学会員が不幸になるのはニセ本尊が原因 2  

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629名無しさん@お腹いっぱい。
>>626
上から順に。
・本因妙抄・・・後加文
・御本尊七箇相承・・・日興上人・日目上人など、この御書の通りに御本尊を書写されていないケースがある。
すなわち・・・・以下ry
・日尊云云・・・文書名が不明。(きちんと、「日尊上人仰云」日大著と書けんのか?)
後代の人師の証言であり、しかものちに大石寺に反し造仏・二十八品読誦を行うなど相伝がおかしいところの書を反論に使うのか?
・・・・・・このような根拠で他人を説得できると、本気で思うのか?

>>627
> 『然りと雖も詮ずる所は一念三千の仏種に非ざれば、有情の成佛・木画二像の本尊は有名無実なり』と、
> 一念三千の御本尊は木画にこそ顕はされると御指南されているのである。
法華経の一念三千があるからこそ、有情の成仏が可能・無情の像や画を本尊にすることが可能という意味だ。

> 一切衆生の仏性がすべて同格であり平等
これと、
> 末法における法華経の行者とは別して宗祖御一人であること
は、次元が違う。
大聖人は、南無妙法蓮華経を一閻浮提に弘める役目を帯びて最初に出現されたのだから、別しての法華経の行者。
一方、大聖人(仏)の仏性と我々の仏性は、
「久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ全く差別無しと解りて妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり」生死一大事血脈抄
であり、違いなど一切ないとおっしゃっている。
人により仏性が違うなどと主張する=生死一大事の血脈が「切れている」・・・・になるのだが。

また、大聖人と我々の仏性が違うものなら、大聖人は本因妙の教主ではないことになるぞ。
大聖人は、仏になる本因を論じ本因を行じ、晩年身延山で成仏の境界を示した。
我々は、それを手本に修行する。
仏性が同じでないなら、目指すところが違うものになってしまう。
そうすると、大聖人の示した本因は、実は本因でないことになる。