「悟」れた人っていんの?part1

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184十住心論第九極無自性住心(その1)
ネタ切れのようだから、私の経験談を披露しよう。
一般に「悟り」についてあからさまに披瀝するのは日本人の心性に反するようなので、
このようなことを語るのははばかれるところなのだが、これは体験者の責務であるとも
思える齢に達したので、臆することなく語りたい。
私の仏教体験の端緒は河合隼雄の「明恵、夢を生きる」。27歳ごろの事。この本には、
明恵が華厳に執心する様が描かれていたと記憶している。あれほどの明恵が依拠した
華厳とはなんなのか、探求したい欲望に駆られ、色々華厳関連の書籍を紐解いた。
内容の緻密さでは、井筒俊彦が秀逸だった。岩波で著書が出ている。彼の論は、仏教
思想のみならず、道教やイスラムのスフィーズムにまで及んでいる。
華厳の「事」と「理」、それに「重々無尽」という概念について、とことん突き詰めていった。
185十住心論第九極無自性住心(その2):03/04/22 04:08
すると、成るんだよ・・・自分が世界で世界が自分だという感覚に。
机を見ても壁を見ても、ああ、これは俺なんだ。何を見ても俺。俺が遍在している(笑)。
しかも、無生物でもものすごく愛しい。全てが愛しくなる。じゅわ〜っと、愛しくなる。
>>176>>180は茶化した物言いだが、あれは本当だ。穿ってみれば、>>176は知っている
のかもしれない。まあ、買いかぶりかもしれないが。普段は自分に対して外在している
としか思えなかった物質が自分と同一だと感じる妙な感覚。それから、経典一般に
説かれているような無上の「寛喜」。その上、無条件に存在者から抱擁されているかの
ような安堵感。きっと、今はもう記憶をなくしてしまっている、英児の頃の、母に慈愛を
もって抱かれていた時のような感覚。仏恩とは本当だ。悟るとは英児に帰ること。
空間が粘っこく感じる。動作が弛緩する、というか浮遊するような感覚。何を見ても顔が緩む。
そんなことが、二日ほど続いた。さすがにこれでは仕事が出来なくなると思い、少々
焦った。そしたら、二日でこの感覚が消えた。(私は普通のリーマン)。
ちなみに、寺院での修行は全然行なっていない。水行とか、そういう類のことも無し。
ということは、出家しなくても一定の水準には到達するのだろう。(寺は要らないが、
邪魔でもない、そんなところが私の本音)
最近、弘法大師の「十住心論」を読んでちょっと、驚いた。第九巻は華厳なのだが、
弘法大師は当時、既に井筒俊彦のような華厳の哲理の解説を書いていたのだ。それも、
華厳の思惟の方法まで・・・。華厳を経た私には、うなづけることばかりだった。
しかし、弘法大師は言う・・・、極無自性住心(華厳の悟り)は真言の初門に過ぎない、と。