Episode 1 「宮様のお成り」
皇族の一員、某殿下が妃殿下とともに小竹庵の町にお忍びで来町することになっ
た。殿下はある淡水魚を研究なさっていて、この町の水産高校へのご訪問をご希望
になり、ついでに町の隅々まで足をお運びになるらしい。突然のことに町は、応接
セットを新調しなければ、いや赤い絨毯を買わなければ、と、かなりの混乱状態に
陥った。殿下がいらっしゃるコースには私の働く事務所のある郷土資料館も含まれ
ていたため、普段公開していない所蔵品をその日のためだけに展示することになり、
私にとってももはや他人事ではなかった。
そのうち県から担当の職員というのが資料館にやってきた。どうやらリハーサル
が必要らしい。資料館関係者はこぞって、分刻みに定められた当日のスケジュール
を配られた。なんでも殿下を載せた車が道路を走るとき、信号が偶然青でなければ
ならないそうで、そのために分刻みの行動を強いられるのだ。
リハにやって来た県の職員は、まず、資料館の前に車がどの角度で止まるべきか
を真剣に検討した。その位置を手元の資料館平面図に落とすと、「では、ここから
このように殿下が降りていらっしゃいますから(と自分が殿下役になって動いて見
せ)、助役さんと館長さんはこの位置に立って、2分以内でご挨拶をして下さい」
と次々に指示を出す。殿下を出迎えるのはわずかな人間で、私たち平の職員は館の
中にいなければならなかった。資料館は駐車場から階段を十数段上って入り口のド
アにたどり着く構造になっており、事務所からは入り口に来る人間がよく見える。
私たちの立ち位置を指示した県の職員さんはその構造に気づくと、「殿下が入って
くるまでは見ないように」と念を押した(見下ろすと失礼だかららしい)。その他、
写真撮影は係りの者(町の広報担当)だけに許されたが、職員が殿下と一緒に写るの
は厳禁とされた(ただし、偶然一緒に写ってしまった場合にはその限りではないと
いう。難しい)。
さて当日。職員に「殿下妃殿下お成り」と書かれた名札が配られ、無理矢理つけ
させられた。殿下がここでトイレ休憩を取ることは予定に無かったが、万が一を考
えて、新しいタオルと新しい無香料の石鹸の用意を強いられた(意味不明)。資料館
の周りには、お忍びのはずなのに情報を掴んだ町民で溢れていた。手にはどこから
入手したのか日の丸の旗が握られている。私はタイムスリップをしたかのような感
覚に襲われつつも、言われた通りの立ち位置に立った。
館内に何人かのSPが入って来ると、部屋のあちこちに散らばって殿下のお成り
を待った。私は「SPさんって普段は何やってるんですか?」と聞いた。SPさん
は「機動隊やっています」と微笑んだ。そのうちいよいよ殿下の車が入ってくると、
SPさんは「あ、到着なさったようですよ、では私はこれで」と死角に身を隠した
(見えてはいけないらしい)。
町民の旗が千切れんばかりに振られる。車は2台だった。殿下は、お忍びなのに、
妃殿下のほか侍従やら何やら10人くらい引き連れてやっていらっしゃった。そし
て本当に予定通りに行動なさり、あっという間にお帰りになった。
私のアルバムには、偶然写ってしまった殿下一行と私の写真が納められている。