【築】さあ、語りましょう【山】

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284築山 ◆jPpg5.obl6
血脈観ですが、大石寺では血脈とは信心のことでありまた。
蓮祖大聖人もそのように仰せであります。
「久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ全く差別無しと解りて妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり、此の事但日蓮が弟子檀那等の肝要なり法華経を持つとは是なり」
「過去の生死・現在の生死・未来の生死・三世の生死に法華経を離れ切れざるを法華の血脈相承とは云うなり」
「相構え相構えて強盛の大信力を致して南無妙法蓮華経・臨終正念と祈念し給へ、生死一大事の血脈此より外に求むることなかれ(中略)信心の血脈なくんば法華経を持つとも無益なり」
日有上人は
「信と云い血脈と云い法水と云ふ事は同じ事なり、信が動ぜずは其筋目違ふべからざるなり、違はずんば血脈法水は違ふべからず」

あくまでも信心が血脈なのです。なにか法主に我等には計り知れない霊験的な何かがあるような悟りのようなものは一切ありません。

余談「大石寺法門」の著者である川澄勲氏が、塔婆供養に疑問を投げかけている。
私もそう感じる一人です。
御書には墓前では自我偈三返と仰せです。
疑問に思わないのか不思議でしかたがない。
次書きます。