△隠居が問う―民があるじ△

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89隱居
<推察しますと、自公連立には
反対の立場と見受けましたが、貴殿はどちらが
悪いとお考えなのですか?
自民党ですか?それとも公明党ですか?もしくは
両方ですか?
貴殿の率直なお考えを拝見したいと思います。>

<自公連立には、反対の立場と見受けましたが、>
ワシの立場が如何であろうと、何の訳にもたたんが、一応問われて居るので、述べてみたい。勿論、詳細は、無理じゃが。

国の政所は、一日の遅滞も許されない。寧ろ、先手先手と国民のすすみ行く道を、明瞭に示し得てこそ、政治の謂いである。自民党の立場は、政権与党として、責任を果たすためにも、或いは逆に国民の信任を得て、国政を預かる以上は、目の前にある案件を処理しなければならない事は言うまでもない。

国会運営において、それぞれが国政に参加し、協力して仕事をするのは当たり前の事で、全く正反対の主義であるならば、いざ知らず、自公が組むことに、何ら異存はない。「行ってきた」処を見て、「行うところ」を見る。

従って、行うところから、批判して居るのであって、一連の宗教アレルギー、或いは、手段を選ばずに、排除するといった考えで批判をして居る訳ではない。それぞれ批判には「己の利するところ」に従って、批判を加えて居る強い傾向が見られるが、政治屋が「利己に走る」姿は、いうなれば「下の下」「厚顔無恥」。

敢えて、言うならば「民の利する」処において事にあたる、という事。自公連立が、民の利する目的を持って、組まれた事は、大儀として明らかな事で、政治屋が国家を失うために、組んだとは誰も思わない。いわば政治屋の「大局観」というものが、それを判断させて居るのであって、田舎ジジイの予見など、的外れもいいところじゃろうとは思う。

政策は民の上に君臨して、歴史の歩みとなる。自公が組んで、「民に利する」選択が成されれば、大いにコレに「同意する者」として、太平を享受できるが、行うところ、どう見ても、「放置政治」による「制度疲労」は極まって、この土台の上に「安普請」。安普請の家だけなら、笑ってみて居れるが、その打ち出される自己の政策を見て居ると、己の利する処と、民の利する処のバランスが、執れてオラン。
と、此処までにしようか。