△隠居が問う―民があるじ△

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80隱居
教育基本法の制定についてのお尋ね、或いはディスカスという事は、承知しました。近年の少年の、常軌を逸したというか、或いは、社会の生活層の反映というか、青少年に対する、考え方を改めさせなければならない、事件が続いた事は、憂える事じゃと思う。

人の痛みを我が痛みとして、捉えることの出来ない、我が儘な自由社会が、経済の束縛から解き放されると同時に始まって行くことは仕方がないにしても、賢人は「衣食足りて、礼節を知る」と言ったが、果たして、

礼も節も踏みにじって、社会も、個人も閉塞して、欲望の赴くまま、我が意の赴くままに、振る舞って、それを自由として「社会」が認容して居る風潮は、青少年の柔らかい脳味噌にどういった結果をもたらすかという事じゃろうと思う。

こうした風潮を助長した歴史が、今青少年の,結果として現れている。過去にも述べたが、腐った土台に、「安普請」の「教育基本法」の制定が、いかほどの効果を青少年に、もたらし、「堕落した社会を蘇生」出来得る能力を、青少年に期待でき得るものであろうか。

俗に言う、「朱に交われば、紅くなる」。子どもを善導する舵取りは、車外にあって、余所見はするわ、携帯は掛けるわ、窓の外から手で、クラッチに手を出し、ブレーキに手を出すような事で、子どもの乗った車が正しく、正しく軌道を走るばかりか、外から手を下す大人を安全に、目的地に誘導する、などという事は、あり得ない、という道理では無かろうか。

詰まり外に立つ社会が、酒に酔っぱらって、あたかも子どもの車を誘導し、あわよくば、その車の行き着く先に、至福を保証して貰おうといった、浅はかな、教育法の改正は、より子ども達の対応を複雑にさせ、且つ現場を混乱させて、その手練手管に走る余り、肝心の教育は、手段の選択にこそ、労力を惜しみ、肝心の人間教育は、「魂を入れない」玩具づくりにも似て、滑稽ですらある。

また、徐々にお話ししましょう。