学会の本尊はカラーコピーだった21

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740名無しさん@お腹いっぱい。:2013/01/08(火) 23:28:15.26 ID:YQBnv03K
「いわゆる付嘱(ふぞく)のないもの。これは偽札(にせさつ)本尊といって、これを本尊と立てる連中は、
御本尊はだれが書いてもよいなどと考えているのである。」
(折伏経典 改定33版 345頁)

「本尊を『物』と扱うようになった場合は罰(ばつ)をうけます。学会精神に反します。信心ではありません。」
(大白蓮華 159号 62頁)

正宗における根本は、唯授一人の血脈である。血脈相承の御法主上人に随順しゆくことこそ、正しい僧俗の在り方である。
この一点を誤れば、すべての根本が狂ってくるのである。創価学会は、御歴代の御法主上人に随順してきたがゆえに、
永遠に栄えゆくことは間違いないと確信する。
(昭和57年1月25日付聖教新聞)
741eco ◆Smw69BiSBo :2013/01/08(火) 23:32:05.26 ID:TEttaGKt
>>679 それでは「指導そのもの」存在意義が問われてしまいますよね
しかも規則上では「師範会議に諮問の上、最高指導会議の意見を聞き、これを尊重するものとする。」
・・・と決めていますが では
公式教義を判定する人の信仰観が日蓮大聖人や戸田氏の意見と合致するものとはいえますか?
もし最高指導会議の意見が慈覚や慧心程度の人間しかいなければ
教義は何処かへ飛んでしまいますよ 
そんな事は報恩抄にも事例として存在するのに そんな事すら解りませんか?
742名無しさん@お腹いっぱい。:2013/01/09(水) 00:03:11.46 ID:bmzpN7yI
>>736>>737>>740

反論不能になった日顕宗は独り言を言うしかないのでしょうね。

大石寺の化儀を守らなければならなかった時代の創価学会の指導を幾らだしても
その当時の苦労が偲ばれるだけです。

この苦労も結局、原因は『大石寺の板本尊=弘安2年の大御本尊』には決定的な根拠が無く、
ただ信じるしかないものだったからです。

『大石寺の板本尊=弘安2年の大御本尊』の呪縛から離れられたことは大きな功徳と言えることですね。

早く科学的な鑑定を公式にして「本物」だと主張すればいいのに、何故しないのか?
学術的な研究結果と信仰は異なると言うことで、大乗経典の成立時期などは許容されている現代なのに、
何故、『大石寺の板本尊=弘安2年の大御本尊』の科学的な鑑定はタブーなのですかね。

やっぱり、偽物だと日顕宗が崩壊するからですかね。
科学的な鑑定をする前に日顕宗が消滅の危機に立ってしまうと、「板本尊はやっぱりニセ本尊だった」とか言われてしまいますよ
743名無しさん@お腹いっぱい。:2013/01/09(水) 00:23:02.05 ID:MgsQneUz
なんだ、久しぶりにスレ覗いたら、創価信者どうしの内ゲバかw
まさに「諸宗は本尊にまどえり」ですね

>>742
開眼も大御本尊も御法主上人への随従もいらないなら、創価組織の存在意義もないよね?
個人が御書研鑽して折伏して、立正安国会の大聖人御真筆本尊をプリントアウトして拝めばいいだけだw
あとキンマンコ名誉会長がどういう健康状態なのか「科学的検証」を求めたいんだが、
なんでそんなに拒絶するんだい?
元気ならばビデオメッセージ一つ流せばいいだけだ
それさえも流せない状態という認識でよいのかな?w
744名無しさん@お腹いっぱい。:2013/01/09(水) 01:44:31.14 ID:XU7RNZKH
>>738
> はっきりしていますよ。
> 真贋未決とされているならば、真贋未決と信じるだけです。

君は頭がおかしいのか?
「御書を信じる」とは、真蹟か真偽未決か偽書かを信じることではない。その御書を大聖人の御言葉をして信じるのかということだ。

>>739
> いいえ、「創価学会の公式な教義」は会則で定めているものです。

教義があるから会則でそれを定めることができる。会則で定めたから教義があるのではない。
また、その教義(=仏法)に違背したら、いかなる理由があろうと謗法となる。
その意味において、会則が教義を縛り付けることがあってはならず、会則を理由に教義を捻じ曲げることも絶対にあってはならない。その場合は、会則を変更するしかない。

> 私が指摘している>>635の間違いは「御図顕された法自体(心法)」の部分ですよ。

それは「法自体」が表現されたもの。「御図顕された」は「法自体」の修飾節に過ぎない。
直前に「物質としての本尊(色法)」と書いてあるとおり、色法と対比させる形で表現しているところからも理解できる。
「御図顕」という言葉が入っているというだけで、色法も含んでいると解釈するのは、文の構造を理解していないからだ。
745名無しさん@お腹いっぱい。:2013/01/09(水) 02:18:11.93 ID:XU7RNZKH
>>742
> この苦労も結局、原因は『大石寺の板本尊=弘安2年の大御本尊』には決定的な根拠が無く、
> ただ信じるしかないものだったからです。

創価学会が公式な見解として、一度でもそんな表明をしたことがあるのか。あるならソースを出しなさい。
何度も指摘してきた通り、個人としてはいろいろな考えがあるだろうし、個人としての見解を持つのは自由だろう。
しかし、個人の推測だけをもって、それがあたかも学会の公式見解であるかのような発言は慎みなさい。

> 『大石寺の板本尊=弘安2年の大御本尊』の呪縛から離れられたことは大きな功徳と言えることですね。

創価学会が、戒壇本尊を信心の根本とし、登山会も積極的に行ってきた結果、大きな功徳を頂いてきたのは否定しようのない厳然たる事実。
その学会にとっても大恩のある戒壇本尊について、呪縛だの、離れられたのは大きな功徳などというのは謗法だぞ。
746eco ◆Smw69BiSBo :2013/01/09(水) 02:48:02.37 ID:hdobXthh
>>695 だったら どういう意味で>>692の方はシンプルだ。・・・と言いきっているんだ??
しかも先方は 創価の教義を歪めてしまっているだろ きづかねぇーのかよ
747eco ◆Smw69BiSBo :2013/01/09(水) 02:51:02.91 ID:hdobXthh
本当 池田原理主義のバカイダ―とア法華は天秤にかけたら釣り合うね
748eco ◆Smw69BiSBo :2013/01/09(水) 03:54:57.41 ID:rKlTUWDQ
>>713 ああ なるほど あなたの言わんとする事が読めてきた。
ひとつだけヒントがあります。弘安2年10月12日に認められた大御本尊の対告に注目してください
いわゆる 本門之弥四郎国重の意味です。 それが一閻浮大総与のカギになります。
とくに国重の部分を考えれば 大石寺に飾ってある あの御本尊は 
本当に荘厳をした本家本元の総合的な要素を持つ大御本尊ですから
簡単に蔑ろにはできない筈です。 従って 創価が曖昧な態度を取るのは“その部分”だと思われます。
むしろ ほしがっている・・のが本音なんじゃないでしょうか?
チャンピオンベルトの奪い合いみたいなものですね 
749eco ◆Smw69BiSBo :2013/01/09(水) 04:10:16.66 ID:rKlTUWDQ
>>713 それと戒壇と言う意味を もう一度考察してみてください
今でいえば戒壇と言うのは 総じて言えば 霞が関 別して言えば 文部科学省のような存在を指します 
従って 一閻浮大総与も本門戒壇も同じ意味合いを持っています。
もし あなたが 過去に開目抄を読み理解しているのであれば 
主師親の三徳と言う意義をよくよく考えてみてください。
750eco ◆Smw69BiSBo :2013/01/09(水) 04:16:40.18 ID:rKlTUWDQ
>>749
だから過去に「富士山レーダーが事実上の国立戒壇じゃねぇーのか?」と ブログで書いた事があったのですが
あまりにも飛躍しすぎたため その根拠として フェイク御用達の富士宮ボーイに 
六巻抄を引いて そのことを書いた記憶がありますが
それに対する反証は 残念ながら 今のところ出てきておりません。
ちなみに富士山レーダーは気象に関する施設ですから 当然 立正安国論とも関わってきます
何せ 鎌倉時代は天気予報なんてありませんし 
気象を予測しようなんて発想が 僧俗含めてなかった時代ですから・・
その辺の時代観が創価の方にも正宗の方にも ほかの仏教系にもない様子です。 
751池田大作:2013/01/09(水) 05:30:11.19 ID:XG22EDQr
今年は高橋裕之氏を苛めた人間全て滅ぶ年だよ
752eco ◆Smw69BiSBo :2013/01/09(水) 06:11:25.26 ID:wX9B47Fm
>>616 なんか規格ばかりに拘っているようですが 規格に拘るのでしたら 
そういうあなたも 論が行き詰った途端  人格攻撃に走って>>616で書いて自爆しているよな
(しかも論が行き詰まると ファビョって教条的になるのも 創価の特徴でしたっけね)
753eco ◆Smw69BiSBo :2013/01/09(水) 06:13:57.05 ID:wX9B47Fm
>>619 師を軽くみたり蔑ろにする行為と言うのは 
その師の言葉に対し 何も考えず 流されて 自分の持っている疑問や反論を推し殺す行為じゃないのか?
なんだか 自分は師と同じ考えだなんて勘違いしている 食法餓鬼みたいですね
しかも そんな発想が法主絶対論を生みだす原因だったり・・・
おかしな「占い師」に感化されてカルトになったり・・・
754eco ◆Smw69BiSBo :2013/01/09(水) 06:18:30.16 ID:wX9B47Fm
>>616にしても >>619にしても
根底にあるのは単なる「脅迫性心理」に陥った畜生根性だったりして・・・
それをecoさんが言うと むっと来るんでしょうけれど 池田先生の直言だと
「ハイ その通りです!」・・と態度が変わっちゃうんだよね〜
755名無しさん@お腹いっぱい。:2013/01/09(水) 06:31:34.18 ID:2FFyci0Y
>742
「日蓮正宗創価学会」が滅亡して良かったね

でもヨソの宗派を「日顕宗」と呼ぶのは
新興宗教人としてはイメージダウンだよ
756名無しさん@お腹いっぱい。:2013/01/09(水) 07:32:23.81 ID:2KE9pY6O
>>755
君が言うところの新興宗教を、腐敗堕落の伝統教団が「池田教」と揶揄するのは、もっとイメージダウンだよ。
http://homepage3.nifty.com/y-maki/souka/bun08.htm

と言うか、イメージを持たれるほど、世間に知られていないかw
757名無しさん@お腹いっぱい。:2013/01/09(水) 08:01:53.38 ID:/TP9mPxx
>>756←真実だから偽物好きの学会員には信じられないだろう。
758名無しさん@お腹いっぱい。:2013/01/09(水) 08:28:19.94 ID:x6pv4BPr
>>721>>734 もう飽きたので最後です。
「本山を距ること遠きにある人は交通不便戦乱絶えず山河梗塞の戦国時代には何を以つて大曼荼羅を拝するの栄を得んや、故に古来形木の曼荼羅あり仮に之を安す、
 本山も亦影師の時之を用ひられしと聞く、此に於いて有師仮に守護及び常住の本尊をも末寺の住持に之を書写して檀那弟子に授与する事を可なりとし給ふ(中略)
 有師斯の如く時の宜しきに従ひて寛容の度を示し給ふ」
(有師化儀抄註解)
759名無しさん@お腹いっぱい。:2013/01/09(水) 08:35:21.98 ID:2KE9pY6O
>>757
「真実」って、このサイト(http://homepage3.nifty.com/y-maki/souka/bun08.htm)に書かれてあることが真実って言う意味?

ところで、そのサイトの題名が「安売り新興宗教団体 『池田教』の独立と、池田の追放」となっていますね。
その「安売り」という部分が気になって、「何が安売り?」と思って読んでみたけど、具体的に「安売り」を記述している箇所は見当たりませんでした。
でも、「堕地獄の『ニセ本尊』を作製し、嫌がる会員たちに販売したのである」と書いてあるので、学会授与の本尊のことを指しているのでしょう。
そこで質問ですが、学会授与の本尊を「安売り」と非難しているということは、日顕宗では、本尊を「高く売っている」ことを自負しているのですか?
760名無しさん@お腹いっぱい。:2013/01/09(水) 08:40:51.30 ID:x6pv4BPr
>>721>>734
こんなことは文証以前に常識的な頭があれば判断がつきそうなものでしょう。
予め創価に刷り込まれた馬鹿げた邪義で狭小な脳内が充満しているために、切り文の小細工を弄してこじつけるしかできないのです。
761名無しさん@お腹いっぱい。:2013/01/09(水) 08:43:44.37 ID:2KE9pY6O
>>758
それは『有師化儀抄註解』の記述でしょう。
貴方は『弁惑観心抄』の「金口嫡々相承を受けざれば決して本尊の書写をなすこと能はず」について、
> だからそれは一般原則なのです。日応上人は、あなたが根拠とするような昔の特殊な事例について述べたのではないことくらいわかるでしょう。
と、>>728で述べています。
何が「だから」なのでしょうか? 全く解釈の根拠もなく「一般原則」と勝手に結論づけています。
それを突っ込まれたら、『有師化儀抄註解』を持ち出すなんて、貴方の論理はおかしいですよ。
762名無しさん@お腹いっぱい。:2013/01/09(水) 08:46:05.76 ID:x6pv4BPr
>>759
安売り【安売り】
安い値段で売ること。比ゆ的に、相手や条件を深く考えもせず、気軽に応ずること。

以上、岩波国語辞典
763名無しさん@お腹いっぱい。:2013/01/09(水) 08:50:24.82 ID:2KE9pY6O
>>760
> こんなことは文証以前に常識的な頭があれば判断がつきそうなものでしょう。

『弁惑観心抄』の「金口嫡々相承を受けざれば決して本尊の書写をなすこと能はず」が、例外を認めないという趣旨にしか読めないことは、>>721において、『決して』という語の意味・用法の上から説明済みです。
貴方のいう「常識的な頭」とは、言葉の定義から結論される解釈を否定するものということになります。
そんな「常識的な頭」など、日顕宗の信徒以外は、誰も欲しがりません。
764名無しさん@お腹いっぱい。:2013/01/09(水) 08:50:44.44 ID:l6ZeV9E1
>>748
日蓮正宗の人はなぜか昔の指導、形式が好きでとらわれている。
要するに
本門の本尊・・・家庭の御本尊
本門の戒壇・・・御本尊のあるところ
本門の題目・・・そのまま

一閻浮大総与・・一切衆生に与える
大御本尊・・・・大聖人出世の本懐の御本尊と同じ相貌のもの

大御本尊の「大」は尊称であろう。偉大なとか、最高のと言う意味
「大きい」ととるなら、また、そのほうがよいのであれば、家庭用御本尊も仏壇をやめて
畳一枚くらいの大きな板御本尊にすればよろしい。
大きさで功徳に差があるとは思えないが。

少し乱暴だが個人的見解。
本門の戒壇は偽法主が勝手に破壊してもいいくらいの意味しかないのだから
大石寺にあるもののみと限定する必要もない。
765名無しさん@お腹いっぱい。:2013/01/09(水) 08:58:30.24 ID:XU7RNZKH
>>762
ですから「安い値段で売ること」が悪いから、題名に「安売り新興宗教団体」という言葉を用いたのでしょう。
ということは、日顕宗では「高い値段で売ること」を自負しているのですね?と聞いているのです。
「高い値段で売ること」を自負するということは、「商売上手」であることを自負しているのでしょうね。
766名無しさん@お腹いっぱい。:2013/01/09(水) 11:41:24.83 ID:/iZdUIW3
>>742
酷いものだ。
化儀と化法もわかっていない。
本門戒壇の大御本尊・分身散体・唯授一人の血脈は化法。
(大聖人の仏法そのもの)

>>744
大聖人の御言葉=御書
御書根本ばかりを強調する連中は確実な御書のみに依拠するしかない。
真蹟現存御書以外は開目抄も不確実な御書だ。
知っての通り開目抄は写本に異同がある。

>>758
「仮に之を安す」「仮に守護及び常住の本尊をも末寺の住持に之を書写して檀那弟子に授与する事を(ry」

仮はあくまでも仮

>>760
常識が通用しないのは経験的に誰でも知っていること。
「常識豊かに」の指導は徹底されていない。
767名無しさん@お腹いっぱい。:2013/01/09(水) 13:32:43.73 ID:bmzpN7yI
>>745
>創価学会が公式な見解として、一度でもそんな表明をしたことがあるのか

日顕宗は「公式な見解」がホントに好きですね。>>742は創価学会の公式な見解の話などしていませんよ。

「その当時の苦労が偲ばれる」は個人の見解ですし、「ただ信じるしかないものだった」も個人の感想ですから、
明らかに個人としての自由な見解ですよ。

実際、『大石寺の板本尊=弘安2年の大御本尊』はちょっと大石寺の歴史を知る人やちゃんと調べる人にはまったく通用しませんでしたね。
「大石寺は一度焼失して、板本尊も燃えたんだろ」とか言われても、反論出来るような情報がありませんし。
日顕宗では現在、反論出来るような情報がありますか?

>大きな功徳を頂いてきたのは否定しようのない厳然たる事実

でも、創価学会を切ったら、日顕宗には何の功徳も無いのか、信徒も増えませんよね。
それは、板本尊が偽物なのか、日顕宗に信心が無いのかどちらかですよね。
ま、板本尊が大聖人が弘安2年に建立した本尊かどうか不明でも、大聖人御図顕の御本尊であることに変わりが無いのですから、
日顕宗に信心が無いってことですよね。
768名無しさん@お腹いっぱい。:2013/01/09(水) 13:34:37.18 ID:bmzpN7yI
>>744
>「御書を信じる」とは、真蹟か真偽未決か偽書かを信じることではない。その御書を大聖人の御言葉をして信じるのかということだ。

その主張を、大石寺の板本尊の話にあてはめれば、大石寺の板本尊に書き記されている内容が御本尊として信じるに値するかどうかが論点となり、
弘安2年の大御本尊の現物が大石寺の板本尊かどうかは論点になりません。
大石寺の板本尊が弘安2年の大御本尊の現物で無くとも、書き記されている内容は大聖人御図顕の御本尊ですよ。

大石寺の板本尊の真偽未決は、大聖人が弘安2年に建立した本尊かどうかが問われるもので、
書き記されている内容が大聖人御図顕の御本尊かどうかではありませんよ。
理解できていますか?

>教義があるから会則でそれを定めることができる。会則で定めたから教義があるのではない。

>>679は、一般論的な「教義」についての回答はしておらず、「公式教義」と言う条件で回答しているのですよ。
他宗においても同様に、その宗派の教義として定める権能を持った人達で行います。

>それは「法自体」が表現されたもの。「御図顕された」は「法自体」の修飾節に過ぎない。

「御図顕された」を「修飾節に過ぎない」などとするから日顕宗は御本尊のことを理解していないのですよ。

>色法と対比させる形で表現しているところからも理解できる。

>>635が意図的に色法と心法を「切り離して考える」ような表現をしたと言うことです。
『木絵二像開眼之事』で「色心不二なるがゆへに而二とあらはれて仏の御意あらはれて法華の文字となれり、文字変じて又仏の御意となる」
と、大聖人が何故、文字で曼荼羅を御図顕したのかの理由をあげていながら、
「御図顕した」を「修飾節に過ぎない」などとし、色法と心法を「切り離して考える」ような表現をしているのは>>635の日顕宗の大きな誤りですよ。
769名無しさん@お腹いっぱい。:2013/01/09(水) 13:59:15.53 ID:bi/cPIU9
略称で日顕宗と日蓮正宗を呼ばれる方々no様子。
これはお止めになる方が大人としての賢明な態度でありましょう。
SGIなる世界規模の組織において日顕宗ですか?これ翻訳不能でしょう。
とにかく<日顕宗>という言葉、私には怨念が感じられますね。
怨親平等と言う仏の境地からは程遠いじゃありませんか。
770名無しさん@お腹いっぱい。:2013/01/09(水) 14:19:13.04 ID:XU7RNZKH
>>766
> 御書根本ばかりを強調する連中は確実な御書のみに依拠するしかない。
> 真蹟現存御書以外は開目抄も不確実な御書だ。

「御書根本」を強調するのは、「御書を心肝に染め」(日興遺誡置文)との御遺誡を遵守するものであり、逆に御書根本を否定する者は、「日興が末流に有る可からず」(同)と断罪される。
さらに私は>>735で、「真偽未決の問題となるものも信行に資するものは之を取る」を引用し、御書への姿勢を明確に示した。
よって、「確実な御書のみに依拠するしかない」との指摘は筋違いであり、アンカーをつける人間を間違えたとしか思えない。
771名無しさん@お腹いっぱい。:2013/01/09(水) 14:39:25.24 ID:XU7RNZKH
>>767
> 明らかに個人としての自由な見解ですよ。

何を議論しているのか、また忘れている。議論は「一閻浮提総与・三大秘法の大御本尊」という言葉の“創価学会としての定義”だ。
その定義に対する持論を正当化する根拠に、「個人としての自由な見解」を記すこと自体、おかしいということに気づけ。

> でも、創価学会を切ったら、日顕宗には何の功徳も無いのか、信徒も増えませんよね。
> それは、板本尊が偽物なのか、日顕宗に信心が無いのかどちらかですよね。

それについては、「何に法華経を信じ給うとも謗法あらば必ず地獄にをつべし」(曾谷殿御返事)との御聖訓を挙げれば、これ以上の説明は不要であろう。
772名無しさん@お腹いっぱい。:2013/01/09(水) 15:07:11.11 ID:l6ZeV9E1
>「何に法華経を信じ給うとも謗法あらば必ず地獄にをつべし」(曾谷殿御返事)

日蓮正宗にもこの自覚がある人もいたようですね。
ある本によると10個も謗法があるらしいですね。
773名無しさん@お腹いっぱい。:2013/01/09(水) 15:09:18.92 ID:XU7RNZKH
>>768
> >「御書を信じる」とは、真蹟か真偽未決か偽書かを信じることではない。その御書を大聖人の御言葉をして信じるのかということだ。
>
> その主張を、大石寺の板本尊の話にあてはめれば、(以下略)

ちょっと待った!
言いたいことがあるのであれば、人の質問に答えてからにすること。話をすり替えようとしても無駄。何より卑怯。
「その主張を、…」は、私の質問に答えてから改めて問いなさい。それができなければ、反論不能とみなす。

> >679は、一般論的な「教義」についての回答はしておらず、「公式教義」と言う条件で回答しているのですよ。

「教義」を「公式教義」に置き換えれば済む話。⇒ 公式教義があるから会則でそれを定めることができる。会則で定めたから公式教義があるのではない。

> 他宗においても同様に、その宗派の教義として定める権能を持った人達で行います。

今の議論に則して話すならば、会則改定というのは、あくまで「会則」の改定であり、君の言う「公式教義」の中身を改定したということではない。
「公式教義」の中身そのものが改定される場合は、公式教義の何がどう変わったのか表明されない限り、これまで公式教義として表明されてきたものが、そのまま生きていることを意味する。

>「御図顕された」を「修飾節に過ぎない」などとするから日顕宗は御本尊のことを理解していないのですよ。

それは御本尊の色法のことを「…に過ぎない」と言っているのではなく、「御図顕された」という言葉の文章における機能・位置づけが「修飾節に過ぎない」と言っているのである。つまり、文の趣旨は「法自体」であると言っているのである。

> >>635が意図的に色法と心法を「切り離して考える」ような表現をしたと言うことです。

意図的な切り離しではなく、色心不二を説明する上で、便宜上、「物質としての本尊(色法)と、その本尊に御図顕された法自体(心法)」に立て分けしたものである。邪推はやめること。
774名無しさん@お腹いっぱい。:2013/01/09(水) 16:18:20.18 ID:x6pv4BPr
>>763
あなた(あるいは>>653)のように弁惑観心抄の一文を金科玉条のように解釈したのでは有師化儀抄註解と重大な齟齬をきたす。
何より有師化儀抄註解は>>631が挙げた当の個別的な特殊な事例に言及しての御指南であるのに対し、弁惑観心抄の引用文はそうではない。
両者を整合的に考える限り、弁惑観心抄からの引用文を一般原則と受け取らねばならないのは明らかで、それは常識的に納得できる筋合いのものである。
歴代法主の指南は同じ一つの大法を折に触れて様々な角度から解き明かしたものなのであって、思いつきの指南の雑駁な寄せ集めなのではない。
775名無しさん@お腹いっぱい。:2013/01/09(水) 16:40:31.79 ID:x6pv4BPr
>>766
その通り、仮はあくまで仮なのである。したがってこの事例をもって、>>631のように、
「末寺住職の本尊書写を許可してきたという史実は、金口相承を受けることが本尊書写にとって不可欠な条件ではないことを雄弁に物語っている」などと、
無原則的に一般化できないことは自明なのである。きわめて幼稚な詭弁にすぎない。
法律などでも、例えば緊急避難などのように、一般的な規範を適用することが適当でない場合に、その適用を排除して例外的に別の規範を適用することがある。
だからと言って後者が前者を否定するものでないことは言うまでもない。それは一体のものなのである。
776名無しさん@お腹いっぱい。:2013/01/09(水) 16:53:07.97 ID:bmzpN7yI
>>771
>その定義に対する持論を正当化する根拠に、「個人としての自由な見解」を記すこと自体、おかしいということに気づけ。

では、>>745の「個人としての見解を持つのは自由だろう。」があなたの「嘘」だと言うことですよ。
>>742は「当時の苦労が偲ばれる」ですから明らかに個人の見解ですよ。

>それについては、「何に法華経を信じ給うとも謗法あらば必ず地獄にをつべし」(曾谷殿御返事)との御聖訓を挙げれば、これ以上の説明は不要であろう

その通りですね。
そのため、>>745の「創価学会が、戒壇本尊を信心の根本とし、登山会も積極的に行ってきた結果、大きな功徳を頂いてきたのは否定しようのない厳然たる事実」
と、いうのも、学会員の信心が功徳に繋がっているのです。
「戒壇本尊を信心」といっても、『大石寺の板本尊=弘安2年の大御本尊』を信じる信じないに関わらず、
「大聖人御図顕の御本尊への信心」であるため、日顕宗が姑息に登山停止をしても、学会員の信心は揺るがず、その信心が功徳に繋がっているのです。

未だに「大石寺の板本尊」を権威の象徴として利用し、物に執着した信心しかさせない日顕宗の信心と、創価学会員の信心の違いですよ。
777名無しさん@お腹いっぱい。:2013/01/09(水) 17:14:48.82 ID:bmzpN7yI
>>773
>話をすり替えようとしても無駄。何より卑怯。

あなたが、大石寺の板本尊が大聖人が弘安2年に建立した本尊かどうかの真贋を、御書の真贋に摩り替えようとして失敗しただけです。

大石寺の板本尊の真贋論争は、大聖人が弘安2年に建立した本尊かどうかを問うものであって、
御書の記述内容から「真偽未決の問題となるものも信行に資するものは之を取る」のように、
板本尊の記述内容から「大聖人御図顕の御本尊」かどうかを問うものではありませんよ。

>「教義」を「公式教義」に置き換えれば済む話。⇒ 公式教義があるから会則でそれを定めることができる。会則で定めたから公式教義があるのではない。

いいえ、>>642の「教義とは一つの概念です。概念ですから固定した言葉で縛られるものではありません。様々な表現が可能です。」が正しいのであれば、
様々な表現で「教義」が乱立してしまうため、会則で定めた公式教義が存在するのです。

一方では「創価学会が公式な見解として、一度でもそんな表明をしたことがあるのか」と相手を非難し、
一方では「公式教義」の意味を「「教義」を「公式教義」に置き換えれば済む話」などと言って、
ダブルスタンダードで話すのはやめなさい。

>文の趣旨は「法自体」であると言っているのである。

だから>>635の文自体がオカシイのですよ。

そもそも、『木絵二像開眼之事』には、「物質=色法」との表現はありません。
文字としての形が(色法)であり、その文字の意味するところが(心法)で、色心不二です。
そのため、「色心不二なるがゆへに而二とあらはれて仏の御意あらはれて法華の文字となれり、文字変じて又仏の御意となる」ですよ。
778名無しさん@お腹いっぱい。:2013/01/09(水) 17:35:35.52 ID:XU7RNZKH
>>774
> あなた(あるいは>>653)のように弁惑観心抄の一文を金科玉条のように解釈したのでは有師化儀抄註解と重大な齟齬をきたす。

「重大な齟齬」という以前に、「貫主一人の本尊書写」という化儀自体、最初は存在しなかったと考えられる。
『尊師実録』では「富士門跡は付弟一人書写し奉るべきの由、日興上人の御遺誠也云々、其故は法燈を賞し以て根源を立つるが為也」とある。
ここでは「付弟一人」の本尊書写の理由について「金口相承」が挙げられておらず、その目的は門流が立ち返るべき「根源」を明確にするためだとされている。
尚、この『尊師実録』には「本尊書写の事、尊の仰せに云き、大聖人御遷化の刻、六人の老僧面々に之を書写し給う云々、然るに異議無し」ともあり、
大聖人が御入滅後、六老僧がそれぞれ本尊を書写したが、日興上人を含め誰からも異議は出なかったと記されている。
この記述が事実とすれば、宗門草創期においては貫主一人の本尊書写はなかったことになる。
堀日亨上人も「原始の時代未だ本尊転写の制定あらず 華仙秀(日華・日仙・日秀を指す)皆之を写す」(研教6-381)といった見解を示しており、草創期の興門に「本尊転写の制定」はなかったと考えられる。
その意味から、『創価学会「ニセ本尊」破折 100問100答』(日蓮正宗法義研鑽委員会編)に書かれている「宗門七百年の歴史において、御法主上人以外の僧侶が、たとえ高徳、博学、能筆の方であろうとも、御本尊を書写したということはありません」とは、
宗門の公式見解として、あまりにもお粗末としか言いようが無い。

> 何より有師化儀抄註解は>>631が挙げた当の個別的な特殊な事例に言及しての御指南であるのに対し、弁惑観心抄の引用文はそうではない。

『有師化儀抄註解』が個別的な特殊な事例に言及しているから『弁惑観心抄』は一般原則である、などと結論できる論理的必然性はどこにも存在しない。勝手に君がそう思っているだけ。
779名無しさん@お腹いっぱい。:2013/01/09(水) 17:37:14.13 ID:bmzpN7yI
>>769
>これはお止めになる方が大人としての賢明な態度でありましょう。

基本的に過去の日蓮正宗と区別するために、現在の日蓮正宗を「日顕宗」と呼んでいるに過ぎません。
これは過去の日蓮正宗には無い独自の教義を日顕以降の法主が作っているからです。

「法主が開眼法要をしなければ本尊にならない」は過去の日蓮正宗にはありません。
「僧宝:日興上人(日興上人を随一とする御歴代御法主上人)」も過去の日蓮正宗の宗規に定められたものと異なります。

「本尊」や「三宝」に関することはその宗派の特徴を決めている事項ですから、
現在の日蓮正宗と過去の日蓮正宗は区別する必要があります。

現在の日蓮正宗と過去の日蓮正宗と表現するよりは、
「日顕宗」と呼んで区別するほうが楽だということもあって使用しているものですよ。
780名無しさん@お腹いっぱい。:2013/01/09(水) 18:21:33.42 ID:XU7RNZKH
>>777
> あなたが、大石寺の板本尊が大聖人が弘安2年に建立した本尊かどうかの真贋を、御書の真贋に摩り替えようとして失敗しただけです。

誰も戒壇本尊の真贋など議論していない。再三再四述べたように、議論しているのは「一閻浮提総与・三大秘法の大御本尊」という言葉の“創価学会としての定義”・・・この一点。

> 大石寺の板本尊の真贋論争は、大聖人が弘安2年に建立した本尊かどうかを問うものであって、
> 御書の記述内容から「真偽未決の問題となるものも信行に資するものは之を取る」のように、
> 板本尊の記述内容から「大聖人御図顕の御本尊」かどうかを問うものではありませんよ。

だから、そんな理屈が「一閻浮提総与・三大秘法の大御本尊」の創価学会としての定義と、何の関係があるのか。

> >>642の「教義とは一つの概念です。概念ですから固定した言葉で縛られるものではありません。様々な表現が可能です。」が正しいのであれば、
> 様々な表現で「教義」が乱立してしまうため、会則で定めた公式教義が存在するのです。

会則で定めた公式教義が存在するということは、会則改定前の公式教義を白紙に戻すという意味ではない。そんなことしたら、会則改定直後、学会の公式教義が存在しないことになるではないか。
会則改定(とりわけ「教義」について)は、公式教義を変更するというのではなく、公式教義について、より適切な表現で定義するということ。
781名無しさん@お腹いっぱい。:2013/01/09(水) 18:25:28.32 ID:2KE9pY6O
>>777
> 一方では「創価学会が公式な見解として、一度でもそんな表明をしたことがあるのか」と相手を非難し、
> 一方では「公式教義」の意味を「「教義」を「公式教義」に置き換えれば済む話」などと言って、
> ダブルスタンダードで話すのはやめなさい。

君の理解力が低いから、君に合わせて表現を変えてあげただけで、述べようとしているところのものには変わりは無い。

> そもそも、『木絵二像開眼之事』には、「物質=色法」との表現はありません。
> 文字としての形が(色法)であり、その文字の意味するところが(心法)で、色心不二です。

文字も物質です。物質だから目に見えるのです。その「文字」を「色法」の定義に則して一般化し、「物質」と述べたのです。
「色心不二」の「色法」と「心法」の定義を今一度確認すること。
「色法」=形あるもの。認識の対象となる物質的存在。
「心法」=目に見えない精神・思想
782名無しさん@お腹いっぱい。:2013/01/09(水) 18:40:59.46 ID:/TP9mPxx
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お前ら別スレ立ててやり合えよ!!!

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783名無しさん@お腹いっぱい。:2013/01/09(水) 18:48:11.81 ID:Lx6E7quE
>>778
“付弟一人”とは興師の本六・新六弟子のことでしょう。
尊師はそれに含まれなかったので書写しなかった。
華師、仙師は本六に含まれるので書写した。それだけの事です。
尤も、当の興師が尊師に書写を依頼している事からして、
興師自身は誰それが書写しなければならないとの拘りを持っていなかったようです。
784名無しさん@お腹いっぱい。:2013/01/09(水) 18:52:42.30 ID:l6ZeV9E1

そもそも「金口相伝」ってなに?

こう聞かれて回答できる法華講員はいるのかい?w

だれも知らないようなものを何で偉そうに振りまわしているのかな?w

一体どういう内容なの?www
785名無しさん@お腹いっぱい。:2013/01/09(水) 19:30:37.24 ID:bmzpN7yI
>>780
>誰も戒壇本尊の真贋など議論していない。再三再四述べたように、議論しているのは「一閻浮提総与・三大秘法の大御本尊」という言葉の“創価学会としての定義”・・・この一点。

そのようなことは、
「弘安2年(1279年)10月12日に一閻浮提総与の大御本尊を建立されたのです(一閻浮提総与とは全世界の人々に授与するとの意)。」
と、学会公式サイトにあるのですから、 「一閻浮提総与・三大秘法の大御本尊=弘安2年の大御本尊」が“創価学会としての定義”ですよ。

流石に日顕宗が学会公式サイトを読んだりないので知らなかったのかもしれませんが、
「一閻浮提総与・三大秘法の大御本尊」という言葉の“創価学会としての定義”であれば、学会公式サイトに回答があり、
御書の真贋を持ち出す必要さえありませんよ。

>公式教義について、より適切な表現で定義するということ。

そのとおりですよ。
そのため、他宗の総本山や他宗所蔵の曼荼羅に関する定義が削除されているのですよ。
現在の創価学会の公式な発表では、他宗所蔵の曼荼羅である大石寺の板本尊に対してなんら教義上の意義付けをしていません。

そのため、『創価学会が「大石寺の板本尊=一閻浮提総与の大御本尊」を公式に認めている』などと言うのは日顕宗特有の嘘なのです。
現在の創価学会は、大石寺の板本尊に対して何の公式見解も発表していませんよ。

>>781
>君の理解力が低いから、

反論不能になると相手のせいにするのが日顕宗の常ですね。
>>635の間違いを指摘され、あなたが「「色心不二」の「色法」と「心法」の定義を今一度確認」したのでしょ。

>>635は「色法」や「心法」、『木絵二像開眼之事』、「御図顕」の意味をまったく理解出来ていない日顕宗特有の言い掛かりですよ。
786名無しさん@お腹いっぱい。:2013/01/09(水) 19:47:23.26 ID:Lx6E7quE
>>780
一閻浮提総与・三大秘法の大御本尊とは何かを本部に聞きましょう
787名無しさん@お腹いっぱい。:2013/01/09(水) 19:49:31.80 ID:Lx6E7quE
>>785
>創価学会が「大石寺の板本尊=一閻浮提総与の大御本尊」を公式に認めている

“73”を名乗る石山人が同じこと言ってました
788名無しさん@お腹いっぱい。:2013/01/09(水) 19:55:25.79 ID:Lx6E7quE
会則の“大御本尊”は石山板曼荼羅のことだと主張する者は、「創価学会はまだ石山板曼荼羅に未練が有るはずだ。石山に戻ってきてよ〜、いつでも待ってるよ〜」と思っているのでしょう。
石山が相当な財政危機であることを物語っています。
789名無しさん@お腹いっぱい。
>>785
> 「弘安2年(1279年)10月12日に一閻浮提総与の大御本尊を建立されたのです(一閻浮提総与とは全世界の人々に授与するとの意)。」
> と、学会公式サイトにあるのですから、 「一閻浮提総与・三大秘法の大御本尊=弘安2年の大御本尊」が“創価学会としての定義”ですよ。

重要な一歩前進が見られました。
そこまで明白になりながらも、旧会則の「日蓮正宗総本山大石寺に安置せられている弘安2年10月12日の本門戒壇の大御本尊」と、新会則の「一閻浮提総与・三大秘法の大御本尊」とは、違うと言い切りますか?

> 流石に日顕宗が学会公式サイトを読んだりないので知らなかったのかもしれませんが、

最初に学会の公式サイトから会則を引用してのは君ではなく私です ⇒ >>556

> そのため、他宗の総本山や他宗所蔵の曼荼羅に関する定義が削除されているのですよ。

戒壇本尊の教義上の位置づけは、以前にも提示した『創価学会の御本尊授与に関する法門上の見解』で述べられています。
> 今回、学会が会員の方々に授与するお形木御本尊は、日寛上人が大聖人出世の本懐たる「戒壇(かいだん)の大御本尊」をお写しされた御本尊である。
要するに、「戒壇の大御本尊=聖人出世の本懐たる」ということです。
その戒壇の大御本尊を書写しているということが、学会授与本尊の正当性を裏づけているのです(以下、参照のこと)。
「創価学会会則の改正について」(平成14年3月30日の聖教新聞)
> 「分身散体」の意義に照らして、弘安2年の大御本尊を書写した御本尊を正しい信心で受持することはそのまま大御本尊の受持になります。

> 現在の創価学会は、大石寺の板本尊に対して何の公式見解も発表していませんよ。

上記の通り、学会の機関紙である聖教新聞を通じて、戒壇本尊についての公式見解を発表しています。

> >>635の間違いを指摘され、あなたが「「色心不二」の「色法」と「心法」の定義を今一度確認」したのでしょ。

色法不二くらい調べなくても知っています。君と一緒にしないでもらいたい。
事実、君は嫌味は書いても、私の説明に対して何一つとして論理的な反論ができないではありませんか。