61 :
!!!満州国 栄光の時代!!!:
「労工専用車といふのがある。車体の色も全然違つて、横腹に「労工専用車」と大きく染め出してあ
る。内部の腰掛にはクッションが無く板張りで、一乗り三銭。
内地から来たばかりの或る人が、不案内なままこの電車に乗つた。「流石に満州の電車は違ひます
ねえ」と感嘆した。汚いのにも驚いたのだらうが、さうはいはず満人が多いのに驚いた、と言つた。
「日本人は一人も乗つてゐませんでしたよ」。これを聞いて、不審に思つた周囲の人がいろいろ訊き、
やつと労工専用車に乗つたものだと分つた。分つた途端に「まあ!」といつて、居合わせた女達が先
づ露骨に軽蔑の表情を示した。取り返しのつかぬことをして呉れた、とでも言ふやうに。
むしろ、内地から来たてのその人の方が、不審な顔で、その表情を見守つたといふことは、日満親
善の横顔に対する即答である。
内地から来る人のうちで、満州と新時代に少しでも期待を持つてくるやうな人は、満州にゐる日本
人はさぞ満語がうまかろう、満州の風俗習慣を知悉してゐるだらう、など想像してくる。来てみると、
満人を見ればニーヤといふこと以外、何も知らぬ日本人ばかり、町を歩いても、電車に乗つても、お
前と俺とは何千年来縁がない、といふ顔をしてゐる。活字の上でばかり、日、満、親、善、日、満、
親、善、と、溝の切れたレコードのやうに繰り返してゐる。こんなことに気づかぬうちなら、直ぐに
も日満融合体の中に同化したであらう日本人も、案外な事実の中で驚いたり安心したりして、精神的
日人部落へ滑り込んでいく。不満を持つ人はほとんどない。
逆に、満州から初めて日本へ行つた母国見学の女学生等は、きまつて日本人が石炭を運んだり、車
をひいたりといつて、驚いて帰つて来る。下賤な仕事と満人をなんの不自然もなく同一視してゐる証
左で、これが一件の「まあ!」たる表情の母胎にちがひない。
(塚瀬進『満州国』(吉川弘文館 1998)所載
吉野治夫「日満親和の横顔・其の他」『満蒙』二十三巻一号(1942))
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!!!満州国 栄光の時代!!!:03/04/08 23:01 ID:9h03xYem
高碕達之助(元満州重工業総裁)
「(※赴任当初)重役には、副総裁に馮涵清氏、理事に金卓氏、監事に宋青濤氏の三人の満州人が
いたが、彼等以外の重役は、すべて日本人で占められている。満業本社には五百名近くの従業員が
いたが、その中心はほとんど日本人で、満州人はただの自動車の運転手とか門衛等にすぎない。
本来、満業は日本人と満州人が手をたずさえて、開発事業に従事するというはずのものであつた。
だが、事情は大分ちがうらしい」
「一方、前記の満州人重役達は同僚が一緒にいる処では、決して本当のことを語らないので、夜自
宅に呼んで話を聞くことにした。幸い彼等の妻君は日本語が上手であつたので、彼らを妻君同伴で、
別々に呼んでは、話を聞く。こういう時に語る彼等の話は、昼のそれとは打つて変わつたものであ
つた。
妻君達は涙を流して訴えた。『日本が此処に来て以来、私達がいつも考えていたことは、どうす
れば日本人に気に入るかということだけでした。もし日本人のやり方を悪く言つたりしようものな
ら、すぐ職場は失われ、路頭に迷うだけのことです。こんな政治は、一体、世界の何処にあるでし
よう』誰もが皆、一様にこう語るのだつた。これは大変なことである。
私は爾来、夜は満州人だけを呼ぶことにし、日本語の出来る満州人の官吏を、一人或は二人づつ
限つて、共に食事を食べながら、日本人に対する不平をきくことにした。
そこには王道も、楽土もなかった。あつたのは、力を以てする支配、ただそれだけであつた。政
府はまれに満州人を喜ばそうとして何かすることがあつても、それは単に表面の体裁を飾るにすぎ
ず、娯楽施設の如きも、すべて日本人本位のもので、真底から満州人の大衆を喜ばそうとすること
は、何事もなされていない。私は義憤を感じた。・・」
(高碕達之助『満州の終焉』(実業之日本社 1953)より)