>>879 いや、だから、合理的な行動をとらないというのは、英語でいえばエラーだよね。
エラーを想定した社会を作ることは可能だよ。
>>883 ん?うまくいっていないってどういうこと??
「一方、仏教界では、全日本仏教会が、中教審の答申が出る直前の今年2月に要請書を提出しました。
その内容は、教育における深刻な問題の一つの原因を「現行教育基本法の下で道徳教育どまりで、
その基礎ともなる宗教教育が過度に軽視されてきた結果である」と指摘し、第9条第1項を、
「日本の伝統文化の形成に寄与してきた宗教に関する基本的知識及び理解は、教育上これを重視しなければならない」
と改正すべきであるとしています。また、あわせて「宗教的情操の涵養の尊重も明記すること」などについても
要請し、教育現場において宗教教育全般を禁止するような解釈を生む余地をなくすことを強調しました。」
…みなさんがお好きな真宗はこれに反対しちょるようです。さすがですな。
>>885 現在のように倫理道徳教育を行って宗教を軽んじても、ここまで犯罪は増える一方だし、日本人の文化や
日本人らしさが失われているってこと。
教育基本法の改正について
◆宗教教育についてのさまざまな議論
近年、公教育における宗教教育の必要性が、さまざまな場で取りざたされています。低年齢化する
少年犯罪の原因を宗教情操教育の欠如に求める意見さえあり、宗教教育の果たす役割に
ついてさまざまな形で議論が進んでいます。
◆議論の活発化
では、このような宗教教育の必要性をめぐる議論がなぜ活発になったのでしょうか?
そのひとつの理由は、神戸の酒鬼薔薇聖斗による連続児童殺傷事件に端を発する、
かつて想像できなかった動機による10代の子どもたちの犯罪が、社会の中でクローズアップ
されたことが挙げられるかと思います。そしてまた、学級崩壊や不登校問題など、
学校教育の破綻とも言える深刻な状況が引き金になったとも考えられます。
>>887 宗教教育と犯罪の関係を証明してください。
891 :
電波男Ψ(´д`)Ψ@ヒロヘロ ◆RHudQb4c9k :2005/04/04(月) 17:22:22
道徳倫理が宗教的だとは思っていません。
宗教と言う言葉の意味は多義ですが、現状の宗教を大きく類型すると
・神・仏などの確認不可能なものを崇拝対象にする
・輪廻転生や確認不可能な現象を断定する
になります。そして、個人で信仰しているだけでなく組織的に押し付けているわけです。
この意味で私はすべての宗教はカルトであると認定いたします。
ただし、唯一原始仏教のみが上記に分類されない意味で、宗教ではなく倫理道徳や
価値論、人生論であると考えています。形骸化され腐乱した仏教であっても、いつも
釈尊に帰ろうとする原理主義運動がありました。しかし、現在ではそれは望めませんね。
宗教教育について「人格の形成を図る上で、宗教的情操をはぐくむことは、
大変重要である。現在学校教育において、宗教的情操に関する教育として、
道徳を中心とする教育活動の中で、さまざまな取り組みが進められているところであり、
今後その一層の充実を図ることが重要である」と述べ、その重要性を強調しました。
だそうだ。
>>892 まぁ、文部省はいつでも間違いを侵すから信用はできないな。
それになぜ大切かとも説明していない。ただ大切だと書いているだけだ。
>>893 あなたにかかればイエスも釈迦も、ニーチェですら間違いだらけの勘違い野郎になりそうだ。
>>896 一般的な論理的説明があれば、それを評価することも可能だが、論理的説明がないので評価できない。
だから信用できない。
899 :
電波男Ψ(´д`)Ψ@ヒロヘロ ◆RHudQb4c9k :2005/04/04(月) 17:26:23
>>894 あなたを存じませんが、私は一貫、同じことを申しております。
宗教教育はその内容から、おおまかに分けて二つの要素から成り立つと考えられます。
ひとつは「宗教についての知識の習得」であり、もうひとつは「宗教的情操の育み」です。
前者は、宗教の概念をはじめ、各宗教の歴史や教理などについての「客観的な学び」と
言えます。知識を習得することによって、子どもたちの中に宗教に対する批判的な視野が開けてきます。
教師となる人間は、自分自身が信仰を持っていなくとも、宗教についての知識さえあれば子どもたちに
教えることができます。
後者は、人間を超えた存在や宗教的な真理に対する「主体的な信の育み」です。
そこには、よく言われる「畏敬の念」や「愛・慈悲」といった宗教的情操感情が生まれ、
自分自身の内面を深めていくと考えられます。信や情操感情というものは、教師が
子どもたちに直接教えることはできません。できることは、教師が自身の信について
言葉や行動を通じて子どもたちに示すことだけです。その経験をもとに子どもたちは、
体感を通して自らの中に自らの信を育んでいくことができるのです。
釈迦が語った真理のひとつの表現が「縁起」です。「法を見るものは縁起を見る。
縁起を見るものは法を見る」と原始仏典に説かれているように、縁起こそが仏教者が
依って立つべき真理と言えると思います。
縁起とは、文字通り「縁って起こる」ということであり、すべての物事は何らかの原因
によって起こる(生じる)という意味です。私自身はこれを、時間的にも空間的にも
すべての事物が、関係し合って存在していると解釈をしています。
この縁起というものを頭で理解するのではなく、まさに身体で体感することが、
仏教的な情操教育の大きな眼目のひとつだと思うのです。
縁起を体感するということは、「人は多くのものに支えられて生きている。他から
多くのものをいただき、自分の中に取り込んで生かされている」という真実に
気づくことです。すべての生きとし生けるものは、目に見えるもの、見えないものに
よって互いに支え、支えられて存在しています。
それは「自他一如」の世界であり、縁起という真理に照らせば、人を殺したり
傷つけることは、すなわち自分自身を殺し傷つけることに他ならないことになるのです。
縁起という真理を少しでも体感すれば、現在世界中に蔓延している暴力の嵐は、
自ずと収まっていくことでしょう。
「畏敬の念」や「愛・慈悲」が重要とは思わないんだが、これが重要と考える人はなぜ重要だと思うんだ??
さて、現代社会の中でその要件にかなった人が、はたしてどれほどいるのでしょう。
仏教の世界に限って言うと、ほとんどの若者が家業として寺を継承するために僧侶と
なっていきます。そのような状況の中で、自らの信を確立し宗教情操教育の担い手
となることができる人間がどれだけいるのでしょうか。
そのことに思いを馳せる時、宗教情操教育の可能性を考える際に真っ先に論じなければ
ならないのは、担い手になる宗教者をどのように育成していくかということではないかと思うのです。
>>902 そこにまで論理的説明を求めるなら、君は相当感性が乏しいんだな。
負けて悔しい、親が死んで悲しい、子供が生まれてうれしい…とかそういう
人間として基本的な感情すらないのか?
>>901 > この縁起というものを頭で理解するのではなく、まさに身体で体感すること
見るんじゃない!感じるんだ!ってやつか?
この部分以外なら納得できる。
>>904 感情は持っているが、それはあくまで私のローカルな脳内のことであって、社会的な意味では無意味だ。
>>907 天皇陛下や先祖に対する畏敬の念は昔の日本人は普通に持っていたんだがなあ。
その慈悲の心を一人一人が少しずつ取り戻すことが大事だと言いたいのだろう。
>>905 よくわかったね。唯物論者であり、無宗教であり、共産主義者だ。
確かに、人間が生きていく以上、「宗教」と無関係に生きられませんし、人間は宗教的存在ですから
それを知ることが重要なことであることは事実です。むろん、ここでいう宗教は、日本人がいう
「私は無宗教です」という表現の背景にあるとても深いものを考えています。
しかしながら、それを学校教育の中に求めるという姿勢、あるいはそのような発想を生み出す社会的
な構造をむしろ問題とすべきではないかなと考えています。
つまり、「学校教育の中に宗教を」と声高に叫べば叫ぶほど、宗教は家庭や地域社会から、
さらに離れたものになっていくのではないかという危惧を持つからです。
その理由は以下の通りです。近代性という表現で簡単にステレオタイプに論じることは勿論
できませんが、例えば、合理性とか、経済性という名を掲げ、それを達成するために日本の敗戦後の
システムは「無駄である」ものを、排除してきました。
効率性の低いものは二の次になりました。社会全体の効率性を掲げた政治経済態勢は、
モーレツ社員という言葉を作り、その影では家庭の団欒(もうすでに死語!)はなくなりました。
911 :
910:2005/04/04(月) 17:40:41
ある住職は、病院に見舞いに行って、家族が見舞いに来てくれない入院老人たちのつぶやきを
聞いてしまい、ふと今日の家庭というのは、健康で、自分のことが自分で出来て、所得を得られる
(あるいはその可能性のある)人間の滞在する場になってしまっているのでないだろうかと慄然とされたといいます。
役に立つものならば、認め、そうでないものは、排除していく。そのような思考、態度に対して危機感を持たない
という私たちこそが問われるのではないかと私も自問せざるをえません。
実は、宗教も、このような社会生活の中では「排除されたもの」として扱われてきたということを実感します。
しかし、今日様々に歪んだ事件が生まれ、それを課題にしようとするとき、本当は社会構造の中で自分たち
の今までの営みをこそ、問わなけらばならないのではないでしょうか。
ところが、自分たちの営みを問うことなく、問題を自分と離れたところに想定し、その解決のために
「そうだ、宗教だって、役に立つのだから、それを使った方がいいではないか」という発想ならば、
問題は余計に見えにくくなるばかりです。
ちょうど、問わなければならないのは、自分の生き方なのに、問題に出会うと、日・方角・名前の善し悪し
や水子や先祖のせいにして問題解決の矛先を誤って生きている姿と重ね合わせて見えてしまいます。
もちろん、だからといって学校における宗教教育の重要さ、「果たすべき役割」は大きくなっています。
でも、これは私たちの効率性のみを求めた営みが大きくさせてしまったのだと言うべきでしょう。
実際に私も大学の教員として教育の現場で、宗教教育に出会って大きく変わっていく学生と共に過ごす
のは喜びでもありますが、表層的に「今こそ学校教育において宗教教育を」と声高に論じる風潮や意見
といったものに甘んじることはできないと思っています。
912 :
電波男Ψ(´д`)Ψ@ヒロヘロ ◆RHudQb4c9k :2005/04/04(月) 17:42:47
>>901 >それは「自他一如」の世界であり、縁起という真理に照らせば、人を殺したり
>傷つけることは、すなわち自分自身を殺し傷つけることに他ならないことになるのです。
>縁起という真理を少しでも体感すれば、現在世界中に蔓延している暴力の嵐は、
>自ずと収まっていくことでしょう
自他一如?これが大きな偽善になっているとは思わないのですか?殺人や他人を傷つける
ということを自分に置き換えることがどういうことなのかお解りですか?自己中心主義の潜在的
強要だと私は考えますよ。そんな伝統宗教の腐敗のなかで熟成された間違った価値観を壊さな
ければなりませんよ。
倫理教育、道徳教育で大切なのは宗教的情操などと言う腐乱蜜柑ではなく、【他人の痛みに
対して、観念化せずに涙を流せる】というところにあります。現代倫理学の世界では死に物狂い
でその研究が教育に適用される方法を模索しているのです。糞坊主が考えているほど甘くない。
ヒトに求められるのは、労働力と種の保存の予備だ。
システムにとって役に立つものを推奨し、役に立たないものを切り捨てて何が悪い。
>>912 なるほど。倫理学の世界ではそういう動きがあるんだね。
文部科学省の動きとはまた違うようで…。
>>913 で、逆に国(というか政府)は宗教教育をやろうとしてるわけで。
917 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2005/04/04(月) 17:46:20
伸びてるな・・・と思ったらホロン部の時間か。
>>916 うん。いつもの事だよ、文部省がアホなのは。
919 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2005/04/04(月) 17:48:28
>>918 当然、愛国心をはぐくむ教育もアホなんですね?
今日はホヤを殺してしまいました(σへ`。)
食べるためだけども、次からは、予め料理されたホヤを食べるか、ホヤはもう口にしません。
胸がいたかったです(σへ`。)
ごめんなさい<(*_ _)><(_ _;)>
>>919 そもそも社会という単位は国という単位よりも規模が大きい。社会全体を考えるなら国という単位は無意味だ。
922 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2005/04/04(月) 17:49:45
私は人の心が汚れていくのが悲しいのですよ
悪い人たちに染まり汚れていくのが悲しいのですよ
どんなに紳士でも、心が汚れていくのが悲しいのですよ
アカの飼い猫がいるスレはここですか?
あんな非論理的で暴力的な集団と一緒にしないで欲しいです。
>>926 一緒だろw
俺の勘違いや偏見ならばあなたの僧侶や宗教に対する最初に結論ありきの論調と
同じなのかもな。
929 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2005/04/04(月) 17:54:58
文部科学省は屑
そもそもなぜ共産主義者がこの板に来たのかがわからん。
932 :
名無しさん@京都板じゃないよ:2005/04/04(月) 17:58:44
共産主義者なのは嘘でほんとはただの屁理屈屋なんだろ?
933 :
名無しさん@京都板じゃないよ:
仕事をしてるとオケラがお店にはいってくるのだけれども、全部生きたまま外にかえすのです