話を戻す。
さて、落ち武者となったマクロクリンを受け入れたヘンリー2世にとって、これは「天の恵み」だった。
ヘンリー二世はフランスで生まれ、ブリテン王ではあったが同時にノルマンディー公でもあり、平生は殆ど大陸側領で暮らしていた。
そして、"下品な"英語ではなく"お上品"なおフランス語を話していた。
そりゃ文明・文化両面で「ド田舎」の島に居たって面白くないからね。
アイルランドを追い出されたマクロクリンがヘンリー二世に謁見したのも大陸のアキテーヌで、である。
ちょうどこの100年前の1066年、ヘンリー二世のご先祖様、ウィリアム「征服王」がブリテン島への上陸と征服を果たしている。
いわゆる「ノルマン・コンクエスト」である。
ヘンリー二世、先祖の偉業100周年に花を添えたいと思ったのか、マクロクリンの要請(と言うより嘆願)をホイホイと引き受ける。
実はこの「アイルランド遠征」には伏線があった。
当時のローマ法王はイギリス人のハドリアヌス四世。
彼はヘンリー二世を焚きつけてアイルランドを攻略させ、当地の「宗教改革」を実施したいと思っていた。
どんな改革なのかは分からないが、宣教師達はアイルランドへのキリスト布教時に現地のケルト的風習に対して「折り合い」を付けていたら、結果としてかなり「独自色の強いカトリック」になっていた事は想像に難くない。
そこら辺がヴァチカンには気に入らなかったのだろう。
そんなこんなで、マクロクリンがヘンリー二世の懐中に飛び込むより11年前の1155年、ハドリアヌス四世は、ヘンリー二世に宛てて
・ヘンリー二世とその子孫にアイルランド統治権を裁可し、
・その証として大きなエメラルド入りの指輪を進呈し(つまりまぁ王の玉璽だ)、
・遠征(十字軍)を依託する教皇勅書を発出
している。
しかしこの勅書が届けられた当時、ヘンリー二世は即位直後で(当時としてはよくある)王位継承時期に起こる内政不安を解消する事にかかり切りであった。
加えて彼の母親がアイルランド遠征に猛反対だった(理由は不明)事もあり、この時は棚上げにされた。
それから11年後、マクロクリンが「ヘルプ・ミー」とやって来たのだ。
ヘンリー二世が「嫌」と言うはずがなかった。