我々は何処へ行くのか 5

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560凛家亜武 ◆zgWjY89cfk
今の気持ちそのまま。

「果たしえていない約束―私の中の二十五年」より 三島由紀夫

それより気にかかるのは、私が果たして「約束」を果たして来たか、
といふことである。否定により、批判により、私は何事かを約束してきた筈だ。
政治家ではないから実際的利益を与えて約束を果たすわけではないが、
政治家に与えうるよりも、もつともつと大きな、もつともつと重要な約束を、
私はまだ果たしてゐないといふ思ひに、日夜責められるのである。
その約束を果たすためなら文学なんかどうでもいい、という考えが時折頭をかすめる。
これも「男の意地」であらうが、それほど否定してきた戦後民主主義の時代
二十五年間を否定しながらそこから利益を得、のうのうと暮らしてきたといふことは、
私の久しい心の傷になつてゐる。個人的な問題に戻ると、この二十五年間、
私のやつてきたことは、ずいぶん奇矯な企てであつた。まだそれはほとんど
十分に理解されてゐない。もともと理解を求めてはじめたことではないから、
それはそれでいいが、私は何とか、私の肉体と精神を等価のものとすることによって、
その実践によつて文学に対する近代主義的妄信を根底から破壊してやらうと
思つて来たのである。
<中略>
二十五年間に希望を一つ一つ失って、もはや行き着く先が見えてしまったやうな
今日では、その幾多の希望がいかに空疎で、いかに俗悪で、しかも希望に要した
エネルギーがいかに膨大であつたかに唖然とする。これだけのエネルギーを
絶望に使つてゐたら、もう少しどうにかなつてゐたのではないか。
私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行つたら
「日本」はなくなつてしまふのではないかといふ感を日ましに深くする。
日本はなくなつて、その代わりに、無機的な、からつぽな、ニュートラルな、
中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであらう。
それでもいいと思っている人たちと私は口をきく気にもなれなくなっているのである。