ところが、1990年4月1日付で、被災者は、厚生省本省へ転勤を命じられ、その生活が一変することになった。夜9時までに帰るのは稀で、通常の帰宅時刻は深夜0時前後となった。深夜1時〜3時、明け方になることもしばしばだった。
とくに遅い帰宅となるのは、国会の開始する頃、およそ2年ごとに変わる課の申し送りや新しい仕事を始める頃で、あまりに多忙なときは、休日も出勤し、そのまま代休などもなく仕事を続けることになった。
(2)1996年7月、被災者は、精神保健福祉課へ異動となった。
異動時期が過ぎても、夜0時、1時、2時の帰宅が続いた。彼の帰宅した時の疲労困憊した表情から、大変な仕事量をこなしている様子がうかがえた。8月には毎年盆休みをとって妻の実家(青森)へ帰省していたが、この年は忙しくて、妻子だけで帰省した。
10月に出張があったが、妻への電話で「夕食すませ、これから仕事がまだある。大変だよ」と話していた。出張中、次の日の準備や資料づくりで、夜も休む時間がなく仕事をしていたのである。
12月からは連日連夜深夜の帰宅。週末は家で眠るかだるそうに横になっていた。 年が明けてからも、多忙を極めた生活が続いた。
1997年3月3日。朝急に「今日は、休む」と言って休暇をとった。その日の夜、彼は、急に子供を叱りつけて泣かしたり、妻の実家へ自分から電話をしたことがなかったのにかけたりとおかしい行動をとった。
小泉純一郎厚生大臣あて
妻の訴え(意見書)
妻として厚生省に申し上げたいこと
厚生省へ行ったら帰宅は遅いし、泊まりになることが多いと聞かされていました
が、やはり、帰宅は遅く、平日はほとんど会話もあいさつ程度くらいの毎日。
休日は仕事の疲れが溜まり、ほとんど睡眠にとられ家族とゆっくり過ごす時間は
なかなか取れなかった。
私自身も結婚、出産、育児、夫の家族との同居と環境に慣れるので精一杯。
早く帰ってきてもらって話し合いたいと何百回願ったことでしょう。
夫が遅く疲れて帰ってくるのに、私からグチを言ったり、心配かけないよう
にと思いました。でも、つい「早く帰って話を聞いてよ」と泣いて訴えることも
ありました。
全生園から厚生省という大変なところへ移り、とにかく与えられた事をやら
なくてはという責任感の強い人だったと思います。
自殺するのは弱い人間と周りの人から言われるけれど、夫は強かった。
死を選んで厚生省に訴えたい、そうしなければ伝わらないと感じたのだと
思います。
皆寝ずに身体がボロボロになるまでやるしかないんです。自分のことで
精一杯で共に働いている人がどんな状況なのかわからないのかもしれません。
日本の医療の見本を掲げている厚生省が、実際は病人を作り出しているんです。
厚生省で働く人達の家族はみんな淋しい思いをしている気がします。
最後に私たち夫婦の交わした言葉「早く帰るよ」−これが現実になってほしい。
お願いします。
http://www.kokko-net.org/honsho/karojisa/99karoji.htm