脱・ゴーマニズム宣言 著作権訴訟スレッド2

このエントリーをはてなブックマークに追加
571570のつづき
>>563
>問題は、被引用著作物が「独立した鑑賞性」を有する場合です。
>その場合、何故「独立した鑑賞性」を有する著作物が引用著作物
>に対して「従」と言えるのか?それを「必要性」という観点を用
>いずに説明することは、実際やってみようとすればわかると思う
>のですが、けっこう難しいのです。で、高裁判決は、「必要な限度
>を超えていない」かどうかを、主従関係の判断材料にしたんだろう、
>と私は思います。

まず、藤田事件では結局「独立した鑑賞性」を有する著作物は
引用できるのかどうなのかが曖昧だったのが
脱ゴー宣事件高裁判決では「「独立した鑑賞性」を有する著作物でも
主従関係が明確ならば引用できるとはっきりと判断された。

その上で脱・ゴー宣の引用はなぜ主従関係が成り立っているのか?
572571のつづき:2001/05/24(木) 05:10 ID:AeyaPYr.
個人的には上にも書いたとおり藤田事件のケースでは
美術書だったのが問題、はっきり言えばゴージャスすぎたのが
原因で脱・ゴー宣程度の収録形態であれば問題はなかっただけ
と考えているが、本当に個人的な考えなので
あんまり主張する気はない。

両事件のケースを参考に独立した観賞性のある著作物の引用の方法の
ガイドラインができればいいのだが、それも難しいかもしれない。