれらの文学作品への評
価によって向上した訳では決してありません。その意味では、紫式部や清少納言とい
えども限界がある。彼女たちの名声は後世になってから大きくなったのです。それに
彼女たちは藤原一門の中にあった。どれだけ栄えようとも、藤原政権がつぶれれば
おしまいです。道長をはじめ多くの人々が日記や記録を残していますが、それらが日
本の文化全体に影響を与えたわけではないし、厳密には一次史料としての価値のみ
において評価すべきですね。(中略)
15 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2005/11/23(水) 00:06:27
でも、仏教芸術の場合は様相が違いますね。平安時代が一番だったと思いますよ。
実際に一番創造のエネルギーが注がれていたのは仏教関連の芸術でした。仏像は
もちろん、建築、絵画、工芸、経典、書跡の多くは仏教関連だし、藤原一門が仏教信
仰・・この場合は極楽浄土信仰ですが・・そういうのに全力をあげていたからこうなった
のですね。しかも、そういう総合芸術ほど、熟成に時間がかかるのです。仏像が立派
でも建築が貧しいと何にもならない。絵画がうまく描けても書がまずいと壁にもかけら
れない。平等院鳳凰堂のように、全てを統一した美意識でまとめて創り上げるという
のは、お金もかかるけど、それ以上に技術の蓄積や発展昇華がないと出来ない事な
んですね。仏教伝来以来五百年の蓄積とノウハウがあって初めて可能なんです。しか
しそれだけでも足りない。更に絶対的な条件として三百五十年の平和が不可欠だった
と思います。三百五十年の平和があったからこそ、仏教芸術は前代までの蓄積を生
かして発展しより洗練されて、より大きな美術空間世界への創造活動を可能にしたの
です。平安期仏教美術世界の本質はそういう面からも理解されるべきですし、そういう
可能性ある美術創造の世界が藤原一門の後押しによって確立されていたから、仏教
美術の世界はいくらでも拡がり得る余地が大変にあったわけです。そういう流れのな
かで定朝が登場するのですね。(中略)
定朝はいまなお日本最高の仏師として評価が高いですが、生前すでに彫刻界の頂点
にあって絶賛されていたんですね。美術への審美眼が高くて、とにかくいいものをきち
っと評価した藤原道長すら瞠目したんです。それまで地位が低くて、虫けら程度にしか
見えてなかった仏師という存在が、いっぺんに大きくみえてきて、彼の望む美術世界
への無限の可能性を一気に現実のものとした、そのことに道長は気付いて驚愕した
わけです。だから前代未聞の法橋位を与えるべく、わざわざ左大臣の許可まで得た
りしています。それぐらい当時においても作品がずば抜けて素晴らしかったようです。
当時の貴族たちに絶賛され、その尊容満月の如し、とか、是をもって仏の本様となす
、とか言われていますね。芸術家としては最高の評価を与えられたわけです。こんな
仏師は日本では定朝だけです。
16 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2005/11/23(水) 00:07:04
しかもその影響がすごいですね。彼の死後も定朝様式は洗練化されて日本全国に
広まる。現代に至るまで彫刻家たちの手本になっています。こんな広くて長くて、いま
なお生きている影響というのは、紫式部も藤原道長も出せなかった。平安時代には色
んな人物が登場しましたが、今なお生きた何かを保ち続けているのは定朝だけです
ね。また定朝様式という広がりがあって初めて日本中の全ての階層の人々が仏教と
つながりをもつことが出来たし、それで一気に仏教が庶民層にまで浸透した。日本じ
ゅうの人々が長い事待ち焦がれた救世主の姿を、定朝がはじめて造り出して、これま
で以上に多くの人々の精神に安らぎを与えたのです。これはとても大きいし、庶民層
が積極的に活動する鎌倉新仏教への大きな起爆剤になりましたね。(中略)
更に、定朝の系列から多くの名工が輩出していますね。運慶も快慶も出ました。彼ら
が日本の木彫の歴史そのものを形成した。そういうふうな流れを作り出して、現代に
まで生かすという、定朝のそういう業績は止利にも春日にも運慶にも成し得なかった
部分ですね。その事をかえりみるならば、定朝は間違いなく日本美術史上最高の天
才です。ミケランジェロやダビンチにも決してひけをとりません。日本より外国での評
価が高いんですよ。日本が世界に誇るビッグ・アーティストです。日本人はもっと定朝
の存在を誇りにしていいと思います。(中略)
そういう人物が、平安時代に登場している。いや、平安時代だからこそ、登場したん
ですよ。だから私としてはですね、平安時代というのは実はとても奥行きの深い、面白
い歴史だったのではないかなと思っております。まあ、現在の研究レベルではまだま
だ解明されていない部分の方が大きいでしょうから、こういう時代の方が研究対象と
してはとてもやりがいがあるんじゃないんでしょうか。(中略)
17 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2005/11/23(水) 00:08:13
えっ、源氏物語ですか、うーん、あれを読んでも平安時代なんてとても分からないと思
いますよ。分かるのは式部の恋愛観とか生活感覚とか創作意識ぐらいでしょう。定朝
とは別の世界に生きた人ですし、式部のフィールドというのも定朝のそれに比べたら
極端に狭かった筈ですから。定朝は若い頃は丹波の山中で修行したらしいし、子供の
頃には比叡山で仏法修行していたらしいのですが、式部はそこまでいっておりません
でしょう。共に芸術家ではありますが、格段の差がありますよ。式部は貴族社会の中
でしか動いていないけど、定朝は仏師であるまえに僧侶でしたから、日本仏教文化の
在り方について相当な責任を感じていた筈です。相当の使命感なり責任感がなけれ
ば、後世にとどろく日本独自の美術世界を創造することは出来なかったでしょう・・・」
こうした骨皮の熱っぽい語りは、筆者の胸を幾度も揺さぶった。平安時代という歴史
への新たな視点を彼は「定朝」という明確で分かりやすい人物を例に挙げて示してくれ
たのである。さすがに関東に名高き伊勢宗瑞が敬服するだけの事はある、と感心して
しまった。目からうろこが取れたような気がして、筆者のこれまでの平安時代観がひっ
くり返ってしまった。その余りに急激な展開に筆者自身が驚いてしまったのだが、その
驚き自体が実に新鮮で快いものだった。
18 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2005/11/23(水) 00:08:48
そうか、定朝がいたんだなあ、と思った。筆者はずっと宗教美術というものを考えて
きたのだが、その内実は現在での常識や定説というものに基盤を固定してしまってい
たのかもしれない。おまけに宗教美術論に不可欠な、洋の東西の比較に重きを置き
すぎていたようである。ロスキルやヒルデブラントに余りにも埋没しすぎてきたのでは
あるまいか。日本の宗教美術を考え、そのなかで平安時代を考察するのであれば、
その時代の中心にいた芸術家に焦点をあてて、そこを起点にするべきである。日本
美術史上最高の天才の存在は、平安時代という歴史のもつ本質なり真価なりに迫る
ための現在唯一の橋頭堡としても認識出来よう。要は、それを明確に語れるのかど
うか、という点だ。我々が美術史の一学徒として平安時代を語るならば、それは、「語
られる過去」という形でなければならない。語るのは「現在」だが平安時代は現在にあ
ってはひとつの「過去」にしか過ぎない。「過去」は決して「現在」とは相容れず、ゆえに
「現在」をもって「過去」を推し量り、語ることは出来ない。「過去」は「過去の人物」にし
か語れないものであるにもかかわらず、我々はあえて「過去」を語ろうとする。それが
いかに難しく困難な事であり、同時に大変有意義でやり甲斐があるかを、骨皮は定朝
論を語ることで筆者に提示した。
19 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2005/12/03(土) 03:14:35
さすがは骨皮氏、すばらしい御高説ありがとうございました。
20 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2005/12/03(土) 07:09:49
>>13 > 骨皮道賢代表は、古代仏像彫刻研究の一環として平安彫刻史を重視しており、そ
>うでなくても平安時代に大変な関心を寄せている。その情熱的な研究ぶりは、かねて
>京都の美術史関連の友人から聞いていたものの、その実態は筆者の予想をはるか
>に上回っていた。毎月一回ずつ京都府立図書館および京都府立歴史資料館に通っ
>て京都関連を学び、また京都造形芸術大学にて平安時代仏教美術を中心とした美
>術や歴史文化財の様相を追いかけている。その情熱的で真摯な姿勢に、筆者は思
>わず襟を正したことだった。
いやしくも「研究者」を自称するなら、この程度のことはフツーで、別に「襟を正す」
ほどのことでもあるまい。「襟を正す」のは、まともな学術的論文を書いて学界に認め
られてからの話だろ。
21 :
名無しさん@京都板じゃないよ:
>>12-18 第三者的に書いているがどうせまた骨皮の自作自演なんだろw