検察庁総合

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女子高生時代(久留米にある信愛女学院)には、バス通学の途中で会うちょっと素敵な男子校(久留米大学付属高?)の生徒に、「あのう、カバン持ちましょうか?」と声をかけて気を引こうとした。

ひろみにも、そうした積極攻勢をかけて一途な想いをぶつけたのだろう。
自分が気持ちを伝えればきっと相手も振り向いてくれる。
そううぬぼれるだけのコケティッシュな魅力を、聖子は備えていた。

付き合い始めた頃、聖子はひろみが浮気をしていないかと不安になり、ケンカが絶えなかった。
最初は間違いなくひろみの方が優位に立っていたのだ。
ところが、聖子が田原俊彦との仲を噂されるようになるとひろみは狼狽し、次第に聖子のペースにはまっていく。

2人の仲が取り沙汰されるようになったのは1981年5月、スポーツ紙で、『郷ひろみと松田聖子が結婚へ』と大々的に報じられたのが始まりだ。
この時の記事は、聖子の指にあるものと同型の指輪が、ペンダントとしてひろみの胸を飾っているから2人が付き合っていることは間違いない、という内容だった。

それから1年後の1982年3月10日の聖子の20歳の誕生日には、ひろみが86,000円のルビーの指輪を贈ったことが報じられた。

お互いに対しても、思わせぶりな発言が多くなっていく。

「今、付き合っている人がいます」「最も愛している人に捧げて歌います」(ひろみ)
「好きな男性? います。名前は言えないけど、デビューしてから、ずっとひとりの男性を想っています。好きというより、憧れかな」(聖子)

周囲がフィーバーするにつれ、2人の発言も大胆になり、ついに82年の12月にはこんなラブコールが。

ひろみは自らDJを務めるラジオ番組で、「確かに僕はねえ、好きよ、あの子。大好き。ひとりの女性として本当に好きだね」

これにこたえるように、5日後の『松田聖子のオールナイトニッポン』では聖子が、
「郷ひろみさんは、ひとりの男性としてとてもステキな方だと思うんです。お仕事でご一緒させていただいても、すごく尊敬もしていますし……やっぱり、ひとりの人間として、ひとりの男性として好きです」