キリスト教信者には、生死をさまよう時マリア様が見えるという。
仏教徒には、ぉ浄土の花園が見えるらしい、実は私交通事故で、
意識不明といわれた時(後に知りました)、花園もマリア様も見えずに、
私自身が見えました
何の違和感もなしに、ただ病院のベットにいる私をビデオを見ているように
真上から、んーん鑑賞?看護婦さんが3人ばかり行ったり来たり
確かに自分の姿を、自分で見てました、見ている私は意識ははっきりしていました、
妹の声で風船ではなくて、もっと柔らかいそうシャボン玉が割れるような感じでベット
で妹の顔が見えました、あれは死の境だったのでしょうかね。
退院まで2ヶ月掛かりました。
なんかその後、宗教感って言うかなにか変わったような。
板違い
オカルト板か宗教板で
>>1 本来の魂の存在そのものが、見えたわけですね。
宗教は、神に祈る方法を人間側から、形式化して行く物ですから
魂の存在とは無関係なのです。
オカルト?
>>宗教は、神に祈る方法を人間側から、形式化して行く物ですから
いったい神、仏に何を祈るのですか?
形式化。 形式ですか?
私は、ある種の体験をしたことによって、宗教哲学を見てみたい思いが
しただけです。
オカルトという、異常な世界とはまったく違います。
誰にでも起こりうる、世界を体験してのスレです。
ちなみに、幽霊、オカルト、オバケの類はまったく私の思考にはありません。
ヒトという生物が持っているニンゲンという「仕組み」は、
森羅万象に関連性を見出したり、それに理屈をつけたり、
あるいは、応用したりする「機能」なわけですな。
あなたが観たのは、間違いなく、ただの夢(あるいは偽の記憶)です。
それを合理的に解釈しようとするのは、あなたがニンゲンだからです。
ニンゲンの、そうした傾向が、宗教や科学を生み出すわけですわな。
(宗教も科学も、根は同根ですので)
けれども私が思うに、宗教や信仰と言うのは、
「生き方の態度」の指針というか、まあ支柱なわけでして、
「あれ(それ)が何だったのか」を本当に解釈したいのなら、
宗教ではなく、むしろ、科学に頼るべきでしょう。
科学というのは、事実の検証を重視しますから、そのほうが確実です。
その経験(と信ずる出来事)に、何らかの意味を求めたいのなら、
個人的に宗教的な解釈を試みるのも、あなたの自由ですけどね。