文永4年(1267)良観はついに鎌倉に入って極楽寺に住し、極楽寺良観と称されるにいたった。
金沢の称名寺にも良観の息のかかった審海がはいった。さらに、これに前後して、良観は、多宝寺の長老のほか、数ヵ寺の別当になった。
彼の慈善事業は、自分が二百五十戒を堅くたもった聖者であると見せかける、売名的な行為であった。
また、幕府に取り入らんがための手段であり、その本質は、名声欲、権勢欲にかられたものであった。
しかも、彼の慈善事業の背景には、幾多の民衆の嘆きがあった。
聖愚問答抄にいわく「我伝え聞く上古の持律の聖者の振舞は殺を言い収を言うには知浄の語有り
行雲廻雪には死屍の想を作す而るに今の律僧の振舞を見るに布絹・財宝をたくはへ
利銭・借請を業とす教行既に相違せり誰か是を信受せん、次に道を作り橋を渡す事還つて人の歎きなり、
飯嶋の津にて六浦の関米を取る諸人の歎き是れ多し
諸国七道の木戸・是も旅人のわづらい只此の事に在り眼前の事なり汝見ざるや否や」(0476−12)と。
飯嶋の津とは、鎌倉の東南の端、材木座海岸の東南、三浦半島のつけ根のところに突き出しているのが、飯島崎で、その内側を海岸という。
ここで良観は通行税を取り、その金で、慈善事業を行ったり、橋をかけたりしていたが、そのために多くの人たちが苦しんだのであった。
これで良観が、もはや、自分で税を取るような権限があったことがわかるとともに、多くの人の犠牲のうえに、
売名的な慈善行為がなされていたことが明らかである。
慈善事業という名の売名行為
良観の慈善事業が、他の多くの人々の犠牲をともなったことは、殺生禁断の場合にもあらわれている。
寛元2年(1244)大和の一荘官、結崎十郎入道が、叡尊に説法を請うために、その所領四郷の殺生禁断を誓ったために、
どんなに荘民の生活が圧迫されたか測り知れない。文永10年(1273)北条実時が金沢郷六浦荘戸堤の内の入江にいける殺生を禁断したが、
これも六浦一帯の漁民の生業を奪い、塗炭の苦しみにおとしいれた。
さらに弘安4年(1281)多田院供養に先立ち、別当良観の計らいにより、幕命をもって本堂四方十町の殺生が禁断されたが、
これが多田荘の住民の生業を奪い、大きな苦痛をもたらした。あまりの苦痛に耐えかねて、それに違反する者が多いので、
その後再三にわたり厳命するという愚劣な挙に出たのであった。しかも、多田院の伽藍がだんだん修造され荘厳を加えたが、
そのために、年々の荘役の加重に、どんなに人々は苦しんだことか。
さらに慈善事業自体も、当時、餓死戦上にあった民衆を本源的に救済しうるものではなく、たえず争いのタネとなっていった。
すなわち、当時の最底辺の人々たちは、施主に対して施物を強制するのが当然となり、はては非人宿同士の競争がこうじて、たえず争乱が繰り広げられた。
所詮、慈善事業は、小善にすぎない。民衆を本源的に幸福にする道に叛逆し、自己の売名のために小善をなせば、かえってそれは大悪である。
民衆の貧欲をそそり、はては三悪・四悪の世界をかもし出し、ついには奈落の底につきおとしてしまうのである。しかも、その資金を得るために、
他の人々の犠牲を強要するにいたっては、慈善にあらずして、我利我利亡者の偽善にすぎぬではないか。