ローカル鉄道を三つ乗りかえて私はある田舎までやって来た。
浪人が住んでいる家はY……という予備校(※「浪人」の住んでいる地方では唯一の予備校)の通学圏に住む人の家で、
私宛てに送ってくる浪人の手紙にはいつもこの家庭が親身も及ばぬほど親切であることを書きつらねていた。
そして浪人の部屋からは川や山や田んぼを見ることができるのだとのべてあった。
田舎で家を探すのはそんなに難しくない。道をはさんで数軒の家しか存在しないからだ。
私はMのあかるい家の前にたって、すこしためらったが、
思いきって呼び鈴を押すと、門番らしい老婆がカメムシを食べながら出てきた。
老婆は浪人の名を告げた私に、口を動かしながらよごれた手で建物の裏を指さした。
はじめはその意味がよく呑みこめず聞きかえすと彼女は浪人は裏の入り口から入った六階に住んでいるのだと答えた。
建物の裏口にまわると下水がこわれているのか地面が濡れている。
その濡れた地面には玉葱や馬鈴薯の皮が穢らしくちらばっていた。
裏口は洞穴のように暗く、安ものの脂の臭いがこもっていて、私がそこから狭い階段を登ろうとすると、
私文狙いらしい男が出て来て、昇降台を利用しろと教えてくれた。
昇降台は人を乗せるためというよりは階上に荷物を運んだり、階下に塵芥をおろすためのものらしい。
油のきれたロープが軋んだ音をたてるのを耳にしながら私はゆっくりと六階に運ばれた。
六階の廊下につくと子供の大きな泣き声がきこえた。窖のような部屋が幾つか並んでいて、
部屋のかげから大きな体をもった再受験らしい女が顔をだした。子供の泣き声はここからひびいてくる。
沢山の下着が壁の両端をむすんだ網に干してある。
私は一つの扉の前にたって、ぼんやりとそこに貼りつけてある浪人の名札を眺めていた。
再受験らしい女が出てきて、私の言葉を聞くと合鍵を持ってきてくれた。
浪人の部屋は暗く、寒く、小さかった。
これは浪人でもっとも貧しい人々が住む屋根裏部屋にちがいなかった。
ニスの剥げた古い洋服ダンスが一つ、鉄製のベッドが一つ。小さな窓の硝子に罅がはいって、
そこに浪人が黒ずんだメモ用紙に「絶対合格!」と書いて貼っているのがあわれだった。
私はしばらく固いベッドの上に腰をかけてペンキこそ塗ってあるが天井を走る幾つもの鉄管をじっと見あげて、
(要するに……こんなものだったんだな)
と呟いた。洋服ダンスに手をかけると軋んだ音をたてて扉があいた。掛けてある洋服はどれも見おぼえがある。
みな五年前に現役だった頃、買った古いものばかりだ。内側の棚に二枚の写真をおいてある。
一枚は浪人自身のもの。そしてもう一枚は私の合格が決まった日の写真である。
その写真の上に浪人が折り紙の鶴をぶらさげている。
部屋の扉をしめると私は跫音をしのばせて廊下に出た。
再受験らしい女はまだ両手を腰にあてて監視でもするようにこっちを覗いていた。
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浪人の手紙から浪人が満ち足りた暮らしをしていると想像していたわけではないが、
実態を目の当たりにして、第一志望合格を目指して貧しい生活をしている浪人を
痛ましく思っている。