『差別戒名とは』人権ブックレット25 松根鷹 部落解放研究所から抜粋
【差別戒名の起源と背景】
未公認戒名第1号・・・お島(善信) 仏教を伝来した司馬達人の娘
公認戒名第1号・・・・聖武天皇(勝満) 戒律を伝えた鑑真和上による初の受戒
院号第1号・・・・・・嵯峨天皇(嵯峨院)
死後戒名第1号・・・・九条兼家(法興院)
院殿大居士第1号・・・足利尊氏(等持院殿仁山大居士)
長文戒名第1号・・・・徳川家康(東照大権現安国院殿徳蓮社崇誉道和大居士)
キーワードは院殿大居士第1号・足利尊氏の時代、室町時代前後にあるようです。
戒名のランクに言及したものに、永禄三年(1566)の『諸回向清規』があり
臨済宗・天倫楓隠よって著わされた。この中で「僧俗男女位牌之中文字」として
「信士号は武家あるいは平人に、信女は武家の女也、大禅定門・大禅定尼は将軍家
および男女各高家也、禅定門・禅定尼は平人に之を用ゆ、禅門・禅尼は平人奴僕等也」
と述べています。
差別戒(法)名の手引書として近年注目されるようになった『貞観政要格式目』は
『諸回向清規』に先立つ27年前、天文八年(1539)、高野山金剛三昧院慶息によって
筆写された写本が残っています。つまり成立は、これ以前にさかのぼることになる。
「皇帝位牌」に始まり、「東寺・山門四ヵ大寺」以下諸宗等の書様をへて、将軍家の
位牌のことに及ぶ。そして『諸回向清規』が「禅門・禅尼は平人奴僕等也」と、簡単に
記述した箇所を、新たに「三家之者の位牌之事」という項目を設け詳述しています。
すなわち、「連寂白馬開墳(甲+某)草門ト(ヨ大)」の故事来歴をるる述べたあと
「連寂名ヲ入テ革門ト(ヨ大)」=「是ハカワヤノ男ニ用ル位牌也」に始まり
「神子名ヲ入テ禅畜女ト(ヨ大)」=「是ハ傾城ニ用フ也」にいたるまで、
中世非人層に対する差別戒名のつけ方をこと細かに指示しています。
>138 つづき
江戸幕藩体制下において、被差別部落ともっとも密接な関係をもつようになる
本願寺教団においても、この頃、伝・本願寺第三代覚如作の『十三箇条』が作られる。
「旃陀羅を教化し、旃陀羅と交際する者があるのは非名誉で、その者は本願寺への
参詣を止めさせ追放すべき」(意訳)
これは現実社会の身分秩序を肯定し、しかも天皇を貴いものの頂点にすえ、その価値を
きわだたせるために賎民を対極にすえ蔑視するという構造においても、
『貞観政要格式目』と共通しています。
『貞観政要格式目』は、内容的にも意味不明な点が多く、資料的にもずさんなものですが、
後世に与えた影響は大きかったといえます。
『無縁慈悲集』浄土宗感蓮社報誉(1634年前)
『泥洹之道』浄土宗袋中良定(1655年前)
『福田殖種纂要』真言宗高野山不可停(1686年)
『真言宗引導要集便蒙』新義真言宗伝慧
『禅門小僧訓』曹洞宗無住道人(1764〜71年)
など、その後の差別戒(法)名の手引き書の原典として広く活用されました。
>139 つづき
戒(法)名におけるランクが確立し、差別戒(法)名の手引き書があいついで著わされた
この時期は、戦国時代末から織豊政権にかけて芽ばえ始めた檀家制度が、江戸幕藩体制の
一連の宗教統制を受けながら、「寺請制度」として確立する時期に合致する。
江戸幕府は慶長六年(1601)「高野山金剛峰寺諸法度」を皮切りに、統制を強めていった。
寛永九年(1632)には各宗本山に「末寺帳」提出を義務づける。
寛永十五年(1638)の「島原の乱」平定後には、キリシタン禁止を徹底するため
寛永十七年(1640)、幕府に「宗門改役」を設け、二十四年後の寛文四年(1664)には
各藩にも設置させ、「宗門改制度」を実施した。
「宗門改制度」は、「宗旨人別長」の作成と、「寺請制度」の二本の柱から成り立ち、
「宗旨人別長」はキリシタンでないことの証明で、戸主・家族・奉公人等が記され、
最後に、その寺の檀家である旨が明示された。
「宗旨人別長」はやがて、戸籍簿としての性格をもつようになり、近世身分制度の
固定化に大きな役割をはたす。
「寺請制度」は、檀家の婚姻・奉公・旅行などの移動に際し、檀那寺から移動先の
村・町役人や寺院へ、檀家でありキリシタンでないことの証明する「寺請証文」を出す。
すなわち、仏教寺院は「宗門改制度」の確立実施により、幕藩体制の行政機構の末端に
組み込まれてしまった。
141 :
庫毘太郎 ◆Pdi7T.x7Zg :03/06/11 21:08
山本尚友氏の『近世部落寺院の成立について』によれば、穢多村と称された地域の成立は、
江戸時代から相当さかのぼる。
山城・丹波・播磨での部落の寺院の開基は、1321〜1428年に7ヵ所、1429〜1500年に
1ヵ所、1501〜1572年に39ヵ所、1573〜1614年に57ヵ所、1615〜1670年に57ヵ所、
1671〜1692年に12ヵ所とあり、江戸時代をまたずに相当数のお寺が成立している。
そして、寺がなりたつためには、それを支える集団が村として成り立っていることが
前提であるので、由緒ある中核的部落の成立は、鎌倉末から室町期ということができる。