おまいらどんな本読んでる? Return

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120名無しマン
>>119
自然なものの見方に含まれる「ドクサ(憶見)」および
それにつきまとっている暗黙の信根、
その条件を吟味するために、いったんこの「ドクサ」(による自然な確信)を
意識的にエポケーする(取り払ってみる)こと。


例を挙げて言おう。
君は実際にひろゆきと言う存在を見たことがないだろ?
(見たことがあったなら、悪いが無いということにしてくれ)
でも、ひろゆきが存在していることには何の疑問も持たないわけだ。
なぜなら君は伝聞、情報の系路やシステムの一般性を信じているからだ。
じゃあなんでこのシステムの一般性を信じているのか。…

このように暗黙の信憑の条件となっているものを探っていくんだ。
そうすると最終的に<「もの」が「自分」の前にある。>という条件はなんだろう?
ということになるね?
っつーことはだ、単なる主観が何によって確信となるのか?という問題になってくるわけだ。
ここに、現象学的還元が意識の純粋な表象の場面、つまり超越論的意識に立ち戻る理由がある。

こういった「還元」の概念の最も重要な意味合いは、
近代認識論の<主観−客観>図式を完全に取り払うことを意味するんだ。
と同時に、誰もが知らない間に持っている信憑を限界まで疑うことを意味している。

ああ、何だか途中からごちゃごちゃしちゃったな。長文スマソ。