さて、前スレでお尋ねした「守文の徒」について少し私見を書いてみます。
まず日蓮の「女人往生抄」(といっても、これも真蹟は無く、日朝本が最古です)から。
よく引用されるのが、「されば天台釈して云はく 明者は其の理を貴び暗者は其の文を守る 文」ですが、
この前に、「問うて云はく 内外典の詮を承るに道理には過ぎず」とありますから、これは文中において
日蓮に疑難を投げかけている者(僧侶)の言葉です。立正安国論などと同じ、お馴染みの形式ですね。
つまり、ここで"其の文を守る愚者"、つまり"守文の徒"と批判されているのは日蓮です。
また、回答者(日蓮)が「答えて云はく 此の事第一の不審なり 然りと雖も試みに一義を顕はすべし」と
続き、"一義"とは言いながらも、あくまでも経・釈に沿った(ごく当たり前の)"道理"を展開しています。
つまりこの問答は、「文よりも優先する(質問者の)理」 対 「文にも則った(日蓮)の理」 の構図です。
ですから、これをいわゆる"文底解釈"の証文として出すのはどうかと思うのですが、いかがでしょうか。