△隠居が問う―民があるじ△

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137隱居
<池田名誉会長とその弟子達についてのお話ですが、
私はそれこそが「政教一致」と叩かれる一つの要因では
なかろうかと思います。>
創価学会と、公明党の「政教一致論」というモノは、「政治思想的無知」と「宗教的無知」と「為にする」者の持ち出した言葉ではないか、と思っております。戦中の「天皇が神である」と言って軍部が独走した、「政教一致」は、正確ではないと思っており、戦後に理屈づけられた、或いは、結果的にそう見ていい、というべきものであると思っております。

日本人は義務教育の中で「政治」と「宗教」に関しては、全く教わっていません。詰まり「知らしむべからず」といった国家の教育方針。ほぼ単一民族で、海に囲まれ、民族的な闘争の嵐を受けることが、タダの一度もなかった日本人は、国家と個人の関係、或いは多民族と国家、或いは個人などの関係を、利害、思想、政治、権力といったモノで、その考え方を深化する、土壌になかった。それは、江戸300年の「閉鎖国家」もまた、コレを助長して「開明の黒船」で、一気に「すれからし」が始まるが、先に言った、土壌は未だに、民族の精神の中には、整っていない。

まあ、ややこしく言ったところで、我説じゃから、理解にはほど遠いといわねばならんが、「行うところ、思想がある」訳で、思想的基盤が、仏教であり、就中、日蓮の教えを信奉して居る、団体が中心となって、政治団体を生み出しただけの事。
思想の信ずるところ、行動を起こして、何がいけないのか、人はみな思想によって行動を起こす者である。己の信ずるところに行為して生きていくのが人間である。その結果、その個人、或いは、その団体が、社会と如何様な関係にあるかを、評価し得ることは、何の不思議でもない。

商売人が、我が信条に従って、金儲けをする、或いは、商売人が我が信条によって、泥棒をする。泥棒をすれば、その本人がどんな信条を持とうとも、その社会の規約によって、裁かれる。
だからと言って、商売人を見たら、一律に「裁く」と言った無知は、笑い話にもならない。

その「質を問わずに瓶を問う」ような、「政教一致」論は、まさしく日本人の民族の特質を現して居る、いわば、悪い癖。詰まり、日本人の単一民族的精神のコンプレックス。その悪い癖を覆い隠すための、大げさな「政教一致論」は、日本人に受け入れられ易いことは事実じゃが、角を矯めて牛を殺す、詰まり、信教の自由に自ら、タガを填める、いつか来た道という事にもなり兼ねない、危険性も同時に含んで居るという事じゃ。また述べようと思う。