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名無しかましてよかですか?:
ひとりの漫画家について論じるということは、その作品について
論じることである。これは自明の事柄のようにみえるが、必ずしも
そうではない。たとえば小林よしのりを知るには『おぼっちゃまくん』
を熟読すればよい。しかし、ひとは、戦争論とか台湾論といった外在的な
イデオロギーを通して、ただそれを確認するために『おぼっちゃまくん』
を読む。それでは読んだことにはならない。作品≠フ外にどんな哲学も
作者の意図も前提しないで読むこと、それが私が作品を読むということの
意味である。『おぼっちゃまくん』は、漫画においてはすでに古典である。
それは二つのことを意味する。一つは、この書物はそれが表示する世界や
知識が古びたということに応じて古びているということであり、もう一つは、
手塚治や藤子藤男を読む場合と同じように古典≠読むということは、すでに
そのような外形を無視して、その可能性の中心において読むほかないということである。