鶴之助が声明書を出した。読んで見ると重々たる大家の弁である、少しおかしくなった。
彼はまだ二十三歳の青年であるのだが、いつのまにこんな大家になったのかと驚く。昔
私の事の対手であった若手俳優は福助(後の梅玉)魁車などといったその頃の売り出し
であったが、この人たちはよく私にこぼしていた。世間でも会社でも、われわれを若手扱
いにばかりしているが、これでもう、四十を越しているのですよ。いいかげんに一人前に
扱うてくれねば――と、そんな時代の事を思うと、子役上りに等しい若い鶴之助が役不足
で声明書をたたきつけたなどきいただけでも肝がつぶれる。
今度の事件でいわゆる「扇鶴時代」も恐らくおしまいであろう。そんなものはなくなってよ
ろしい。もともとこれはとりまき氏が劇壇進出の野心と自己宣伝の道具にでっち上げたも
ので、未完成な青年俳優を「団菊左」「菊吉」といったような大家のコンビになぞらえている
だけでも苦々しい。虚名をあおるのは売薬屋や化粧品屋もすることで、成功したのが自慢
にもならぬが彼氏はそれを「私の指導」「私のお弟子」「私の仕立てた」と方々へ自己宣伝
の道具にしているのである。そうしてその青年俳優に寄与したものは早くも大家になったか
の如き錯覚だけであったとすれば「扇鶴時代」は百害あって一益なしといわねばなるまい。
若い俳優の人気をたてるのに指導もお弟子もあったものではない。今の鴈治郎が中ボン時
代、今の扇雀以上の人気で、弱冠早くも京都明治座の棟梁であった。
青年俳優にとって、今一ばん大切なことは虚名をすててほんとうの芸の人気のために勉強
することである。それには一知半解な素人の芸いじりに指導されることはない。専門の先輩に
ついてミッチリ本格的な芸を年期をいれて修行することである。それにつけては松竹も行きあ
たりばったり主義の人材登用をやめるべきだ。いかに商売とはいいながら他人の作った「扇
鶴時代」に懐手で便乗するようなことをするから白面の青年にうっちゃられて世間で騒がれる
のである。見っともないことおびただしい。将来の善処を望む。