△隠居が問う―民があるじ△

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495隱居
<お考えを180度変えたのか、まるで旧来の自民党員のようなご意見>

読んでの通り「恥」というモノの、ボーダーレスが何処まで進んで居るかという事の逆説です。官房長官が、愛人を持って、歳費を上回る金を渡して居る。いろんな見方があって、そういった人間でも、官房長官を遣れる、といった事は果たして如何なモノか、とワシは思って居るのだが。前文の以下の、用いようも、同じ事を言って居るのです。

誰が一体、「カエルの顔に、水」なのか、今野党が追求して居るのは、国民の政治家に対する、政治屋の在りように対する「政治感覚」。
これ程、国民を馬鹿にした、総理も居なければ、官房長官も居ない、と思うのじゃが、誰も言い挙げない。

政治が「人気投票まがい」にまで落ち込んでいっても、それで政治がなっていくという「政治感覚」。
堕落の上塗りをこのまま続けていく事への危機感が、国民にない。

従って、出てくる法律などは、「公平、平等」が損なわれた上に、安直で、彼方此方ですぐ錆の現れるモノとなる。
サルに与える「朝令暮改」。

一方では、「少年法」「年金法」「社会保障」など、「弱者」に対して、その蛇口を締める、強硬な意見が、堂々と言われて、
過酷で、熾烈な処置が「強者」から行われようとして居る。

守るべき立場の人間の倫理観や道徳観や、哲学が、まさしく「強者の病的」力を弱者に対して振りかざしていく。
それは、あたかも幼児に対して、親が対等に、折檻して居るような振る舞いで、その親の、行為を正す説得力を、何処にも見いだせない、今の日本。

「強者の論理」がそのまま、まかり通る程、今日本に賢者が居ない。という事を嘆いて居るのです。