【北東】 鬼門について 【丑寅】

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109御殿山 ◆i7T.x7Zg
107 :御殿山 ◆i7T.x7Zg :02/05/17 19:46 ID:Xc2udRAs
天理教に付いて@
天保九年(1838)十月二十六日大和国山辺郡庄屋敷村(現・奈良県天理市三島町)の
裕福な農家の主婦が神懸かる「我は元の神・実の神である。この屋敷にいんねんあり。
このたび、世界いちれつをたすけるに天降った。みきを神のやしろに貰い受けたい。」
中山みきは41歳。「元の神・実の神」はまだ「天理王命」とは名乗っていない。
「天理王命」になるのは明治十八年(1885)以降のことで
それまでは転輪王という名称が使われていた。
北大和一帯に広まっていた浄土信仰の中の十王信仰から生じたものと思われる。
転輪王という仏教系の神の名前の中に、すでに天理教の神名の契機が隠されていた。

天理教に付いてA
大本教・艮の金神→国常立尊 天理教・転輪王→元の神・実の神(くにとこたちのみこと)
これは伊勢神宮の内宮の天照大神を祀る荒木田神主(大中臣)に対抗するため、外宮の
豊受大神は実は天之御中主神であり国常立命であるとした渡会氏の伊勢神道や、さらに
吉田神道の神学の影響を受けて成立しているという証明である。
「泥海神話」(こふき)を隠蔽し教義を国家神道に近づけることで、明治四十一年には
教派神道の最後の一派として別派独立が認められ神道十三派の一つとなった。
昭和三十一年に神道・仏教・キリスト教でもない「諸教」と宣言する。

天輪王の名は、幕末期の初期天理教団が当時、大和国の禁厭祈祷権を独占していた奈良の
当山派不動院配下の転輪王講社と紛争を起こしたのを契機に吉田神道の傘下に入り、
慶応三年(1867)吉田家から「天輪王明神」として公認されたときの神号に因む。