1 :
大学への名無しさん:
どうぞご自由に語ってください
2 :
大学への名無しさん:2009/04/24(金) 00:44:14 ID:ybdfs8bOO
浮気というのは文化であるというのはどうやら西洋の考えのようだ。西洋と東洋の恋愛感には大きな違いがあるようなのだ。
とりあえずここまで訳してみた
3 :
大学への名無しさん:2009/04/24(金) 20:41:26 ID:flHSD/QpO
さあ盛り上がってこー
4 :
大学への名無しさん:2009/04/24(金) 20:42:12 ID:flHSD/QpO
手書き全訳やらないか
どういう方向性のスレなの
普通の人が失敗するのは、能力不足によるものではなく、3つや4つのことに努力を分散させないで1つのことに費やすという集中力が足りないからなのである。
とりあえずここまで訳せた。
7 :
大学への名無しさん:2009/04/25(土) 00:11:15 ID:k0votAM6O
8 :
大学への名無しさん:2009/04/25(土) 00:14:28 ID:xHi+uwqpO
9 :
大学への名無しさん:2009/04/25(土) 02:25:21 ID:k0votAM6O
手書き全文訳書かない奴はまず受からない
10 :
大学への名無しさん:2009/04/25(土) 23:03:48 ID:k0votAM6O
音読とかウケる
11 :
大学への名無しさん:2009/04/29(水) 09:15:34 ID:O+sma4s8O
手書き全訳ブームキター
12 :
大学への名無しさん:2009/04/29(水) 09:25:52 ID:KwpSv+8dO
キチガイ
13 :
大学への名無しさん:2009/05/02(土) 00:42:06 ID:4hJFg24kO
流し読み→甲子園大学
手書き全訳→ハーバード
14 :
大学への名無しさん:2009/05/02(土) 01:08:13 ID:ukYRUra20
コレ訳してみ
My hat has been sat on.
15 :
大学への名無しさん:2009/05/02(土) 08:07:58 ID:JiHaATmT0
>>14 「私はずっと帽子をかぶっていた」
だろ?
16 :
大学への名無しさん:2009/05/02(土) 12:46:54 ID:4hJFg24kO
流し読みは力付かないから。
17 :
大学への名無しさん:2009/05/02(土) 15:17:49 ID:ukYRUra20
18 :
大学への名無しさん:2009/05/02(土) 15:26:02 ID:GvEwTWSgO
ただ単に語彙の問題でしょ
19 :
大学への名無しさん:2009/05/02(土) 15:48:12 ID:ukYRUra20
語彙関係ないから
あるあr
21 :
大学への名無しさん:2009/05/03(日) 10:42:01 ID:t0q44t7YO
手書き全訳ブーム上げ
22 :
大学への名無しさん:2009/05/23(土) 08:44:31 ID:jbxtsekN0
56 :ー[]:2008/05/24(土) 12:37:16 ID:RuQpnJljO
富田 一彦
「よく生徒や教務の人から圧力がくるんですよ。全訳や答えを載せてほしいと。
でもね・・・私は絶対載せませんよ。なぜならあなた達はわからなかったらすぐ答えをみるでしょ?
そんなことしたら絶対に伸びません!!
わからなかったら私の授業があるまでずっと考え抜いてください。
それがあなた達に観察力を鍛える唯一の手段ですし、考えることが出来る唯一の時間です。
もし答えや全訳を載せられることになったら私は予備校教師をやめます」
英国人よりもしばしば論ぜられる国民は殆ど無かった。
数世紀間の人間社会の歴史の中で、英国は主要な世界勢力の中に存在してきた:
英国人はしばしば、そして色々な分野において、
顕著な進歩の指導者か、価値のある貢献者のいずれかであったのである。
本を適切に本棚に並べることは難しい仕事である。
もし内容に従って並べると、必ず雑然とした棚になってしまう。
もし大きさや色に従って並べると、魅力的な棚を得ることができるが、
自分の読みたい本が見付からなくなるかもしれない。
英文学を完全に習得し、結果として英文学を真に味わうためには、
英国人の性格について明確な理解を持つことが必要である。
英国人が考え、行動する時に、「なぜ彼はそのようにするのか」ということについて知ろうとしなければ、
英国人の生活様式を知っても十分ではない。
民主主義は歴史的に言ってとても最近のものである。
それはまず第一に、個々の人間が最も重要である(国家よりも、国富の総量よりも、
それら以外のどんなものよりも)という信念である。
次に、それは平等を信ずるということである。
しかしそれは、全ての人が似ているとか、等しく才能があるという意味ではない。
(そんなことは明らかにウソである)
そうではなくて、万人がある種の基本的な機会を持つべきであるという意味である。
新しい道を通って家に帰る途中、やがて気が付くと私は小さな谷の片側にいた。
リンゴの花が満開で、立ち止まって眺めていると太陽が美しく突然現れた。
私はその時見たものを形容する言葉を持たない。
私はただ、花が満開の谷のその静かな美しさを夢にみることが出来るだけである。
現在に関連させて将来を考えることは、文明にとって本質的なことである。
文明国では、平凡な労働者でさえそのようなことを行う。
もし知性を持つ人間ならば、稼いだ傍からそのお金を全て使ってしまうことをせずに、
将来の必要性に対する備えとして、大部分を貯蓄しておくであろう。
26 :
大学への名無しさん:2009/06/02(火) 12:02:33 ID:Kqn1cVshO
訳すスピードと同じくらいの速さで書けたらなあ
27 :
大学への名無しさん:2009/06/13(土) 22:59:05 ID:V+QuBUC+0
>>26 え?
書くのがすごく遅い人なんですね……。
眠れぬ夜の全訳。
現在、最も文明化された国々では言論の自由は当然の事と考えられており、完全に単純な事のように思われる。
我々はそれに余りにも慣れてしまっているために、それを生まれ持っての権利であると見做している。
しかしこの権利は本当に最近の時代に獲得されたものであり、その達成への道程は血の湖を通ったのである。
自分の意見を出版することの自由や、全ての問題について議論することの自由は良い事であり悪い事ではない
のだという事を、最も啓蒙された国民でさえ説得するのに何世紀もかかったのである。
教育はある社会組織の中でその社会組織のために行われるのだが、それとはまるで無関係であるかのように
教育問題がしばしば論じられている。これが、教育問題に対する解決策が不十分である最もありふれた理由の
一つである。教育体系が何らかの意味を持つのは、ある特定の社会組織の内部だけなのである。
我々の種は唯一の創造的な種であり、それはたった一つの創造的道具、すなわち個々の人間の頭脳と精神を
持っている。2人の人間による創造というものは未だかつて行われた事は無い。それが音楽であろうと美術で
あろうと、詩、数学、哲学であろうと、良い協力というものは存在しない。いったん創造の奇跡が起こると、
集団がそれを育て拡大する事は出来るが、集団というものは決して何事かを創造する事は出来ないのである。
貴重さは一人の人間の孤独な頭脳の中にだけ存在する。
我々は他人の欠点は自分の眼前においておくが、自分自身の欠点は背後に隠しておくものである。
それゆえ、自分自身ではより多く失敗しているにも拘らず、他者の失敗は許さないという事が起こる。
少年時代のかなり初期の頃、私は自分自身のやり方で楽しむために、一人で出掛けてしまうという癖が
身についてしまっていた。そして、その変わった癖が私の母をどれだけ心配させていたのかについては
12歳くらいになって初めて聞かさせた。母は、子供たちが何をしているのか知るために外を見ると、私がいない
ので、名前を呼んで捜してみると植林地のどこか遠くに隠れているのを見つけたそうである。
殆どの人がしなければならない仕事のうち、大抵のものはそれ自体面白いものではないが、そのような仕事で
あってもある種の大きな利点というものがある。まず初めに、何をすべきか決めなくてもそれは一日のうちの
多くの時間を満たしてくれる。大抵の人々は自分自身の選択により自分の時間を過ごす自由を与えられると、
やり甲斐のあるくらいに楽しい事を思いつくのに困ってしまう。そして何を選んだにせよ、「何か他に、
より快適な何かがあったのではないか」という感覚に悩まされる。
民主政治は政治形態としては最高のものであるが文化的な側面を見ると、深刻な弱点に晒されている。
大衆に権力を与えよ、そうすれば自動的に彼らの利益と趣味により形成されるこの国の文化をあなたは見る事に
なるだろう。彼らは自分の趣味に合う音楽や美術やラジオや映画や書物を望み、そして多くの人々がそれを供給
していく用意があるので、文化の水準が少なくともあっという間に二流や三流に成り下がる危険性がある。
自分の土地を耕す農民の仕事が変化に満ちているというのは事実である。
しかし彼は自然力の成すがままであり、自分が依存していることには十分気付いている。
一方、現代の機械を使って仕事をしている人は自分の力を意識し、
人間は自然力の支配者であり奴隷ではないという感覚を得ている。
食べていくだけの十分なお金が既にある人が、ごくありふれた職業(例えば教職やタイピングなど)をしようと
するといつも、「そのような行為は他者の職を奪う事になり、それゆえに悪いことである」と言われてしまう。
この議論が正当ならば、我々は全て、我々全てを食べさせるために働かず怠けている事が必要となるであろう。
このような事を言う人たちが忘れているのは、「人はお金を稼いだら普通は使うのであり、その消費行動の中に
雇用が与えられる」ということである。
恐らく書物が我々の人生に深い影響を与えるのは子供時代だけである。
後年、我々は賞賛したり楽しんだり、既に持っている考えを修正したりするかもしれないが、
既に頭の中にある考えの確証を得るに過ぎないという場合の方が多いだろう。
しかし子供時代には、全ての書物は予言の書であり、我々に未来について教えてくれる。
カード占いで長旅を予言したり水占いで死を予言する占い師のように、書物は我々の未来に影響を与える。
zennyakuzennyaku
学生時代が自分の人生の中で最も幸福だったという人がいる。彼らは正しいのかも知れないが、その様な事を
言う人を私は常に疑いの目で見るのである。今、自分が幸福か不幸かという事を十分に知る事は難しい。そして
自分の人生の異なった時期の相対的な幸不幸を比べる事は更に困難な事である。最大限言い得る事は、はっきり
と自分は惨めであるというのでない限り、我々はかなり幸福なのである。
優れた農民は常に、我々の社会において最も知性があり最もよく教育された人々のうちの1人である。産業の
激しい発展の中で我々はつい忘れてしまう事がある。それは農業こそが我々全体の経済の基礎であり、国の
経済構造において農業は常に礎石であるということだ。歴史を通じて常にそうであったしこの地球上から人間が
いなくなるまでずっとそうであり続けるであろう。土地を持ち、それを愛育しうまくそれを使う人は、国として
の我々の安定性の源である。それは経済的な意味においてだけではなく、社会的な意味においても同様である。
幼い子供を扱わなければならない人は誰でも、過度の同情は誤りである事をすぐに学ぶ。
子供たちは時々ほんの少しならば厳しくされた方が自分にとって最も良いという事をすぐに理解する。
彼らは自分が愛されているか否かは本能的に分かるし、愛情のある人だと彼らが感じる人からの厳しさならば
何でも耐えるであろう。それが彼らの真っ当な発達を真に願った厳しさであるならば。
一日に何度も、「自分自身の外的及び内的生活は、私の同胞(生きている人、亡くなっている人ともに)の骨折り
の上に成り立っている」という事を思う。自分が受け取ったものと同じだけのものをお返しするために私は努力
しなければならない。「今まで私は、他の人たちの仕事から余りに多くのものを借りてきた」という憂鬱な感覚に
よって私の心の平安はしばしば乱される。
少年の頃、私は自分がどれだけ嬉しいかという事を両親に示して喜ばせるという事をしばしばしなかった。
これ以上に私の人生で、ひどく悔やむべき事があるのかどうか疑わしい。
今でも私は頻繁に考えるのである。両親が私に計画してくれた何らかの楽しみ事に対して適切な反応を
示さなかった事で、当惑と驚きと心の痛くなるような失望を与えてしまっていたに違いない、と。
最近の科学の進歩に関する困った状況の一つは、我々が知っていると思っていた事が段々分からなくなっていく
という事である。私が若かった頃、我々はみな、人間は魂と肉体から出来ており、肉体は時空に存在し、
魂は時間の中にのみ存在する、という事を知っているか知っていると思っていた。
死後も魂が生き続けるのか否かについては意見の相違もあったが、魂の存在については疑う余地のない事で
あった。肉体については、素人はその存在を自明のものと考え、科学者もそう考えていた。
ただ哲学者は色々なやり方でそれを分析しようとする傾向があった。
大抵の人にとって、自分は結局は死ぬのだという事を知る事は、現在生きているという事に対する喜びを減ずる
事にはならない。詩人にとって、しぼむ運命にある花々や、あまりに早く終わりを迎える春を見つめる時、世界は一層美しく思われるのである。5月の美しさというものは、それを見ている時でさえも徐々に失われていると
いう事を詩人は知っているからこそ、より一層深く彼の心を揺さぶるのである。万物の生命の有限性が詩人に
喜びをもたらすのではなくて、その喜びを永続的に味わう事が出来ないと知っているからこそ、その喜びを
きつく抱きしめるのである。
死はより良い人生への門戸であるという考えは、論理的に考えて、人を死の恐怖から遠ざける。医療に携わる人々
にとって幸運なのは、実際には幾つかの稀な例を除いて、そういった効果は無いのである。
来世を信じる人たちが、死は全ての終わりをもたらすと考える人々よりも、病気を怖がらなかったり、
闘いにおいて勇敢であるという事はないのである。
38 :
大学への名無しさん:2009/07/25(土) 20:52:15 ID:aD0iQudLO
All of them are not present.
これの訳をお願いします。
39 :
大学への名無しさん:2009/07/25(土) 21:02:52 ID:BHY+udrdO
訳せ!ゴマに任せとけよ
40 :
大学への名無しさん:2009/07/25(土) 21:05:39 ID:kZp6Fc3qO
部分否定
41 :
大学への名無しさん:2009/07/26(日) 02:37:38 ID:ZrT2vqkQO
>>40 そうなんですよ、部分否定なんです。Not all〜なら分かるんですが、38の文が部分否定と捉えられる理由は何ですか?
彼が常に野球の審判を依頼される第一の理由は、「僕は野球の審判をするのが純粋に好きなので」と言いながら
決して金銭を要求しない、ということを別にすれば、彼が両方のティームを喜ばせようとする気持ちを、決して
忘れないからである。彼の判定に一方のティームが不服であったとすると、彼はそこで試合を止め、両ティーム
の選手たちに自分を好きなだけ罵らせ、悪口を言わせるのである。そして議論をするのに飽き、また試合に
戻りたくなるようにさせるのである。
人類は、その歴史の中で最も暗い時代を今まさに通り過ぎようとしている。この時代は全ての時代の中で
最も悲惨な時代であるという事が証明されるかもしれない。それは、この戦争による衝突は世界の最も離れた
地域にまで達し、前例の無い暴力が、我々が抱いていたかもしれない幻想を叩き壊したからだ。
その幻想とは、人類が大変自慢にしてきた文明の堅固さと永続性に関して我々が抱いていた夢の事である。
人間は変化しない。あるいは歴史はその変化を認識できるほどには長くはないと言うべきかもしれない。
現在知る事の出来る最古の美術や文学は今でも理解可能である。我々がそれら全てを理解し、それらの中の
幾つかについて卓越した芸術的優秀性を認めるという事は、人間の感覚や本能のみならず知的能力並びに
想像力までもが最古の人類と現在とで殆ど同じである事の十分な証明である。
我々は自分の生活の中で日々話している言葉についてあまり多くを知らない。確かに我々の大部分は自分の母語
について余り多くを知らなくても、わざわざオックスフォード英語辞典の中の1冊を開いてみる事がなくても
かなりの程度、うまくやっていけるものだ。しかし「知識は力なり」である。正しく選ばれた言葉の力は、
それらの言葉が知識の伝達を意図したものであれ、娯楽のためのものであれ、人を感動させるためのものであれ、
とても大きい。
私が最も賞賛する人々は、感受性が強く、何かを創造したり何かを発見したいと思っており、人生を権力の観点
から見ていない。そのような人々は、他の政治制度よりも民主制の下においての方がより多くのチャンスを
掴めるのである。彼らは大なり小なりの宗教を始めたり、文学や芸術を創造したり、あるいは私心の無い科学
研究を行ったり、あるいはいわゆる「普通の人」である場合には、例えば子供たちをまともに育てたり近隣の人々
を助けたりなど、自分の個人生活の中で創造的であるのである。
私の少年時代の最も楽しかった時は、その初期、六歳を少しばかり過ぎた頃である。私は乗るための自分用の
ポニーを持っており、好きなだけ長い時間そのポニーの背中に跨っていてもよく、また好きなだけ家から遠く
まで出掛けて行く事も許されていた。私はちょうど、巣を初めて離れる時、突然自分の飛ぶ力を意識する雛鳥の
ようであった。
多少とも単調な生活に耐える能力は子供時代に獲得すべき能力の一つである。現代の親たちはこの点について
大いに責任を問われるべきである。彼らは見せ物や美味しい食べ物など、子供たちに過度に受動的な娯楽を
与えている。(もちろん何かごく稀な機会は除くが、それ以外では)毎日を同じように過ごす事が子供たちに
とっていかに重要であるかを彼らは認識していない。子供時代の楽しみは、何らかの努力や創意工夫により、
自分の周囲から自分で引き出すようなものが主であるべきである。
読み終わった時「これはいい本だ」と自分自身に言ってしまうような本はどんな本であれ、我々が触れたその
作者の人格によってそう思うのである。恐らくたとえ暫くの間だけであっても、我々自身が感動させられた事に
気付くから、我々はそのように言うのであろう。
47 :
大学への名無しさん:2009/08/13(木) 22:48:48 ID:ypkV082C0
リヴァプールに着くとすぐに私は一人の男と知り合いになった。その男は数年前アメリカに行き、その時は自分
の夢を実現させる事が出来ず失意のままイギリスに戻ってきたのであるが、新たに希望の荷物を積み込み、今は
(他の人が初めて挑む時よりも熱心であるとは言わないが、同じくらいの熱心さを持って)二度目の挑戦を
しようとしているのであった。
ある有名な出版社の社長が先日私に語った事である。北ロンドンのある新築の家の書斎に本を入れてくれという
注文が最近あり、注文主の話では「備え付けの書棚に合うようなサイズの本をお願いします」という事であった。
本の内容ではなくて大きさが問題だったのだ。・・・これは疑いなく例外的なケースではあるが、平均的な田舎町で
見つけるのが困難なもののうちに「まともな本屋」がある。まともな本屋が少ないのは我々が本を買うだけの
金銭的余裕が無いからではない。自動車を買うのならば200パウンド以上いくらでも出すような人であっても、
たまに本を買うとなると半ギニー支払うと考えただけでびくっとするのである。
恐らく誰でもいつか経験したことがあるだろう―出所を明示しないで引用された文章に偶然出くわした時、
「誰々がこれを書いたに違いない」と叫んでしまった事が。そのような場合、我々に親近感を与えるものはその
文章に盛られた思想内容というよりは、寧ろ思想が表現されているその表現方法による場合がしばしばである。
私が西洋に初めて接した時に、私が最も直接的に印象深かった事は、あなた方西洋人の知性の性格と幅の広さで
ありました。あなた方は問題―我々東洋人には思いもよらない問題―に対して思考を傾けられ、稀に見る成功を
収められた事を知りました。即ち分析と実験によって、あなた方は自然力の作用の鍵を見付けられ、それを利用
しているという事を私は知ったのです。その利用の方法は、私のような見聞の狭い者からすると殆ど奇跡と
言ってよいような方法なのです。
私は次のような事にしばしば気付いていた。あなたの留守中に誰かがあなたに電話をかけてきたとする。
留守だと分かるとその人は「帰って来次第、お電話いただけますか」と伝言を残す。そういう場合、
あなたにとって重要な用件というよりはしばしば相手にとっての方がより重要なのである。
プレゼントを贈るとか何か助けてくれるような場合には、大抵の人々は一定の範囲内で電話をするのを我慢する
事ができるのである。
クリスマスの時期になるとバリンガーのあちこちで常に幾つかのパーティーが開かれていた。しかしここ数年
彼女はどのパーティーにも招かれていなかった。その理由は、隣人の多くは彼女と一度も話した事が無く、
もし彼女が来てもどうやってもてなしたらよいか誰も分からなかったからであった。しかし実際には、彼女は
パーティーが大好きだった。彼女は騒がしい部屋で夕食の席に着く事もダンス音楽も好きで、
パーティーに出席している女性のうち誰が可愛いか誰を好きかなど、噂話をするのも好きだったのだ。
言語とその話者には極めて密接な関係があるので、両者を切り離して考える事は殆ど出来ない。言語はその話者
が母語として実際に話し、使用する限りにおいて生きているのであり、その言語の偉大さはその話者によって
与えられる以外にはないのである。ある言語が重要なのはその話者が政治的、経済的、商業的、社会的、文化的
に重要だからである。偉大で重要な国民の言語であるから、英語、仏語、独語は偉大で重要な言語なのだ。
この理由により、これらの言語は実際に使用されている国の外において広く研究されている。
研究の目的は、人間が財布に硬貨を所有するように知識を所有することではなくて、知識を自分自身の一部にすることである。即ち、食べた食物が「活力を与え気力を養う血液」に変わるのと同様に、知識を思考に変える
のである。
~
53 :
大学への名無しさん:
age