■「皇統男系説」「皇統双系説」を検証する。
[養老律令継嗣令皇兄弟条(第一条)]天平宝字元年(757年)―「凡皇兄弟皇子。皆為親王。{女帝子亦同。}以外
並為諸王。自親王五世。雖得王名。不在皇親之限。」
[養老律令継嗣令王娶親王条(第四条)]―「凡王娶親王。臣娶五世王者聴。唯五世王。不得娶親王」
T.〔定義A〕
男系皇族:⇒{皇位継承資格を男系の血筋で受け継いだ皇族}
女系皇族:⇒{皇位継承資格を女系の血筋で受け継いだ皇族} 双系皇族:⇒{男系皇族または女系皇族}
[継嗣令第一条]に「女帝の子」は親王との規定があるので、皇統は双系継承である。
[継嗣令第四条]の「皇親女子と氏族男子の婚姻禁止規定」は「女帝の子」が「有姓の親王」にならないように設けられ
たものと推定(皇統が「男系血族限定の双系継承」であれば、女帝と氏族男子の間に生まれた子は「有姓の非皇位
継承資格者」となるので存在しても問題はなく、この規制は不要)。
女帝と氏族男子の子に皇位継承資格が生じるのだから、皇統は非男系血族を含む完全な双系継承である。
《女系皇族の実例》
@和銅8年(715年)2月の詔[元明天皇]―吉備内親王の子の膳夫王、葛木王、鉤取王(3世王、父は長屋王)を
2世王とする
A天応元年(781年)2月の詔[光仁天皇]―能登内親王の子の五百井女王、五百枝王(のち春原朝臣五百枝)
(5世王、父は市原王)を2世王とする
※@Aは選択的に父方の「男系王位」を破棄し、母方の「女系王位」を適用。
上記以外で女系天皇・女系皇族の可能性があるのは、B孝徳天皇(=軽皇子、皇極天皇の弟、父は茅渟王)、
C漢皇子(皇極天皇の子、父は高向王)、D有馬皇子(孝徳天皇の子)。
※「天皇」「皇子」「親王」などの称号は律令制のものだが、軽皇子や漢皇子が皇極天皇の即位時に「王」から
「皇子」になったと認識されていたのなら、皇位継承資格はB姉から弟へ、C母から子へ女系の血筋で受け継が
れたと言える。
母方のみ皇統の天皇・皇族は違法(「皇親女子と氏族男子の婚姻禁止規定」)であり、実例はない。
(続く)
(
>>354の続き)
U.〔定義B〕
男系皇族:⇒{男系血族に属している皇族} 女系皇族:⇒{男系血族に属していない皇族}
双系皇族:⇒{男系皇族または女系皇族}
[継嗣令第四条]の「皇親女子と氏族男子の婚姻禁止規定」は「女帝の子」が「有姓の親王」にならないように設けられ
たものと推定(皇統が「男系継承」なら女帝と氏族男子の子は「有姓の非皇位継承資格者」となるので存在しても問題
はなく、この規制は不要)。
女帝と氏族男子の子に皇位継承資格が生じるのだから、皇統は男系継承ではなく双系継承である。
※「皇親女子と氏族男子の婚姻禁止規定」が設けられていた理由を「氏姓制度」以外に求めた場合(「皇統の純血
性を担保」「女帝の子と男帝の子を皆同じ身分にするため」など)、論理矛盾や実際の運用との食い違いが生じる。
《女系皇族の実例》
「女系天皇・女系皇族」は違法(「皇親女子と氏族男子の婚姻禁止規定」)であり、実例はない。
【考察】
○[継嗣令]では皇位継承資格の「親王位」「王位(4世王まで、一時期5世王まで)」を、天皇の兄弟・子供からの世代
数を基準として規定している([継嗣令第一条])。
皇統は完全な双系継承であり、「男系血族に属していない皇族」が存在しなかったのは「皇親女子と氏族男子の婚姻
禁止規定」の影響に過ぎない。
従って「男系皇族」「女系皇族」の意味としては〔定義A〕が妥当。
〔定義B〕の名称は「男系血族皇族」「非男系血族皇族」とすべき。
※氏姓制度は明治4年(1871年)に廃止―[姓尸(せいし)不称令]
○春日山田皇女が天皇に推挙されたことから、推古天皇以前に女子を皇位継承資格者と認識していたことは確か
であり、皇親女子と氏族男子が婚姻を避ける傾向も律令制定以前より見られる。
[継嗣令第四条]の「皇親女子と氏族男子の婚姻禁止規定」は、「有姓の皇位継承資格者」が誕生しないように調整
していた律令制定前の慣習を成文化したものと思われる。
※[旧皇室典範]の草案の[皇室制規]
(続く)
論証君がまた来たぞ。誰か「論証君物語」を貼り付けてくれ。
(
>>355の続き)
○「女帝の子」は「男帝の子」と同じく「親王」である([継嗣令第一条])。
また膳夫王や五百井女王らに対し、父方の皇位継承資格を破棄して母方の皇位継承資格を適用(同条に準拠)。
皇位継承資格の序列は、[継嗣令]―「女系親王位(内親王位)>男系王位(女王位)」、膳夫王―「女系2世王位>
男系3世王位」、五百井女王―「女系2世女王位>男系5世女王位」となり、「男系」の皇位継承資格と「女系」の皇位
継承資格は同格である。
※[旧皇室典範]の草案の「皇室制規」では序列を「男系親王位・王位>女系親王位・王位」としていたので、「女系
皇族」の尊貴性を補うために「女帝の夫」を「皇胤ニシテ臣籍ニ入リタル者ノ内皇統ニ近キ者」に限定していた。
○延暦12年(793年)9月の詔[桓武天皇]により、「女王と氏族男子の婚姻」が認められた(内親王の規制は継続)。
実際に即位した女帝は皇極天皇以外全て内親王であり、母方の「女系王位」の選択的適用も母親の身位が高い皇族
に限られていたので(二例とも母親は内親王)、実情に合わせた規制緩和が行なわれた。
○平安時代以降「仏教」や「儒教」など外来の男尊女卑思想の影響もあって、男性だけが即位するようになった。
その結果、「女系親王位」を適用する機会そのものが消滅。
また猶子・養子を擬制的に「天皇の子」と見なすようになったため、母方の「女系王位(実系)」を選択的に適用する
こともなくなった。
○女子・女系の皇位継承資格は[旧皇室典範]が施行されるまで停止されたことがなく、法律上は双系制度のまま。
「世襲親王」は猶子・養子制度を利用して世数をカバーしており、[継嗣令]の皇位継承資格の規定は基本的に守られ
ていたと言える。
○「皇親女子と氏族男子の婚姻禁止規定」は女帝の子(親王)に「姓」が生じないようにするための措置なので、子供
に皇位継承資格を適用しないケースについては違法婚が容認されることもあった(法律を弾力的に運用)。
奈良時代・・・藤原三岡の母・山縵女王(3世女王、夫は藤原久須麻呂)―身位が低く即位の可能性が乏しい
平安時代・・・藤原為光の母・雅子内親王(夫は藤原師輔)―時代的に女性は皇位継承候補にならなくなっていた