△隠居が問う―民があるじ△

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201隱居
<私は池田氏が相当額のギャラを払っていただろうと推察しています。しかし、お金の力で面会したものを、あたかも「池田先生の人徳の・・・」と聖教新聞などは記事にするのですが、果たしてそれが本当に池田氏の人徳の証明になるのかという、私の素朴な疑問であります。>

池田名誉会長の側近しか、解ら無いような質問ですな。従って、一般的な事しか言えません。「見てきたようなウソ」が流行る、2ちゃんですが。
金を払って人に会う、という常識もあります。人に接見したいと思うとき、相手に応じて、様々な手段が、選ばれなければならない事は、周知のことです。詰まりは土産物、この土産物には、もっとも相手が喜ぶ土産物に配慮しますわな。

詰まり、相手の欲するものに応じて、目的を叶える、事ですから、金も、モノも、或いは、中国では、娘を送って、それを成した事もあります。相手を観て贈り物を考えないと、成せません。池田名誉会長が、ギャラを払って、世界の指導者に、在った、或いは合うことに成功した、とすると、政界の指導者は金亡者の奴ばかり、という事も言えますわな。

ワシは、あらゆる組織の指導者たる器は、そんな、下品な誘い出しに、ウッカリとは載ってコンと思うのじゃわの。相手も、指導者として、会う相手を観て取るのに「聡い」、だから、一国の指導者なり、或いは、組織の長となれるのじゃわの。ギャラの多寡を気にして居るような、小心者を、一国の指導者に頂く国民は、「民度」が低い、と言うか、そんな下卑た応対にうつつを抜かして居る,指導者というのは、ワシの見方では、探すのに苦労する、と思うのじゃ。

そういった、小手先での「応対辞令」は寧ろ、品位の無いモノ、と捉えるのが、大概の指導者論じゃと、思っております。仮に、ワシが、指導者なら、下手に大金を積んで、媚びへつらう、人間には近づきません。逆に、ワシを「乞食」と間違えて居るような人間は、軽蔑したい気分になるわの。

コレは、長たる者の苦労と、そのセンスを必要としない人間には、解らぬ感性かも知れんわの。寧ろ、そうした事が気になって仕方がないような人間は「下司の勘ぐり」とワシなら、部下に言う。人間は、鍛えられると、同じモノを観ても、違った捉え方をするのは、どの世界でも一緒だわの。

ワシも随分、色々な長の下で働いたが、大会社の長たるモノは、自ずと感じられる徳分があるし、何かしらの輝きがある、魅力もある、同じモノを観ても、見るところが違う。そういったモノを、感じられない人物に会ったとき、結構落胆するモノじゃ。

従って、そういった、風評には、ワシは、余り価値を見いだせません。