小林よしのり その可能性の中心

このエントリーをはてなブックマークに追加
1名無しかましてよかですか?
 ひとりの漫画家について論じるということは、その作品について
論じることである。これは自明の事柄のようにみえるが、必ずしも
そうではない。たとえば小林よしのりを知るには『おぼっちゃまくん』
を熟読すればよい。しかし、ひとは、戦争論とか台湾論といった外在的な
イデオロギーを通して、ただそれを確認するために『おぼっちゃまくん』
を読む。それでは読んだことにはならない。作品≠フ外にどんな哲学も
作者の意図も前提しないで読むこと、それが私が作品を読むということの
意味である。『おぼっちゃまくん』は、漫画においてはすでに古典である。
それは二つのことを意味する。一つは、この書物はそれが表示する世界や
知識が古びたということに応じて古びているということであり、もう一つは、
手塚治や藤子藤男を読む場合と同じように古典≠読むということは、すでに
そのような外形を無視して、その可能性の中心において読むほかないということである。
2名無しかましてよかですか?:2005/04/11(月) 22:02:39 ID:JNGFEs3S

関係無いけど

王貞治監督がオープン戦で使用したユニホーム(直筆サイン入り)
http://page6.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/f34334463?u=%3bhawks_charity

高け〜〜


3名無しかましてよかですか?:2005/04/12(火) 02:36:50 ID:7GsePGix
>>1
何か変なもの食べたの?
4名無しかましてよかですか?