1 :
「続・日蓮って」スレを立てた人:
2 :
みさき23区:2000/08/20(日) 19:36
>新規にスレッドを立てちゃいました。・・・・まだ続けるの?。
3 :
>2:2000/08/20(日) 19:40
>是非お願い致します。〜一スレファンより。
4 :
名無しさん@1周年:2000/08/20(日) 19:41
続けて欲しくない学会員発見
議論で勝てないからだね、きっと。
5 :
イワン(ROM専):2000/08/20(日) 20:04
2の方はなかなかの教学力をお持ちの方だと思います。
できれば、4さんみたいな煽りは、ここでは控えて頂ければ
と・・・。生意気言ってすみません。
6 :
名無しさん@1周年:2000/08/20(日) 20:19
2さん議題提起すればどうですか。5さんの意見に賛成ですね。
煽りはやめましょう。
7 :
ZEGA:2000/08/21(月) 00:59
さて、続くのでしょうか?
ご希望の方がいるのなら、再び(今度こそ、と言うべきか……)のんびりまったり続けるつもりではありますが。
でも、本気で信心している人の生命力が凄いのは間違いない事実なので、堂堂巡りとは知りつつも「まあやってみてよ」に帰りついてしまうのですけれども。
なーんて、またメチャメチャ煽られそうですね。
8 :
私も名無し:2000/08/21(月) 01:45
ぜひとも続けてください
アンチな自分から見てもこのスレ(旧を含む)は良質ですよ
真面目な学会員さん達はむしろ大歓迎です
9 :
特撮オタ>1:2000/08/21(月) 05:07
旧スレッドですが、次の方法で読み出しできます。
1.板一覧表の下の方にあるツール類から「オフラウ」を拾ってくる
2.圧縮を展開する
3.board.txtをメモ帳で開き
創価・公明
http://www.2ch.net/koumei/ となっている部分を
創価・公明
http://mentai.2ch.net/koumei/ ~~~~~~~
に修正する。
4.オフラウを起動する
5.掲示版のタイトルを習得する
6.上から10番目に「#続・日蓮って」のタイトルが出ているので
これをダブルクリックしてスレッド内容をダウンロードする。
7.ダウンロード終了後は回線を切ってかまいません。
8.使用法に従ってスレの内容を読んでみましょう。
以上お役に立てば幸いです。
10 :
愚乱破:2000/08/21(月) 10:14
ZEGAさん<
私の掲示板へのご連絡ありがとうございます。
早速きてみました、確かに前のスレッドの常連さんはまだ見えてませんね。
・・・来られるんでしょうか?
「続・日蓮って」スレを立てた人さん<
新しくスレッドを立てていただきありがとうございます。
最後に書きこんだまま読めなくなっていたので気になっていました。
特撮オタさん<
ご親切にありがとうございます。
やはり、私の書きこみが最後になっていました。
たいした書き込みだったとも思われませんが、一応次に再掲させてもらって
よいでしょうか?
11 :
愚乱破:2000/08/21(月) 10:15
980 名前: 愚乱破 投稿日: 2000/08/12(土) 05:07
若葉マークさん<
初めまして、私は教学、弱いんですよ。
いつもながらの、ピリリと効き“すぎる”ご質問ですね (・・;)
> 日蓮が御本尊を表された以降において、「覚り」を開いた人は、どのくらい
> いるのでしょうか? これによって、法華経及び、日蓮仏法が、「覚りを得
> る手段」として有効なのかどうか? を判断したいと思います。
しかし、当然のご質問ではありますね。殆どの人が覚りを開いていないと変です
よね。私には自覚がありません。(笑) 私の周囲にも覚りを開いたと言った人を
聞きません。学会の出版物を読んでも戸田先生以外に覚りを開いたという人はい
ないのではないでしょうか。これはどうしたことでしょう?
全く乱暴な私見になりますが・・・
御本尊を無二に信じて唱題する姿が仏界であり、覚りの姿なのではないでしょう
か。しかし、唱題を終えればまた凡夫に戻ってしまうのですが、何らかの影響が
残るのではないかと思うのです。
(実際、自己中心で周囲に迷惑ばかりかけていた人などが入信して真剣に唱題す
る姿を見ると本当に感動を覚えます。)
・・・ご納得いただけないと思いますが、私はそう信じています。
(人格までが直ぐに変わるかどうかは様々ですが、激変した場合でも、その状態
が覚り-仏だとは言えないですしね。)
> 釈迦の教え(=法華経)は、末法において無力 ということでよいのでしょ
> うか?
> 「釈迦は末法に有効な教えを説く仏では無い」ということは、末法において
> は釈迦以外の仏が(釈迦の教えと異なる)有効な教えを説かなければならな
> いということですか?
そう考えていますが、法華経が無力になるのでなく、釈迦が説いた成仏の方法が
無力になるというように理解しています。(機根に合わせて説かれた爾前経や法
華経で説かれる菩薩行などでは成仏に至ることができない → 南無妙法蓮華経で
なければならない。)
> 「我が滅度の後・後五百歳の中に広宣流布・・・」は、宿王華菩薩に対して
> 言った言葉ではないのでしょうか?
良くご存知ですね、仰る通り薬王菩薩本事品は宿王華菩薩が高弟の薬王菩薩の過
去の因縁を訊ねられたのに対して答えられている経典ですが、後半に先のことが
説かれているそうですね。
ご満足の行くお答えができなくて残念ですが、できましたら若葉さんのお考えも
お聞かせ下さい。
12 :
若葉マーク:2000/08/21(月) 23:11
愚乱破さん
ご無沙汰でございます。 継続ですか・・・(^_^;)
丁度、イイところでスレがコケたと思っていたのですが・・・。
私もよくわかりませんので、いろいろと教えて頂ければ幸いです。
>しかし、当然のご質問ではありますね。殆どの人が覚りを開いていないと変です
>よね。(略)これはどうしたことでしょう?
「現証」を重んじる日蓮仏法において、このことをどのように解釈されるのでしょうか?
もしかして、来世において成仏(=覚り)するのかと思ったのですが、日蓮仏法は
起点を現世に置くそうで、「来世で成仏 ? そんな教えになんの魅力も感じませんね。」
と学会員さんが仰っておりました。
>御本尊を無二に信じて唱題する姿が仏界であり、覚りの姿なのではないでしょう
>か。しかし、唱題を終えればまた凡夫に戻ってしまうのですが、何らかの影響が
>残るのではないかと思うのです。
個人的には、この御意見に賛成したいと思うのですが、一般的に言う”覚り”
(成仏)が指しているのは、これではないでしょうし、学会員さんが目標にされている
のも違うような気がしますが・・・。 >そう考えていますが、法華経が無力になるのでなく、釈迦が説いた成仏の方法が
>無力になるというように理解しています。(機根に合わせて説かれた爾前経や法
>華経で説かれる菩薩行などでは成仏に至ることができない → 南無妙法蓮華経で
>なければならない。)
→しかし、南無妙法蓮華経でも成仏に至ることができていない→どうしましょう?
>仰る通り薬王菩薩本事品は宿王華菩薩が高弟の薬王菩薩の過去の因縁を訊ねられ
>たのに対して答えられている経典ですが、後半に先のことが 説かれているそうですね。
以下 波木井坊竜尊氏のHP(
http://www7.konohana.ne.jp)より
転載させて頂きました。
>是故宿王華。以此薬王菩薩本事品。嘱累於汝。我滅度後。後五百歳中。広宣流布。於閻浮提。
無令断絶。悪魔魔民。諸天龍夜叉。鳩槃荼等。得其便也。宿王華。汝当以神通之力。守護是経。
是の故に宿王華、此の薬王菩薩本事品を以て汝に嘱累す。我が滅度の後後の五百歳の中、
閻浮提に広宣流布して、断絶して悪魔・魔民・諸天・龍・夜叉・鳩槃荼等に其の便を得せ
しむることなかれ。宿王華、汝当に神通の力を以て是の経を守護すべし。
多分、この箇所で良いのだと思いますが、『宿王華』で挟まれたこの文を実行するのは
なぜ日蓮なのでしょうか?
#文底さん、お元気ですか?
2chにリンクがついているのがこちらのサーバログに出ていたので
来てみたんだけど・・。こういう文の引用で安心しました。(爆)
14 :
ひゃっきまる:2000/08/22(火) 14:52
しばらく来ないうちに、複雑なことになっているようですね・・・。第7の外道さんの意見を待つことにします。
>ZEGAさん
今後ともよろしくお願いします。相手の攻撃をするための議論ではなく、お互いに有意義な議論にしてゆきたいと思っています。
15 :
愚乱破:2000/08/22(火) 15:30
若葉マークさん<
早速の書きこみどうもです。
> 一般的に言う”覚り”(成仏)が指しているのは、これではないでしょうし、
> 学会員さんが目標にされているのも違うような気がしますが・・・。
そうですね、やっぱり覚りとか成仏とかいう状態(境涯)の理解が難しいので、幸
福になることを目標にしてますね。
それには現在の悩みが解決されなくてはということで、貧乏や病気の克服などが
具体的な目標になってきていると思います。
そのため、願い・祈りが叶うかどうかに目が向いてしまうことになります。
しかし、真に求めるものはやはり成仏であり、学会ではそれを絶対的幸福境涯と
いってどんな状況に有っても、生きて行くことを楽しんで行けるような境涯にな
ること教えていると思います。
当体義抄に「法性の妙理に染浄の二法有り染法は薫じて迷と成り浄法は薫じて悟
と成る悟は即ち仏界なり迷は即ち衆生なり、此の迷悟の二法二なりと雖も然も法
性真如の一理なり」とありますが、覚ったといっても別のものに成るわけではな
く、また覚った人も私は覚りましたとは言わないのではないでしょうか。
周囲の人の尊敬に値するような立派な振る舞いから判断するしか無いのかとも思
われます。
真の覚りは、自覚すら無いのがではないかとすら思うのですが < 私見です。
さて、従藍而青(青は藍よりいでて藍より青し)という言葉がありますが、これは
藍染めは何度も何度も繰り返し染めることによって元の藍より青くなることから
弟子が師匠の教えに従って、やがて師匠を超えるレベルに達することを言うよう
ですが、毎日の唱題という修行によって十年、二十年後には思いもしなかった、
立派な人になっていることにも当てはまるのではないかと思います。
> 『宿王華』で挟まれたこの文を実行するのはなぜ日蓮なのでしょうか?
一応の答えは持っているつもりですが、手持ちの資料できちんと確認してから、
お答したいと思いますので、少しお時間を下さい。
16 :
文底:2000/08/22(火) 18:08
*若葉マークさん
>#文底さん、お元気ですか?
公私共に、ちょっと厳しい状態が続いていますが、ROMはしていますので、愚乱破さんとの論議の推移楽しみに拝見させて頂きます。
*ひゃっきまるさん
お久しぶりです。何時の間にかこのスレ、すっ飛んでしまっていたようですね。
>第7の外道さんの意見を待つことにします。
第7の外道さん如何されたのでしょうね・・・・
*愚乱破さん
御元気そうですね。私との論議が途中になってしまい申し訳ありません。
時間がとれたら、又御相手ください。宜しくお願い致します。
17 :
ZEGA:2000/08/23(水) 00:00
常連の方々が次々と戻られていますね。
今後の推移がどうなるかはわかりませんが、皆さん、今後ともよろしく。
18 :
第7の外道:2000/08/23(水) 11:35
こんにちは。皆さんお久しぶりです。
やっと復帰できたと思ったら、肝心の復帰先が無くなっており、狼狽しております(‥;)
議論は今どういう展開になっておるのでしょうか? 私の最後の書きこみ(2週間以上前になると思うんですが)から何が起こったんでしょう? 一度ロムろうとしたときは「サイズが大き過ぎる」と拒まれてしまったのですが。
19 :
愚乱破:2000/08/23(水) 12:29
若葉マークさん<
宿王華菩薩の件ですが、法華経の付嘱は「妙法蓮華経如来神力品第二十一」にお
いて上行菩薩に結要付嘱され、また「妙法蓮華経嘱累品第二十二」において諸菩
薩に総付嘱されました。そして宝塔を閉じられ分身の仏、地湧の菩薩は元の所へ
帰られました。
従って法華経の付嘱はここで終わり、以降は化他流通となりますね。
ご指摘の宿王華菩薩への付嘱は、薬王菩薩本事品を付嘱されたことを説かれてい
るようですね。
ですので、末法に法華経を広められるお方は文上では上行菩薩でよろしいと思い
ます。
文底さん<
お久しぶりです。
> 私との論議が途中になってしまい申し訳ありません。
いえ、私の方がお答しなければならないところで、止まってしまってましたね(^^ゞ
今後とも、宜しくお願い致します。
20 :
愚乱破:2000/08/23(水) 13:04
第7の外道さん<
お久しぶりです! 常連さんがほとんどお見えになりましたね。
ちょうど2週間前に、第7の外道さんあてで、969@`970@`972を書きこんだのですが
ご覧になれたのでしょうか?
もしご覧になられてなかったら、こちらに再掲いたしますが・・・
21 :
第7の外道:2000/08/23(水) 13:26
愚乱破さん お久しぶり!
ここのところ仕事+家族旅行でこっちをロムることすらほとんどできませんでした。
1のdatファイルはなぜか私のマシンでは全然きちんと読みこめないし、「特撮」さんご紹介の方法もまず「オフラウ」なるものが探し出せません((;_;)ナサケナヤ) ですから969@`970@`972も今のところ読めていません。どうしたらよろしいのやら。
22 :
愚乱破:2000/08/23(水) 14:00
第7の外道さん<
そうでしたか、では次に再掲します。
(再掲するのはちょっと恥ずかしいかな、他の方ごめんなさい)
23 :
愚乱破:2000/08/23(水) 14:01
969 名前: 愚乱破 投稿日: 2000/08/08(火) 16:16
第7の外道さん<
お仕事の合間にこれだけの書きこみができてしまう外道さんの幅広い知識と筆力
に感心いたします。
> 何か特定の信仰を持っておられる方は、そのへんの「感覚」は理解してもらえ
> ないのかな、というあきらめの気分を持ちがちになってしまうのも事実です。
> どうでしょうか?
今までの論議でも、しっくりかみ合わない根本はやはりここなんでしょうかねぇ。
たしかに、個人および/または社会にプラスとなる思想は非常に沢山存在し、そ
れらには当然優劣・長短があると考えられます。
その中から最も優れたものを見出そうとしたら第7の外道さんのアプローチを採
るべきだと言うことに異論はありません。ただその手段の目的を定義し効果を測
定する尺度をどうするかというような技術的な問題を解決する必要はあると思い
ますが・・・
しかし、覚りが得られる手段として第7の外道さんが認めているものはこれらの
中には無いのではありませんか?
もし幾つかおありでしたらそれらを比較検証することができると思いますが・・・
第7の外道さんにとって学会教学は論理的飛躍がありすぎて到底信じられないと
いうお気持ちであろうとは思われますが、でももっと信ずるに足るものが無いと
うことですと比較検証のアプローチは成立しないと思われるのですが・・・
いかがでしょうか?
24 :
愚乱破:2000/08/23(水) 14:02
970 名前: 愚乱破 投稿日: 2000/08/09(水) 12:06
続きです
> ただ「民主主義」と「法華信仰」を重ねてしまう場合、法華信仰の立場に立た
> ない人の感情的部分に対する配慮が欠けがちではないかということが言いたか
> ったのです。
重ねてしまう、ということがいまいち解からないのですが、法華信仰以外を否定
することを仰っている(厳密には創価学会以外を)のだと思いますが、布教は決し
て相手を排除しようとして行うわけではありません。あくまでも対話(討論では
ない)によって、教えの正しさを認めてもらうことで、同じ仏教で教義によって対
立するようであれば、教義の矛盾や低い目標に留まっていることを指摘するなど、
いわゆる“折伏”と言われる教化方法になりますが、仏教以外や仏教といっても
教義を理解して信じている状態でなければ、あくまでも相手を尊重した話合いを
通じて考えが再検討されて行くことを手助けするという気持ちで行われるのが基
本だと思いますし、日常の人間関係の上で一対一の対話をベースにして行われる
ことですので、本来は懸念されるようなことがあってはならないし、現実色々問
題を生じていることは、残念であり猛反省しなければならないことだと思います。
それにしても「民主主義」でもそうですが、それを破壊しようとして攻撃を受け
た時に(特に暴力とか武力のような物理的な力で)どう対応すべきかというのは困
難な問題ですね。
25 :
愚乱破:2000/08/23(水) 14:03
972 名前: 愚乱破 投稿日: 2000/08/09(水) 13:51
続きです
> ここが問題で、「本覚思想」的ロジックでいうなら、日蓮が「無作三身如来」
> なら、同じ資格で万人がそうなってしまうわけです(もちろん愚乱破さんも)。
> そこで日蓮の発言のみが他と違って「真実を言い当てている」ということが明
> かされなければならなくなります。ここでは日蓮が「無作三身如来」であるか
> ら、というのは理由にならなくなってしまいます。
たしかに!、ただし、迷いの中にあるうちは「如来」とは言えず、覚りを開いた
時、初めて万人が、「如来」になるわけですね。
さらに、教えを説く如来は一人ということですね。それが日蓮大聖人あるという
ことなんですが・・・釈迦も覚りを開かれ衆生を導かれましたが、教えの対象が
既に法華経に縁したことが有る人達であり・・・
大集経に釈迦の滅度後五百年は釈迦の教えで必ず解脱する、次の五百年は必ず禅
定が行われ(正法)、次の五百年は必ず経を読じゅし聴聞することが多い、次の五
百年は必ず塔寺が造られることが多くなり(像法)、さらに次の五百年(末法)には
必ず争いが起こり白法(釈迦の教え)が隠没すると説かれているそうです。
・・・ので、釈迦は末法に有効な教えを説く仏では無いということになりますね。
また、薬王菩薩本事品第二十三に「我が滅度の後・後五百歳の中に広宣流布・・
・」と説かれておりますので、必ず末法に釈迦に替わって教えを広める仏がお一
人顕れるはずです。
で、その通りにご出現されたのは日蓮大聖人以外にないと思うのですが・・・
26 :
若葉マーク:2000/08/23(水) 15:25
愚乱破さん
@
>そうですね、やっぱり覚りとか成仏とかいう状態(境涯)の理解が難しいので、幸
>福になることを目標にしてますね。
>それには現在の悩みが解決されなくてはということで、貧乏や病気の克服などが
>具体的な目標になってきていると思います。
>そのため、願い・祈りが叶うかどうかに目が向いてしまうことになります。
A
>しかし、真に求めるものはやはり成仏であり、学会ではそれを絶対的幸福境涯と
>いってどんな状況に有っても、生きて行くことを楽しんで行けるような境涯にな
>ること教えていると思います。
@とAに分けさせて頂きましたが、この二つは全く方向性が違うような気がする
のですが・・・@においては、祈りによって「悩みの解決」をすることが幸福で
あり、Aにおいては、「どんな状況に有っても」つまり、悩みが存在したままで
も、生きていくことを楽しめる境涯になることが、幸福ということでしょうか。
「相対的幸福」ではなく「絶対的幸福」だと、戸田氏は言っていたと思いますが
@というのは、ある意味で「相対的幸福」ではありませんか? 学会が目標にす
るのは、「絶対的幸福」のはずでは?
>当体義抄に「法性の妙理に染浄の二法有り染法は薫じて迷と成り浄法は薫じて悟
>と成る悟は即ち仏界なり迷は即ち衆生なり、此の迷悟の二法二なりと雖も然も法
>性真如の一理なり」とありますが、覚ったといっても別のものに成るわけではな
>く、また覚った人も私は覚りましたとは言わないのではないでしょうか。
仰る意味がよく解らないのですが、この文の続きを読むと、法性真如の一理であ
るが、「縁」によって、”悟”にも”迷”にも変化する → 元は一体であっても
悪縁に遇うか善縁に遇うかで、別のものになるということではないでしょうか?
迷悟というのは、表裏一体であるが、その状態というのは、相反するものであると
考えます。
>周囲の人の尊敬に値するような立派な振る舞いから判断するしか無いのかとも思
>われます。
>真の覚りは、自覚すら無いのがではないかとすら思うのですが < 私見です。
自ら、”私は、覚者である”と言ったら、これは偽物かもしれませんね。(笑)
そもそも、覚りを開くとか,成仏できる とか、そのような考え方をすること自体
問題であるような気がします。 人の心の状態を計り知ることなど不可能だと思い
ます、一見、仏のような振る舞いをしている人でも、ストレスを溜め込んでいるか
もしれませんし・・・(笑)
続きます
27 :
若葉マーク:2000/08/23(水) 15:27
愚乱破さん
続きです。
>さて、従藍而青(青は藍よりいでて藍より青し)という言葉がありますが、(略)
>毎日の唱題という修行によって十年、二十年後には思いもしなかった、
>立派な人になっていることにも当てはまるのではないかと思います。
私が、学会系の掲示板等を見るようになった動機は、このことに対して
疑問を抱いたからです。
親の代からの知り合いである婦人部のAさんは、少なくとも入会して数十年、
現在もバリバリに活動している方ですが、いわく『聖教新聞は、他(の学会員)
からは”絶対に”取らないでね、私から取っていると言えば、大丈夫だから・・・』
つまり頼みたい時に、新聞が入れられないと困るから、常に空けておいてくれとい
うことです。 長い付き合いでもありますし、私は、これを了承しましたが・・。
友人のBさんは、入会して15年、Bさんと知り合ったは、10年前ですが
付き合うようになったのは、ここ数年です。 学会活動が忙しいらしく、たまに顔を
合わせても、どこかで一杯飲むくらいですが・・・。Bさんの家は、地区の拠点であ
り、兄弟は幹部、親族もすべて学会員であるようです。 私は、会社経営に携わって
いるBさんを尊敬していましたが、付き合ってみて驚きました。
時間は守らない、約束は破る、貸したものを返さない・・・。
Bさんは、教学1級で学会において若い人を指導する立場にいるようです。
このようなことを書くと、”中にはそういう人もいる”と反論される思いますが、
AさんもBさんも、何十年も毎日、真面目に唱題・勤行しているのは事実であり
ます。(本人がそう言っていましたから)
毎日の唱題という修行が無意味であるとは思いません。それによって立派になられた
人も居ることでしょう。しかし、何十年唱題しても変わらない人も存在するのです。
つまり、この事例から見ても唱題は「絶対」ではないのです。 唱題したからと
言って、立派な人になるとは限らないということです。
28 :
第7の外道:2000/08/23(水) 15:37
愚乱破さんありがとうございます。
最近の流れが全く読めていないので、ここでレスをつけていくのが適当なのかどうかわからないのですが・・・とりあえず書いてみます。
23(旧969)
>覚りが得られる手段として第7の外道さんが認めているものはこれらの
中には無いのではありませんか?
>でももっと信ずるに足るものが無いと
うことですと比較検証のアプローチは成立しないと思われるのですが・・・
このところ、ちょっと具体的なイメージが涌かないのですが・・・「覚りが得られる手段」を検討する方法論をはっきり示せということでしょうか?
24(旧)970
お考えはよくわかりました。同感です。
25(旧)972
>釈迦も覚りを開かれ衆生を導かれましたが、教えの対象が
>既に法華経に縁したことが有る人達であり・・・
>釈迦は末法に有効な教えを説く仏では無いということになりますね。
釈迦の教えがどんな時代にも漏れなく有効性を発揮するということはないでしょう。ただ私がそう思う理由は、「大集経」などにそう書いてあるから、というのではありません。私は経典にそう書いてあるというだけでは何かを正しいと見なす根拠には相応しくないと思っています。無論このことは日蓮を論ずる時のみに限るわけではありませんが。
29 :
第7の外道:2000/08/23(水) 15:37
愚乱破さん
>たしかに!、ただし、迷いの中にあるうちは「如来」とは言えず、覚りを開いた
>時、初めて万人が、「如来」になるわけですね。
>さらに、教えを説く如来は一人ということですね。それが日蓮大聖人あるという
>ことなんですが
ここでなぜ「一人」と限定しなければならないのかが私にはわかりません。何人いてもよさそうな気がします。もちろん、愚乱破さん個人にとっては「一人」だ、というのはわかりますが。
ちょっと脱線してしまうかも知れませんが、なぜ「南無妙法蓮華経」と唱題すればこうした「覚り」が得られるというのか、私なりに考えてはいるのですが、率直に言って未だによく分かりません。功徳を自然に譲り受ける、とも言いますが、これでは何の事かわからない、というのが正直なところです(釈尊が目に見えないパワーを送ってくれる、ということですか?)。「やってみなければわからない」と言われそうですが、その是非はともかく、日蓮の成仏方法論は他宗派の提唱する「成仏方法論」と比しても「なるほど」と思わせる点が(私にとっては)少ないといわざるを得ないのです。実際にやってみなくても、なるほどこれは正しい道の一つには違いなさそうだと思わせるものが、他宗派と比較しても日蓮思想には足りないように思われるのです。率直に言って、どうして唱題すれば「覚り」が得られるんですか? 愚乱破さん自身はどう考えてらっしゃるのでしょうか。個人の見解というので結構です。
あと、愚乱破さんは今若葉マークさんと議論されておられるのですか(私には議論の焦点がまだよく見えていませんけども)? ならば私のレスへの返答はなくても構いません。またお暇なときに。私はもう一二週間忙しい時期が続きますが、ロムもできないということはもうないと思います。
30 :
第7の外道:2000/08/23(水) 15:38
愚乱破さん
これも脱線で、しかも私個人の憶測に満ち満ちたものですが・・・最近空海の成仏理論の説明を見ていて興味を覚えました。日蓮の「三世諸仏総勘文教相廃立」中の「釈迦如来・五百塵点劫の当初・凡夫にて御座せし時我が身は地水火風空なりと知ろしめして即座に悟を開き給いき」の前後を読んでいると、これは真言密教における悟りのあり方と極めて似通っていると思わされますね。真言宗でも「六大(地水火風空に識を加えたもの)」は相互に融通しつつ万物を構成しており、仏も凡夫もその点では変わりがない。仏の法身と凡夫とは同じものであるから、そのことに気づけば悟りが得られる(もっとも、実際にはここに三密などの要素も加えられます)、ということを説きます。空海が日本の本覚思想の根幹をつくった張本人だそうですからここに見られるのが「本覚思想」的ロジックであるのは当然のことですが、それにしても日蓮の「三世〜」の内容と重なるところが多いと思います。「南無妙法蓮華経」とは「真言」そのもののようにすら見えます。
日蓮の方法論が是とされ、空海のそれが非とされるとするならば、そこでの論点は方法論自体の優劣によるというよりは、その方法論を誰が説いたのか、ということになってきそうです。私の勝手な憶測では、空海の「本覚思想」ロジックが日本天台に流入し、日蓮はその日本天台の思想を学び「悟り」の方法論をそこから形成したので、日蓮の思想には空海の影響が間接的に、しかし強く反映していたのではないでしょうか。が、日蓮は同時に正しい法は一つであるべきであり、仏教である以上それは釈迦の説いたものでなければならないと考えていた。そこで日蓮は密教は釈迦が説いた説ではないからだめで、真言宗は天台の教義を盗んだものだから否定されるべきだ、という理由で真言宗を攻撃したのであろうと思います。
しかし、例えば日蓮の言う通り空海が天台をパクったのだとしても、それで彼の成仏方法論の有効性にキズがつくわけではないと思うので、日蓮の真言宗攻撃はどうもフェアさを欠いているように感じます。
いずれにせよ、日蓮仏法のアイデンティティにとっては「法華経を釈迦が実際に説いた」というところが必須なのでしょう。もしここを放棄してしまうと、日蓮の成仏方法論は真言密教などのそれとの間に本質的な差異を失ってしまいかねない。日蓮の「悟り」観が「本覚思想」的である、と思えば思うほど、私の考えはこういう方向に傾いてしまいます。
31 :
第7の外道:2000/08/24(木) 02:02
愚乱破さん
真言宗を引き合いに出したついでに日蓮の「真言天台勝劣事」「法華真言勝劣事」などといった真言宗がらみの御書を読み始めてみたのですが、正直日蓮の論理には納得しがたいものを感じます。
ここには天台の五時八教説に基づいた、ということは法華経第一主義を前提とした真言宗批判が展開されているわけですが、ここには両者を客観的視点から比較し優劣を決めるという姿勢は無く、ただ天台の立場から真言を裁断する、という姿勢で一貫しています。無論、完全な「客観」などというのは不可能であるにしても、少なくともどちらか一方の立場をとらない者に対しても発揮されるような説得力というのは、かなり欠けているように思われます。
ただ日蓮の論が有利となるのは、一切経を釈迦が実際に説いており、全ては釈迦の説であるという前提が当時の仏教者の間では共有可能だった、ということでしょうか。というのも、天台の五時八教説は、「一切経を釈迦が説いた」という前提に立つならば非常に効果的に組織化がなされていると思われるからです。
しかし、「一切経を釈迦が説いた」という前提が破棄されるなら、五時八教説も当然正当性を失い、日蓮の真言に対する批判もほとんどが根拠を失うと思います。(全てではありません。ここには「法身」観についての議論もわずかながらなされており、この点については詳しい検討が必要かと思われます。)
なお、私は真言宗擁護の立場に立つ者では全くありません。ただ「本覚思想」をキーワードにしてみると、真言宗を引き合いに出すのが一番比較しやすい、と思って出してみただけです。
32 :
第7の外道:2000/08/24(木) 02:03
続きです。
現段階での暫定的な感想ですが、日蓮の「悟り」観は「本覚思想」的で、その点に限って言えば他の「本覚思想」的前提に立つ立場(例えば真言宗)と比べてさほどズレがあるわけではない。そこで次は「悟り」に至る方法の問題になるわけですが、この点では「南無妙法蓮華経」の唱題がその方法である、とする根拠は非常に見えにくい。が、「唱題」(ひいては三大秘法)を成仏方法論として最も優れているとするためには、天台から受け継いだ五時八教などの説(法華経は釈迦が説いたとする説、ひいては一切経を釈迦が説いたとする説、そして釈迦が説いた一切経の中では法華経が最第一であるとする説、など)を正しいものとして前提することが必須であることは確からしい・・・。
ここでは「本覚思想」自体の是非を問うつもりはありませんが、私にとっては日蓮の「三大秘法」説が成仏方法論として他と比較しても一層有効である、とする根拠が全く納得できていない状況で、今のところ日蓮を読めば読むほど彼に対する疑念が高まってしまう一方なのです。愚乱破さんは以前「法華経は釈迦が説いたとしなければ日蓮仏法の正当性はかなり失われてしまう」という旨のことをおっしゃっておられたような記憶があります。また「大集経」などを引用されてもいましたが、例えば五時八教説などを正しいものとして受容されておられるのでしょうか? また上のような私の意見にはどのような感想をお持ちでしょうか? ご返答はお暇なときに、後回しで結構です。
33 :
若葉マーク:2000/08/24(木) 08:29
愚乱破さん
解説を頂きありがとうございます。
第7の外道さんも、戻ってこられたようですから、そちらの論議を優先させて
ください。 私は、墓穴を掘りそうなので、そろそろ遁走します・・(^^ゞ
>ご指摘の宿王華菩薩への付嘱は、薬王菩薩本事品を付嘱されたことを説かれてい
>るようですね。
>ですので、末法に法華経を広められるお方は文上では上行菩薩でよろしいと思い
>ます
法華経を末法で広めるのは、上行菩薩でよいと思いますが、薬王菩薩本事品を
付嘱されたのは、宿王華菩薩でありますから、
「我滅度後 後五百歳中 広宣流布・・・」を付嘱されたのは、上行菩薩では
なく、文上では宿王華菩薩ですよね。
それを、日蓮である と言ってしまうのはどうしてか? という疑問です。
宿王華菩薩=上行菩薩=日蓮 ですか?
上行菩薩は、法華経を付嘱されたのだから、その中にある薬王菩薩本事品も
付嘱された→だから、これは上行菩薩に付嘱されたとしてもいい というは
強引すぎるような・・・。
34 :
愚乱破:2000/08/24(木) 10:19
第7の外道さん<
> 愚乱破さんは今若葉マークさんと議論されておられるのですか(私には議論の
> 焦点がまだよく見えていませんけども)?
前のスレッドが読めなくなったため(<簡単には)、解かり難くなりましたね。
実は、第7の外道さんあての 23〜25(前の969@`970@`972)に対して若葉マークさん
から、次の様な疑問が寄せられました。それに対する私の最初の返事がここの11
の書きこみです。
ですので、まだ議論の流れが変わったという訳ではないと思います。
若葉マークさんは私より学会教学に詳しい方のようですね(^^ゞ
35 :
愚乱破:2000/08/24(木) 10:23
977 名前: 若葉マーク 投稿日: 2000/08/11(金) 16:07
愚乱破さん
直接、レスするのは初めてかと思いますが、第7の外道さんとのやり取りをみて
いて、よく分からないことがありまして、質問させて頂きます。
HN通り、仏教には疎いものですから、勘違いもあると思いますが、よろしく
お願い致します。
> たしかに!、ただし、迷いの中にあるうちは「如来」とは言えず、覚りを開いた
> 時、初めて万人が、「如来」になるわけですね。
第7の外道さんとの論議の中で、「覚りを得る手段」について述べられていたと
思います。 愚乱破さんのお立場としては、「法華経」を信仰することが、
(ただ?)1つの手段であるとのお考えかと思います。
無信仰の私のような人間からみれば、法華経を信仰することで、覚りを開く
ことができる=現実に覚りを開いた人が実存する ということによって、それ
を肯定することが可能になります。「覚り」というものをどのように定義する
か?という問題もありますが、日蓮が御本尊を表された以降において、「覚り」
を開いた人は、どのくらいいるのでしょうか? これによって、法華経及び、
日蓮仏法が、「覚りを得る手段」として有効なのかどうか? を判断したいと
思います。
> さらに次の五百年(末法)には 必ず争いが起こり白法(釈迦の教え)が隠没すると
> 説かれているそうです。
> ・・・ので、釈迦は末法に有効な教えを説く仏では無いということになりますね。
釈迦の教え(=法華経)は、末法において無力 ということでよいのでしょうか?
「釈迦は末法に有効な教えを説く仏では無い」ということは、末法においては
釈迦以外の仏が(釈迦の教えと異なる)有効な教えを説かなければならない
ということですか?
> また、薬王菩薩本事品第二十三に「我が滅度の後・後五百歳の中に広宣流布・・・」
> と説かれ ておりますので、必ず末法に釈迦に替わって教えを広める仏がお一人顕れ
> るはず です。
> で、その通りにご出現されたのは日蓮大聖人以外にないと思うのですが・・・
「我が滅度の後・後五百歳の中に広宣流布・・・」は、宿王華菩薩に対して
言った言葉ではないのでしょうか?
以上、よろしくお願いします。
36 :
愚乱破:2000/08/24(木) 10:24
若葉マークさん<
> Aにおいては、「どんな状況に有っても」つまり、悩みが存在したままで
> も、生きていくことを楽しめる境涯になることが、幸福ということでしょうか。
> 「相対的幸福」ではなく「絶対的幸福」だと、戸田氏は言っていたと思いますが
> @というのは、ある意味で「相対的幸福」ではありませんか? 学会が目標にす
> るのは、「絶対的幸福」のはずでは?
大体そう言う意味で書いたのですが・・・@での悩みは祈っていれば自然に解決
するのではなく解決するための智慧と生命力が湧いてきて自分の力で解決してい
けるという感じだと思います。
その体験を通じて、唱題によってどんな悩みでも克服できるという自信を持つこ
とにより、将来への不安が無くなり、難をも成長の糧として楽しみに変えること
のできる境涯になれる。(=絶対的幸福境涯)・・・ということだと思います。
> 悪縁に遇うか善縁に遇うかで、別のものになるということではないでしょうか?
> 迷悟というのは、表裏一体であるが、その状態というのは、相反するものであると
> 考えます。
迷悟は縁によって生ずる状態なので相反するようでも、別のものではない(=普変
真如) という意味で書いたのですが・・・だから解かり難い。(笑)
37 :
愚乱破:2000/08/24(木) 10:25
若葉マークさん<
> そもそも、覚りを開くとか,成仏できる とか、そのような考え方をすること自体
> 問題であるような気がします。
仰る意味が良く解かりませんが、仏教(特に大乗)を否定されているように受け取
れるですが??
> 人の心の状態を計り知ることなど不可能だと思います、一見、仏のような振る
> 舞いをしている人でも、ストレスを溜め込んでいるかもしれませんし・・・(笑)
そうですねぇ、疑えばきりがない、疑い無きを信と言うですかねぇ・・・
> つまり、この事例から見ても唱題は「絶対」ではないのです。 唱題したからと
> 言って、立派な人になるとは限らないということです。
この例から結論を導くには、その人達が本当に十年以上も勤行・唱題を続けてき
たのかが大事になりますね。
私には「勤行・唱題をしても変わらない人もいる。」ではなくて「唱題をきちん
としていない活動家や幹部といわれる人が以外に多い。」ような気がします。
超活動家だけど勤行を全くしていない人がいて後に問題を起こした例などを耳に
したことがあります。
38 :
愚乱破:2000/08/24(木) 10:49
若葉マークさん<
> 上行菩薩は、法華経を付嘱されたのだから、その中にある薬王菩薩本事品も
> 付嘱された→だから、これは上行菩薩に付嘱されたとしてもいい というは
> 強引すぎるような・・・。
薬王菩薩本事品は法華経に対する身の供養の功徳を説いた経典ですので、後五百
歳に広められる(<上行菩薩が)法華経をこの経典のように、またこの経典を広め
て守護していきなさい。・・・という意味だと思うのですが。
39 :
愚乱破:2000/08/24(木) 12:03
第7の外道さん<
> 「覚りが得られる手段」を検討する方法論をはっきり示せということでしょうか?
いえ、検討すべき「覚りが得られる手段」をご存知でしょうか?という質問です。
> ここでなぜ「一人」と限定しなければならないのかが私にはわかりません。
> 何人いてもよさそうな気がします。
「一人」と限定することが、不合理ではないと思いますし、経典にも説かれてい
る、そしてその「一人」の教えを実践して結果が得られたという人が多く存在し
ている。・・・ので正しいと信じたのですが・・・
正直、何人いてもよさそうだとも思いますが、現実にいますでしょうか?
もしいたとしたらその人(仏)達はお互いを認めるはずですね。
> どうして唱題すれば「覚り」が得られるんですか? 愚乱破さん自身はどう考
> えてらっしゃるのでしょうか。個人の見解というので結構です。
結局、ここに戻りますね、哲学と宗教の違いでしょうか?法華経初心成仏抄に…
「我が己心の妙法蓮華経を本尊とあがめ奉りて、我が己心中の仏性、南無妙法蓮
華経とよびよばれて顕れ給う処を仏とは云うなり。譬えば籠の中の鳥なけば空と
ぶ鳥のよばれて集まるが如し。空とぶ鳥の集まれば籠の中の鳥も出でんとするが
如し。口に妙法をよび奉れば我が身の仏性もよばれて必ず顕れ給う。」
とありますが、この譬は解かりますので、そんな仕組(笑)なんだろうと思います。
40 :
愚乱破:2000/08/24(木) 14:44
第7の外道さん<
> 愚乱破さんは以前「法華経は釈迦が説いたとしなければ日蓮仏法の正当性はか
> なり失われてしまう」という旨のことをおっしゃっておられたような記憶があ
> ります。また「大集経」などを引用されてもいましたが、例えば五時八教説な
> どを正しいものとして受容されておられるのでしょうか? また上のような私
> の意見にはどのような感想をお持ちでしょうか?
ええ、そのように言ってましたね、ひゃっきまるさんにはなかなか解かって貰え
ませんでしたが・・・でも後では拘らなくても良い気がしてきましたけど。
しかし、未だ釈迦説を信じていることには間違いありません。五時八教説も正し
いものと考えております。
ただ、真言宗の経判では法身如来か三身如来かの違いに重点を置いていませんで
したか?
法華経が釈迦説でなければ、日蓮仏法の正当性が失われるとか以前に、法華経の
思想性がどんなに高くても釈迦の名を騙って説かれた経典などを信ずることはで
きません。・・・そんなことをした合理的根拠が発見?されない限りは・・・
哲学じゃないんですから(笑)
------------------------------------------------------------------------
釈迦説には拘らないということと矛盾してますが、日蓮大聖人が末法の御本仏で
ある限り、大聖人の御説法は、何でも有りかなと思います。現在の文証は御書で
すので法華経は不要です。 < が、これは、我見です。 墓穴を掘ったかな!!
41 :
若葉マーク:2000/08/24(木) 23:43
愚乱破さん、こんにちは
>> そもそも、覚りを開くとか,成仏できる とか、そのような考え方をすること自体
>> 問題であるような気がします。
>仰る意味が良く解かりませんが、仏教(特に大乗)を否定されているように受け取
>れるですが??
そうですね、こりゃ仏教を否定してますね・・・(笑)
”覚り”という概念は理解できたとしても、それを実現できない(できているのかわからない)、言葉は適当ではありませんが、”絵に描いた餅”みたいなもののような気がしてきました。 釈迦はそんなものを追い求めるように教えたのだろうか?と。法華経で繰り広げられる授記を読みながら、仏になることに拘っているようじゃ、仏になれないんじゃないか? と思いました。(爆)
>そうですねぇ、疑えばきりがない、疑い無きを信と言うですかねぇ・・・
確かにそうかもしれません・・・私のような愚者は、疑い無きを盲信と言ってしまいます・・・(^^;)
>私には「勤行・唱題をしても変わらない人もいる。」ではなくて「唱題をきちん
>としていない活動家や幹部といわれる人が以外に多い。」ような気がします。
私の知人は、唱題はきちんとやっていると思います。 外部の私でもそう感じるくらい強信者です。日蓮の批判でもしようものなら、顔色が変わります。愚乱破さんの仰る通り、きちんと唱題していないことによって、”立派な人”になっていないのであれば、私の周りいる学会員は、みんなきちんと唱題していない人になってしまいます。きちんと唱題もしないような人が、幹部になってしまう組織というのは、正常ですか? そこでは、自浄作用は働かないのではないでしょうか? 学会が、”立派な人”の集団であれば、この掲示板がこれほど賑わうことはないはずです。
42 :
第7の外道:2000/08/25(金) 01:56
愚乱破さん
>いえ、検討すべき「覚りが得られる手段」をご存知でしょうか?という質問です。
無論私自身が覚りを得ているわけではないのですから、確実に責任を持って「これがそうだ」と言えるものは未だ知りません。「覚り」に至るための様々な方法論について知識はある程度持っている、という程度です。
>法華経初心成仏抄に… (以下略)
とても解りやすく、また詩的だとさえ言える譬だと思います。ただ愚乱破さんはそうではないにせよ、こういう鳴き声をやかましいと思って疎む者は地獄行き、という主張を一方で付け加えるのは頂けないと思いますが・・・。鳥によって鳴き声はいろいろ、そこから呼び出されるものもいろいろなんでしょうね。
>ただ、真言宗の経判では法身如来か三身如来かの違いに重点を置いていませんでしたか?
確かにそうでした。この論点は今後の検討課題です。
43 :
第7の外道:2000/08/25(金) 01:57
>未だ釈迦説を信じていることには間違いありません。五時八教説も正しいものと考えております。
>法華経が釈迦説でなければ、日蓮仏法の正当性が失われるとか以前に、法華経の
>思想性がどんなに高くても釈迦の名を騙って説かれた経典などを信ずることはで
>きません。・・・そんなことをした合理的根拠が発見?されない限りは・・・
>哲学じゃないんですから(笑)
>日蓮大聖人が末法の御本仏である限り、大聖人の御説法は、何でも有りかなと思います。現在の文証は御書ですので法華経は不要です。
こんなこと言っちゃっていいんですか? 学会員として? ちょっと心配になります(笑) それはともかくこれは、愚乱破さんに「覚りへの道」を示したのが日蓮であったから、その日蓮の発言や説を信じるということなのでしょうか? それとも、日蓮が言おうと言うまいと、他説と比べて五時八教説には客観的妥当性がある、という旨の主張なのでしょうか? 前者であるならば(前者であるように思いますが)、愚乱破さんにあっては日蓮という「人格(?)」への全面的信頼は、直ちにその「発言」の全肯定へと直結するものなのでしょうか? そして「御書」はちょうどクリスチャンにおける聖書のように、人間による判断から隔絶した一種の「啓示」の書ということになるのでしょうか?
ちなみに私の立場はその「哲学」ということになりそうですね(笑) ただ愚乱破さんの立場ですと、発言や主張の内容ではなく、それを誰が言ったかのほうが重要視されることになりそうですが・・・なんとなくそれは「依法不依人」には抵触しそうな感じがするのですが・・・。私はまさに法華経を誰が説いたかはさしあたって重要ではなく(別に誰でもいい)、できればその思想性を主要な問題にしたいと思う人間ですから、この点は正反対になるようです。
44 :
昼行燈:2000/08/25(金) 03:17
久しぶりの訪問です。
愚乱破さん
>未だ釈迦説を信じていることには間違いありません。五時八教説も正しいものと考えております。
法華経が釈迦直説の根拠は何処に有るのでしょうか?
学術的に、何らかの証拠でも出たのでしょうか?
部派仏教からは、大乗経典が登場した時から、大乗非仏説を唱えられていますが、大乗釈迦説の
依って立つ根拠は明確にされてはいないと思います。
大乗経典は「釈迦直説である」と断言できる資料は何処にあるのでしょう。
45 :
昼行燈:2000/08/25(金) 03:31
五時八教説を考える。
経典の思想性はとりあえず語りません。
天台智は、成道した釈迦は21日間説き、次いで阿含経を更に般若経を、方等経を説き
最後の8年間を法華経を説いた。と述べています。
さて、華厳経には成道した直後の釈迦が「祇園精舎」で説法されています。
弟子として、舎利弗・目連や、大勢の弟子の名も登場します。
仏伝(阿含経典に基づく)に依れば、初転法輪時の説法相手は五比丘ではなかったでしょう
か。祇園精舎も後に喜捨されたものだと思います。それが、悟りを開いた直後に弟子は数万
人を数え、雨安吾の為に喜捨された祇園精舎も既に建っていた・・・・。
おかしくはないですか?
46 :
みさき :2000/08/25(金) 07:32
>大乗釈迦説の 依って立つ根拠は明確にされてはいないと思います。
<ア−ガマ&大乗>
・・・・上述したように、それはすべて口唱によって長期にわたり伝承されてきたものを継承しつつ総括しており、しかも伝承の間に付加や増大(増広)、縮小や、削除(損耗)、また変更や、再構成など、一言であらわせば原型の変貌をかなり多く被っている。
現存のア−ガマをそのまま「釈尊の教え」に直結することは、あまりに短絡しすぎており、今日の仏教学からすれば、むしろ誤りとみなされる。
整備されたア−ガマの教蔵も、当時はいまだにその原型にとどまっており「第二回結集」によって部派の分裂があり、さらに細分裂に長い年月を要して、ようやく諸部派の成立したのちに、各部派による再び新たな教典整備のもとで、ここにはじめて現在に伝わる諸テクストがほぼ確定した。
すなわち「パ−リ−五部」にせよ、漢訳の「四阿含」にせよ、いずれもある特定の部派の所属に帰するものであって、これらがそのまま仏説ないし釈尊直説(金口の説法)であるかのごとく考えるのは、きわめて無理があり、むしろ到底許容され得ず、極言すれば、荒唐無稽であると称してもよい。
いわゆる大乗仏教運動はかなり穏やかに」進行して、けっして突発的なものではない。また、そのイデ−(理念)や活動の方向も、一種類のみでなくて、多岐・多種にわたり、それら多数の諸運動の連携は、それほど蜜ではなく、不明なところが多い。
またようやくその姿を鮮明にした新たなる大乗の諸教典は、子細に検討してみると、すでに初期教典に説かれていた、ある思想なり、術語なりを、いわば種子から萌芽へ、萌芽から大輪の花へ、確固たる果実へと進展させ、結晶させた跡もあり、見方によっては、、大乗仏教が、初期仏教とある形で連絡して通じあうところは必ずしも少数ではないことが、承認されている。
バウッダ(中村・三枝)小学館ライブラリ−より
47 :
愚乱破 :2000/08/25(金) 10:22
昼行燈さん<
こんにちは、
法華経非釈迦説(大乗非仏説)については、私にはその知識が乏しいため議論でき
ません。
ただ、45の五時八経の矛盾は、天台の時代に知り得たことだと思われますが、天
台・伝教・日蓮などは無視した若しくは気付かなかったと仰るのですか?
南三北七や南都六宗もそのことを指摘できたはずですね。
これについてどうお考えですか?
みさきさん<
おひさしぶりです。
書きこみありがとうございます。大変勉強になります。
48 :
愚乱破 :2000/08/25(金) 12:02
第7の外道さん<
> こんなこと言っちゃっていいんですか? 学会員として? ちょっと心配にな
> ります(笑)
ハハ、引用で“我見”を抜かないで下さい、しかもややジョークなんですから(笑)
> 愚乱破さんにあっては日蓮という「人格(?)」への全面的信頼は、直ちにそ
> の「発言」の全肯定へと直結するものなのでしょうか?
「依法不依人」ですね、大丈夫です、南無妙法蓮華経は人法一箇の三大秘法総在
の大御本尊ですから・・・
「師匠が白だと言えば黒も白と信ずる」ですか、「何と仰られても黒は黒だ」で
は何のための師かということになりますね、盲目的に信じては駄目ですが、何故
そう指導されるのか深く思索することは大事だと思います。どうしても解からな
ければさらに指導を求めるか、一応信じて実践してみるとかになるでしょう。
> 「御書」はちょうどクリスチャンにおける聖書のように、人間による判断から
> 隔絶した一種の「啓示」の書ということになるのでしょうか?
それは全く違うと思います。御書は姿を知ることができない神の言葉ではありま
せんから。 (文底さんに突っ込まれるかな・・・)
> 私はまさに法華経を誰が説いたかはさしあたって重要ではなく(別に誰でもい
> い)、できればその思想性を主要な問題にしたいと思う人間ですから、この点
> は正反対になるようです。
私には思想性の評価が良くできないので、誰が説いたかを重視するのでしょうね。
しかし、その人がどのような法を持っているかを意識してはいますけど・・・
49 :
みさき :2000/08/25(金) 13:33
> 愚乱破 さん
「大白蓮華」に 仏教入門・(インド仏教の歴史)が連載されてますね。
’99/11月号の 連載41回では
阿含部経典は、口伝によって伝えられ、徐々に現在のような形にまとめられ、紀元前一世紀のころから文字で記録て、書物の形をとっていった。これに対して、現存の大乗経典は、一世紀ごろから明確なかたちをとって現れてくるくるから、阿含部経典より百年から二百年ほど遅れて登場していることになる。
しかし大乗経典そのものの起源は、紀元前一世紀ごろにあるとされ、学者によっては、さらに早い紀元前二世紀ごろには、原始的大乗経典は、既に成立していたと推測できると主張している。
こうした説に従えば阿含部経典と初期大乗経典とは、実際には、ほぼ同時期に文字化された経典として登場していたことが推測される。
またある学者は、比丘には「学法者」と「修定者」の二種類があったことが、阿含部経典に記録されていることを指摘し、学法比丘の系統は上座部となったが、実践を主とした修定比丘は教団の表面に現れることなく、その記録はほとんどつたえられなかったと指摘している。
引用以上
仏典結集には、「修定者」や「在家信徒の集団」等に伝わる教法などが、もれている可能性はあるのでしょう。
50 :
愚乱破 :2000/08/25(金) 13:46
若葉マークさん<
こんにちは、
> 私の知人は、唱題はきちんとやっていると思います。 外部の私でもそう感じ
> るくらい強信者です。日蓮の批判でもしようものなら、顔色が変わります。
そうなんですか???
> きちんと唱題していないことによって、”立派な人”になっていないのであれ
> ば、私の周りいる学会員は、みんなきちんと唱題していない人になってしまい
> ます。
う〜ん、困りましたねぇ、しかし、唱題って難しいんですよ。会合とか、唱題会
なんかでは(人目があるから)できても、誰も見ていないところでもちゃんとでき
てる人って?
ただ、信心する前との比較でもだめですか? 私などは何年もの間、勤行をきちん
と続けているというだけでも尊敬してしまうのですが・・・
> きちんと唱題もしないような人が、幹部になってしまう組織というのは、正常
> ですか? そこでは、自浄作用は働かないのではないでしょうか?
組織としては活動状態が中心ですから、家庭訪問で面談したり仏壇の状態などを
見て判断されるようですが、唱題の状況まではなかなか解からないと思います。
弘教をどれだけ実らせているかというのは相当考慮されるようです。相手からも
尊敬されるような人でないと入会には至らないからでしょう。
(若葉さんの周囲の人はどうですか? ・・・って解かりませんよね)
地域社会にも信頼されるような行動をという指導はかなり徹底して行われていま
すが、具体的なことは本人の判断ですし・・・
問題が起こってしまえば、指導したり役職を変えたりはあるようです。
51 :
愚乱破 :2000/08/25(金) 14:02
みさきさん<
あ、ありがとうございます。
なるほど、なるほど! 恥ずかしながら、この頃はあまり興味を持っていなかっ
たので、しっかり読んでいませんでした(^^ゞ
でも、外部の人は学会の出版物の記述では納得しないんでしょうねぇ
52 :
昼行燈 :2000/08/25(金) 23:22
バウッダの語はブッダから派生し、ブッダは第一に「ゴーダマ・ブッダ(釈尊)に、そして第二に、釈尊
からは歴史的に遠く離れた「大乗の諸仏」に連なる。そのために、当然のことながら、「釈尊」と「大乗の
諸仏」とは判然と裁断される。
わが国の伝統教学はその配慮を怠り、関心さえ示さず、しばしば偏見と誤解とを交えた仏教が氾濫して、
現在もなおそれが喧伝され、この風潮は山積みされた仏教書の多くもほとんど変わっていない。(略)現状
では時代錯誤もはなはだしい。
釈尊とその弟子たちとの言行を伝える【唯一の】資料である阿含経典は、百余年(別説、二百余年)間の
口伝を経て、ようやく原形に整備された。さらに、釈尊入滅後数世紀を隔てて、新たなる「大乗の諸仏」が
登場し、大乗諸経典(キリスト教ではあり得ない新しい聖書)が大量に創作された。
〜バウッダ・佛教・ 中村元 三枝充悳 小学館〜
みさきさん
上記部分は省略ですか?
53 :
昼行燈 :2000/08/25(金) 23:24
続きです。
>またようやくその姿を鮮明にした新たなる大乗の諸教典は、子細に検討してみると、すでに初期教典に説
>かれていた、ある思想なり、術語なりを、いわば種子から萌芽へ、萌芽から大輪の花へ、確固たる果実へ
>と進展させ、結晶させた跡もあり、見方によっては、、大乗仏教が、初期仏教とある形で連絡して通じあ
>うところは必ずしも少数ではないことが、承認されている。
またようやくその姿を鮮明にした新たなる思想(佛教の諸教典)は、子細に検討してみると、すでにバラモ
ン教典の諸経典で説かれていた、ある思想なり、術語なりを、いわば種子から萌芽へ、萌芽から大輪の花へ、
確固たる果実へと進展させ、結晶させた跡もあり、見方によっては、、佛教が、バラモン教とある形で連絡
して通じあうところは必ずしも少数ではないことが、承認されている。(事実、バラモン教{ヒンドゥ化し
た)では、佛教はバラモン教の一派と考えられている})
故に、みさきさんの主張を飲むならば、「佛教とはバラモン教(外道の教え)である。」と断じても、
良いのでしょうか。
54 :
昼行燈 :2000/08/25(金) 23:25
更に続きです
>こうした説に従えば阿含部経典と初期大乗経典とは、実際には、ほぼ同時期に文字化された経典として登
>場していたことが推測される。
>またある学者は、比丘には「学法者」と「修定者」の二種類があったことが、阿含部経典に記録されてい
>ることを指摘し、学法比丘の系統は上座部となったが、実践を主とした修定比丘は教団の表面に現れるこ
>となく、その記録はほとんどつたえられなかったと指摘している。
平川彰氏等の説ですよね。
【その記録はほとんどつたえられなかった】のに、何故推測出来るのでしょうか?
『大智度論』や『金剛仙論』(*1)等には、「この鉄囲山(*2)の外において、文殊や十方の仏たちと
ともに、大乗の経典を編纂した」とあります。大乗が編纂された最初の根拠となる文は、その他にあります
か?
*1大正新修大蔵経・巻1参照 *2(鉄囲山)須弥山をとりまく一番外側の山。四洲(宇宙)を取り囲
んでいる山。
みさきさんの語り口は、その前後の都合の悪い箇所を省略していると思われるので、論じるのは辛いので
すが、(〜バウッダ・佛教・ 中村元 三枝充悳 小学館〜162P以降は何故無視されるのか…)
元来、経典(仏教以外のものも含む)や金文石に依って論ずるべき問題を、学者の方々の「可能性に基づ
く推測」で論じる事は、依法不依人と豪語する日蓮門下として、如何なものでしょう。
先の初転法輪問題に於ける「華厳経の記述の矛盾」についても、沈黙を守られますか?
55 :
昼行燈 :2000/08/25(金) 23:28
愚乱破さん
>法華経非釈迦説(大乗非仏説)については、私にはその知識が乏しいため議論でき
>ません。
>ただ、45の五時八経の矛盾は、天台の時代に知り得たことだと思われますが、天
>台・伝教・日蓮などは無視した若しくは気付かなかったと仰るのですか?
>南三北七や南都六宗もそのことを指摘できたはずですね。
>これについてどうお考えですか?
残念ながら、天台智の時代には、知り得なかったと断言できます(証拠もありますよ)が、
今回は論じる時間がありません。
一言だけ加えれば、律令制度下の「官僧」の立場からは、無視するしか無いでしょうね。
日蓮に至っては、一切経は(非仏説に関して)無視する以前に、疑ったり思考した形跡も
ありません。
56 :
昼行燈 :2000/08/25(金) 23:41
みさきさんに一言追記
>仏典結集には、「修定者」や「在家信徒の集団」等に伝わる教法などが、もれている可能性はあるのでしょう。
その根拠となる物証を提示できますか?可能性ならば、「イエスの復活は本当である可能性
もある」「釈迦は悟らなかった可能性もある」等々、言いたい放題ではありませんか?
可能性は根拠を提示できなければ、戯れ言に過ぎません。
57 :
第7の外道 :2000/08/26(土) 01:26
愚乱破さん
>「依法不依人」ですね、大丈夫です、南無妙法蓮華経は人法一箇の三大秘法総在
>の大御本尊ですから・・・
ここですが、「南無妙法蓮華経は人法一箇の三大秘法総在の大御本尊ですから」という主張の正当性は、愚乱破さんにあっては「覚りの方法論」の妥当性の検討によるものではなく、「日蓮がそう言ったから」というところで得られているのではないのですか?
>> 「御書」はちょうどクリスチャンにおける聖書のように、人間による判断から
>> 隔絶した一種の「啓示」の書ということになるのでしょうか?
>それは全く違うと思います。御書は姿を知ることができない神の言葉ではありま
>せんから。 (文底さんに突っ込まれるかな・・・)
ちょっと説明が足りませんでしたネ。無論「御書」は神の言葉ではありません。しかしあるテキスト(ここでは御書)が検証作業や解釈などから独立して「真理」と見なされ「正しい」とされている、しかもその根拠がそれを説いた者に対する「信仰」に基づいている、というのであれば、「御書」を「啓示の書」とする比喩もあながち間違ってはいないと思います。ポイントは、愚乱破さんが「御書」をそういうテキストとして受け取っているのかどうか、ということになると思います。
私はこれを読んでて思いついた。(いや啓示があった、ということに(爆))
上行菩薩は、メシア(マイトレーヤ)=弥勒さんということに。(笑)
うん。これはいけるぞい!(爆)上行菩薩がこれでりっぱに再誕するか、
という理由もできるし、キリスト教ばりに”救済論”が展開できるからな。
ネオ日蓮主義ということで。いきましょうや。(笑)これ私の発案だから
真似しないように。(苦笑)
ふんだ!(爆)本佛論なんてけ飛ばしてやろうぞい!(大笑)
さて御遺文のどこからこじつけるかだが・・・。(笑)なにせ
弥勒さんがでてこないからなあ。大聖人の文のなかには・・・。
どうしませう。(笑)
1、ネオ日蓮主義とメシア上行再誕の試論
(1)上行菩薩の再誕ー>弥勒菩薩(メシア)の登場。
(2)再誕は3Dスパイラル円環説(生命論も同じ)
(3)メシア世界戒壇の設立とメシア世界戒壇以後の世界指導者
(4)佛国土・娑婆世界の教主メシア(寂浄土にあらず)
(5)メシア待望救済論
でも・・・。これやるとマジでキリスト・イスラム・ユダヤ世界から、総
バッシング食らいそうだにゃあ。でもまあいいいか。いつかどうせそうなん
だからん。(笑)早いか遅いかだ。どうせ日蓮系は睨まれてるでしょうしね。
いっちゃいましょう〜〜!どどど〜〜〜んと。(大爆笑)
61 :
昼行燈 :2000/08/26(土) 04:58
波木井坊竜尊@日蓮宗 さん
それって・・・・空海が・・・・
62 :
みさき :2000/08/26(土) 06:34
>52 名前: 昼行燈
> 釈尊とその弟子たちとの言行を伝える【唯一の】資料である阿含経典は、最初期の諸資料の収集される作業は、釈尊入滅の直後の第一回結集において果たされて、阿含経テクストの原型がようやく定まり、それらがさらにあと百年(別説二百年)以上もの間は口伝によつてのみ伝承されて、のちに諸部派の整備、おそらくは再編集を経てから、現存する諸テクストの成立を見たという史実は、あらためてここでも強調されなければならない。
>>46 名前:みさき
・・・・上述したように、それはすべて口唱によって長期にわたり伝承されてきたものを継承しつつ総括しており、しかも伝承の間に付加や増大(増広)、縮小や、削除(損耗)、また変更や、再構成など、一言であらわせば原型の変貌をかなり多く被っている。
現存のア−ガマをそのまま「釈尊の教え」に直結することは、あまりに短絡しすぎており、今日の仏教学からすれば、むしろ誤りとみなされる。
整備されたア−ガマの教蔵も、当時はいまだにその原型にとどまっており「第二回結集」によって部派の分裂があり、さらに細分裂に長い年月を要して、ようやく諸部派の成立したのちに、各部派による再び新たな教典整備のもとで、ここにはじめて現在に伝わる諸テクストがほぼ確定した。
すなわち「パ−リ−五部」にせよ、漢訳の「四阿含」にせよ、いずれもある特定の部派の所属に帰するものであって、これらがそのまま仏説ないし釈尊直説(金口の説法)であるかのごとく考えるのは、きわめて無理があり、むしろ到底許容され得ず、極言すれば、荒唐無稽であると称してもよい。
あなたはこのような、歴史的経緯を、もっていると「バウッダ」で指摘されているのを認めないのですか?。
もし、そうなら反論なされては。>「大乗の諸仏」が 登場し、大乗諸経典(キリスト教ではあり得ない新しい聖書)が大量に創作された。
>みさきさん
>上記部分は省略ですか?
発言者が <関連する事柄、全てに論及していない> 事自体を、批判することに、どのような意味があるのでしょうか?
阿含テキストに関する引用部分は、「切り文」しているとは、思っていません。
大乗に対する引用に不満がおありなら、「非仏説」を堂々と論証されたらいかがですか?。
<続く>
63 :
みさき :2000/08/26(土) 06:37
>53 名前:昼行燈 投稿日:2000/08/25(金) 23:24
>またようやくその姿を鮮明にした新たなる思想(佛教の諸教典)は、子細に検討してみると、すでにバラモ
ン教典の諸経典で説かれていた、ある思想なり、術語なりを、いわば種子から萌芽へ、萌芽から大輪の花へ、
確固たる果実へと進展させ、結晶させた跡もあり、見方によっては、、佛教が、バラモン教とある形で連絡
して通じあうところは必ずしも少数ではないことが、承認されている。(事実、バラモン教{ヒンドゥ化し
た)では、佛教はバラモン教の一派と考えられている})
確認ですが、これは、「バウッダ」からの引用ではなくあなたの主観ですね?。
そこで、原始仏典に種子・萌芽としてあり、大乗で発展・深化された根本的思想として、「空」(縁起)の概念があることは、異論はないと思いますがいかがでしょうか?。
「無我」・「涅槃」・「成仏」「十界互具」等みな「空(性)」を思想的根拠として成立するわけでしょう?。
「空」は、バラモンの「実体論」に対するアンチテ−ゼではないのですか?
竜樹が論争したのは、有部やバラモンの実体論に対してでしょう。
>故に、みさきさんの主張を飲むならば、「佛教とはバラモン教(外道の教え)である。」と断じても、
良いのでしょうか。
あなたの「論旨」はなんですか?。
※54〜56のレスに対しては、書きません。
(これは、私と愚乱波さんとの私的なやりとりです。わたしは、「内部の機関誌」を、外部の対論には使わない原則なので。)
ご不満でしたら、大白編集部と、論争してください。
ところで、昼行燈 さんの「仏説」の定義とはいかなるものなのでしょう?。
あなたは、現存する経典のどこまでの範囲を、仏説と考えているのですか?
レスに答えるのは、あなたの番ですよ。
64 :
みさき :2000/08/26(土) 06:45
<冒頭部分訂正>
62 名前:みさき 投稿日:2000/08/26(土) 06:34
>52 名前: 昼行燈
> 釈尊とその弟子たちとの言行を伝える【唯一の】資料である阿含経典は、
最初期の諸資料の収集される作業は、釈尊入滅の直後の第一回結集において果たされて、阿含経テクストの原型がようやく定まり、それらがさらにあと百年(別説二百年)以上もの間は口伝によつてのみ伝承されて、のちに諸部派の整備、おそらくは再編集を経てから、現存する諸テクストの成立を見たという史実は、あらためてここでも強調されなければならない。
65 :
昼行燈 :2000/08/26(土) 13:25
みさきさん
話をはぐらかしてはいけません。
>最初期の諸資料の収集される作業は、釈尊入滅の直後の第一回結集において果たされて、
>阿含経テクストの原型がようやく定まり、それらがさらにあと百年(別説二百年)以上もの間は
>口伝によつてのみ伝承されて、のちに諸部派の整備、おそらくは再編集を経てから、現存する
>諸テクストの成立を見たという史実は、あらためてここでも強調されなければならない。
阿含経の成立にかんしては、確かにこの通りでしょう。
何処に大乗経典に関して釈迦が述べたと言う根拠が提示されていません。
>発言者が <関連する事柄、全てに論及していない> 事自体を、批判することに、どのような
>意味があるのでしょうか?
>阿含テキストに関する引用部分は、「切り文」しているとは、思っていません。
あなたがどのように思われようと、都合の良い箇所だけ引用するのを「切り文」といいます。
>(これは、私と愚乱波さんとの私的なやりとりです。わたしは、「内部の機関誌」を、外部の対論
>には使わない原則なので。)
私的なやりとりですか?メールを使われたら如何ですか?
このスレッドは誰もが読め、誰もが意見を言える場として存在するのでは無いでしょうか。
書き込まれた事柄に、返事できないなら、「対論」の最中に紛らわしい書き込みはお止め下さい。
第7の外道さんや牛の首さんへと指定したレスに、あなたは意見を述べたではありませんか。
>大乗に対する引用に不満がおありなら、「非仏説」を堂々と論証されたらいかがですか?。
前スレッドで阿育王の法勅金文石や、外典からの言及にも「なしの礫」ですね?
華厳経典の矛盾にも音沙汰無しですね?
>レスに答えるのは、あなたの番ですよ。
明確な答えも頂いていないのに、私の番ですか?
一つ一つ納得して、結論が出てから次の質問されるのが筋ではないでしょうか。
66 :
愚乱破 :2000/08/26(土) 14:13
昼行燈さん<
先に昼行燈さんから提示された五時八教の矛盾についての私からの質問に・・・
> 残念ながら、天台智の時代には、知り得なかったと断言できます(証拠もあ
> りますよ)が、今回は論じる時間がありません。
> 一言だけ加えれば、律令制度下の「官僧」の立場からは、無視するしか無いで
> しょうね。
> 日蓮に至っては、一切経は(非仏説に関して)無視する以前に、疑ったり思考
> した形跡もありません。
とのご返事をいただきました。がこれは五時八教の矛盾ではなく非仏説に対する
ご解答のように感じられるのですが・・・
華厳時とは、伽耶城近くの菩提樹下となっており、舎衛の祇園精舎ではなかった
と思いますし、大聖人も説時について異説があることをご承知で、守護国家論に
「或は阿含経より已後に華厳経を説き法華経より已後に方等般若を説く皆義類を
以って之を収めて一処に置くべし。」と示されています。ので「思考した形跡も
ありません。」には納得しかねます。
67 :
愚乱破 :2000/08/26(土) 14:22
第7の外道さん<
急に議論の流れが変わってきましたね。(本流に戻った)
> ポイントは、愚乱破さんが「御書」をそういうテキストとして受け取っている
> のかどうか、ということになると思います。
信仰に基づいていることは間違いありません。しかし絶対に正しいとして思考停
止してしまうということは無いと思います。
(御書にも誤字・当て字はあるようですしね < ジョーク)
68 :
みさき :2000/08/26(土) 15:13
>65 名前:昼行燈
>話をはぐらかしてはいけません。
はぐらかしてはおりません。
>華厳経典の矛盾にも音沙汰無しですね?
これが45のレスのことを指しているなら、それは、あなたと愚乱破 さんとの議論です。
>阿含経の成立にかんしては、確かにこの通りでしょう。
お認めになるなら、私の引用にたいしてお「切り文」などと非難する根拠もないのでは?。
>何処に大乗経典に関して釈迦が述べたと言う根拠が提示されていません。
46 名前:みさき
またようやくその姿を鮮明にした新たなる大乗の諸教典は、子細に検討してみると、すでに初期教典に説かれていた、ある思想なり、術語なりを、いわば種子から萌芽へ、萌芽から大輪の花へ、確固たる果実へと進展させ、結晶させた跡もあり、見方によっては、、大乗仏教が、初期仏教とある形で連絡して通じあうところは必ずしも少数ではないことが、承認されている。
私の46のレスを、素直に読めば、
@ 釈迦の直言は、現存の最古のテキストからも、厳密には、辿ることは、困難である。
A ア−ガマ同様に大乗からもまた、釈迦の直言に、辿ることは困難である。
という趣旨であるこは、容易に判読できるとおもうのですが・・いかがですか?。
このような見解は、七月に、私がはじめて、ここに書き込んで以来、一貫してると、おもいますが。
>前スレッドで阿育王の法勅金文石や、外典からの言及にも「なしの礫」ですね?
ご不満でしたら、大白編集部と、論争してください。 と申し上げております。
>明確な答えも頂いていないのに、私の番ですか?
一つ一つ納得して、結論が出てから次の質問されるのが筋ではないでしょうか
私も、あなたから今まで、納得のいくレスを、頂いておりません。
>故に、みさきさんの主張を飲むならば、「佛教とはバラモン教(外道の教え)である。」と断じても、
良いのでしょうか。
>>「空」は、バラモンの「実体論」に対するアンチテ−ゼではないのですか?
「空」(縁起)思想がバラモンの思想だという、珍説の解説もよろしく。
69 :
ZEGA :2000/08/27(日) 00:19
>第7の外道さん
話の腰を追って申し訳ないのですが、個人的興味からちょっと聞いてみたいことがあります。
どのような形であれ、「悟り」というような状態があり、そこに至った人間がいるとするならば、何らかの方法でそこに至る事ができる筈です。第7の外道さんは、「もしかしたら、これならいけるかも?」と思えるような(根拠は全く不用です)修行法もしくは戒訓などがありますか?それとも、「悟り」そのものを否定、即ち悟りというのは人生に対する全てについて深く深く納得した状態であり、何ら特殊なものではないというようなお考えをお持ちでしょうか?
もう、全く「なんとな〜く」でいいのです。ヨガとか全の瞑想とか千日回峰とか、なんか神秘的に見えますよね。(僕はやりませんが)
これをタテに突っ込んだりまぜっかえしたりというつもりは毛頭無く、ただ個人的興味から、いろんな人の意見を聞いてみたい、というだけのことです。
ちなみに、この質問は無視して下さっても構いません。このことはさしたる重大事でもないので。
70 :
昼行燈 :2000/08/27(日) 01:43
愚乱破さん
>華厳時とは、伽耶城近くの菩提樹下となっており、舎衛の祇園精舎ではなかった
>と思いますし、大聖人も説時について異説があることをご承知で、守護国家論に
>「或は阿含経より已後に華厳経を説き法華経より已後に方等般若を説く皆義類を
>以って之を収めて一処に置くべし。」と示されています。ので「思考した形跡も
>ありません。」には納得しかねます。
釈迦が悟りを開いた所が。ガヤー(後にブッダガヤー)の菩提樹下ですが、そこから伝道の旅に出かけ、
サールナート(鹿野苑)で説法を始めます。(アショーカ王の石柱からも「初転法輪の場所であったこ
とが確かめられています)
華厳経のステージは七処八会・三十四品で構成されていますね。
初めに寂滅道場会ですが、教主廬舎那仏の悟りの世界と、蓮華胎蔵世界の相と本質が説かれています。
『如是我聞』に続いて、一時、仏、摩かつ提国の寂滅道場に在して始めて正覚を成じたもう。
と、悟りの状況の説明があります。その後の説明は、「教主廬舎那仏の悟りの世界」を様々な菩薩が
様々な場所で説いて行きます。
で、華厳経の中で「十地品」と並んで、重要な最終章「入法界品」で釈迦の説法が始まります。
「その時仏はシュラスーバスティー市(*1)のジェータバナーナータピング園の壮麗な館(*2)
におられて、五百人の菩薩たちと一緒であった」
とありますよね。釈迦の説法の場は、シュラスーバスティー市(*1)のジェータバナーナータピン
グ園の壮麗な館なのですよ。
*1コーサラ国の市 *2スダッタ(給孤長者が寄進したと云われる祇園精舎)
華厳経をお読み下さい。
続く
71 :
昼行燈 :2000/08/27(日) 01:45
【「或は阿含経より已後に華厳経を説き法華経より已後に方等般若を説く皆義類を
以って之を収めて一処に置くべし。」と示されています。】
守護国家論のこの文の前後は御存知ですよね。
『「亦・如来は初生・成道・転法輪皆八日を以てす何ぞ仏の涅槃独り十五日なるやと云う」と大部の
経大概是くの如し此より巳外諸の大小乗経は次第不定なり、或は阿含経より已後に華厳経を説き』云々
「如来の初生・成道・転法輪皆八日を以てす」と云うことは、どれも同じことが書いてありますよ。
だから【収めて一処に置くべし】なのでしょう?
続きです
【「思考した形跡も ありません。」には納得しかねます。】
守護国家論に引用された経典の文は、五時経判へ誘うためののこじつけで、「始めに結論ありきで」あ
思考とは異なります。
72 :
第7の外道 :2000/08/27(日) 02:28
愚乱破さん
>急に議論の流れが変わってきましたね。(本流に戻った)
確かに。ただ今の流れを見ていると、どうも肝心なところがかみ合っていないように見えて仕方がありません。昼行燈さんは「大乗仏典は釈迦直説ではない」という態度を打ち出しているのに対し、みさきさんは必ずしも「大乗釈迦説」を打ち出しているわけではないので、そこに食い違いの原因があるようです。ただ、46のみさきさんの発言が、文脈上、直前の昼行燈さんのレスに対する反論を意図したように見えてしまうところがポイントとなっているようです。
因みに第3者的感想を申せば、みさきさんは「私の46のレスを、素直に読めば、(中略)A ア−ガマ同様に大乗からもまた、釈迦の直言に、辿ることは困難である。という趣旨であることは、容易に判読できるとおもうのですが」とおっしゃっていますが、46のレスだけをとれば、それは容易には判読できない――少なくとも、「@ 釈迦の直言は、現存の最古のテキストからも、厳密には、辿ることは、困難である。」と同等のウェイトでは読めない――と見えます。 むしろみさきさんの一連の引用は、大乗経典もアーガマも、釈迦の直説に対する関係にはさほど違いは無い、ということを主張したいかのように見えます。この「見える」という部分と、みさきさん自身の意図とに微妙なズレがあるように感じられます。
しかし議論の内容自体は意味深いので、しばらく趨勢を見守りたいですね。
>信仰に基づいていることは間違いありません。しかし絶対に正しいとして思考停
>止してしまうということは無いと思います。
(御書にも誤字・当て字はあるようですしね < ジョーク)
了解しました。ただくどいようですがもう一度確認させていただきますと、愚乱破さんが例えば「五時八教説」や「法華経釈迦説」を正しいとしてらっしゃる第一の根拠は、文献学的アプローチや経典の内容等についての比較思想的考察からの結論ではなくて、「まさに日蓮がそれらの説を支持したから」という信仰上の要請からである、と見ておいてよろしいわけですか? それを確認させていただければ的外れな問題提起などはしなくてすみそうなので・・・。
73 :
第7の外道 :2000/08/27(日) 02:58
ZEGAさん
「悟り」についての話ですが、いい突っ込みをいただきました(笑) 私も個人的興味から是非つっこんで人と話したいと思っているテーマでして、「このことはさしたる重大事でもない」とは毛頭思っていませんのです。ただこのスレッドでその話をするのはどうでしょうか・・・? ここで簡単にご返答させていただきますので、話が展開しそうであれば、「心と宗教」のほうにスレッド立てて続きをやりたいと思うのですが、いかがですか?
ZEGAさんの言い方を借りれば、私の感覚では「悟り」は「人生に対する全てについて深く深く納得した状態であり、何ら特殊なものではないというような」考えに近いものを持っています。「神秘体験」というのとはかけ離れていますし、別に「三十二相八十相好」や「永遠の命」を持ちたいなどとも思っていません。死んで浄土に生まれたいとも少しも思いません。どちらかというと「苦や悲しみを克服・制御し、今生きている楽しみを純粋に味わい尽くすための思考方法並びに心の持ち方」といったイメージです。しかし「納得」といっても中身が問題ですし、そこに至るにはある程度「方法論」というか「条件」のようなものがある、と私は思っています。その意味では、私が個人的に心がけている「修行法もしくは戒訓など」に相当するものはあります。しかしそれはいわゆる「宗教的」なものとはかけ離れていますが・・・。
確かZEGAさんだったと思いますが、「絶対的幸福」ということをおっしゃっていたように記憶するのですが、「絶対的」かどうかはともかく、「悟り」と「幸福」とは私においても切り離せません。
脱線しますが、よく「本当の自分」ということが言われますが、私の場合、「本当の自分」などというのはどこにもない、取り戻すべき「自分」などどこにもない、「自分」とは様々な要素・条件が組み合わさってたまたまそうなっているに過ぎない空っぽの存在である、それを離れて「本当の自分」が他人の目には見えないところに存在しているわけではない、というのが身にしみたときに、何となく妙な自信が涌いてきて、「これって仏教で言う『悟り』のイメージに近いのかしらん?」と思ったことが、仏教に本格的関心を持つ一つのきっかけでありました。(「本当の自分」=アートマン!?) 他にもきっかけはありますが、こういう言い方をしたほうが、ZEGAさんには伝わりやすいでしょうか?
74 :
贅言散人 :2000/08/27(日) 03:54
はじめまして
このスレッドをずっとROMしております仏教のド素人です^-^;
最近気になることがありまして、お邪魔かとは思いますが質問さ
せていただきます。
日蓮や法然など中世の仏教者に危機意識を起こさせた「末法思
想」についてなのですが、『扶桑略記』には永承7年(1052)「今
年ヨリ末法ニ入ル」と記されています。釈尊滅後2000年で末法に
入るとして、この年から逆算すれば紀元前948年が釈尊入滅の年
になります。しかしながら手許の資料によると釈尊の入滅年は紀
元前383もしくは483〜5年とあり、これらの説に随うと「末法初年」
は1617年あるいは1515〜17年に繰り下がってしまい、鎌倉仏教の
諸祖師在世の時代と大幅なズレが生じてしまいます。創価学会に限
らず日蓮系の宗派の方々はこれらの説ををどのようにお考えなので
しょうか?
ご見解を伺いたいと存じます。
P.S 948BC説は往古の唐土の学者の考証だそうです。(周の穆王の治世)
75 :
昼行燈 :2000/08/27(日) 04:30
みさきさん
>>華厳経典の矛盾にも音沙汰無しですね?
>これが45のレスのことを指しているなら、それは、あなたと愚乱破 さんとの議論です。
華厳経は大乗経典では無いのでしょうか?
【みさき23区2000/08/06(日) 04:01@`「法華経非釈迦説の検証・創価学会の正当性」についてですが、
このテ−マでの議論についても、昼行燈氏であれ、どなたとでも非戦闘モ−ドで語り合う用意はあります。
皆様方次第です】
これは何でしょう?
法華経に限らず、大乗非釈迦説についてでは無かったのですか?日蓮の正統性は、大乗仏典は釈迦が説いた!
を前提に天台の教判を引用しているのではありませんか。
諸大乗経典との関連を無視しての「法華経非釈迦説」こそ切り文になる畏れを感じます。
関連して
>>阿含経の成立にかんしては、確かにこの通りでしょう。
>お認めになるなら、私の引用にたいしてお「切り文」などと非難する根拠もないのでは?。
引用とは、正しく前後の脈絡を伝えなければ「切り文」です。
『興味深いことに、インド仏教史全体にわたって、大乗から小乗と貶された部派仏教は、はるかに多く
初期仏教の諸説を伝えながら、ついに最後まで、「仏説」に関しては、全く触れていない。それに対
して、たとえば中期大乗の『大乗荘厳経論』などは、「大乗仏説」を延々と説く。すなわち、「大乗
仏説」論は大乗においてのみ、繰り返し問題とされてきた。
以上の詳述に明らかなように、釈迦仏の説すなわち「釈尊の直接の教え」そのものは、わが国の江
戸時代まで、そして、また今日の大多数の日本人(仏教者を含めて)が幻想するように、代々継承さ
れてきている大乗経典のどこにも、けっして存在していない。(中略)そして、「釈尊の直接の教え」
である「金口の説法」は、ただアーガマすなわち阿含経のみにある。』
それから、あなたの引用した文が続きます。
その阿含経の中から、どれが釈迦の本当の説なのかを選別している最中でしょう?
続く
76 :
昼行燈 :2000/08/27(日) 04:31
続き
>@ 釈迦の直言は、現存の最古のテキストからも、厳密には、辿ることは、困難である。
は 「釈迦の直言は、現存の最古のテキスト」には無い! ではないですよ。
>A ア−ガマ同様に大乗からもまた、釈迦の直言に、辿ることは困難である。
困難であるでは無いでしょう!?「釈迦仏の説すなわち【釈尊の直接の教え】そのものは、大乗経典のど
こにも、けっして存在していない。」でしょう?
都合の悪い箇所を削除して、都合の良い文を引用するのを、「世間では」切り文と言いますよ。
【私の引用にたいしてお「切り文」などと非難する根拠もないのでは?】
いいえ、何度でも繰り返し申し上げます。典型的な切り文です。あなたにその自覚が無いだけです。
>>何処に大乗経典に関して釈迦が述べたと言う根拠が提示されていません。
>46 名前:みさき
>またようやくその姿を鮮明にした新たなる大乗の諸教典は、子細に検討してみると、すでに初期教典に
>説かれていた、ある思想なり、術語なりを、いわば種子から萌芽へ、萌芽から大輪の花へ、確固たる果
>実へと進展させ、結晶させた跡もあり、見方によっては、、大乗仏教が、初期仏教とある形で連絡して
>通じあうところは必ずしも少数ではないことが、承認されている。
【すでに初期教典に説かれていた、ある思想なり、術語なりを、いわば種子から萌芽へ、萌芽から大輪の
花へ】
に関して
またようやくその姿を鮮明にした新たなる思想(佛教の諸教典)は、子細に検討してみると、すでにバラモ
ン教典の諸経典で説かれていた、【ある思想なり、術語なりを、】いわば種子から萌芽へ、萌芽から大輪の
花へ、 です。輪廻・六道・天・現世利益・呪文。その他諸々の思想なり、術語を転化していませんか?
続く
77 :
昼行燈 :2000/08/27(日) 04:33
最後に
>>前スレッドで阿育王の法勅金文石や、外典からの言及にも「なしの礫」ですね?
>ご不満でしたら、大白編集部と、論争してください。 と申し上げております。
大乗非釈迦説に関しての対論ですよ。あなたは応じると述べてのではありませんか?
あなたは【本当に?】【そんなこと書いて大丈夫】と揶揄しておいて、その反論を私が阿育王の法勅金文石
や、外典から引用すれば、「大白編集部と、論争してください。」ですか?
>私も、あなたから今まで、納得のいくレスを、頂いておりません。
私の答えは、「大白編集部と、論争してください。」と目もくれていないようですね。
>>故に、みさきさんの主張を飲むならば、「佛教とはバラモン教(外道の教え)である。」と断じても、
>>良いのでしょうか。
>>>「空」は、バラモンの「実体論」に対するアンチテ−ゼではないのですか?
>「空」(縁起)思想がバラモンの思想だという、珍説の解説もよろしく。
【経典の思想性はとりあえず語りません。】
お断りしていたはずです。経典に『書かれている』思想性を問題にしているのではありません。
第一に、「死ねば宇宙にとけ込むのが『空』」だとか、「犬や猫に生まれ変わる」とか述べる会長さんの
講釈を「偉大な生命哲学」だと言われる方と、「空」について論じる余裕はありません。(逃げたと思われ
ても結構です。ヨタ話にお相手する程、暇ではありませんので)
78 :
みさき :2000/08/27(日) 06:57
>76 名前:昼行燈
>都合の悪い箇所を削除して、都合の良い文を引用するのを、「世間では」切り文と言いますよ。
>いいえ、何度でも繰り返し申し上げます。典型的な切り文です。あなたにその自覚が無いだけです。
<ア−ガマに対する引用部分>
・・・・上述したように、それはすべて口唱によって長期にわたり伝承されてきたものを継承しつつ総括しており、しかも伝承の間に付加や増大(増広)、縮小や、削除(損耗)、また変更や、再構成など、一言であらわせば原型の変貌をかなり多く被っている。
現存のア−ガマをそのまま「釈尊の教え」に直結することは、あまりに短絡しすぎており、今日の仏教学からすれば、むしろ誤りとみなされる。
整備されたア−ガマの教蔵も、当時はいまだにその原型にとどまっており「第二回結集」によって部派の分裂があり、さらに細分裂に長い年月を要して、ようやく諸部派の成立したのちに、各部派による再び新たな教典整備のもとで、ここにはじめて現在に伝わる諸テクストがほぼ確定した。
すなわち「パ−リ−五部」にせよ、漢訳の「四阿含」にせよ、いずれもある特定の部派の所属に帰するものであって、これらがそのまま仏説ないし釈尊直説(金口の説法)であるかのごとく考えるのは、きわめて無理があり、むしろ到底許容され得ず、極言すれば、荒唐無稽であると称してもよい。
最初期の諸資料の収集される作業は、釈尊入滅の直後の第一回結集において果たされて、阿含経テクストの原型がようやく定まり、それらがさらにあと百年(別説二百年)以上もの間は口伝によつてのみ伝承されて、のちに諸部派の整備、おそらくは再編集を経てから、現存する諸テクストの成立を見たという史実は、あらためてここでも強調されなければならない。
ア−ガマに対する見解、著者の意図を、故意に曲解させるような恣意的「引用」が、なされている場合、「切り文」と、非難されるでしょう。
以上のバウッダからの「引用」に対して、「切り文」と非難するなら、上記引用文のどこが筆者の見解を,ねじまげている部分か@`又、どこが削除されているかを、具体的に指摘してください。私は、原文を、削除、改竄しておりませんから。
<大乗の引用部分>
またようやくその姿を鮮明にした新たなる大乗の諸教典は、子細に検討してみると、すでに初期教典に説
かれていた、ある思想なり、術語なりを、いわば種子から萌芽へ、萌芽から大輪の花へ、確固たる果実へ
と進展させ、結晶させた跡もあり、見方によっては、、大乗仏教が、初期仏教とある形で連絡して通じあ
うところは必ずしも少数ではないことが、承認されている。
この引用も、原文に、手を加えていません。一方、あなたの以下の書き込みは、、ROMする人にあたかも、そのような、記述があるかのような誤解を与えねえかねないものです。切り文と他人を非難するまえに、このような、<原文改竄>ともとれるような表現を使用しての反論は慎むべきでしょう。
またようやくその姿を鮮明にした新たなる思想(佛教の諸教典)は、子細に検討してみると、すでにバラモ
ン教典の諸経典で説かれていた、ある思想なり、術語なりを、いわば種子から萌芽へ、萌芽から大輪の花へ、
確固たる果実へと進展させ、結晶させた跡もあり、見方によっては、、佛教が、バラモン教とある形で連絡
して通じあうところは必ずしも少数ではないことが、承認されている。(事実、バラモン教{ヒンドゥ化し
た)では、佛教はバラモン教の一派と考えられている})
>53 名前:昼行燈 投稿日:2000/08/25(金) 23:24
79 :
みさき :2000/08/27(日) 06:59
77 名前:昼行燈
>「空」について論じる余裕はありません。(逃げたと思われても結構です。ヨタ話にお相手する程、暇ではありませんので)
つっこみ、よこレス専門、で都合が悪くなると、議論はもう、しないという。・・・前回もそうでしたね。
「ところで、昼行燈 さんの「仏説」の定義とはいかなるものなのでしょう?。」
「あなたは、現存する経典のどこまでの範囲を、仏説と考えているのですか? 」
この質問だけは、ROMしている方々のために、きちんと答えるべきではありませんか?。
「非○○○説」につて、見解を述べるなら、当然「〇〇〇説」自体について、先行して、確定した見解を、お持ちなのでしょう?。
これに答えなければ、「大乗非釈迦説」について、あなたが、当初より現在まで種々主張されてきた、発言が意味を失い兼ねません。
「仏説の範囲」は具体的にどこまでですか?
あなたには、難しすぎますか?。
80 :
愚乱破 :2000/08/27(日) 11:52
第7の外道さん<
議論での戦闘モードは本質で無いところに多くのエネルギーを消耗させるみたい
で勿体無いなぁと思いますけど・・・独り言
> 「まさに日蓮がそれらの説を支持したから」という信仰上の要請からである、
> と見ておいてよろしいわけですか?
そうですね、そう考えていただいてよろしいと思います。
ところで・・・悟りについてのZEGAさんへのお返事で・・・
> 私の感覚では「悟り」は「人生に対する全てについて深く深く納得した状態で
> あり、 (中略) 「悟り」と「幸福」とは私においても切り離せません。
・・・に深く、同意できます。要領を得た簡潔な表現に感服します。
私も悟りについては、そんな風に思います。
・・・が、(笑) 「しかし、生きた真の宗教は個人の幸福と同時に、社会までも
変革する偉大な力を持っているのだ。」戸田第二代会長・・・だそうです。
81 :
愚乱破 :2000/08/27(日) 11:54
昼行燈さん<
私の「五時八経の矛盾に対するご解答ではないのでは?」の疑問は、否定された
ようですので・・・
> 華厳経をお読み下さい。
ということは、華厳経を読めば矛盾が解かるはずであるということですね。
だとすると、天台の時代には華厳経の存在は知られていたが、内容(少なくとも
矛盾がある部分)は知り得なかったということですね。
ちょっと信じられないのですが、知り得なかったという証拠もあるんですね。
華厳経も読んでいない私(笑)には解かりませんでしたがご指摘の通りなら、読め
ばすぐ気付くレベルのようですね。
そして、日蓮大聖人は「五時経判へ誘うためののこじつけ」は行ったが、思考し
ていない?
・・・ということは、取るに足らない矛盾だと言うことなのでしょうか?
そのようにも、思われませんが・・・
昼行燈さんより前にこの矛盾を指摘された方はいないのでしょうか?
創価学会意外では既に五時八経説は破棄しているのですか?
82 :
みさき :2000/08/27(日) 12:55
>7の外道さん
しばらくです。
>むしろみさきさんの一連の引用は、大乗経典もアーガマも、釈迦の直説に対する関係にはさほど違いは無い、ということを主張したいかのように見えます。
「大乗「と「ア−ガマ」を、同水準のものとみているわけではありませんよ。大乗の氏・素性はどうであれ、「ア−ガマ」などは、大乗から比べれば、はるかに、内容が貧弱であり、思想的水準も低いものだと思っていますから。
詳しくは、いずれ・・。
83 :
第7の外道 :2000/08/27(日) 22:21
みさきさん おひさです。
私は「アーガマ」と「大乗経典」とを、「釈迦の直説」との関係において比較しただけで、どうしてそれが「思想的深浅」の問題として読まれてしまったのか、若干当惑しておりますが・・・。
いくつかの大乗経典の思想的価値の高さを称揚するのに私は全く吝かではありませんが、阿含系のようにシンプルな表現のテキストも、それとは別の意味でいいものです。アーガマだけに限りませんが、シンプルなテキストほど、その時その時のこちらの思想的力量に応じた、「思想」と「生」との本質的な関係が剥き出しになるような読みの結果が得られやすいものです。何せこちらがしっかり頭を働かせなければ何も語りかけてはきませんから、反面恐ろしいものでもあります。内容が精緻で系統的なテキストとはまた違った脳の鍛錬になると思ってます。
ですから私は「どっちが深いか」という問に答えを出す気はありませんが、
>詳しくは、いずれ・・。
とおっしゃるのであれば、期待しております。
84 :
第7の外道 :2000/08/27(日) 22:39
愚乱破さん
>議論での戦闘モードは本質で無いところに多くのエネルギーを消耗させるみたい
>で勿体無いなぁと思いますけど・・・独り言
そうですね・・・最近は特にそう思うようになってきました。同感です。
>> 「まさに日蓮がそれらの説を支持したから」という信仰上の要請からである、
>> と見ておいてよろしいわけですか?
>そうですね、そう考えていただいてよろしいと思います。
了解しました。しつこく食い下がって失礼しました。
>> 私の感覚では「悟り」は「人生に対する全てについて深く深く納得した状態で
>> あり、 (中略) 「悟り」と「幸福」とは私においても切り離せません。
>・・・に深く、同意できます。要領を得た簡潔な表現に感服します。
>私も悟りについては、そんな風に思います。
どうもです。根本のところでは考えていることはさして違いはないのかも知れませんね(笑) またこの件が話題になったときにはご参加を。
>・・・が、(笑) 「しかし、生きた真の宗教は個人の幸福と同時に、社会までも
>変革する偉大な力を持っているのだ。」戸田第二代会長・・・だそうです。
確かに「社会までも変革する偉大な力」はあるのかも知れませんが、変革した方向が問題ですね・・・。正直いって、「宗教」(イデオロギーといってもいいですが)が社会を「変革」してそれで社会の「幸福」が増進した、という例を知らないんですよ・・・。ある問題は解決したが別の問題が生じた、支配者と被支配者の中身がいくらか入れ替わった――そんなんばっかりじゃないですか、歴史って? 何かいい例をご存知ですか?
∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽
ところで、74 の 贅言散人 さんのご質問なんですが、私は答える立場にいないので、何ともリアクションのしようがありません。常連の方、どなたかお答えいただけないでしょうか?
85 :
昼行燈 :2000/08/27(日) 23:44
みさきさん
>・・・・上述したように、それはすべて口唱によって長期にわたり伝承されてきたものを継承しつつ総括
>しており、しかも伝承の間に付加や増大(増広)、縮小や、削除(損耗)、また変更や、再構成など、一
>言であらわせば原型の変貌をかなり多く被っている。
(中略が入ります)
>現存のア−ガマをそのまま「釈尊の教え」に直結することは、あまりに短絡しすぎており、今日の仏教学
>からすれば、むしろ誤りとみなされる。
その後に、何と書いてありますか。あなたが意図的に述べなかった文が続きますね。引用します。
ただし、釈尊の教えと仏弟子たちの言行などは、そして最初期ないし初期の仏教の資料は、アーガマ(阿含
経)にしか存在していないのであり、のちの第三部に登場するあまたの大乗経典(これを日本人は「釈尊の
おしえ」そのものと誤解し、「仏教」として受容してきた)には、求むべくもないことが明白である以上、
何よりもアーガマ(阿含経)の解明に専念する仏教文献学が必要不可欠の前提とされる。
>整備されたア−ガマの教蔵も、当時はいまだにその原型にとどまっており「第二回結集」によって部派の
>分裂があり、さらに細分裂に長い年月を要して、ようやく諸部派の成立したのちに、各部派による再び新
>たな教典整備のもとで、ここにはじめて現在に伝わる諸テクストがほぼ確定した。
>すなわち「パ−リ−五部」にせよ、漢訳の「四阿含」にせよ、いずれもある特定の部派の所属に帰するも
>のであって、これらがそのまま仏説ないし釈尊直説(金口の説法)であるかのごとく考えるのは、きわめ
>て無理があり、むしろ到底許容され得ず、極言すれば、荒唐無稽であると称してもよい。
同様に続きを引用します。
しかしながら同時に、本書の冒頭にも断言したように、「釈尊の教え」を含む初期の仏教思想を直接に伝
え る資料は、「パーリ五部」および「漢訳四阿含」以外にはまったく存在していない。
続く
86 :
昼行燈 :2000/08/27(日) 23:48
続きです
>あなたの以下の書き込みは、、ROMする人にあたかも、そのような、記述があるかのような誤解を与え
>ねえかねないものです。切り文と他人を非難するまえに、このような、<原文改竄>ともとれるような表
>現を使用しての反論は慎むべきでしょう。
【記述があるかのような誤解】ではなく、記述はあります。そしてどちらが正しいかは、図書館でも、書店
にでも行かれて本書を手にとって見ればすぐに分かります。(現物をUP出来ないのが残念です)
>「ところで、昼行燈 さんの「仏説」の定義とはいかなるものなのでしょう?。」
>「あなたは、現存する経典のどこまでの範囲を、仏説と考えているのですか? 」
>この質問だけは、ROMしている方々のために、きちんと答えるべきではありませんか?。
>「非○○○説」につて、見解を述べるなら、当然「〇〇〇説」自体について、先行して、確定した見解を、
>お持ちなのでしょう?。
>これに答えなければ、「大乗非釈迦説」について、あなたが、当初より現在まで種々主張されてきた、発
>言が意味を失い兼ねません。
大乗釈迦説とどのような関わりがあるのか、私が疑問に思うことに何故【先行して、確定した見解】が必要
なのでしょう?
私が疑問に思い、思索することを開示しなければ何故【発言が意味を失】うのでしょう?
不思議に思うから不思議。不思議を解明したいと思うから思索する。その理屈が分からない、みさきさんで
はないでしょう。
>「仏説の範囲」は具体的にどこまでですか?
>あなたには、難しすぎますか?。
やはり、挑発しての「戦闘モード」に入られましたね。
87 :
昼行燈 :2000/08/28(月) 00:43
愚乱破さん
私の「五時八経の矛盾に対するご解答ではないのでは?」の疑問は、否定された
ようですので・・・
>> 華厳経をお読み下さい。
>ということは、華厳経を読めば矛盾が解かるはずであるということですね。
>だとすると、天台の時代には華厳経の存在は知られていたが、内容(少なくとも
>矛盾がある部分)は知り得なかったということですね。
>ちょっと信じられないのですが、知り得なかったという証拠もあるんですね。
少し言葉がたりなかったようですね。「華厳経をお読み下さい」と申し上げたのは、華厳経が説かれた設定
なり、聴聞者についての件に於いてですから。
華厳経に書かれているのは、廬遮那仏の仏国土・廬遮那仏の悟りの世界観・菩薩の求道などについてが主と
なっています。それを釈迦が五百人の弟子の前で祇園精舎に於いて説法した。と云う設定は、成道後二十一
日に当てはめるのは無理ではないか?と云うことです。
>華厳経も読んでいない私(笑)には解かりませんでしたがご指摘の通りなら、読め
>ばすぐ気付くレベルのようですね。
壮大な宗教詩としては面白いのですが、華厳経が自ら「経王」と称する程とは思えませんよ。
続きます。
88 :
昼行燈 :2000/08/28(月) 00:44
続きです。
>そして、日蓮大聖人は「五時経判へ誘うためののこじつけ」は行ったが、思考し
>ていない?
>・・・ということは、取るに足らない矛盾だと言うことなのでしょうか?
>そのようにも、思われませんが・・・
日蓮が引用した経典も、引用箇所だけではなく、全てを読まれると、逆の解釈も出来ると云うことです。
信仰的な確信は、自分に都合の良い解釈も可能にすると云うことですね。
法然の「選択本願念仏集(選択集)」などでも、自分に都合の良い箇所を引用して、解釈を行っていますし、
「選択集」のみ読めば、『成る程!』と唸ってしまいます。
【「五時経判へ誘うためののこじつけ」】と申し上げたのは、そういう意味です。
>昼行燈さんより前にこの矛盾を指摘された方はいないのでしょうか?
>創価学会意外では既に五時八経説は破棄しているのですか?
厳密に経典を読まれての「大乗非仏説」を指摘したのは、江戸時代の富永仲基(1715〜1785年)が
嚆矢でしょう。文献学が進んで、南条文雄師や、増谷文雄師など大勢の仏教学者・或いは言語学者・歴史学
者の先達が指摘しています。
真言宗の中には、密教経典は「法身・大日如来」の説法(実際の説法者は金剛薩多)として、五時八経説と
は関わっていませんし、密教経典は釈迦説と認めていない所もあります。
なお、全ての宗派が五時八経教判を承認している訳ではありません。極端に云えば、天台系宗派のモノです。
世間に流布しているのは、比叡山(日本天台宗)の影響が大きすぎたからに過ぎません。
89 :
くらくら :2000/08/28(月) 06:04
贅言散人さん。初めまして。
>日蓮や法然など中世の仏教者に危機意識を起こさせた「末法思
>想」についてなのですが、『扶桑略記』には永承7年(1052)「今
>年ヨリ末法ニ入ル」と記されています。釈尊滅後2000年で末法に
>入るとして、この年から逆算すれば紀元前948年が釈尊入滅の年
>になります。
中国では入末法1500年説。日本では入末法2000年説が主流だった
ようです。余談ですが、末法の根拠となる大集経を見れば入末法までは15
00年です。
さて、釈迦の入滅も古来よりいくつかの説があったようですが、周書異
記にのっているものが定着したようです。おそらく儒家道家の創始者と同じ
ぐらいの古さを釈迦に与える要請から。。。と何かで見たことあります。
とりあえず、周書異記の記述はその当時は釈迦の入滅年代の有力な根拠を
与えるものであったのでしょう。
>しかしながら手許の資料によると釈尊の入滅年は紀
>元前383もしくは483〜5年とあり、これらの説に随うと「末法初年」
>は1617年あるいは1515〜17年に繰り下がってしまい、鎌倉仏教の
>諸祖師在世の時代と大幅なズレが生じてしまいます。創価学会に限
>らず日蓮系の宗派の方々はこれらの説ををどのようにお考えなので
>しょうか?
坊主の皆さんは、特に問題視していないと思います。日蓮は間違いなく
入末法の自覚のもとに己の境地をつくった。そんな認識ではないのでしょうか。
とくに信者から突っ込まれることもないでしょうし。ただ、国柱会から分派した
本化妙宗の高橋智遍氏は何とか科学的に正しいとされる釈迦滅年と日蓮在世が
末法である旨を会通させようと「仏滅年代と正像末の預言 信人社」を出版し
ています。個人的にはとても万人に説得力を与えるものではありませんが、
あなた様のような疑問を持ち、それを信仰上の問題だからと逃げることなく、
真正面から受け止めていく姿勢は好感が持てました。
当該本は数年前に一部改定のうえ再版されたらしいです。小冊子状で
さほど高くないので、宜しければ一読ください。
あと、日蓮を本仏と仰ぐ創価学会も「仏教3000年の歴史」と記して
て暗に周書異記の記述を認めているようなところもあります。ま、三世を
見通せる本仏さまも釈迦の没年までは見通せないとはとも思いますが。。。
取り留めなく冗長になりました。何か疑問あればレスしますので。
90 :
みさき :2000/08/28(月) 06:38
引用の<真偽>に関して
<大乗の引用部分>
みさき
またようやくその姿を鮮明にした新たなる大乗の諸教典は、子細に検討してみると、すでに初期教典に説
かれていた、ある思想なり、術語なりを、いわば種子から萌芽へ、萌芽から大輪の花へ、確固たる果実へ
と進展させ、結晶させた跡もあり、見方によっては、、大乗仏教が、初期仏教とある形で連絡して通じあ
うところは必ずしも少数ではないことが、承認されている。
私は原文に一切、手を加えていません。 ( 引用 69ペ−ジ 6行〜10行 迄)
バウッダ・佛教・ 中村元 三枝充悳
小学館ライブラリ− 1996年4月20日 初版第1刷 ¥1170(税別)昼行燈
またようやくその姿を鮮明にした新たなる思想(佛教の諸教典)は、子細に検討してみると、すでにバラモ
ン教典の諸経典で説かれていた、ある思想なり、術語なりを、いわば種子から萌芽へ、萌芽から大輪の花へ、
確固たる果実へと進展させ、結晶させた跡もあり、見方によっては、、佛教が、バラモン教とある形で連絡
して通じあうところは必ずしも少数ではないことが、承認されている。(事実、バラモン教{ヒンドゥ化し
た)では、佛教はバラモン教の一派と考えられている})
>86 名前: 昼行燈 投稿日: 2000/08/27(日) 23:48
>【記述があるかのような誤解】ではなく、記述はあります。そしてどちらが正しいかは、図書館でも、書店
にでも行かれて本書を手にとって見ればすぐに分かります。(現物をUP出来ないのが残念です)
↑ ↑
確認の便宜のために、何ペ−ジに記載されているか、きちんと書き込んでください。
91 :
みさき :2000/08/28(月) 07:29
「切り文」か「引用」か?について。
一連の、みさき&昼行燈氏 のレスで判断してもらうことにします。「仏説の範囲」は具体的にどこまでですか?
>86 名前:昼行燈
>大乗釈迦説とどのような関わりがあるのか、私が疑問に思うことに何故【先行して、確定した見解】が必要
なのでしょう?
おおよそ、ある対象にたいして、それを「偽物」ではないか?と疑問を持つ。
これは、前提に、「本物」とは、「〇〇〇」である。という、認識を持つ者のみが、もちうる「疑問」なのではありませんか?。
「本物」に対する認識・知識なしに「偽物」だという、認識・疑問は発生し得ないで訳でしょう?
そのような、「本物」にたいする認識・判断をお聞きしたいと申し上げているのです。
くりかえしますが、これは、ROMしている方々の疑問に対する回答として求めているわけです。
「大乗が偽物だとすると、本物の仏説はどれなの?」 きわめて、シンプルな疑問ですよ。
>私が疑問に思い、思索することを開示しなければ何故【発言が意味を失】うのでしょう?
「疑問に思う」というより、どちらかといえば「非仏説」という立場で今まで、発言されてきたのでは、ありませんか?ROMしていて、そのような印象をもちましたが・・・。
「仏説の定義」は、まともな、本来の議論のための重要な、確認作業だとおもいますが。
92 :
愚乱破 :2000/08/28(月) 11:41
昼行燈さん<
華厳経に関する解説ありがとうございました。
昼行燈さんの宗教に関するご造詣には前より敬服しております。
今回の論議について、私は法華経釈迦説を信じておりますが、真偽については、
論議できる者では無いことを前から申しております。
ただ、釈迦説とすると矛盾があるというご指摘に耳を貸さないという態度は取り
たくないと思うものです。
それで、昼行燈さんから、五時八経説と華厳経の説法の状況に矛盾があるとご指
摘されましたのでお伺いしているわけです。
で、4回目のご返事でようやく華厳経に“説かれている”説かれた設定と聴聞者
についてが五時八経説と矛盾していると指摘されていることが確認できたと思う
のですが・・・
それで、繰り返しになりますが私がご質問しているのは五時八経説の矛盾につい
てであり、法華経非釈迦説ではありませんので、再(々)度の確認になりますが・
1.天台の時代にはこの矛盾を知り得なかった。
2.天台は仮に知っていたとしても官僧だから無視せざるを得なかった。
3.日蓮は知り得た(知っていた)が疑ったり思考したりした形跡がない。
などの昼行燈さんからのご返事は、大乗非仏説について仰っているのではありま
せんか?
私の疑問は、・・・
華厳経の内容との矛盾であれば、天台は当然考慮したはずなのに、なぜ五時八経
説を立てられたのか?
・・・から出発した一連の事柄なのですが、本当に天台は華厳経の内容を知り得
なかったのですか?
そのように仰っておられるたのでしたら、失礼を前もってお詫びします。
93 :
昼行燈 :2000/08/28(月) 12:56
みさきさん・その他のROMされている皆様
初めに
>またようやくその姿を鮮明にした新たなる大乗の諸教典は
(中略)
>仏教が、初期仏教とある形で連絡して通じあうところは必ずしも少数ではないことが、承認されている。
>この引用も、原文に、手を加えていません。一方、あなたの以下の書き込みは、、ROMする人にあたか
>も、そのような、記述があるかのような誤解を与えねえかねないものです。切り文と他人を非難するまえ
>に、このような、<原文改竄>ともとれるような表現を使用しての反論は慎むべきでしょう。
【この引用も、原文に、手を加えていません。】に対して、
【記述があるかのような誤解】ではなく、記述はあります。そしてどちらが正しいかは、図書館でも、書店
にでも行かれて本書を手にとって見ればすぐに分かります。(現物をUP出来ないのが残念です)
と述べているつもりだったのですが、これは私がみさきさんの文を正しく理解していなかったことから生じ
た私の誤りです。謝罪し、訂正いたします。
94 :
昼行燈 :2000/08/28(月) 13:02
最後です
この件についての問題を「頬かぶり」して
>またようやくその姿を鮮明にした新たなる大乗の諸教典は、子細に検討してみると、すでに初期教典に説
>かれていた、ある思想なり、術語なりを、いわば種子から萌芽へ、萌芽から大輪の花へ、確固たる果実へ
>と進展させ、結晶させた跡もあり、見方によっては、、大乗仏教が、初期仏教とある形で連絡して通じあ
>うところは必ずしも少数ではないことが、承認されている。(同48ページ 9行目〜12行目)
12行目にそれに続く文として、
必ずしも少数ではないことが、承認されている。ただし、上述ように、大乗仏教を「釈迦の教え」そのもの
に直結させることは、到底許されない。
>私は原文に一切、手を加えていません。
しかし、続く文は 切り捨てています。
このような手法を使えば、著者の意図したものと正反対の結論を導き出すことは、私にも出来ます。
95 :
昼行燈 :2000/08/28(月) 13:16
みさきさん
>「切り文」か「引用」か?について。
>一連の、みさき&昼行燈氏 のレスで判断してもらうことにします。「仏説の範囲」は具体的にどこまで
>ですか?
【一連の、みさき氏&昼行燈のレスで判断】するより、直接書をお読みになられて判断されることをお薦め
します。
>おおよそ、ある対象にたいして、それを「偽物」ではないか?と疑問を持つ。
>これは、前提に、「本物」とは、「〇〇〇」である。という、認識を持つ者のみが、もちうる「疑問」な
>のではありませんか?。
>「本物」に対する認識・知識なしに「偽物」だという、認識・疑問は発生し得ないで訳でしょう?
>そのような、「本物」にたいする認識・判断をお聞きしたいと申し上げているのです。
>くりかえしますが、これは、ROMしている方々の疑問に対する回答として求めているわけです。
>「大乗が偽物だとすると、本物の仏説はどれなの?」 きわめて、シンプルな疑問ですよ。
よろしいですか。日興系統で云われている「二箇相承書」というものがあります。
この書には、古来偽作説がつきまとっていますね。(ここではあえて内容にふれません)
しかし、『どれが本物の相承書』『何が本物の相承書』であるかとは誰も提示できません。
『この相承書はおかしいぞ!』との疑問から、日興非相承説が提唱される場合、「二箇相承書」の記述の疑
問を持った人間が、『本物』を前提に話しますか?
おかしいものは、おかしい!で良いのではないですか。
続く
違うスレッドにレスしてしまったようです。
96 :
昼行燈 :2000/08/28(月) 13:21
95の続きです
>>私が疑問に思い、思索することを開示しなければ何故【発言が意味を失】うのでしょう?
>「疑問に思う」というより、どちらかといえば「非仏説」という立場で今まで、発言されてきたのでは、
>ありませんか?ROMしていて、そのような印象をもちましたが・・・。
非○○説は、疑問から発した自然な問いです。
地球が太陽の周りを回っていないのではないか?と云う非天動説は、【先行して、確定した見解(地動説】
なしには成立しませんか?疑問を解決して行く過程で、「これなら説明がつく」と地動説が成立した訳で
しょう?
>「仏説の定義」は、まともな、本来の議論のための重要な、確認作業だとおもいますが。
釈迦が述べた事柄が、歴史的にも、社会学的にも、矛盾をはらんでいないかだと考えています。
そして、大乗仏教経典には、矛盾が多すぎるが故に、「非釈迦説」を言い続けているのですが、釈迦が実際
何を語ったかは、私の関知出来ないところです。
みさきさんは、私に「釈迦が何を語ったか」まで、語らなさなければ満足出来ないのでしょうか。
【引用の<真偽>に関して】
小乗(阿含経典」に関しての記述に「もれ」があったことはお認めにはならないのですか?
バウッダ・佛教・ 中村元 三枝充悳 著
小学館 昭和62年3月20日 初版第1刷発行
昭和62年7月10日 初版第6刷発行 ¥2800
46ページ 8行目〜9行目までがみさきさんの引用。それ以降が私の引用。
77ページ 6行目〜9行目までがみさきさんの引用。それ以降が私の引用。
最後に続く
97 :
昼行燈 :2000/08/28(月) 13:25
愚乱破さん
仕事前のドタバタで、今はお返事は出来なくなりました。
帰宅後に、お返事を差し上げたいと思いますが、ご了承下さることを祈っております。
98 :
ひゃっきまる :2000/08/28(月) 21:39
みさきさんと昼行燈さんが、ようやくこのスレッドの核心である「法華経非釈迦説」について論じているのを見て、喜ばしく思っているのですが、やはり僕も「戦闘モード」での議論は無駄にエネルギーを使うようで、どうかな、と思っています。
僕の見解を述べてみます。あくまで感想ですので、(みさきさんと昼行燈さんとで行われている)議論に加わるつもりはありません。
この場(「日蓮って」スレッド)で議論の焦点になっているのは、法華経は釈迦説であるのかどうか、という、ただ一点であると思います(阿含系教典が仏説であるかどうかは関係ない) 。
仏典は基本的に、「如是我聞(私は<ブッダから>このように聞きました)」の文から始まることから、その内容は金口直説(こんくじきせつ)とされてきました。つまり、なんの改変もなく、釈迦が直接語った内容がそのまま伝わっていると。もしこれが仏説の定義なら、阿含系教典も、法華経も、その資格を失うことになります。
しかし、
>またようやくその姿を鮮明にした新たなる大乗の諸教典は、子細に検討してみると、すでに初期教典に説かれていた、ある思想なり、術語なりを、いわば種子から萌芽へ、萌芽から大輪の花へ、確固たる果実へと進展させ、結晶させた跡もあり、見方によっては、大乗仏教が、初期仏教とある形で連絡して通じあうところは必ずしも少数ではないことが、承認されている。
ということから、「法華経」が釈迦によって説かれたかもしれない、「可能性」があるわけですね?
しかし、『すでに初期教典に説かれていた、ある思想なり、術語なり』というのは、【唯一釈迦の直接の言葉が記されている可能性のある】、阿含系教典に依って立つ見解であると思います。だからこの本の著者は、釈迦説は阿含系教典(の一部)にある、という前提のもとに以上の文を書いたのだと思います。
それが「法華経」においては、具体的にどういうことであるか、調べてみました。
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
…大乗教典の素材は原始経典に説かれている釈尊の生涯とその思想であるということである。原始教典に示されながら、部派仏教時代を通じてあまり着目、重要視されてこなかった思想が大乗経典のなかで蘇ったこともあったであろう。つまり、大乗経典は釈尊の生涯と思想の新たな解釈であると捉えることができよう。
たとえば、『法華経』においても、原始経典に説かれる釈尊の生涯と思想との連続性を指摘することができる。釈尊が成道した直後の感懐として、「自分には師がおらず、したがって尊敬するものがないが、このことは苦しみである。しかし、自分は今後自分が悟ったサッダンマ(正法)を尊敬していこう」と決意したことが知られている。この釈尊が尊敬し続けるサッダンマこそ、『法華経』の梵名にあるサッダルマであると考えられる。また、方便品における、舎利ほつの釈尊に対する、三回にわたる説法のお願いは梵天勧請の説話を踏まえたものであろうし、化城喩品には梵天勧請が壮大な規模に変えられた話が展開されている。
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
『法華経 -永遠の菩薩道-』 菅野博史 大蔵出版 (p13、14)
確かに、『すでに初期教典に説かれていた、ある思想なり、術語なりを、いわば種子から萌芽へ、萌芽から大輪の花へ、確固たる果実へと進展させ、結晶させた跡もあり、見方によっては、大乗仏教が、初期仏教とある形で連絡して通じあう』といえるのでしょうが、これをもって、法華経を釈迦が説いたとは言えないことがわかります。
法華経は、釈迦の生涯に起こった重要なイベント(成道、梵天勧請、初転法輪、入涅槃など)を神話化して表現したストーリー(フィクション)である、と見るのが妥当なところではないでしょうか。
ただ、みさきさんはまだ、「法華経は歴史的釈迦が説いた」とは主張していないので、以上の文章はみさきさんに対する反論ではないことを注記しておきます。
99 :
昼行燈 :2000/08/29(火) 00:33
愚乱破さん
>今回の論議について、私は法華経釈迦説を信じておりますが、真偽については、
>論議できる者では無いことを前から申しております。
何を信じるか?は信じる本人の意思ですから、わたしが「信じるな!」などと云う
資格はありません。学会員の方に言わない代わりに、学会も「歴史的事実」として
他宗派・非学会員に押しつけないで下さい。と云う立場です。(散々 破折と称し
て有無を云わされずに責め立てられたことは、一度や二度ではありません)
>それで、繰り返しになりますが私がご質問しているのは五時八経説の矛盾につい
>てであり、法華経非釈迦説ではありませんので、再(々)度の確認になりますが・
>私の疑問は、・・・
>華厳経の内容との矛盾であれば、天台は当然考慮したはずなのに、なぜ五時八経
>説を立てられたのか?
>・・・から出発した一連の事柄なのですが、本当に天台は華厳経の内容を知り得
>なかったのですか?
智は、一切経は釈迦の説法したもの、と云う前提で考えていたからだと思います。
天台智の講義録を読めば、法華経の次に華厳経を重要視していたと思われ、多く
の影響を受けています。「普礼法」(*1)と云われるものがアレンジされて智
のまとめた実践儀礼の柱の一つになっていることなどからも、伺えます。
(*1 普礼法…本来は廬遮那仏への帰依の儀礼。)
或いは蓮華蔵世界に於ける、「一即千 千即一」などは、「一念三千」の理論と密
接に関わっていると思われます。
続きます
100 :
昼行燈 :2000/08/29(火) 00:36
続きです
天台智や大乗の人は、経典に矛盾を感じた形跡は、殆どありません。
矛盾を感じていたのは、経典間の繋がりです。「一切経を釈迦が説いた」「しかし
経典は互いに矛盾している」と。「教相反釈」は、その矛盾の解決法を探求した結
果に生みだされたものだったのです。
蛇足ながら、一念三千論に影響を与えたと思われる箇所は、廬遮那仏品第二の(現
代語で書きます。)
『一つの毛穴に 無数の仏の国が美しく飾られて永遠に存在している。(中略)一
つの微粒子の中に 一切の微粒子に等しい数の小さな国土が 全て入っている』
初発心菩薩功徳品第十三
『一つの世界が一切の世界を生みだし 一切の世界が虚空のようなものであること
を知ろうとし 一念に一切の世界を完全に知り尽くそうと欲する』
などなど。後は書き込む私も、読まれる方も疲れますから省略しますね。
本来は公明・創価板の内容ではない気もしますが、鹿苑時・方等時・般若時へと
続けますか?
法華・涅槃時に入るまでは、宗教板の方がふさわしいのではないでしょうか?
101 :
贅言散人 :2000/08/29(火) 02:00
くらくら様
丁重なレス有り難うございました。
「末法思想」というのは言わば「仏教的終末論」なのかも知れませんね。災害や戦乱
あるいは廃仏運動といった社会不安が続くと発生するもののようです。(もっとも
釈尊在世の頃のインドも決して平穏な時代であったとは思えませんが・・・)
前のコメントを書いてから自分なりに色々と調べてみました。入末法1500年説を
採用すれば、552年(我が国への仏教伝来の年!)入末法となってしまいます。そこで
『末法灯明記』(最澄の撰述と伝えられた)なる書物が著されて500年の猶予が説か
れ、それが坊間に流布したということでした。『大集経』にせよ『末法灯明記』に
せよ「編纂された当時の社会不安」を映す鏡なのかも知れませんね。
ご紹介の本も一読してみたいと思っております。とりとめもないレスで(HN通り)
ですみません。
>第七の外道様ならびに常連の皆様
いつも興味深く拝見しております。レヴェルの高い議論の只中へ間抜けな発言で
闖入いたしまして申し訳ありませんでした。とても皆様の素養には及びませんが、
最近仏教思想に関心を抱き、知見を広げたく思っている私としては、ここで繰り広
げられている活発な議論は大変勉強になっております。今後ともROMさせていただ
くつもりです。
(希に発言させていただくかも知れませんが)
乱筆乱文ながらご挨拶までに。
102 :
みさき :2000/08/29(火) 07:03
>この場(「日蓮って」スレッド)で議論の焦点になっているのは、法華経は釈迦説であるのかどうか、という、ただ一点であると思います
私は、途中から参加したので、上記のような段階まで、議論が、煮詰まってきていたのか、よくわかりません。
仮に、そうだとしても、やはり「釈迦説」という、言葉にこだわります。
「大乗が偽物だとすると、本物の仏説はどれなの?」
「仏説」という言葉は、どのように、解釈され、識別(現存経典のなかで)されるのか?。
これは、ひゃきまるさんへの 質問ではありません。
昼行燈氏との、やりとりは、とりあえず、一区切りということにします。
103 :
愚乱破 :2000/08/29(火) 12:38
昼行燈さん<
お忙しそうですね、お仕事の後、深夜の書きこみありがとうございます。
さらに、興味深いお話をお聞かせいただきました。
誤解があるといけないので、私の言葉で一応確認させていただきます。
しつこくてすみません。(頭が悪いので・・・)
先にいただいた、次の1〜3の回答は五時八経説の矛盾についてではなく、大乗非
仏説についてのものである。
>1.天台の時代にはこの矛盾を知り得なかった。
>2.天台は仮に知っていたとしても官僧だから無視せざるを得なかった。
>3.日蓮は知り得た(知っていた)が疑ったり思考したりした形跡がない。
また・・・
天台は法華経の次に華厳経を重要視していたと思われる → 当然内容を熟知して
いた。
・・・でよろしいのですね。
そして、
>天台智や大乗の人は、経典に矛盾を感じた形跡は、殆どありません。
>矛盾を感じていたのは、経典間の繋がりです。「一切経を釈迦が説いた」「しかし
>経典は互いに矛盾している」と。「教相反釈」は、その矛盾の解決法を探求した結
>果に生みだされたものだったのです。
ということで、天台は矛盾の解決法として五時八経説をとなえたわけですね。
104 :
愚乱破 :2000/08/29(火) 12:38
昼行燈さん<
だとすると、昼行燈さんがご指摘された矛盾について、天台はなんらかの答を持
っていないとおかしいですね。
天台自身が「五時八経説が間違いだ」とは言うはずないですから(笑)・・・
1.経典の記述に繋がりにおける誤りがある。
2.五時八経説が最も矛盾が小さい妥当な解である。
3.その他の説明。
一切経を釈迦が説いたと信じていたので 1.は考え難いし、堂々と他宗派と法論
をするには、2.でも弱いような気がしますが・・・
昼行燈さんはどう考えられますか、それとも天台の説明をご存知なのですか?
>本来は公明・創価板の内容ではない気もしますが、鹿苑時・方等時・般若時へと
>続けますか?
>法華・涅槃時に入るまでは、宗教板の方がふさわしいのではないでしょうか?
私には、未知に近い領域で(縁が少なかったため)興味はありますが、やはりここ
ではふさわしくないのでしょうね。
105 :
くらくら :2000/08/29(火) 14:07
贅言散人さん
少しばかり補足します。末法燈明記では、「正法五百年像法一千年、
この一千五百年後、行はるの正法滅尽すと」ありまして、その後に、
二つの説を示します。一つは「仏、穆王満の五十三年壬申に当たりて
入滅す」と「もし此の説によればその壬申より我が延暦二十五年に至
るまで一千七百五十歳なり」です。もう一つは「仏、周の主匡王班の
四年壬子に入滅す」と「もし此の説によればその壬子より我が延暦二
十五年に至るまで一千四百十歳なり」です。そして、「ゆえに知りぬ
今の時は像法最末の時なることを」
末法燈明記は周書異記の穆王に基づく入滅年代をとらなかったよう
です。そして正像1500年説を採用して延暦二十五年を像法の最終
段階であり、末法が近くに来ているとの認識だったようです。
最澄は、周書異記と正像2000年説に基づいて解釈しているよう
ですから(内証仏法相承血脈譜・法華秀句・守護国界章)、末法燈明
記の主張とは矛盾します。そんなところからも最澄に仮託されたとの
議論があるものと承知しております。
106 :
昼行燈 :2000/08/30(水) 02:18
愚乱破さん 1.
>誤解があるといけないので、私の言葉で一応確認させていただきます。
>しつこくてすみません。(頭が悪いので・・・)
>先にいただいた、次の1〜3の回答は五時八経説の矛盾についてではなく、大乗非
>仏説についてのものである。
【1.天台の時代にはこの矛盾を知り得なかった。 】
【2.天台は仮に知っていたとしても官僧だから無視せざるを得なかった。 】
【3.日蓮は知り得た(知っていた)が疑ったり思考したりした形跡がない。 】
中国への経典将来は、同不順です。系統だって入ってきたわけではありません。
ある経典で真実と書かれている内容が、別の経典では否定されていたり、逆のことが書かれていたりするも
のも多くあります。しかし、「釈迦が説いたもの」と云う前提は崩れていません。
経典間の矛盾を解決するには・・・・・。弟子の機根に応じて説いたのではないか。「Aの経典」に書かれ
ていたことを否定している「Bの経典」は「Aの経典」より後に説かれた。と考えれば、矛盾は解決すると
厳密に分類することを、中国の仏教者は考えついたわけだと思います。
その中から自分が「優れている」と思う経典や、論を基にインドでは見られなかった「宗派」が誕生します。
各宗派では、己の宗派の優位性を述べるために、各々が「教相判釈」を作り始めますが、有名なのは華厳宗
の「五教十宗」論と天台宗の「五時八教」説です。
1.2.3.の答えは天台の時代にも、天台以降も【この矛盾を知り得なかった】です。
>天台は法華経の次に華厳経を重要視していたと思われる → 当然内容を熟知して
>いた。
>・・・でよろしいのですね。
はい。よろしいですよ。
107 :
昼行燈 :2000/08/30(水) 02:19
愚乱破さん 2.
>>天台智や大乗の人は、経典に矛盾を感じた形跡は、殆どありません。
>>矛盾を感じていたのは、経典間の繋がりです。「一切経を釈迦が説いた」「しかし
>>経典は互いに矛盾している」と。「教相反(判の間違いです)釈」は、その矛盾の解決法を探求した結
>>果に生みだされたものだったのです。
>ということで、天台は矛盾の解決法として五時八経説をとなえたわけですね。
はい。その通りです。
>だとすると、昼行燈さんがご指摘された矛盾について、天台はなんらかの答を持
>っていないとおかしいですね。
智は阿含経に価値を認めた形跡はありません。
阿含経についての論述が殆どありませんからね。頭から「小乗」と貶めて、研究した形跡は智の著作から
見出すことは出来ないのが現状です。
中国で当時の「小乗」とは阿含経に基づくものではなく、「阿毘達磨倶舎論」や「律蔵」に基づく宗派だっ
たからなのかもしれませんが。阿含経が実質的に研究され始めるのは、十九世紀に入ってからです。
>天台自身が「五時八経説が間違いだ」とは言うはずないですから(笑)・・・
>1.経典の記述に繋がりにおける誤りがある。
>2.五時八経説が最も矛盾が小さい妥当な解である。
>3.その他の説明。
一切経を釈迦が説いたと信じていたので 1.は考え難いし、堂々と他宗派と法論
>をするには、2.でも弱いような気がしますが・・・
>昼行燈さんはどう考えられますか、それとも天台の説明をご存知なのですか?
智 *1が【堂々と他宗派と法論】をしたと言われるのは、何が根拠となっているのでしょうか?
南三北七(中国・南北朝時代(*2)の十家)のことでしょうか?法論しようにも、時代が違うでしょう。
*1天台智…………567年〜635年 18歳で得度・30歳まで慧思の下で学ぶ。
*2中国南北朝時代…386年〜589年
重なる期間は22年だけですが、30歳で慧思の命で伝道に入るまで、果願寺から出ていません。
38歳で天台山で法華経の研究を本格的に始めますが、南三北七の十家ではないですよね。
とすれば、【堂々と他宗派と法論】とは「どの宗派」なのでしょう。
108 :
昼行燈 :2000/08/30(水) 02:22
愚乱破さん 3.
>>本来は公明・創価板の内容ではない気もしますが、鹿苑時・方等時・般若時へと
>>続けますか?
>>法華・涅槃時に入るまでは、宗教板の方がふさわしいのではないでしょうか?
>私には、未知に近い領域で(縁が少なかったため)興味はありますが、やはりここ
>ではふさわしくないのでしょうね。
http://mentai.2ch.net/psy/index2.html 心と宗教@2ch掲示板にスレッドを移しましょうか?
さあて、このエンドレスの回廊を抜けるのは、チベットの解釈に頼る、
という手もある、と思うが。
ただ注意しなくてはいけないのは、チベット仏教には作経もあるから。
でもダライラマが輪廻して作ったお経だから偽ではない、という考え方
があるからね。
ま、そして大乗非佛説の突破口は僕が示した。法華経をストレートに読もう。
法華経の序品では、弥勒さんがいままで何回も経験してきたことがおきるだろうと。
今から甚深の妙法蓮華経を釈迦如来がお説きになられると。
ところが十五品では、その弥勒さんでも知らない始めてのことが起こった。娑婆世界
で始めておきた。久遠実成の昔からこんなことは一度もきたことがないことが、だ。
上行菩薩=メシア、って僕は言った。そう娑婆世界にしか現れない救世主。
釈迦は入滅。だからって宗祖本佛じゃ世界宗教にはなれない。ストレートに
考えるなら、
上行=御祖様=救世主
でいき、これを信仰の対象にしていく。いいじゃんそれで。天台は迹門。
本門は、上行=御祖様=救世主でいく。お釈迦さんが付託しているんだか
らいいじゃん。それで。(笑)
ということで、私のHPの予告宣伝をします。(笑)
ネオ日蓮主義を考える。
http://www7.konohana.ne.jp/nichiren.html
さあ、混沌とした矛盾だらけの教義教学とおさらばして、波木井坊竜尊ちゃんという
ご先祖様がなんと御祖様から無辺行菩薩の受記を頂いた波木井の子孫がですね。
青空が晴れ渡るようなすかっ!としたお話をそのうちいたしましょう。(笑)
末法も終焉し再生の世界に!救世主が再臨するぞかし!(爆)
あ、弥勒さんじゃなくって、文殊さんだった!(自爆)
112 :
愚乱破 :2000/08/30(水) 12:23
昼行燈さん<
こんなに遅い時間に更に更に詳しいご解説ありがとうございます。
私の知識が乏しすぎて、お手間ばかり取らせたうえ、何度も何度も確認をさせて
いただき申し訳ありません。
これ以上続けるのは、昼行燈さんにも、ここの他の方にもご迷惑でしょうから、
一応私の理解できた範囲を整理させていただき、終えた方が良さそうですね。
昼>天台智の五時八経説では、成道した釈迦は21日間説き次いで阿含経を説い
>た。なのに華厳経には成道した直後の釈迦が「祇園精舎」で説法されている。
>舎利弗・目連や、大勢の弟子の名も登場する。
>仏伝(阿含経典に基づく)に依れば、初転法輪時の説法相手は五比丘ではなか
>ったか。祇園精舎も後に喜捨されたものだと思う。それが、悟りを開いた直後
>に弟子は数万人を数え、祇園精舎も既に建っていた・・・・。
>おかしくはないか?
愚>天台はそのような矛盾のある五時八経説をとなえたのか?
昼>天台の時代にも、天台以降もこの矛盾を知り得なかった。
>天台智は阿含経に価値を認めた形跡はない。
>阿含経が実質的に研究され始めるのは、十九世紀に入ってからである。
周辺の情報を敢えて削ると、上記のようになるかと思います。
天台は五時八経説と華厳経の矛盾は無いとしている。
そして、阿含経との矛盾は知り得なかった。(研究されていなかった)
ということは、悟りを開いた直後21日間でに弟子は数万人を数え、祇園精舎も
既に建っていた・・・については天台は矛盾とは考えていなかった?
仏伝(阿含経典に基づく)に依れば、初転法輪時の説法相手は五比丘ではなかっ
たか? との問いには(今なら)どう答えるのだろうか?
この通りならば私にも不思議に思われますが、天台、伝教、日蓮などが矛盾でな
いと仰せなら信仰者としては信じます。法華経はこれより百千万億倍も不思議で
すから(苦笑)
ありがとうございました。
113 :
みさき :2000/08/30(水) 13:35
>昼行燈さん愚乱破 さんとの議論の区切りを、つけられるまえに、
55 名前:昼行燈 2000/08/25(金) 23:28
>残念ながら、天台智の時代には、知り得なかったと断言できます(証拠もありますよ)
断言出来るという「証拠」だけは、提示していただけませんでしょうか?
(つっこみ ではありません 要望です。)
114 :
第7の外道 :2000/08/30(水) 14:02
くらくらさん 贅言散人さんへのご返事ありがとうございます。
贅言散人もご自由に参加してください。
みさきさん昼行燈さんお疲れ様でした。お二人の論争が一段落ついたところで、私個人の「法華経」観も少し書いてみたいと思います。ただ以下に書くことは、見ると分かる通りあくまで私の憶測・推測に基づくものですし、それに対立する立場の論拠を覆すような体のものではないので、ご意見・ご批判には喜んで応じますが「論争」には応じかねます。あらかじめご了承ください。
ひゃっきまるさんが「法華経は、釈迦の生涯に起こった重要なイベント(成道、梵天勧請、初転法輪、入涅槃など)を神話化して表現したストーリー(フィクション)である、と見るのが妥当なところではないでしょうか。」とおっしゃっていますが、私もそれに同意です。法華経は、「法華経製作者(この中には、「覚者」といっていいような人も混じっていたのかも知れない)」が、「これぞ釈迦の真意に違いない」と解釈したものを、「釈迦」に託して論じたものだと考えるのが妥当だと思います。
私はそう考える理由として、気の利いた研究を引用する力量がないので、法華経の内容面から私的に感じるところを述べてみます。
115 :
第7の外道 :2000/08/30(水) 14:03
法華経の中心思想が「一乗思想」「久遠本仏思想」の二つであるのは周知のことですが、このうち「一乗思想」について言うと、これは「覚者への道は万人に開かれている」というのを釈迦の本意だと解釈した法華経製作者たちが、製作者たちの時代状況に照らしてそれを再構成したもの、と見るのが適当ではないかと考えます。
法華経における「一乗思想」は、「釈迦」の説法の内容を見てもわかるとおり、「三乗(声聞・縁覚・菩薩)」の存在が前提となっており、「声聞」が「仏弟子」・・・「部派仏教」をイメージする概念である以上は、少なくとも「部派仏教(=小乗)」が成立していないと成り立ちません。部派仏教が釈迦の入滅後に成立したのは明らかですし、また法華経における「一乗思想」は、「声聞」などと切り離した形では展開されていないので、少なくとも現存する「法華経」の「一乗思想」の部分は、〈釈迦の入滅 → 部派仏教の成立〉の後に成立したものであることは確かでしょう。
また、法華経における「二乗作仏」の主張が成立するには、それ以前に二乗の不成仏を主張する立場が確立していないといけませんから、〈釈迦の入滅 → 部派仏教の成立 → 部派仏教への批判としての最初期の大乗運動〉の後に法華経が作成されたと見るのが、法華経の内容からしても自然であろうと思われます。釈迦が生前に「一乗思想」をその字義とおりに説いた、と考えるのは、こうした順序を考えると不条理な感があります。
無論「声聞」を歴史的存在としての「部派」と切り離して独自の定義を与えれば(例えば人の教えにただ従うだけで自ら悟ろうという覇気の欠けた者、という風に普通名詞化していけば)、五時八教的解釈でもつじつまは合ってくると思いますが・・・。
116 :
第7の外道 :2000/08/30(水) 14:03
ついで「久遠本仏思想」ですが、簡単に言うと「釈迦が成道してから無限に近い時が流れている。ブッダガヤで成道したというのは方便であり、真実ではない」というものです。しかしこれに如来寿量品「良医の譬」を加えて考えれば、結局その内容は、「ブッダガヤでの釈迦の成道と、クシナガラでの釈迦の入滅は、釈迦の方便としての姿であって、本来の『釈迦』はずっと昔から成道していたし、これからもずっと生き続けている」というものでしょう。
これは「仏に至る道は釈迦個人が初めて発見したものではなく、それ以前からもあったはずの『永遠性』のある思想なのだ」という風に(象徴的に)解釈すれば、「初期仏教とある形で連絡して通じあう」という言い方もできることはできる、と思います。事実そうなのかも知れませんが、ただもしそうだとすると、何も「地涌の菩薩」を登場させるなどの手の込んだ舞台立ては要らないわけで、ストレートにそう言えばすむことです。あくまで法華経製作者たちは、釈迦は「ガヤで成道→クシナガラで入滅」という限定した生を送った存在ではなく、生きている人間であれば誰でも出会える存在なのだということを強調したかったようにおもえます。
この啓示のような内容を信じるかどうかはもはや「信仰」の問題ですが、ただどちらにしても、これを入滅前の釈迦が大勢の会衆の前で説いた、という法華経の設定にはやや釈然としないものを感じます。
例えば「良医の譬」ですが、これは「病気の子どもたちは、良医である自分=父が生きているとそれに甘えて自ら病を治そうという気力を持たない。そこで自分が死んだということにすることで、悲しみの中から自ら病を治そうという気になり、父の残した薬を飲み、そして病は癒えた。この通り、釈迦が『入滅した』というのは衆生の自覚を促すための方便である。実は釈迦は死んではいないのだ」という内容です。
しかし私にとってどうも釈然としないのは、こうした内容のメッセージは、「死んだと見せかける」はずの本人が、生前に「それは見せかけだ」と言ってしまってはほとんど意味がなくなる、というより逆効果になる、ということです。
117 :
第7の外道 :2000/08/30(水) 14:04
良医が、自分が死んだと子どもたちに信じさせる前に、「死ぬというのは見せかけなんだ」と子どもたちに言ってしまったら意味がありません。しかし、法華経で釈迦がやっているのはこれと同じことです。満堂の会衆(子どもにあたる)に向かって釈迦(良医にあたる)が、自分が入滅する前に「自分が死ぬ、というのは方便だ」と言ってしまっているわけです。これではせっかくの釈迦の説法も効果をほとんど失ってしまうのではないでしょうか(というより逆効果になってしまうのではないでしょうか)。釈迦が内証で特定の人に漏らした、というのなら話はわかるのですが。
「久遠本仏思想」は、「釈迦は死んでしまった」というのを前提として持っている者に対して初めて、それを覆すような効果を持つものです。つまり「釈迦が死んだ=入滅した」という認識が一般化していて初めてその効果があるものですから、「如来寿量品」は、釈迦の入滅が歴史的事実として認められている状況をふまえて、製作されたものだと思います。その主旨が「釈迦の入滅」を前提につくられているのであれば、これを法華経が記述するように「釈迦が入滅する前に説いた」とするのはどことなく不自然(矛盾とまでは言えませんが)な感じがするのですが、どうでしょうか。
(無論、これを釈迦が「死んだ」後の衆生のために説いたのだ、と見ることは可能ですが、それでも法華経説法の場にいた大勢の会衆にとっては効果の薄い説法であった――それらの会衆にとっては、釈迦は「良医」とは言えなくなる――ということには変わりないと思います。)
以上の点から、法華経は、そのメッセージからしても、「釈迦の入滅」という歴史的事実をふまえて成り立ったものだと感じます。文献学的解釈は別としても、法華経のメッセージの内容から見てもこれを釈迦が生前に説いたとは、私には納得しがたいのです。無論だから法華経には価値が無い、ということを言いたいわけではなく、その思想的価値はまた別の観点から論じられるべきです。ただ法華経自体は、釈迦の死というのを前提にしている人たちを前に、法華経製作者たちが、自分たちなりの「釈迦の真意(一乗思想)」と「釈迦観(久遠本仏思想)」を訴えようとして、釈迦に仮託して製作した「神話的フィクション」であるとしたほうが、私には納得がしやすいです。
たぶんこういう疑問点は、法華経を何度も丁寧に読んでらっしゃる方はおそらく一度は感じ、そして克服してきている疑問点ではないかと思うのですが(^^;・・・。ご批判などあればお願いします。
118 :
愚乱破 :2000/08/30(水) 16:16
第7の外道さん<
> 正直いって、「宗教」(イデオロギーといってもいいですが)が社会を「変革」
> してそれで社会の「幸福」が増進した、という例を知らないんですよ・・・。
> ある問題は解決したが別の問題が生じた、支配者と被支配者の中身がいくらか
> 入れ替わった――そんなんばっかりじゃないですか、歴史って? 何かいい例
> をご存知ですか?
世界史、宗教史に暗くて(何にでも暗い)いい例は知りません、悪い影響ならたし
かに有ったと思います。法華経あるいは、せめて大乗仏教がその国の主な宗教に
なった例が未だないのではないですか? 御書には中国古代のインド・マウリヤ
朝の阿育王が仏法で善政を行った例が見えますが・・・
大聖人は義農(義伏・神農)の世を理想としていたようですが、古代中国というこ
としか知りません。(実在したのか仏法と関係あるのかすら知りません)
良医の譬の有効性のお話は面白いと思いました。ただ譬はあくまで譬ですので、
その主旨以上に範囲を広げて考えると誤ることが有ると思います。
事前に死が嘘だと知っていたら逆効果になるのは納得できますが、だから入滅も
方便だと知っていたら、逆効果だろうとは必ずしも言えないと思いますが・・・
入滅が方便だと信ずることによって、むしろ精進を続けられるのではないですか
ですので、事前に教えて置くことが有効になるかとも思います。
入滅してしまってからでは教えられない(笑)・・・外してますか?
119 :
第7の外道 :2000/08/30(水) 20:49
愚乱破さん
>法華経あるいは、せめて大乗仏教がその国の主な宗教になった例が未だないのではないですか?
法華経はさすがに知らないですが、「大乗仏教」というのならば、チベットがまさにそれです。あそこはインド仏教をかなり純粋に移植した場所だとされていますが、歴史をざっと見てみると、やっぱり血の匂いとは無縁ではないようです。現在、主流であるゲルク派がチベット全体を牛耳る過程でも、オイラート(?)などの外部の遊牧民系軍事勢力を介入させたりしながらそれなりに血なまぐさい争いをやってきたようです。もっとも、他派を絶滅するに至るようなやり方はしなかったようで(事実、多様な宗派が並存)、その点はイスラム教などと同じように、それなりの寛容さは持ち合わせていたようですが。(かつてのキリスト教が特殊だったのかな?)
>御書には中国古代のインド・マウリヤ朝の阿育王が仏法で善政を行った例が見えますが・・・
アショーカ王が仏教を支持した例は有名ですが、同時にジャイナ教その他の宗派に対しても大きな支持を与えたようで、特別に仏教だけ、ということではなかったようです。戦乱にあけくれ争いの不毛さにほとほと懲り果てたアショーカ王とすれば、平和を希求し人々に幸福や精神的安らぎを与えられる思想であるならば、全て支持するに足ると思われたのでしょう。もはや敵も存在しなくなったので、今度は安定を、と宗教思想に目を向けたのかも知れません。いずれにせよ、仏法によって世が丸く収まったというよりは、アショーカ王が世を丸く治めるために仏教その他を求めた、ということだと思います。
>良医の譬の有効性のお話は面白いと思いました。ただ譬はあくまで譬ですので、
>その主旨以上に範囲を広げて考えると誤ることが有ると思います。
長ったらしい感想文、読んでいただいたようでありがとうございます。仰る通り比喩ですから、あまりギチギチに解釈するのも問題あるでしょう。けど、
>入滅が方便だと信ずることによって、むしろ精進を続けられるのではないですか
>ですので、事前に教えて置くことが有効になるかとも思います。
ですと、明らかに「良医の譬」は的を外したものになってしまうのでは?
120 :
昼行燈 :2000/08/31(木) 05:11
第7の外道さん
愚 乱 破 さん
法華経を釈迦が説いた。その言行を弟子が纏めたと云う「法華経釈迦説」の立場からすれば…
「あれは何々の譬えである」とかはあり得ません。全て「実際に有ったこと」でないと、「釈迦説」は成立しません。
釈迦が語り、釈迦や弟子の行いとして編集されたものが経典なのです。
地面から菩薩が涌いて出たのも、見聞したから弟子が書いたのでしょう?
塔が中空に浮かんだのも、弟子の経典編集者が見聞したことだと云うのが、釈迦説の前提です。
池田名誉会長は 『釈迦の己心』 のなにがしと理論づけていますが、それならば、【如来の心の中にその光景が
浮かんだ】と釈迦は述べた。と記述されるべきではないでしょうか?
伝承に依れば、経典は500人の弟子の了承の上で成立したものです。500人が全員、その光景を見て、釈迦の
言葉に触れて、釈迦の行いを見て纏められたものです。
如是我聞は、このように聞いた!見た!ではないのでしょうか?
密教経典では「如是我聞」を記していないものが多くあります。
仏の内証を金剛薩多が心で受け取り、代わりに説法をすると云う形式を取ります。
しかし、法華経は阿難や迦葉などの「生身の人間」が釈迦の言行を見聞したとされているのです。
法華経釈迦説を論じるならば、あの神話的光景は納得できません。
121 :
昼行燈 :2000/08/31(木) 05:25
『己心』の何々が許されるならば、全ての宗教聖典は、…聖書などの記述についても「あれは
イエスの心象風景」として奇跡も理論付け出来ますが、学会では『聖書の記述は非科学的』
『現実にはあり得ない』と非難・批判しています。が、法華経の非現実的な描写については
「差し支えない」(池田大作著 法華経の知慧・第一巻より)と述べています。
この件については、五時経判のまとめとして再度論じます。
今回は、感想としてとりとめのない事を書いてみました。
122 :
愚乱破 :2000/08/31(木) 11:06
第7の外道さん<
> > 入滅が方便だと信ずることによって、むしろ精進を続けられるのではないで
> > すか。ですので、事前に教えて置くことが有効になるかとも思います。
> ですと、明らかに「良医の譬」は的を外したものになってしまうのでは?
それについては仰る通りだと思いますが、方便現涅槃のどのことを良医の譬で説
こうとしていると見るかに依ると思います。
私はこの譬は・・・
方便としての死別が相手にとってより益となる目的の為なので虚妄罪を問われな
い。
・・・という意味で外してはいないと思います。
(一般化すれば、相手のための方便は虚妄だと責めてはならないということ)
理由は、譬では子息の本心を悲しみによって取り戻させたわけですが、釈迦の入
滅は渇仰の心を生じさせ、仏を見たいと欲して、意を柔軟にして身命を惜まず信
伏させるためです。そのため、方便として涅槃を現ずるがこれを虚妄と言っては
ならないと事前に示しているのだと思います。
ですので、事前に知らせることや、その効果をこの譬から考えてはいけないと思
います。全てがあてはまればそれはもはや譬では無いですよね。
123 :
愚乱破 :2000/08/31(木) 11:59
昼行燈さん<
私も感想ですが、法華経を読んだ人は必ず疑うところだと思います。
> 釈迦が語り、釈迦や弟子の行いとして編集されたものが経典なのです。
> 地面から菩薩が涌いて出たのも、見聞したから弟子が書いたのでしょう?
> 塔が中空に浮かんだのも、弟子の経典編集者が見聞したことだと云うのが、釈
> 迦説の前提です。
ご主旨は理解できますし、同意できるところですが、弟子が見聞し伝えてきたこ
とを経典編集者が記録した。というこではないでしょうか?
(ポイントは経典編集者は見てはおらず、伝えてこられたことを聞いただけ)
しかし、地面から菩薩が涌いて出たり、塔が中空に浮かんだりしたことを、大勢
の弟子がたしかに見聞したと言っていたことは前提として良いと思います。
> 伝承に依れば、経典は500人の弟子の了承の上で成立したものです。500
> 人が全員、その光景を見て、釈迦の言葉に触れて、釈迦の行いを見て纏められ
> たものです。
> 如是我聞は、このように聞いた!見た!ではないのでしょうか?
500人の弟子がお互いに伝えてきたことを全員で確認しあって纏めたのであっ
て、その光景を見て、釈迦の言葉に触れてということは無かったのではないです
か? 勿論、直接見聞した弟子の記録が残してあれば良かったのでしょうが、そ
れがなかったのは仕方がないですね。 なぜなんでしょう? ご存知ですか?
(その記録を釈迦が検討して承認の印でもしてくれていたらもっと良かった)
※伝承の「経典は500人の弟子の了承の上で成立した」は、私の記憶が不確か
なので昼行燈さんの説明通りにしてあります。(笑)
124 :
第7の外道 :2000/08/31(木) 12:06
昼行燈さん
>法華経を釈迦が説いた。その言行を弟子が纏めたと云う「法華経釈迦説」の立場からすれば…
>「あれは何々の譬えである」とかはあり得ません。全て「実際に有ったこと」でないと、「釈迦説」は成立しません。
>釈迦が語り、釈迦や弟子の行いとして編集されたものが経典なのです。
>地面から菩薩が涌いて出たのも、見聞したから弟子が書いたのでしょう?
>塔が中空に浮かんだのも、弟子の経典編集者が見聞したことだと云うのが、釈迦説の前提です。(中略)
>法華経釈迦説を論じるならば、あの神話的光景は納得できません。
私も納得できません。特に「地涌の菩薩」登場のあたりは、主旨に直接関わるところだけに、あれが「象徴」というのではちょっと問題あると思います。「久遠実成」が説かれるきっかけとなった弥勒の質問は、弥勒が「地涌の菩薩」の実在をこの目で確かめるところが出発点となっているわけですから。序品あたりの記述は主旨とは直接関係がないので切って捨てることもできましょうが。塔の件も然りです。「伝承」されているうちに「誇張」が出てきたとしても、あれの原型になる出来事は確かにあったとしないと、法華経のテーマそのものが揺るがされかねないと思います。
ただそうなったくると、後はそれを「信じる」か「信じない」かという問題になるんだと思います。言うまでもなく私はそれを全く信じませんが、あれを「確かにあったと私は信じる」という立場は可能であるし、「法華経釈迦説」をとる方はそれを信じるのだ、と私は思います(と言っちゃってますが、愚乱破さんはどうなのでしょう?)。そういう立場に立たれるのであれば、それはそれで議論は可能だと思っています。ただああいう情景を「事実だ」と信じるのだとすると、知的に説得力のある意見構築というのは相当犠牲にならざるをえないだろうとは思います。不条理な部分は全て「難信難解」ということになってしまうのかも知れません。
125 :
第7の外道 :2000/08/31(木) 12:07
因みに114〜117は、法華経を釈迦説と見る場合に生じてくる疑問の一例として書きました。法華経が発信しようとした主題は、法華経にある通り釈迦が生前に説いたとするとかえって不条理化してしまうような内容なのではないか、という疑惑です。むろん「法華経釈迦説」の立場からこの疑問に「答えをあてがう」ことは可能だと思います。しかし答えの根拠が経典の中にはなく、解釈者があれこれ工夫しないと一貫した解釈が不可能なものであるならば、経典の真実性そのものは事実上損なわれてしまうと思います。
ただあれの現実性を捨てて「己心中の出来事」とか「象徴」とか解釈するのであれば話は別です。「法華経」はいいが「聖書」はダメ、という理屈は少なくとも成り立たないでしょう。
ところでついでにと言ってはなんですが、ちょっとお聞きしたいことがあります。
インド仏教思想史において、「法華経」というのは一見するとほとんど無視されているようにさえ思えるんですが、これはどういうことなんでしょうか。
「華厳経」「般若経」などは後のインド仏教の中にも有機的に組み込まれていったと思うんですが(華厳→唯心説・密教、般若→空観)、「法華経」がそうなったという話は聞きません。サンスクリット原典も存在しているのに。考えてみれば「法華経」はあれだけ大きいにも関わらず悟りの内容や論理、あるいはそこに到達する方法についての記述が極めて希薄なので、思想的にはあまり問題にされなかったのでしょうか?
126 :
第7の外道 :2000/08/31(木) 12:20
愚乱破さん
そろそろ出かけなければならないので、失礼ですが簡単にご返事を。
>方便としての死別が相手にとってより益となる目的の為なので虚妄罪を問われな
い
これは了解できます。あの譬をそう理解することはできると思います。
しかしあの譬から「事前に知らせることや、その効果をこの譬から考えてはいけない」ということにはならないのでは? あの譬はあくまで「如来寿量品」にあるもので、迹門部分にあるのではありません。「如来の『死』は方便であるが、それは衆生のためである」というだけでなく、「しかし如来は実は死んではいない」というところも等しく重要であると思います。でなければ久遠実成を説いた直後であの譬を出す意味はないのではないでしょうか?
127 :
愚乱破 :2000/08/31(木) 12:38
第7の外道さん<
> 「しかし如来は実は死んではいない」というところも等しく重要であると思い
> ます。でなければ久遠実成を説いた直後であの譬を出す意味はないのではない
> でしょうか?
おっと、そうですね。等しくより、最も重要ですね。 抜けてますねぇ! < 私
128 :
愚乱破 :2000/08/31(木) 13:17
第7の外道さん<
あっ、あと一つ、良薬を置いて行ったことと、法華経を残したことが対比できま
すね。
法華経の法は再帰呼び出しの無限ループに陥りますが(笑)
129 :
みさき :2000/08/31(木) 15:35
<部派の後か?同時並行か?>
釈迦滅後から舎利の分骨を受けて、仏塔信仰がはじまり、やがて全土に広がります。
仏塔の運営は、在家中心におこなわれ、在家主導の仏教を展開した<集団>が、大乗運動の担い手となった可能性は高く、ア−ガマや ジャ−カタ、仏伝文学を、もとにやがて大乗経典群が生み出されていく。
このような、大乗のル−ツは、仏滅後から、<根本分裂・細(再)分裂しながら展開>される出家中心のの流れと<並行>して発展したものと考えることは十分可能だと思います
「教法解釈」に関しても、部派の分析的解釈を示すアビダルマと、他方で大乗の特徴である直観的傾向の解釈も在家中心集団の中で並行して進展したと考えられます。たとえば、般若経典群の最古層の経典成立は、紀元前1世紀までさかのぼると指摘(平川説)される。これは各部派によるア−ガマの文字化と同時期、あるいは、それより早い時期です。
法華経自体は、釈迦に仮託して製作した「神話的フィクションという形式」であることは否定しません。
同時に、「〇〇〇経は歴史的釈迦が説いたか?」などと云う問いの立て方自体も、ナンセンスです。
「釈迦の金口直説の経典」など、どこにも存在しないのですから。
130 :
昼行燈 :2000/09/01(金) 02:00
愚乱破 さん
>ご主旨は理解できますし、同意できるところですが、弟子が見聞し伝えてきたこ
>とを経典編集者が記録した。というこではないでしょうか?
>(ポイントは経典編集者は見てはおらず、伝えてこられたことを聞いただけ)
何度も申し上げていますが、私の立場は「後の人(経典編集者)の解釈」ではなく、経典に基づく解釈です。
【弟子が見聞し伝えてきたことを経典編集者が記録した】際に、自分の解釈を加えたとするなら、日蓮が指
弾・呵責した、『法に依って人に依らざれ』に反することに為ります。
>500人の弟子がお互いに伝えてきたことを全員で確認しあって纏めたのであっ
>て、その光景を見て、釈迦の言葉に触れてということは無かったのではないです
>か?
経典の編集(結集)は互いに釈迦の言葉を聞いた、見た弟子の纏めたものです。聞いていない、見ていない
人も当然居たでしょう。しかし、アーナンダ(阿難)一人だけが見聞したと主張されるものは否定されています。
(律に関してですが)
まして、法華経の会座に連なっていたのは、声聞と呼ばれる人が一万二千人です。選りすぐりの弟子五百人
が結集に参加したからには、【その光景を見て、釈迦の言葉に触れてということは無かったのではないか?】
と云うには無理があります。
>勿論、直接見聞した弟子の記録が残してあれば良かったのでしょうが、そ
>れがなかったのは仕方がないですね。 なぜなんでしょう? ご存知ですか?
古代インドの風習に従った・・・・だけでしょう。
>(その記録を釈迦が検討して承認の印でもしてくれていたらもっと良かった)
釈迦も古代インド宗教の因習から抜け出せなかった・・・・のでしょうね。
131 :
昼行燈 :2000/09/01(金) 03:01
第7の外道さん
124 ・125 のレスに関しては、ほぼ同じ見解です。
>インド仏教思想史において、「法華経」というのは一見するとほとんど無視されているように
>さえ思えるんですが、これはどういうことなんでしょうか。
(中略)
>「法華経」はあれだけ大きいにも関わらず悟りの内容や論理、あるいはそこに到達する
>方法についての記述が極めて希薄なので、思想的にはあまり問題にされなかったので
>しょうか?
私見ですが・・・・・。法華経のサンスクリット原典の出土場所が、インドの辺境の地であるこ
とと関連が有るのかも知れません。(主に西域に限定されていますよね)
法華経の成立・流布が思想的な中心地ではなかったからだと、と推測しています。
観世音普門品は、後に法華経に組み込まれますが、法華経中で観音経のみは様々な影響
を与えていることからも伺えるでしょうね。
観音経に説かれる「呪咀還著」思想とバラモン教の関連を、マハー・バータラ(バール・ミキー
版に基づく)研究の一環としてアタルヴァ・ベーダ例文を引いて説明を受けた事があります。
私の推測(憶測)に依るものなので、正しいか正しくないかは、今後の研究に期待しています。
132 :
愚乱破 :2000/09/01(金) 10:24
昼行燈さん<
経典等の知識において圧倒的な差のある私とやりとりしていただいているこを感
謝しております。
昼行燈さんにとりましては常識のようなことも私には解からないことが多いため
ご迷惑をおかけしていることをお詫びします。
昼行燈さんの釈迦説および経典の定義ですが
> 1.弟子の経典編集者が見聞したことだと云うのが、釈迦説の前提です。
> 2.経典の編集(結集)は互いに釈迦の言葉を聞いた、見た弟子の纏めたものです。
ということなのですね。
創価学会でも経典の結集は釈迦滅後から700年くらいの間に4〜5回行われた
としていますが、経典というのは、釈迦滅後、釈迦と接触のあった弟子が生きて
いる間に行われたものだけをいうことになるわけですね。(そうすると第1回結
集だけだと思いますが)
私は第1回の結集によって文字化されることからは洩れたが伝承はされていた釈
迦の説法が、その後に(編集者の解釈としてではなく)結集されたことを考えて
“その光景を見て、釈迦の言葉に触れてということは無かったのでは”と言った
のですか、たしかに昼行燈さんの定義だと否定されますね。
> 【弟子が見聞し伝えてきたことを経典編集者が記録した】際に、自分の解釈を
> 加えたとするなら、日蓮が指弾・呵責した、『法に依って人に依らざれ』に反
> することに為ります。
私もその通りだと考えていますが、しかし、私の質問の引用をまじえたこの文を
置かれますと、編集者が自分の解釈を加えることを私が肯定しているように受け
とられそうですね。(ーー;) (仮定文とはなっていますが・・・)
大乗経典の成立に関して、地域性なんかはなかったんでしょうか?
法華経の場合盛んに”東方からの菩薩・如来”の出現が多いでしょ?浄土系の菩薩や如来
さんは西側から出てくる。西に対して東がデフォルメされてでてくるんで、経典成立に
関して印度の地域性が関わっているんではないかという話もありますよ。
如是我聞の枕言葉で始まりますけど、この”我”なんですけど、だれなんでしょうか??
ア〜ナンダさんではないように気がしますが。
経典成立の上でヒントになるやもしれません。
134 :
名無しさん@1周年 :2000/09/02(土) 04:35
波木井坊竜尊さん、あんた知って、ワザと質問してなさるだろ。(藁)
135 :
sage :2000/09/02(土) 11:37
波木丼無視して再開希望
136 :
みさき :2000/09/02(土) 18:21
<法帰依 & 仏帰依>
大乗経典は仏塔と関係が深いが、しかし仏塔信仰がそのまま大乗仏教ではない。阿含の「涅槃経」や「ミリンダ王問経」などには、仏塔礼拝の功徳によって来世に天に生れることを説いている。すなわち仏塔礼拝によって生天の果を得るとなすのであり、生天は仏教の本筋ではないと見ている。
仏教のの目的は「苦からのの解脱」であるが、それは涅槃に入ることによって完成するのである。たしかに、仏塔を礼拝するだけでは、たんに功徳を積むだけのことであるから、生天の果報以外には期待出来ないわけである。
「四分律」には「菩薩道を学ぶに、能く髪爪を供養すれば、必ず無上道を成ず」と言っているが、しかしたんに髪爪塔供養だけで無上道を成ずることは考えられないのであり、かく主張するためには、それだけの教理的基礎ずけが必要である。それなしにかく唱えても、それはいたずらに空虚なひびきをもつのみであろう。その点「法華経」は仏塔信仰の背後にある仏陀観を深化し「寿量品」において「仏寿無量」の教理を展開し、さらに「方便品」において、諸法実相、一乗の教理を説き、この二つの教理を総合する 「場」 として、仏塔を活用している。そこに仏塔信仰が成仏の修行たりうる理由が示されている。
部派仏教は「法」を立場とする仏教である。阿含の「涅槃経」にも、仏陀は臨滅に際して、阿難に 「阿難よ、我によって説かれ、教えられた法と律とが、我が亡きあとに、汝らの師である。」と説き残したという。
仏陀の説き示した「法と律」が仏陀にかわるのであるという認識がある。これが部派仏教の仏陀観であった。
すなわち部派仏教は法を立場する仏教であり「法帰依」の仏教である。
このような教理から、「永遠なる人格仏」の観念が発達することは不可能である。法の実践以外に仏教はないと見るところに仏陀の救済を待望する思想が生まれることは不可能である。
続く
137 :
みさき :2000/09/02(土) 18:22
「永遠なる人格仏」の観念は、仏塔信仰に内在していたものであることは、すでに示したが、この「救済仏」の観念も当然仏塔信仰の中に含まれていたと考えるのである。すでに見たごとく仏塔は、最初から在家信者によって管理されていた。そして仏塔に巡礼する人々は主として在家信者であったと考えてよい。しかも彼らは、仏陀の説示した法をそのまま実践できない人びとである。
出家の弟子は仏陀の示した戒律を守り、法を実践していたからいつかは解脱に達する希望があったわけである。しかし在家信者は法を完全に実行出来ない人々である。したがってかれらが救われようと欲すれば、どうしても仏陀の加護を求めなければならなかった。自力で修行をすることの出来ない人々は神仏の加護を求める以外救われる道はないからである。
船橋一哉博士は阿含における実践道を研究してこれを在家道と出家道にわけておられる。そして在家道の実践は「福徳」であると規定された。そしてその代表的な教説は、施論・戒論・生天論であるといわれる。すなわち在家の人は布施をなし、五戒を守り、来世に天に生まれるという道を進というのである。これは阿含経を資料とするかぎり、妥当な解釈であると思う。これ以外の解釈は出てこないであろうが、しかしここにとどまるかぎり、生死の世界から解脱することは達せられないことになるだろう。したがって仏教徒としての意味が否定されることになろう。
すなわち在家信者は、出家教団の生活を維持していくために、布施をなすだけの存在になってしまう。たんに手段としての存在意義しかないことになろう。
しかし仏陀が、かかる意味で在家の仏教徒を認めたとは考えがたい。すなわち仏陀は在家者の立場で、仏教的修行をなしうることを認めて優婆塞・優婆夷をみとめられたであろうと思う。
ただ残念ながら、現存の阿含経には、在家者の仏教的修行について明瞭な教説が少ない。しかしこれは阿含経が出家者によって編集され出家者によって伝持されたために、在家者にたいする教説は、その多くが脱落してしまったであろうとおもわれるなである。
その点、仏塔は仏滅直後から、在家者によって管理され護持され、在家者によって伝承されてきたから、そこには仏陀が在家者に説かれた教えが、保存され伝承される可能性があったのである。
初期大乗仏教の研究 平川 彰(平川彰著作集 第4巻) より
138 :
第7の外道 :2000/09/03(日) 00:03
みさきさん
どうもです。最近、あるテーマのもとにいろいろ文献の引用を書きこまれていますが、それに対するみさきさんのスタンスには今一つ分かりにくいものがあります。そこで若干質問をしたいのですが。
>法華経自体は、釈迦に仮託して製作した「神話的フィクションという形式」であることは否定しません。
>同時に、「〇〇〇経は歴史的釈迦が説いたか?」などと云う問いの立て方自体も、ナンセンスです。
>「釈迦の金口直説の経典」など、どこにも存在しないのですから。
これはよく分かりますが、最近の引用の流れを見ていると
「大乗経典(含法華経)にも釈迦の直説ではないとしても、その『本意』は反映されている。阿含経典にのみ排他的に釈迦の『本意』が反映されているのではない」
ということを伝えようとしているかに見えます。それでよろしいのでしょうか? 引用等のみさきさんの「意図」をご説明いただければと思います。さもなくば、議論なりなんなりを始めようにも手がかりが有りません。
またそれとは別に、引用された文の中に
>その点「法華経」は仏塔信仰の背後にある仏陀観を深化し「寿量品」において「仏寿無量」の教理を展開し、さらに「方便品」において、諸法実相、一乗の教理を説き、この二つの教理を総合する 「場」 として、仏塔を活用している。そこに仏塔信仰が成仏の修行たりうる理由が示されている。
というのがありますが、面白い話題だと思います。「法華経」がどのようにして「仏塔信仰」を「成仏の修行」たらしめるのか、興味があります。平川氏は何か詳しい解説をされていますか? あるいはみさきさんはこの点についてどのように解釈しますか? ご意見お聞きできたらと思います。
139 :
第7の外道 :2000/09/03(日) 00:27
昼行燈さん
>私見ですが・・・・・。法華経のサンスクリット原典の出土場所が、インドの辺境の地であるこ
>とと関連が有るのかも知れません。(主に西域に限定されていますよね)
>法華経の成立・流布が思想的な中心地ではなかったからだと、と推測しています。
ご返事ありがとうございます。ガンダーラやカシュミールでは経量部や説一切有部が盛んだったという記憶がありますが、たとえ彼らが「法華経」に触れ得たとしても、多分無視したのでしょうね・・・。
140 :
みさき :2000/09/03(日) 11:09
>あるテーマのもとにいろいろ文献の引用を書きこまれていますが、
>引用等のみさきさんの「意図」をご説明いただければと思います。さもなくば、議論なりなんなりを始めようにも手がかりが有りません。
129<部派の後か?同時並行か?> および 136 @`137<法帰依 & 仏帰依> の書き込みは、あなたの114~117の書き込みにたいする感想みたいなものです。
論争はしませんが、意見・批判・感想を・・ということでしたね?。
>「法華経」がどのようにして「仏塔信仰」を「成仏の修行」たらしめるのか、興味があります。
平川氏は何か詳しい解説をされていますか?
>あるいはみさきさんはこの点についてどのように解釈しますか?
大乗の出現は、家庭や職業を持つ、在家信者の「解脱」という観点を考えれば、ある意味で、必然的に起こった運動ではないかと考えます。一連の引用は、あなたの意見とは異なる観点もあるでのでは。ということです。
ただ、法華経の内容の解釈については、ご立派な解釈ですね。という以外、何も申し上げることはございません。
141 :
政教分離名無しさん :2000/09/03(日) 11:24
142 :
第7の外道 :2000/09/03(日) 16:50
みさきさん
>129<部派の後か?同時並行か?> および 136 @`137<法帰依 & 仏帰依> の書き込みは、あなたの114~117の書き込みにたいする感想みたいなものです。
>論争はしませんが、意見・批判・感想を・・ということでしたね?。
左様でしたか・・・。部派とプレ大乗運動(? 在家仏教の動き)とが同時並行していたとは面白い論点だと私も思います。何もなかったところからいきなり在家仏教の動きが勃興し、「大乗運動」を形成したとは確かに不自然でしょうから、釈迦の時代から綿々と続いていた仏塔信仰を核とする在家仏教が、強固に自己を組織化しつつある部派に対抗し、力量ある指導者のもと自前で経典を準備し「大乗」を展開していった。・・・憶測に憶測を重ねれば、部派の出家教団と、それをささえてきた在家教団の間でトラブルがあって、在家教団が出家教団からの独立を宣言した・・・なんて事態も想像できるかも知れません。
ただ釈迦の教え自体は部派の出家教団の中で口承によって堅く伝えられ、在家教団に対してそれとは別個の教えが体系的に説かれたことはなかったのではないかと私は「想像」しています。出家と在家の間には「教え」という面においてある種のヒエラルキーは存在したのでしょう。大乗側にとって唯一の思想的「武器」は、釈迦の「真意」と信ずるものを自ら「主体的」に「解釈」して提示する、ということだったのでしょう。そこに「釈迦の直説」というのとは独立した大乗の思想的意義というものもあるに違いありませんが、それにしても自分たちと対立していた可能性もある部派の出家たち(声聞)も含めて「一切皆成」を主張した法華経のスタンスには、面白いものがあります。(すいません、以上はみさきさんの引用に対する全くの「感想」です(^^;)
143 :
政教分離名無しさん :2000/09/05(火) 09:17
あげます
144 :
. :2000/09/07(木) 10:02
.
145 :
もともと :2000/09/12(火) 00:58
どーも、お久しぶりです。復活してたんですねぇ。嬉しく思います。
あれから私も、少し勉強してきました。まぁ、舞台の仕事で海外に、
長期いってきたので、前の板が使えなくなってしまってどうなったか
心配だったのですけどね。また、学会や正宗ではなく、日蓮宗の信者
として、議論に参加していけたらと思います。
第七さん、愚乱さん、お久しぶりです。また、よろしくね、ちゅっ(笑)
146 :
愚乱破 :2000/09/13(水) 12:24
もともとさん<
おひさしぶりですね。
ここの皆さんはしばらくお留守のようですよ(笑)
前のスレッドでもともとさんは
1.自分の仏性を見事咲かせる為の教えが妙法蓮華経であり、その教えを拠り
所に進んで生きます。という覚悟が成仏つまり悟りを得るためには不可欠
である。
2.悟りへ至るための教えなら法華経でなくても良いが、私としては法華経を
実践するのが一番の近道なのです。
という意味のご発言をされていたと思いますが、1で言う不可欠と2の法華経で
なくても良いの間に矛盾を感じていたのですが・・・
また「拠り所に進んで生(行?)きます」と「法華経を実践する」とはどのような
ことを仰っているのかもう少しご説明いただければと思いますが・・・
147 :
ろびん :2000/09/13(水) 23:12
皆様初めまして。
昼行燈さんの知り合いのろびんと申します。
突然ではありますが、昼行燈さんは9/2にお亡くなりになりました。
昼行燈さんのレスをお待ちになっている方がいらっしゃるのでは・・・?と
気になっており、お知らせさせていただきました。
昼行燈さんの新たな旅立ちの為に、
ご冥福とともに、追善のお題目を送らせていただきます。
それでは失礼いたします。
148 :
>ろびん氏 :2000/09/14(木) 01:06
死因はご存知ですか?
149 :
政教分離名無しさん :2000/09/14(木) 10:43
>147
以前、この掲示板で昼行燈氏とやりとりをしていたものです。彼から、たくさんのご教授をいただきました。このスレッドが3日以降常連の書き込みが止まっているので気になっていました。やっぱい噂は本当だったんですね。ところで第7の外道さん一度書き込みをして、貴殿のほうは身辺大丈夫かどうかお知らせいただけますでしょうか。私も危険をおかして過去レスの責任上、今日、最後のレスをあるスレに書き込むつもりです。
150 :
政教分離名無しさん :2000/09/14(木) 10:45
ひゃっきまる氏もお願いします。もし、書き込みが行われないようであれば、噂は本当だと信じて、私も身辺に気をつけようと思います。
151 :
政教分離名無しさん :2000/09/14(木) 10:53
今でも信じたくはありませんが、昼行燈氏のご冥福をお祈りします。
152 :
政教分離名無しさん :2000/09/14(木) 10:58
昼行燈さんって創価に殺されたんですか?
153 :
政教分離名無しさん :2000/09/14(木) 11:06
>149
どういう噂でしょうか?
ここではまずいですか?
さしつかえなければ、教えて下さい
(ここのロムを楽しみにしていた者です。
154 :
考える名無しさん :2000/09/14(木) 11:11
155 :
政教分離名無しさん :2000/09/14(木) 11:39
149さんあなたの不用意な発言によって混乱が起きてますよ。
156 :
政教分離名無しさん :2000/09/14(木) 11:40
怖くなってきた・・・・・
157 :
政教分離名無しさん :2000/09/14(木) 11:56
>149
あなたの発言は煽り目的ですか。
知り合いのロビンさんの発言を聞く限りにおいては、なんの事件性も
感じないですし、ただ何かでお亡くなり、親切心で、発言を待たれている
人えの連絡をされたように受け取れますが?
あなたの投稿はあまりにも無責任ですよ。
>各位
状況が分かるまではこの件で煽りにとられる可能性のあるレスは
自粛をきぼーん。というわけでsage入れてます(マジ)。
>157
煽りではありません。昼行燈氏には、この掲示板で大変にお世話になっています。今はご冥福をお祈りします。ただ、私には一応の判断基準はあります。創価がやたっとは思いませんが、ロビンさんのレスのつきかたもちょっとおかしいことに気付きませんか?
以下、ROMします。
160 :
若葉マーク :2000/09/14(木) 12:42
>ろびんさん
2chへの書き込みありがとうございます。
創価学会応援隊のチャットで、1度お会いしています。(HN”かば”です)
信じたくはありませんが、ろびんさんが言われるのなら事実ですね・・・。
とても残念です・・・。
昼行燈さんのご冥福をお祈りいたします。
合掌
161 :
ろびん :2000/09/14(木) 12:50
皆様へ
今回の私の書き込みで、こちらのスレッドに混乱が生じまして、
本来のスレッドの意からはずれましたことを深くお詫び申し上げます。
ご遺族の方からお知らせをいただきまして、
「みなさんにメールを送ったのですが、いたずらだと思われてるみたいで、
もし、昼行燈を知ってる人が周りにいたら、知らせてもらえませんか?」
とご依頼を受けましたので、こちらにお知らせさせて頂きました。
昼行燈さんは元々持病を患っておいででした。
死因は持病によるものだそうです。
152・149・150・152様へ
>昼行燈さんって創価に殺されたんですか?
このような発言は、昼行燈さんも大変心を痛めることと思います。
「噂」とはどんなものか存知上げませんが、悪戯な発言であるならば
どうかなさらないように心からお願い申し上げます。
162 :
ろびん :2000/09/14(木) 12:54
152・149・150・152様へ
↓
149・150・152様へ
に訂正いたします。
163 :
政教分離名無しさん :2000/09/14(木) 12:58
159=Refutation ?
情報操作はやめてほしいものだね。
昼行燈さんのご冥福をお祈りします。
164 :
政教分離名無しさん :2000/09/14(木) 12:59
今度は毒殺か・・・・・・・・・・・・・・・
165 :
政教分離名無しさん :2000/09/14(木) 13:06
>164
こんな馬鹿は見た事も無い。
おまえは人間以下だよ。情けない。
166 :
政教分離名無しさん :2000/09/14(木) 13:10
入院していた病院の看護婦もしくは担当医が創価学会員だった可能性が高いです。
過去の例からも分かるように証拠を残さず都合の悪い反創価の人間を始末する
今回はどんな薬品が使われたのでしょうか? 個人も悔しさで一杯でしょう
ご冥福をお祈りいたします
167 :
政教分離名無しさん :2000/09/14(木) 13:11
>161
ろびんさん、ありがとうございます。本当に悲しい限りです。彼の仏教智は、私が学会員に会ったどのような幹部よりも豊かで説得力のあるものでした。もっと彼のレスをきちんと学んでおけば良かったと後悔しています。あとで、過去レスのファイル読み直します。彼のような人に実際に会ってみたかったという気持ちがたえません。
昼行燈さん、ありがとうございました。BBSで出会った人間ですが、一生忘れることはないでしょう。あなたのレスは最も鋭いレスでした。
>161(ろびん)さん
フォローありがとうございました。
>166
だから煽るなって(抑えて、抑えて)。
169 :
政教分離名無しさん :2000/09/14(木) 14:45
166の発言は、2ch・創価公明板の本質をよく表している。
人の死をもBBSごっこのネタにする。
度を超えた悪ふざけだ。
「だから煽るなって」で済まされるのか?
ちなみに故人は、創価学会員の方々とも親交が深い人でしたよ。
ご冥福をお祈りします。
170 :
名無しさん@そうだ選挙にいこう :2000/09/14(木) 16:06
嫌いなとこあったら言えばいいじゃん。
学会はそういうとこだよ。
まっすぐぶつかっていけないあなたの方にも
問題あると思う。
171 :
佐田鬼薔薇聖斗@キティおめ佐田は分裂病(ワラ :2000/09/14(木) 16:09
Refuしゃーーん!!
もう少しなりすましが足りなかったザンスよぉぉぉぉ!!(ヒヒヒ
かかししゃんやギャグ係しゃんみたくちゃんとなりすまさないと
ダメザンスよぉー(ケケケ
これからイッキにウラギっておめ佐田をバクゲキするヨテイだった
のにぃぃぃぃぃぃぃぃいいぃぃぃい!!(ウヒョヒョ
中立派=片山って最低だな
173 :
佐田鬼薔薇聖斗@キティおめ佐田は分裂病(ワラ :2000/09/14(木) 16:13
おめおめ=佐田って最低ダッチャ(激藁
174 :
政教分離名無しさん :2000/09/14(木) 16:18
>171
ってバカ?
>174
聞くまでも無い。
176 :
かかし@一周年 :2000/09/14(木) 16:57
このスレに創価・反創価の争いを持ち込んではいけませんよ。
私は主義が異なりますが、ここはマジメな信仰面を垣間見ることができるスレなので
私的には荒れて欲しくないんです。お願いしますよ >ALL
遅れ馳せながら、昼行燈氏へ、謹んで哀悼の意を表させていただきます。
177 :
第7の外道 :2000/09/14(木) 23:36
大変驚いています。と同じに、未だに信じられません・・・。
ろびんさん、初めまして。この板では昼行燈さんに大変お世話になっていた「第7の外道」という者です。
唐突にこのような問を投げかけるのは失礼極まりないことは重々承知ながら、あえてさせていただきます。あなたのご発言は、本当に信用してよいものなのでしょうか?
昼行燈さんが持病をお持ちなのは知っていました。それが命に関わるものであることも。ご本人が、それとなく打ち明けてらっしゃいました。昼行燈さんが急に亡くなられるというのは、私にとってはそれなりに信憑性を持ちやすい話であるゆえに、強く不安を感じます。
となたでも結構ですから、ネット上で確認できる情報が存在するのなら、ぜひご教示願えませんか? 切にお願い申しあげます。
178 :
みさき :2000/09/15(金) 01:19
ろびんさん初めまして。
書き込みありがとう。
私も、信じられない思いです。
昼行燈さんとの議論から、多くの事を学ばせていただきました。
昼行燈さんのご冥福をお祈りします。
皆様へ
昼行燈さんのご冥福を祈ってくださいましてありがとうございます。
心から感謝申し上げます。
149様へ
161の書き込みの最中に159のレスを頂いたようです。
>煽りではありません。
>創価がやたっとは思いませんが、ロビンさんのレスのつきかたも
>ちょっとおかしいことに気付きませんか?
煽りではないとの事なので、安心しました。
レスの書き方がおかしいとのことですが、何分教養がない者ですので、
ご了承下さいますようお願い申し上げます。
若葉マーク様へ
>創価学会応援隊のチャットで、1度お会いしています。(HN”かば”です)
覚えております。
若葉マークさんにもお伝えしたかったので、確認出来て一安心です。
レスありがとうございました。
第7の外道様へ
はじめまして。
>唐突にこのような問を投げかけるのは失礼極まりないことは重々承知ながら、
>あえてさせていただきます。
>あなたのご発言は、本当に信用してよいものなのでしょうか?
私も最初は信じられずにおりましたので、お気持ちお察し申し上げます。
第7の外道さんにもお伝えしたかったので、確認出来て一安心です。
できれば詳しいお話はこちらでお願い申し上げます。
ろびん用伝言板
http://www19.big.or.jp/~sunshine/soukagakkai/member-room/robin.cgi レスありがとうございました。
180 :
ZEGA :2000/09/15(金) 04:26
昼行燈さん、お亡くなりになったとは驚きました。
今思うと、分量の多いレスがお体に負担をかけていたのではと思えてなりません。
昼行燈さんの仏教に対する深い造詣に敬服していた者として、僕もまた心よりご冥福をお祈りします。
181 :
愚乱破 :2000/09/15(金) 06:10
ろびんさん<
悪いジョークだと思って憤慨していましたが、本当なんですね、未だに信じられ
ません。
昼行燈さんとは、ここで何度かやり取りさせていただいた者です。
未だHNが蓮日さんだったころの書きこみで「わたしのように書物に埋もれるだけ
の人間には・・・」というのを読んだ時、何か不安のようなものを感じたのです
が、まさかこんなに急に・・・・・・・言葉がありません。
ご冥福を心からお祈りいたします。ご家族の方を励ましてあげてください。
昼行燈さんがお亡くなりになった事について一言申し上げます。
私自身もいろんなサイトにおいて「掲示板」「チャット」等で
お会いし、話を交わした事があります。急な訃報に驚いています。
追善のお題目を上げさせて頂きました。心からご冥福をお祈り致します。
184 :
第7の外道 :2000/09/15(金) 16:51
昨年の10月にこの(旧々)スレッドを立てさせていただいてから、昼行燈さんにはずっと参加いただいておりました。私と比較的立場も似ていたせいもあったのですが、何よりこの一年近くずっと議論にお付き合いいただいたことがあって、(以前にも書かせていただきましたが)私は彼に対して一方的に「同志的連帯感」を感じておりました。
昼行燈さんは、深く広範な知識はもちろん、非常に厳格な学問的・批判的精神をお持ちでした。しかし昼行燈さんにとって仏教を研究することは、単に「学問のための学問」だったのではなく、体に爆弾を抱え、「毎日死ぬんじゃないかと不安で発狂しそうでした。〜親しい人が何人も亡くなられて『次は自分の番だ』と眠るのが怖い毎日です。私の地獄はこれからも続きます」とまでおっしゃる苦しみの多い人生のなかで、何らかの「救い」を得るための手がかりではなかったろうかと私は思います。昼行燈さんのこれまでの発言から、彼は釈迦のオリジナルな思想の中に、徹底的に理性的であることと、心の救いを実現する智慧とが両立できる可能性を見ておられた、と私は考えておりました。それは私自身のテーマでもあったので、いずれ昼行燈さんご本人に確認する機会を持てたらと漠然と夢見ておりましたが、それももう不可能なことになってしまいました。
いろいろご教示いただいた知識の内容だけをとっても数え切れないほどのものがありますが、私にとってそれよりさらに重要だったのは、彼のような厳格で鋭い方が見ておられる場所だから、決していい加減なことは書けないぞと強く意識させてもらったことです。お蔭で随分鍛えられ、自分としても成長できたと思っています。と同時に、何か曖昧なことを書いても彼がフォローしてくれるだろう、という甘えが私にあったことも事実です。今後はそんな甘えは許されない、とこの身に刻み込んでいかねばなりません。
最後に、心からの感謝の言葉を言わせていただくことによって、追悼に代えたいと思います。
昼行燈さん、今までどうもありがとうございました。
185 :
本幹皆勤賞@非学会員 :2000/09/15(金) 17:12
昼行燈様
非凡なる才能の持ち主の夭折に
心より哀悼の意を表します。
186 :
おめおめ@おれは生きているぞ :2000/09/15(金) 17:16
この板のビジター各位
ここのスレでの「ろびんさん」のレスをコピペ改造しておれを
亡きものにしようとしていた不届きものがいます。
これは正しく「昼行燈」氏に対する礼を失する行為であります。
いかなる組織に属しているものであっても見つけ次第深く軽蔑
してください。
日蓮仏法自体に対する興味は私自身全くありませんでしたが
真剣な議論に終始されていた数少ない誠実なスレッドであったと
思っています。このスレの住人のような冷静な人が日蓮系信徒の
マジョリティであれば日蓮仏法に対する拒絶反応が生じなかった
と思い、その点が残念です。
昼行燈氏のご冥福を心よりお祈り申し上げます。
187 :
政教分離名無しさん :2000/09/17(日) 01:08
#ろびんさんの「うそだよ〜ん。」っていうResをわずかでも期待していたのだが・・・。
#なんであんなきっちりとしたResができる人格者がサッサと”逝ってよし”になるんだろ。 世の中理不尽だ。
昼行灯さんの冥福を祈り・・・ 口\(T T ) カンパイ
188 :
政教分離名無しさん :2000/09/17(日) 18:42
age
189 :
文底 :2000/09/18(月) 06:05
*ろびんさん
初めまして、文底と申します。
昼行燈さんの件に付きましては、大変重大な情報有り難うございました。
*このスレの常連の皆さんへ
この所、カキコが出来ず大変心苦しい状態でありました。
現在、今私自身は原因不明の病魔と戦っており、ここ数日、体が全く動かずキーボードも打てない状態でした。
ともかく、色々病院を代えて検査しているのですが、未だ病名がわからず不安で仕方がありません。
この様な状態の時、昼行燈さんの出来事は、私にとっては衝撃的でした。
今は、少しでも早く病気の原因を特定し治療して、この場所に戻ってこれる事を励みにしたいと思っております。
皆様の御健勝を心よりお祈り申し上げます。
*昼行燈さんへ
私は現在、頭の中が真っ白な状態であります。
思えば、昼行燈さんは私のこのスレでの書込みに対し、一番最初にレスをくれましたね。
それ以来、私の稚拙な文章での失礼な愚問に対しても、昼行燈さんの誠実で真摯的な姿勢は、最後まで変わりませんでした。
私は、一度もお会いした事のない昼行燈さんに対し、心から敬意を表したいと思います。
昼行燈さん本当にどうも有り難うございました。
そして、安らかにお休み下さい。
190 :
ゴホイ :2000/09/18(月) 10:39
>187
> 昼行灯さんの冥福を祈り・・・ 口\(T T ) カンパイ
よりによってカンパイですか・・・・(´ヘ`;)
191 :
SG :2000/09/18(月) 11:05
昼行燈さんのご冥福をお祈りいたします。
また文底さん、お久しぶりです。
ご病気という貴殿の書き込みを読み、私も久しぶりにここに書き込みます。
原因不明の病とのこと、さぞ不安でありましょう。
どうか気をしっかりと落ち着けて、闘病されることを祈ります。
私も陰ながら一日も早い平癒を祈念させていただきます。
文底さん
お久しぶりです。
カキコがないのも、何らかの理由あってのことだと思っていましたが、まさか病魔と戦っていらっしゃるとは・・・昼行燈さんの件、そしてご自分の病と不安は大きいと思いますが、どうかいつもの緻密な解析力で乗り越えてください。
一日も早く原因が判り、適切な治療によって回復されることを心よりお祈り致します。 あの ”文底さんらしいカキコ”が、このスレで復活することを待ち望んでいます・・・。
193 :
みさき :2000/09/18(月) 17:30
文底さん へ
お久しぶりです。
書き込みがなかったので、みなさんも、さびしい思いをしていたとおもいます。
お体、大切にして、元気になって、戻って来て下さい。
194 :
もともと :2000/09/19(火) 00:22
諸行無常とはいえ、悲しいことですね。、、、一週間ぶりにきたら
こんな事になっていたなんて、、、。
法華経に触れることの出来たものは、長い長い輪廻のはてに如来になれると
いいます。きっと、昼行灯さんも次の菩薩行に赴かれたんではないでしょうか。
いつか、ともに如来として再開出来ます事を祈りたいです。
195 :
第7の外道 :2000/09/19(火) 00:42
文底さん
お久しぶりです、と久々の再登場を喜びたいところですが、そういうわけにはいかないようですね・・・。
原因がよくわからないとはさぞご不安でらっしゃるでしょう。しかし今は余計な事は考えずに、療養と治療に専念してください。一刻も早い完治を願ってやみません。快復のめどがついたら是非知らせてください。無論このレスに対するご返事は要りません。
私のほうもしばらくレスが空いておりましたが、私はただ今健康そのものです。仕事は相変わらず億劫ですが快活に日々を過ごしております。しかし最近ひゃっきまるさんの姿も見ておらず、若干心配であります。
もともとさん
こんちは。せっかく来てくだすったのに議論とは異なる事情でスレッドが回転することになってしまい、私も何と言ったらいいのか分かりません。ただ愚乱破さんからもご返答があったことですし、最近の流れは気になさらずどんどんご発言ください(そうしていただけるほうが個人的にも助かったりして・・・)。私も絡めるようだったら絡みます。
(ただこうして書いていると、昼行燈さんの発言がひょっこり登場してきそうな感覚がどうも拭えなくて困っています。この一年ですっかり癖になってしまいました。いなくなられたという第一報を是認するのも辛かったですが、機会あるごとに心中に浮き上がってくる感覚をいちいち否定しなければならないというのも正直辛いですね・・・申し訳ない、独り言です。)
196 :
もともと :2000/09/19(火) 00:48
うー、それわかるなぁ、、、、。ぽっかり穴があいちゃった感覚
よね。かみ合った話ができるからなおさらだし。2チャンネルじゃ
めずらしいっていうのもあるし、、、。かったと言うべきなのに、
言えない自分がいるっていうか。
197 :
愚乱破 :2000/09/19(火) 06:01
文底さん<
しばらくお見えにならなかったので寂しく思っておりましたが、ご病気だったの
ですね。大変なようですが気を強くもたれ病魔に打勝ち、また前にも増して熱い
書きこみができるようになりますことをお祈りいたします。
「やまひは仏の御はからひか。そのゆへは浄名経・涅槃経には病ある人仏になる
べきよしとかれて候。病によりて道心はをこり候なり。」(妙心尼御前御返事)
・・・命をかけて信じられるものが見つけられますように・・・
文底さんまでご病気を召されているとは思いませんでした……。
一日も早く回復されるよう祈らせて頂きます。
どうぞご安静にしていて下さい。
皆様へ
昼行燈さんのご冥福を祈ってくださいましてありがとうございます。
心から感謝申し上げます。
こちらのスレッドをご遺族の方がご覧になりたいとのことなので、
URLをお知らせさせて頂きます。
常連の皆様へ
はじめまして、ろびんと申します。
常連の皆様の確認が出来て一安心致しました。レスありがとうございました。
何かございましたら、こちらの伝言板に書き込みお願い申し上げます。
ろびん用伝言板
http://www19.big.or.jp/~sunshine/soukagakkai/member-room/robin.cgi みさき様へ
>書き込みありがとう。
いえ、心苦しくもお知らせさせて頂くことは私の役目と思っておりました。
愚乱破様へ
>悪いジョークだと思って憤慨していましたが
私もこちらのスレッドの常連でしたら、書き込みを読んで間違い無く
初めは悪質な悪戯と憤慨することと思いますのでお気持ちお察し申し上げます。
混乱を招いてしまい、ご迷惑をおかけしましたことを深くお詫び申し上げます。
>ご家族の方を励ましてあげてください。
皆様のお気持ちを胸に、微力ながらもご遺族の方のお役に立ちたく思います。
文底様へ
>昼行燈さんの件に付きましては、大変重大な情報有り難うございました。
いえ、昼行燈さんの書き込みを楽しみに待っていらっしゃる方々に、
常連の皆様に、是非お知らせせねば・・・と思っておりましたので。
文底さんのお体の方、大変心配です。
どうかお大事になさって下さい。
一日も早く回復されることを祈ります。
おめおめ@おれは生きているぞ様へ
>ここのスレでの「ろびんさん」のレスをコピペ改造しておれを
>亡きものにしようとしていた不届きものがいます。
そのような悪質な悪戯をされてしまったのですか・・・
悪用した方に代わってお詫び申し上げます。
187様へ
>#ろびんさんの「うそだよ〜ん。」っていうResをわずかでも期待していたのだが・・・。
それはこのスレッドの皆さんも同じ思いであると思われます。
期待はずれのレスになってしまいました・・・
200 :
遅れたけど :2000/09/29(金) 10:42
昼行燈さん亡くなられたのですね。旧掲示板の保存しておいたスレッドの中から
このような文章を見つけました。ご冥福をお祈りいたします。
221 名前: 昼行燈 投稿日: 1999/12/14(火) 03:21
泡姫さん
私の場合は人間扱いはしてもらえません。世間では邪魔者扱いです。
ある日突然、心停止の状況に陥りました。原因は心臓疾患です。
何度も仮死状態になり、結局手術を受けましたが、機能的には
健常者には成れません。身体障害者です。毎日死ぬんじゃないかと不安で
発狂しそうでした。今でもその状況は変わりません。
何度自殺を考えたか分かりませんが、勇気が無いので出来ませんでした。
結婚など夢の夢です。人を好きに成ることすら許されません。
外見では五体満足に見えるのでしょう。苦しくて電車の身障者の席に座って
いると、露骨に非難の視線を投げ掛けられます。
仕事でも動けないで呼吸を整えているのを見ると、「何をサボっているんだ」と
罵声も浴び続けました。
それまで、車椅子の人を見かけると、「可哀想」と同情していたのは、自分が
そんな姿では無いと云う優越感だったことに気づいたのです。
親しい人が何人も亡くなられて「次は自分の番だ」と眠るのが怖い毎日です。
私の地獄はこれからも続きます。自分の力ではどうする事も出来ませんし、
仏様の「慈悲」や人様の「理解」で抜け出せるものでもありません。
私が悲嘆に暮れているときに、学会員はすきま風のように忍び込み、
「この信心をすれば助かる。このご本尊様は願いが叶うのよ」と、ある時は
囁き、ある時は吠えます。
「あなたの病気は前世の業なのだから、お題目を唱えないと治らない」
などと、何度も繰り返し言います。
前世の業などと言われても、私は自分の意識には有りません。
繰り言に成ってしまいましたが、私が泡姫さんに、勝手に夢を託しているのは、
地獄を見て、這い回った人間でも、自分の努力と信念で幸せを掴んでいただきたいと
願うからです。
私は身体的にも環境面でも「幸せな境涯」とは言えませんが、それを補って余りある
精神的な幸せを得たと思っています。
それでも正直、死ぬのは怖いです。
201 :
第7の外道 :2000/09/29(金) 10:52
>200
ひょっとしてメディスンさんですか?(違っていたらすいません)
私もそのレスは保存していました・・・
202 :
あらためて昼行燈氏のご冥福をお祈り申し上げます。 :2000/09/29(金) 12:07
交流はなかったROM人ですが、このレスを涙なくして読めなかった
ため立ち寄らせていただきました。
203 :
荒しさんへ :2000/09/29(金) 15:59
↑ の方のように、惜しんでくれる人が居る死に方が出来ますか?
204 :
メディスン :2000/09/30(土) 06:46
信じられません・・。
昨日ものすごく久しぶりに来たら、スレッドがなくて今日やっと見つけたと思ったら・・・。
涙が止まりません。
私がこのスレッドを見つけた頃、いろいろな意味で人生に本当に悩んでいました。
連日と名乗られていた頃の昼行燈さんと第七の外道さんの議論、他のみなさまの議論にも
どれだけ勉強させていただいたか・・・。
特に博識で理知的な昼行燈さんの書き込みには、いつも目を開かせられました。
昼行燈さんをとても尊敬していました。
悲しいです。
205 :
贅言散人 :2000/10/01(日) 00:19
久しぶりにネット環境に復帰してみますと、余りにも悲しい出来事
を目の当たりにしてしまいました。
心から昼行灯様のご逝去を哀悼し、謹んでご冥福をお祈り申し上げ
ます。
世の中を何にたとへん朝ぼらけ
漕ぎゆく舟の跡のしら浪
沙味満誓
206 :
ひゃっきまる :2000/10/10(火) 13:22
お久しぶりです。少し体調を崩しておりました。一部の方々に心配をおかけしたようで、申し訳なく思うと同時に、ネット上のみでの友情に不思議なものを感じています。ありがとうございます。
昼行燈さんの、こころよりの御冥福をお祈りいたします。いろいろな思いがあるのですが、やはり言葉にして表現するのはためらわれます。また、形にできないものでもあります。一度直接お会いしたかったと、今さらながら思っています。
やはり人生というものはとてつもなく重く、それゆえに宗教というものもとてつもなく難しく、重いものだと実感しました。若さのせいにするつもりもありませんが、分かっていたつもりでも、やはり今までの態度に反省せざるを得ないものを感じています。
このスレッドの他に、三つ程、僕が立ち上げて書き込みをしているスレッドがありますが、当分の間は勝手ながら、書き込み中止とさせていただきます。理由は、(僕自身の問題として)学会員と議論する動機、意義がなくなってきたことと、少し疲れたからです。ZEGAさんも定期的な書き込みは辛い状況のようなので、勝手ながらお許し頂きたいと思います(しかし、ZEGAさんに議論を続ける意志がおありでしたら、書き込んだ時に、このスレッドなどで教えて頂ければ、レスを入れます。荒らしを防ぐために、終始sageを使っていた方がいいかもしれませんね)。
また、いずれはこの板からも完全撤退する気持ちでもあります。
ただ、第七の外道さんの仏教観については教えを請いたいという気持ちが強くありますので、もし御都合がよろしければ、「心と宗教」板の方にスレッドを立てさせてもらってもよろしいでしょうか? 題名は、「仏教の空観について」とでもして。
個人的には、「哲学」板の方が内容にもあっているし、博識な参入者によって有意義な議論に展開できそうだと思っていますが、哲学板住人の方々の抵抗にあってしまいますでしょうか・・・。
207 :
政教分離名無しさん :2000/10/11(水) 04:51
age
208 :
第7の外道 :2000/10/11(水) 09:36
ひゃっきまるさん
ご病気だったのですね・・・心配してました。私自身は元気なのですが、昼行燈さんの件があって、このスレを継続させようという意思がやや弱まってきてしまったのが正直なところです。議論も一応終息してきたと認識していますし。ただこの板のほかのスレでは今でもしばしば書きこんでいます。
仏教観といっても、人に何かを系統的に教えられる力量など今の私にはないのですが、別板でスレッドを立てて議論すること自体には賛成です。
ただ場所を「哲学」板にするか、「宗教」板にするかは多少迷いがあります。仏教は、いかにしち面倒くさい議論をするにせよ、最終的にはそれを「人生の具体的局面でそれをどう活かすのか」に結び付けていく作業が不可欠ですが、「哲学」板だとそのへんの意識が共有されにくいのではないか、と不安に感ずるところがあります。その点「宗教」板だと、そういう意識は、特にそう掲げなくても議論参加の前提として成り立つでしょう。しかし議論としてディープになれるのは「哲学」板のほうかなぁとも思います。ちょっと雰囲気も確認してこなくてはなりません。
けど、最終的にはどちらでも構いません。ひゃっきまるさんが相応しいと思うほうでスレ立ててください。私もそこに行きます。
ひゃっきまる さん
「元会員」で書込みをしていた者です。昼行燈さんの事は本当に悲しい限りです。
お久しぶりです。お体を壊されていたのですね。あなたが初めてスレッドを立ててから、いろいろとあなたのレスを読み続けていました。若いけれど理性的に物事を捉えらていらっしゃる方であられると、ある種感心をしながら読んでいました。(ドーキンスと組織拡大の話とか・・・なつかしいですね)。お疲れのようですが大丈夫でしょうか。このスレッドで体調を崩された方が何人かいらっしゃるようですが、皆さんレスでかなり無理をされたんじゃないかと感じております。もっとゆっくりと余裕を持って書かれれば、精神的・肉体的負担は少ないかもしれません。みなさんのレスに本当に色々な勉強をさせていただきました。ありがとうございます。僕もHNは棄てましたが自分がお役に立てる時のみ書込をしております(まだまだいい加減ですが)。これはひゃっきまるさんへのアドバイスですが、「理由は、(僕自身の問題として)学会員と議論する動機、意義がなくなってきた」「いずれはこの板からも完全撤退する気持ちでもあります」とおっしゃられているようですが、あまり断定をなさらず、完全撤退されるのではなく書きたいときに書く、無責任ですがその方が精神的には気楽かもしれません。私は、まだまだ未熟者ですが、今は「なるようになる」「環境や状況に対して柔軟に生きていく」「自分を必要以上に抑圧しない」という姿勢と努力だけは忘れずにこつこつと人生を生きています。でもそれだけで学会にいたときよりも遙かに幸せです。いろいろと考えることも多いでしょうけれど、悠々と強く人生を歩まれて行って下さい。あなたと学会組織の中で出会っていたら本当に話が合ったと思います。今は心身共にお大事にされて下さい。
第七の外道さん
本当にいろいろとご教授ありがとうございました。実は私、個人が特定されるのを恐れて嘘をついていました。私はずっと前に他のあちこちのスレでもう一つのHNで第七の外道さんとやりとりをしました(ヒントは空虚場です)。元会員なので書き込み内容から個人がばれるのが怖かったからです(卑怯ですね。でもトラウマです)。もうひとつのHNで書込をしなくなったのは、僕なりに書けることは書き込んだことと、このスレッドでは皆様からご教授いただくことの方が多くROMに徹したかったからです。たまに覗いておりますので今後ともお体に無理をされないでいろいろと書込、ご教授をよろしくおねがいします。
ひゃっきまる さん
追記です。
あなたが学会の良さを再認識されて組織に戻られたとしても、逆にこれまでのことをふまえて組織から離れたとしても、あなたがご自身の考えで行動されるのが一番いいと思います。どのような道を選択されようと、自分の判断と責任において行動されるのであれば、それがあなたが最も幸せになれる道だと思うからです。くれぐれも健康に留意されて前向きに頑張って下さい。
211 :
ZEGA :2000/10/12(木) 01:14
>ひゃっきまるさん
大変お久しぶりです。お体を悪くされていたということですので、無理にレスされることは避けてくださるようお願いします。
「やってみなくては〜」の議論の方、ほったらかしにして申し訳ありませんでした。
一番話したいところに差し掛かっておきながら、言葉では伝えたいことの万分の一も伝わらない……でも掲示板というシステムでは、言葉でしか伝える方法がない……でも伝わらない……というジレンマで、自分の非力さを感じて書き込むのが嫌になってしまったのが原因です。
この板から完全撤退され、場合によっては心と宗教板に移行されるとのことですが、僕もずっとそうしたいと思っていたところです。長期に渡る論議に疲れてもいますし、アンチと学会員の双方が意見を主張し、第三者にとっては疑問と疑念だけが無限に増殖するシステムに嫌気がさしています。僕がこの板をチェックしているのは、この「日蓮って」と「やってみなくては〜」のスレッドを途中で放棄するのがいやであるという理由からだけであり、この二つのスレッドに一応の終止符が打たれるなら、僕がこの板にくる理由は無くなります。第7の外道さんと同じく、昼行燈さんのご逝去によりこの板で議論を交わす気も弱まっていますし、「やってみなくては〜」の議論の継続の如何はひゃっきまるさんのご意志に沿いたいと思います。
ひゃっきまるさんはこうして戻られましたが、文底さんが依然書き込まれないのが不安です。
くれぐれもお大事にしてください。
212 :
第7の外道 :2000/10/12(木) 11:30
209さん
「空虚場」・・・よーく覚えております。お久しぶりですね。ある時点を境に姿をお見せにならなくなったので気にしていましたが、別ハンで来られていたのですね。
私の書きこみが何らかの形でお役に立ったのであれば、書いた者としても大変嬉しいです。釈迦は「法をよりどころとせよ、自己をよりどころとせよ」と言いましたが、特に学会に限らず、宗教団体は後者のほうをないがしろにすることが多い気がしてなりません。釈迦のメッセージは「自己責任において法を探求せよ。他人に依存するな」というところに主旨があったように思います。難しい問題が次から次へと到来することでしょうが、それらをよろしく克服され、幸多い道を歩んでいかれることを願っています。無論、これは自分に向けた言葉でもありますけど。
ZEGAさん
お久しぶりです。日蓮信仰の根幹に関わるところを議論しようとすると、どうしても深く考え込まざるをえず、結果レスしたりするのが負担に感じられてしまうということになるのでしょうか。
今後議論をする際には、そこから外れたところにテーマを設定していくほうが、もっと気楽に事が進められていいのかも知れません。以前ZEGAさんが「悟り」のイメージについてお聞きになられたように。そうなると、この板は少し相応しくなくなります。
ひゃっきまるさんが別板でスレを立ち上げる準備があるようなので、よろしければそちらに移住しませんか?
213 :
ひゃっきまる :2000/10/12(木) 20:33
>第7の外道さん
>ただ場所を「哲学」板にするか、「宗教」板にするかは多少迷いがあります。仏教は、いかにしち面倒くさい議論をするにせよ、最終的にはそれを「人生の具体的局面でそれをどう活かすのか」に結び付けていく作業が不可欠ですが、「哲学」板だとそのへんの意識が共有されにくいのではないか、と不安に感ずるところがあります。
僕もそういう懸念はあるのですが、そもそも哲学とはそうであらねばならない(「人生の具体的局面でそれをどう活かすのか」)、と僕は思っていますし、古今、そういう立場の哲学も決して少なくはないと考えています。
あと、「日蓮って」の最後の方での「空」の議論は、実在論など、近代の哲学にとっても主要なテーマであると感じたためです。僕は哲学はほとんど知らないのですが、おそらくその辺は、まさに哲学の分野でかなり探究されているのではないでしょうか。
ただ、もちろん「論理を弄ぶ」ような羽目に陥らぬよう、スレッドの立て方も注意しようと思います。とりあえず、「日蓮って(1~3)を見直してみようと思うので、スレッド立ち上げまでに少し時間がかかるかも知れません。
もっとも、外道さんが外道さんのよいと思われるやり方でスレッドを立てて下さるのなら、その方が僕にとってもありがたいです。
>元会員さん
おひさしぶりです。親身なお言葉、本当にありがとうございます。この掲示板に来た最大の収穫は、こうした様々な暖かい人たちに触れられたことです。今後も機会があれば、気軽にやり取りしましょうね。
ちょっと僕は思いつめるところがあるようなので、もっと「いいかげんに」書き込みするようにしますね(^^)
>ZEGAさん
言葉で伝えられることの限界は僕も常日頃から直面していることでもあり、ZEGAさんのおっしゃることにはとても納得できます。「態度決定のプロセス」「創価大学のよいところ」については非常に興味があるのですが、ZEGAさんにとって議論が義務的になってしまっては辛いだけなので、ひとまずは今までの議論は一時中断ということにしましょうか。スレッドは沈めておいて、またよい機会のときに続きをやるということでよろしいでしょうか。
もしよろしければ、外道さんのおっしゃるように、別板で、創価学会とはなれた内容の議論をしませんか?
214 :
ひゃっきまる :2000/10/12(木) 20:34
>第7の外道さん
>ただ場所を「哲学」板にするか、「宗教」板にするかは多少迷いがあります。仏教は、いかにしち面倒くさい議論をするにせよ、最終的にはそれを「人生の具体的局面でそれをどう活かすのか」に結び付けていく作業が不可欠ですが、「哲学」板だとそのへんの意識が共有されにくいのではないか、と不安に感ずるところがあります。
僕もそういう懸念はあるのですが、そもそも哲学とはそうであらねばならない(「人生の具体的局面でそれをどう活かすのか」)、と僕は思っていますし、古今、そういう立場の哲学も決して少なくはないと考えています。
あと、「日蓮って」の最後の方での「空」の議論は、実在論など、近代の哲学にとっても主要なテーマであると感じたためです。僕は哲学はほとんど知らないのですが、おそらくその辺は、まさに哲学の分野でかなり探究されているのではないでしょうか。
ただ、もちろん「論理を弄ぶ」ような羽目に陥らぬよう、スレッドの立て方も注意しようと思います。とりあえず、「日蓮って(1~3)を見直してみようと思うので、スレッド立ち上げまでに少し時間がかかるかも知れません。
もっとも、外道さんが外道さんのよいと思われるやり方でスレッドを立てて下さるのなら、その方が僕にとってもありがたいです。
>元会員さん
おひさしぶりです。親身なお言葉、本当にありがとうございます。この掲示板に来た最大の収穫は、こうした様々な暖かい人たちに触れられたことです。今後も機会があれば、気軽にやり取りしましょうね。
ちょっと僕は思いつめるところがあるようなので、もっと「いいかげんに」書き込みするようにしますね(^^)
>ZEGAさん
言葉で伝えられることの限界は僕も常日頃から直面していることでもあり、ZEGAさんのおっしゃることにはとても納得できます。「態度決定のプロセス」「創価大学のよいところ」については非常に興味があるのですが、ZEGAさんにとって議論が義務的になってしまっては辛いだけなので、ひとまずは今までの議論は一時中断ということにしましょうか。スレッドは沈めておいて、またよい機会のときに続きをやるということでよろしいでしょうか。
もしよろしければ、外道さんのおっしゃるように、別板で、創価学会とはなれた内容の議論をしませんか?
215 :
ひゃっきまる :2000/10/12(木) 21:29
二重投稿すみません・・・
216 :
ひゃっきまる :2000/10/12(木) 21:33
二重投稿すみません。
217 :
ひゃっきまる :2000/10/12(木) 21:33
二重投稿すみません。
218 :
政教分離名無しさん :2000/10/13(金) 17:21
ひゃっきまるさん<
おひさしぶりです、体調を悪くされていたのですね。
どうかお大事になさってください。
文底さんも書き込みができないほどのご様子で大変心配しております。
私も現実に自分の身に“病”や“死”が迫った時には、今以上に宗教の重みを
考えてしまうと思います。
「学会員と議論する動機、意義がなくなった。少し疲れた。」というお言葉に
はちょっと残念な気がしないでもありませんが、しかたがないことでしょうね。
私もこの板に近づくと生命力が落ちるからできたら止めた方が良いと忠告して
下さった人がいたのですが、勉強になると思って参加させてもらっていました。
そしてひゃっきまるさん始め常連さんの皆さんからは非常に多くのことを学ば
させていただいたと思っています。
(生命力はたしかに落ちたような気もしますが・・・(笑)
完全撤退を考えておられるようですが、興味のある時には気軽に書き込まれた
らいかがでしょうか?
また、他にスレッドを立てられることもお考えのようですね。できればROMさせ
ていただきたいと思いますので、またここへでもご連絡していただければと思い
ます。
くれぐれもお体をお大事に元気に過ごされますように!
219 :
政教分離名無しさん :2000/10/13(金) 17:21
ひゃっきまるさん<
おひさしぶりです、体調を悪くされていたのですね。
どうかお大事になさってください。
文底さんも書き込みができないほどのご様子で大変心配しております。
私も現実に自分の身に“病”や“死”が迫った時には、今以上に宗教の重みを
考えてしまうと思います。
「学会員と議論する動機、意義がなくなった。少し疲れた。」というお言葉に
はちょっと残念な気がしないでもありませんが、しかたがないことでしょうね。
私もこの板に近づくと生命力が落ちるからできたら止めた方が良いと忠告して
下さった人がいたのですが、勉強になると思って参加させてもらっていました。
そしてひゃっきまるさん始め常連さんの皆さんからは非常に多くのことを学ば
させていただいたと思っています。
(生命力はたしかに落ちたような気もしますが・・・(笑)
完全撤退を考えておられるようですが、興味のある時には気軽に書き込まれた
らいかがでしょうか?
また、他にスレッドを立てられることもお考えのようですね。できればROMさせ
ていただきたいと思いますので、またここへでもご連絡していただければと思い
ます。
くれぐれもお体をお大事にお元気に過ごされますように!
220 :
愚乱破 :2000/10/13(金) 17:24
↑219は私です。しばらく書き込まなかったので名前が落ちて
しまいました。(^^ゞ
221 :
みさき :2000/10/13(金) 22:41
おひさしぶりです。 >愚乱破 さん& みなさん
私も先天性の心臓疾患で、ずいぶん辛いおもいで十代を過ごしました。「心室中隔欠損症」というもので心臓の左右の心室を仕切る壁に穴があいているというものです。
手術して10数年たち、病気は既に過去のものとなっておりますが、昼行燈さんが、同様に心臓の持病をお持ちだったと知り、改めて追善の題目を送らせていただきました。
222 :
愚乱破 :2000/10/14(土) 12:15
みさきさん<
おひさしぶりでした。お元気でしたでしょうか?
みさきさんは心臓の手術をされたのですか、さぞ大変だったので
しょうね。今は、全くご支障ないのですか?
この、スレッドも常連さんが二人、三人と去られて、寂しくなっ
てきてます。
日蓮って、続・日蓮って、日蓮Ver.3と2chとしては奇跡的に荒し
も少なく続いてきましたが、遂に終了を迎える時がきたのでしょ
うね。
また、何時か何処かでお会いできるのを楽しみにしております。
223 :
ZEGA :2000/10/15(日) 01:36
>ひゃっきまるさん
まったく異存ありません。
準備ができしだい、場所を移してお話することにしましょう。
224 :
第7の外道 :2000/10/15(日) 02:27
愚乱破さん、みさきさん
お久しぶりです。以前は昼行燈さんと鋭く対立してらっしゃったみさきさんの上のような言葉を読むと、何やら本当に切ない気分になります。あの時は「これは喧嘩になるか・・・」と心配したものでしたが、むしろそんな心配していた方が幸せだった、とさえ感じてしまいます。
愚乱破さんの言うとおり、何となくこのスレも終わりに近づいてきたなぁ、と感じます。立ち上げからほぼ一年、多くの人に参加していただき、私自身大変勉強になりました。その中でも、ネガティヴな印象しか持てなかった創価学会の中に、ZEGAさんやお二人のように(タイプは違うが)きちんと筋を通せば対話ができる人物が確かにいる、ということを実感できたのは実に幸いでした。心より感謝申し上げます。もっともお二人は、私を「めんどうな反学会野郎がいるなぁ・・・」という感じでとらえていたのかも知れませんが(笑)。
文底さんが復帰すれば多分このスレに書きこんでいただけると思うし、ひゃっきまるさんも新スレ立ち上げのときにはここに知らせてくれるのではないかと思うので、それが片付くまではできるだけ毎日このスレをチェックするつもりでいます。また新規に議論を始める際には、ぜひいらしてください。まったりといろんな話ができるといいですね。
では。
225 :
愚乱破 :2000/10/15(日) 22:19
第7の外道さん<
直接のやりとりは8月頃でしたから、もうだいぶ前のことになりますね。
その後の第7の外道さんの書き込みは、かなり見かけていましたし、これか
らも機会があればまたやりとりさせて貰うつもりでしたが、時間が経つのは
早いものですね。
> 私を「めんどうな反学会野郎がいるなぁ・・・」という感じでとらえてい
> たのかも知れませんが(笑)。
「反学会野郎」なんてとんでもないです。真理を探求する鋭い姿勢に色々勉
強させていただいて、こちらこそ感謝しております。
それにしても、文底さんのご様子が心配ですね。一日も早くお元気になられ、
文底さんならではの論調の書き込みを、なさって貰いたいものです。
226 :
209 :2000/10/16(月) 19:39
ひゃっきまるさん
>今後も機会があれば、気軽にやり取りしましょうね。
>ちょっと僕は思いつめるところがあるようなので、もっと「いいかげんに」書き込みするようにしますね(^^)
安心いたしました。こちらこそこれからもよろしくお願いします。
第7の外道さん
>難しい問題が次から次へと到来することでしょうが、それらをよろしく克服され、幸多い道を歩んでいかれることを願っています。
あたたかいお言葉ありがとうございます。かっては「二世学会員に聞きたいです」の頃から組織については「元会員」、教義については「***」とHNを使い分けていました。今は両固定ハン共に使っておりません。(ある時から「元会員」を棄てたのは同一HNの方が何人かいらしたのと、なりすましにも会ったからです。今宗教板などでカキコされている元会員氏は私ではありません。)これからもどこかのスレッドで出会うと思いますが、何卒よろしくお願いします。
みさきさん
>私も先天性の心臓疾患で、ずいぶん辛いおもいで十代を過ごしました。「心室中隔欠損症」というもので心臓の左右の心室を仕切る壁に穴があいているというものです。手術して10数年たち、病気は既に過去のものとなっておりますが、昼行燈さんが、同様に心臓の持病をお持ちだったと知り、改めて追善の題目を送らせていただきました。
そうでしたか。人生において絶望のどん底や死の淵から一人の人間が力強く生きようと立ち上がる姿には、信仰というものの強さを改めて感じさせられます。お体を大切にされて下さい。立場の異なる昼行燈さんへのみさきさんの「追善の題目を送らせていただきました」と言う言葉も心に染みるものがあります。
227 :
第7の外道 :2000/10/17(火) 02:01
愚乱破さん
>それにしても、文底さんのご様子が心配ですね。一日も早くお元気になられ、
>文底さんならではの論調の書き込みを、なさって貰いたいものです。
全く同感です。私も強くそのことを願っています。
209さん
「元会員」さんの件は全く気づきませんでした。
>これからもどこかのスレッドで出会うと思いますが、何卒よろしくお願いします。
こちらこそ。というか、もう既に別スレでお世話になっているみたいですね(^-^)
228 :
愚乱破 :2000/10/17(火) 12:23
第7の外道さん<
「題目でDNAが変化する」スレッドで
“法華経は、そのメッセージからも、「釈迦の入滅」という歴史的事実をふ
まえて成り立ったものだと感じます。”
という論議を展開されていましたね。
このテーマはもともとこのスレッドで述べられていたものでしたので、ここ
でもう少し教えていただきたいと思います。
第7の外道さんがそのような感想を持たれた理由として・・・
1.法華経における「一乗思想」は、「三乗(声聞・縁覚・菩薩)」の存在
が前提となっており、「声聞」が「部派仏教」をイメージする概念であ
る以上は、少なくとも「部派仏教(=小乗)」が成立していないと成り
立ちません。
少なくとも現存する「法華経」の「一乗思想」の部分は、〈釈迦の入滅
→ 部派仏教の成立〉の後に成立したものであることは確かでしょう。
2.法華経における「二乗作仏」の主張が成立するには、それ以前に二乗の
不成仏を主張する立場が確立していないといけませんから、〈釈迦の入
滅 → 部派仏教の成立 → 部派仏教への批判としての最初期の大乗
運動〉の後に法華経が作成されたと見るのが、法華経の内容からしても
自然であろうと思われます
3.法華経で釈迦が、自分が入滅する前に「自分が死ぬ、というのは方便だ」
と言ってしまっているわけです。これではせっかくの釈迦の説法も効果
をほとんど失ってしまうのではないでしょうか(というより逆効果にな
ってしまうのではないでしょうか)。
「久遠本仏思想」は、「釈迦は死んでしまった」というのを前提として
持っている者に対して初めて、それを覆すような効果を持つものです。
つまり「釈迦が死んだ=入滅した」という認識が一般化していて初めて
その効果があるものですから、「如来寿量品」は、釈迦の入滅が歴史的
事実として認められている状況をふまえて、製作されたものだと思いま
す。
・・・が挙げられていましたね。(若干言葉を変えてあります、スミマセン)
最初に1の「声聞」は「部派仏教」をイメージした概念である。とあります
が、この概念が妥当だとするのは何によるのでしょうか?
次に2の最初期の大乗運動によって二乗不作仏が確立した。というのは歴史
的に裏付けられているのでしょうか?
昼行燈さんが以前に
多くの二乗(声聞・縁覚)の成仏は小乗と吐き捨てられている「阿含経
典」にも多くの例があります。
と言われていましたが、すでに二乗不作仏という概念もあったので「阿含経
典」にも説かれたのではないでしょうか?
私は経典に疎いのでご存知でしたら教えていただきたいと思います。
最後に3の釈迦が入滅する前に“方便として涅槃を現ずる”と明かしてしま
っては逆効果にすらなってしまう。・・・そうでしょうか?
素直に如来寿量を信じたのなら、迹仏の入滅は意味を持たないと思われま
す。それで何故入滅するのかの説明をしたのではないでしょうか?
また、そうは言っても実際には半信半疑の聴衆にとっては、入滅は相当重い
事実でしょうから、“近くにいても見えなくしている”という如来の神通力
にすがって修行に励むのではないでしょうか?・・・これが真の目的だと思
うのですが・・・
むしろ、このメッセージを残してくれなかったら在世の聴衆も滅後には拠り
所を失うのではないでしょうか?
最後は私の感想になってしまいました(^^ゞ
229 :
第7の外道 :2000/10/17(火) 12:43
外道のちんちんしゃぶってぇ〜。外道はいやらしいこと考えて
ちんぽの先から先走り液がだらだらたれているのぉ〜。
230 :
愚乱破 :2000/10/17(火) 12:44
>229
私でよければしゃぶりますが。
231 :
ひゃっきまる :2000/10/17(火) 12:45
外道のちんぽはあたしがしゃぶるの!!
232 :
ZEGA :2000/10/17(火) 12:46
私のケツはだれが掘ってくれるんだ?
233 :
みさき :2000/10/17(火) 12:46
>232
わたしでよければ。。。
234 :
昼行燈 :2000/10/17(火) 12:49
ワシのちんぽはもう役立たずじゃ(^o^)
先に逝って待ってるゾイ(^o^)
235 :
俵孝太郎@ジョルトコーラ :2000/10/17(火) 12:55
私のケツもお願いします。
236 :
>229〜235 :2000/10/17(火) 12:56
隠居組?
良質スレに下品な攻撃かけるな。
237 :
ギャグ係 :2000/10/17(火) 14:27
しっかし
>234
よくそんな事を書けるねぇ〜。HNも。家族の方が見掛けたらどう思うとか、
全然気にならないの? 本っ気で感心し、呆れるわ。
ホント、あんたみたいのには宗教が必用なのでは? と思うわ。
えっ、煽りに会ってるって? 前からそんな調子ぢゃん。彼等は。
238 :
俵孝太郎@マヂカル頭脳パワー :2000/10/17(火) 14:32
>237
心配なのはおまえの頭だ。この盗人野郎。
239 :
佐田和成@本物。 :2000/10/17(火) 14:32
創価は人の死をおちょくる組織ってのは真実だってことだな。
恥を知れといいたい。
240 :
内藤クンニ男 :2000/10/17(火) 14:33
>239
オマエモナー(藁
241 :
ギャグ係 :2000/10/17(火) 14:36
>238
それで?
俺が盗人だという証拠は?
証拠を出せ、は学会の決まり文句だったろ? 最近見ないけど。
242 :
俵孝太郎@5役自作自演 :2000/10/17(火) 14:36
>239
そしておまえが人の財布に手を入れる人間であることも真実だって
ことだな(笑
恥を知れといいたい。この痴れ者。
243 :
竹入義負 :2000/10/17(火) 14:37
>239
生き恥を晒す痴れ者よ。
仏罰が当たるぞ!
このスレいじっちゃだめだよ
**********************保留**********************
245 :
ギャグ係 :2000/10/17(火) 14:40
>243
今の日本で
「痴れ者」「仏罰が当たる」なんて言うのは学会ぐらいだろうね。
「失われ行く汚い日本語を守る会」ってとこかな。
>244
ゴメソ。つい、、、
247 :
俵孝太郎@マヂカル頭脳パワー :2000/10/17(火) 14:42
>244
こんな駄スレいじるなもくそもないだろう?
248 :
佐田岡正二 :2000/10/17(火) 14:45
>244
あんたのレスを保留したら?
249 :
平沢負栄 :2000/10/17(火) 15:16
おまんこ
>All
もうしわけありませんが、哲学版での新規スレッド立ち上げはもう少し時間がかかりそうです。少し身辺がいそがしいので。
ずいぶん荒されたようですが、荒らしに対しては徹底的に無視での対処をお願いします。また、議論に関係のない単レスはなるべく書き込まないようお願いします。悪気があってのことではないと存じておりますが、荒らし魔の思うつぼになりますので・・・。
251 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/10/19(木) 13:17
age!
252 :
かかし@一周年 :2000/10/19(木) 13:25
>244
いじるならおれのちんぽにしてくれぇ〜。
254 :
1アンチ民間人 :2000/10/19(木) 15:00
おれも本名は岡田っていうんだよ。やだなぁ〜。
255 :
1アンチ民間人 :2000/10/19(木) 15:01
ところで岡田ってだれ?
失礼しました
105というのは別スレでの書き込みです。
このスレのくらくらさんとは別人です。
258 :
1の神戸在住 :2000/10/19(木) 17:09
だあれ?
259 :
第7の外道 :2000/10/21(土) 00:50
260 :
ひゃっきまる :2000/10/21(土) 23:11
>第7の外道さん、愚乱破さん
mentaiで続けられている議論ですが、横レスながら多少疑問点があります。
それは、法華経では「二乗作仏」が説かれているのか? という疑問です。
これは声聞という言葉が何を指しているのか、という問題と関わるのですが、こちらで(愚乱破さんとの議論も含め)議論を続けるためにはmentaiの内容をコピペした方がよいかもしれませんので、少し待ちます。
>421
>大聖人の教えのままに実践してきた、学会の3代の会長のなかに真の信心の血脈があります。
ということですが、それを認めているのは創価学会の人だけです。
これは、町中で「あなたは神を信じますか?私がその神です」といっても
だれも相手にしないのと同じ事です。
血脈が創価学会にあることを客観的に証明してください。
261はスレッド違いです、失礼しました
263 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/10/22(日) 01:42
mentai分を転載します。
228 名前:愚乱破 投稿日:2000/10/17(火) 12:23
第7の外道さん<
「題目でDNAが変化する」スレッドで
“法華経は、そのメッセージからも、「釈迦の入滅」という歴史的事実をふ
まえて成り立ったものだと感じます。”
という論議を展開されていましたね。
このテーマはもともとこのスレッドで述べられていたものでしたので、ここ
でもう少し教えていただきたいと思います。
第7の外道さんがそのような感想を持たれた理由として・・・
1.法華経における「一乗思想」は、「三乗(声聞・縁覚・菩薩)」の存在
が前提となっており、「声聞」が「部派仏教」をイメージする概念であ
る以上は、少なくとも「部派仏教(=小乗)」が成立していないと成り
立ちません。
少なくとも現存する「法華経」の「一乗思想」の部分は、〈釈迦の入滅
→ 部派仏教の成立〉の後に成立したものであることは確かでしょう。
2.法華経における「二乗作仏」の主張が成立するには、それ以前に二乗の
不成仏を主張する立場が確立していないといけませんから、〈釈迦の入
滅 → 部派仏教の成立 → 部派仏教への批判としての最初期の大乗
運動〉の後に法華経が作成されたと見るのが、法華経の内容からしても
自然であろうと思われます
3.法華経で釈迦が、自分が入滅する前に「自分が死ぬ、というのは方便だ」
と言ってしまっているわけです。これではせっかくの釈迦の説法も効果
をほとんど失ってしまうのではないでしょうか(というより逆効果にな
ってしまうのではないでしょうか)。
「久遠本仏思想」は、「釈迦は死んでしまった」というのを前提として
持っている者に対して初めて、それを覆すような効果を持つものです。
つまり「釈迦が死んだ=入滅した」という認識が一般化していて初めて
その効果があるものですから、「如来寿量品」は、釈迦の入滅が歴史的
事実として認められている状況をふまえて、製作されたものだと思いま
す。
・・・が挙げられていましたね。(若干言葉を変えてあります、スミマセン)
最初に1の「声聞」は「部派仏教」をイメージした概念である。とあります
が、この概念が妥当だとするのは何によるのでしょうか?
次に2の最初期の大乗運動によって二乗不作仏が確立した。というのは歴史
的に裏付けられているのでしょうか?
昼行燈さんが以前に
多くの二乗(声聞・縁覚)の成仏は小乗と吐き捨てられている「阿含経
典」にも多くの例があります。
と言われていましたが、すでに二乗不作仏という概念もあったので「阿含経
典」にも説かれたのではないでしょうか?
私は経典に疎いのでご存知でしたら教えていただきたいと思います。
最後に3の釈迦が入滅する前に“方便として涅槃を現ずる”と明かしてしま
っては逆効果にすらなってしまう。・・・そうでしょうか?
素直に如来寿量を信じたのなら、迹仏の入滅は意味を持たないと思われま
す。それで何故入滅するのかの説明をしたのではないでしょうか?
また、そうは言っても実際には半信半疑の聴衆にとっては、入滅は相当重い
事実でしょうから、“近くにいても見えなくしている”という如来の神通力
にすがって修行に励むのではないでしょうか?・・・これが真の目的だと思
うのですが・・・
むしろ、このメッセージを残してくれなかったら在世の聴衆も滅後には拠り
所を失うのではないでしょうか?
最後は私の感想になってしまいました(^^ゞ
264 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/10/22(日) 01:43
251 名前:第7の外道 投稿日:2000/10/18(水) 11:07
愚乱破さん
どうもです。あっちのスレッド見てくださったのですね? こういう言い方をすると愚乱破さんはどう思われるかわかりませんが、非常に的を得たつっこみをしていただけるので、少しホッとしています。仕事に追われる身であるので、少しずつ返事させてください。
なお、ここで私が立っている立場は、近代文献学の成果に基づいて構成された「仏教史」の知識に基づいています。その意味で、ここに私の創意工夫というのは特にありません。主に「岩波仏教辞典」「法蔵館仏教学辞典」を中心に、適宜文献を参考にしています。昼行燈さんのようにはいかないと思いますが、よろしく突っ込みのほうをどうぞ。
まず不正確な表現を使っていることについて、お詫びとともに訂正したいと思います。ここで言う「部派仏教」ですが、厳密に言うと、これだと初期出家教団が根本分裂した後のみを指すことになってしまい、釈迦入滅後〜根本分裂以前の出家教団の意を含意することができません。そこでいわゆる「部派」と、分裂以前の出家教団を広く括って「出家教団」とここでは訂正したいと思います。
ゆえに、228-1、2の部分ですが、こう書きなおすのがより正確であるとなります。どうもご迷惑をおかけします。
〈釈迦の入滅 → 出家教団の保守化・独善化 → 出家教団の保守化・独善化への批判としての最初期の(在家信者を中心とする)大乗運動〉の後に法華経が作成された。
ですから
>最初に1の「声聞」は「部派仏教」をイメージした概念である。とあります
>が、この概念が妥当だとするのは何によるのでしょうか?(これをQ1とさせていただきます)
についてですが、ここも「部派仏教」は「出家教団」とさせていただきます。大変ご迷惑をおかけします。
265 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/10/22(日) 01:43
252 名前:第7の外道 投稿日:2000/10/18(水) 11:08
さて、「声聞」ですが、これはサンスクリットの「教えを聴く者」の訳だそうです。「門弟」「弟子」とも訳せるようで、ジャイナ教でもその用例が見られるということです。アーガマでは在家に対しても使われていたようですが、後に「出家教団」を指すことになりました。「出家教団」(後に部派)は、勿論のこと自分たちは「釈迦の弟子」という強い自覚を持っていました。「声聞」という呼び名に対応するものが歴史上あるとすれば、それは出家教団(後に部派)以外に存在しない、というのが実情のようです。
大乗経典で登場する「声聞」もまたここでいう「出家教団(部派)」をイメージしていることは、色々な点から推測できます。大乗経典で登場する「声聞」には、迦葉などの弟子が登場しますが、彼らは出家教団にとっては言わば祖に当たる存在になります。大乗経典が彼らを登場させたり、時にそれを批判したりするのは、それによって出家教団を批判しているのだ、と考えられています。この際、出家教団に対して投げかけられた非難の表現が「小乗」であり、出家教団自身はそうは名乗らないのはよくご承知のことでしょう。
ただ大乗仏典では、これら「声聞」と「菩薩」が釈迦の取り巻き(弟子?)として同時に登場するものがあり、あたかも「声聞」は、「仏の教えを聴いて修行するが、自己の利益しか求めない者」として、ある種価値の低い者を指す一種の「人間類型」として把握されています。即ち「声聞」は仏の教えを実践する「弟子」一般を指すものではなく、そうした「弟子」の中の一「類型」を指すものに変更されているのです。法華経もそうですね。中国経由で日本に入ってきた仏教は基本的にこの筋を守っているようで、「声聞」は完全に人間類型の一つとして扱われているように感じます。しかしそれはインドでの本来の使われ方からは逸脱したもの(だからダメだ、というのではない)、ということになると思います。
266 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/10/22(日) 01:44
253 名前:第7の外道 投稿日:2000/10/18(水) 11:09
Q2です。
>次に2の最初期の大乗運動によって二乗不作仏が確立した。というのは歴史
>的に裏付けられているのでしょうか?
大乗運動より以前に「二乗不作仏」の概念があったとは考えられていません。理由は以下の通りです。
1/「乗(ヤーナ)」の概念が確立したのは大乗運動においてです。(阿含経において釈迦の教えを「大乗」とたとえている用例があるそうですが私には確認できません。)出家教団を声聞「乗」などといい、「縁覚」「声聞」「菩薩」といった分類を導入するのは大乗でした。
2/ある一定の条件を充たすものは成仏できない(不作仏)、という主張は、大乗以前(例えば釈迦)にはなされていません。もし「二乗不作仏」の概念が大乗以前に確立されていたとしたら、声聞=出家教団とするならば、ある時期の仏教教団は「釈迦の弟子となって出家した者に限り悟りは得られない」ということを主張していたということが成り立ってしまいます。このような教えが当時のインド(いや今でも)で受け入れられるとは思えません。また仏教の思想史的意義の一つにカーストに関係無く悟りを追求することが可能である、という「平等思想」がありますが、「不作仏」の概念はこれに相反します。
>昼行燈さんが以前に
> 多くの二乗(声聞・縁覚)の成仏は小乗と吐き捨てられている「阿含経
> 典」にも多くの例があります。
>と言われていましたが、すでに二乗不作仏という概念もあったので「阿含経
>典」にも説かれたのではないでしょうか?
ですが、昼行燈さんの意図は、「大乗によって『声聞不作仏』としばしば主張されたが、大乗側が『声聞』ととらえている出家者が悟りを得た例が阿含経にはいくつもある。声聞不作仏とは、大乗側の言いがかりに過ぎない」ということだと思います。
阿含経の中では、釈迦の教えを聴いた者が自分も悟りを得た、というシーンが多く登場します。勿論ここでは「声聞」「菩薩」という「乗」の区別自体が成り立っておらず、大乗的な言い方をすればみんなが釈迦の弟子=「声聞」という状態でしたから、ここで「二乗不作仏」の概念が仮にも成り立っていたとしたら、大変な矛盾が生じます。
267 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/10/22(日) 01:46
254 名前:第7の外道 投稿日:2000/10/18(水) 11:10
阿含経(というより、パーリ5部も含めて広く扱うことにしますが)から、私がすぐ挙げられる例を示します。
「そこでバラモンであるスンダリカ・バーラドヴァージャは、師(釈迦)のもとで出家し、完全な戒律を受けた。それからまもなく、このスンダリカ・バーラドヴァージャさんは独りで他から遠ざかり、怠けることなく精励し専心していたが、まもなく、無上の清らかな行いの究極(中略)を現世において自らさとり、証し、具現して、日を送った。「生まれることは尽きた。清らかな行いは既に完成した。なすべきことをなしおえた。もはや再びこのような生存を受けることはない」とさとった。(『スッタニパータ』第3章 岩波文庫版 P99〜100)
「さて、尊者アングリマーラはひとり他の人々から離れ、心をひきしめて努力し、(中略)かの最高の修行生活の究極を、現に自ら深く知り、体験し、獲得して、その境地に安住した。もはや迷いの生は尽きた、修行は完成した、なすべきことはなされた、さらにもう一度迷いの状態に戻ることはない、と彼は深く知った。実に尊者アングリマーラはひとりの阿羅漢になったのである。」(『兇賊の帰依』中部、世界の名著第1巻p500)
※ここでいう阿羅漢は、当時は「仏陀」などと明確に区別された概念ではありませんでした。)
二乗不作仏説は、出家教団が保守化し、エリート集団化してしまったことに対する、在家を中心とした大乗からの思想的反撃であると考えられています。阿含などを見ると、こういう条件のものは成仏できない、という規定がほとんど見られません(アングリマーラに至っては、国王さえ恐れる大量殺戮者でした)。この段階で「出家者は成仏できない」という批判は成立する余地がないと思います。出家教団がエリート化し、さとりへの敷居が高くなるにつれて(当然それは釈迦の存命中のプロセスではなかったでしょう)、そこから疎外される人々の不満が鬱積し、出家教団の独善性を非難する大乗運動の原動力となっていった、というのが一般的解釈だと思います。
268 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/10/22(日) 01:46
255 名前:愚乱破 投稿日:2000/10/18(水) 17:32
第7の外道さん<
突然の嵐に埋もれてしまってお目に止まらないのではと思っていました(笑)
> 仕事に追われる身であるので、少しずつ返事させてください。
どうぞ、お仕事優先で余裕のある時に書き込んでいただければ結構です。
いつもながら、ご丁寧な説明ありがとうございます。
私も一度には応えられないと思いますので、ご容赦願います。
さて・・・
> そこでいわゆる「部派」と、分裂以前の出家教団を広く括って「出家教団」
> とここでは訂正したいと思います。
> ゆえに、228-1、2の部分ですが、こう書きなおすのがより正確である
> となります。どうもご迷惑をおかけします。
>
> 〈釈迦の入滅 → 出家教団の保守化・独善化 → 出家教団の保守化・独
> 善化への批判としての最初期の(在家信者を中心とする)大乗運動〉の後に
> 法華経が作成された。
了解いたしました。“滅後の出家教団”に限れば、論旨は変わらないと思いま
す。
> さて、「声聞」ですが、これはサンスクリットの「教えを聴く者」の訳だそ
> うです。「門弟」「弟子」とも訳せるようで、ジャイナ教でもその用例が見
> られるということです。アーガマでは在家に対しても使われていたようです
> が、後に「出家教団」を指すことになりました。
釈迦在世に既に出家教団は存在していたということは否定されるのでしょうか?
「声聞」は「教えを聴く“能力を持つ”者」なので六道より離れた存在に位置
付けられていると読んだ記憶があるのですが、意味はともあれ在世の出家教団
の中に「声聞」がいたとは考えられませんか?
“後に「出家教団」を指すことになりました。”って何時、誰がどういう理由
でそのように定義したのでしょうか?
また、第7の外道さんは“滅後”の教団に限定していると思いますが、その根
拠もあるのでしょうか?
保守化・独善化するまでは「声聞」とは言わなかったということでは無いです
よね。(笑)
> 「声聞」という呼び名に対応するものが歴史上あるとすれば、それは出家教
> 団(後に部派)以外に存在しない、というのが実情のようです。
私は在世の出家教団の男女の中に「声聞」「菩薩」が居たと理解しているので
「声聞」があるグループを指しているということが納得できないです。
> 大乗経典で登場する「声聞」もまたここでいう「出家教団(部派)」をイメ
> ージしていることは、色々な点から推測できます。大乗経典で登場する「声
> 聞」には、迦葉などの弟子が登場しますが、彼らは出家教団にとっては言わ
> ば祖に当たる存在になります。大乗経典が彼らを登場させたり、時にそれを
> 批判したりするのは、それによって出家教団を批判しているのだ、と考えら
> れています。この際、出家教団に対して投げかけられた非難の表現が「小
> 乗」であり、出家教団自身はそうは名乗らないのはよくご承知のことでしょ
> う。
これは、大乗思想が滅後に登場したと言う前提での解釈になっていると思うの
ですが・・・。
> ただ大乗仏典では、これら「声聞」と「菩薩」が釈迦の取り巻き(弟子?)
> として同時に登場するものがあり、あたかも「声聞」は、「仏の教えを聴い
> て修行するが、自己の利益しか求めない者」として、ある種価値の低い者を
> 指す一種の「人間類型」として把握されています。即ち「声聞」は仏の教え
> を実践する「弟子」一般を指すものではなく、そうした「弟子」の中の一
> 「類型」を指すものに変更されているのです。法華経もそうですね。中国経
> 由で日本に入ってきた仏教は基本的にこの筋を守っているようで、「声聞」
> は完全に人間類型の一つとして扱われているように感じます。しかしそれは
> インドでの本来の使われ方からは逸脱したもの(だからダメだ、というので
> はない)、ということになると思います。
ここが理解できないところです。インド本来の使われ方というのが、前の説明
で充分だと思えないので、なぜ法華経での捉え方では矛盾が生ずるかいまいち
理解できかねます。
269 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/10/22(日) 01:47
256 名前:愚乱破 投稿日:2000/10/18(水) 22:31
第7の外道さん<
前回は、少し言葉に拘ってしつこく問う形になってしまい、失礼を致しまし
た。今回は、できるだけ全体を見てみたいと考えます。
まず、第7の外道さんの結論ですが・・・
“法華経は、その[メッセージからも]「釈迦の入滅」という歴史的事実をふ
まえて成り立ったものだと感じます。”
・・・でしたね。
従って、これを説明するために、「法華経が釈迦滅後に成立したものである」
と言うことを前提として用いてはならないのは当然のことですよね。(笑)
さらに、大乗運動が部派教団の批判として成立した。ということも前提とし
ては使えないですよね。
もちろん、近代文献学の成果に基づいて構成された「仏教史」を否定しよう
というのではなく、論旨からすればという意味ですが・・・
つまり、これを肯定してしまえば、[メッセージからも]という論議をする必
要がなくなってしまうからです。
同様に、「声聞」が滅後の出家教団を指すということも「仏教史」からでな
く経典の上で示される必要がありますね。
そのように再考してみると、「方便現涅槃」を入滅前に説法したことの妥当
性の論議によって結論が導引きだされるか否かが決定できると思うのですが
270 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/10/22(日) 01:48
257 名前:第7の外道 投稿日:2000/10/19(木) 10:42
愚乱破さん
どうもです。私もこの点についてはこれを機会にかっちり意見を固めておこうと覚悟を決めました(笑)。よろしくお付き合いください。
一応、Q3(と勝手に呼んでいますが、構いませんね?)へ進むのは中止して、Q1Q2でやれるところまでやりましょう。では、とりあえずご意見の登場順に。
>釈迦在世に既に出家教団は存在していたということは否定されるのでしょうか?
これについては否定しません。在世中にも出家教団は当然あった、としていただいて結構です。
>「声聞」は「教えを聴く“能力を持つ”者」なので六道より離れた存在に位置
>付けられていると読んだ記憶があるのですが、意味はともあれ在世の出家教団
>の中に「声聞」がいたとは考えられませんか?
ここではあなたと私の「声聞」の定義が食い違っています。私が上に説明した意味の「声聞」なら、在世の出家教団自体が「声聞」であり、「その中に声聞がいた」という言い方は成り立ちません。しかし愚乱破さんの定義、即ち「人間類型としての声聞」(これは上でいう「教えを聴く“能力を持つ”者」と等置しておいていいでしょうか?)ならば、「出家教団の中に声聞はいた」という説は成り立つでしょう。
>“後に「出家教団」を指すことになりました。”って何時、誰がどういう理由
>でそのように定義したのでしょうか?
ここは辞典の言い方をそのまま用いたのですが、私自身少し疑問に感じました。私自身は、出家教団と在家信者との間に距離が開き、両者を同一範疇に収めることが難しくなったことが背景にあるのではないかと推測しました。
271 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/10/22(日) 01:49
258 名前:第7の外道 投稿日:2000/10/19(木) 10:43
>また、第7の外道さんは“滅後”の教団に限定していると思いますが、その根
>拠もあるのでしょうか?
>保守化・独善化するまでは「声聞」とは言わなかったということでは無いです
>よね。(笑)
いえ、在世の教団も含めて考えていただいて結構です。愚乱破さんの立場なら、そこに拘る理由があると思います。無論、「保守化・独善化するまでは『声聞』とは言わなかった」と主張する気はありません。
>私は在世の出家教団の男女の中に「声聞」「菩薩」が居たと理解しているので
>「声聞」があるグループを指しているということが納得できないです。
ここにもあなたと私の認識基盤の相違が示されています。特に「菩薩」です。近代文献学の研究においては、「菩薩」、サンスクリットでは「ボーディサットヴァ」ですが、これはこの語自体が歴史を持っている、つまり普通名詞として最初からあったのでなく、最初は語自体が無かったものが、ある限定された用法で使われ始め、後にその用法が拡大していったという歴史を持っている、とされています。
具体的に言うと、「菩薩(ボーディサットヴァ、さとりを求める者)」という語が登場したのは、仏伝文学(ジャータカ含む)においてであるようで、早くとも前3世紀〜前2世紀以降の登場、しかもその用法は、成道前(前世含む)の釈迦に対してのみ用いられていました。これが、「人間は皆釈迦と同じように覚者になれる」という強い自覚を持った大乗仏教者によって、自己を同定する語として使われるようになった、となるわけです。
(阿含経典に若干「菩薩」という語があるのですが、編纂が釈迦在世時よりかなり後なため、編纂時に流通していた「菩薩」という語をあてがった、というのが実情のようです。しかも用法は成道前の釈迦に限られます。以上についてはいろいろ証拠となるものがあるので、必要であればご説明します。)
この観点から言えば、「菩薩」と名乗る存在が、釈迦の説法の場にいる、ということは概念矛盾になるわけです。
272 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/10/22(日) 01:49
259 名前:第7の外道 投稿日:2000/10/19(木) 10:45
さて、255後半と256についてですが、最初にこの議論の目的について。記憶では、私はこのスレで私の解釈のみが正しい、と主張したことはないと思います。(別スレではここでの論点以上に「現実性の意味」の問題が中心でしたので、また別の話になります。)私の上記の論法を見ていただいても、それは何かの説を「間違っている」と決めるためのものではありません。説得力の比較が問題です。
>これを説明するために、「法華経が釈迦滅後に成立したものである」
>と言うことを前提として用いてはならないのは当然のことですよね。(笑)
これは当然です。上記の私の主張には、出家教団の定義について、そういう解釈を許容する余地がありました。それについては訂正します。
>さらに、大乗運動が部派教団の批判として成立した。ということも前提とし
>ては使えないですよね。
「部派教団」ではなく「出家教団」ですよね? これについては、「あるメッセージが発せられる場合には、それが有意義であるための論理的前提が存在する」という原理が前提になっています。それを前提にするなら、これは説明の要素として使用可能だと思います。
ただ私は、さらにその背景に、「ある事象について複数の解釈が成り立つ場合、より多くの可能性を考慮し、アポリア(難問)の発生を少なく抑えられ、シンプルであり、他の事象の解釈についても有効性が高い解釈を採用する」という原理も前提しています。
このポイントは私の論法のカラクリに関係あるところなのですが、愚乱破さんに直接答えるものではないので、後で参考として提示します。そうしたほうが私の意図もつかみやすくなるでしょうし、何より仕事をほっぽいて3時間かけて書いたものを発表せずにしまっておいては私が気の毒ではないか、という指摘が私自身からあったからです(爆)。
>つまり、これを肯定してしまえば、[メッセージからも]という論議をする必
>要がなくなってしまうからです。
その通りです。もちろん、それは「肯定」の意味によりますが。私としても、学者がそう結論しているからそれだけで証明不要で正しい、とするつもりはありません。問われればできる限りで追加説明や、私なりの解釈を提示します。
>同様に、「声聞」が滅後の出家教団を指すということも「仏教史」からでな
>く経典の上で示される必要がありますね。
文献学による「仏教史」の知識を無条件で正しいとすることがなければ、別に「経典の上」にのみ根拠を求める必要はないと思います。
273 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/10/22(日) 01:50
260 名前:第7の外道 投稿日:2000/10/19(木) 10:46
私の主張の背後にある論法のカラクリです。これを読んでいたたければ、私の主張が単に「文献学的知識による法華経釈迦説の裁断」というのではないことがわかっていただけるのではないかと思います。ご参考までに。
>さらに、大乗運動が部派教団の批判として成立した。ということも前提とし
>ては使えないですよね。
について。
私がここで用いた論法は、一部いわゆる「加上」の理論を応用したものです。これは富永仲基が用いた論法なのですが、その原理は特に富永に限るわけではありません(それ以前に、私は富永を現時点で読んでいない!(笑))。それはつまり、「あるメッセージが発せられる場合には、それが有意義であるための論理的前提が存在する」という原理です。しかし突き詰めていけば、それだけで終わるものではありません。ある事象を解釈するために考えられる複数の体系のうち、何が最も合理的かを判断する、という問題領域がここにはあります。言いかえれば、問題の「解決」自体を問題にする(「解決」が唯一あればそれでいい、というスタンス)のではなく、複数考えられる「解決」のうちどれをどの規準で選択するか、という問題領域がここにはあります。
ここで法華経についての論を一部再論しますが、例えば「二乗は不作仏である」という主張がないところに「二乗作仏」を言うとしたら、一体何のためにその主張がなされるのかその意義(言葉の意味はわかっても)がわからなくなります。そこで「二乗作仏」を存命中の釈迦が言うためには、やはり釈迦の存命中に、「二乗不作仏」が主張されていなければなりません。だとしたら、「二乗不作仏」を釈迦の存命中に主張した者は誰でしょうか?
日蓮は、五時八教説を下敷きにしつつ、別の大乗経典をあげてそれは「釈迦自身だ」とするわけです。そうすると、日蓮自身が感じていたように、釈迦が「二枚舌」を使ったかのように見えてしまうことになり、解釈が難しくなり、新たな問題が生じます。まさに「難信難解」ですが、ご承知のとおり、日蓮は日蓮自身の論法によって、この難点を「解決」しています。
しかしここで重要なのは、日蓮が「解決」した問題には、別の前提、しかもその是非が問われていない前提があるということです。それは「二乗不作仏」を主張したのは釈迦自身だ、という答えです。この点を正しく検討すれば、答えは他にも選択肢が考えられます。例えば釈迦でない者が主張した、という選択肢が。
またそれ以前に、「釈迦が存命中にこうした発言をした」という前提をそもそも与件として扱っていいのかどうかも問題にすることが可能です。「二乗作仏」と「二乗不作仏」の二つのメッセージの発信者が別物である、という解釈もありえるわけです。しかもそれを釈迦に帰す以外の選択肢を考えてもよいはずです。
274 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/10/22(日) 01:51
261 名前:第7の外道 投稿日:2000/10/19(木) 10:47
そこで釈迦の二枚舌問題といったアポリア(難問)の出現を回避し(解決ではありません! 回避です!)、かつ様々な選択肢の中から最も合理的な解を選ぶとしたら、少なくともそれは日蓮の出した解ではなく、私がかつて提出した解のほうがより合理的である、ということになるわけです。(とてつもなく偉そうなことを言ってることになりますが、許してください!(^^;)
逆に日蓮の解釈は、あるいくつかの前提(存命中という前提、釈迦でない者の主張の可能性、など)を、その是非を問うことなく「正しい」とした上で出した解です。ではどちらの解に説得力があるか・・・。より多くの可能性を視野に入れた上で出された解のほうではないか、ということになるわけです
勿論日蓮の解も整合性を持っていますから、これを「誤っている」ということはできません。しかしある事象を整合的に解釈する方法は何種類かありえ、その中で最もアポリアを生み出しにくく、シンプルに体系化でき、かつ当該事項以外の事象の解釈にも有効(五時八教説によってインド仏教史が整合的に解釈できるか? などといった問題。これは当座の法華経問題とは無関係ですが)である体系を選択するのは、私には当然と思われました。(好みや「信仰」の問題を除けばですが。)
この考え方は、私自身が考え出した特殊なものでは勿論なく、「天動説」に対して「地動説」が学者によって是とされた際のロジックを応用したものです。当時の天文知識では、事象を「天動説」でも「地動説」でもどちらで解釈することができたそうで、いろいろな問題に対してどちらの体系でも解を出すことはできたそうです。しかし教会側は、その信仰から「地動説」を検討しようということはそもそもしませんでした。コペルニクス(?)は、「天動説」でも説明できるが、「地動説」のほうがよりシンプルで合理的である、という観点から「地動説」が正しい、と結論したそうです。無論新たな天文学的事実が明らかになるにつれ、「地動説」は新規の事象の解釈にも柔軟な応用が可能だったわけです。「天動説」はそうではありませんでした。
275 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/10/22(日) 01:52
262 名前:愚乱破 投稿日:2000/10/19(木) 13:29
第7の外道さん<
メンタイサーバーがダウンしているみたいですね。書き込みしてもスレッド
が上がりません。ま、荒しの目に付かなくて良いかもしれませんね。(笑)
> 私もこの点についてはこれを機会にかっちり意見を固めておこうと覚悟を
> 決めました(笑)
“これを機会に”なんて気を悪くされたのではありませんか?
今回の「菩薩」に関する情報、大変に興味深く拝見させていただきました。
ただ、これを認めるだけで法華経は非釈迦説で滅後の形成ということになっ
てしまいます・・・。それで「菩薩」の件はちょっと置いておいて・・・
「声聞」の意味についてですが、出家教団が在家信者の間に距離ができた時
から出家教団を「声聞」と呼ぶようになったと推定される。ということです
ね。
その時期は少なくとも、在世中とは考えられない、ということでしょうか?
大乗運動とともに出家教団を「声聞」と(在世にも遡って)呼び、成仏できな
いと批判した。そして、後に出家教団全体ではなくある一部の者を類型化し
て呼ぶようになった。さらに後には(法華経で)それらの者も成仏できるとし
た。
ということになると思うのですが・・・
だとすると、初期の大乗運動からは大幅な歩み寄りがなされたことになりま
すが、小乗と大乗とは南北に遠のきこそすれ接近は今日までしていないと私
は理解しているのですが、そのような歩み寄りが、なぜ起こったとお考えで
しょうか? 私には奇異に感じられます。
また、大乗の中にも出家者は多く存在したと思うのですが、彼らは「声聞」
では無いのですか? ・・・それで大乗の出家教団を救うため柔軟路線を敷い
たとか・・・(笑)
276 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/10/22(日) 01:52
263 名前:愚乱破 投稿日:2000/10/19(木) 14:24
第7の外道さん<
先の書き込みをしてから、260@`261を拝見しました。
これは大変に立派な論文で突っ込みどころが私には見うけられません。
私だけが「天動説」に拘っている気がしてきました。(笑)
一点だけ・・・
二乗作仏について、日蓮大聖人の解と言われていましたが、これは「法華
経」での解だと思います。「法華経」では爾前の経に対して方便・権経とし
て捨てなさいと説かれているわけですから・・・大聖人にとって少しも「難
問」では無かったはずです。他の可能性を考慮する必要が無かったと思いま
す。もちろんこれは天台の五時八教説に従っていることは言うまでもありま
せんが。
277 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/10/22(日) 01:54
264 名前:愚乱破 投稿日:2000/10/19(木) 15:31
第7の外道さん<
「菩薩」の件ではちょっと困りました。
で、ちょっと今までの議論と離れますが、「法華経」が釈迦より相当後世の
創作だとすると、一体誰(等)が創ったとお考えですか?
創作者は釈迦の説を捨てさせようとしているわけですね。しかも釈迦の名を
借りて・・・
釈迦より優れた仏がより深い覚りに基づいて説いたという可能性はどうでし
ょうか? もしそうなら、なにも釈迦の名を借りる必要は無いでしょうし、
そんなに立派な仏がそのようなことをしたとは私には考えられません。
では、釈迦ほどの者ではないが、法華経思想をどうしても世に認めさせたく
てそのような手段を用いたというのはどうでしょうか? もしそうなら、その
人(達)は釈迦に対し相当の悪意を持っていたと考えられるますが、どうでしょ
うか?
これほどの思想性を持つ教えをそのような動機で表したとは思い難いし、序
品に現われた八万の菩薩方で固有名詞を持つ菩薩は十八名それ以降と合わせ
ると約四十名の固有名詞を持つ菩薩がおられます。
ノンフィクションであることを見破られないためには固有名詞は使い難い気
がするのですが、なぜこれほど多くの菩薩名を登場させたのでしょうか?
そんなに多く登場させる必要性が感じられないのです。ただ名前にそれぞれ
意味がありそうで単純な固有名詞ではなさそうですが・・・その点はややフィ
クションぽいような気もしないでは・・・(笑)
・・・で、どうしても最低限の原型は釈迦自身が在世に説いていたとしか思
われないのです。 用語・用法はその編纂時のものが使われたということは
充分あり得ると思うのですが。
(文献の知識が乏しいため勝手な想像をと笑われるとそれまでですが・・・)
278 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/10/22(日) 01:55
265 名前:第7の外道 投稿日:2000/10/21(土) 00:37
愚乱破さん
ここもホントにつながりにくくなってますね。これやばいのかも。場所を変えたほうがいいのでしょうか? レスはこまめに保存しておくようにはしますが・・・。
>“これを機会に”なんて気を悪くされたのではありませんか?
全く問題ありません。感情的にどうこうというものは全くなく、これを機会に自分の論法をきちんと検討してみなければ、と思っただけです。ですから愚乱破さんの、私自身には見えていない角度からの突っ込みは大変ありがたく感じます。
さて、「法華経観」にまで話が進み、いかにもディープになってきましたが、以上の愚乱破さんのレスに対する返答にはもう少し時間をください。内容上思案が必要なせいもありますが、ちょっとこの週末は忙しくなりそうだからです。特に法華経の思想的内容についてはやはり一言したい気持ちがありますし。
よろしくお願いします。
279 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/10/22(日) 01:58
mentai分 コピペ終了
お騒がせ致しました。 m(__)m
280 :
ひゃっきまる :2000/10/23(月) 10:24
愚乱波がお釈迦さまのちんちんぺろぺろ。
281 :
学会草々期派 :2000/10/23(月) 11:29
我々学会員はあくまでも、文底下種独一本門という立場から
法華経ならびにその他、序・流通分たる種種の経典を拝していく
立場で無くてはならない。
仏教をネタにした戯言をまに受けていたら、知らぬ間に謗法者の
悪しき思想にはまってしまうぞ。心して注意せよ。
282 :
ひゃっきまる :2000/10/23(月) 11:35
>281
あなたたちの言動が謗法行為そのものです。池田名誉会長をおかずに
せんずりでもしてなさい。
>281
>文底下種独一本門という立場から
>法華経ならびにその他、序・流通分たる種種の経典を拝していく
これって早い話が
1、諸経の解釈は法華経の論理に従い、法華経と矛盾するものは排除する
2、法華経は日蓮の解釈に基づく
3、法華経及び諸経の記述と日蓮の解釈が矛盾した場合は日蓮の解釈を優先する
つーことでしょ?
やっぱヘン。
>282 なりすましやめろ
284 :
野次馬 :2000/10/23(月) 11:56
>283
さらにいうなら
法華経及び諸経の記述と日蓮の解釈が矛盾した場合は池田の解釈を優先する
285 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/10/23(月) 12:02
>法華経と矛盾するものは排除する
そういう考え方はない。文底下種の法華経の立場から「開会」
するのです。
>2、法華経は日蓮の解釈に基づく
>3、法華経及び諸経の記述と日蓮の解釈が矛盾した場合は日蓮の解釈を優先する
我々は、日蓮大聖人を本仏として信仰しているのだから、ちっとも変ではない。
286 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/10/23(月) 12:07
>284
学会は永遠に日蓮大聖人の「御書」を根本としていく。
よって、そう言う事はありえないぞ。
287 :
野次馬 :2000/10/23(月) 12:11
>284
では永久に池田さんが御本尊を写筆されることはないですね。
288 :
>286 :2000/10/23(月) 12:16
うむ。
289 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/10/23(月) 12:26
>258
>3、法華経及び諸経の記述と日蓮の解釈が矛盾した場合は日蓮の解釈を優先する
>我々は、日蓮大聖人を本仏として信仰しているのだから、ちっとも変ではない。
そんなこと言ったら日蓮は字の読めないハッタリ屋になっちまうぞ!
福永呆源が「釈迦の一番言いたかった般若心経の極意は“観自在”
超能力だった」と言ったのと同じじゃないか?
290 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2000/10/23(月) 12:57
>289
あなたは、日蓮大聖人の文底下種仏法についてご存知無いらしい…
「日蓮大聖人が御本仏」と言う立場から法華経ならびに諸経を拝する
と言う意味ですよ。
291 :
野次馬:2000/10/23(月) 13:41
ニセの御本尊なんか拝んでいるとインポになるぜ。
おれは腋臭のきつい肉体労働者風の角刈り20代後半の勃起野郎
にけつの穴を広げてもらいたい。
無事に終了いたしました。次回はさらに面白い
スレを立てていただきたいと存じます。
293 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/10/23(月) 21:28
↑ここで日蓮を語らなかったらどこで語るんだ。
294 :
第7の外道 :2000/10/23(月) 23:45
279さん
どうもコピペありがとうございます。私がやらねばならないことでしたが・・・ご厚情感謝申し上げますm(_ _)m
愚乱破さん
>「声聞」の意味についてですが、出家教団が在家信者の間に距離ができた時
>から出家教団を「声聞」と呼ぶようになったと推定される。ということです
>ね。
>その時期は少なくとも、在世中とは考えられない、ということでしょうか?
「声聞」に対応する語句は在世中からあったでしょうが、いわゆる「声聞」のイメージは大乗側がつくっていったものでしょうから、おそらくそうでしょうね。
>だとすると、初期の大乗運動からは大幅な歩み寄りがなされたことになりま
>すが、小乗と大乗とは南北に遠のきこそすれ接近は今日までしていないと私
>は理解しているのですが、そのような歩み寄りが、なぜ起こったとお考えで
>しょうか? 私には奇異に感じられます。
いわゆる「北伝」「南伝」という形で把握すればそういう風に見えてきますが、インドではいわゆる「小乗」と大乗の両陣営(?)はかなり盛んに交流していたようです(法華経教団がどうだったのかは知りませんが、例えばナーガルジュナ(龍樹)やヴァスヴァンドゥ(世親)以後インド仏教史上最大の哲学者とされるディグナーガやダルマキールティは、「小乗」の一派とされる「経量部」と大乗「唯識派」とを融合する立場に立っていました)。
295 :
第7の外道 :2000/10/23(月) 23:47
>また、大乗の中にも出家者は多く存在したと思うのですが、彼らは「声聞」
>では無いのですか? ・・・それで大乗の出家教団を救うため柔軟路線を敷い
>たとか・・・(笑)
当初は「保守化した出家教団VS在家信者」という様相で出発したと思われる大乗運動ですが、直にこれはこれで「出家教団」化したみたいです。おそらくこのことによって、以前は「出家教団」を指した「声聞」が、「人間類型」的に把握されるように推移していった(せざるをえなくなった)のではないか、と私は思っています。
>一点だけ・・・
>二乗作仏について、日蓮大聖人の解と言われていましたが、これは「法華
>経」での解だと思います。「法華経」では爾前の経に対して方便・権経とし
>て捨てなさいと説かれているわけですから・・・大聖人にとって少しも「難
>問」では無かったはずです。他の可能性を考慮する必要が無かったと思いま
>す。もちろんこれは天台の五時八教説に従っていることは言うまでもありま
>せんが。
そうですね。これは法華経の解というべきですね・・・。日蓮が他の可能性を考慮する必要はないと考えていたのは、確かにそうでしょう。しかし現在では他の可能性を考える余地が十分あるわけですから、やはりその作業は欠かせないと思います。
「法華経観」についてはもう少しお待ちください・・・。
296 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2000/10/24(火) 01:04
ホー、ホケキョ!
297 :
名無しさん@阿呆 :2000/10/24(火) 10:46
日蓮大聖人における法華経とは、文底独一本門の「法華経」以外には無い。
すなわち、七文字の法華経=「南妙法蓮華経」である。
釈迦の説いた法華経二十八品は文上であり体外である。
ゆえに我々学会員が法華経を語る場合「文底下種三段」の義より
拝さなくてはならない。
>297
教えていただきたいのですが、
依義判文抄って、学会の方にとっては必読書なんでしょうか
299 :
>297 :2000/10/24(火) 11:43
必読書というよりも
やはり、読んだ方がいいとは思います。
日寛上人の書は難解ではありますが…
日寛上人の書は本当に難解で私の低脳では歯がたちません。
どなたかが、かみ砕いて伝えていただければ良いのにと
思っています。
301 :
愚乱破:2000/10/25(水) 12:06
第7の外道さん<
以前の(mentai #253)ですが・・・
> 昼行燈さんの意図は、「大乗によって『声聞不作仏』としばしば主張されたが、
> 大乗側が『声聞』ととらえている出家者が悟りを得た例が阿含経にはいくつも
> ある。声聞不作仏とは、大乗側の言いがかりに過ぎない」ということだと思い
> ます。
> 阿含経の中では、釈迦の教えを聴いた者が自分も悟りを得た、というシーンが
> 多く登場します。勿論ここでは「声聞」「菩薩」という「乗」の区別自体が成
> り立っておらず、大乗的な言い方をすればみんなが釈迦の弟子=「声聞」とい
> う状態でしたから、ここで「二乗不作仏」の概念が仮にも成り立っていたとし
> たら、大変な矛盾が生じます。
昼行燈さんの意図については言われる通りだったのでしょうね、了解しました。
大聖人の文底からは、三世十方の諸仏は皆、南無妙法蓮華経によって成仏でき
たのだということですから、爾前権経でも、それを契機として過去世に下種さ
れていた南無妙法蓮華経を覚って成仏できたのだ、ということです。
ですので、二乗でも成仏の可能性はもともとあったが、法華経でその道を初め
て説かれたということだと思います。
302 :
愚乱波:2000/10/25(水) 12:13
南無妙法蓮華経で絶頂、昇天、エクスタシー!
逝っちゃぅぅぅゥウう〜ー##5!!!
303 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2000/10/25(水) 12:22
創価荒らしも手当たり次第になってきてるな(藁)
逆に考えれば、やっと言論では勝負にならないことを悟ったらしい。
304 :
第7の外道:2000/10/26(木) 02:39
愚乱破さん
法華経は誰が説いたのか、などの問題についてですが、ここから以降は、仏教学的にはほとんど「はっきり分からない」という領域になるようです。ですからここで書くこともそのほとんどは私の「想像」に過ぎません。それでよろしければ、できるだけ答えてみます。大変長くなりますが失礼します。
法華経の作者などについて考えるには、まず法華経のメッセージの性格から考えてみるのも一つの道ではないかと思います。そこで法華経の思想性ですが、それは論理的構成がどうこうとか哲学としてどうこうという次元にあるのではなく、もっと根本的でプリミティヴな、一種の「呼びかけ」に近いものであるのではないかと思っています。
法華経での私の好きな(おそらく愚乱破さんもそうではないかと推察しますが)キャラにご存知「常不軽菩薩」がおりますが、この「常不軽菩薩」のあり方こそ、ある意味法華経精神の典型を表わしているのではないかと思います。ご承知のとおり、彼は「汝は当に仏と作るべし」というのを、なぜそうなのかという理由説明など全くなしに、ただ誰彼構わずひたすら説き続けます。私なりに彼のメッセージを解釈すれば、それは「俺なんてどうせこんなもんだ、と思うな。あなたの存在には価値がある。自尊心を持て」というものではないでしょうか。
こういうメッセージは、自尊心を傷つけられ続けるような生活を強いられる人々にとっては非常に重い意味を持つことでしょう。この場合、こ難しい「理由づけ」などよりも、そのメッセンジャーの人格的魅力のほうがよほど大切だったでしょう。しかし彼は一部の人から迫害を受けます。それは彼の前世での罪の償いのためでしょうか? 真相(?)はそうではないと思います。彼のメッセージは、「俺の人生なんてどうせこんなもんさ」というところで現実と何とか折り合いをつけている人々の精神を逆撫でするからではないでしょうか。
305 :
第7の外道:2000/10/26(木) 02:40
この「常不軽菩薩」に法華経実践者の原型があるとするなら、法華経全体の主題も私なりに理解ができるようになります。万人の存在を尊重するところから、「一乗思想」が展開するのは必然でしょう。何者かを「成仏できない」とする思想を批判し克服しようとするのは当然です。
では「久遠実成」のほうはどうでしょうか? おそらく法華信者たちにとっては、釈迦は、万人の成仏を説き自分たちの自尊心を回復させてくれる存在だったのに違いありません(常不軽菩薩は釈迦の前世の一つにされています)。法華信者たちは、自分たちを励ましてくれる釈迦の存在を自分たちの心の中に感じるとき、生きる勇気を得ていたような人たちではなかったでしょうか。そしてそういう人格的存在を心中に感じることによって励ましをえる、というのは、他の宗教(例えばイエス・キリスト)は勿論、宗教的脈絡を離れたところ(例えば自分の尊敬する人)でも普遍的に成立しています。「久遠実成」とは、「私たちは釈迦の精神とともに生きる」と信じる人たちの情熱的な信仰告白なのではないでしょうか? そして「常に自分たちとともに生きる釈迦」を神話的に表現したものこそ、「久遠実成」だったのではないでしょうか。
そう考えると、法華経は、宗教なるものの最も重要な一面(全てではないかもしれないが)を確実にとらえた宗教書である、ということは断言できるのではないかと私は思います。
で、そんな立場から愚乱破さんの問いに応えてみますと・・・。
>で、ちょっと今までの議論と離れますが、「法華経」が釈迦より相当後世の
>創作だとすると、一体誰(等)が創ったとお考えですか?(中略)
>釈迦より優れた仏がより深い覚りに基づいて説いたという可能性はどうでし
>ょうか?
というのに対してはやはり「分からない」というしかないですが、それを説いた者は釈迦とはまた別のタイプの宗教家だったと私は思います。ゴータマ・シッダッタは非常に理知的な人で、こむつかしい理論は展開しなかったがその話には抜群の説得力があったといいます。そのさとりの内容も、決して理性的アプローチを許さないものではありません。そしてその人への接し方は、来るものは拒まず去るものは追わず、といった風情です。法華経製作者はそういう雰囲気ではなく、人から人への情熱的な呼びかけ、という方向で徹しています。ですから釈迦と比べてどちらが深いか、というのはあまり意味がないと思います。
306 :
第7の外道:2000/10/26(木) 02:41
>もしそうなら、なにも釈迦の名を借りる必要は無いでしょうし、
>そんなに立派な仏がそのようなことをしたとは私には考えられません。
私はむしろ、「釈迦とともに生きる自分」という自覚を強く持った人たちなら、釈迦をさしおいて自分たちの名で法を説く、というのは決してしないだろうと思います。自分たちが自尊心を持って生きられるのは釈迦がともにいてくれるからだ、と信じる人達が、「これこそ私たちの考える釈迦の最重要のメッセージだ」というのを主張するのに、自分の名によって語るというような発想は持つはずもなかったと思います。むしろ自分たちなどどうでもよい、釈迦こそ全てだ、と信じたからこそ「釈迦は語った」としたのでしょう。
>では、釈迦ほどの者ではないが、法華経思想をどうしても世に認めさせたく
>てそのような手段を用いたというのはどうでしょうか? (中略)
>ノンフィクションであることを見破られないためには固有名詞は使い難い気
>がするのですが、なぜこれほど多くの菩薩名を登場させたのでしょうか? (以下略)
この点ですが、私は法華経製作者たちは、世間の常識に合わせて「本当らしく」見せかけることなど最初から考えていなかったのではないかと思います。それにしては登場人物(?)が多彩で多すぎ、描かれる情景が突拍子がなさすぎるからです。おそらく法華経が既成仏教などに受け入れられないというのは覚悟の上だったのではないでしょうか。だから細かい辻褄合わせなどやめて、筋立てはフィクションめいたものにはなっても、メッセージを効果的にヴィジョン化できるような表現形態を選んだのでしょう。(例えば「一乗思想」を表現するためには、思いつく限りの関係者を並べて「全員OK!」とするほうが、メッセージの表現としては効果的に思えたのでしょう。) あるいはもともと法華経製作者たちは歴史感覚というのは特に持っていなかった、という単純な推測も可能ですし、「釈迦はそう言ったんだ。それを否定できる証拠はあるのか?」と開き直ることもしたかも分かりません。しかし確かに言えることは、宗教的メッセージの主張のために筋立てを創作していったのであって、その逆ではない、ということでしょうか。
307 :
第7の外道:2000/10/26(木) 02:42
>・・・で、どうしても最低限の原型は釈迦自身が在世に説いていたとしか思
>われないのです。 用語・用法はその編纂時のものが使われたということは
>充分あり得ると思うのですが。
「最低限の原型」というのが、「成仏の可能性は万人に開かれている」というくらいのものだったら、愚乱破さんのおっしゃる可能性もありえると思います。釈迦がはっきりそう言っているところを、阿含経典などから見つけ出すことは私にはできません。しかしそれは、釈迦の主張からすればごく当然の帰結だったと思います。でもそれは「一乗思想」と同じではない(やはり、一乗思想自体はやはり「三乗」の概念の確立などを待たないと整合的でない、と思います)し、まして久遠実成思想とは、内容上は直結しません。私自身は釈迦の説と法華経を結びつけるには、これでは細過ぎると思っていますし、法華経思想の宗教的価値はそれとは別にしても十分成り立つものである、と思っていますから、「法華経釈迦説」はやはり支持できません。しかしその可能性にかける態度は理解できます。ただそこから「法華経=釈迦の本意、他の経=方便」という見方を引き出すのは ? と思いますが。
308 :
第7の外道:2000/10/26(木) 02:42
余談ですが、私は法華経は誰が説いたか、というのはさほど重要な問題ではないと思っています。それよりむしろ、法華経に重要な意義を見出し、それを真剣に読み継いできた人たちがいつの時代にもたくさんいたということ、そちらの方が重要だと思います。
それに大乗仏教の根本的態度として、人が人に真摯に働きかけ、語りかけていく、そのプロセスにこそ「さとり」がある、というのがあると思うのですが(菩薩思想や「生死即涅槃」など。他者との対話の中に真理はあるのであって、特定の人が財産のように所有しているものが真理ではない、という発想です。それに、そういう態度はそもそも釈迦が示していたわけですが。)、法華経の最も重要な、しかし特定箇所で主張しているのではなく、経全体として表現しているテーマというのも、そこにあると思っています。(法華経はまさに、法を人(?)から人へと伝えていく、そのプロセスが全体の骨組みになっています。) およそ宗教的教典の価値というのはそういうところにあるのであって、権威ある人が語ったから、とか、神が示したから、とかいうところに価値があるのではないと思います。
こうした無限連鎖的な「語り継ぎ」のプロセスの中には、当然「批判」も含まれます。しかしそれでいいのではないでしょうか? 私はそういうプロセスから経典を切り離して、それ自体が「絶対に正しい」とドグマのようにしてしまうのは、その経典を殺すことだと思っています。
法華経読解史上最大の人物といってもいい日蓮でさえ、法華経をただ無謬の聖典として崇め奉ったのではなく、文字通り自分の人生を注ぎ込んで「身読」してきた結果、法華経の読みに新しい可能性を創造してきたわけでしょう? 私は日蓮は正直言って好きではありませんし、彼の読みの結果にも納得しがたい点を多々感じますが、自分の時代に合わせた新しい可能性を絶えず追求していくというその姿勢には率直に敬意を感じます。でもどうも私の目には、日蓮の読みの「結果」ばかりを絶対化し、これを固定化してしまう人が多くいるように見えてならないのです。そんな人(愚乱破さんのことではありません、念のため)を見ると、「ちょっと違うんじゃない?」と感じてしまうのです。
すいません、この部分は完全に脱線です。失礼しました m(_ _)m それ以前のレスも愚乱破さんのご質問に答えるものかどうか自信が全く持てませんが・・・。
309 :
愚乱破:2000/10/26(木) 12:13
第7の外道さん<
大変な長文の書き込みありがとうございました。
近年の文献学?の成果を踏まえた、第7の外道さんのお考えを敬意を持って読
ませていただきました。
ようやく、第7の外道さんのお考えが少しは解かったような気が致します。
釈迦に心酔している後代の弟子(=信者)がこれこそ釈迦の真の宗教的メッセ
ージ(本意)であると堅く信じてはこれを伝えるために法華経を創作した。
そして、釈迦の説法の比較的忠実な記録と思われる経典(=原始経典?)は真
に伝えたいメッセージを受け取るためには邪魔なので捨てるべきだと主張した
(と釈迦が言ったことにした)
第7の外道さんの真に言いたいことはこれではないのは承知の上で、私が疑問
に思うことを抜き出すとこのようになるのですが、これは良いでしょうか?
だとすると、「釈迦とともに生きる自分」、釈迦こそ全てだという信仰心はど
こからきたのでしょうか?
原始経典で伝えられたものでないものを連綿と伝えて来ていないと、そのよう
に釈迦を信ずることはできないのではないでしょうか?そうでなければ、いく
らなんでもやり過ぎとしか思えませんです。
法華経の経典はまだ編纂されていないにしても、そのような教えが伝えられて
いてこそ、第7の外道さんの言われる、“自分たちを励ましてくれる釈迦の存
在を自分たちの心の中に感じるとき、生きる勇気を得ていた”という信仰心を
持てるのではないですか?小乗でそれが得られるのなら、小乗を捨てろと釈迦
が言っているとするにはいくらなんでも無理があるように感じるのですが・・・
教条的な解釈で絶対視することが時に適わずにやがて死滅するしかないであろ
うということには異存ありません。
・・・が、まるで別のものにしてしまったり、まして原典?を否定するような
ことが許されるとは思えません。創った人以外には・・・別のものとして立て
るのならOKなのですが。
310 :
第7の外道:2000/10/27(金) 10:49
愚乱破さん
これ以上の話はホントに私の「想像」による、ということになるので、とてもこれをもって「議論」ということはできなくなってしまいます。もちろん私なりに、与えられた情報から最も合理的な解を探るとこうだろう、という仕方で進めているつもりですので、単なる「空想」と比べたら根拠はあろう、とは思っていますが・・・ですからあくまで一種の「仮説」という見方をしていただけるとよいかと思います。
>釈迦に心酔している後代の弟子(=信者)がこれこそ釈迦の真の宗教的メッセ
>ージ(本意)であると堅く信じてはこれを伝えるために法華経を創作した。
>そして、釈迦の説法の比較的忠実な記録と思われる経典(=原始経典?)は真
>に伝えたいメッセージを受け取るためには邪魔なので捨てるべきだと主張した
>(と釈迦が言ったことにした)
>
>第7の外道さんの真に言いたいことはこれではないのは承知の上で、私が疑問
>に思うことを抜き出すとこのようになるのですが、これは良いでしょうか?
OKです。
>
>だとすると、「釈迦とともに生きる自分」、釈迦こそ全てだという信仰心はど
>こからきたのでしょうか?
>原始経典で伝えられたものでないものを連綿と伝えて来ていないと、そのよう
>に釈迦を信ずることはできないのではないでしょうか?そうでなければ、いく
>らなんでもやり過ぎとしか思えませんです。
私の「解」ですが、結論から言うとその「やり過ぎ」というのを(是非は別として)したんだと思います。
推測の根拠ですが、まず原始法華集団がそういう信仰を持つとしたら、その信仰は、非常に切迫した、切実な状況から生まれたことは間違いないでしょう。法華経のメッセージを見ると、その徹底した平等観からして、この集団は何らかの社会的差別を強く受けていた(から、そこからの解放を求めていた)可能性があります。また出家教団はエリート化してしまっており、この集団は出家教団に対しても疎外感を感じさせられていた可能性も考えられます。というわけで、自分たちの自尊心、生きる意味というのを強く求める、という土壌がまずあったと私は考えます。
311 :
第7の外道:2000/10/27(金) 10:50
ではそんな彼らがなぜ「釈迦への帰依」という思想(というか生き方)を選択するに至ったのでしょうか? 部派の教え以外に別ルートで何か教えが伝わっていたのでしょうか? もしそうだとしたら、彼らは最初から上のような状況に苦しさを感じる必要がなかったでしょう。始めから拠り所とする教えが部派とは別にあったわけですから。むしろそういうのが欠けていたからこそ、それを求めていたのだと思います。
しかし何らかのきっかけは必要です。ただ私は、そこに部派の伝えるアーガマとは別の教えを想定する必要はなく、むしろそうした苦境にある在家信者にアーガマの内容に直接触れる機会があった、というだけで十分ではないかと考えます。
上でも言いましたように、今の私の情報環境からはアーガマ中に「万人成仏」思想があったかどうかを確かめることはできません。しかしアーガマからも、そういう結論を導き出すことは可能です。何よりアーガマでは、釈迦が気さくに在家の者と話し合い、人をさとりに導く姿が多々描かれており、釈迦が学問に通じたいわゆるエリートばかりを相手にするどころか、極めて分かりやすい表現でいろいろな階層の人と語り合っている様が描かれています。
上で述べた在家の人たちにとって、釈迦は、エリート化した部派がさらに自分たちより上に奉っている雲の上の存在だと認識していたでしょう(だから疎外感も生まれるのでしょう)。しかし何かのきっかけでアーガマの内容を知ることができたとしたら、非常に驚いたことと思います。(宗教的智慧はインドでは一種の財とみなされていたので、在家の人たちは普段はアーガマに触れることすらできなかったと思います。)神のごとく思っていた人が、自分たちと同じような身分境遇の人に語りかけ、直接さとりに導いているではないか! しかもこむつかしい教学用語ではなく、自分たちにも分かるような言葉で! しかもそんなシンプルな話が、出家者が最高の権威として崇め奉っているアーガマの内容だったとは! というわけです。(初めて自分たちの目で聖書を読んだキリスト教徒といった感じでしょう。)
私的には、一部在家集団の心に火がつくにはそれで十分だったと思います。それが「万人が成仏できるよ」というのが釈迦の真意であり、因にはいくつ種類があるとか十二支縁起の各部の解釈はこうだというよりもそっちが大事だ、というふうに盛り上がっていったのではないでしょうか。しかし他の大乗諸派のように出家を直接攻撃しなかったのは、それだけ原始法華信者の「平等への意志」が強かった証拠でしょう。しかし部派の出家たちや、他の大乗諸派の協力は当てにはできない。そこで法華経の流布には、既成の仏教組織のいずれにも帰着できない、そしてそれらを超えた新しいイメージが要求された。それが「地涌の菩薩」である・・・。
312 :
第7の外道:2000/10/27(金) 10:51
・・・と、ここまでくるとホントに「空想」といった感じになり気恥ずかしい限りですが、法華経を歴史的事実の報告とみるのではなく、「象徴的ドラマ」ととらえること、そして現在与えられている仏教史的情報から考えると、こういう「空想」が一番ありうる解なのかな、と思うわけです。もちろん私の「説」を裏付けるような資料など今後も現れないでしょうから、これはあくまで一つの仮説でありつづけると思いますが、近代文献学(?)と矛盾しない形で法華経の宗教的意義を求めていく道はあるのだ、という可能性を示すことができたらそれで十分かと思います。またそう読むほうが、私にとっては「釈迦が説いた」とするよりも法華経のメッセージを整合的に受け止ることができるのは確かです。
313 :
愚乱破:2000/10/27(金) 16:28
第7の外道さん<
いつもながらの、熱意のこもった長文の書き込みありがとうございます。
想像だと言われていますので、議論ということでなく、あいまいかな、と思わ
れる点につきまして、2,3ご質問をさせていただきます。
> 推測の根拠ですが、まず原始法華集団がそういう信仰を持つとしたら、その信
> 仰は、非常に切迫した、切実な状況から生まれたことは間違いないでしょう。
> 法華経のメッセージを見ると、その徹底した平等観からして、この集団は何ら
> かの社会的差別を強く受けていた(から、そこからの解放を求めていた)可能
> 性があります。また出家教団はエリート化してしまっており、この集団は出家
> 教団に対しても疎外感を感じさせられていた可能性も考えられます。というわ
> けで、自分たちの自尊心、生きる意味というのを強く求める、という土壌がま
> ずあったと私は考えます。
このような集団のイメージがどうも形成できないのですが、社会的差別は釈迦
以前にカーストとして強く存在していたと思いますが、この集団はどのような
階層からの差別を受けていたとお考えですか?
出家教団からの疎外感とは大乗教団からも小乗教団からもということを意味し
ていますよね。
この集団は別個の教団を形成していたのでしょうか?後で在家信者と表現され
ておられるようですね。
> ではそんな彼らがなぜ「釈迦への帰依」という思想(というか生き方)を選択
> するに至ったのでしょうか? 部派の教え以外に別ルートで何か教えが伝わっ
> ていたのでしょうか? もしそうだとしたら、彼らは最初から上のような状況
> に苦しさを感じる必要がなかったでしょう。始めから拠り所とする教えが部派
> とは別にあったわけですから。むしろそういうのが欠けていたからこそ、それ
> を求めていたのだと思います。
在家信者の集団だとしてなにを信じていたのでしょうか? 部派の教えですか?
どんな教えだったとお考えですか?バラモンの思想の一部も混入させて、ただ
釈迦だけを崇拝するような得体の知れないものだったでしょうか?
出家教団(小乗か大乗か?)に供養だけさせられて、こ難しいことばかり教え
られとても理解できない・・・、だからこそ教団に供養することが功徳になる
とひたすら信じていた。しかし社会的差別を強く受けて非常に切迫した、切実
な状況にいた。・・・というような集団???
314 :
愚乱破:2000/10/27(金) 16:29
> 上で述べた在家の人たちにとって、釈迦は、エリート化した部派がさらに自分
> たちより上に奉っている雲の上の存在だと認識していたでしょう(だから疎外
> 感も生まれるのでしょう)。しかし何かのきっかけでアーガマの内容を知るこ
> とができたとしたら、非常に驚いたことと思います。(宗教的智慧はインドで
> は一種の財とみなされていたので、在家の人たちは普段はアーガマに触れるこ
> とすらできなかったと思います。)神のごとく思っていた人が、自分たちと同
> じような身分境遇の人に語りかけ、直接さとりに導いているではないか! し
> かもこむつかしい教学用語ではなく、自分たちにも分かるような言葉で! し
> かもそんなシンプルな話が、出家者が最高の権威として崇め奉っているアーガ
> マの内容だったとは! というわけです。(初めて自分たちの目で聖書を読ん
> だキリスト教徒といった感じでしょう。)
第7の外道さんが想像される状況でアーガマに初めて触れたとしたらそのよう
な感慨を抱いたことは想像できますが、それは今まで信じて(あるいは教えら
れて)いたこととの隔たりの大きさによりますね。
一体今まで、誰が、何を教えていたのでしょうか?
> 私的には、一部在家集団の心に火がつくにはそれで十分だったと思います。そ
> れが「万人が成仏できるよ」というのが釈迦の真意であり、因にはいくつ種類
> があるとか十二支縁起の各部の解釈はこうだというよりもそっちが大事だ、と
> いうふうに盛り上がっていったのではないでしょうか。しかし他の大乗諸派の
> ように出家を直接攻撃しなかったのは、それだけ原始法華信者の「平等への意
> 志」が強かった証拠でしょう。しかし部派の出家たちや、他の大乗諸派の協力
> は当てにはできない。そこで法華経の流布には、既成の仏教組織のいずれにも
> 帰着できない、そしてそれらを超えた新しいイメージが要求された。それが
> 「地涌の菩薩」である・・・。
そのようにアーガマに接した時、そこから釈迦の本意(本当は自分達に都合の
良い解釈ではないかという疑問が強いですが)を汲み取り、尚且つ目を開かせ
てくれたアーガマも含めそれまでの大乗の教えも捨てよという経典を創ってし
まうのですか?
在家信者の間に起こったとされている初期の大乗運動は出家教団を排斥しても
当然自分達在家信者を切り捨てなかったはずなのですが、この集団はその在家
信者には含めてはもらえていないと感じてるのですね。
しかし、結局、出家教団も大乗教団も捨てることはなく、崇拝している釈迦の
教えだけを捨てるのですよね。< 二乗作仏
このような状況での私の空想は、“出家教団にだまされていた、もう出家教団
は信じられない、これからはアーガマ直結で行く”とやはりアーガマを最高の
権威として崇め奉ってしまうのですけどね。(笑)
315 :
第7の外道:2000/10/28(土) 01:45
愚乱破さん
ではいきなり
>このような状況での私の空想は、“出家教団にだまされていた、もう出家教団
>は信じられない、これからはアーガマ直結で行く”とやはりアーガマを最高の
>権威として崇め奉ってしまうのですけどね。(笑)
から。
この愚乱破さんの「空想」は、私の「空想」と特に違うものではないと思います。私の仮定でいけば、アーガマとはそのまま「釈迦の本意」です。無論伝承の過程で様々な改変が入り込んだでしょうからそれを即「釈迦金言」とすることはできないのは当然ですが、少なくとも「本意」と信じられていたはずのものです。私の空想に従って原始法華経教団がアーガマに触れることがあったとしたら、そしてそれに心を動かされたということがあったとするなら、愚乱破さんの言う通り「アーガマ直結で行こう!」となるはずだと思います。しかし、ここでいう「アーガマ」の捉え方には、出家側と原始法華経教団側とには決定的な違いがあります。
出家側からすれば、アーガマとは「釈迦の教え」ということで専門家によって暗記され、口頭で伝承されてきた文言の総体です。これを文書化すればいわゆる「阿含経典」でしょう。我々が「アーガマ」と聞けば一般的に連想するものです。
他方私の仮定に従えば、原始法華経教団が接したかも知れない「アーガマ」はそのごく一部に過ぎなかったでしょうし、文言をそのまま暗記して伝承していくものとして受け取ったわけでもないでしょう。仮にそうしたとしても、それは出家側の規定している「アーガマ」と同じというわけにはいかないでしょう。また、彼らにとってはそこに表された「メッセージ内容」が大切だったはずです。もし彼らが「アーガマ一本槍」と考えたとするなら、それは私たちが連想するところの「アーガマ」とは、既に別物です。
316 :
第7の外道:2000/10/28(土) 01:45
>このような集団のイメージがどうも形成できないのですが、社会的差別は釈迦
>以前にカーストとして強く存在していたと思いますが、この集団はどのような
>階層からの差別を受けていたとお考えですか?
これについてはインド史に明るくない私には想像すらできません。ただ彼らの徹底的な平等思想から、彼らは社会的差別制度に他の集団にもまして苦しめられていた人々だったという可能性が強いと感じるだけです。法華経に描かれた比喩の内容と、当時のインド社会における常識とのズレから、法華経集団は当時のインド社会ではアウトサイダー的存在だったのではないか、と推測する学者もおります。
>出家教団からの疎外感とは大乗教団からも小乗教団からもということを意味し
>ていますよね。
>この集団は別個の教団を形成していたのでしょうか?後で在家信者と表現され
>ておられるようですね。
大乗教団からも、ということは私はイメージしていませんでした。またそれを想定する必要性は余りないような気がします。また法華経成立時に大乗教団がどこまで「出家教団」化していたのかは私にはよく分かりません。ここでいう「教団」とは、共通の教えでまとまっていた集団、という以上の意味をこめたつもりはありません。そんなわけで、「在家信者」という言い方もつい使いました。
>在家信者の間に起こったとされている初期の大乗運動は出家教団を排斥しても
>当然自分達在家信者を切り捨てなかったはずなのですが、この集団はその在家
>信者には含めてはもらえていないと感じてるのですね。
仏教学者の一般的意見としては、大乗経典の種類ごとに、多くの相互にある程度独立しあった(無論影響関係もあったと思いますが)「大乗教団」があったとされています。ですから「大乗教団」は複数形で捉えられるべきものです。法華経教団もそのうちの一つ、ということでしょう。
原始法華経教団については、自分たちの直接「上」にいた出家教団に対して、そして社会の中での自分たちの地位に関して疎外感をもっていたと仮定すれば、仮説としては十分であると思います。他の大乗教団に対してまでその「疎外感」を拡大して適用する必要はないかと思っています。もちろん、他の大乗諸派に対する自分たちの優位を積極的に主張しようという姿勢はあったでしょう。
なお、出家教団も「部派」という単位のもとに、たくさんの小集団に分かれていたと考えられます。また出家教団に従属していた在家集団も多数あり、これも相互に比較的独立していたと思われます。インドではこういう集団の中央集権化の傾向は非常に希薄であるそうです。
317 :
第7の外道:2000/10/28(土) 01:46
>在家信者の集団だとしてなにを信じていたのでしょうか? 部派の教えですか?
>どんな教えだったとお考えですか?(中略)
>それは今まで信じて(あるいは教えら
>れて)いたこととの隔たりの大きさによりますね。
>一体今まで、誰が、何を教えていたのでしょうか?
仏教に限らず、インド宗教界(?)の常識では、広義での「出家」は在家の者とははっきりと区別されており、在家は出家に供養することで徳を積み重ね、次の転生で出家できる身に生まれ変わることが重要だとされていたようです。現在の南伝上座部仏教でもそういう常識が生きているとか。それを考えると、出家は偉いからとにかく供養せよ、とされ、後は在家用の戒律を与えられる以外には、具体的な教えなど全く無かった可能性すらありますね。
>そのようにアーガマに接した時、そこから釈迦の本意(本当は自分達に都合の
>良い解釈ではないかという疑問が強いですが)を汲み取り、尚且つ目を開かせ
>てくれたアーガマも含めそれまでの大乗の教えも捨てよという経典を創ってし
>まうのですか?
以上の説明から、原始法華経教団としてはアーガマ(というよりは、私たちの目からすれば「釈迦の真意」)を捨てたつもりはない、ただ既成出家教団による直接の指導や、彼らが新規に作り上げたこむつかしい教理は捨てた、また他の大乗諸派の主張に対して自分たちの優位もまた同時に主張した、ということになりましょうか。
無論、以上は私の「原始法華経教団はいわゆるアーガマに触れた可能性がある」というのを前提として認めた上での話です。こうやって細かく説明するとあたかもそういう定見が一部で成立している、という錯覚を与えてしまうかも知れませんが、あくまで強調しますが、以上の議論は私が知る限りでの仏教学の知識と矛盾しないように組み立てられた私の「想像」「推測」に過ぎません。念のため。
後、初期大乗を支えた在家教団は、仏舎利を納めた仏塔信仰を核にまとまっていた、という説があります。法華経では、その内容からも特にそのことが言われます。それを前提とすれば、ある種の大乗教団(ここでは原始法華経教団)が釈迦の人格への帰依を核心に据えた教えを拝するようになるのはもっと簡単にイメージできるようになるでしょうね。
318 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2000/10/28(土) 08:00
>原始法華経教団としてはアーガマ(というよりは、私たちの目からすれば「釈迦の真意」)を捨てたつもりはない、ただ既成出家教団による直接の指導や、彼らが新規に作り上げたこむつかしい教理は捨てた、また他の大乗諸派の主張に対して自分たちの優位もまた同時に主張した、ということになりましょうか。
創価学会のルーツですね・・・歴史は繰り返すか・・・。
319 :
愚乱破:2000/10/28(土) 14:34
第7の外道さん<
今回の分は、法華経成立に関する第7の外道さんの推論の結論とも言えるとこ
ろかと思います。
・・・で感想なんですが、外道さんこそ、法華経が釈迦の真意として原始法華
経教団に伝えられたとお考えてになっているではないか、という印象を受けま
した(笑)
> 他方私の仮定に従えば、原始法華経教団が接したかも知れない「アーガマ」は
> そのごく一部に過ぎなかったでしょうし、文言をそのまま暗記して伝承してい
> くものとして受け取ったわけでもないでしょう。仮にそうしたとしても、それ
> は出家側の規定している「アーガマ」と同じというわけにはいかないでしょう。
> また、彼らにとってはそこに表された「メッセージ内容」が大切だったはずで
> す。もし彼らが「アーガマ一本槍」と考えたとするなら、それは私たちが連想
> するところの「アーガマ」とは、既に別物です。
つまり・・・
「アーガマ」(釈迦の教え)の一部 = 出家側の規定する「アーガマ」とは別物。
これに触れたことがが、法華経創作の「原点」であった。
・・・釈迦の教えの一部であったとは言え法華経の思想を含む(最も重要な)
ものでこれが法華経の「原典」である。・・・ということのようです(笑)
320 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2000/10/28(土) 15:42
そんな教えの内容は勝手に解釈できるよーーーん
憲法も勝手に解釈して自衛隊があるよーーーん
321 :
第7の外道:2000/10/28(土) 23:07
愚乱破さん
>・・・で感想なんですが、外道さんこそ、法華経が釈迦の真意として原始法華
>経教団に伝えられたとお考えてになっているではないか、という印象を受けま
>した(笑)
アハハハハ。そんなふうにも見えちゃいますね確かに(笑)。しかしもちろん「原始法華経教団」は独自に伝えられた「釈迦の真意」を表すネタを持っていたわけではなく、そこでの「釈迦の真意」とは彼らが自分たちの動機に従って解釈したものだ、というストーリーですから、やはり「法華経釈迦説」にはならないわけです。それに「一乗思想」「久遠実成思想」(特に後者)はどうしても「原始法華経教団が創作した」というより他なくなります。無論、私の構想したストーリーにおいては、の話ですが。
しかし最初の問題からよくもまぁこれだけ逸脱してしまったもんです・・・。愚乱破さんにも私の説明の要領が悪くご迷惑をおかけしました。さて、一応私の側からの結論が出たということで、この後どういたしましょうか?
322 :
ひゃっきまる:2000/10/29(日) 06:19
お二人の議論、興味深く読まさせて頂きました。
僕の全くの想像ですが、法華経、及び、法華経教団についての考えがあります。外道さんのようにちゃんと考えたわけでなく、こうも考えられる、という程度のものですが。
愚乱破さんの意見と重なるかもしれませんが、法華経が当時の部派仏教に対抗するものとして、計算づくで創作されたものとは、ちょっと考えにくいところがあると思います。
あれだけの壮大な、しかも数々の固有名詞をもった菩薩達の登場するストーリーは、ここまでのものを空想で創りだせるのだろうか、という気をおこさせます。人間の意図を越えている、と思わせるところがあるのです。
また、釈尊を崇拝していた人間が、釈尊の従来までの経を全て否定し、しかも新しく自分で作った偽の経を本当だと言い張るなど、考えにくいことです。
法華経教団の位置付けは、第7の外道さんの考えとほぼ同じですが、その信仰の「はじまり」が必要だと思います。
それは、ある宗教家(出家でも在家でも、あるいは法師でも良いのですが、ある程度の宗教的知識を持った人でしょう)の、神秘体験なのではないかと思います。当時は「見仏思想」が盛んだったようで、法華経にもその影響が強く出ています。
例えば、夢の中で法華経のような、想像を絶するような光景が繰り広げられた時、当然それは宗教的意味を持って受け止められたでしょう。夢の中で直接釈尊がその宗教者に語った言葉は、書物の上で語られている言葉よりも、当然のことながら、ずっと重要に受け止められたはずです(その意味では、「如是我聞」は嘘ではないかもしれない)。
法華経の内容は、いかにも「夢の中」という雰囲気を強くおこさせます。夢の特徴は、圧倒的な「情動」「イメージ」です。夢から覚めてみて、理屈で考えても、なぜそんなに感動的だったのか、うまく説明できない。でも、夢の中では確かに分かっていたはずなのに。法華経が、とにかくひたすら妙法蓮華経のすばらしさをたたえていながら、その内容は少しも語られていないことと似ています。
前にNHKスペシャルの「人体2 -脳と心-」という番組でやっていたのですが、沖縄の霊媒師のような人に、脳波計をつけたまま祈ってもらうと、通常はあまり働かない、右脳が激しく興奮したそうです。そして、普通の人には見えないものが見えたり、死者がのりうつったりするそうです。
他の仏教の修験者の例では、幻覚や幻聴、神秘的体験をする方法として、極端な断食、断眠という方法がとられていました。こうした体験をすると、通常得られない深い感動と、すっきりした感じが得られるそうです。
戸田二代会長も、獄中で一心に題目を唱えていたところ、法華経の説法の場にいた、という体験をされたらしいですが、それと同じようなことが法華経の創作者にも起こったのではないかと思います。
ただ、もしそうだとしても、法華経を「考えるに値しない妄想に過ぎない」とまでは思いません。というのは、なぜそういった夢なり、神秘体験をしたのか、あるいは、なぜそれが可能なのか、ということを考えていくと、人間の心の奥深さと、はかり知れなさを感じることができるからです。
323 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2000/10/29(日) 13:45
>322
神秘体験について
宗教心理学的に見ると、人工的に決定的体験をさせるには次のような
方法があるそうです。
@感覚遮断(個室修行)
A睡眠剥奪(断眠)
B飢餓(低血糖アルカローシスによる意識低下。アルカローシスとは
体内にアルカリが異常に蓄積し、血液がアルカリ性になること)
C呼吸法による酸素欠乏および過呼吸による血液のアルカローシス
Dさまざまな方法による、脅威と賞賛の相反するメッセージの洪水
Eマントラ(呪文)のような形での同一メッセージの反復注入による
精神の自動化
F幻覚剤その他薬物の使用
G環境ビデオなど教義のバーチャル・リアリティの応用
仏教の修行と重なるものもあり、仏教修行者の体験=神秘体験と結論
づけるのは問題があるかもしれません。 もちろん、仏教修行者の体験が
神秘体験ではないと完全否定できるものでもありませんし、それが何を
意味するものかはわかりませんが・・・。
ただ、人間というものは、上記のような状況に置かれた場合、幻覚や幻聴
などの体験をするようです。 簡単な方法としては、目隠しをして耳栓を
し、ぬるま湯に入っているだけで、たいていの人は数十分で幻覚が出はじ
めるそうです。
324 :
佐田和成@本物。:2000/10/29(日) 15:18
横からすみません。
寝ている間に「見る」夢も、一種の幻覚とは言えないでしょうか。
眼で可視光線を捉えて「見て」いるのではなく、脳内の記憶によって
残像なり想像で「見る」わけですけど・・・
ただし「これは夢だ」という自覚がある限り厳密な意味での幻覚には
ならないんでしょうね。
となると夢で聴こえてくる音や声も「幻聴」の一種かも。
そういうメカニズムが、そもそも人間の脳には備わっているわけで、
何かのバランスが崩れたときに、そういうものが「見えたり」「聴こ
えたり」するのはそれほど不思議なことでもないような気がします。
325 :
みさき:2000/10/29(日) 19:27
横レスで感想を。
法華経の成立は「菩薩」の概念の成立以降であると考えるのは合理的判断ですが、同様に法華経の成立以前に「仏身観」(応身・法身)も成立しているはずと推論します。
そうでなければ、全能の唯一者のような現実離れした存在として法華経に描かれる「釈尊」は理解できません。「法の体現者」である肉体を持つ生身のブッダと、「法身」としての「仏の二身論」は、大乗以前に成立しているはずです。
「如来には 有に導くもの(煩悩)は、たちきられているから、如来の身体があるあいだは、天神、人間も如来を見ことが出来る。しかし如来の身体が壊れ、寿命が滅した後には天神も人間もみることは出来ない。
(「長阿含」梵網経)
「涅槃は一向に楽である」、「大王よ、世尊はされど法身によって指示することができる」
(ミリンダ王問経)
ブッダは、輪廻転生から離れた身体を持たない「涅槃」状態の存在になったが、(すなわち死んだが)、無になったわけではなく形を持たない「法身」として永遠に存在(無余依涅槃界に)していると考えられていた。また涅槃状態の存在については、人格的存在と捉えられていた。このことから、大乗以前から「久遠仏」・「無量寿仏」の概念原型はほぼ出来ており、当然その帰結として仏教徒において「信仰」の概念も発生、存在していたと考えるのも合理的推論だと思います。
ブッダの死後、その説かれた「法の研究」と共に「法身」としての仏の考察をとうして、法の理解・修行も当然行われただろうし、不可視的存在としての、「法身」の釈迦に語らせた経典が成立していったのは「信仰」の成立・進展を考えると不思議なこととはおもえません。ですから、法華経は応身としての釈迦の説ではなくとも、法身の釈迦の説法と解釈することは可能ですし実際、「現身の釈迦」の観念から離れ、「法身」をメインに位置ずけることにより大乗思想は自由度を獲得できたし(その是非はあるが)、ここから仏教思想としての豊穣な展開が可能となつたと考えます。
326 :
第7の外道:2000/10/29(日) 23:58
ひゃっきまるさん、お久しぶりです。
法華経成立において何らかの神秘体験が重要な役割を果たしたということは十分ありえると思います。あれを意図的に作成されたフィクションとしてだけ受け取るのは難しいですね。本当にそのストーリーは「夢の中」で展開されているような印象を与えられます。しかし法華経を一種の「象徴劇」と見るとき、その宗教的主張自体は神秘体験などを媒介としなくても十分に主旨の把握が可能だと思えるので、あれを一言で「理性を超えた神秘(妄想?)」としてとらえることもまたできないでしょう。
323さん
ご丁寧な解説ありがとうございます。リストアップされた「神秘体験」の条件を見てみると、これはまさに「苦行」だ、という感じですね。
ところで釈迦は、伝えられるところによると「苦行」の無意味さに気づき、十分に栄養をとり、おっしゃるところの八つの条件がほとんど当てはまらない環境で禅定に入ったところ直ぐにも悟りを得たことになっています。その後に展開された「初転法輪」以後の説法も、「神秘体験」を背景にしたような語りはほとんどなく、むしろ合理的とも言えるような内容を持っています。その点をそのまま受け止めるなら、釈迦のいう「悟り」というのをいわゆる「神秘体験」と直接重ねることは難しいといえるかも知れません(無関係でもないでしょうが)。
むしろ様々な「苦行」や「瞑想」の方法があふれかえっていた時代にあって、釈迦を他と際立たせていた独創性は、その主張の学問的とさえ言える合理性だった、という風に言う史家・研究者もいるくらいですから、この辺の問題は追及していくとなかなか面白そうです。
327 :
第7の外道:2000/10/29(日) 23:59
佐田さん
このスレでは珍しい方のご発言・・・ときどき見ていただいてるんでしょうか?(^-^)
>そういうメカニズムが、そもそも人間の脳には備わっているわけで、
>何かのバランスが崩れたときに、
>そういうものが『見えたり』『聴こえたり』するのは
>それほど不思議なことでもないような気がします。」
ですが、私もバランスが壊れるときによく変なものを見ます(笑) 当然感覚印象を圧倒するようなものではないんですが、あれが感覚印象や、理性的判断を圧倒するようになったら(あるいは感覚や理性が弱体化してしまっていたら)やばいでしょう。しかし普通、人はそこのバランスが壊れていないので「あれは夢だ」とかいう形で収めていけるのでしょうが、ある意味では神秘体験家はそのバランスが壊れている(あるいは、常人とは違うバランスのとりかたをしている)ということなのかもしれんですね。
みさきさん、お久しぶりです。見ていただいてたんですね。最近は、私と愚乱破さん以外はロムラーさえほとんどいないのではないか、とさえ思ってました。
>同様に法華経の成立以前に「仏身観」(応身・法身)も成立しているはずと推論します。
>そうでなければ、全能の唯一者のような現実離れした存在として法華経に描かれる「釈尊」は理解できません。「法の体現者」である肉体を持つ生身のブッダと、「法身」としての「仏の二身論」は、大乗以前に成立しているはずです。
(中略)
>「法身」をメインに位置ずけることにより大乗思想は自由度を獲得できたし(その是非はあるが)、ここから仏教思想としての豊穣な展開が可能となつたと考えます。
以上の推論には賛同いたします。「法身」という概念はかなり早い段階から成立していたのではないかとは、私もどこかの研究者の説で見たこともありますし、私自身そう推定します。ただ法華経の場合、「法身」と一般信徒との「人格的交流」が非常に濃密なものとして把握されているような印象を受けます。あの感じは他の経典などとはやはり一線を画しているような気がしますね。そこに原始法華経教団の特殊性、といった問題が隠されているように感じます。
328 :
ひゃっきまる:2000/10/30(月) 01:38
>第7の外道さん
>しかし法華経を一種の「象徴劇」と見るとき、その宗教的主張自体は神秘体験などを媒介としなくても十分に主旨の把握が可能だと思えるので、あれを一言で「理性を超えた神秘(妄想?)」としてとらえることもまたできないでしょう。
そうですね。全体としての整合性はやや辻褄が合わないところがあるものの、品ごとの主張は具体的で、筋が通っています。
法華経の一番はじめの創作者の、夢もしくは神秘体験は、「妙法蓮華経」という、他の経を圧倒的に凌駕する唯一無二の経の存在と、釈尊という絶対的救済者の存在が軸であって、その他の部分は後付けである、と考えると自然だと思います。
>むしろ様々な「苦行」や「瞑想」の方法があふれかえっていた時代にあって、釈迦を他と際立たせていた独創性は、その主張の学問的とさえ言える合理性だった、という風に言う史家・研究者もいるくらいですから、この辺の問題は追及していくとなかなか面白そうです。
釈尊の「悟り」は、神秘体験的なものではないだろうと、僕も思っています。むしろ、それを否定する立場だったのかもしれません。僕は仏教のそういうところに惹かれているのですが、インドでは時代を経るにつれ、密教など、神秘思想が仏教の中心的なものになっていったようですね。これを仏教の崩壊・堕落とみるか、価値的な展開とみるかは難しいところです。
当時の「見仏」がどのようなものであったのかは分かりませんが、法華経の中に、仏を一心に思うことによって、釈尊が眼前に立ちあらわれる、という箇所があるので、断食や断眠という苦行ではなく、「祈る」という方法だったのかもしれません。そう考えると、日蓮大聖人が唱題という修行法を提唱したのは必然性があるということになりそうです。
しかし、学会員で、唱題によって神秘体験をしたという人は、いないことはないですが、めったにいません。しかし、不思議な精神的高揚感を感じるというのは一般にいえますから、どちらにしろ、理屈ではなく感動体験そのものを信仰の柱とするということでしょうか。
329 :
あさまら:2000/10/30(月) 01:44
クンバカ!修行するぞ!クンバカ!修行するぞ!クンバカ!修行するぞ!
クンバカ!修行するぞ!クンバカ!修行するぞ!クンバカ!修行するぞ!
クンバカ!修行するぞ!クンバカ!修行するぞ!クンバカ!修行するぞ!
クンバカ!修行するぞ!クンバカ!修行するぞ!クンバカ!修行するぞ!
クンバカ!修行するぞ!クンバカ!修行するぞ!クンバカ!修行するぞ!
330 :
aho:2000/10/30(月) 03:40
あほ!
331 :
佐田和成@本物。:2000/10/30(月) 07:29
>327(第七の外道さん)
たまにはね(笑)
332 :
age:2000/11/02(木) 23:12
333 :
age:2000/11/06(月) 06:47
334 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2000/11/10(金) 06:14
age
335 :
第7の外道:2000/11/13(月) 12:20
外道逝っちゃぅぅうぅ〜〜〜〜!!!\
336 :
佐田和成@本物。:2000/11/13(月) 14:03
良く見ている人にはわかると思いますが335の自作自演は私です。
337 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2000/11/13(月) 14:08
佐田って答えられないと何でも荒らす。
いつものパターンだけどさ(藁)
339 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2000/11/15(水) 00:23
第7の外道さんこんばんは。
あなたと愚乱破さんとのやりとり、たいへん興味深く
読ませていただきました。仏教についてはガキのころ
浄土真宗のお寺にてお経を読んだ程度の門外漢ではあり
ますが、法華経成立についての見事な考察にはたいへん感心
いたしました。
で、第7の外道さんの考察を読んでいるうちに小説めいた
ものを思いつきました。以下、ご笑読いただければ幸いです。
-----------------------------------------------
釈迦の入寂後、しばらくの時が過ぎた。
ある出家集団の中に、上流階級のみを対象とした
布教に飽き足らぬ数人の若き出家者たちがいた。
彼らは、釈迦の「万人にあまねく救いを」という
テーゼを第一とし、それを実践できる場を求めて
旅立つこととなった。
やがて彼らは、それまで釈迦の教えの届いていなかった
ある地方に到着する。地方領主は、彼らの知識を必要とし、
彼らは、布教を条件としてその地方に定着する。
続く
340 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2000/11/15(水) 00:25
そして彼らは、その知識を地方領主のために提供する傍ら
布教をはじめた。しかし、彼らの布教はうまくいかない。
なぜならば、彼らの説く教義は地方の人々が受け入れるには
文化的基盤が違いすぎたためだ。
そこで彼らは一計を案じる。彼らの学んできた教義を
神話仕立てにアレンジし、その地方文化に合わせたものと
したのだ。さまざまな議論はあったが、枝葉末節はともかく
釈迦の説く教えを伝えることを第一義とし、人々に受け入れ
られることを選択したのだ。その甲斐あって、彼らが説く
「仏教」は、その地方に広く受け入れられることとなる。
彼らは、あくまでも釈迦の説いた教え、ということにこだわり、
自らの存在を誇示することはなかった。「御仏の前にはすべての
人間は平等である」という彼らの根幹的な考え方により、
その必要は無かったからだ。
やがて、彼らも人としての生を終えることとなった。
残された人々は、彼らの教えを基に、経典を作ることとなる。
時は流れ、さまざまな要素が加えられ、また失われていったが、
彼らの願いは、独自な教義として残されることとなった。
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もしもこのような経緯があったとするならば、後発の仏教としての
法華経がある種独特の教義を持ったものであることのこじつけになり
ます(苦笑)。
個人的には、このような人間愛に満ちた集団があったことを
願いたいですね。
341 :
第7の外道:
339さん
どうもありがとうございます。お話、筋がよく通っていて、確かにこういう風であったのかもしれないと思わせられます。無論ご承知のとおり、この辺の事情が事実に即して明らかになる日はまずこないでしょうから、どんな仮定をしてみても想像の域を越えることは残念ながらできないわけですが。
個人的感想を申しますと、
>そこで彼らは一計を案じる。彼らの学んできた教義を
>神話仕立てにアレンジし、その地方文化に合わせたものと
>したのだ。
法華経製作者が意識的にああいう神話仕立ての経典を創作したのか(つまり、フィクションであることを自覚した上でつくったのか)、それとも本気でああいうものを信じて(神秘体験などを通じて?)製作したのか、重要な問題であると思います。私としては、どちらかというと後者の可能性が高いのではないかと思いますが、前者であればそれはそれで面白いですね。
>個人的には、このような人間愛に満ちた集団があったことを
>願いたいですね。
私的な感想のレベルですが、私は法華経そのものからはさほど攻撃性を感じません。無論法華経自体の自己讃美といった形の論法は多々含まれていますが、あの経典の徹底した一切皆成思想は非常にユニークであると思います。上でも書きましたが、「常不軽菩薩」に表されているメッセージはシンプルですがどこか心を動かすものを感じます。あの精神からは「他宗は邪宗」などという偏った思想など結論されようがないと思うんですがね・・・。