我々は何処へ行くのか 5

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72鳥坂 ◆nSC8E.bvp6
 この頃(四〜八世紀頃)のアイルランドの人口は約五〇万人と推定されていて、コレが大小およそ一五〇の王国に分かれて群雄割拠の戦国時代真っ直中だった。
 単純に割ると一国平均約三千人である。戦闘に動員できる男子はその約1/4程度だとすれば、約7〜800人。
 言っておくが、コレは「平均値」である。後代に「決戦」と名を残さない殆どの戦いはコレより少ない数でヤァヤァやっていたと思われる。ハリウッドのスペクタクル映画の方がもっと頭数が多い。
 きっと、ローマ軍人が見たら「手に屁を握る」戦いだっただろう。
 それら王国(と言うより殆どは「おっきな村」である)の中で、図抜けて大きかったのが現在の北アイルランド、俗に「アルスター」と称される地方を支配していたコノート王国である。
 コノート王家は「王の上の王」として「上王」を自称し、アイルランドの聖地「タラの丘」で諸侯を集めた宴会を開いて、その序列まで決めていた(当時の常識として、費用はコノート王国持ちである)。
 このコノート王国、ただの"宴会部長"だっただけではない。
 この時代にブリテン島遠征(まぁ、略奪だ)までしていたと言うから、結構景気の良い国である。
 つまりそれだけの海軍力を持っていたという事で、海軍とはいつの時代もカネのかかるモノである。

 ここで注目して欲しいのは、アイルランド全土が継ぎ接ぎのパッチワークのようなこの時代から、アルスター(北アイルランド)は1つのまとまった"いち地方"として「枠」が形成されていた、と言う事である。