虚空蔵菩薩

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578ランボー法師 ◆uIU6J7Th0Y
チョット一言

空海師と最澄師の経の解釈の仕方の違い
空海師の一切経開題という文章を見ると、経典に対して空海師が一切の想念は本心より生じ、本心は主であり、想念は客である。
心を本心と想念とにわけ、本心が主なるものであるにも拘らず、想念が主であると勘違いして想念が自分の心だと思ってるが、本心が自分の本当の心なのだと云われている。
そして本心を仏心と云っているのです。
仏心とは悟りのことで、その心の本心を知る事が悟りであるとの認識していたことが分る。
つまり空海師は経典を読みはするが、叙述はたどってはいないように見える。
空海師は般若心経から何の教義も引き出していないようにみえるからだ。
然るに思想は経文の中になく、むしろ空海師の側にあると考えるのが妥当ではないか。
経典の 内容は解釈によって定まり、解釈はその思想によって定まる。
従って般若心経の内容などというものは存在しないとさえとれる。
あるの は読んで得た理解だけであろう。それなのにどうして経典の注釈が書けたのか。
いや、書かなかったのではないか。般若心経秘鍵は注釈なのだろうか。
もしかしたら、当時の政治的配慮がなされてのことなのだろうか。
この般若心経を読んで判つたと思う人が居るのだろうか。
判ったという人が居るなら、それは少なくとも自然に生まれた解釈に賛同しただけではないのか。
悟りという言葉をよく使う人が居るが、どう定義して使っているか興味のあるところでもある。
注釈≠解釈
579ランボー法師 ◆uIU6J7Th0Y :2008/10/22(水) 21:12:36
前項で覗えるように空海師は経を包括的に取り込み、その解釈により個々の句が表すものが異なってくると]
云っているようで、人それぞれの身丈に合った解釈もありうると述べているように思われる。
超簡単に表現すると、例えば赤ちゃんの足と大人の足では使い方が異なる。
赤ちゃんは、這い這いする為に脛を床につけて這ってあるく。
大人は足の裏を床につけ赤ちゃんの何倍もの歩幅で歩く。
その時、手を考えた時、赤ちゃんの手は上体を支えるために使用し、大人の手は歩行時の重心のバランスを
とるために使われる。
目線もしかりで、異なる視界を認識している訳である。
その事は空海師の行動にも出ているようだ。
空海師が自分の大日経研究の正しさを確かめることのみの為に渡唐したのかもしれないのに、
虚空蔵菩薩求聞持法を修法していたが故に仏に惹かれ導かれ密教に遭遇し移行したのは偶然とは言えず
必然であったと考える。
それは霊界からの指図と本心(仏心)が共鳴して、没頭して言ったとみることができる。
我々は往々に自分の考えで行動しているように思っているようだが、本心が霊界の情報を無意識で感じ取り、
記憶の底にある前世の生き様のレガシーが今の自分の行動に大きく作用している事を認識する必要が
あるように思う。
その結果、仏心即ち悟りへとの道が繋がってゆくのではないか。
580名無しさん@京都板じゃないよ:2008/10/22(水) 21:54:55
>>578-579

解説:
まともに般若心経の説明できないから、般若心経は顕教でなく密教と強弁して
説明しなくてもいいように誘導しよう。
581名無しさん@京都板じゃないよ:2008/10/23(木) 01:20:01
>>579
一言の意味から勉強してこいよ。
(・∀・)