1 :
代理:
2 :
滝山:2009/03/03(火) 23:38:41 ID:???
>>610 乾闥婆さん
いえ、もう不快にはなりません。
お気になさらずに。
>申し訳ないことをしたと、深く反省しております。私が逆の立場であったとしても、
>不愉快と感じるであろうと、今は、そう認識しております。
あの頃、まぁひゃっきは当然としても
悠にすら全く理解してもらえなかったので
とてもやりきれない気持ちでした。
「ブルータス、お前もか」みたいな状態でした。
乾闥婆さんに今回そう言ってもらえたことで
完全に過去のこととできそうです。
俺のことは気にせず自由にやってください。
3 :
ひゃっきまる:2009/03/03(火) 23:45:54 ID:???
>◆Bwr5tJDUMc さん
はじめまして。
「妄想」についての考えについて確認させてもらってよろしいでしょうか。
1・誤情報に基づく考えは妄想であるか?
1-a
現代の日本において、ある小学生の子供がサンタの存在を信じています。
周りの大人は皆、サンタは存在するというし、彼が手に入れられる限りの本でもそうなっています。
また、実際に毎年サンタからだというプレゼントをもらったり、サンタと文通したことさえあります。
「サンタが存在する」という考えは、妄想と呼ぶべきでしょうか?
2・信仰を妄想と呼ぶのは妥当であるか?
2-a
初詣のため神社に行き、神様の存在を想定し、今年一年の無病息災を祈った。
2-b
お盆にお墓参りに行き、故人に対して、あの世で安らかに暮らして下さい、と心の中で語りかけた。
2-c
自分の息子が大病を患い、助かる可能性の低い手術をすることになった。
手術の成功を願い、お百度参りをした。
上記3例の場合、妄想と呼ぶべきでしょうか?
4 :
ひゃっきまる:2009/03/03(火) 23:50:11 ID:???
(続き)
3・過去の人間が抱いていた世界観は妄想であるか?
3-a
世界は平らなお盆のようなものであり、天は半球に覆われ、星は半球に張り付いている、という世界観。
過去の人は、地面が平らで、物体は落下する、という根拠に基づいて、このように考えていました。
3-b
古典力学に基づく世界観。時間や空間は永遠に存在する平坦なものであるという考え。
時間や空間が平坦だという仮説は、ある意味で根拠なく信じられていました。
3-c
量子力学と相対性理論に基づく世界観(現代の世界観)。
4-d
未来の世界観。
多くの研究者は、相対性理論や量子力学は永遠に真とされるようなものではないと考えています。
例えば、ホログラフィック宇宙論は、宇宙は実際には2次元であるが、我々は4次元(3次元空間+時間)だと思い込んでいるのだ、というような理論です。
そのようなものを想定してみてください。
上記4例の場合、各時代の人間が抱いていた(いる)世界観は妄想なのでしょうか?
5 :
ひゃっきまる:2009/03/03(火) 23:53:00 ID:???
>>548 法律ヲタさんへ
>
>>546 雪山童子さん
> 読み方は、“ケンダツバ”さんです。
ありがとうございます。
(しかし、正直に言わせてもらうと、アナタのような> 立場の方が知らないとは…。)
そんな程度ですよ。
> 何なら、雪山童子さんに、御自分のお立場からする“妄想糞坊主”批判を展開していただいても構いませんよ。
批判を展開するつもりはありませんよ。
ただ感想としては、妄想糞坊主とこき下ろす事に関してはちょっとひいてしまいました。
僕はあくまでも自分を中心に地球は回っているという主観的な表現なので、法律ヲタさんには理解できないと思いますが、
僕が創価学会員として生きているのに、糞坊主などと言えば、例えば妻はひきます。そのひいた妻に糞坊主について、いろいろと説得しても、そういう事なの、なんてなる事はなく、
納得するどころか、あんたのそういう所が嫌いだと言われ、ますます言い争いになります。
僕を中心に地球は回っているので、納得させる結果より、妻を認める事のほうが僕には必要なのだと思うので、その結果を因てし、妻を認める事の方へ自分を成長させようと努力します。
糞坊主をテーマに議論する事は、皆さんの話しを読みながらとても勉強になりましたが、
あなたのような方から糞坊主という言葉が出た所に
発端があったのではと、思いました。
仕事の都合上書き込む事が遅くなってしまい申し訳ありませんでした。
前スレ610 乾闥婆さん
手厳しいことを申し上げるようですが、そういう“去る去る詐欺”を繰り返すのはやめましょう。
私の名前もそこに挙げられているので敢えて申し上げますが、あなたのこれまでのレス内容以上に、
あなたのそういう姿勢こそが、不都合な批判や反論封じにしか感じられず、私は非常に不愉快です。
……そもそも、「手を引きます」だの「もう2chには来ない」だの「ネットはやめる」だのと、
あなたがそういう類の発言をするのはこれで一体何度目ですか?
そういういい加減な態度や不誠実さを、これまでは――敢えて本音を申し上げますよ?
二世三世さんとしての悩みを抱えた可哀想な人だからか…と受け取って見逃してきましたが、今回ばかりは指摘します。
掲示板において、見解の相違や誤解からの議論は当然起きることですし、よって私個人はこれまでの
乾闥婆さんのレスの内容自体、さほど不愉快とは感じていません。しかし、今回の滝山さんに対する態度と、
そこに私の名前も挙げられていることについては不愉快ですし、あなたの姿勢を軽蔑致します。
あなたが過去に滝山さんに対して何をしでかしたか知りませんが、これでは実質的に
滝山さんがあなたを“追い払った”犯人にさせられてしまうではないですか。
自らの言動の責は、その後の自らの言動によって負うべきでしょう。
あなたがここの常駐コテであることは滝山さんも先刻ご承知でしょうし、その上で滝山さんはこれまでご発言をされてきた訳です。
“コテを見るのも不快だからあなたを放逐したい”と望まれているなら、とっくにそう仰っているはずです。
また法律ヲタさんも、あなたの法律ヲタさんへの態度は誉められたものではありませんでしたが、
にも関わらずあなたに対して、法律ヲタさんは寛容な姿勢を見せておられますよ。
――そのようにあなたと向き合ってこられた方々の誠実さに、これまで散々繰り返してきて
もはや傍目には何の重みもない「身を引きます」という言葉で応じるべきではありません。
それは、相手の誠実さに泥を塗る振る舞いです。そのような振る舞いは
相手の心中をおもんばかる故ではなく、実は単にあなたのプライドの問題でしかないのではありませんか?
>>565 ひゃっきまるさんへ
レス遅れて申し訳ありません。
いつもいつも僕のようなものに、親切に対応して頂き本当にありがとうございます。
ここは普段聞けない話しをより深く掘りさげて展開されるので、勉強になりますが、読むだけで精一杯ですよ。
またよろしくお願いします。
>>2 滝山さん
>>7の発言は、あなたを擁護しようとか支援しようという意図ではありませんので、
一応申し上げておきますが、どうか責任を感じたり気を遣われたりなさいませんようお願い致します。
私宛てのレスでもあったので、私が自己の責任において、思うところを申し上げただけです。
滝山さんも、今後も自由に思うところを述べて頂ければ、それを拝見し
また時にはやりとりをさせて頂く身としては幸いです。m(__)m
>>567 滝山さんへ
はじめまして。
親切にありがとうございます。
僕はパソコンがなく、携帯で参加しているのですが、そのような事は可能なのでしょうか?
>>577 乾闥婆さんへ
レスありがとうございます。
読みながら感じていた事だったのでどうしても伝えたかったのです。
乾闥婆さんの話しは悲しく聞こえますが、とても深いものを感じます。
12 :
ひゃっきまる:2009/03/04(水) 00:59:40 ID:???
アクセス規制で携帯からなので、えらい大変です。
蛙さん
まあまあ。
そんな目くじら立てなくても。
もっと気軽にやりとりできるようでなければ、掲示板の議論はしんどいと思いますよ…。
それに、当事者どうしでしかわからないことや、文章にでない気持ちのやりとりもあることですし、あまり決め付けたようなことは言わないほうがよいと思います。
腹を立てるなら蛙さんからのことだけにして、他人のことまで怒らなくていいのではないですか。
雪山童子さん
コピペは、どの携帯の機種からでもできます。
また、携帯からでも見れるページは意外と多いですよ(テキストがメインのところなど)。
前スレ
>>603-604 乾闥婆さん
>まず、私はこの議論において「妄想」という言葉を精神疾患の用語として使っていません。
>「根拠のない主観的な想像や信念」として使いました。日蓮が生きた中世の時代において、
>「根拠のない主観的な想像や信念」に対すべき「想念や信念」とは、当時の知識人層が依
>拠した仏教に基づいた「想念や信念」であったことでしょう。ですので、日蓮は妄想を抱
>いたとは当時の状況において言えないと主張したのです。
明に対する暗、白に対する黒というような意味で「対する」を使用しておられるのだと
すれば、「根拠のない主観的な想像や信念」に対する(対照される)のは「根拠のある
客観的な考えに基づいて作られた信念」です。
「当時の知識人層が依拠した仏教に基づいた想念や信念」は根拠のある客観的な考えに
基づいており、その知識人層に日蓮も含まれるから妄想ではないということでしょうか?
「白黒をはっきりつける」の白に対する正・真というような意味で「対する」を使用して
おられるのだとすれば、「根拠のない主観的な想像や信念」に対する(対応する)のは
その具体的事例ということになります。
「当時の知識人層が依拠した仏教に基づいた想念や信念」は「根拠のない主観的な想像や
信念」であり、それに異を唱えていた日蓮の判断は正しいものであり、その信念には
根拠がある「だから」日蓮の教えは妄想とは言えないということですか?
(文脈からすれば、こちらではないようですけれど・・・)
その他の意味なのでしょうかね・・・。いずれにせよ、このような主張を一貫させようと
するとおかしなことになりますよ。
(
>>13からの続き)
>私は、日蓮は現代から見て誤った情報に基づいて主張したので間違っている、と言ってき
>たのです。ただ当時の状況において、それは妄想とは言えないと主張しているのです。
こういうことですよね?
現代から見れば(現代、比較的容易に手に入る情報・知識からすれば)日蓮は「誤った」
情報に基づいて論を展開していたから、その考え・信念(の内容)は間違っていると
現代の私達は判断することができる(まぁ、そう判断しない日蓮信奉者もいますが)。
ところが、乾闥婆さんは、当時の状況において、日蓮は「根拠のない主観的な想像や
信念」を持っていたとは言えないとおっしゃる。「当時は」多くの人が信じていたから、
「当時は」その信念には根拠があると思い込んでいた人がたくさんいたから、その内容が
正しいものだと信じてしまうのも致し方ない側面が大きい、そういう時代精神・
時代背景だったから、だから妄想ではないと。つまり、「根拠がある(あった?)、
或いはその根拠に誤りはない(なかった?)」ということですよね?
どうも、これは(当時の)歴史的文脈において「のみ」真偽・正誤を判断するという
考えからくるもののようですね。
>>7 >二世三世さんとしての悩みを抱えた可哀想な人だからか…と受け取って見逃してきましたが、今回ばかりは指摘します。
これ、とんでもなく失礼なことだと思うけど…。
少なくとも、俺は不愉快に思った。
それから、ここにいるはぐれコテ層化は、敵対しててもどこかで繋がってる
ようなところがあるから、あなたが心配して怒ることでもないよ。
(
>>13からの続き)
こういうお話に対する反論として病気の治療が挙がっているわけです。
多くの人が信じていたとしても、その当時において「も」呪文を唱えることで
病気が治ったりはしなかったのです(この点については、乾闥婆さんは同意して
おられるはずですね)。どうして当時において「も」、なのか。
呪文を唱えることで病気が治るという信念が(その内容が)間違っている・
誤っているからですよ。現代において「も」、当時において「も」
「根拠のない主観的な想像や信念」に拠るものだから、誤りなのであり、
病気は治らないし、治らなかったのです。「根拠のある客観的な考えに基づいて
作られた信念」であれば、病気は治ったでしょうけれど、現実はそうではない。
乾闥婆さんは歴史的な背景を考慮することを重視するあまり、極端な相対主義に
陥ってしまっているようですね。乾闥婆さんの主張では、日蓮の業病思想には
「その当時」根拠があったということになるわけでしょ?
つまり、根拠(判断・推論などを成り立たせるよりどころ)は、数の論理によって
(乾闥婆さんは)決める(決まる)ということになってしまいますよ。客観性・
合理性によって決まるのです。数の論理は限定された時間の中で一つの結論を
導き出すための手法なのであって、そのことによって客観性が保たれるわけでは
ありませんよ。また、こういった反論(病気の治療に関してなど)がある場合に、
相対主義的な内容で主観性を根拠とすることの問題をもう少しよく考えて
みてください。
(
>>13からの続き)
>もう一度要求します。「鎌倉時代においても妄想と判断される社会通念が当時において
>成立していたとする根拠を示してください」。
広くオカルト的な祈祷が行われていた当時においても、日蓮は異端的だったのでは
ないでしょうかね・・・。そんなに大きな宗派(?)でしたか?
「○○しないと国は滅びる!」と声高に叫べば、「ほんとかよ?てきとうなこと
言ってるんじゃないの?」と、その当時においても思われることも多かったでしょう
(より強い内容で否定する人も大勢いたであろうという意味ですよ。)
乾闥婆さんは日蓮の主観性は重んじるが、その当時の他の立場の人の主観性は
重んじないとうようなことになってしまうのではないでしょうか。
広くオカルト的という観点からもう少し踏み込んで、ある特定の呪文という観点から
考察すれば、それがその当時の社会通念と呼べるかどうかは甚だ疑問ですしね。
(
>>13からの続き)
私は乾闥婆さんがおっしゃる歴史的文脈の重要性を無視しているわけではありません。
歴史的文脈・文化的枠組みによって、様々な命題の「実際の」真偽の判断(結果)が
異なる場合はありますが、その枠組み・その主観性に拠れば根拠があるという考えには
大きな問題が含まれています。確かに結局のところ何かを判断するのは個人の
「主観」ではありますが、では「客観」とはいかなるものなのかという問いを前にして
乾闥婆さんの立場ですと、(客観・客観性という概念に)否定的な方向の論を展開する
ことになってしまうでしょう(整合性をなんとか保とうとすればするほどそうなると
思います)。
以下の主張の問題を乾闥婆さんはわかりますか?
とある日蓮信奉者のコミュニティー(これも一つの小さな社会です)「においては」
日蓮の教えは正しい。そのコミュニティーにおいては、その信奉者の信仰は、根拠の
ある客観的な考えに基づく信念の塊なのであって、妄想などではない。
(もし、歴史的文脈だけを特別視するというのであれば、それはどうしてなのか。
歴史的文脈を重視するというのは、つまるところ、その当時の現代とは異なる文化的
背景を重視することを意味するのではなのか。とするならば、どうして、現代における
異なる文化的背景は重視しないのか。それとも上記のような「誤った見解」こそが
物事の理解としては「正しい」と主張するのか。ある個人が「正しい」と思えば、
或いは「根拠がある」と思えば、根拠があることになるのか。そういう問題なのです。)
>>15 >これ、とんでもなく失礼なことだと思うけど…。
>少なくとも、俺は不愉快に思った。
そう感じるでしょう。そう思いましたので敢えて申し上げたのですよ。
大体において、創価学会員及び内部アンチや元創価学会員の人は、他者からこのように判断されることを極端に嫌います。
そして――にも関わらず“自分以外の”創価学会員の性質や、外部の無宗教の方々については、安易に同様のことを口にするのです。
要は“自分だけは別”“○○ってこうだよね、俺は違うけど”という態度がどうにも目につくという事です。
“自分がそう言われたくないから”“他人に対しても言わない”のだったら筋道通りますけどね。
それが悩める創価学会員同士であっても、脱会済みか非活か、信仰を捨てたか否かといった違いを、互いに許容出来なくなるケースを生むのだと思います。
自分に向けられたら一切許容出来ないのに、他者に対しては決めつけや思い込みの枠から出られない。
――ちなみに私自身はアンチですから、ある程度は、アンチであることを理由に発言をカテゴライズされることは仕方ないと許容しています。
誤解があれば、必要ならその都度説明すれば良いことですし、面倒ならスルーすることもあります。
もしアンチから嫌な目に遭わされたご経験があれば、私のことも警戒なさるでしょう。
それを“とんでもなく失礼なことだ”などと感じて、そこまで不愉快になったりはしませんよ。
だって人間同士では、お互いさまのことですから。
【
>>20続き】
>それから、ここにいるはぐれコテ層化は、敵対しててもどこかで繋がってる
>ようなところがあるから、あなたが心配して怒ることでもないよ。
もしそうであるなら、ずっとメールかSNSででもやりとりしてれば良いと思いますよ。2chに書かずに。
ちなみに私も、ひゃっきまるさんとは面識もありますし互いに携帯のメルアドも存じてますが、それをここに持ち込もうとは思いません。
2chでしかやりとりの無い方も、他で繋がりのある方も、私にとっては公平に大切な友人と考えていますし、
やりとりのある側を贔屓して個人的な交流の無い側を叩くようなことはしたくありません。
また、少なくともその点においては、ひゃっきまるさん・滝山さん・乾闥婆さんも公平な姿勢を貫いておられると思います。
>>20 >もしアンチから嫌な目に遭わされたご経験があれば、私のことも警戒なさるでしょう。
なに言ってんだか?
俺、アンチだし…。
>>21 俺が言ってるのは、精神的に繋がってるということ。
SNSとかメールで繋がってるということじゃない。
>>23 ああ、そういう意味ですか。それなら分かりますが、しかしだとすれば尚更
外野は口を挟むなということになって、このスレ自体を閉鎖的と見なすことになりますよ。
それこそ、2chではなく個人サイトかブログでも立てて馴れ合えという話になるでしょう。
>>24 別にどこでやってもいいんじゃないの?
口を挟むなと言っているのではないよ。
滝山さんも
>>2でちゃんとレスしてるし、俺たち外部の者からではわからない
友情みたいなのがあるんじゃねぇかな?
それは察してスルーしてあげたほうがいいと思うだけ。
なんでもかんでも攻撃の材料にするのは反対だ。
邪魔なので、これで消えます。
>>25 いや、勝手に「俺たち外部」とか言って私をあなたの仲間にカテゴライズされても困るんですが。(苦笑)
そもそも私は乾闥婆さんのレスに名前を挙げられた当事者の一人であって、その当事者が、
自分を含む複数宛てのレスに対して、私個人の思うところを述べただけですよ。
この場合、横レスしてきたのはあなたです。もちろん私は横レス大歓迎ですけどね。
しかし、まぁそうですね。
そもそもあなたとの、このやりとりが一番他の当事者を置き去りにしたやりとりですからw
適当なところで打ち止めにするのが良いでしょう。お疲れさまでした。m(__)m
27 :
滝山:2009/03/04(水) 03:51:26 ID:???
>>5 ひゃっき
>滝山?
オレオレ。
>>9 春田の蛙さん
>どうか責任を感じたり気を遣われたりなさいませんようお願い致します。
了解しました。
仰っていることはわかります。
ただ、乾闥婆さんには休養が必要かもしれませんし、
俺に気は使わず自由にしてほしいですね。
>滝山さんも、今後も自由に思うところを述べて頂ければ、それを拝見し
>また時にはやりとりをさせて頂く身としては幸いです。m(__)m
そうですね。
気が向いたらって感じですけど。
>>10 雪山童子さん
ケータイからでしたか。
自分はケータイでネット見る事はないのでわかりませんけど
たぶんひゃっきが言うとおりです。
>>3 ひゃっきまるさん
>1・誤情報に基づく考えは妄想であるか?
私は「単に」誤情報に基づく信念を持っているからといって、それだけをもって
妄想と呼ぼうとは思いません。普通はそれが誤情報だということが分かれば、
信念の内容を比較的容易に訂正することになると思われます。そして、誤情報の
内容にもよると思います。
あまりにも騙されやすい人は誤情報に基づく考え・信念を多くもっていますが、
その場合は、誤情報に基づくというよりも、そもそも、その人の思考法自体に
大きな問題があるのでしょうし、様々な妄想に囚われているということにも
なってくるでしょう。(そして、精神疾患の疑いが濃厚ということにもなる場合も
あるかもしれません。)つまるところ、信念を持つ根拠の客観性・合理性なのであり、
客観性や合理性には幅(濃淡・浅薄)があるものだと私は考えています
(どのような根拠に客観性や合理性を認める「べきか(或いは認めてもよいか)」
というお話です。)
誰がどう見たって(これは言葉のあやです、念のため)嘘八百だとわかりそうな
詐欺と、誰もが騙されてしまいそうなとても巧妙な詐欺とでは、そこに包含されて
いる情報の質や量に大きな違いがあるのです。巧妙な詐欺は、客観性や合理性という
観点から見れば、目を見張る濃さを含んでいたりする場合も多いのではないでしょうか。
にもかかわらず、微妙にそれが欠けている点についつい気付かないということが
結果として大きな落とし穴になるよう仕組まれているから巧妙なのでしょう。
(他の理由で巧妙だと言える事例もあります)。ですから、もしもそういった
巧妙な詐欺に騙された人がいたとしても、私は「妄想だ、妄想に囚われた人だ」と
評価しようとは思いません。
(
>>28からの続き)
子供の判断能力が一般的には大人と比べて大きく劣る側面があるというのは
歴史的文脈に依存する話ではありませんし、サンタの存在を信じている期間も
短い場合が多いでしょう。しかるべき時期になれば、サンタは御伽噺だと
思うものですよ。とりたたてそれを強く強く妄想と呼ぶ「べきではない」と
までは思いませんが、どちらかと言えば、私は「単に」誤情報に基づく信念が
形成されているという状態に近いと評価しますね。「あえて」妄想と呼ぼうとは
思いませんが、「子供は妄想満開だからなぁ(笑)」と述べている人に、
妄想の定義は?それは子供に対する低劣な批判・非難になるのでは?なんてことを
思ったりもしません。(別に私は何がなんでも、ほんの少しでも誤りがあれば妄想、
ほんの少しでも根拠の一部に脆弱さがみられれば妄想と呼ぶ「べきだ」という
お話をしているわけでもありませんし・・・)
(
>>28からの続き)
>2・信仰を妄想と呼ぶのは妥当であるか?
何時の時代の話であれ、妥当だと思いますよ。信仰といっても、これもいろいろ
幅があるものでしょう。たとば、ある種の禅などは「宗教・信仰」と呼んでも
いいものなのだろうか?という議論もあったりしますし、私はそういう議論も
一理あると思っています。また、同じ宗教を信仰している人でも、いろいろと
考えや想いを聞いてみれば、「それは政治的というか、どちらかといえば、
信仰というよりも、仕方なく半ばしぶしぶ信仰者のフリをしているだけでは?」
ということがあったり、「宗教・信仰というよりも、人生哲学という赴きが
大きいのでは?(明確な線引きをするつもりはない)」と思ったり、ともかく
ガッチリ・ギチギチの枠で捉える「べきだ」というお話をしているわけでも
ありません。
しかしながら、全体的な傾向としてやはり信仰・宗教というのは「誤り」に
塗れており、しかもそこから目を逸らし信念を強化させるような仕組みが
組み込まれていることから、私は妄想と呼ぶに「ふさわしい」ものだと
考えています。何時の時代であれ、宗教論争というものがありますが、
論争内容はもうドグマ塗れです。現代においてでさえ、「よくそんな御伽噺を
信じ込むことができますね(笑)」と別の宗教の信仰者を笑う、(たとえば)
キリスト教徒なんかもいるわけです。その実「全知全能」の神や、パンやワインが
肉や血になるとか、処女懐胎などという「御伽噺」を文字通りのものとして
信じる・或いは公式見解として発表するわけです。いくら昔は現代程に知識が
蓄積されていないとか、情報の取得が容易ではなかっと言ったところで、
昔からそういった信念の特徴があるからこそ「信仰・宗教」という概念で括られて
いるわけですよ。信仰者は頑迷なそういった特徴をすばらしいものだと褒めるの
でしょうし、妄想などではなく心の聖域がどうのと捉える人もいるのでしょう
けれど、私は、そういったものは(傾向として)正に妄想と呼ぶにふさわしい
特徴ではないかと思います。(そして、一般的な言葉の定義に特別反するという
わけでもないのです。)
(
>>28からの続き)
>上記3例の場合、妄想と呼ぶべきでしょうか?
個別の祈願内容・祈願儀式と、それに対する捉え方の抽象度などを論じれば、
あれは例外、これも例外、これは典型的と、様々な事例を挙げることができます。
そこに提示されている情報だけではなんともいいかねます。
私は自身を無宗教の立場だと認識していますけれど、状況によってはお百度参り
(に限らず)しますよ(し得るという意味です)。他には、故人を思い出しながら、
様々な宗教の葬儀に出席し、その儀式に特に逆らったりせず、「故人に心の中で
語りかける」こともあります。どこまで文字通りの意味なのか、或いはより詳細には
どういう意味になるのかにもよるわけですよ。
暗に明に宗教に関わる「行為」を行ったからといって即座に妄想を抱いていることの
証左になると私は考えているわけではありません。神社に行って、神の存在を
「想定し(どんな想定かにもよります)」、無病息災を「祈り(どのような祈りかに
よります)」そして、そういった「想定」や「祈り」とは結局のところ鰯の頭も
信心からの範疇の問題で、自身の目標や目的・気持ちをしっかりと維持するための
象徴としての抽象度の高い比喩としての云々と、初詣に行った人は考えているかも
しれません。或いは、雲の上に「実体」を持った神という名の精神体(?)が、
同時に世界中の人々の動向・心模様をつぶさに観察しているから、その対象に
向かってお祈りしたと言う人もいるかもしれません。
ですから、あくまでも全体的な傾向としての(そして日蓮の場合はという個別の)
お話なのです。
>上記4例の場合、各時代の人間が抱いていた(いる)世界観は妄想なのでしょうか?
未来はその「本性」から「予測」不可能なものであり、科学的な「予測」は妄想に
すぎないなんてことを私は考えているわけではないですし、結局これも最初に述べた
客観性や合理性の話になります。
(あらら、容量オーヴァーに気付きませんでして、こちらのスレにかかれた内容はまだ読んでおりません。)
さて、これは困りましたね。
レス全体としては特に誰宛とアンカーを付さず、引用等で必要となった場合にその引用先を示す形に
留めて書く事にします。
まず、「妄想」なる言葉・用語が日本語として一般的・客観的にはどのように使われるかと言う問題ですが、
それについて、レス>601で超弦道士さんがウィキペディアの解説から「精神病などの原因によって生じる
不合理な信念をいいますから」と限定的に解していらっしゃいますけれど、「など」という点をどう解するかに
問題は残りますが、一応私も3種類の国語辞典(“広辞苑”・“講談社の日本語大辞典”・“三省堂の新明解
国語辞典”。なお、ネット上にある“大辞林”を含めると4種類。)を確認してみましたところ、それら中で
そのような場合に限る趣旨と解することが可能であろう解説をしているのは“広辞苑”のみと思われる
のであって、典型例としては病気に基づく場合なのだとしても、そのような場合に限るとするのは今日の
日本語の理解として少し狭すぎるのではなかろうかと思います。(以前から私自身そのように考えており、
レス>442の“嘘”と“妄想”の差異などは、自分としてはそれを明確に意識して説明しました。)
(御要望があれば各辞書の解説を引用いたしますが、ただ、他スレでアホさんに対している時には説明上
致し方なく引用したりするのですけれど、本当は著作権の問題があるので迂闊な引用は避けたいところです。
著作権法上(判例上)、引用を可とする要件があるのですが、厳密に考えるとこのような場合にそれを
満たすのかには多少問題が残りかねないと思いますので。)
(レス>32の続き)
そして、レス>601で超弦道士さんが『古代人の世界認識には「誤謬」があったというべきでしょう。』としている
点について、それ自体は特に問題だとは思いませんけれど、これを日蓮の問題に限れば、単に「誤謬」と
するわけにはいかないと思っております。
単なる誤謬であれば、それが客観的に誤っていることを理解しうる事実が示されたならば、その認識を
訂正しうるわけですが、日蓮の場合には、自身の説いた内容がその通りにはならず問題が生じたにも
かかわらず、認識を根本的に再検討する事ができなかったわけであって、これは妄想の特徴と考えるべき
ものであり、単に誤謬として済ます事はできないと思います。
それと、乾闥婆さんがレス
>>605の最初で問題としている部分、つまり◆Bwr5tJDUMcさんのレス>599に関し
お書きになっている部分についてですが、私も◆Bwr5tJDUMcさんと同様に、「乾闥婆さんは致し方ないのに
何が誤りだというのだ?という方向で妄想という評価に異を唱えておられる」と言いたいのです。
但しあくまでも、“当時としては£vし方ないのに、なぜそれを当時として′りだと言わなくては
ならないのか?”と言う意味においてですけれど、おそらく◆Bwr5tJDUMcさんも、この点についても同じ趣旨
なのではないかと思うのですが…。
乾闥婆さんが現代において誤りとしているのか否かと言う問題ではないのです。
(レス>33の続き)
乾闥婆さんもその後で続けて『ただ単に妄想という評価は妥当しないと言っているだけです。その理由は
「妄想」とは「根拠のない主観的な想像や信念」だからです。』とおっしゃっています。
まさに日蓮の抱いた想念は「(客観的)根拠のない主観的な想像や信念」にすぎないのであって、それだから
こそ乾闥婆さんも誤りだとおっしゃっているのではありませんか。
確かに“信仰を妄想として捉えなかった時代”もあるでしょう。
しかし、その時代の共通意識や常識がどうであれ、客観的に誤りは誤りなのであって、妄想は妄想なのです。
我々は現代に生きているのであり、その当時に生きているわけではないのであって、歴史の把握・評価も、
歴史の到達点である今まさに行っているのです。
(レス>34の続き)
ところで、レス
>>610でお書きになっている内容自体は承知いたしましたが、滝山さんも、乾闥婆さんに“
書き込む資格が無い”と言っているわけではないと思うのですが…。
それなりの問題が過去にあったのだとしても、そこで行っている謝罪で十分なのではありませんか?
人間は、様々な意味で過ちを積み重ねて行くものです。
大切なのは、それをどうするかであって、“過ちを改むるに憚ることなかれ”ですよ。 (これも、もともとは論語
学而篇から出た言葉ですね。 “過則勿憚改” 過ちて則ち改むるに憚ること勿かれ。)
今ここに書き込んでいる方の多くは、そっくり同じ方向を向いているなどという事はないのであるから細かい
相違はあるであろうし、また、そのような相違から生れる行き違いもあり、そのような事から対立的・敵対的に
議論しなければならない事態が生じたとしても、私には、本質的には真っ向から対立しなければならない
関係にあるとは思えません。
>>27 滝山さん
>オレオレ。
……詐欺?(違)
>ただ、乾闥婆さんには休養が必要かもしれませんし
私もその点は同感です。
>気が向いたらって感じですけど。
はい。もちろん、気が向いたらというのは大前提ですよ。そういう意味ではそもそも私こそ、いつも遅レスで気ままにしてますし。
ただ滝山さんの書き込み内容は興味深いので、“気が向いたとき”を見逃さないよう、なるべくこのスレはロムっておこうと思います。(笑)
37 :
ひゃっきまる:2009/03/04(水) 23:38:49 ID:???
>皆さま
「日蓮って」過去ログ
http://hyakkimaru.nukenin.jp/ に、日蓮って ver.15を載せときました。
>>8 雪山童子さん
ここはときどきかなり殺伐とした雰囲気になりますので、雪山童子さんの書き込みを見るとほっとします。
本当は僕は雪山童子さんと一番お話したいんですが、なかなかなごやかに話せる話題を探すのは難しそうですね。
質問などあればいつでもどうぞ。
>>25 あなたのような心あたたかな人がこのスレをROMしていたことがうれしいです。
僕は直接関わりないことでしたが、ありがとうございます。
>>27 滝山
おお、やはり。ありがとう。
もし次立てる機会があったら、以下↓も貼っといてくれ。
「日蓮って」過去ログ
http://hyakkimaru.nukenin.jp/ (あ、念のため言っとくけど、勝手にスレ立てんな、ていう文句じゃないよ)
38 :
ひゃっきまる:2009/03/04(水) 23:39:50 ID:???
>28-31 ◆Bwr5tJDUMcさん
>>3-4の内容をもう一度簡単に羅列します。
1-a サンタを信じる子供
2-a 神社の初詣
2-b お盆のお墓参り
2-c 手術の成功を願ってお百度参り
3-a 地上を平坦とする古代の世界観
3-b 古典力学に基づく世界観
3-c 現代の世界観(量子力学と相対性理論)
3-d 未来の世界観(ex. ホログラフィック宇宙論)
>>28 >ですから、もしもそういった巧妙な詐欺に騙された人がいたとしても、
>私は「妄想だ、妄想に囚われた人だ」と評価しようとは思いません。
では、誤情報に基づく考えは、妄想ではない、ということでよろしいでしょうか。
まあ、これは一般的な判断だと思います。
39 :
ひゃっきまる:2009/03/04(水) 23:42:11 ID:???
(続き)
>>30 >全体的な傾向としてやはり信仰・宗教というのは「誤り」に塗れており、
>しかもそこから目を逸らし信念を強化させるような仕組みが組み込まれていることから、
>私は妄想と呼ぶに「ふさわしい」ものだと考えています。
>暗に明に宗教に関わる「行為」を行ったからといって即座に妄想を抱いていることの
>証左になると私は考えているわけではありません。
>ですから、あくまでも全体的な傾向としての(そして日蓮の場合はという個別の)
>お話なのです。
2-a,b,cの具体例に関しては、◆Bwrさんの判断では「妄想」ではない、ということでよろしいのでしょうか。
僕がこの例で言いたかったのは、まず、宗教や信仰を「妄想」と表現することは一般的ではない、ということです。それをこの3つの具体例で気づいてほしかったということです。
神の実在、死後の魂、あの世の存在、などというトピックが真面目に論じられたような時代もありましたが、現代における宗教とは、そのような宗教的概念が本当かどうか、ということは主要な関心事ではなくなっているように思います。
まあ、◆Bwrさんが「妄想」だと思うのは自由ですが…。
僕が創価学会を批判する点というのは、「客観的な意味でも」創価学会が唯一正しい宗教である、と主張していることであったり、他宗を信仰すると不幸になる、と主張していることです。
そういった問題がなければ、日蓮を大聖人としようが、仏としようが、一向に問題ないと思いますし、そのような考えが妄想だとも思いません。石や木を本尊とする信仰もあるのですから、人を仏とする信仰があってもいいんではないですかね。
40 :
ひゃっきまる:2009/03/04(水) 23:44:16 ID:???
(続き)
3-a,b,c,dについては、妄想かどうかお答えいただけなかったようです。
>未来はその「本性」から「予測」不可能なものであり、科学的な「予測」は妄想に
>すぎないなんてことを私は考えているわけではないですし、結局これも最初に述べた
>客観性や合理性の話になります。
◆Bwrさんは前に、
>大地は平らで海の端は滝になっているという「誤った」信念を昔の人が
>持っていたとしても(それは致し方ない側面が多分にあるでしょうけれど)、
>当時においても現代においてもそれは妄想であり大地は丸いというのが
>真実・事実なのです。
とおっしゃっていますね。
現代から見れば、3-a,b(地上平板説、古典力学)は誤った世界観ということになるでしょう。しかし、現在の世界観(3-c)も、未来(3-d)においてはきっと誤った世界観ということになるでしょうね。
◆Bwrさんは、3-a(地上平板説)を当時においても現代においても妄想であると言いますが、では、3-b(古典力学)は妄想になるでしょうか? 未来においては、現代の世界観も妄想と呼ばれるべきなのでしょうか。
僕は、過去の世界観は、「現代から見れば」誤りである、と言えるだけで、当時の人が妄想を抱いていた、と表現するのは間違っていると思います。
41 :
超弦道士:2009/03/05(木) 01:09:01 ID:???
>>39 ひゃっきまるさん
>僕がこの例で言いたかったのは、まず、宗教や信仰を「妄想」と表現することは
>一般的ではない、ということです。それをこの3つの具体例で気づいてほしかったということです。
数の問題として、一般的か否かを論じるなら「妄想」と表現するのは一般的では
ないでしょう。実際に多くの人は「宗教・信仰」と「表現」してますよね。
ですが、その体系の荒唐無稽さドグマが問題となる議論において、信仰の特徴は
正に妄想と呼ぶにふさわしいと捉え、妄想であると評価し、そう表現する人も
少なからずいるのです。
「気づいてほしかった」というのは、数の問題ですか?(気づいてますよ)
妄想と呼ぶのは自由ではあるが、そう呼ぶ「べきではない」ということですか?
(
>>42からの続き)
>神の実在、死後の魂、あの世の存在、などというトピックが真面目に論じられたような
>時代もありましたが、現代における宗教とは、そのような宗教的概念が本当かどうか、
>ということは主要な関心事ではなくなっているように思います。
信仰者も無宗教の人も含めて、全体の傾向として昔と比べれば、宗教に対する関心が
低くなってきているかもしれないとは思いますが、現代においても、そういったことが
真面目に論じられる(或いは信じられている)ことは多いのです。大真面目に論じる
宗教ロビー団体が大きな圧力を持って教育に介入しようとしている事例もありますし、
「カルト」という形でそれが大きく浮き上がってくることもありますね。
「神の存在が本当かどうかにはあまり関心がないキリスト教徒」
「輪廻が本当かどうかにはあまり関心がないチベット仏教徒」
「形式的な」立場は「信仰者」ということになるかもしれませんが、
「実質的な」「信仰者」としてはどうなのか、私はいろいろ疑問に思いますし、
どれ程多くの人がどれ程の「宗教的な」真面目さを持っているのか、そこには幅が
あるだろうということも私は既に述べています。
少なくとも「宗教側((宗教家と呼ばれるような人や、宗教団体という意味です)」は、
そういったことを「主要な関心事ではない」とは言わないでしょう。
(
>>42からの続き)
>そういった問題がなければ、日蓮を大聖人としようが、仏としようが、
>一向に問題ないと思いますし、そのような考えが妄想だとも思いません。
>石や木を本尊とする信仰もあるのですから、人を仏とする信仰があっても
>いいんではないですかね。
ある戦闘機を「ベティー」と呼ぶこともあるでしょう。自分の車を「相棒」と
呼ぶ人もいます。基本的には何をどう呼ぼうとそのこと自体はかまいませんが、
宗教・信仰の場合、「そういった問題」は明に暗にほとんど常について回る
問題であると私は思います。「科学的宗教」といった創価学会のような方向で
「そういった問題」に対処しようとする宗教団体も少なからずありますし、
逆に科学と宗教はその体系が扱う領域が異なるのだという方向で「そういった
問題」に対処しようとする場合もあります。たぶん後者が多いのではないかと
私はなんとなく思っていますが、概ねどちらも詭弁です。(繰り返しますが、
概ねですよ。)
>◆Bwrさんは、3-a(地上平板説)を当時においても現代においても妄想であると言いますが、
私はよく知りませんが、その「地上平板説」というのは海の端が滝になっていると
主張しているのですか・・・。「単に」大地は平らであるというなら、わからないでも
ないのですが、更にその大地を大きな亀や象が支えているなんていう「地上平板説」も
あるんでしょうねぇ。「古典力学」ですか。勉強になります。
(
>>42からの続き)
ある昔の人はいいます。
「大地が平らなのはおそらく間違いないだろう。」
「山や谷といった帰伏はあるが、広く見渡せば大地は平らだ。」
私は大いに共感し、納得し(現代の知識からすれば情報が足りないとは思いますが)
それを「地上平板説」という名で呼ぼうと、他の名で呼ぼうと、
(基本的には)そんなことに関係なく、妄想と評価したりはしません。
別のある昔の人はこう言います。
「大地は平らで、海に囲まれている。」
「海には波という帰伏はあるが、広く見渡せば平らだと言える。」
ここまでは、上の人と同じ論法です。ところが、ここから
「海の端は滝になっているに違いない。」
どうして???
「だって、大地を大きな象が支えていると宗教家は威厳を持って述べている」
「象が平らな大地を支えており、平らな大地は平らな海に囲まれているなら、
海の端は滝になっているはずだろ?」「あなたは滝を見たことがないのかい?」
それを支えているのは大きな亀かもしれないし絡み合った大きな蛇かもしれないし、
海の端は堤防になっているかもしれないし、そうではないかもしれないのに、
どうして滝になっているということが真実・事実だと確信を持てるのか?という
疑問を投げかけても、傾向としてそういった信念を訂正しないことが多いでしょう。
私が言いたいのはそういうことです。「単に」誤情報によって誤った内容の信念を
形成した、「単に」昔の人は現代と比べて知識が足りず誤った世界観を持っていた、
ということを妄想だと断じているわけではありません。
また、「古典力学」は現代においてもとても優れた近似値を提供してくれますよ。
ある男が客人として司祭をもてなしていると、町の人がやってきて「フルボッコに
してやるよ!」といった剣幕で、その司祭を差し出せと言います。男は「そんな
悪いことはやめてくれ」と言います。その代わりに処女である自分の娘か、司祭の
付き人の女性を差し出すからそれで我慢しろと男は提案します。町の人は司祭の
付き人の女性を選び、一晩中集団で暴行しました。朝になり、その女性は主人の
いる家の前になんとかたどりつきますが、そのまま倒れてしまいました。
それを見つけた司祭が言います。「おい、起きろ。出発するぞ。」ところが、
その女性は動きません。死んでいたからです。そこで司祭は女性を十二の部分に
切り刻み、各地に送りつけました。
この物語を史実として受け取るかどうかという問題もありますが、ともかく
そこに現れている道徳観念は、控えめに言っても醜悪なものであると私は思います。
信仰者であっても、神の存在(や、その他)を大真面目に気にしたりはして
いないのかもしれません。そこに説かれていることが真実・事実だと大真面目に
受け止めていないのかもしれません。(そうではない大勢の人がいるという
事実はひとまず無視しましょう。)ちょっぴり「善人」でいたいだけなのでしょう。
「善いお話」がつまった宗教物語が好きなだけなのでしょう。
(
>>46からの続き)
些か挑発的に聞こえるかもしれませんが、こういった主張に対して宗教・信仰を
肯定的に捉える論を展開するのは容易ではありません。(私はあらゆる側面から
宗教・信仰の存在を否定し、それが「悪」だと述べているわけではありません。)
つまるところ、「健全な懐疑」「健全な不信」を許す「信仰」とはなんなのか?
ということを私は言いたいのです。基本的には何をどう呼ぼうとかまいませんが、
もしも、それを「信仰」と呼ぶのであれば、一般的には「信仰」とは呼ばれない
信念の多くも「信仰」ということになるのではないでしょうか。
時代が違うから、文化的背景が違うから。確かにそうでしょう。私も、そういった
背景を考慮することの重要性は大いに認めるところです。しかしながら、その昔
(それが何時のことなのかを曖昧にしておいても、この議論における論点には
そう大した影響はないと私は考えていますが)においてでさえ、上で紹介した
お話を「すばらしい道徳観だ」と思い込むのは、正に妄想と呼ぶに相応しいのでは
ないかと私は思います(何時の時代、どの文化においても、とまではいいませんが)。
上のお話はあくまでも一例です。創価学会の教義しかり、日蓮の教えしかり、
その内容を全否定することはできないにしても、その荒唐無稽な内容や、
その自然観や道徳観というのもは、大きく歪んでいます。実際に教典・経典を
どこまで大真面目に受け取るのかが、カルトとそうではない宗教と一つの
分かれ目になるのかもしれません。この部分は、時代を超えてある種の普遍的な
「正しさ」或いは、「良さ(善さ)」を持っていると教典・経典を読み解く時、
そこに(高い)客観性や合理性を認めることができるならば、「信仰」に
頼っている(或いは信仰者)とは言えないのではないでしょうか。
>>41 超弦道士さん
実世界は、我々人間の定める概念に従って存在しているわけではなく、その逆であって、存在する実世界を
何らかの形で判断・分類して概念ができあがるわけです。
いったん概念なるものが形成されれば、それについて我々は合理性・客観性その他の視点から様々な
当該概念の洗練・検証を行い続けるものだとは思いますけれど、しかし、現実の存在そのものに対して
その全てを把握しきって截然と判断・区別しうると言うものではありません。
「グレーゾーン」が残ってしまうのは、神ならぬ人間の行う事として、ある意味でいたし方のない事でしょう。
ところで、単なる「誤謬」と「妄想」を分けるメルクマールについてですが、既に述べている事ではあります
けれど、“その誤りを誤りとして否定する事実や客観性を有する知見に接した時に、誤りを正すことが
できるか否か”という点にあると思われます。
レス>40でひゃっきまるさんは『僕は、過去の世界観は、「現代から見れば」誤りである、と言えるだけで、
当時の人が妄想を抱いていた、と表現するのは間違っていると思います。』とされていますが、このような
視点から再度御考察くださるようお願いいたします。
歴史的文脈・文化的背景が違うから、それを考慮すれば状況からして「現代から見て」
甚だ主観的で根拠もなく誤った判断に基づく信念であると評価されるようなもので
あっても、「当時においては」「妄想」とは呼べない。或いは、宗教・信仰を時代を
問わず「妄想」と呼ぶべきではないという「ような」立場を支持する人達に
聞きたいのですが、民衆に自分の処女の娘を(或いは客人の従者を)暴行すれば
いいと差し出す男が抱く信念や、宗教観の違いに基づく大虐殺を望むような信念の、
いったいどういった点に「妄想」に「対する(対照される)」「根拠のある客観的・
合理的な考えに基づく信念」がある(或いは当時はあった)というつもりなの
でしょうか?(それとも対照など無視すればいいということなのか?
「客観性」など糞くらえというつもりなのか?)
「あなたの神、主が嗣業として与えられる諸国の民に属する町々で息のある者は、
一人も生かしておいてはならない。ヘト人、アモリ人、カナン人、ペリジ人、
ヒビ人、エブス人は、あなたの神、主が命じられたように必ず滅ぼし尽くさねば
ならない」(「申命記」第20章より)
同じような(或いは似たような)信念が「正しい」とされた時代もあるでしょう。
驚くべきことにこの現代もそうなのです。多くの人が「ある種の社会通念」として
こういった信念を正しいものとして受け入れているのです。当時においては?
違いますね。同じ論法に従うなら、この現代においても、宗教観の違いに基づく
大虐殺を支持するような信念は(誇張して言えば)決して妄想などではない、
なぜなら、それは「信仰」だから、多くの人がそう信じているから(論理的には
そうなるはずだからと言うべきかもしれませんけれど)、有る程度の規模の集団が
そう信じているから、それ(妄想という批判がおかしいと?)に気付いて欲しい?
何に気付けと???
(
>>49からの続き)
「あなたたちは、彼らの祭壇を引き倒し、石柱を打ち砕き、アシュラ像を
切り倒しなさい。あなたは他の神を拝んではならない。(中略)
あなたは鋳像の神々をつくってはならない」
(「出エジプト記」第34章13〜17節より)
タリバンが行った仏像破壊の動機に「妄想」など含まれているわけがない。
だってそれは信仰だから?と、言いたくがないためにどんな言い訳をする
つもりなのでしょうか。それとも、「現代においても」「文化的枠組みからすれば」
客観的・合理的な根拠に基づく正しい信念だと強弁するつもりなのでしょうか?
自爆テロは?信仰という名の妄想が動機になっていないとどうして言えるのか?
信仰は「免罪符」なのか?
原理主義者であろうとも、その主義とは別の道徳観・倫理観に触れる機会は
いくらでもあったはずです。そして、何よりその原理主義者を非難している
別の宗教家・信仰者の中の多くの人は上記の文言が記された正典を信仰の、
徳の基盤としているという皮肉。こういった状況に、客観的、或いは合理的に
通用するどんな言い訳があるというのですか?その皮肉に、矛盾に、論理的な過ちに、
不合理さに、気付かないのが合理的だとでも言うつもりなのでしょうか?
(はっきり言って、歴史的文脈が云々・ある程度の規模の集団における通念だから
などという稚拙な論は通用しないのです。)
正に、そういった人達の信仰は妄想の特徴を備えていると評価することの何が
おかしいというのでしょう?私は甚だ疑問に思います。信仰だから?
だからどうした?と私は言いたいのです。
(
>>49からの続き)
紹介している文言は旧約聖書からのものですよ。ユダヤ教・キリスト教の正典です
(旧約聖書の一部はイスラム教でも採用されています)。多くの信仰者達の信仰の
基盤であり、多くの信仰者達の徳の基盤とされる正典です。文字通りの意味で
その内容を受け止める必要があると信じている人がどれ程いるのか、以前に
アメリカにおける調査結果を見たことがあるのですが、結構多かったと思います
(記憶が曖昧なので、あまり参考にならないでしょうけど、少なくはないのです)。
そして、紹介しているのは醜悪な内容のほんの一部でしかないのです(その文献の
全ての内容が醜悪だという意味ではありません、念のため)。
「いやいや、文字通りの意味でなんて、そんな原理主義的な立場の人達は少数派
なんじゃないの?」という人もいるでしょう。では、正典を文字通りの意味で
捉えないなら、醜悪な寓話(?)にいったいどのような「徳」を「客観的・合理的に」
認めることができるというつもりなのでしょうか。(ここでもまた、妄想の対照は
考慮せずに妄想という概念を扱わなければならないのかと再度疑問を提示しておきます。)
「醜悪な話もあるかもしれないが、他にいっぱい良い(善い)話だって
あるだろ?」という人もいるかもしれません。では、正典の文言を取捨できる
その基準とはいったい何なのか?何に由来する道徳・倫理観であれ、少なくとも
取捨されるその正典・その宗教・その信仰に由来していないことは確かです。
(
>>49からの続き)
この世界の自然観として科学的に容認できる記述がいったいどれ程あるのか、
その正典を検証したらもうボロボロになってしまう(比喩ですよ)ことを
ご存知の方は多いでしょう。客観的に「正しくない」(部分が多々ある)という
ことですよ。そして、先験的な議論(或いは啓示や権威に頼った議論)には
懐疑的であれという一般的な認識論の原理・原則の一つを信仰者達がまったく
知らないなんてことはないはずです(中にはまったく知らない・理解できない
人もいるでしょうけれど)。客観的に通用しない、道徳・倫理観としても合理的に
大いに問題ある(控えめに言っても醜悪であると評価してしかるべき文言が数多く
ある)にもかかわらず、それを理解できないはずはない多くの人達が信仰の基盤にする、
その信仰が妄想などではないと評価すべきなのは、いったいどうしてなのか。
そもそも(その定義からして)宗教・信仰の真髄とはドグマに他ならないでは
ないですか。経験を超えているはずなのに「経験(体験)する」というドグマ。
(
>>49からの続き)
日蓮の教えを、創価学会の教えを非難したことが原因で地震が起こるという信念。
プレートテクトニクスよりも、「カルト」批判(或いは敵対する宗教団体の攻撃など)
という出来事と地震が密接に結びついているというようなことはありません。
大地震が宗教団体と結びついて「いなければならない(いるはずだ)」という考えを
妄想と呼んではいけない理由はいったいなんなのでしょうか?「カルト」は宗教ではない、
「カルト」信仰は信仰ではないと強弁するつもりなのでしょうか?
(私は「カルト」とそうではない宗教の区別をつけること自体を非難しているわけでは
ありません。)
ほんの些細な共通点が見受けられるといった程度の話ではなく、「傾向として」
妄想の特徴のほとんど全部といっていい程の特徴を有する信仰という名の信念を
いったいどうして妄想と呼んではいけないのか。いったいどうして妄想と呼ぶことが
おかしいのか。是非とももう一度よく考えてみて欲しいと私は願います。
「だって信仰だから」というのは(極端な相対主義を思わせる主張の数々も)
根拠としてはあまりにも脆弱にすぎます。
そしてこれは「健全な懐疑」「健全な不信」を許す「信仰」とはなんなのか?という
議論と表裏の関係にあるのです。
54 :
ひゃっきまる:2009/03/05(木) 20:42:10 ID:???
>>42-44 ◆Bwrさん
>数の問題として、一般的か否かを論じるなら「妄想」と表現するのは一般的では
>ないでしょう。実際に多くの人は「宗教・信仰」と「表現」してますよね。
いいえ。数の話などしていませんよ。
>>3-4の、1-a,b,cの例は、多くの日本人にとってなじみのあるシチュエーションを想定したつもりです。
こういったシチュエーションを◆Bwrさんが妄想と感じるのであれば、まあ、僕の説明したかったことは伝わらなかったということですね。
>少なくとも「宗教側((宗教家と呼ばれるような人や、宗教団体という意味です)」は、
>そういったことを「主要な関心事ではない」とは言わないでしょう。
信仰者にとって、神や来世といった宗教的概念は、「信じる」ということが重要であって、それが客観的事実であるかどうかは別次元の問題だということです。
信仰者でない人にとってこのような感覚は理解しにくいかもしれませんね…。多少語弊はありますが、心の中の内なる神を信じている、とでもいえばいいでしょうか。
お墓参りのときに故人に心の中で語りかけることがあったとして、「死者の魂」が客観的に存在している、と考えているわけではないと思います。
僕は、現代ではこのような立場をとる信仰者が多いのではないかと思っています。
55 :
ひゃっきまる:2009/03/05(木) 20:43:14 ID:???
(続き1)
しかし、宗教的概念が客観的事実であるかのように主張する宗教もあるでしょう。
例えば、今はどうか微妙ですが、かつての創価学会は確かにそう主張していました。
また、キリスト教の原理主義団体などもそうですし、最近のスピリチュアル(神秘主義)などもそのようなところがあります。
このような宗教はカルト的性格を帯びてきますから、僕はあまりよくない宗教だと思っています。
まあ、宗教はなんなのか、信仰はなんなのか、というのは非常に難しい問題です。
多くの哲学者や宗教者が考え続けてきた問題でもありますし、単に「迷信」で片づけられないと僕は思っています。
ところで、客観的であるとか、合理的であるとかいうことだけが正しく、他は認められない、などという社会は、それはそれとして非常に強いドグマに浸っているように思うのですよね。
例えば、共産主義国なんかは、宗教を禁じているところがありますね。
このような考え方は、ある意味で「この宗教が唯一正しい」という信仰に似ているように思います。
いろいろな文化、いろいろな思想を許容できる社会が豊かであると思います。
もちろん、悪質な宗教もありますから、そこはきちっと見定めていけばよいのではないでしょうか。
56 :
ひゃっきまる:2009/03/05(木) 20:44:30 ID:???
(続き2)
>>44-45 >私が言いたいのはそういうことです。「単に」誤情報によって誤った内容の信念を
>形成した、「単に」昔の人は現代と比べて知識が足りず誤った世界観を持っていた、
>ということを妄想だと断じているわけではありません。
なるほど。わかりました。
◆Bwrさんの「妄想」の基準は、世界観の説明に「神話的概念」を持ち込むか否か、ということですね。
例えば、「雷」を説明するとき、天にいる神が怒っているのだ、と考えるのが「妄想」で、雲の中でなんらかのエネルギーが自然発生しているのだ、と考えるのが、「妄想ではない」ということですね。
また、「その神の名前はゼウスというんだ。ゼウスは神様の中で一番偉いんだ」などといったら、おそらく◆Bwrさんの「妄想」の基準に完全に入るのだと思います。
しかし、「雷は神がおこしているのだ」と古代人が考えることは、それほど不合理な説明だとは僕は思わないですね…。また、自然界を支配している神の物語を信じていることも、僕は妄想とは思いませんね。
◆Bwrさんに一つ確認したいのですが、◆Bwrさんは、「神話的世界に生きていた中世以前の世界の人たちは、その神話的世界観に疑問をなげかけていた一部の学者といった人たちを除いて、皆、妄想を抱いていた」、と考えているのでしょうか?
57 :
ひゃっきまる:2009/03/05(木) 20:45:24 ID:???
(続き3)
>>46-47 >つまるところ、「健全な懐疑」「健全な不信」を許す「信仰」とはなんなのか?
>ということを私は言いたいのです。
一部読むのが難解な文章もありまして、◆Bwrさんのおっしゃりたいことがいまいち理解できていないかも知れませんが、僕も宗教、信仰をすべて肯定するわけではありません。
「善い信仰」「悪い信仰」はあるだろう、と僕は思っています。
また、宗教が非常に危険な一面を持っていることも十分に理解しているつもりです。
しかし、宗教は文化や歴史と分かちがたく存在していますし(冠婚葬祭など)、なんといっても今の我々の当たり前の常識や倫理感は、宗教をからめた歴史の中で育まれてきたことを忘れてはならないと思います。
現代でも宗教を必要とする人はいると思いますし、できるだけお互いの生き方を尊重していく社会が望ましいと僕は思います。
その上で、許容できないレベルの悪質な宗教や思想については、糾弾していけば良いのではないでしょうか。
58 :
滝山:2009/03/05(木) 21:33:35 ID:???
>>15 >ここにいるはぐれコテ層化は、敵対しててもどこかで繋がってる
敵対しているつもりはないし、
実際問題、敵対なんかしていないだろう。
>俺たち外部の者からではわからない
>友情みたいなのがあるんじゃねぇかな?
外部とか内部とか一切関係ないですよ。
ここでの付き合いはかなり長いから
その経緯を知らない人にはわからないだけです。
友情と言うより腐れ縁。
馬は合わないけどそれなりに敬意は持っているって感じです。
ひゃっきに言わせれば俺は「ツンデレ」なんだそうです(笑
3人共通しているのはある程度、
現代思想(=近代以降、≠近代哲学)にも通じているということ。
これがたぶん一番重要でしょうね。
>>37 ひゃっき
おk。
>>54 ひゃっきまるさん
>こういったシチュエーションを◆Bwrさんが妄想と感じるのであれば、まあ、僕の説明したかったことは伝わらなかったということですね。
私が甚だ主観的で不合理な内容で、ごく個人的に妄想だと「感じる」という
お話をしているわけではありませんし、そこで提示されているシチュエーションにしても
妄想とは言いがたい場合もあるということは既に述べていますよ。ゼウスのお話や、
神話的世界観が云々というのも同じことです。こちらは大きな幅があることも認め、
「傾向として」というお話をしているのです。
>信仰者にとって、神や来世といった宗教的概念は、「信じる」ということが重要であって、それが客観的事実であるかどうかは別次元の問題だということです。
信仰者達の多くと議論を交わせば、結局のところそういうお話になってくるでしょう。
しかしながら「客観的事実であるかどうかは別次元」などというのは概ね詭弁なのですよ。
「カルト」ではない宗教の信仰者は「本気で」呪文を唱えれば病気が治るとは
「想わない」でしょう。しかし、そういった内容を説く教義が含まれていることは
多いのです。では「信仰者」なのに、なぜそう「想わない」のか?実際に信仰の基盤と
なる教典・経典に説かれている内容を捨て去るその基準とはいったいなんなのか。
そこで出てくるのが「別次元のお話だ」です。「教義の一部は明らかに間違っている」
とは認めないわけですよ。そういった「別次元のお話」を「宗教的に」大真面目に
受け止めれば、「宗教的に」賞賛されてもおかしくないはずなのですが、多くの
宗教家・信仰者からも「カルト」と呼ばれるようなことになるでしょうね。
原理主義的だと。宗教家・信仰者は「カルト」を見て「遺憾に想う」とのたまう。
(
>>59からの続き)
宗教学者や歴史学者などが教典・経典とよばれる文献を「(広義の学問という意味で)
科学的に」真面目に捉える、或いは「信仰者」が「(狭義の自然科学という意味で)
科学的な」自然観を真面目に捉える。その判断・信念の基準になっているのはいったい
なんなのか?科学ですね。「実際は」多くの場面で教義を取捨する際の基準として
科学的知識が採用されているのです。(文字通りの意味で取捨されることはあまり
ないとは思いますけどね)科学は宗教ではないのですし、「別次元」なのではなく、
「同じ次元」の問題だからこそ、それを(一つの)基準として教義内容を取捨し
「カルト」化しないように努めているわけですよ。
道徳・倫理にしてもそうなのです(宗教がまったく何の役にも立たないとまでは
言いませんがね)。洋の東西を問わず、醜悪な罰論が含まれている宗教の
なんと多いことか。にもかかわらず、それを「宗教的に」大真面目に捉えれば
「カルト」「原理主義」です。醜悪な罰論を「宗教的な」真面目さで捉えない
(つまり「宗教的不信」或いは「健全な懐疑」)ことを認める基準はいったい
どこに由来するのか?それが何であれ、その醜悪な罰論と絡み合った教義・信仰は
その基準を提供してはくれないのです。ここでもまた、宗教家・信仰者は
言うでしょう。「カルト」を見て「遺憾に想う」と。そして明に暗に道徳・倫理の
基盤に特権的に貢献しているかのように装う。
(
>>59からの続き)
>いろいろな文化、いろいろな思想を許容できる社会が豊かであると思います。
しかし信仰という名の信念が妄想の特徴の殆ど全てを有しているという現実を
認めない。その貧しさは宗教的レッテルに拠るものでしょう。
自爆テロは信仰という名の妄想が動機であるとは許容しない社会が豊かだと?
私は原理主義者の考えも「尊重」してますよ。「宗教的に」いかにも大真面目だと
評価してますしね。ユダヤ人迫害の背景にある宗教的感情、宗教という
レッテルがなければ起こらなかったであろう争いの数々(神学的な見解の相違が
原因だという意味ではないので誤解しないでください)。これもまた、宗教を
からめた歴史の中で育まれてきたことを忘れてはならないでしょう。宗教が子供に
及ぼす絶望的な悪影響は恐るべきものがあります。そして科学や常識に信仰という
ベールがかぶせられているのです。そのベールを剥がせば世間一般の「健全な
信仰」に「信仰」と呼べる部分がどれ程残るのか?と私は問いたいのです。
妄想云々という点では見解の相違がありますが、以下の前スレ
>>594の乾闥婆さんの
見解に私は大いに賛同するところです。(いずれというのを私は悲観的?に捉えては
いますが)
「信仰を持つ人はその対象となる教えを真実であると思うのではないでしょうか。
ですから、現代において、多くの信仰は不可能な段階にきていると思います。
もし、その信仰を真実として支持することに急となればカルトとなるほかないでしょう。
真実ではないと思って信仰を維持しようとすれば、そのような信仰はいずれ
解体されてゆくことでしょう。」
実際の教典・経典にはとても醜悪で信じられないような道徳・倫理観が説かれている
ことも多々あるわけですが、宗教側から全体的な「解釈」として提示される道徳・
倫理観は社会規範から大きく逸脱するようなものではない場合も多々ありますね。
教典・経典に宗教観の違いからくる大虐殺のお話が掲載されており、それを支持
しているのは信仰の根幹に居座る怪物(神)だったとしても、宗教家・信仰者は
それを鵜呑みにせずに、別の道徳・倫理観を示す。いっそのことギリシャ神話と
同じようなものだと言えばいいのですが、問題なのはそのベール(はっきり言えば
詭弁)によって、道徳・倫理のお手本としてその教典・経典が流通している
ことです。聖書なんかは世界的なベストセラーですが、私はその怪物を子供に
善なるものとして紹介するという醜悪さに戦慄が走りますよ(実際に悪影響を
及ぼす場合が十分あり得ることを示す研究を紹介することもできます)。
ギリシャ神話を道徳・倫理の基盤に据えたりはしないでしょう。子供に神話を
御伽噺として聞かせる時に、道徳・倫理の問題として殺戮の神を善なるものとして
紹介したいと思いますか?
原理主義者をどうやって非難するつもりなのか?という話なのですよ。多くの場合、
原理主義者は教典・経典を歪んだ形で自分達に都合の良いように解釈することも
ありますが、その一方であまりにも素朴に素直に「宗教的な」真面目さで教典・
経典を受け止めていることも多いのです。
(
>>62からの続き)
「信仰」が動機となって「とても人道的」で感動せずにはいられないような行為を
行う信仰者もいます。しかし、「本当に」「信仰」が動機になっているのか?と
私は問いたいのです。「本当に」原理主義者の「解釈」が間違っていると、同じ
教典・経典を基盤とする信仰者の口から言えるのか?と私は問いたいのです。
もしも、教典・経典に「(客観的に、合理的に、人道的に)正しい」と認めることが
できるすばらしい知識が記載されている場合でも、それを「正しい」ものとして
切り取る根拠に高い客観性や合理性を認められるならば、それは信仰とは呼べない
はずなのです。科学の客観性に頼る時に、それを信仰と呼びますか?倫理学者は
宗教家なのですか?そうやって、「信仰」という名の「ベール」「宗教的レッテル」を
一つ一つ剥がしていけばいったい何が残るというのでしょうか?しかるべき理由で
「健全な懐疑・健全な不信」は残らないでしょう。教典・経典の内容を様々な形で
(実際的に)取捨する基準も残らない。信仰はそれを提供してくれないのです。
何が残るのか?正に妄想と呼ぶに相応しい特徴が残ってしまうのではないでしょうか。
信仰を妄想と呼ぶことに違和感を感じる人は大勢いるでしょう。しかし、タリバンの
仏像破壊や、自爆テロといった行為を見れば、それが「信仰」に裏付けられているのは
明らかではないですか。これを妄想と呼ばない、それを信仰と呼ぶべきだという
「(誇張して言えば、些か挑発的に言えば)宗教擁護・信仰擁護」の根拠・理由は
いったいなんなのか?「健全な懐疑」を許す「信仰」は、「本当に」信仰と呼べる
ようなものなのか?というお話なのです。
64 :
ひゃっきまる:2009/03/06(金) 23:04:22 ID:???
>>59-63 ◆Bwr5さん
だいたい何を言わんとするか分かったような気もしますが、できれば要点をしぼって簡潔に主張内容を述べていただけますとありがたいです。
いくつか質問をさせていただきます。
再度(
>>56)になりますが、
(1)
◆Bwrさんは、「神話的世界に生きていた中世以前の世界の人たちは、その神話的世界観に疑問をなげかけていた一部の学者といった人たちを除いて、皆、妄想を抱いていた」、と考えているのでしょうか?
(2)
◆Bwrさんは、結局のところ、宗教に関してどのような状態が望ましいと考えているのでしょうか。
全ての宗教がなくなった方が良いと考えているのでしょうか。
それとも、◆Bwrさんが「こういう宗教ならよい」と思うものがあるのでしょうか。
(3)
仮に、「こういう宗教ならよい」というものがあるとすれば、それはどのような基準によって決められるのでしょうか。また、具体的にそのような宗教は存在するでしょうか。
(4)
◆Bwrさんの定義する「妄想」とはなんでしょうか。
できるだけ簡潔に分かりやすいようにお答えいただけますとありがたいです。
65 :
ひゃっきまる:2009/03/06(金) 23:05:15 ID:???
(続き1)
>しかしながら「客観的事実であるかどうかは別次元」などというのは概ね詭弁なのですよ。
僕は単に詭弁としてして「別次元」ととらえているわけではないと思います。
それは◆Bwrさんの狭量な決め付けであると思います。
そして、「別次元」ではなく、文字通りの客観的事実と考える信仰者を、「原理主義的な信仰」とすることができるでしょう。
「原理主義的な信仰」が本来の信仰で、そのような信仰が真面目な信仰だ、というのも◆Bwrさんの決めつけに過ぎないでしょう。
>その判断・信念の基準になっているのはいったいなんなのか?科学ですね。
現代は科学的世界観が説得力を持ち、事実とされる時代ですから、その中で信仰も変化を余儀なくされるでしょう。その方策の一つが、「別次元」ですね。
単なる言い逃れ、詭弁とも思えますが、そのような形で信仰を存続させようとしたということです。
>洋の東西を問わず、醜悪な罰論が含まれている宗教のなんと多いことか。
宗教だから批判してはいけない、とは誰も言っていないと思いますよ。
おかしなことはおかしいと言っていけばよいのではないでしょうか。
僕も、創価学会の罰論はさんざん批判してきていますし…。
66 :
ひゃっきまる:2009/03/06(金) 23:06:14 ID:???
(続き2)
>原理主義者をどうやって非難するつもりなのか?
僕がこのスレで10年近くもやっていることです。
即ち、教義が客観的事実ではない、ことを示せばよいのです。
法華経は釈迦によって説かれてはおらず、日蓮の思想の根幹部分のほとんどは、現代では通用しないものであると、僕は主張し続けています。
それを十分に理解したうえで、それでも信仰をする、という人がいても僕はかまわないと思っています。
その人は、日蓮の教義が客観的事実ではなく、信仰上のものであることを理解したということですから。
>それを「正しい」ものとして切り取る根拠に高い客観性や合理性を認められるならば、それは信仰とは呼べないはずなのです。
僕は、「信仰」とは、客観性、合理性を必要としないものだと思っています。
石を拝む信仰、木を拝む信仰に合理性などあるでしょうか。
「隣人を愛しなさい」という教えは、客観性、合理性とは関係ありません。
逆に言うと、現代における宗教とは、「科学」が提供できないものを与えるものでもありますね。
「生きる目的(生まれてきた理由)」「より良く生きるための指針」「何が人生において大切なのか、の答え」など。
もちろんこれらは宗教の専売特許というわけではありませんが、これらを宗教に求める人がいても良いのではないでしょうか。
67 :
ひゃっきまる:2009/03/06(金) 23:07:09 ID:???
(続き3)
>タリバンの仏像破壊や、自爆テロといった行為を見れば、それが「信仰」に裏付けられているのは
>明らかではないですか。
宗教は恐ろしいですよね。悪い宗教もたくさんあると思いますよ。
しかし、知人のカトリックの方は無信仰な人よりも非常に人格的に立派に思いますし、日本にある神社などが無くなってしまったらさびしいですね。
宗教のすべてが悪いものだとは僕は思っていません。
繰り返しになりますが、客観的であるとか、合理的であるとかいうことだけが正しく、他は認められない、などという社会は、それはそれとして非常に強いドグマに浸っているように思うのですよね。
日蓮が強い語気で「これこそが正しく、他は間違っているのだ。他を信じれば、不幸になるのだ」と主張する様子に似ているように思います。
>>64 ひゃっきまるさん
>(1)
>◆Bwrさんは、「神話的世界に生きていた中世以前の世界の人たちは、
>その神話的世界観に疑問をなげかけていた一部の学者といった人たちを除いて、
>皆、妄想を抱いていた」、と考えているのでしょうか?
「皆、妄想を抱いていた」とは考えていませんよ。
>(2)
>◆Bwrさんは、結局のところ、宗教に関してどのような状態が望ましいと
>考えているのでしょうか。
>全ての宗教がなくなった方が良いと考えているのでしょうか。
>それとも、◆Bwrさんが「こういう宗教ならよい」と思うものがあるのでしょうか。
解体された方がいいと私は考えています。宗教体系というのは、迷信・倫理観・
自然観・芸術・その他、いろいろなものが絡み合って形成されているものだと私は
認識しています。それらをまとめて「宗教」と表現することの問題は、「信仰」とは
いかなるものなのかという問題なのだというのが私の考えです。
宗教家・信仰者もある信念を迷信・妄想と呼ぶことはありますよね。その判断が
客観的・合理的な根拠に基づくものなのであれば、同じ基準を自身の宗教・信仰に
対して適用すればいいのです。
倫理学者は宗教家ではありません。物理学者は宗教家ではありません。芸術家は
宗教家ではありません。心理学者も宗教家ではありません。そして宗教学者も
宗教家ではない。同じ基準を宗教家、或いは信仰者にも適用すればいいのです。
(
>>68からの続き)
>(3)
>仮に、「こういう宗教ならよい」というものがあるとすれば、それはどのような
>基準によって決められるのでしょうか。また、具体的にそのような宗教は存在するでしょうか。
一つの観点としては、「カルト」ではない宗教ということになるでしょう。
概ね社会規範から逸脱していない宗教ということになってきます(カルトの線引きが
単純な問題だとは思っていません)。
別の観点としては、「こういう宗教ならよい」というものはない(のではないか)。
それを模索すれば宗教は解体されることになり、信仰に何が残るのか?その根幹は
妄想に拠るということになるだろうというのが私の見解です。(先に述べたように、
宗教体系は伝統や文化として様々な側面を有していますから宗教を解体しても、
それらは当然残りますよ。)
私はどちらかの観点「のみ」から論じ「なければならない」というような話をしている
わけではありません。
>(4)
>◆Bwrさんの定義する「妄想」とはなんでしょうか。
既に何度も何度も提示してますよ。意味がわからなければ、まずは辞書で調べて
みてはいかがでしょう。
前スレ
>>572 「妄想というのは、根拠のない誤った判断に基づいて作られた主観的な信念のことです。 」
(この議論の最初から、私は何度も何度も同じ簡潔な定義を提示し続けています。)
>>65 ひゃっきまるさん
>僕は単に詭弁としてして「別次元」ととらえているわけではないと思います。
>それは◆Bwrさんの狭量な決め付けであると思います。
ひゃっきまるさんがそう思うのは自由ですが、根拠もなく「狭量な決め付け」だと
言われても、それこそいかにも狭量な決め付けだなぁと、こちらは思うだけですよ。
「同じ次元」だからこそ客観性・合理性をもとに私達は宗教に対して様々な評価を
下せるのですよ。どんなに信仰者が「それとは別次元」とか言い張っても、
結局「信じたい」という願望の現われでしょ?何が別の次元なのですか?
>現代は科学的世界観が説得力を持ち、事実とされる時代ですから、その中で信仰も
>変化を余儀なくされるでしょう。その方策の一つが、「別次元」ですね。
>単なる言い逃れ、詭弁とも思えますが、そのような形で信仰を存続させようとしたということです。
だから、何が別の次元なの?信仰を持ち続けたいという願望でしょ?
>僕は、「信仰」とは、客観性、合理性を必要としないものだと思っています。
それは「妄想」とは呼ばせないためのレトリックでしょうに・・・。
妄想の対照となる信念はいったいどういったものなのですか?
>>67 ひゃっきまるさん
>しかし、知人のカトリックの方は無信仰な人よりも非常に人格的に立派に思いますし、
こういう発言はよろしくないですね。もう少しよく考えてみて下さい。
72 :
滝山:2009/03/07(土) 00:22:28 ID:???
クワイン
クーン
ポパー
ゲーデル
>>67 ひゃっきまるさん
>客観的であるとか、合理的であるとかいうことだけが正しく、他は認められない、などという社会は、
>それはそれとして非常に強いドグマに浸っているように思うのですよね。
言い回しがなんだかおかしいと思います。
ひゃっきまるさんは、正誤・真偽の判断をどうやってすればいいと考えているのですか?
結論が出ない場合もありますが、議論をするときに何が正しくて何が間違っているのか、
客観性や合理性によって判断「すべき」なのではないのですか?
それをドグマだとは言わないでしょ。
>>66 ひゃっきまるさん
>即ち、教義が客観的事実ではない、ことを示せばよいのです。
「別の次元」なのにどうして客観的事実か否かを問題とするのですか?
>法華経は釈迦によって説かれてはおらず、
法華経が釈迦によって(直接的に)説かれたと思い込む、その信念は「信仰」では
ないということですか?
>日蓮の思想の根幹部分のほとんどは、現代では通用しないものであると、僕は主張し続けています。
日蓮の思想の根幹部分は現代でも十分通用するすばらしいものだと思い込む、
その信念は「信仰」ではないということですか?
>それを十分に理解したうえで、それでも信仰をする、という人がいても僕はかまわないと思っています。
それを十分に理解したうえで(???)、それでも法華経が釈迦によって(直接的に)
説かれたと思い込み、日蓮の思想の根幹部分は現代においても十分通用するすばらしい
ものだという信仰を持ち続ける人がいても、かまわないと。客観性など糞くらえと
言い出しそうな信仰者の姿勢を問題としていたのではなかったのでしょうか?
>その人は、日蓮の教義が客観的事実ではなく、信仰上のものであることを理解したということですから。
なんですか、このレトリックは。もうちょっとよく考えてみて下さい。
>>67 ひゃっきまるさん
>日本にある神社などが無くなってしまったらさびしいですね。
私は神社が好きです(ただ私は文字通りの意味で神の社だとは思っていません)。
私も無くなってしまったら大変寂しいと思います。どこかの過激派がテロか何かで
爆破でもしない限り、多くの神社は歴史的建造物・文化財として保護されるのでは
ないでしょうか(信仰とは別の観点からという意味ですよ)。
(私は何も宗教に関わる建造物・芸術作品・文献などを焼き払ってしまえ!という
話をしているわけではありませんので、その点は誤解しないで下さいね。)
(
>>75からの続き)
無信仰・無宗教の立場から宗教に関わる建造物や芸術作品や文献の保護を訴えるのは
人格的に何か問題を抱えていることを意味するのでしょうかね?或いは、無信仰・
無宗教の立場の人は道徳・倫理観に大きな問題を抱えているのですか?
(特定の宗教を選んでそれに与するわけではないという意味で)無宗教の立場から
客観的・合理的に宗教を捉える宗教学者は人格的に劣っているのでしょうか?
特定の信仰という観点からではなく、謂わば無信仰的な観点から信教の自由を
認める立場は、人格的に劣っていることの表れなのでしょうか?
無信仰・無宗教の立場の人が傾向として人格に大きな問題を抱えているということに
根拠・理由はありますか?(ないですよ。逆の結果を示している研究を紹介することも
できます。)
ひゃっきまるさんは、「しかし、知人のカトリックの方は無信仰な人よりも非常に
人格的に立派に思いますし、日本にある神社などが無くなってしまったら
さびしいですね。」とおっしゃる。
どうして「しかし」ではなく「そして」ではないのか。信仰という名の妄想が動機と
なって歴史的・文化的に価値ある仏像が破壊されたのです。「そして」日本にある
神社などが無くなってしまったら・・・というならわかりますが、どうして
「しかし」なのか。信仰という観点から神社は保護されるべきだと?
過激な「原理主義者」もいるが、「しかし」「人格的に立派な」信仰者もいると
(つまり、人格の問題として語っているのか???) 。
カトリック信仰の知人は人格的に優れている。そういう人もいるでしょう。
「無信仰な人よりも、(しかも非常に)」いったい、なんだというのですか?
どうして「無信仰」が比較対照にあがっているのだ、いいかげんしろよと、
私は声を大にして言いたい。
タリバンは宗教的世界観・道徳観を背景として歴史的・文化的に価値ある仏像を
破壊した。
しかし、「知人のカトリックの方は無信仰な人よりも非常に人格的に立派に思います」
しかし、「知人のカトリックの方はプロテスタントの人よりも非常に・・・」
しかし、「知人のカトリックの方は女性(或いは男性)よりも非常に・・・」
しかし、・・・。
私が問いたいのは、正にその「宗教的レッテル」の問題なのです。
専用ブラウザ推奨。
Bwさんはすこし散歩でもしたほーがいいぞ、
風はつよいけど天気がすごくいいからね。
>ひゃっきまるさん
>それを十分に理解したうえで、それでも信仰をする、という人がいても僕はかまわないと思っています。
>その人は、日蓮の教義が客観的事実ではなく、信仰上のものであることを理解したということですから。」
ひゃっきまるさんのレス
>>66にこのようにありますが、この点に関して、もしかすると◆Bwr5tJDUMcさんと私は、
見解を異にするのかもしれません。 (もっとも、本質的には同じであろうと思っておりますが…。)
どんなに客観的事実に反する内容の信仰・宗教であろうと、それは憲法で保障されるのであって、法に触れる
行為などがなければ、一応は認めなくてはなりません。
その存在そのものを強制的に排除する事などできないのです。
しかし、当該の信仰・宗教が法に触れなくても、内容的にそのような信仰・宗教を客観的事実に反するもの
として批判する事も、(憲法上も)認められているのですよ。
(レス>80の続き)
日蓮を妄想糞坊主と評する事についても、相手方は、先ずはそれが法に反する事なのかを問題とし、
法に触れると言うなら、然るべき法的手段を採ればよいだけです。
法に触れないとした場合には、具体的・客観的事実をもって日蓮の抱いた見解が妄想ではない事を示し、
糞坊主と評する事に対して批判・反論すればよいだけです。
彼等が“大聖人”などとする事を万人が無条件に受け入れなければならず批判が許されないのだとすると、
それは、宗教をアプリオリに絶対的なものと価値付けるのを強制する事に異なりません。
ところで、創価学会の場合ですが、“日蓮の教義が客観的事実ではない”としているわけでも、“信仰上のもの
にすぎない”としているわけでもなく、日蓮の主張は“客観的事実”・“真実”であるとしているわけです。
言ってみれば、彼等はそのような迷妄を世の中に広げようとしているわけですが、ひゃっきまるさんは
このような立場に対してどのように臨むのでしょうか?
彼等の立場からすれば、「日蓮の教義が客観的事実ではなく、信仰上のものであることを理解」した上で、
それに基づいて信仰するなどという事は、日蓮の否定そのものでしかないわけであって、信仰としては
成り立たなくなってしまうはずですよ。
(レス>81の続き。)
>繰り返しになりますが、客観的であるとか、合理的であるとかいうことだけが正しく、他は認められない、などという社会は、それはそれとして非常に強いドグマに浸っているように思うのですよね。
>日蓮が強い語気で「これこそが正しく、他は間違っているのだ。他を信じれば、不幸になるのだ」と主張する様子に似ているように思います。
レス
>>67に引用のようにお書きですが(空白行を省略しました。)(また、>73における◆Bwr5tJDUMcさんの
批判は一先ず措くとして)、私は、私を見解を異にする立場の存在そのものを許容しないなどと考えて
いるわけではありません。
基本的には、御自由にしていただけば良いのです。(先にも述べたように、法に触れるなどの場合には、
もちろん別ですが、原則は自由であって、例外的に制約を受けうるだけです。)
もっとも、先程も述べたように、法に触れなくとも、その主張などに内容的な問題があり、その言動が
社会に様々な問題を生じて看過できないとすれば、それに対しては批判させていただくと言う事です。
(レス>82の続き)
そして、ひゃっきまるさんが御指摘のように、当時の社会において日蓮は独善的・非客観的主張を行った
と言えると思いますが、今日においても、その日蓮の名の下に同様の事が行われているわけであって、
それを問題としているだけなのですよ。
(用事があって時間の都合がありますので、一応これで終わります。本当は、白洲次郎氏の触れたあたりの
続きも書きたいのですが…。今夜、ドラマの続きが放映されますね。)
>>79 アナタこそ、現在行われている議論に関する事を書かずに、そんな事をレスするぐらいなら、
「散歩でもしたほーがいい」だろうよ。
どこにお住まいなのか知らないが、ここ数日と異なり、こちらは風もあまり吹いていないようで
天気もすごくいいからね。
>>80 法律ヲタさん
>この点に関して、もしかすると◆Bwr5tJDUMcさんと私は、見解を異にするのかもしれません。
>(もっとも、本質的には同じであろうと思っておりますが…。)
私も同様に思っています。人の思想(或いは思考・信念)を外部から強制的に制限を
設けるようなことには反対です。その自由は保障される必要があるでしょう。
それを理解した上で(信仰からの「理解」などでは決してないと強調しておきます)
私はあえて「○○すべき」という些か挑発的で皮肉を込めた(そして危うい)表現を
選んで(だからこそ「」で強調しているわけですが)論じています。
それとも重大な見解の相違になり得る(或いは表れている)のは、他の部分でしょうか。
ひょっとすると「かまう」「かまわない」という点かもしれません。まだ、他にも
いろいろ「この点かもしれない」と思う部分はありますが、ともかく、基本的に誰が
何を信じようとそれは自由であり、その意味においては「かまわない」というのが
私の立場です。
(
>>85からの続き)
それを言葉として発する、或いは行動という形で発露すれば(そして客観的・
合理的にそれが問題になるのであれば)批判を受けるのも当然であるというのが
私の立場です。「別次元の信仰上の問題」を私は「更にそれとは別次元の(或いは、
この場合だけは同じ次元だと決め付けられるのか)信仰上の理解や想い」を基盤に
「批判」しても、事態が悪化するだけだろうと(そんな論法が許されるなら、
議論など成り立たない。或いは、ここでも些か挑発的に誇張して言うなら、
なんとなく馴れ合う雰囲気で笑顔を振り撒き、客観性・合理性という概念を
否定的に捉えるのがそんなに良いことなのか。合理性の問題として
別のものを踏みつけにすることを意味してはいないか。)私はそう思います。
その信念の存在自体を全否定し、そういう意味で決して「認めない」「認めるべきでは
ない」ということではなく、客観的・合理的に「その内容が真実・事実であるとは」
(その基準からして)認められないということです。そして、信仰・宗教に
その枠外だという(他の信念とは「別次元」などという)「特権」などないと
私は考えています。私はその存在(信仰に限らず)を(たぶん見解が相違する人とは
違う形で)大いに認め、尊重しているつもりです。
「傾向として」「特徴として」「幅がある」と何度も何度も強調して述べているのに、
「皆が○○だというのか?」という反論(疑問)を何度も提示し返すのは、あまり
フェアーな議論の仕方ではないと(そんなに強く強く非難しようという趣旨では
ありませんが)私は思います。好意的に受け止めれば意図してのことでは
ないのでしょうけれど、論点のすり替えなのです。
「妄想(根拠のない誤った判断に基づいて作られた主観的な信念)」の根拠のなさ、
誤りというのは、対照となる客観性や合理性によって決まるものなのであって、
「単に」誤情報を信じたから、その判断が「誤り」というようなものではないのです。
「単に」主観的な内容の信念だから「誤り」というようなものでもありません。
情報の少なさからくる誤解、時代精神の違いからくる道徳観の違い、そういったものを
「皆」「全て」「ほんの少しでも問題や誤りが含まれるなら」妄想だと断じている
わけではないのです。
(
>>87からの続き)
たとえば幻想小説(或いは怪奇小説やその他)を書いた作家は妄想を抱いているの
ではなく、それが甚だ主観的な内容で真実・事実としての根拠がない側面が多分に
あることを十分に理解していることでしょう(そうではない人も中にはいるかも
しれませんけれどね)。想像にすぎない点は想像にすぎないと、根拠のある判断を
しているわけです。これは「誤り」などではないでしょう。そして、どうして
そういった判断ができるのか、どうして妄想ではないのか、それは対照される
客観性や合理性というものを理解しているからですよ。
古代の人々が山や川を擬人的に捉えることの「合理性」を私は擁護できますが、
それは擬人的に捉えることが判断として有益な場合が多い(誤りであってもその
有益さがあまり損なわれない)からこそ、(その意味において)ある程度の
「合理性」を認めることができるのであって、そこから様々な物語を付け加えて
神に生贄を捧げるような信念が生まれたとしたら、それは先に示した「合理性」の
観点からは大きく外れる話になってくるのです。そういったことを考慮せずに
何かを擬人化することの合理性だけを重視して、古代の人々の神話的な世界観が
云々と語るのは些か乱暴なのではないでしょうか(だから、こちらは簡潔な定義を
提示しつつも、その特徴をあれこれと論じ、「傾向として」「特徴として」「幅が
ある」と何度も何度も述べているわけです)。
(
>>87からの続き)
そうやって些か乱暴な形で事例を挙げて「じゃあ、これは?あれは?それは?」と
言い続けるのも一つの方法ではありますが、そもそも妄想の対照となる信念が
どういったものなのかを一向に(あまり?)提示しようとしないのは(或いは、
根拠なく妄想の特徴をどうしてなのか信仰にだけは決して当て嵌まらないとでも
言いたげなその姿勢は)やはりフェアーではないですよ。信仰を妄想と呼ぶことの
問題というよりも、内容として妄想という概念自体の否定といった方向に傾いて
しまっているのではないでしょうか(客観性や合理性が蔑ろにされるような論が
展開されるのはそういうことですよ)。
では、そろそろ私はROMに戻ろうと思います(あまりにも酷い内容で反論が提示されたり
私の論に重大な欠陥が見つかったりすれば別ですが)。
90 :
滝山:2009/03/07(土) 15:27:43 ID:???
>>36 春田の蛙さん
>ただ滝山さんの書き込み内容は興味深いので、“気が向いたとき”を見逃さないよう、
>なるべくこのスレはロムっておこうと思います。(笑)
もしなにか質問などがあれば書ける範囲でお答えしますよ。
ギックリ腰が癖になっておりまして、またここでなってしまい、まるっきり動けなくなるほど酷い症状になる事も
ほとんどないのですけれど動作などに制約を受けてしまいます。
イスに座るのが結構辛く、合っているイスだと座っている事自体にはさほどの問題ないのですが、イスから
立つと痛みで腰を普通に真っ直ぐ伸ばして歩けず、老人のように腰が屈んだような感じになってしまいます。
何をしようとしても物事に集中するのがさまたげられてしまって困ります。
・・・というような状況なのですが、やはり基本的に◆Bwr5tJDUMcさんと私の考え方は、少なくとも
問題とした範囲では異なるものではないようです。
おそらく、本質的な意味ではひゃっきまるさんや乾闥婆さんに御納得いただけないであろうと思いますが、
しかし、私の立場からすると、理屈が通っているのはこちらなのですよ。
(今回は、これだけにさせていただきます。)
>>91は何のために書き込まれたのかよく分からんレスだな
「分かってはもらえないだろうが、やはり自分の方が正しい」なんて無意味なカキコだろう
ま、お大事にな
93 :
ひゃっきまる:2009/03/10(火) 02:10:44 ID:???
レスは書けているのですが、ずっとアク禁で書き込めません…。
のんびり待っていただくようお願いします。
>>92 ともかくも心配してもらって、アリガトウさん。
ギックリ腰の過去の経験からすると、医者にかかって薬その他の治療を受けてもほとんど無駄で、
実際のところ時間を待つしかない。
素人療法でぶら下がり健康法みたいな事をすると、一応その当座は良くなるのだけれど、
また立っていると直ぐに駄目になってしまう…。
まァ、動けるだけマシだと思って諦めるしかないね。
しかし、キミのそれのレスにどんな意味があると言うのかなァ?
俺には「無意味」としか思えんが、是非その点について滔々と説明して欲しいものですよ。 (w
>>93 ひゃっきまるさん
お気になさらず、ごゆっくりどうぞ。
96 :
乾闥婆:2009/03/12(木) 23:21:16 ID:???
>>2 滝山さん
そう言っていただいて、ありがたく思います。あの時は、結局のところ、きちんと謝るこ
ともせずに、話を打ち切ってしまいました。気にかかってはいたものの、謝るきっかけも
なくずるずると今回も書き込みを続けてしまいました。あまりこちらに入れ込みすぎると
精神的にも肉体的にもきつくなるので、ほどほどの距離を取ってやらせていただきます。
>>5 ひゃっきまるさん
高潔などというものではありません。基本的に自分本位なのです。その自分本位なところ
が、人を不愉快にさせてしまったりするのだと思います。
>>7 春田の蛙さん
書かれていること、よく理解できます。よって、滝山さんからも、あのように言っていた
だいたので、去らないことにしました。ただ「二世三世さんとしての悩みを抱えた可哀想
な人だからか…と受け取って見逃してきましたが」はいただけませんね。かつて私が滝山
さんを怒らせたのも、心の底に、あなたのその発言のような、相手を見下した態度があっ
たからだと思います(私はそのようにあの頃の自分を見ています)。私の偽善的な態度と同
じレベルにならないよう、そのような発言はお控えになられることをお勧めします。もち
ろんその前後に書かれている私への批判については同意いたします。
97 :
乾闥婆:2009/03/12(木) 23:22:33 ID:???
>>11 雪山童子さん
思えばあなたにも不愉快なものを感じさせてしまったかもしれません。申し訳ありません
でした。私は身勝手な人間ですので、あのような言い方になってしまいます。
>>35 法律ヲタさん
お気遣いありがとうございます。私も大分頭ごなしにあなたの言っていることを否定しき
たように思います。それがあなたを不愉快にしていたとしたら申し訳なく思います。私は
あのようなガチンコがここでの基本スタイルでしたので。もう少し言葉を積み上げて議論
を進めていければと思います。お嫌でなかったら今後もよろしくお願いします。
>◆Bwr5tJDUMcさん
後日、レスいたします。
>>97 乾闥婆さん
はい、了解いたしました。 ゆっくりと続けましょう。
(時間的都合で、今回はこれだけにさせていただきます。 今夜は書けるかもしれませんが、土・日は
いろいろあって、書き込めないかもしれません。)
99 :
ひゃっきまる:2009/03/14(土) 03:55:19 ID:???
いまだにアク禁です。
なんとかならないですかね…。
ひゃっきまるさんへ
>>99の書き込みは携帯から書き込んでいるんですか?
でしたら、パソコンから携帯にメールで作成した文章を送って、
それであとはコピペして書き込めば比較的楽に書き込めますよ。
私もアク禁の時はそうしてます。
朝鮮部落出身のクセに池田大作が名誉会長なんかやってて巻き上げた金を地下銀行や
朝鮮総連経由で犯罪国家北鮮へ不正送金してるインチキ汚物基地害外道邪教低脳
売国奴カルト狂団ク創価学会の幹部や学会員連中の癌細胞クズ野郎は早く死ねよ
wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
キンマンコ池田は不正送金罪で逮捕されろよwwwwwwwwwwwwwwww
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神仏板へ出て来てスレを荒らしたり糞スレなんか立てるな!!!!
102 :
乾闥婆:2009/03/25(水) 01:09:58 ID:???
>>13-18 >◆Bwr5tJDUMcさん
まず、私は真・偽の話をしているのではなく、妄想であるのかどうなのかの話をしている
ことを認識してください。その二つの判断を私は明確に分けています。よって私の主張を
徹底しても、あなたの言われるような問題は生じません。ところがあなたはその二つの判
断を混同しており、それにより私との議論にずれが生じています。
>どうも、これは(当時の)歴史的文脈において「のみ」真偽・正誤を判断するという
考えからくるもののようですね。
よって、あなたの私に対するこの認識は誤っています。私は真偽・正誤の判断を歴史的文
脈においては一切行っておりません。私は一貫して日蓮の主張は誤っていると言ってきま
した。このことは前回のレスでも確認したはずです。見落とさないようにしてください。
103 :
乾闥婆:2009/03/25(水) 01:10:46 ID:???
(続き)
>つまり、根拠(判断・推論などを成り立たせるよりどころ)は、数の論理によって
(乾闥婆さんは)決める(決まる)ということになってしまいますよ。客観性・
合理性によって決まるのです。数の論理は限定された時間の中で一つの結論を
導き出すための手法なのであって、そのことによって客観性が保たれるわけでは
ありませんよ。また、こういった反論(病気の治療に関してなど)がある場合に、
相対主義的な内容で主観性を根拠とすることの問題をもう少しよく考えてみてください。
私に対するこの認識も誤っています。それはあなたが真・偽の判断と妄想の判断を混同し
ていることによって生じています。私は真・偽の判断は数の論理で成り立つとは考えてい
ません。真・偽は数の論理ではなく客観性・合理性によって決まります。ところが、妄想
であるか・ないのかは、根拠を探った上で主張しているのか、何の根拠を探ることなく思
い込みを主張しているのか、にあります。その判断には「根拠」の真・偽は含まれており
ません。その「根拠」は、その人間が「根拠」を探った当時において、「根拠」として社会
通念上成り立っているデーターベースによっているかどうか、にあります。そして、日蓮
は何の根拠も探ることなく自分の思い込みを主張していたのではなく、当時の社会通念上、
根拠として成立していた経典や教義などを引用することによって、自分の主張を行った、
わけです。つまり、真・偽の問題とは別の話として、当時において妄想とはいえない、と
いうことを私は言ってきたのです。日蓮は、根拠なく思い込みを主張する人間ではなく、
むしろ、根拠に非常にこだわる人間であったわけです。それは遺文を読めば明らかでしょ
う(あなたは日蓮の遺文を読んだことはありますでしょうか。これは確認させてください。
もし少しも読んでいないのであれば、あなたには日蓮が妄想を抱いた人間であると判断を
下すことはできないことになります)。
104 :
乾闥婆:2009/03/25(水) 01:11:33 ID:???
(続き)
妄想であることの判断基準のひとつに「事実の経験や論理によっては容易に訂正されるこ
とがない」点があります。それは妄想というものが、(真・偽にかかわらず)根拠にまった
くよらないからです。ところが、日蓮は(真・偽にかかわらず)根拠によったわけです。
その主張は文証・理証・現証に基づくべきである、というわけです。日蓮は特に現証を重
要視したようによく言われますが、おそらくそれ以上にこだわったのが文証でしょう。晩
年、蒙古の進攻が阻止されたことにより、日蓮の信念が現証の面で揺らぎましたが、おそ
らく文証を捨て去ることはできなかったことでしょう。もし、現代の情報に基づき、文証・
理証・現証すべての根拠が否定された場合、日蓮は何に基づいて自身の主張を行いますで
しょうか。おそらく何の主張もできないでしょう。根拠に基づいて主張を繰り広げた人間
は、その根拠が否定された場合、沈黙するほかないのです。そのようなタイプの人間が、
なぜ「妄想糞坊主」なのでしょうか。理解に苦しみます。
>広くオカルト的な祈祷が行われていた当時においても、日蓮は異端的だったのでは
ないでしょうかね・・・。そんなに大きな宗派(?)でしたか?
私の言っていることはそういうことでないことはもうお分かりだと思います。当時におい
て異端であるとか、そういう話であれば、当時社会通念として流通していた仏教の経論に
基づいて、それぞれの宗派が論争(法論)すればいいことです。日蓮もそれを望んでいた
はずですね(ご存知でしょうか)。そうではなくて、私が言ってきたのは、日蓮が根拠とし
た仏教教義全体が、当時において虚偽と判断される社会通念が成立していたかどうかです。
すなわち、それぞれの宗派が引用するであろう仏教経論それ自体が、データーベースとし
ての真・偽が明らかに虚偽として認識される社会通念は当時あったのか、ということです。
105 :
乾闥婆:2009/03/25(水) 01:12:19 ID:???
(続き)
>乾闥婆さんは日蓮の主観性は重んじるが、その当時の他の立場の人の主観性は
重んじないとうようなことになってしまうのではないでしょうか。
私は別に当時においてすら日蓮が正しいとはまったく考えておりません。妄想ではない、
ということだけを主張しております。誰の立場も重んじてはいないし、誰の立場も軽んじ
てはいません。
>歴史的文脈・文化的枠組みによって、様々な命題の「実際の」真偽の判断(結果)が
異なる場合はありますが、その枠組み・その主観性に拠れば根拠があるという考えには
大きな問題が含まれています。
そのような問題は真・偽と妄想の判断を混同していることによって生じるに過ぎません。
>乾闥婆さんの立場ですと、(客観・客観性という概念に)否定的な方向の論を展開する
ことになってしまうでしょう(整合性をなんとか保とうとすればするほどそうなると
思います)。
そのようなことは全くないことが明らかとなりました。整合性も明確に保たれています。
106 :
乾闥婆:2009/03/25(水) 01:13:41 ID:???
(続き)
>とある日蓮信奉者のコミュニティー(これも一つの小さな社会です)「においては」
日蓮の教えは正しい。そのコミュニティーにおいては、その信奉者の信仰は、根拠の
ある客観的な考えに基づく信念の塊なのであって、妄想などではない。
私はそんな主張をしてはいないことも明らかですね。そのコミュニティーは現在に存在し
ているという想定であるのであれば、そのような客観性・合理性に欠ける主張は、根拠と
するに足りないと判断される共通認識は現代社会に形成されており、妄想といっていいで
しょう。日蓮無謬論など、現代に通用するわけがありませんね。もちろん、そのことを前
提として、日蓮信仰を探るということは、為されてしかるべきでしょう。
>(もし、歴史的文脈だけを特別視するというのであれば、それはどうしてなのか。
歴史的文脈を重視するというのは、つまるところ、その当時の現代とは異なる文化的
背景を重視することを意味するのではなのか。とするならば、どうして、現代における
異なる文化的背景は重視しないのか。それとも上記のような「誤った見解」こそが
物事の理解としては「正しい」と主張するのか。ある個人が「正しい」と思えば、
或いは「根拠がある」と思えば、根拠があることになるのか。そういう問題なのです。)
私の主張がそのようなものでないことはもはや明らかですね。「現代における異なる文化的
背景は重視しないのか」という問いには、どこからどう見ても、私は重視しているわけで
す。日蓮は間違っていると一貫して主張しているわけですから。根拠を探るということと、
その根拠の真・偽とを私は混同しておらず、明確に区分しているのです。それは妄想とい
う言葉を使うに当たって、当然のことではないでしょうか。
107 :
法律ヲタ ◆8PR9uxYCzw :2009/03/25(水) 08:55:56 ID:nELHxM2J
>>102-106 乾闥婆さん
ある特定の認識・想念を“妄想”と判断すべきか否かの基準については、それを単一の要素のみに
定めることはできないと思いますが、しかしその重要な要素として、認識内容の客観的真偽(つまりは、
認識の客観性ということですね。)の問題があることは間違いないと言うべきでしょう。
つまり、妄想であるか否かの判断の根底には認識内容の真偽(客観性)の問題が存在し、“真”と
言いうる認識内容である場合には原則としては“妄想”に該当しないものと考えられますが(このような
場合であっても、例外的に“妄想”とされる場合も存在しうるでしょう。例えば、認識の結論的内容としては
客観的事実と合致しても、そこに至る認識過程に問題があるような場合を想定しうると思います。まァ、
これも“認識の全体性”を問題とすれば良いだけの話かもしれませんけれど…。)、認識の客観性を欠き
“偽”とされる場合には、その認識が“妄想”であるのか否かの判断の階梯において一歩間違いなく“妄想”の
方向に歩みを進めたことになるわけです。
(繰り返しになりますが、それだけで“妄想”となるのだと言っているのではありません。)
108 :
法律ヲタ ◆8PR9uxYCzw :2009/03/25(水) 09:00:54 ID:nELHxM2J
(レス>107の続き)
この点◆Bwr5tJDUMcさんも私と同じはずだと思いますが、乾闥婆さんのおっしゃるように「真・偽の判断と
妄想の判断を混同している」わけではないのであって、客観的真偽の問題が妄想判断の前提的一要素に
すぎないことはきちんと区別・認識しております。
しかし同時に、乾闥婆さんの「真・偽の判断と妄想の判断を混同している」とする内容が、もしも“認識の
客観的真偽の問題は、それが妄想であるのか否かの判断・判定とは何の関係もない”という事を
意味するのだとしたら、それも明確に間違いだと思います。
それは重要な前提的要素なのであって、妄想か否かを判断・判定する為の思考過程の第一段階に存する
のであって、妄想判断にとって不可欠の要素というべきものなのです。
それではこのような事について、日蓮の場合を具体的にはどのように考えるべきなのでしょうか。
日蓮の認識に客観的には問題があるという点に関しては、乾闥婆さんと私との間で見解の相違はないわけで
あって、私の言うところの“妄想か否かを判断・判定する為の思考過程の第一段階”は妄想という方向へ一歩
踏み出しているということには、乾闥婆さんもご批判はなかろうと思います。
両者の見解の相違は、この先にあるわけです。
109 :
法律ヲタ ◆8PR9uxYCzw :2009/03/25(水) 09:03:13 ID:nELHxM2J
(レス>108の続き)
そして、この点について乾闥婆さんはレス>103で、『妄想であるか・ないのかは、根拠を探った上で主張して
いるのか、何の根拠を探ることなく思い込みを主張しているのか、にあります。その判断には「根拠」の真・偽は
含まれておりません。その「根拠」は、その人間が「根拠」を探った当時において、「根拠」として社会通念上
成り立っているデーターベースによっているかどうか、にあります。そして、日蓮は何の根拠も探ることなく
自分の思い込みを主張していたのではなく、当時の社会通念上、根拠として成立していた経典や教義などを
引用することによって、自分の主張を行った、わけです。』と述べていらっしゃいます。
しかし、このような考え方自体が問題なのです。
おそらくこの見解に従うと、“その人間が「根拠」を探った当時において、「根拠」として社会通念上成り立って
いないデーターベースに従った場合は妄想=hと判断することになると思われますが、そうすると、ある者が
その当時としては社会通念に反するが客観的には間違いのない根拠に従って正しい判断をし正しい認識を
抱いたとした場合に、それを妄想と結論することになってしまうはずです。
典型例としてはガリレオなどの地動説を考えてみればよかろうと思いますが、そのような見解を妄想だとした事
こそを妄想と判断・結論しなくてはおかしいのではありませんか。
110 :
法律ヲタ ◆8PR9uxYCzw :2009/03/25(水) 09:09:28 ID:nELHxM2J
(レス>109の続き)
時間がありませんので、日蓮の場合において、日蓮の考察方法に従っても日蓮自身が正しくない見解を改める
機会があったにもかかわらず、自身の示したルールを無視して盲信(妄信)し続けた点に触れて、このレスを
終わらせていただきます。
例えばですが、日蓮は撰時抄において以下のように述べています。
「建長寺・寿福寺・極楽寺・大仏・長楽寺等の一切の念仏者・禅僧等が寺塔をばやきはらいて、
彼等が頸をゆいのはまにて切らずば、日本国必ずほろぶべしと申し了んぬ。第三には去年
(文永11年)四月八日左衛門に語って云はく、王地に生まれたれば身をば随へられたてまつる
やうなりとも心をば随えられたてまつるべからず。念仏の無間獄、禅の天魔の所為なる事は疑いなし。
(引用、さらに続く。)
111 :
法律ヲタ ◆8PR9uxYCzw :2009/03/25(水) 09:18:05 ID:nELHxM2J
(レス>110の続き)
(引用の続き)
殊に真言宗が此の国土の大なるわざわいにては候なり。大蒙古を調伏せん事真言師には仰せ付けらるべからず。
若し大事を真言師調伏するならば、いよいよいそいで此の国ほろぶべしと申せしかば、頼綱問うて云はく、いつごろか
よせ候べき。予言云はく、経文にはいつとはみえ候はねども、天の御気色いかりすくなからず、きゅうに見えて候。
よも今年はすごし候はじと語りたりき。」
(句読点の打ち方が創価学会版の遺文・御書とは異なりますが、この方が読みやすいでしょう。
また、これと同様ないし類似の内容のことは、日蓮は他でも述べています。)
歴史は、日蓮の予測した通りになっていないわけですが、そこで日蓮は、自分が根拠とした
経典などには客観的に問題がある事に気付かなければならなかったはずです。
そして、この内容は、乾闥婆さんのおっしゃっている事との関係でも問題を生ずるものだと思いますよ。
>>乾闥婆さん
そもそも妄想の判別には、その定義からして信念(内容)の真偽・正誤の判断が
必要となるはずである。対照を無視した論に根拠などない。
妄想とは『根拠のない誤った判断に基づいて作られた主観的な信念』のことです。
既に何度も述べたことの繰り返しになりますが、妄想とは対照される客観性・合理性に
拠って判別されるものなのであり『妄想の判別において信念(内容)の真偽・正誤の
話はしない、関係ない、知らない、』などといった主張は、そもそもおかしいのです。
対照される客観性・合理性(その真偽・正誤)を基に、そこから大きく逸脱し
(要は、『単なる想像』であり、しかも『誤謬(偽・誤)』であるような内容です)
更に容易にそれが訂正されないといったような特徴とも『合わせて』、
(乾闥婆さんはこれを『混同』だとおっしゃる)ある信念が妄想であると判別
できるわけですよ(これは法律ヲタさんのレス
>>107-108と概ね同じ内容の指摘に
なります)。
『よって、あなたの私に対するこの認識は誤っています。私は真偽・正誤の判断を
歴史的文脈においては一切行っておりません。』(乾闥婆さんのレス
>>102参照)
私からすれば、『よって、乾闥婆さんの妄想という概念に対する考え、その概念を扱う
姿勢が、そもそも間違っている(大きな誤りが含まれている)』ということになります。
どの文脈においてであれ、妄想の判別に真偽・正誤の判断を含まないなどというのは
『そもそも』おかしいのです。
『ところがあなたはその二つの判断を混同しており、それにより私との議論にずれが
生じています。』(乾闥婆さんのレス
>>102参照)
私からすれば、『ところが、乾闥婆さんは対照を無視しており(つまり、根拠がない)
それにより私との議論にずれが(或いは見解の相違・対立が)生じています』という
ことになります。
(
>>112からの続き)
『数の論理』を(直接的な)根拠にする『べきではない』。
そして、私が、乾闥婆さんの主張は(極端な)文化相対主義を思わせる内容であると
指摘している、その根底は同じことなのです。
『その人間が「根拠」を探った当時において、「根拠」として社会通念上成り立って
いるデーターベースによっているかどうか、にあります。』
(乾闥婆さんのレス
>>103参照)
根拠とは『判断・推論などを成り立たせるよりどころ、行動などの正当性を支える事実』の
ことです。『(その当時)ある一定の規模の集団が信じているから』などということは
『直接的には』根拠としては通用しないのです。乾闥婆さんは、(主張内容として)
妄想に対照される信念内容の客観性・合理性は『数の論理』に拠るという論を展開
してしまっているのです。時代背景・歴史的文脈を重視する必要があるにしても、
乾闥婆さんがおっしゃる内容は本末転倒なのです。(もう一度強調して述べて
おきますが、文字通りそう乾闥婆さんが述べているという話ではなく、主張内容の
問題です。『実質的に』という話です)。
『そのような客観性・合理性に欠ける主張は、根拠とするに足りないと判断される
共通認識は現代社会に形成されており』(乾闥婆さんのレス
>>106)
『ある時代において』『ある文化において』『ある規模の社会において』共通認識が
形成されているという事実が行動の正当性を『直接的に』支えるわけではない。
妄想という概念に(一部)対照される『べき』根拠をそこにおくわけには
いかないのです。それは実質的には数の論理を正当化する内容になってしまいますよ。
時間的制約(或いは『経済性』)の観点から一つの結論を出す『手段』と、
『本来の意味・目的』を履き違える『べきではない』のです。
>>乾闥婆さん
いかに『その当時(その昔)』『病は呪文を唱えれば治る、消滅する』という『ような』
主張が『幅を利かせていた』としても、『客観的・合理的にこの世界の自然観を
見つめるならば』その当時において『も』、やはり呪文を唱えたところで病が治ったりは
しなかったのです。これがそもそも今回の一連の議論の発端において『対照される』
『べき』一つの論点ではないでしょうか。(ところが、乾闥婆さんは『混同』だと
おっしゃる。何かを『混同』してしまっているのは、残念ながら乾闥婆さんの方です。)
いかに『その当時』『多くの人が』『信心が足りない』などという誤謬塗れの論で
『信仰を正当化したいという感情(願望)の合理化』を(無意識的にであれ)
図ろうとも、その当時において『も』、『客観的・合理的な視点からすれば』、
その『感情の合理化に拠る信念』は、『やはり誤謬に塗れていた』というのが
『事実』なのです。
『信心が足りない』という『詭弁』が(この現代において『も』)通用しないのは、
どうしてなのですか?その当時において『は』通用していたのですか?
通用するというのはどういう意味においてですか?対照される『べき』客観性・
合理性の観点から(その内容が)『正しい』と『通用』しますか?
(通用しないのです。これが『拠るべき事実』です。)
こういった見解に対して、『歴史的文脈として(つまり文化的枠組みの相対化を
意味します)』、『その当時、多くの人が』などという論を展開するのは
(実際に展開されている内容からして)(極端な)文化相対主義に他ならないのですよ。
その立場は客観性・合理性という概念を蔑ろにすることを意味します。
それでは議論など成り立たない。
>>114 『客観的・合理的にこの世界の自然観を見つめるならば』
『この世界を、自然を』に訂正します。『観』は余分です。失礼しました。
>>乾闥婆さん
地震はどうして(どのようにして)起こるのですか?プレートテクトニクスは
ご存知ですよね?岩板が対流するマントルに乗って云々。ハンセン(氏)病は
何が『原因』なのでしょうか?抗酸菌の一種であるらい菌が末梢神経の細胞内に
寄生することで云々。その『根拠』は?『現代において、多くの人がそう
信じているから』というのは根拠になりません。そんなことが根拠になるなら、
アルマウェル・ハンセン氏の出番はないでしょう。それでは科学的な『手法』に
意味がないことになってしまいます。科学的知識の正当性は投票によって
保障されたりはしないのです。数の論理が問題なのは、意見の集約に際して
ある種の生得的な人の傾向を(謂わば)『悪用』するからですよ。
『現代において』日蓮批判(や創価学会批判)が地震と密接に結びついているとする
『信仰』に『根拠がない』のはどうしてなのですか?『現代において』血が穢れて
いるから、過去世の行いが悪いから、『罰だ!』という業病思想に『根拠がない』のは
どうしてですか?そういった『信仰(内容)』は事実ではないからです。事実の
問題として『間違い、誤り』なのです。『信仰』は判断・推論などを成り立たせる
よりどころにはならないし、行動の正当性を支えてくれたりはしないのです
(創価信者の行為を問題とできることの意味をよく考えてみて下さい)。信仰は
根拠にはならないのです(何度も述べていることですが、これは一般的な認識論の
原則です)。
(
>>116からの続き)
乾闥婆さんの主張を一貫させてみましょう。おかしなことになってしまいます。
妄想の判別において『根拠の有無』『信念の正当性』は一つのとても重要な論点に
なるはずです。対照される客観性・合理性を無視して、何をもって根拠や内容の正誤を
語るのでしょうか?『正しい』内容で理路整然と『考え』、ある『信念』を形成した
場合、それを妄想と評価しないのはどうしてなのか?何度も述べているように
『そもそも』対照される客観性・合理性を無視して妄想を語る方がおかしいのです。
『ある時代において、ある社会において、根拠とするに足りないと判断される
共通認識が形成されていないから(『だから』逆に根拠がある?それとも真偽・正誤は
問わないから、そもそも根拠など問題ではない?)』おかしいでしょ?
妄想の判別の問題ですよ。『(どの文脈であれ)私は真偽・正誤など問題に
してはいない』と言うのは『私は妄想の判別に対して口出ししない、わからない、
判別できない』ということになるはずですよ。なのに『妄想と評価するのは
おかしい』という方向で口出しするわけです。主張内容が一貫していないのですよ。
『鎌倉時代において(当時の日本の社会において)』『らい病』は何が原因
だったのですか?当時において『も』、呪文で病が治らない、消滅しないのは
どうしてなのですか?当時において『は』末梢神経細胞にらい菌が寄生して云々
という知識は『誰も』知らなかったことでしょう。しかし、当時において『も』
『らい病』の原因は(概ね)現代と同じものだったはずですよね。『南無妙法
蓮華経』という呪文によって、らい菌が体から逃げ出したりはしません。
現代において『も』、当時において『も』です。当時『誰も』知らなかったから
らい菌は存在していなかったということにはなりませんよね。『これも』時代背景を
鑑みるということですよ(一つの視点・姿勢です)。つまり、当時において『も』
『客観的事実の問題として』日蓮の主張内容は間違っている(いた)のであり、
それを信じていたであろう日蓮の『認識内容』は『誤謬』に塗れていたのです。
(
>>116からの続き)
そして、妄想の判別の問題として重要になるのが、容易に『誤った(内容の)』
信念を訂正しないという特徴です。日蓮にしても信奉者にしても、呪文を唱えても
病が治らない、消滅しないという『事実』と対峙していたはずなのです。
(運よく呪文とは『別の要因』で、日蓮や信奉者が対峙する病はことごとく治った
などということはないでしょう。それに、他にもいろいろ予言を外したりもしてますし。)
日蓮やその信奉者達は、『呪文で病が治る、消滅する』という『ような』『信仰』を
正当化しようと、『不幸なのは信心が足りないからだ』という『ような』『詭弁』で
『(個人的な)感情の合理化』を図ったのでしょう。ここで言う『合理化』とは
『信仰を正当化したいという願望を、理に拠らず維持し続ける』ことを意味します。
それが自然観として『道理』だという意味で、合理的なのではありません。また、
『人の行いとしての正誤』の観点から(そう信じるのが)『道理』だという
意味で合理的なのでもありません。それが不合理だからこそ時代精神は変化し、
現代において業病思想が問題視されることが比較的多くなったのです
(もっとも倫理の基盤や由来については大いに議論の余地はあるでしょうけれど)。
『内容として』『正しい』『共通認識』ではなく、『内容として』『誤っている』
『共通認識』を人々が持っている場合でも、その集団においてたとえば幼子が生得的に
集団における『共通認識』を『素朴』に吸収することに(その時代において)
『生き延びる、子孫を残す』という観点から『合理性』を認めることはできます。
しかし、それは(直接的に)『共通認識には、信ずるに足る根拠がある』を
意味するのではありません。『内容としての』『誤謬』が『正しい』ことに
なるわけでもありません。それは(その観点からすれば)たとえ『内容に誤りが
含まれる』場合があったとしても、概ね、『傾向として』先達の経験則は生き延びる
ことに役立つ場合が多いということにすぎません。これは幼子の場合に限った話ではなく、
人々が広く時代精神に与する場合もそうなのです。『仮に』そういった(生得的な)
傾向を『悪用』すれば、(『理性』の問題として)世の中は『より混沌となる』ことでしょう。
(
>>116からの続き)
アメリカにおいて進化論を信じている人は10%程だという報告もあるそうです。
『共通認識』の問題として(つまりは『主観性』に拠るわけでしょ?どうして対照
される『べき』客観性・合理性を無視するのでしょう・・・)或いは、
『文化的枠組み』から進化論を語ることは大いに問題です。客観性・合理性を
蔑ろにしていることになるというのは、そういうことなのです。乾闥婆さんの
主張の根幹に関わる重要な部分を一貫させるなら、『この現代においても』
『ある程度以上のとても大きな規模の集団が』『共通認識として』進化論を
認めない(或いは創造論・ID論と『同等』だと認める)という『事実』に拠ることで、
この世界の在り様についての信念(内容)を評価することになってしまうでしょう。
この論点において(このアナロジーにおいて)乾闥婆さんが『根拠』として
認めるものはいったい何か?『データーベース』とは何か?聖書だということに
なります。現代の『ある一定規模の』社会通念上、『根拠として成立している』
経典や教義(現代においても、聖書はその最たるものの一つですよね)などを
引用することによって・・・と、乾闥婆さんの主張は実質的には(極端な)文化
相対主義に他ならないのです。現代もまた『歴史的文脈』の中の一地点にすぎません。
乾闥婆さんの主張の『整合性が明確に保たれて』(
>>105参照)いるというなら、
『私は真偽・正誤の判断を歴史的文脈においては一切行っておりません。』
(
>>102参照)という主張を一貫して、『現代においても信念の内容の真偽・正誤の
判断を一切行わない』わけですね。それで何を語れるというのでしょうかね。
そんなことでは議論は成立しないでしょ。
>乾闥婆さん
レス>110-111において日蓮の遺文である撰時抄から引用させていただきましたが、その意図の一つは
そこで「日蓮自身が正しくない見解を改める機会があったにもかかわらず、自身の示したルールを
無視して盲信(妄信)し続けた」と述べている事からお解りになると思いますが、レス>118で「そして、
妄想の判別の問題として重要になるのが、容易に『誤った(内容の)』信念を訂正しないという特徴です。」
と◆Bwr5tJDUMcさんが指摘されている事の具体的な一例を示すためのものでもあるのです。
(それだけに限る意図ではないので、「自身の示したルールを無視して」その他、それとは直接関係の
ない点にも触れておりますが、今は無視していただいて問題ありません。)
>>乾闥婆さん
もう一点、再度付け加えて指摘したいことがあります。以前にも述べましたが、
『この論点において』『広く』社会通念としてという論拠は脆弱にすぎるのです。
日蓮は『広く』呪文を認めていたわけではありません。『南無妙法蓮華経』という
『(文字通りの意味からすれば)因果倶時が説かれた経典に身命を捧げる』という
『特定』の呪文を認めていたのです(念仏を唱えるような信仰は捨てよ、背理法塗れの
禅問答など人を惑わすだけだと)。
『本尊に惑う』という論点についても同様です。日蓮は『広く』本尊と呼ばれる信仰の
対象物(或いは信仰の基盤に据えられる存在、象徴的なもの)を認めていたのでは
ありません。『南無妙法蓮華経』という文字を中心に据えた文字曼荼羅と呼ばれる
ある『特定の』模様、ある『特定の』本尊を認めていたのです(金色に輝く仏像が
立派に見えたとしても、本尊の意味や価値はそこにあるのではないと)。
その当時、『広く』様々な呪文の『効力』を認める人は大勢いたでしょう。『広く』
本尊と呼ばれる物をありがたがった人も大勢いたでしょう。『広く』
『大雑把な観点から』『大きな視点から』『俯瞰して見れば』時代精神として
それを認めること自体に私は異論はありません。
しかしながら、日蓮はその時代精神を否定していたのではないのですか?
『そんなことでは国は滅びる!』と、『(広くなどと)惑うな!』と。そして、
『特定』の呪文を薦める(唱えることを勧める)一方で、他の様々な宗派が説く
『仏力・法力』などは『魔の通力』だと断じたのではなかったのでしょうか。
(
>>121からの続き)
乾闥婆さんの主張を一貫させてみましょう。この点についてもおかしなことに
なってしまいますよ。『広く』或いは『ある(大きな)規模の集団において』
『通念』として云々と。現代においても、その論法に従うなら(それを主たる論拠に
据えるなら)創価学会の教えは『広く』或いは『ある(大きな)規模の集団において』
『通念』として云々と、言えることになってしまいます(或いは、『ご都合主義』で
曖昧に集団の範囲をぼかすようなことにでもなるのでしょう)。
その当時の時代背景を鑑みる場合に、広くオカルト的な『信仰』が現代よりも
幅を利かせていたということを挙げること自体は問題ではありませんが、それを
『主たる』論拠にすることの問題は、話を大雑把に単純化『しすぎる』ことで、
(意図してのことではないのでしょうけれど)話を(論点を)摩り替えることを
意味してしまうのです。そもそも話の発端は『個別の』信念が妄想であるか否か
というものだったはずですよ。私はその議論に参加しつつ『傾向として』
『信仰というものは』と話を広げましたが、広げつつも各種信念(内容)の『区別』を
『大変』重視しています。これに対して乾闥婆さんはその『区別』は(あまり、殆ど)
重視しておられないようです。その姿勢を一貫させるなら、現代においても
創価学会というコミュニティー『においては』云々ということになるはずのなですが、
この点においては『正しく(?)』乾闥婆さんはカルト批判を展開されているようです。
たぶん、『現代における』『個別の』創価学会の教えに関して、様々な点で私は
乾闥婆さんの見解に同意するであろうと思われます(しかし、それは『表層的』に
一致しているように見えるだけで、根底においては大きな、重大な見解の相違・対立が
あるということになりそうです)。
私は、乾闥婆さんが『本当は、内心では』現代においても日蓮の教えを正しいものだと
評価しているに違いないという指摘をしているのではありません。論理の問題として、
主張の根幹に関わる重要な点において乾闥婆さんの主張は一貫していないし、
一貫させれば『(現代における)カルト批判』と関係して、大きな問題を抱えることに
なると指摘しているのです。
123 :
滝山:2009/03/27(金) 02:07:38 ID:???
test
124 :
滝山:2009/03/27(金) 03:01:45 ID:???
真蹟はありませんが、日蓮は祈祷の結果の現れ方について
顕祈顕応・顕祈冥応・冥祈冥応・冥祈顕応
の4種類をあげている遺文があります。
これは簡単に言えば、祈祷の結果は現世のみで
測られるものではないということです。
現世利益という言い方は正確なものではありません。
実際の教義では現当二世に渡る利益だとしているのであり、
結果が出るスパンには来世も入っているからです。
つまり反証不可能なのです。
日蓮自身が晩年、
「既に生を受けて齢六旬に及ぶ、老又疑ひ無し。
只残る所は病死の二句なるのみ。
然るに正月より今月六月一日に至り連々此の病息むこと無し。
死ぬる事疑ひ無き者か。経に云く「生滅滅已、寂滅為楽」云云。
今は毒身を棄て後に金身を受くれば豈歎くべけん」
と記しており、病を祈祷によって治す気は既に見受けられません。
彼は湯治治療に行く途上で亡くなっております。
125 :
滝山:2009/03/27(金) 03:16:49 ID:???
蒙古襲来について、
現代の我々はそれが結果的に二度で終ったことを知っていますが
当時の人々にはそれは知りえないことです。
幕府は三度目に備えて防備を固めていましたし、
フビライも三度目を計画していました。
日蓮も当然三度目を予想していただろうと思います。
日蓮は弘安の役の翌年には亡くなっています。
彼の中では自説を撤回する時期では
まだなかったのだろうと思われます。
126 :
滝山:2009/03/27(金) 03:39:21 ID:???
日蓮の妄想性はむしろ、
乾闥婆さんが強調されている
彼の挙証主義にこそあります。
人が証明しなければ仏法が失われる
仏の金言が嘘妄になってしまう
そのような考え方こそが妄想なのです。
現実を超越した絶対的な法があると仮定したとして、
それは人間による証明を必要とする、と考えることそれ自体が
論理的にいって破綻していると言えるわけです。
これは日蓮のみならず、
創価学会の基本的な考え方に対しても言えることです。
学会員の行動原理は「証明すること」にあります。
選挙においては創価学会のパワーを世間に知らしめ、証明しようとし、
個々人の実生活においては実証を示そうとしています。
しかし、そもそも信仰に証明は必要なのでしょうか。
証明しようとすればかえって無理を通して破綻するだけです。
何故なら現実はままならないからです。
>>乾闥婆さん
(『ひとまずは』、現代において)前提と『すべき』(語弊があるなら『望ましい』)
『共通認識』について。ある集団と別の集団において異なる『共通認識』がある場合、
どちらを(或いはどういった)『認識』を前提と『すべき』なのか。
議論において(話し合いの場において、意見の集約に際して)客観性・合理性が
重要になることの意味、『根拠』が重要になることの意味について。
日蓮絶対主義・日蓮無謬論を掲げる集団は現実に存在します(もっとも、それが
『本当』に日蓮思想と呼べるのか?という問題はあるでしょうけれど)。
日蓮を『本仏』に据えるということは『大筋においては』そういうことになって
くるでしょう(実際には多少の瑣末な誤りはあり得るとは認めているでしょうけれど)。
仮に創価学会は日蓮絶対主義ではなく池田絶対主義だと言いたければ(この議論に
おいては、ひとまずは)それでもかまいません。その場合は日蓮の主張を池田氏の
主張だと置き換えて、(その他の集団の場合であっても大筋における)アナロジーとして
考えてください。
(
>>127からの続き)
>そのコミュニティーは現在に存在しているという想定であるのであれば、
>そのような客観性・合理性に欠ける主張は、根拠とするに足りないと判断される
>共通認識は現代社会に形成されており、妄想といっていいでしょう。
>日蓮無謬論など、現代に通用するわけがありませんね。もちろん、そのことを前
>提として、日蓮信仰を探るということは、為されてしかるべきでしょう。
(乾闥婆さんのレス
>>106参照)
(実質的に)『穏やかな』可謬主義と呼べるような思想を現代社会に形成されている
共通認識の『一つ』に挙げることができます。簡単に言えば『知識は誤り得る』
とする立場です。大雑把に分類するなら科学体系も可謬主義を基盤としています。
科学体系では一つのとても重要な特徴として『反証可能性』というものを掲げて
います(科学の現場においては、多くの場面で『実質的に』或いは『実際的に』
現実・事実は蓋然性を重視するプラグマティックな問題として扱われるています、
これはポパーの提示した反証可能性よりは比較的『穏やかな』内容です)。
現代社会において科学体系は客観性・合理性の観点からとても重要な地位を
占めていることから、私はこれを共通認識の『一つ』と評価します。
(
>>127からの続き)
そして、既に何度も述べているように、『先験的な議論(啓示や権威に頼った議論)には
懐疑的であれ』というのは一般的な認識論の原理・原則の一つです。あらゆることを
正しいと鵜呑みにするわけにはいきませんが、疑い出せばきりがない。そこで
『健全な懐疑』というのが重要になってきます(『健全』という言葉の受け止め方に
よっては多少なりとも語弊があるということになるかもしれませんが)。これも現代
社会における共通認識の『一つ』と私は評価します。
基本的に日蓮(系)の信奉者は経典に拠る先験的な議論を展開しているはずです
(たとえば『理証』『現証』は誤謬塗れであり『文証』に拠る姿勢など)。
『仏』『(完全な)悟り』というのは(文字通りの意味で捉えるなら)そもそもが
『先験的な議論』を意味します。この世界を文字(というよりも個別の概念)で
切り取ることは二元論の始まりであり、迷い・執着の始まりであると捉えるなら、
(そういったことを『徹底するなら』、『厳密な』主客の区別という観点から)
懐疑主義の扉が開くことになります(これは、『無我』『虚無』の問題でもあります。)
謂わば、先験的な議論と懐疑主義(徹底された懐疑論)は表裏の関係なのです。
私達は普段の生活の中で(社会生活を営む中で)この間で舵取りをしていく必要が
あります。先にも述べたように、あらゆることを正しいと鵜呑みにするわけには
いきませんが、疑い出せばきりがないからです。
(
>>127からの続き)
『上記の点において(瑣末な点はともかくとして)』『特に』『大筋において』異論が
なければ、乾闥婆さんの立場は、(現代社会においては)『このことを前提として』
『信仰』を探るということは、『為されてしかるべき』ということになるはずです。
しかしながら、これはあくまでも共通認識の『一つ』なのであって、これとは別の
(大きな規模での)共通認識も『実際に』存在するのです。たとえばイスラム社会、
キリスト教原理主義が根強いアメリカ、規模をぼかすならその他の様々な宗教的
枠組みで捉えることができる集団の多くにおいて、ある種の『先験的な議論』に
懐疑的であることに否定的な立場の人は大勢います(もっとも、そういった立場の
人達が、その社会が『現代的』と呼べるのかどうか議論の余地はあるでしょうけれど)。
そういった異なる(根本的な部分において対立する)『共通認識』を前にして、
『具体的な問題』に対処する必要がある場面において、(極端な)文化相対主義を
持ち出すのはナンセンスです。或いは『(謂わば、クーンの主張を『悪用』するような
内容で)違うパラダイムの問題』『別次元の問題』などという主張をするのも
ナンセンスです。たとえば、教育現場における進化論と創造論(或いはID論)の扱いに
ついて、社会規範から大きく逸脱するカルト批判について、信仰が揺らぐ個人の内面での
葛藤、宗教論争、様々な場面で、『具体的に』客観性・合理性を対照と『すべき』
場面において、『共通認識が形成されている』ことを『根拠』として持ち出しても
(『直接的には』『あまり』)意味がない。
重要なのは、その認識内容の客観性・合理性(論理の整合性・一貫性・類似性など)です
(人の『感情・願望』を『尊重』しないという意味ではありませんよ)。
(
>>127からの続き)
創価学会という集団、『その(謂わば、文化的)枠組みにおいては』、『日蓮批判』は
『妄想』であるが、『別の(文化的)枠組みにおいては』『カルト創価』の教えこそ
『妄想』である。これでは議論としてあまり意味がない。客観性・合理性が蔑ろに
されているからです。どの視点から論じる『べき』なのか。客観性・合理性の観点から
論じる『べき』なのではないでしょうか。(『感想』を述べるなという意味では
ありません。問題の解決を目指す基本的なスタンスの話です。表現の自由の否定を
趣旨としているわけでもありません。)
ある種のイスラム原理主義、『その(謂わば、文化的)枠組みにおいては』、
『偶像崇拝』は『妄想』であり、その偶像を破壊『しなければならない』。
『別の(文化的)枠組みにおいては』その原理主義こそが(或いは、それも)
『妄想』である。どの視点から論じる『べき』なのか。客観性・合理性の観点から
論じる『べき』なのではないでしょうか(たとえば、宗教観を離れた内容での文化遺産
保護の観点など)。
『(ある程度の規模の集団において)共通認識が形成されている』ことを(『直接的に』)
対照される『べき』『根拠』『客観性・合理性』に『置き換えてしまう』と、大きな
問題が生じるのです。そして、(おそらく)乾闥婆さんは『実際(的)には』、
(或いは『表層的には』)その『文化的枠組み』とは別の観点からカルト批判を
展開されている。穿った(?)見方をすれば、『自身の(所属する)文化』を
(意図せずに)『特別視』しているということになります(論理の一貫性の問題として、
そうなりかねない)。
(
>>127からの続き)
更に、『(ある程度の規模の集団において)共通認識が形成されている』ことを
『主たる』『根拠・論拠』にするということは、つまるところ『数の論理・数の問題』
であることも意味するのです。たとえば科学知識の新発見は共通認識外の問題であったり、
共通認識を覆す要素であったりするわけですが、法律ヲタさんが簡潔に指摘しておられる
ように、乾闥婆さんの主張を徹底させると、これも『妄想』だということになりかねない。
或いは、意見の集約に際して『少数意見』『個人的見解』は『妄想』だということに
なりかねない。『(ある程度の規模の集団において)共通認識が形成されている』という
『事実』から『直接的に』『根拠』を得ようとする姿勢はとても大きな問題を抱えて
いるのです。
こういった問題に『上手く』対処しながら、歴史的文脈において過去の現代とは異なる
文化を振り返る際に、実際の内容として振り返るのではなく、現代的な『感覚』を
過去の人達の『感覚』に『置き換える』ような論を批判するなら(その批判内容が
適切なものであればの話ですが)特に問題があるということにはならないでしょう。
(今回の議論の発端となった法律ヲタさんの見解がそういう問題を抱えているという
意味ではありません)。『根本的な部分において』対照される『べき』ものを
『混同』してしまっているのは、残念ながら乾闥婆さんの方ですよ。
『多くの場面で』『信仰』であって『も』証明は必要となるはずです。
(内心に留めておかず、それを論じるならば、言動として表すならそれが批判の対象に
なる、なり得るのは当然ではないでしょうか。)
『狼が来たぞ!宗教的な意味で、別次元の問題として。』などとわけのわからないことを
言うのはナンセンスです。
(法律用語としてではなく、一般的?な文脈における)『証明責任・挙証責任』の
観点から、たとえばプレートテクトニクス(理論)に証明が必要(或いは求められる)
であるのと『同様に』、(科学体系の客観性・合理性を認めるなら)宗教観の対立や
批判・非難といった(科学的な、文字通りの意味での『エネルギー』の規模の問題として)
瑣末なことが地震の『(主たる)原因』だという『宗教理論』『も』その内容が正しいと
証明する必要があるでしょう(或いは、証明できなくとも、蓋然性の問題として
『きちんとした』根拠の提示が必要)。その責任を負うのは、肯定側の人間です。
宗教理論を是とする側、それを支持する側の人間がその責を負う『べき』です。
(アインシュタインが言うところの『神』ではなく)『宗教的で』『人格的』な
『神』が『世界』を創造した、『人』を『直接的に』創造した、などと言い張るなら、
それは『この世界』とはまったく異なる『法則』によって成り立っていることを
意味してくるわけで、『科学的に』大いに問題なのです。科学体系の客観性・合理性を
認めるのであれば、当然ながら、この場合も『証明(或いは根拠の提示)の責任・
必要性』があるということになります。その責を負う『べき』なのは、肯定側の
人間です。
(
>>133からの続き)
(プラシーボ効果ではなく)『特定の』呪文が『原因』となって病が治るというなら、
そのような『宗教理論』を掲げるなら、(そして、くどいようですが、科学体系の
客観性・合理性を認めるならば)これもまた『科学(医学)』の大問題です。
と、他にもまだまだ例を挙げることができるように『多くの場面で』『信仰(内容)』の
証明は必要となるはずです。
『こういった論点において』、『肯定側にとって』現実がままならないのは、
『信仰(内容)』が現実・事実の問題として間違っているからです(或いは、論法に
大きな問題、根本的な部分における誤謬がある)。『信仰』だけが『特権的に』
『証明責任・挙証責任』を免除される謂われはないと私は考えます。仮に『科学とは
別の領域』『科学とは別次元』というなら、いったい『信仰』とは『どの世界』の
ことを表しているのでしょうか。(概ねそれは詭弁なのです。)
『宗教』・『信仰』に、その内容を『訂正』したり『取り下げたり』する必要が
『そもそも』『ない』などという、そのような『特権』『免罪符』こそが『ない』と
私は考えます。
(
>>133からの続き)
客観性・合理性を対照と『すべき』場面において『宗教観に対して科学の作法を
押し付けるな!』と言いながら、一方では(たとえば)医学に頼り、科学的証拠を
重視する人もいますが、これはダブルスタンダードです。また、こういった議論に
おいて『それは科学原理主義だ!』『証拠信仰だ!』と言い出す人もいますが、
それは的外れです。そんな非難を投げかけるなら、その論を一貫させて、同じ論法で
普段の生活の中で『証拠』を蔑ろにしれみれば、どのような問題が生じてしまうのかを
考えてみる『べき』です。有益な科学理論は互いに補強し合い、積み重なり、圧倒的な
量の証拠を提示するものです。そして反証可能性が重視されるという特徴や、
可謬主義の観点からして、科学体系において間違いは『訂正される』ということも
無視するわけにはいきません。こういった体系に客観性・合理性という点において
(『文化的枠組み』云々ということではなく)『特別に』優れているということを
認める姿勢は『信仰』『原理主義』などではないのです。
『実際には』(認識論の問題として)(狭義・広義、双方の意味での)科学と宗教・
信仰(内容)は天秤にかけられているのです。
>滝山さん
大変面白い内容のレス、ありがとうございます。
滝山さん御自身の立場ではない見解について、それへの反論を滝山さんにしても無意味では
あるわけですが、形の上では滝山さんが行ったレスに対する反論等となってしまわざるを
えませんので、その点は気になさらず御容赦ください。
まず、お示しくださった内容について一つ疑問というか質問があるのですが、「顕祈顕応・顕祈冥応・
冥祈冥応・冥祈顕応」といった場合の“顕”・“冥”という事について「現当二世に渡る」ものとすること
自体はそれはそれで一応は構わないと思うのですが、“現”では結果(応)が生ずることなくして
“当”でのみ出る事があると明確に述べた日蓮の遺文は存在するのでしょうか?
できれば、これについてお教えいただいた上で、(そのように解した場合をも含め)日蓮の見解を
批判したいと考えております。
(レス>136の続き)
(この点に関して創価学会が述べている事と比較してみますと、滝山さんが示してくださった内容は、
創価学会の述べている内容とは多少異なる点があるように感じております。 そしてまた、こうした
考察に際しては、顕罰・冥罰などという概念の場合の“顕”・“冥”との関係も考えなくてはならない
ものと思っております。)
(また、滝山さんは「真蹟はありませんが」と念を押されていますが、確かにこのスレの問題としては
その点が最重要だというべきなのでしょうけれど、実はその点は創価学会批判という私個人の立場
からすれば必ずしも問題ではないのであって、真偽はともかく一般的には遺文とされている当該の
文書を創価学会がどのように扱っているのかこそが最重要の問題なのです。)
(レス>137の続き)
ところで、レス>125にお書きになっている蒙古襲来に関する問題ですが、確かに「現代の我々は
それが結果的に二度で終ったことを知っていますが当時の人々にはそれは知りえないこと」と
言うべきかも知れませんし、もしかすると「日蓮も当然三度目を予想していた」のかも知れません。
しかし、仮にそうだとしても、あれほど明確に蒙古襲来とその結果についての予言を公表している
日蓮が、三度目以降について何も公言せず(私はこの点に関する日蓮の発言を知らないのですが、
何も述べていませんよね?)、弟子に対しては蒙古襲来について触れることを禁ずるような内容の
遺文を残すということ自体が、日蓮の敗北を示しているものだと思います。
「彼の中では自説を撤回する時期ではまだなかった」のだとするなら、なおのこと三度目以降の
蒙古襲来について見解を公表しなければならなかったはずです。
二度目の蒙古襲来が終った時点で、当時の社会では真言僧等の祈祷・調伏の効果だとする
風評が一般化したくらいなのですから。
(スレにとってはどうでもいいことですが、ここのところ様々な事があってあまり酒を飲みに
行かなかったのですが、昨夜は久方ぶりに飲んで午前様となり、結果として今朝は
寝坊してしまい書き込む余裕がありませんでした。)
>>乾闥婆さん
前スレの終わり辺りの話題を今更ながら触れることになるのですが、私は特に
乾闥婆さんという『人物』を不快に思っているわけではありません。そして、
今回の一連の議論においては、見解の相違が見られたり対立したりしてはいますが、
そのことによって乾闥婆さんを『軽蔑』したり、(直接的に)乾闥婆さんの
『人格の問題』として議論を進めているわけでもありませんので、(現状では、
少なくとも)私に対して『不快な思いが云々、申し訳ない』というようなことは
気にしないでもらえたらと思います。
また、私はレスを急かすつもりもありませんし、その必要があるとも思っていません。
乾闥婆さんの(心身の、心も体も)ご都合に合わせて、レスを頂ければと思います。
もちろん、『いい加減、もう飽きた。話を打ち切る。』というのでも別にかまいません
(その場合は、私としては『できれば、またの機会にでも』ということになりますが)。
返事が遅くなってしまいましたが、以上が私の基本的なスタンスです。
140 :
乾闥婆:2009/03/28(土) 01:39:13 ID:???
>>139 >◆Bwr5tJDUMcさん
お気遣い、ありがとうございます。
コメントいただいた内容に関しては、後日、レスさせていただきます。
書かれている内容について、同意できる部分、反論すべき部分、それぞれあり、その論旨
はほぼ文章として出来上がっていますが、時間を置き、自身の文章に対して検証を重ねる
時間も必要です。忙しくもありますので、もう少しお待ちください。
法律ヲタさんも、今しばらくお待ちください。
>>140 乾闥婆さん
了解しました。こちらこそ議論にお付き合い頂きありがとうございます。
ごゆっくりどうぞ。
>>124 顕祈顕応・・・
出典は知らんけど、これって真言でしょ。日蓮さん
はあれだけ口汚く、しかも執拗に比叡山の密教化を
ののしりつづけた一生なのに、自分はちゃっかりと
真言ネタを御書に引用してんじゃないのかね? ww
>> 病を祈祷によって治す気は既に・・・
祈祷に効き目があると思ってないのは若いころから
でしょ、日蓮さんは確信犯のサギ師だと思うw
晩年はいいかげんなことを言いつづけたツケが回った
というか、とくに死ぬ直前の御書には 「道を失った」
感の強い記述が見られて、それは祈祷に限らず、
法華経の功徳を説明しようとしながら、途中であきら
めて俗物な世間話に入ってしまうという御書もある、
前々スレあたりに訳して貼っといた記憶があるよ。
>>125 日蓮も当然三度目を予想して・・
これはズバリではなくて遠まわしだけど、三度目も
必ずやってきて、そのときは必ず幕府はボロ負け
するだろう、という予言の意図が読み取れる御書
が存在します。
弘安の役のころに、京都で朝廷から正式の依頼を
受けた真言律宗の思円上人が祈祷をしたところ、
博多で大風が吹いて蒙古の軍船が多数難破して
撤退し、さすがに思円の法力はスゴいもんだと
評判がたったけれど、そのとき日蓮さんは病の床に
伏せっていてなにも祈祷をしていなかったので、
中山の富木常忍が信者の間では、思円はすごい
けど日蓮さんは・・、と動揺が起こっていて、どう
対応しましょう? との質問に答えたもの。。。
中身は50年前にさかのぼる承久の変について
引用していて、このとき京都の後鳥羽上皇が
執権北条義時追討の院宣を出したことに始まり
鎌倉軍19万の大軍勢が京に攻め上り、そのとき
朝廷を守る軍勢はわずかに2万足らずだった
けれど、真言の法師が朝廷のために祈祷を
したところ、突然大雨が降って宇治川が増水し
鎌倉勢は水死者続出で、一日だけ足止めを
食ったけど、その翌日には早くも突破されて
京都市中に鎌倉軍がなだれこみ、後鳥羽上皇
は壱岐に流されて・・・という故事。
真言の祈祷は最初よくても、アトで必ず・・といいたいようで。
>>126 挙証主義
これはひとことで言えば、、、
日蓮さんは修行がアマい。
ということに尽きると思うね。この人はほとけやさとりが
こころの中に一瞬だけ現れる精神の一側面だという
ことがまったく理解できない俗物脳の持ち主みたいで、
このていどの俗物な経典解釈しかできないなら、
たとえ比叡山や高野山に言ったとしてもレベルの
高い坊さんの話についていけなかったハズと思うよ。
そうなれば俗物なニセ坊主としては、真理がなにか
サッパリわかりませんから、他人に聞かれても答え
られるはずもなく、当然有名なナントカ大師はこう
言ったから自分は正しい、だとか経文のごくごく一部
だけを切り取って自分の正当性を証明しようとするけど、
そんな手法はかならず正反対の記述が存在するわけで
ムジュンが膨らんでいくだけなんでしょうね。
しょせんは文字の限界というか、不立文字と経外別伝は
べつに禅宗専用ではなくて、天台・真言・禅・念仏・律・・・・
の共通コンセンサスなんだけど、ひとり日蓮仏法のみが
文字と文献に頼るゆがんだ仏教になってしまった感は
強いですね。
>>142 >祈祷に効き目があると思ってないのは若いころから
>でしょ、日蓮さんは確信犯のサギ師だと思うw
>
>晩年はいいかげんなことを言いつづけたツケが回った
>というか、とくに死ぬ直前の御書には 「道を失った」
>感の強い記述が見られて、
日蓮は『確信犯のサギ師』として、若い頃から内心では呪文の効果なんかこれっぽちも
信じていなかったが、晩年になって、それは人としてどうなのか?と悩んで、悔やんで、
人を騙し続けるという『道を失った』ということですか?
或いは『確信犯のサギ師』として、内心では功徳・仏罰なんて信じていなかったけど、
晩年になって病に倒れ『あれ?これって法華経サギをしてた仏罰なんじゃね?』とか
なんとか、『サギ師』としての『道を失い』信仰に目覚めたということでしょうか?
そのような心情を吐露した文献があるということですか?
(
>>145からの続き)
>それは祈祷に限らず、法華経の功徳を説明しようとしながら、途中であきら
>めて俗物な世間話に入ってしまうという御書もある、
それが若い頃は(晩年以外というべきかもしれませんが)、おそらく本人も呪文の
効果を信じていたということにならないのはどうしてなのですか?晩年もその信仰を
捨てきれず、なんとか上手く説明をしようとしていたけど、ちょっと心が揺らいで
いるみたいと、そういうことにならずに、若い頃から『確信犯のサギ師だ』ということに
なるのはどうしてなのでしょう?
仮に、呪文の効果がどうだのと『いいかげんなことを』『信仰』していた『ツケが回り』
病で苦しみながら『信仰が揺らいだ』という意味で『道を失った』ということだとすれば、
『祈祷に効き目があると思ってないのは若いころからでしょ、日蓮さんは確信犯の
サギ師だ』(と思う)
ということにはならないのではないかと(まぁ、思う、思わないは自由ですけれど)。
>>乾闥婆さん
『日蓮は妄想を抱いていた、妄想に捉われていた人だ』
『日蓮は(決して?)妄想を抱いたり、妄想に捉われてなどいなかった』
『過去の人が妄想を抱いていたかどうかは、過去の人が決めることだ。過去の人が
どう判断していたのかを基準にするべきだ』
上記のように見解が相違・対立する場合、どういった視点・観点から、何を根拠・
理由としてそう論じるのか、その内容の妥当性・正当性が問題になります。
日蓮が抱いていた(であろう)信念の内容がどういったものなのかということや、
その信念が日蓮にとってどれほど重要なものであったかということや、
『そもそも』妄想とはいかなるものなのか、妄想の判別について、などが
論点になってきます。概ね(蓋然性を重視した)事実認定の問題になるはずです。
前提1:妄想とは『根拠のない誤った判断に基づいて作られた主観的な信念』であり、
『容易に訂正されないという特徴』がある。
前提2:妄想とは、ある種の精神疾患の一症状として特徴的に見られるものであるが、
妄想を抱いていることが即座に精神疾患を意味するわけではない。
(※ 前提1について、辞書にも掲載されている一般的な定義の一つなので、これに
同意できないというのでは、困ったことになります。大いに議論の余地の
ある微妙な概念、扱いが大変難しい特殊な言葉という程のものでもないはず
ですから。
前提2について、少なくとも乾闥婆さんは同意しておられるはずですね。)
繰り返し強調しておきますが、客観的・合理的な観点から、『ある人物は妄想を
抱いている(いた)』のか否か、その判別をどうするのかという問題です。これは、
事実としてどうなのか、合理的にどのように判断・推測できるのかという問題です。
ここで大前提となるのは、妄想の判別において、対照される信念(内容)とは、
『根拠のある正しい判断に基づいて作られた客観的な(内容の)信念』ということに
なります。それと合わせて、その信念に対する固執・執着度合いといったようなものも
重要になるわけです。
(※ 対照される信念を私が何度も強調しているのは、それをもって妄想というものを
判別・認定できるからです。違う言い方をすれば、対照される信念がどういった
ものか理解できなければ、妄想の判別などできようはずもないのです。)
日蓮は鎌倉時代の人ですから、その時代背景を無視して、日蓮の言動を
『そっくりそのまま』現代に適応する、現代の文脈に『文字通りの意味で』
置き換えるわけにはいきません。逆に、私達の『感覚』を過去の人達の時代精神に
『そっくりそのまま』『文字通りの意味で』置き換えることもできません。
(※ 比喩として、アナロジー(類推)として『適切な形で』現代の文脈に
『置き換える』ことを否定しているわけではありません。その場合は、
あくまでも、比喩、アナロジーなのであって『文字通りの意味で』置き換えて
いるわけではないことに注意する必要があります。)
私達は現代に生きており、過去の人ではないわけで、『そのままの』『生の』過去を
知ることはできません。ですから、歴史を紐解く場合に、歴史的文脈・歴史的背景を
重視するということは、客観的に過去を推測し、合理的な判断・認定・評価をすることを
意味します。そして、これは過去に限定されることではなく、『現代』『今この瞬間、
刹那』に対する判断においても、厳密には、根本的には、同じなのです。
熟慮することができる時間的制約という側面からすれば、大いに異なってくる
でしょうけれど。
『病気平癒を祈願することが、中世の一僧侶として、おかしなことなのか』
(乾闥婆さん前スレ
>>457)
個別の詳細な呪文や儀式内容はともかく、広く、中世の一僧侶として、そういうことは
よくあったことでしょう。内心の問題としてそれが善意によるものなのか、詐欺的な
行為として悪意に満ちたものだったのか、議論の余地はあるでしょうけれど、
客観的事実の問題として、広くそういったことは行われていたわけです。ですから、
(広く)『中世の一僧侶としては、普通の行為であった』という意味においては
『おかしくない』と言えますね。ところが、病の治療行為・治療目的という観点から
すれば(つまり、自然観の問題として)『つじつまが合わない、筋が通らない』という
意味で『おかしい』と言えます(これも一般的な定義に沿う内容なので、
『おかしい』という言葉の扱いについて疑問に思う場合は、辞書で調べてみて下さい)。
再度強調して述べますが、客観的な事実の問題として、過去であろうが今であろうが、
呪文を唱えたからといって病が消滅したりはしないわけで、その意味において
『おかしい』のです。その意味において(治療行為・治療目的として、或いは病の
各種の原因の認識において)不合理であり、誤りなのです。『この点については』、
以下の主張内容からして、乾闥婆さんは同意されるであろうと思われます。
『そのような祈願をしたところで、本人が病死する確率など、当然高いわけです。』
(乾闥婆さん前スレ
>>457)
客観的事実の問題として、当時においては呪文に効力があった(この世界の物理法則は
変わってしまった、別の法則が過去には、現に、実際に存在した)或いは、当時の人が
特別に呪文の効力を得られるような体質を持っていた、などなど、そういったことは
ない(なかった)はずです。
『なぜ当時においてそのことを妄想と呼ばれなければならないのか』
(乾闥婆さん前スレ
>>457)
細かい(?)ことを言うようですが、『妄想と呼ばなければならない』という話では
ありません。妄想という言葉・概念の扱いとして、その定義からして、とある信念を
妄想と判別することが妥当なのか、正当性はあるのか、そういう問題です(もちろん、
当時の時代精神・時代背景を考慮しつつですよ)。仮に妄想と呼ぶことが妥当で
あったとしても、『○○という内容の信仰』と表現したければそれでも別に
かまわないわけです(『その信仰は決して妄想などではない!』という話になると
『どうして?』ということになりますが)。そして、『当時において』そのことが
妄想と呼ばれていたかどうかを問題としているわけでもありません。
では、そういった呪文を唱えて病を治す、消滅させるという信念を妄想と呼ぶことの
妥当性・正当性について再度考察してみましょう。
妄想とは『根拠のない誤った判断に基づいて作られた主観的な信念』のことですから、
呪文を唱えて病を治す、消滅させるということに根拠があるのかどうか、
その根拠の有無が対象者の認識と合致するのか(判断の正誤)が問題になります。
つまり、『単なる想像』(主観的な信念)を『正しく』『単なる想像』として
認めている場合などは妄想ではないわけです。
日蓮は、客観的・合理的には根拠がないのに、主観的に根拠があると思い込み
(つまり、根拠のない誤った判断)、その思い込みに基づいて『呪文を唱えれば病は
消滅する!』というような主観的な信念を抱いていたはずです(その蓋然性が
高い)。遺文や手紙が残っており、その内容から推測すればという話ですよ。
そして、日蓮は、その生涯においてそういった信念に固執・執着していたものと
思われます(あくまでも具体例として病を挙げていますが、要は日蓮の主張した
因果論、功徳・罰論の話です)。
乾闥婆さんも認めているように、その当時においても(呪文を唱えたところで、
運よく呪文とは別の要因で病が治ることはあったにせよ)、病が治らないことは
多かったでしょう。そもそも呪文が原因で病が治ったりはしないからです
(プラシーボ効果を否定する趣旨ではありません)。
病が消滅するというのも、謂わば一つの予言ですが、外れることも多かったわけです。
ご都合主義で一年、三年、七年で(百日でしたか、正しい数字は忘れましたが、
ともかく)地震や病気や死が(罰が)どうのこうのと日蓮は主張していますが、
そんなこととは関係なく人が不幸だと感じる(ことが多いであろう)出来事は
訪れていたのです。再度強調しますが、(幸・不幸の問題は措くとして)こういった
ことは(蓋然性を重視した)客観的事実の問題です(いかに、日蓮やその信奉者が
詭弁でそれをごまかそうとしていてもです)。日蓮は様々な状況で、自分にとって
都合が悪い事実と対峙していたはずなのですが、問題としている点において
大きく認識を改めることはなかったようです(内心の問題として、本心としては、
多少なりとも信仰にぶれが生じていたかもしれませんが)。
結果として本人が気付くかどうかは別として、その信念の訂正を迫る(その方向での
圧力になり得る)出来事はたくさんあったはずなのです。
得ようにも大変な苦労が必要だったわけです。そして、現代よりも圧倒的に迷信が
はびこっていた、幅を利かせていたともいえるでしょう。ですから、日蓮に限らず
(詳細な主張内容はひとまずおくとして、広く)そういった呪文が云々というような
迷信をその当時の人が『信じやすかった、信じてしまう傾向が今よりも強かった』と
いえます。先にも述べたように、広く鑑みれば当時において、それは普通のこと
だったわけです。
しかしながら、『多くの人がそう信じていた』『当時の共通認識』『集団が持つ
影響力の強さ』は、妄想に対照される根拠にはなりません。その当時、客観的・
合理的には根拠がないのに、今よりも多くの人が主観的に根拠があると
思い込んでいた、多くの人がその誤りに気付かなかったわけで、それが当時の
時代背景・時代精神なのです。『その当時においても現代と同等の知識の蓄積、
情報インフラがなければならなかった』とか、『鎌倉時代の人は器質的に知的機能が
現代の人よりも著しく劣る』などという話をしているわけではありません。
要は、歴史的事実を歪曲しているわけではないのです。
『集団が持つ影響力の強さ』というのは大変大きなものです。ですから、その当時は
(詳細な違いはおくとして、広く)そういった信念(迷信)を、(傾向として)
現代よりも訂正しにくかったことでしょう。妄想には、容易に訂正されないという特徴が
あるわけで、当時の時代精神はそれを(現代よりも)助長していたと言えます。
文字を読める人も圧倒的に少なかったはずです。議論における一般的な原則も今よりは
圧倒的に知られていなかったはずです(広く当時の状況を鑑みての話ですよ)。
そういった時代背景もまた、多くの人々が妄想に影響を受け、それを受け入れ
やすかった(つまり、比較的、妄想を抱きやすかった)ことを示唆しています。
まだまだ現代においても迷信は(私の立場からすれば、『信仰は』と言いたい、
そう強調したいところですが、それはともかく)根強いものがありますし、
そもそも人は傾向として妄想を抱きやすい側面も持っていますから、これは
過去の話として簡単に済むような問題ではありませんね。
一行目が抜けてしまいました。失礼しました。
『当時を振り返れば、現代程の知識が蓄積されていたわけでもなく、広く情報を』
『ただの事実を歴史的文脈から切り離して現代のまな板に乗せ、そこへ現代の
認識による価値判断を加えるという歴史的事実の歪曲を行っている』
(乾闥婆さん前スレ
>>457)
これは乾闥婆さんの勘違いです。的外れな非難になってしまっています。
歴史的文脈の中の『ただの事実(歴史的事実と表現してもかまいませんし、まぁ、
要は事実です)』を、客観的・合理的に推測し、(つまり、客観性・合理性の
まな板に乗せ、)現代に生きる私達が判断をするという話ですよ。
何か特別に現代の価値観をそのまま過去の価値観に文字通りの意味で置き換えたり、
歴史的事実を歪曲しているわけではないのです。
『私が指摘し続けていることは事実認識の誤りではなく歴史的事実の検証を
怠っているあなたの態度です。』(乾闥婆さん前スレ
>>457)
(※ 上記の『あなたの』というのは法律ヲタさんを指してのことですが、後に
同じ論点において法律ヲタさんの見解に大いに同意している私もということに
なります。)
『歴史的事実の検証を怠っている』というのは、『事実認識・事実認定』の問題
でしょう。そこに誤りがあるという指摘をしているわけではないのに、
事実の検証、事実認識・事実認定の問題を指摘しているわけですよね?
検証に怠りがある、事実の歪曲を行っていると。これは明らかに矛盾していますよ。
『あなたは自分がこき下ろしたいと考えている人物をこき下ろすために都合よく
歴史的事実の検証過程を却下している。』(乾闥婆さん前スレ
>>457)
『自分に都合のいい価値判断を導くために歴史的事実から“歴史”という色を脱色し、
ただの客観的事実という、現代人に都合よく解釈できる無色の事実を抽出し、
それを弄んでいる。』(乾闥婆さん前スレ
>>457)
これは、なんとも酷い勘違いなのです。『ただの歴史的事実』を客観的・合理的に、
現代人の私達が推測し(恣意的な憶測ではなく、謂わば議論に堪える無色の事実を
抽出?し)、論を展開しているのです(少なくとも、そもそも議論の発端となった
『妄想糞坊主』の妄想、特に具体的例として病と呪文についての信念という論点に
おいては)。
『現代から見れば中世という時代は“異常”であると私も思っていますが、
それを批判すべきだ、などとは全然考えていません。』(乾闥婆さん前スレ
>>457)
批判とは『物事の可否に検討を加え、評価・判定すること』『誤りを指摘すること』
『妥当性や限界を明らかにすること』ですから、過去を振り返り、批判的な目で見つめ、
それを現代(或いは未来)に活かすということを『全然考えない』のは問題ですよ。
過去の大勢の人が気付かなかった、知らなかった、知り得なかったような知識を
現代の私達は知ることができるのです(現代の知識が『完全』であるという意味では
ありません)。現代の私達だからこそ、現代の知識を基にしつつ、過去を批判的に
振り返ることもできるわけです。これは『歴史的事実の歪曲』などではありません。
以上です(ゆっくりお待ちしますので、レスの検証に役立てて頂ければと願います)。
156 :
乾闥婆:2009/03/29(日) 08:27:52 ID:???
>◆Bwr5tJDUMcさん
>>112-113 >既に何度も述べたことの繰り返しになりますが、妄想とは対照される客観性・合理性に
拠って判別されるものなのであり『妄想の判別において信念(内容)の真偽・正誤の
話はしない、関係ない、知らない、』などといった主張は、そもそもおかしいのです。
そのような主張はしていません。私は妄想という言葉が使用されるに当たって、その人物
が置かれている状況下における、対照される真・偽の判断基準として、日蓮が寄った経典
や教義は当時において強固に真理として存在したのだから、現代の客観性・合理性を伴っ
た真・偽の判断基準と違う時代ゆえに、それを妄想とは言えないと言っているのです。私
が「真・偽にかかわらず」と書いたのは、当時の真・偽判断の基準の(現代から見た)「真・
偽にかかわらず」という意味です。あなたは妄想という言葉の使用方法を間違えています。
あなたによれば根拠を探ろうが探るまいがその主張に誤りがあれば妄想であるということ
になってしまいます。では、問いますが、それは誤謬という言葉と何が違うのでしょうか。
日蓮は当時根拠足りえた経典や教義を根拠として己の主張を形成した。しかしそのような
根拠は根拠足りえないことが現代では明らかとなった。だから日蓮は誤った情報に基づい
て誤った判断をした。それだけのことでしょう。それを妄想というのであれば、日蓮はそ
もそも根拠には寄らずに自分の思い込みを主張しただけであった、ということが証明され
なければならないというのが私の主張です。あなたは妄想という言葉をただの誤謬という
意味内容に拡大して用いているのです。
157 :
乾闥婆:2009/03/29(日) 08:29:24 ID:???
>対照される客観性・合理性(その真偽・正誤)を基に、そこから大きく逸脱し
(要は、『単なる想像』であり、しかも『誤謬(偽・誤)』であるような内容です)
更に容易にそれが訂正されないといったような特徴とも『合わせて』、(乾闥婆さんはこれ
を『混同』だとおっしゃる)ある信念が妄想であると判別できるわけですよ
その対照される客観性・合理性が時代の制約を受けていると言っているのです。現代から
見た客観性・合理性を有する真・偽判断基準は、当時の人たちに認識の地平に現れてはい
ないのだから(念のため言い添えておきますが、それはそのような真・偽が当時において
存在しないといっているわけではありません)、それをそのまま中世日本の鎌倉期に導入し
て日蓮ら当時の人たちは妄想を抱いていたと断ずることはできないと言っているのです。
あなたの陥っている混乱は妄想という言葉をただの誤謬として用いているところにありま
す。根拠の真・偽が問題となるのはまさしくその根拠に基づいて証明される事項の真・偽
判断においてです。しかし妄想の判断基準になるのは、根拠を求めたか、思い込みを主張
したか、にあります。その当時に与えられている情報量では、いかように根拠を求めたと
しても経典や各種教義書、儒教・道教の文書といったところがせいぜいではないでしょう
か。そのような材料によって、何ゆえあなたは現代人と同じ見解に達しえると当時の人間
に対して思うのでしょうか。単に日蓮は間違った情報により間違った判断をした、という
だけのことではないですか。妄想とは、妄想に陥らないであろう、対照される客観性・合
理性が社会的に確立しており、その確立された客観性・合理性から逸脱するから妄想なの
です。あなたが言われる科学的な客観性や合理性を有した対照される真理は当時において
社会的に確立していましたか? 確立しておりません(もう一度言い添えますが、私は社
会的に確立していないからといって、そのような客観性・合理性を有した真理が当時は存
在しなかったとは言っていません。ここを見落とさないでください)。確立してもいない真
理から、どのように逸脱するというのですか? 結局のところ、当時における「真理」を
根拠に自分の主張を組み立てるほかないでしょう。それのどこが妄想なのですか?
158 :
乾闥婆:2009/03/29(日) 08:34:19 ID:???
>◆Bwr5tJDUMcさん
>>114-116 残念ながら私に対する批判になっていないので無視させていただきます。あ
なたはあなたの頭の中に出来上がった<妄想>の「乾闥婆」と対話をされているようです。
私が主張した覚えもないことを主張したかのように妄想して私を批判されても困ります。
>>117 ここに書かれていることも、もう論駁したのでいいでしょう。まったく読み違えて
います。あなたは「それを信じていたであろう日蓮の『認識内容』は『誤謬』に塗れてい
たのです」と書いていますが、そんなことは最初から私は主張していたのです。「誤謬」と
「妄想」の意味内容の違いについてのあなたからの説明が待たれるところです。
>>119 私はダーウィンを読んだことはないので進化論について何か言うつもりもありませ
んが、神が人間を創造したとはまったく思いません。現代の科学の恩恵に浴している近代
国家以降の社会の一員が、聖書を真実のデーターベースとして創造論を主張するとしたら、
私はそれを妄想と判断するでしょう。なぜなら聖書を絶対の真理とする根拠がないからで
す。仏典しかりです。そういうことを疑いうる地点に私たち現代人はいるでしょう。中に
は現代において日本の中世と同じような社会環境があるかもしれませんが、日蓮が間違っ
ていたように、それらは「単に」間違っているだけのことです。問題は妄想であるかどう
かの判断です。私は妄想であるかどうかの判断と、認識の真・偽判断とを分けて論を展開
してきました。その主張を一貫させた場合、鍵となるのは情報量です。その認識が偽であ
ったとしても、情報量が圧倒的に足りない人間を捕まえて妄想だと私は非難したりはしま
せん。その根拠としている情報は間違っている、もっと高レベルの情報がある、とは言い
いますが。妄想とは、そのような情報を入手しうる環境にあるにもかかわらず、それらの
根拠に寄らず、自身の思い込みを主張する人間に対して使われる非難の言葉です。
159 :
乾闥婆:2009/03/29(日) 08:34:59 ID:???
(続き)
>>121 日蓮は法華経至上主義者ですから。専一性が強調されるのは、まさに鎌倉期の新興
仏教の特徴でもあります。これは末法思想との絡みもあるのではないでしょうか。念仏も
激しいその排他性により弾圧を受けました。禅もまた不立文字・教外別伝を言ったわけで
す。日蓮は禅や浄土に比べるとその出発点は保守的です。むしろ保守反動と言ってよいで
しょう。超弦道士さんも以前言われていましたが、日蓮の宗教には鎮護国家思想的な側面
が濃厚にあり、そういう点では当時革新的であった浄土や禅に比べると、宗教としてはよ
り古代の仏教に近いものがあるのではないでしょうか。日蓮がもう少し長生きして、霊山
浄土信仰へと傾いてゆくと面白かったようにも思います。どちらにしても鎌倉期は一見浄
土や禅の新興仏教が華やかに登場した時代のように見えて、実際は旧来の顕密体制がより
隆盛を極めたというのが現代の歴史学では通説です。時代の精神という意味で、それを破
壊するだけのインパクトが日蓮の宗教にあったかと問われれば、そんなことはなかったと
思います。むしろ浄土や禅のほうが革新的なインパクトは強かったのではないでしょうか。
結局のところ、時代は一気に変わったりはしないわけで、禅・浄土・日蓮の新興宗教教団
が台頭してくるには、まだ、時間が要ることであったでしょう。
>>122 つまり私は相対主義者ではないということでしょう。私は妄想という言葉がどのよ
うに機能するのか、ということを語ってきたに過ぎません。妄想という批判は結局のとこ
ろ、その当時の社会通念からの逸脱者に対して行われる、と言ってきたのです。そのこと
と、客観性・合理性を有した真理とは別の問題であり、社会通念があろうとなかろうと、
真は真であり、偽は偽であろう、というのが私の主張です。その点をあなたは見落とし続
けてきたわけです。おそらくあなたが私を相対主義者と断じてしまうところからスタート
してしまったゆえに起こった<誤謬>でありましょう。私はあなたの言われるような矛盾
を何も抱えていません。むしろ、私はあなたの見解に非常に近いといってもいいでしょう。
あなたと私の違いは、妄想という言葉の理解と使用法にあります。
160 :
乾闥婆:2009/03/29(日) 08:39:30 ID:???
>>127-132 可謬主義をめぐる議論の展開、大いに同意します。自身の所属する文化の特別視も、その
とおりです。私は近代国家成立以降、国際社会が形成される過程においては、科学的事実
判断を有する文化的枠組みを特別視しています。そして私が特別視している文化的枠組み
は、国際社会に関与している近代以降の国家においては当然共有されなければならない認
識であり、また共有されるべき客観性と合理性を有しており、それらを共有できないので
あればそれは妄想を抱いているからであろうと考えています。私は数の論理によって真・
偽が決するとは考えていないからです。「たとえば科学知識の新発見は共通認識外の問題で
あったり、共通認識を覆す要素であったりするわけですが、法律ヲタさんが簡潔に指摘し
ておられるように、乾闥婆さんの主張を徹底させると、これも『妄想』だということにな
りかねない」。そういうことです。私は「妄想」という言葉はそのように機能すると考えて
います。だから「妄想」であるとの判断と、実際の真・偽の判断は別であると言っている
のです。「『根本的な部分において』対照される『べき』ものを『混同』してしまっている
のは、残念ながら乾闥婆さんの方ですよ。」あなたはそこをずっと読み違えたままなのです。
私は妄想と判断されるときに対照される客観性・合理性を、現代の科学的観点から判断さ
れる真・偽の問題と分けて論を展開してきました。そこをあなたが混同し続けているゆえ
に、このような平行線が続いているのです。妄想であるかどうかの判断は、その当時根拠
とされたデーターベースに左右されます。そのような思考の枠組みをその同時代人が克服
することは容易ではありません。しかし私は当時において妄想であるとはいえないと言っ
たところで、それを真であるとはまったく考えておらず、むしろ一貫して日蓮のことを偽
であると言ってきたのです。私は「妄想」という言葉がどのように機能するのかを述べて
きたに過ぎません。良いとか悪いとか、真であるとか偽であるとか、そういう話ではなく、
「妄想」という言葉の機能の仕方とその使用方法について述べているに過ぎないのです。
161 :
乾闥婆:2009/03/29(日) 09:07:40 ID:???
>法律ヲタさん
>>107-111 ◆ Bwr5tJDUMcさんに対するレスがほぼあなたに対する返事と重複する
と思いますので、
そちらをお読みください。ただ一点だけ、コメントをさせていただきます。
>歴史は、日蓮の予測した通りになっていないわけですが、そこで日蓮は、
自分が根拠とした
経典などには客観的に問題がある事に気付かなければならなかったはずで
す。
まあ、無理でしょうね。富永仲基が加上説を唱えたのは、ようやく18世紀で
す。日蓮の生
きた時代の500年後です。そのような人物が現れたところで、その説がすぐ
に主流になっ
たりはしないのです。中世初期においてそのような見解に達することはほぼ
絶望的でしょ
う。法律ヲタさんは時代に課せられている思考の枠組みを軽く見られすぎて
はいませんで
しょうか?
162 :
乾闥婆:2009/03/29(日) 09:14:51 ID:???
>>156 乾闥婆さん
>私は妄想という言葉が使用されるに当たって、その人物が置かれている状況下における、
>対照される真・偽の判断基準として、日蓮が寄った経典や教義は当時において強固に
>真理として存在したのだから、現代の客観性・合理性を伴った真・偽の判断基準と違う
>時代ゆえに、それを妄想とは言えないと言っているのです。
以前にも指摘したように、日蓮の教えというのは、その当時の歴史的文脈の中で
相対的に見ても、様々な点において『広く真理として認められていた』とはいい難い
側面が多々あるのです。世界的に見るとどうですか?或いは、日本において、仏教界に
おいて、日蓮に異端的なところなどなく、その教えは真理として認められていたとでも
いうのですか?それこそ事実の歪曲ともいうべき、とても恣意的な主張ですよ。
ご都合主義の大雑把な観点に拠る恣意的な主張です。初期に日蓮が基盤とした教義は、
日本の仏教界において、当時の謂わば通説であったかもしれませんが、そこから日蓮は
(全てにおいてとはいいませんが)独自の解釈を展開したはずです。日蓮が依った経典の
日蓮なりの解釈が、日蓮の掲げた教義ということになります。様々な宗派を攻撃的・
排他的な姿勢で非難していた日蓮の教えが『真理として存在した』ことの根拠・理由は
いったいどういったものなのですか?大雑把に天台の教えをベースとして云々という
ようなことですか?(もう少し、詳しく考察してみて下さいよ。)
そして、日蓮が依った経典や教義は、『当時において強固に真理として存在した』
という前提がそもそも間違っています。日蓮信奉者は『強固にそう思い込んでいた』
ことでしょう。しかし、それは真理ではありません。その論法に従うなら、
過去においては『真理として存在した』が、時代と共に真理は変化し、現代においては
『真理としては存在していない』ということになってしまいます。そんなものは
真理ではない。真理とは『普遍的で妥当性のある法則や事実』『価値を慮外にした
事態の真相』のことですよ。乾闥婆さんの論によれば、真理とは時代精神の制約を
受ける、その範疇にある、とある集団内の主観性に拠る一つの共通認識にすぎない
ということになりますね。正しくは、後にその誤りが(比較的)広く知られる
ところとなったように、当時においても『真理として存在してはいなかった、
真理ではなかった』のですが、当時の日蓮やその信奉者は『強固に真理と
思い込んでいた』のです。
>私が「真・偽にかかわらず」と書いたのは、当時の真・偽判断の基準の
>(現代から見た)「真・偽にかかわらず」という意味です。
当時の人の真偽判断の基準に従い、当時の人の判断結果がどういうものになるのかを、
現代の私達は知ることができますが(だが、当時のどの共通認識を用いるのか?
日蓮の話だから日蓮の基準にのみ従えと?)その判断方法・判断基準・判断内容・
判断結果が『本当に』正しいか否かは別ですよ。あくまでも当時の人(より詳細には、
とある集団、とある個人)はその基準を用いて『あれは真、これは偽』と判断して
いたというにすぎません。これは現代においても同様です。重要なのは、
その判断基準の客観性や合理性でしょう。とある時代のとある集団内における主観性に
依って真偽が決まるわけではない。なのに、乾闥婆さんは『真偽にかかわらず』と
いいながら一方では、『真理として存在していた』などとおっしゃる。どうして、
当時の一部の集団が真理だと思い込んでいたということが、その主観性が、そのまま
真理として存在したということに置き換わってしまうのですか?おかしいですよ。
>あなたは妄想という言葉の使用方法を間違えています。あなたによれば根拠を探ろうが
>探るまいがその主張に誤りがあれば妄想であるということになってしまいます。
具体的にどこで私がそんなことを述べているというのですか?訂正しますから、
具体的にその問題部分を引用して下さい。私は妄想の定義をきちんと提示し、
その定義に従い、根拠の有無、判断の正誤、信念に対する執着度合いなどを基にして
妄想か否かを判別しています。単に信念の内容に誤りがあるだけで、即座に
妄想ということになるわけではないということも既に述べています。
>では、問いますが、それは誤謬という言葉と何が違うのでしょうか。
何が違うのが意味がわからなければ辞書で調べたらいいでしょ。誤謬とは『間違えること、
間違い、一見正しくみえるが誤っている推理』のことです。その誤りに気付き得る状況に
晒されても、或いは、説得されてもそれを訂正することなく、その信念が正しいと固執・
執着するような場合は、誤謬であり妄想でもあるわけですよ。
>日蓮は当時根拠足りえた経典や教義を根拠として己の主張を形成した。
これも先に指摘したことと同じです。『当時、根拠足り得るものだと多くの人が
思い込んでいた経典や教義』を日蓮もまた『根拠足り得ると思い込んだ』が、
それが根拠足り得ないことを現代の私達は知っているわけです(まぁ、知らない、
理解できない人もいますが)。ここでもまた、どうして、とある時代の、とある
集団(或いは個人)が、『根拠足り得ると思った』その主観性が、主観的な(内容の)
信念が『根拠足り得た』という客観的見解に置き換わってしまうのですか?
客観的・合理的な見解をお願いします。
>しかしそのような根拠は根拠足りえないことが現代では明らかとなった。
だから、何度も述べているように、『明らかとなった』のであれば、それは客観的・
合理的には根拠足り得ないわけですよ。その当時(そして現代であっても)とある
集団、とある個人がどんなに『根拠足り得ると思い込んだ』としてもです。正しくは、
『根拠足り得なかったし、足り得ない』のです。客観的・合理的な見解をお願いします。
>だから日蓮は誤った情報に基づいて誤った判断をした。それだけのことでしょう。
予言を外しても、それだけのことなのですか?現代程知識が蓄積されていないとか、
現代のような情報インフラがないとか、そういった時代背景を鑑みた上で、尚、
その当時において、日蓮はその誤りに気付き得る状況に、気付き得る事態に身を
晒していたはずですよ。たとえば、病が消滅しないという事実と対峙するなど。
乾闥婆さんは、こういったことを無視するわけですね。
>それを妄想というのであれば、日蓮はそもそも根拠には寄らずに自分の思い込みを
>主張しただけであった、ということが証明されなければならないというのが
>私の主張です。
乾闥婆さんは、意図せずに既にそのことに触れているではないですか。その当時、
『日蓮にとっては』『根拠があるように思えた』ことは、『本当は』『根拠などない』
ということを私達は知っているわけですよ。『日蓮にとっては』というのは、
あくまでも日蓮の主観性に拠る議論なのであって、『実は』その内容は誤り
だったのであり、『本当は』『そもそも根拠などなかった』のです。つまり『本当は』
『誤った判断に基づく日蓮の思い込みだった』けれど、『当時の日蓮にとっては』
『正しいことのように思えた』というだけのことですよ。どうして日蓮が根拠だと
思えば、或いは日蓮が当時のとある集団における共通認識を基盤としていたら、
その主観性が、客観性に置き換わるのですか?客観的・合理的な見解をお願いいます。
>あなたは妄想という言葉をただの誤謬という意味内容に拡大して用いているのです。
どこで???訂正しますから、具体的に引用して問題部分を示して下さい。
>>157 乾闥婆さん
>その対照される客観性・合理性が時代の制約を受けていると言っているのです。
だから、その乾闥婆さんが言っている主張内容が間違っているのです。客観性とは、
客観的であること、客観的とは、『個々の主観の恣意を離れて、普遍妥当性を
もっているさま』です。何度も言いますが、意味がわからなければ(或いは疑問に
思ったり、議論において言葉・概念の定義が重大な論点になりそうな場合などは)
辞書をひくなどして確かめてみましょうよ。検証しましょう。
>現代から見た客観性・合理性を有する真・偽判断基準は、当時の人たちに認識の
>地平に現れてはいないのだから(念のため言い添えておきますが、それはそのような
>真・偽が当時において存在しないといっているわけではありません)
『真・偽が当時において存在しないといっているわけではありません』と、
乾闥婆さんが(おそらく、意図せずに、或いはその意味するところを理解できずに)
認めてしまっているように、客観性・客観的というのは、そういうことなのです。
その当時、或いはこの現代であっても、多くの人が気付かない、或いは誰も知らない、
知り得ない場合であっても、客観性・客観的というのは、時代精神の制約の範疇に
おける主観性などではないのです。既に何度も何度も何度も、こちらが一貫して
指摘しているように、乾闥婆さんは、それを取り違えてしまっているのです。
そこを混同しているのですよ。
>それをそのまま中世日本の鎌倉期に導入して日蓮ら当時の人たちは妄想を抱いていたと
>断ずることはできないと言っているのです。
個々の主観の恣意を離れて、普遍妥当性をもって(この表現が哲学的議論として問題だと
いうなら、近似的・実際的にという言葉を追加しますが)それが妄想であると
判別しているのに、時代精神という主観性、或いはとある集団内の主観性、
とある個人の主観性に依れと?滅茶苦茶じゃないですか。
>あなたの陥っている混乱は妄想という言葉をただの誤謬として用いているところにあります。
だから、そう思うなら、きちんとどの部分でそういう用い方をしてしまっているのか、
引用して下さいよ。具体的に。訂正しますから、よろしくお願いします。
>根拠の真・偽が問題となるのはまさしくその根拠に基づいて証明される事項の真・偽
>判断においてです。しかし妄想の判断基準になるのは、根拠を求めたか、思い込みを主張
>したか、にあります。
『根拠を求めたが、残念ながらそれは根拠足り得なかった』『根拠だと思い込んだが、
残念ながら、実は、本当は、根拠足り得なかった』わけですよ。そして、そもそも
上記の乾闥婆さん独自の妄想の定義は、一般的に言う妄想の定義とは違うわけで、
そんな自分勝手な定義を持ち出して相手を非難しても仕方ないでしょう・・・。
>>160 乾闥婆さん
>私は妄想と判断されるときに対照される客観性・合理性を、現代の科学的観点から判断さ
>れる真・偽の問題と分けて論を展開してきました。
そういう主張を展開するから極端な相対主義だとこちらは指摘しているのです。
客観性・合理性が蔑ろにされています。
科学的というのは『論理的・客観的・実証的であるさま』のことです。
つまり、客観的・合理的なさまのことですよ。乾闥婆さんの論に従うならば、
現代の科学的観点から判断される真偽であっても、それは現代という時代精神、
現代におけるとある集団内の共通認識、などの主観性に拠るものだということに
なってしまいます。しかし、これは『穏やか』な可謬主義ではないし、
反科学的な姿勢ですよ(表層的に科学の重要性を認めると述べていたとしてもです)。
学会(創価学会ではありません)で新発見を発表しても、『時代精神に沿わない、
根拠がない』ということになるわけですね。新発見を発表した学者は、
『いやいや、客観的・合理的に根拠はあるし、間違ってなどいません。論文を
読んでみて下さい。検証してみて下さいよ。』と言うでしょう。その新発見に
執着したりすれば、『そんなもの、妄想だ。』『根拠のない誤った判断に
基づいて作られた主観的な信念にすぎない。』『この現代において、どこに
そんな共通認識が確立されているというのだ』と、妄想扱いされるわけですね。
こんな姿勢では、いつまでたってもデーターベースは訂正されないことに
なってしまう。そこで、新発見を発表した学者は言います。『新発見なんだから、
社会的に共通認識が確立されてるわけないでしょ。対照されるべき客観性・合理性とは、
そこにあるのではない。』と。
意見の集約に際して、或いは客観的・合理的な真偽の判断が必要となる場面において、
このように共通認識がどうだのと、それを根拠にする姿勢は正に数の暴力ではないですか。
そもそもの、客観性・合理性という概念を、自分に都合の良い(或いは対象者に
都合の良い)主観性と混同するから、そういうことになるのです。
>妄想であるかどうかの判断は、その当時根拠とされたデーターベースに左右されます。
これも同じことです。現代においてもデーターベースを訂正・更新することは
あるわけですよ(知識は誤り得るわけです)。ところが、訂正・更新される前の
『本当は問題ある、本当は誤りのある』情報が、その時点においては『根拠がある、
誤りなどないと、思われていた(つまり主観性)』わけで、その内容の真偽を
客観的・合理的に問題とするからこそ、『正しく』訂正し得るのではないでしょうか。
それを繰り返すことで、知識は精度を増し、より豊かになる。これは『穏やかな』
可謬主義であり、科学の営みにおける基本的な姿勢です。ところが、極端な相対主義が
顔を出すと、その内容の真偽を判別する際に、その時点においては『根拠がある、
誤りなどないと、思われていた』この主観性が客観性・合理性に置き換わってしまう。
これはとても大きな問題なのです。根拠がないのに根拠があると言い張る姿勢に
繋がるわけですよ。
根拠とは『判断・推論などを成り立たせるよりどころ』『行動などの正当性を支える
事実』のことです。乾闥婆さんの論に従うなら、とある共通認識として、とある社会に
それが確立されたら(集団的に主観的な内容が共有されたら)それが妥当性・正当性の
依るところとなり(数の問題、数の論理、集団の持つ影響力を意見の集約・真偽判断の
根本に据えるという誤謬)その主観性・集団の圧力が客観性・合理性に置き換わって
しまう。しかし、人は集団の影響に晒されながら、それに依存しやすいという、とても
強い傾向を持ちながらも、理性で少しずつそれを乗り越えてきたのです。だからこそ、
紆余曲折はありながらも、こうして時代精神は変化し続けるのです。本能によって
群れに従う羊ではなく、知性・理性によって群れの過ちを訂正し得る人間社会において、
客観性・合理性というのはとても大切な概念ですよ。意味がわからなければ、辞書を
ひくなどして調べてみてください。
172 :
乾闥婆:2009/03/29(日) 23:27:58 ID:???
>◆Bwr5tJDUMcさん
>>163-171「以前にも指摘したように、日蓮の教えというのは、その当時の歴史的文脈の中
で 相対的に見ても、様々な点において『広く真理として認められていた』とはいい難い側
面が多々あるのです。」そうではないといつ言いましたか?「世界的に見るとどうですか?
或いは、日本において、仏教界において、日蓮に異端的なところなどなく、その教えは真
理として認められていたとでもいうのですか?」いつそんなことを言いましたか?「それ
こそ事実の歪曲ともいうべき、とても恣意的な主張ですよ。」言ってないことを言ったとい
われても、それこそ恣意的な歪曲でしょう。「様々な宗派を攻撃的・排他的な姿勢で非難し
ていた日蓮の教えが『真理として存在した』ことの根拠・理由はいったいどういったもの
なのですか?」いつそんなことを言いましたか?「その論法に従うなら、過去においては
『真理として存在した』が、時代と共に真理は変化し、現代においては『真理としては存
在していない』ということになってしまいます。そんなものは真理ではない。」だからそう
いっているではないですか。真理ではないと。分からない人ですね。「当時の日蓮やその信
奉者は『強固に真理と思い込んでいた』のです。」それでいいです。「どうして、当時の一
部の集団が真理だと思い込んでいたということが、その主観性が、そのまま真理として存
在したということに置き換わってしまうのですか?おかしいですよ。」いつそんなことを言
いましたか?「具体的にどこで私がそんなことを述べているというのですか?」あなたは
日蓮が妄想を抱いているといいましたね。でしたら日蓮が根拠を求めなかったことを遺文
から証明してください。「その誤りに気付き得る状況に晒されても、或いは、説得されても
それを訂正することなく、その信念が正しいと固執・執着するような場合は、誤謬であり
妄想でもあるわけですよ。」では日蓮がその状況にあったことを日蓮遺文や当時の文書から
証明してください。
173 :
乾闥婆:2009/03/29(日) 23:28:44 ID:???
(続き)
「『根拠足り得ると思った』その主観性が、主観的な(内容の)信念が『根拠足り得た』と
いう客観的見解に置き換わってしまうのですか?」置き換えていません。日蓮は間違って
いるといっています。「それは客観的・合理的には根拠足り得ないわけですよ。その当時(そ
して現代であっても)とある集団、とある個人がどんなに『根拠足り得ると思い込んだ』
としてもです。正しくは、『根拠足り得なかったし足り得ない』のです。」私もそういって
いますが?「予言を外しても、それだけのことなのですか?現代程知識が蓄積されていな
いとか、現代のような情報インフラがないとか、そういった時代背景を鑑みた上で、尚、
その当時において、日蓮はその誤りに気付き得る状況に、気付き得る事態に身を晒してい
たはずですよ。たとえば、病が消滅しないという事実と対峙するなど。乾闥婆さんは、こ
ういったことを無視するわけですね。」いいえ、無視していませんよ。そもそも日蓮に予言
をした意識などなかったでしょう。日蓮は日本が滅びなかったことに首をかしげたまま死
んでいったでしょうね。それに日蓮は薬を飲んでいましたね。あなたはそのことをどう思
いますか?といいますかそのことを知っていますか?「乾闥婆さんは、意図せずに既にそ
のことに触れているではないですか。」どこでですか?「『日蓮にとっては』というのは、
あくまでも日蓮の主観性に拠る議論」それで、日蓮は何によってそのように考えたのでし
ょうね?「『本当は』『そもそも根拠などなかった』のです。」それは今の人から見てのこと
でしょう?「『当時の日蓮にとっては』『正しいことのように思えた』というだけのことで
すよ。どうして日蓮が根拠だと思えば、或いは日蓮が当時のとある集団における共通認識
を基盤としていたら、その主観性が、客観性に置き換わるのですか?」ですから置き換え
ていません。現代における客観性が、そのまま当時における客観性になるとでも思ってい
らっしゃるのですか? では、そのことを日蓮遺文や当時の文書から証明してみてくださ
い。当時の人が現代人と同じ客観性に立てるということを証明してください。
174 :
乾闥婆:2009/03/29(日) 23:31:46 ID:???
(続き)
「客観性とは、客観的であること、客観的とは、『個々の主観の恣意を離れて、普遍妥当性
をもっているさま』です。」それで、当時の人間は現代人と同じ客観性に立てますか?立て
ないから制約を受けていると言っているのですよ。「客観性・客観的というのは、時代精神
の制約の範疇における主観性などではないのです。」私もそういっていますが。「個々の主
観の恣意を離れて、普遍妥当性をもって(この表現が哲学的議論として問題だというなら、
近似的・実際的にという言葉を追加しますが)それが妄想であると判別しているのに、時
代精神という主観性、或いはとある集団内の主観性、とある個人の主観性に依れと?滅茶
苦茶じゃないですか。」全然無茶苦茶じゃないですね。妄想とは何の根拠にも寄らない思い
込みを主張することです。日蓮はそうではなかったといっているだけです。「上記の乾闥婆
さん独自の妄想の定義は、一般的に言う妄想の定義とは違うわけで」?どこがでしょうか?
ちゃんと辞書には「根拠のない主観的な想像や信念。統合失調症などの病的原因によって
起こり、事実の経験や論理によっては容易に訂正されることがない。」と書いてありますよ。
それで、日蓮の生きた当時において根拠として求めるものは経典ではなかったのですか?
経典に根拠を求めてそれでどうして当時において妄想になりますか?「乾闥婆さんの論に
従うならば、現代の科学的観点から判断される真偽であっても、それは現代という時代精
神、現代におけるとある集団内の共通認識、などの主観性に拠るものだということになっ
てしまいます。」私の論ではそうなりません。私は
>>159にて「社会通念があろうとなかろ
うと、真は真であり、偽は偽であろう、というのが私の主張です。」と言っていますね。
175 :
乾闥婆:2009/03/29(日) 23:34:44 ID:???
(続き)
「学会(創価学会ではありません)で新発見を発表しても、『時代精神に沿わない、根拠が
ない』ということになるわけですね。新発見を発表した学者は、『いやいや、客観的・合理
的に根拠はあるし、間違ってなどいません。論文を読んでみて下さい。検証してみて下さ
いよ。』と言うでしょう。その新発見に執着したりすれば、『そんなもの、妄想だ。』『根拠
のない誤った判断に基づいて作られた主観的な信念にすぎない。』『この現代において、ど
こにそんな共通認識が確立されているというのだ』と、妄想扱いされるわけですね。」まさ
か(笑)。私の主張に寄れば、その新発見に客観性・合理性があれば、受け入れられますね。
私の主張をどう読んでもそうなるでしょう。あなたは私の文章がちゃんと読めているので
しょうか?「意見の集約に際して、或いは客観的・合理的な真偽の判断が必要となる場面
において、このように共通認識がどうだのと、それを根拠にする姿勢は正に数の暴力では
ないですか。」数が暴威を振るうのは『妄想』という言葉の機能ですね。真理、に関しては
そのような数の論理では決しないというのが私の一貫した主張です。よく私の文章を読ま
れるといいでしょう。「乾闥婆さんの論に従うなら、とある共通認識として、とある社会に
それが確立されたら(集団的に主観的な内容が共有されたら)それが妥当性・正当性の依
るところとなり(数の問題、数の論理、集団の持つ影響力を意見の集約・真偽判断の根本
に据えるという誤謬)その主観性・集団の圧力が客観性・合理性に置き換わってしまう。」
社会現象としては事実そうでしょう?ところが私は、そのような社会現象とは別に真理は
あると思っています。そう書いてきましたよね。ちゃんと読んでいますか、私の文章を。
もう一度引用しましょうか?「社会通念があろうとなかろうと、真は真であり、偽は偽で
あろう、というのが私の主張です。」あなたは相変わらず<妄想>の乾闥婆と対話している
ようですね。
>>172 乾闥婆さん
あのねぇ、『過去に○○は存在した』の意味がわかりますか?
『過去の人は○○は現に存在すると思い込んでいたが、それは誤りであった』の
意味がわかりますか?前者と後者は異なるのです。
『過去に、日蓮の教えは真理として存在した』これは、まぁ、真理という概念について
議論の余地は大いにあるにせよ(だからこそ現実問題、実際問題として蓋然性を
重視するわけですが)存在に関する客観的事実の問題です。『過去に、日蓮の教えを、
日蓮やその信奉者は真理であると思い込んでいた』これも客観的事実の問題です。
内心・心の扱いをどうするのかという問題があるにせよ、ここでも蓋然性を重視した
推測が重要になる。
乾闥婆さんは、対象者の主観性をそのまま客観性に置き換えてしまっている。
だから真理ではないものを、真理としては存在しなかったものを、『真理として
存在した』と述べてしまうのです。『対象者は主観的に、そう思い込んでいた』
だが、『本当は、真理として存在していたわけではない』つまり、それは
『(対象者の、対象となる集団の)思い込みとして存在した』のです。
これを認めるのであれば、『真理として存在した』わけではないということも
認めるべきですよ(論の整合性・一貫性の問題です)。
>でしたら日蓮が根拠を求めなかったことを遺文から証明してください。
根拠の有無の問題です(それのみというわけではありません)。
根拠を求めようとしたことが問題なのではない。だから、何度も述べているように、
自分勝手な妄想の定義で相手を非難しても仕方ないでしょ。
客観的・合理的に過去を推測すれば、日蓮の教えというのは誤謬塗れで
『真理として存在した』わけではない。事実の問題ですよ。当時、日蓮や
その信奉者にとっては、その教えが『真理であるように思えた、そう思い込んだ』
つまり、対象者が真理であるかのように思い込んだ、その主観的な信念として
(それを遺文や手紙に記した)存在したのです。
だが、乾闥婆さんは『(過去に、当時は)真理として存在した』と主張している。
乾闥婆さんが対象者の主観性と、対照とすべき客観性を混同しているのは
明らかではないですか(まぁ、理解できないようですが・・・)。
『根拠を求め、ある主張に根拠があると思い込んだが、実は根拠足り得なかった』これも
過去を客観的・合理的に推測し(振り返り)、事実の問題としてどうであったのかという
話です。『対象者が根拠を求め』、それが実際に、本当に、客観的・合理的に根拠
足り得るのかが問題なのです。『その当時は、対象者にとって、その主張に根拠が
あるように思えた、そう思い込んだ』から、それが『当時のとある集団の共通認識として
形成されていた』から、だから、それが『当時の客観性だ』ということにはならない。
これも、明らかに主観性と客観性を混同している。
客観性とは、客観的であること、客観的とは、『個々の主観の恣意を離れて、
普遍妥当性をもっているさま』です。
『現代における客観性が、そのまま当時における客観性になるとでも思ってい
らっしゃるのですか?』(乾闥婆さんのレス
>>173)
乾闥婆さん、客観性とはそういうものです。『現代における』とか『当時における』
という時代精神に依らず、普遍妥当性をもって、どうなのかというのが客観性。
意味がわからなければ辞書で調べるとかなんとかしてくださいな。
>「社会通念があろうとなかろうと、真は真であり、偽は偽であろう、というのが
>私の主張です。」あなたは相変わらず<妄想>の乾闥婆と対話しているようですね。
論理の一貫性の問題ですよ。客観的事実の問題として真偽を問うわけで、これは
過去を振り返るにしても、必要になることです。過去の客観的事実、過去に日蓮という
人物は存在したのか?過去の人の頭の中に、想像・妄想として存在したのか?
前者が正解ですね。先に指摘した『過去に○○は存在した、○○として存在した』
というのも同じことですよ。
客観的・合理的に過去を振り返るなら『社会通念があろうとなかろうと、真は真であり、
偽は偽』なわけですよ。この点に同意できるなら、そういう立場だと言うなら、
その論を一貫させましょうよ。
『現代における客観性が、そのまま当時における客観性になるとでも思ってい
らっしゃるのですか?』(乾闥婆さんのレス
>>173)
そうなるから、『当時における社会通念があろうとなかろうと』なのです。
乾闥婆さんは、当時のある種の社会通念、ある集団が共有する信念を、当時における
客観性として扱ってしまっていますが、それは当時、ある集団における主観的な信念
内容ですよ。そのような恣意を離れたところに客観性というのはあるのです。
ですから、何度も何度もこちらが一貫して指摘しているように、明らかに、
乾闥婆さんは、客観性と主観性を混同してしまっている。
180 :
乾闥婆:2009/03/30(月) 02:14:15 ID:???
>◆Bwr5tJDUMcさん
>>176-179 「乾闥婆さんは、対象者の主観性をそのまま客観性に置き換えてしまっている。だから真
理ではないものを、真理としては存在しなかったものを、『真理として存在した』と述べて
しまうのです。」私は『真理として存在した』などとは一言も言っておりません。「『対象者
は主観的に、そう思い込んでいた』だが、『本当は、真理として存在していたわけではない』
つまり、それは『(対象者の、対象となる集団の)思い込みとして存在した』のです。これ
を認めるのであれば、『真理として存在した』わけではないということも認めるべきですよ
(論の整合性・一貫性の問題です)。」認めています。だから整合性も保たれているし一貫
性もあると言ってきましたが。「根拠を求めようとしたことが問題なのではない。だから、
何度も述べているように、自分勝手な妄想の定義で相手を非難しても仕方ないでしょ。」自
分勝手な定義ではありません。根拠によることは妄想ではないことの条件です。「客観的・
合理的に過去を推測すれば、日蓮の教えというのは誤謬塗れで『真理として存在した』わ
けではない。事実の問題ですよ。」だからそう言ってきましたよね。「だが、乾闥婆さんは
『(過去に、当時は)真理として存在した』と主張している。」していません。「乾闥婆さん
が対象者の主観性と、対照とすべき客観性を混同しているのは明らかではないですか(ま
ぁ、理解できないようですが・・・)。」混同していません。分からない人ですね。私が理
解できないのではなく、あなたが私を理解できていないのです。「それが『当時の客観性だ』
ということにはならない。これも、明らかに主観性と客観性を混同している。」これも違い
ますね。私は当時の「客観的な」(この言葉に語弊があるというのでしたら、間主観的な・
共同主観的な、といいましょうか)根拠は当時の根拠に過ぎず、それは現代の客観性・合
理性と符合しない、と言ってきました。このように区別しているのに混同しているといわ
れては、あなたは私の主張をまったく理解できていないといわざるを得ません。
181 :
乾闥婆:2009/03/30(月) 02:15:00 ID:???
(続き)
「『現代における』とか『当時における』という時代精神に依らず、普遍妥当性をもって、
どうなのかというのが客観性。」だから当時の人が現代人と同じ客観性に立てるということ
を証明してくださいと言っています。私は時代の制約によりその道は閉ざされていると言
っているのです。「客観的・合理的に過去を振り返るなら『社会通念があろうとなかろうと、
真は真であり、偽は偽』なわけですよ。この点に同意できるなら、そういう立場だと言う
なら、その論を一貫させましょうよ。」一貫させていますよ。私は一貫して日蓮は偽である
と言ってきました。「乾闥婆さんは、当時のある種の社会通念、ある集団が共有する信念を、
当時における客観性として扱ってしまっていますが、それは当時、ある集団における主観
的な信念内容ですよ。そのような恣意を離れたところに客観性というのはあるのです。で
すから、何度も何度もこちらが一貫して指摘しているように、明らかに、乾闥婆さんは、
客観性と主観性を混同してしまっている。」違いますね。当時の社会通念は、当時の思考の
枠組みとして当時の人間を強く拘束している。その思考の枠組みからは容易に抜け出すこ
とはできない。そのような状況下で「妄想」という言葉を使用するのは妥当ではない、と
言ってきたのです。だから科学的な客観性・合理性による真理に反する「根拠」が当時流
通しているのだとしても、それが社会的に通念として確立している「根拠」であるならば、
当時それに寄ったことを持って妄想ということは出来ない、と言っているのです。私は一
貫して「妄想」という言葉の機能の仕方について述べているに過ぎないのです。繰り返し
言ってきたように。だからまったく客観性と主観性の混同などしていないのですよ。私は
当時の人たちの主観性(共同主観性・間主観性)を、現代から見る客観性によって否定し
ているのですから。その上で、「妄想」という言葉の使用方法について述べているのです。
> ◆Bwr5tJDUMc
レスは短く端的に。
>>180-181 乾闥婆さん
> 私は当時の「客観的な」(この言葉に語弊があるというのでしたら、間主観的な・
> 共同主観的な、といいましょうか)
私も同様の趣旨でその用語を用いたことがありますから仰る意味は分かりますし、
この場合の用例としては概ね妥当だと思います(そう認めた上での反論も可能です)。
ただ、間主観性や共同主観性というのは、元々現象学から始まりカウンセリングなどにも
応用されている概念ですから、この流れで用いると、客観性についての議論と同様に、
用語の辞書的な意味や定義で揉める流れの繰り返しになりそうですね。
で、乾闥婆さんがそのスタンスを一貫させつつ、◆Bwr5tJDUMc氏に対して簡潔な反論を試みるのであれば、
「あなたこそ“事実”と“客観”を混同しているのではないか」と反駁するのが妥当ではないかと思います。
これはこれで、不毛な哲学的議論に踏み込んでしまうおそれがありますが、
全くの平行線に見える今の状態よりはある程度マシかもしれません。
春田みーっけ!
用件の前に、お邪魔いたします<(_ _)>
>>183 春田の蛙
あのね、長嶋スレの方にあんたのファン達が来ていてね、迷惑しているから引き取ってくれない?
ファン達が来るのはあんたのせいじゃないんだけどね、でも、居座るつもりでいるらしいから
ある意味ではその責任の一端を感じて欲しいあんたにお願いしているの。
こんなお願いの仕方だと来る気になれないと思うけど、もし来なかったらまたこのスレか東村山スレでもいいや、
あんたがいるところにお邪魔するハメになるから、出来るだけ早く来てね。
あ〜あと、1ヶ月くらい前に焼きスレにまた関係ないレスしたね。
それで私が東村山スレに行かなかったのを有難く思ってよね。次はないから。
逃げるならそれなりの態度を示してから逃げなさい。他人に言って自分ではしないってのはないでしょう。
・・・というわけでお願いします<(_ _)>
>>180 乾闥婆さん
>私は当時の「客観的な」(この言葉に語弊があるというのでしたら、間主観的な・
>共同主観的な、といいましょうか)
ですから、明らかに言葉の使用を間違っているではないですか。それは認識論における
主観性(或いは『主体性』)なのであって、客観性ではない。あくまでもそれは、
集団内における(集団の構成員の間に共通する)主観性の話です。
認識の対象となるものが自然(物)であったとしても、その認識自体は『人工物』
ですから、その意味において(全ては)主観性の問題であると言うこともできますが、
近似的に、或いは、実際的に、蓋然性の問題として、客観的世界を表したものなのか、
それとも『甚だ』主観的な内容の『単なる想像』にすぎないかの区別はできるわけです。
アナロジーとしてヴァーチャルリアリティーを例に挙げると、実在する自然物を
コンピューター上で再現することと、想像内容を再現することを主観性・客観性の
問題として区別するわけです。
仮に意味や価値の問題として歴史形成と社会形成は共時的(同時的)であるというに
留めるなら、『当時は、広く○○と思われていた』ということになります。自然観
として共通の地平の上に(或いは内に)現れるという考えを、自然物を対象としての
主客の問題にまで『極端な形で』踏み込むと、大いに問題ある極端な相対主義に
なってしまうのです。
『その対照される客観性・合理性が時代の制約を受けていると言っているのです。』
(乾闥婆さんのレス
>>157)
乾闥婆さんが言いたいのは『対象(誤変換ではありません)されるべきは、共同主観性
(そして、それは当然ながら時代精神の範疇・時代の制約を受ける)』ということ
でしょう。これを上記のように表現してしまうと、客観性を主観性に置き換えている
ことになるわけです。概ね、文字通りの意味でということになるでしょうし、
仮にアナロジーとしてでもその論を一貫させるとおかしなことになってしまいます。
とある集団内における主観性と、その中にいる個人の主観性との相対的な関係において
客観性というものが決まることになってしまう。しかし、これは言葉の定義・概念の
扱いとしてはおかしいのです。明らかに間違っている。
妄想の判別において、乾闥婆さんが論点としているのは、客観性ではなく、
集団とそこに所属する個人間の主観性の相対的な関係ですよ。そして、妄想の判別に
おいて、根拠の有無が重要になるわけですが、乾闥婆さんは根拠とはその相対的な
関係に依ると主張しています。そこが問題なのです。『結果として』共同主観性を
根拠(判断・推論などを成り立たせる拠り所)としても『上手くいく』場合が多いのは、
その信念内容に(近似的・実際的な)客観性を認めることができる場合が多いからです。
しかし、それを根拠としても『上手くいかない』場合もあるわけですよ。共同主観性の
内容が『(認識論的に)甚だ主観的であり、客観的には誤り』である場合など。また、
それを『対象』とせずに、対照される客観性・合理性の観点から認識を論じる
(認識論の問題として)ことで、共同主観性の内容が変化したり覆されることも
あるわけですよ。
『私は当時の人たちの主観性(共同主観性・間主観性)を、現代から見る客観性に
よって否定しているのですから。』(乾闥婆さんのレス
>>181参照)
乾闥婆さんの論を一貫させると、『当時の人達の共同主観性(その信念内容)を、
現代の乾闥婆さんが(恣意的に選ぶ?)集団における共同主観性によって否定
している』ということになってしまいますよ。根拠の問題として、乾闥婆さんは
共同主観性を対象とすべきだということを述べてますからね。しかし、どの集団、
どの共通認識、どの共同主観性を選ぶのか。同じ時代においても、自分が
所属しているか否かによらず文化は多様なのです。つまり、(好意的に受け止めるなら)
実際(的)には、恣意的に選んでいるのではなく、『当時の人達の(ある種の宗教的
内容の)共同主観性を、現代に生きる乾闥婆さんは、客観的・合理的観点から批判的に
見ている』ということになり、『現代の創価学会の(ある種の問題ある)共同主観性を、
乾闥婆さんは、客観的・合理的観点から批判的に見ている』ということになるでしょう。
たとえ現代において創価学会がどんどん大きくなって、その教えが幅を利かせた
としても・・・と(あくまでも論の一貫性の問題としてですよ)。仮に創価学会が
数の論理を掲げたとしても、創価信者に取り囲まれても、『その集団』の共通認識・
共同主観性を対象と『すべき』謂れなどないし、それが求めるべき根拠になるわけ
でもない。
私がこのことを強調しているのは、『逆に』創価信者に対して、創価批判、カルト
批判に際して、根拠の問題として数の論理を掲げることに賛同できないからです。
『時代精神を鑑みろ。現代の共同主観性・現代の共通認識に従え(或いは、従って
しかるべき)、求めるべき根拠はそれだ。』これはおかしい。たとえば、社会規範に
従う場合であっても、その背景にある客観性・合理性を重視してこその話では
ないでしょうか(あらゆる『価値』について客観的・合理的に厳密な判別基準が云々と
極端なことを言うつもりはありませんよ)。
何度も指摘しているように、根拠とは『判断・推論などを成り立たせる拠り所、
行動などの正当性を支える事実』のことです。『ある集団において、ある共通認識、
ある社会通念、ある共同主観性が形成されている』という事実を、根拠と混同
するべきではありません。
キリスト教原理主義が根強いアメリカにおいて、創造論・ID論こそ教育現場で教える
べきだ(或いは、進化論と『同等』にそれを扱うべきだ)ということが大きく問題と
なっていますが、乾闥婆さんの論に従うならば『進化論など妄想だ』ということに
なるでしょう。アメリカでは進化論を(正しい内容だと)信じている人は驚く程少ない。
そして、基本的に創造論と進化論は相容れないし、創造論(に類する)教えを
(正しい内容)と信じている人はとても多いのです。
妄想を子供達に科学理論として教えてもいいのか。仮に答えを否とするなら、
アメリカでは進化論を教育現場から退場させることになるでしょう。仮に、客観性・
合理性とはそういうものではないと、つまり信念内容、主張内容の客観性・合理性が
重要なのであり、それを対照とするべきだと言うなら、乾闥婆さんは客観性・合理性
という概念の扱いについて、或いは根拠の問題について大きな矛盾を抱えることに
なりますよ。別に進化論に限った話ではなく、科学の新発見は乾闥婆さんからすれば
ご自身も認めておられるように『妄想』になる(そうなりかねない)わけで、
ここでもまた、妄想でデーターベースを更新・訂正するのか、という問題について、
どう答えるつもりなのでしょうかね。『根拠がある』し、間違った判断をしている
わけでもないし、妄想でもないから科学の新発見なのですよ(もちろん、
その新発見もまた、誤り得るわけですが)。
この現代において、創価信者は(日蓮系の信者は)日蓮の教えに従う(それが本当に
日蓮の教えなのかという点で議論の余地は大いにありますが)。日蓮の教えには
根本的な部分において大きな誤謬を抱えている(他にも細部においてもいろいろ
問題がある)から、客観的・合理的な観点から、それを『正しい』ものとして
受け入れるわけにはいかないのです。まぁ、思う・思わないは自由ですよ。そして
『基本的には』内容に誤りがあろうと表現することも自由ですが。
乾闥婆さんは、この現代において、そういった教えを信じ込んでいる人達が抱く
信念を妄想と呼ぶこと自体に異論はないはずですよね?(この現代においては、
それは妄想ですよと、その点においては認めておられるはずです。)
しかし、乾闥婆さんは妄想の判別において、根拠の問題として『ある程度の規模の
集団の共通認識、共同主観性』を対象とすべきだとおっしゃる。そして『対照される』
客観性・合理性とは、そういった集団内に共有されている精神、或いは時代精神の
制約を受けると。
この論に従うのであれば、創価信者に対して『そんなのは妄想ですよ』と言うに際して、
乾闥婆さんは『現代の共通認識、共同主観性を対象としている』ことになります。
ここでも、乾闥婆さんの論に従うなら、それも現代という時代精神の制約を受けた
『対照される』客観性・合理性ということになるでしょう。
『その対照される客観性・合理性が時代の制約を受けていると言っているのです。』
(私の妄想ではなく、乾闥婆さんの実際のレス
>>157)
ところが、一方で、『だから科学的な客観性・合理性による真理に反する「根拠」が
当時流通しているのだとしても』(私の妄想ではなく、乾闥婆さんの実際のレス
>>181)
というような形で(これはあくまでも一例であり、その他にも多くの場面で)対照される
客観性・合理性の話をしておられる。ただし、乾闥婆さんは妄想の判別において、
(まぁ、特に科学が発達していない過去を振り返る際にということになるでしょう)
『その』客観性・合理性を持ち出すのは、歴史的事実の歪曲だとかなんだとか、
浅はかな非難だとかなんだとか、おかしなことをおっしゃる。
『ただの事実を歴史的文脈から切り離して現代のまな板に乗せ、そこへ現代の
認識による価値判断を加えるという歴史的事実の歪曲を行っている』
(私の妄想ではなく、乾闥婆さん前スレ
>>457)
『あなたは自分がこき下ろしたいと考えている人物をこき下ろすために都合よく
歴史的事実の検証過程を却下している。』(私の妄想ではなく乾闥婆さん前スレ
>>457)
『現代から見た客観性・合理性を有する真・偽判断基準は、当時の人たちに認識の
地平に現れてはいないのだから(念のため言い添えておきますが、それはそのような
真・偽が当時において存在しないといっているわけではありません)』
(私の妄想ではなく、乾闥婆さんの実際のレス
>>157)
時代精神、とある集団の共同主観性というような、主観の恣意を離れた客観性・合理性を
乾闥婆さんは(一部で)認めながらも、その観点から歴史を振り返ることは事実の歪曲
になるという非難を展開してしまっているわけですよ。『現代のまな板に乗せ』
というよりも、現代に生きる私達が『客観性・合理性のまな板に乗せ(これは主観の
恣意を離れた、公平な視点なのでは?)』蓋然性を重視して論を展開しているに
すぎません。客観的・合理的に過去を推測することが、歴史の歪曲を意味するわけでは
ありませんよ。
乾闥婆さんの論に従うなら、乾闥婆さん自身も『歴史的事実の歪曲を行っている』ことに
なるでしょう。先に紹介したように『だから科学的な客観性・合理性による真理に反する
「根拠」が当時流通しているのだとしても』と、乾闥婆さん自身も過去を振り返って
いるではありませんか。乾闥婆さんがわざわざ「」で根拠を囲んで強調しているのは、
それが誤りである(『本当は、客観的・合理的には』根拠として通用しない、
根拠とするにはおかしい)ことを、ご存知だからですよね。現代に生き、いろいろと
過去の人達が気付かなかった、知らなかった知識を学んだ、知識を得た乾闥婆さんが、
過去を振り返って、過去の人達が抱いていた信念について批判的に見ているわけですよ。
しかし、一方では、妄想の判別について根拠という概念が論点になると、
『その対照される客観性・合理性が時代の制約を受けている』(私の妄想ではなく、
乾闥婆さんの実際のレス
>>157)などと言い出す。この現代だって時代の流れの
一地点ですよ。そうなると、科学の客観性・合理性というものに時代を超えた
普遍性などないということになりますね(まぁ、『普遍性』と『可謬主義』は両立
し得るのかという点で哲学的な議論の余地はあるでしょうけれど)。
それはあくまでも、科学者間での(それを支持する人達も含めた集団内における)
共通認識・共同主観性にすぎないと。そんなものを持ち出して『だから科学的な客観性・
合理性による真理に反する「根拠」が当時流通しているのだとしても』などと、
過去の人が『根拠だと思い込んでいた、その信念』を『批判的に見る』ことこそ、
『現代の認識による価値判断を加えるという歴史的事実の歪曲』でしょう。
科学の客観性・合理性とは、そのような主観性に拠るものではないし、それを
対象としているわけでもない。対照されるべき客観性・合理性とはそんなものでは
ないのです。
実際には、乾闥婆さんは(好意的に受け止めるなら)過去を批判的に見るに際し
『科学的な客観性・合理性による真理に反する』ということを根拠としているはずです。
客観的・合理的に科学体系が(細部においては誤りがあるにせよ、体系として)とても
重要だからでしょ。客観的・合理的な観点からそう乾闥婆さんは判断しているのでは
ないのでしょうか(もちろん、社会的な、集団の影響力も受けつつですよ)。
それとも、そういった『科学的な客観性・合理性による真理』もまた、共同主観性に
『すぎない』のですか?(そうではないという方向での主張も含まれていますね。)
論が一貫していないのです。極端な相対主義が問題とされるのは、そういうことなのです。
そういった観点から極端な形で『科学を相対化』することの問題とは、私達が普段の
生活の中で普通に当たり前に妥当な方法として採用している認識論に対する非難です。
科学の強みの一つは、その基盤に『穏やかで、真っ当な』認識論があることですよ。
科学の証明、科学が提示する証拠とは、それを基盤に認められるものです。どんなに
圧倒的な量の証拠・証明があろうと、その基盤自体を非難するなら科学に客観的・
合理的な観点からの意味がないことになってしまう。そういう問題なのです。
乾闥婆さんが意図して、反科学的な姿勢を維持しているという意味ではありません。
当時の時代背景を鑑みれば、日蓮がどんなに努力したって何らかの強い『妄想
(私が言う意味での)』を抱くことになるじゃないか、それを非難することなど
どうしてできるんだ?現代に生きる私達の価値観を押し付けて、当時の情報量として
圧倒的に不利な時代を生きた人達が抱いた信念を『妄想』と蔑むなど、何様の
つもりなのだ?とでもいったところなのでしょう(ニュアンスとしてですよ)。
気持ちしてはわからないでもないのですが、根拠という概念や客観性という概念に
ついてあまりにも酷い混同をしたまま、そのような感情論で相手を非難しても
仕方ないでしょうと、こちらは指摘しているのです。まぁ、感情論などではないと
言い張るのでしょうし、そうなってくると、その論を一貫させた場合は、反科学的な
姿勢ということにもなりかねないですよと(まぁ、ご理解いただけないのでしょう)。
以上です。
195 :
乾闥婆:2009/03/31(火) 02:53:12 ID:???
>◆Bwr5tJDUMcさん
>>185-194 「ですから、明らかに言葉の使用を間違っているではないですか。それは認識論における
主観性(或いは『主体性』)なのであって、客観性ではない。あくまでもそれは、集団内に
おける(集団の構成員の間に共通する)主観性の話です。」例えばです、私は科学的な客観
性・合理性を事実判断基準とする現代社会の文化的枠組みを特別視する、といいましたが、
実際に私がある種の実験や研究を行って、何らかの科学的事実を証明したわけではなく(私
は科学者ではありませんので)、では、どうしてそのような文化的枠組みを特別視するのか、
といえば、それはもちろん中世的な言説よりも説得力を持って受け入れられるということ
もあるのですが、それ以上に(というよりも説得力を感じえる土台として)そのような科
学における客観性・合理性への信頼感が共同主観的に形成されている社会に生きているか
らといえるでしょう。科学者ではない多くの人たちにおける科学に対する信頼とは、多く
はその共同主観性の形成されている社会に生きていることが土台となっているはずです。
そうでなければ、すべての人間が科学者かそれに準ずる者にならなければならなくなりま
すからね。その意味で、我々一般人が実際に感じ取ることができる「客観性」とは、かな
り密接に共同主観性に依存しているといえるでしょう。もちろん、そのような共同主観を
超えて自然科学上の真理はあるのであり、私たちはそのような自然科学上の真理への観念
があるゆえにあなたの言うところの可謬主義に立つことができるのです。つまり新しい事
実が発見・証明されたときにそれまでの考えを訂正することが容易なわけです。確かに私
の表現は紛らわしかったとは思いますが、その前後の文章や論旨の展開から言って、例え
ば中世日本社会における経典の真理性などは当時そのように思われていても、それは偽で
あると再三に渡って言ってきているわけですから、その「真理」という表現が、当時にお
いて「も」真理であるとは、私は考えていないことが容易に読み取れるはずです。だから
私は何度もそこを見落とさないように言ってきたのです。
196 :
乾闥婆:2009/03/31(火) 02:53:51 ID:???
(続き)
「乾闥婆さんが言いたいのは『対象(誤変換ではありません)されるべきは、共同主観性
(そして、それは当然ながら時代精神の範疇・時代の制約を受ける)』ということでしょう。
これを上記のように表現してしまうと、客観性を主観性に置き換えていることになるわけ
です。」なるほど。私が「その対照される客観性・合理性が時代の制約を受けていると言っ
ているのです」と言ったのは、時代状況によって科学的な客観性・合理性が変質する、と
いうことを言いたいのではなく、その受容や理解が阻害される、ということを言っている
のですが。客観性を主観性に置き換えているのではなく、客観性の認識・受容の様態が時
代状況によって変動するといっているのです。客観性の認識・受容がその当時の共同主観
性に大きく左右されるということです。「妄想の判別において、根拠の有無が重要になるわ
けですが、乾闥婆さんは根拠とはその相対的な関係に依ると主張しています。そこが問題
なのです。」まさしくそこがこの議論の争点です。私は妄想という言葉はただの事実を述べ
る言葉ではなく相手を非難する言葉であると考えています。ですので、その言葉を用いる
場合は相手にそれ相応の落ち度がなければ妥当しないと考えています。妄想という言葉の
定義に「根拠のない」という限定がつくのは(当時社会的に流通している)根拠に寄った
場合は、その根拠が間違っていたとしてもそこに当人の落ち度を認められず、その言葉の
使用に制限がかかる、さらに根拠に寄った人間はその根拠が誤っていたことが証明されれ
ばその主張を取り下げうることが期待できる、と考えられるからではないでしょうか。
197 :
乾闥婆:2009/03/31(火) 02:55:08 ID:???
(続き)
「乾闥婆さんの論を一貫させると、『当時の人達の共同主観性(その信念内容)を、現代の
乾闥婆さんが(恣意的に選ぶ?)集団における共同主観性によって否定している』という
ことになってしまいますよ。根拠の問題として、乾闥婆さんは共同主観性を対象とすべき
だということを述べてますからね。」私が寄っている共同主観とは科学的事実判断を有する
文化的枠組みということになりますが、それは恣意的に選びうるようなものではありませ
ん。私はそのような社会に生まれ育ったのですから。根拠の問題に関して私は「共同主観
性を対象とすべき」といっていると解するべきではないでしょう。根拠は客観性・合理性
を有するものであるべきだと私は考えていますし、それは共同主観を越えるものだとも考
えています。ただ、共同主観の様態によってそれらの客観性・合理性の追求は変動を受け、
それらを感受する知性は制約を受けてしまうといってきたのです。「共同主観性を対象とす
べきだ」ではなく「共同主観性によって多くの制約をこうむってしまう」ということです。
「私がこのことを強調しているのは、『逆に』創価信者に対して、創価批判、カルト批判に
際して、根拠の問題として数の論理を掲げることに賛同できないからです。」例えば近代以
降の仏教学の知識が、仏教学内において大勢を占めるのであれば、それを躊躇する必要は
ないように思いますけれども。科学的な客観性・合理性を有する根拠が数字の上でも多く
の支持を受けうるということは現代社会のすぐれた点であると考えます。「乾闥婆さんの論
に従うならば『進化論など妄想だ』ということになるでしょう。」まったく逆です。「創造
論など妄想だ」となります。「科学の新発見は乾闥婆さんからすればご自身も認めておられ
るように『妄想』になる(そうなりかねない)わけで、ここでもまた、妄想でデーターベ
ースを更新・訂正するのか、という問題について、どう答えるつもりなのでしょうかね。」
科学の新発見が妄想と非難されることは現代社会においてはあまりないのでは。当然、現
代においてデーターベースは更新され続けていくことでしょう。そこに私は何の問題も感
じませんが。あまりに当たり前のことですが、現代は中世ではありません。
198 :
乾闥婆:2009/03/31(火) 02:56:38 ID:???
(続き)
「時代精神、とある集団の共同主観性というような、主観の恣意を離れた客観性・合理性
を乾闥婆さんは(一部で)認めながらも、その観点から歴史を振り返ることは事実の歪曲
になるという非難を展開してしまっているわけですよ。」それは違いますね。私自身が現代
の科学的事実判断を有する文化的枠組みに対照して日蓮を偽と言っているのですから。私
が言っているのは妄想という言葉の使用に妥当性がないということですよ。法律ヲタさん
に対してはかなり頭ごなしにひどい言葉を投げつけたと反省していますが、そこに私が感
じ取ったのは、日蓮は間違っているがその根拠を探る態度に当事としてどれだけの落ち度
があって「妄想糞坊主」と罵るのか、という点です。ただ単に日蓮は間違っているという
のであれば私も同意していますので何も言いませんでしたよ。「過去の人達が気付かなかっ
た、知らなかった知識を学んだ、知識を得た乾闥婆さんが、過去を振り返って、過去の人
達が抱いていた信念について批判的に見ているわけですよ。」そうですよ。しかし、私はそ
れを持って日蓮が妄想を抱いたとは言わないわけです。私がそこで言っている歴史的事実
とは、現代人と同じ知識を日蓮は入手できないという事実です。「一方では、妄想の判別に
ついて根拠という概念が論点になると、『その対照される客観性・合理性が時代の制約を受
けている』などと言い出す。」妄想という言葉を使用することに対する批判だからです。誤
謬というだけであるならば、そのような主張はわざわざしなかったでしょうね。日蓮が間
違っているのは事実なのですから。
199 :
乾闥婆:2009/03/31(火) 02:59:01 ID:???
(続き)
「共通認識・共同主観性にすぎないと。そんなものを持ち出して『だから科学的な客観性・
合理性による真理に反する「根拠」が当時流通しているのだとしても』などと、過去の人
が『根拠だと思い込んでいた、その信念』を『批判的に見る』ことこそ、『現代の認識によ
る価値判断を加えるという歴史的事実の歪曲』でしょう。」そんなことはないでしょう。た
だの事実ですよ。あなたはおそらく相対主義の自己論駁性を言いたいのでしょうね。しか
し私は相対主義者ではないので的外れですね。「そういった観点から極端な形で『科学を相
対化』することの問題とは、私達が普段の生活の中で普通に当たり前に妥当な方法として
採用している認識論に対する非難です。」そして私はそのような非難はしていないわけです。
私は「普段の生活の中で普通に当たり前に妥当な方法として採用している認識論」によっ
て生きてきましたし、これからもそうでしょう。何度も言いましたが、今回の議論で私が
問題としているのは、妄想という言葉の使用方法です。「日蓮がどんなに努力したって何ら
かの強い『妄想(私が言う意味での)』を抱くことになるじゃないか、それを非難すること
などどうしてできるんだ?」私はそれを単に誤謬と呼べばいいといってきたのですね。最
初からずっと。それが妥当だと。この長い長い議論は、それだけのことなのですよ。「根拠
という概念や客観性という概念についてあまりにも酷い混同をしたまま、そのような感情
論で相手を非難しても仕方ないでしょうと、こちらは指摘しているのです。」言葉の使用が
曖昧だった点と、法律ヲタさんに対する頭ごなしな非難いついては反省いたします。「(ま
ぁ、ご理解いただけないのでしょう)。」そう思われるのでしたら、お書きにならないほう
がいいでしょうね。私はあなたに理解してもらえるという信念を持って書いています。も
し、そのような思いがないのなら、書きませんね。
>>185 >ですから、明らかに言葉の使用を間違っているではないですか。それは認識論における
>主観性(或いは『主体性』)なのであって、客観性ではない。あくまでもそれは、
>集団内における(集団の構成員の間に共通する)主観性の話です。
↑ダウト。
http://phanomemo.blog.so-net.ne.jp/2007-02-16 >【自己客観化】
>
>「自己主観」も同一生活世界の中で「他者」と同様に「1個の主観」であり、対象化、相対化された主観である。間主観は、そういうことを理解している主観である。
>「客観」「客観性」というのは、経験的なものの間主観性と、概念・理念・自我構造の共通性によって支えられている。
↑とりあえず、簡潔にまとまって説明されているリンク先からの引用を示しましたが、
“間主観性”という用語について、◆Bwr5tJDUMc氏のように解説するのはあまり一般的ではありませんね。
>近似的に、或いは、実際的に、蓋然性の問題として、客観的世界を表したものなのか、
>それとも『甚だ』主観的な内容の『単なる想像』にすぎないかの区別はできるわけです。
そのような区別も一つの見解ではあり、誠に穏当で素人目に分かり易い説明ではありますが、
全てがそれで済むのだったら現象学のような小難しい理屈をこねまわす必要は無かったし、
そのような不必要な学問が“中世ではなく現代社会の”“一定以上の自然科学の素養を持ち、
その価値を認めている”人々に注目され、現在のように発展することも無かった訳です。
>>200続き
で、間主観性や共同主観性という言葉を好んで使用する側からすれば、
>>185のような説明は
“事実”――もしくは真理や真実と言ってもよいでしょうが――それそのものと、“客観性”を混同しているのでは?という話になるでしょうね。
このような見解も、“この現代社会において”相応の説得力を備え、認められている一つの考え方です。
このような考え方に対して批判的な立場をとるのはもちろん自由ですし、納得出来ない部分に反論を試みるのも自由ですが、
乾闥婆さんに対して「明らかに言葉の使用を間違っている」と指摘するのは、それこそ不当な思い上がりです。
◆Bwr5tJDUMc氏の立場からすれば、“間主観性”は「客観性ではない」「主観性の話」だ。
何故ならそれはこれこれの理由で区別出来るから、というだけの話でしょう。
しかしながら、それは議論の単純な整理としては一つの妥当な解釈ではありますが、
別に唯一正しいと言えるような解釈や解説ではありません。よって、そのような解釈を根拠に、
相手を「明らかに言葉の使用を間違っている」と決めつけるのは“間違っています”。
>>195 乾闥婆さん
>確かに私
>の表現は紛らわしかったとは思いますが、その前後の文章や論旨の展開から言って、例え
>ば中世日本社会における経典の真理性などは当時そのように思われていても、それは偽で
>あると再三に渡って言ってきているわけですから、その「真理」という表現が、当時にお
>いて「も」真理であるとは、私は考えていないことが容易に読み取れるはずです。だから
>私は何度もそこを見落とさないように言ってきたのです。
見落としてなどいませんよ。表現が紛らわしかったとしても、それだけなら私はいちいち
揚げ足を取るような形で、客観性という概念がどうこうと反論しようとは思わないし、
今まで似たような表現も多く見てきましたが、そんな場面でいちいち反論したりは
していません。しかし、今回、乾闥婆さんは紛らわしいどころではない問題ある主張を
展開している。『論の一貫性』の問題として私はそれを指摘しているのです。ほんの
ちょっぴり語弊があるような・・・程度ではない内容だったから指摘したのです。
再度、後述します。
>時代状況によって科学的な客観性・合理性が変質する、ということを言いたいのでは
>なく、その受容や理解が阻害される、ということを言っているのですが。客観性を
>主観性に置き換えているのではなく、客観性の認識・受容の様態が時代状況によって
>変動するといっているのです。
そのことに特に異論はありません。それは科学の発展、つまり歴史形成や社会形成に
深く関係することですから。しかし、対照される客観性は、客観に依るのです
(だからこそ客観性なわけです)。そして合理性もまた客観に依る(合理性の場合は、
客観性とは異なり、やや危うい議論を展開するはめになるでしょうけれど、ともかく)
これは多くの人が哲学議論(心理学的立場の問題も当然含まれますが)を持ち出し
ああだのこうだのと大騒ぎになっても致し方ない側面があるとは思います(しかし、
その内容が妥当だと言えるかどうかは大いに疑問ですがね)。いかに間主観性
という概念を持ち出そうと、客観・客観性という概念の扱いについて、客観に依らず、
主観性に拠るという議論は(或いは強くそれを意味する主張、表現を『多用』する)、
認識論の危機なのです。『対照される』客観性が時代精神に左右されたりは
しないのです。
客観『性』を『支える』のは、主観(性)ですよ(ですから、わざわざ哲学議論において
一般的な認識論を視野に入れた論を展開しようとすれば『近似的』とか『実際的』という
言葉で謂わば『不毛な哲学議論はお断り』と趣旨を示すことになるわけですが、
それはともかく)人の意識とは何ものかについての意識なわけで、この再帰的な問題を
厳密な意味で解決できない以上、認識が『人工物』である以上、或いはヒュームの窮状
(徹底的な懐疑論)を論駁・反駁できない以上、やはり、私達は『生の』『そのままの』
客観を知ることなどできないのではないかということは認めなければならない
(反証可能性で有名なポパーは蓋然性という概念の扱いについて、ある意味では
ヒュームに屈している)しかしながら、そこで徹底的な懐疑論に対処するために、
主観に拠るとすると、今度は独我論の扉が開きます。カントが両方に嘆いていたのは
有名な話です。一般的に(ここでいう一般とは、科学の現場も含む)私達は、客観自体を
認めながらも(意識外の世界とでもいいましょうか)それを志向する意識の存在自体も
認める必要がある。だから私は、きっとあなたも、自分のことを『私』と呼ぶわけです。
そうであるからこそ『主体性』としての『間主観性』の議論にも意味があることに
なるわけです(まぁ、こういったことを理解できないで、わけもわからず突っかかって
くる人もいますが、それはともかく)ここで重要になるのは『客観(主観に現れるもの
という一般的な意味ではなく、より厳密な意味での生の世界)』は主観に依らない
という考えを採用するのが『最良』だという大・大前提です。これを無視しても別に
かまいませんし、それは自由ではありますが、まずもって、そのような立場から
『まともな』議論を展開することなどできないでしょう。伊達にヒュームの議論が人類の
窮状と呼ばれているわけではないし、その窮状を前にしながらも科学の営みが脈々と
続けられているのも伊達ではないわけですよ(まぁ、だからこそ科学体系が重要に
なるわけです)。
私が、乾闥婆さんの主張に関して『致命的』だと思ったのは、何度も引用している
(直接的には)法律ヲタさんに向けられた前スレの
>>457です。他にも、まだまだ語弊が
ある程度の問題ではないと既に何度も指摘している部分とも合わせて考察すれば、
今回のように妥当で穏やかな内容も一部に含まれてはいますが、それを打ち消して
余りある程の矛盾や『明らかな』間違いがあると私は判断しました。歴史的文脈
(『穏やかな』、妥当な相対的なものの見方)を重視すること自体に私は異論は
ありません。そして、今回のレスで、乾闥婆さんが表現を大きく変えて、趣旨の
説明をしておられる部分には(客観性の扱いについては)概ね(細部はともかく、
ひとまずは)異論はありません。
>私は妄想という言葉はただの事実を述べる言葉ではなく相手を非難する言葉であると
>考えています。ですので、その言葉を用いる場合は相手にそれ相応の落ち度がなければ
>妥当しないと考えています。
『落ち度』や、『誤った判断』というものが(具体的な内容で)論点になってくる
でしょうね。失敗・過ち・不注意・怠慢。曖昧な言い方になりますが、簡単に言えば
『ちょっと間違った』程度のことを(その程度の信念を)妄想というのは言い過ぎだと
私も思いますよ。そういう場合は、容易に信念内容を訂正することでしょう。
(これは以前から何度も認める趣旨のレスをしています。)
ですから、争点になるのは、具体的に日蓮の場合どうなのか、ですね。
>妄想という言葉の定義に「根拠のない」という限定が
>つくのは(当時社会的に流通している)根拠に寄った場合は、その根拠が間違っていた
>としてもそこに当人の落ち度を認められず、その言葉の使用に制限がかかる、さらに
>根拠に寄った人間はその根拠が誤っていたことが証明されればその主張を取り下げうる
>ことが期待できる、と考えられるからではないでしょうか。
『証明』という部分が微妙ではありますが、『概ね』同意ですよ。
『〜得る(可能世界)』の問題として不毛な哲学議論を展開する気がないなら、
(哲学議論の全てが不毛という意味ではありません)一般的な話として、日蓮は
誤りに気付き『得る』状況に何度も出くわしていたはずです。
その一例が病と呪文についてです。
その当時においても、呪文を唱えたところで別の要因で運よく治ることはあるにせよ、
多くは病が消滅するどころか、悪化したりお亡くなりになったことでしょう。鎌倉時代
ですから、今では比較的簡単に治るような病気でも大病だったり、不治の病だった
わけですからね。別の要因で運よく、ことごとく病が治った・消滅したなんてことが
あったと推測するわけにはいきません(この点については、既に同意を得ている
はずです)。
そこで、日蓮は、たとえば『らい病(現代では概ねハンセン病と言いますね)』は、
らい菌が末梢神経細胞に寄生することで発症することに『気付くべきだった』という
ようなことではなく、呪文の効果・効力に大きな疑問を持っても『おかしくはない
(なかった)』わけです。これは病に限った話ではなく、そういう状況・場面と
何度も何度も対峙していたはずなのです。『法華経の名前唱えても、ダメじゃん。
ダメなこといっぱいいっぱいあるじゃん、病が消滅なんてしてないよ』と。
だってそれが(当時においても)現実ですよ。これは、とても素朴な内容ですが、
客観性・合理性を対照としているわけです。(現世利益的な『内容』で)呪文を
唱えたらなんとかなるなどと、余りにも安易です(まぁ、現代においても
日蓮信奉者は、難信難解でどうのこうのと、安易なんかじゃないと、いろいろ
反論を試みるでしょうけれどね)。失敗・過ち・不注意・怠慢。ともかく『落ち度』が
なかったというわけにはいかないでしょう。
失敗や不注意を招きやすい時代精神・時代背景だったのです。だから、少なくとも
私は、『その点においては(つまり、オカルト的というとてもとても広い観点
からすれば)』特に日蓮は『異常』だったとは思いません。(誤解がないように
再度『その点においては』と強調しておきます。)その広い・大きな観点からすれば、
当時は、とても多くの人が妄想を抱いていたというだけのことです。失敗・不注意・
過ちが蔓延していた、現代よりも、互いが互いにそれを強化し合った、そういう
時代だった、それだけのことですよ。当時においても多様な主張・論争はあった
でしょう。なんでも鵜呑みにしてしまう人達ばかりというわけではない。
つまり、疑問を持ち得る、おかしいと気付く機会はいろいろとあったはずだという
ことですよ。そして、その当時の人は皆『脳の器質的な問題として著しく知的機能が
劣る』とか当時の人は皆『精神病』という話をしているわけではないし、そういった
方向で不当に当時の人を蔑んでいるわけでもありません。
このことについて乾闥婆さんの論法で、日蓮を擁護(?)するのはとても困難だと
思います。何度も指摘していることですが、日蓮はその鎌倉社会に大きく警鐘を
鳴らした人なのですよ。『こんなことじゃ国が滅びるぞ!』と。インパクトが
あったかどうかなど関係なく(それは論点を摩り替えることになる)当時のある種の
社会通念を日蓮は堂々と否定しているではないですか。他に広まっていた宗派に
対しての姿勢など、そもそも『(当時社会的に流通している)根拠に寄った場合は』
などと、ご都合主義もいいところでしょ。そうなると、当時の価値観・当時の時代精神と
日蓮の主観性を相対的に見比べて、どっちに『落ち度』があったのか、一部、強く強く
『(当時社会的に流通している)根拠に依らない』日蓮に、『その当時、落ち度が
あった』その部分においては『当時における、妄想を抱いていた』ということに
なるはずですよ、論の一貫性を保つならの話ですが(もっとも、私はその意味での
妄想云々ということには賛同しかねます)。
>ただ、共同主観の様態によってそれらの客観性・合理性の追求は変動を受け、
>それらを感受する知性は制約を受けてしまうといってきたのです。「共同主観性を対象とす
>べきだ」ではなく「共同主観性によって多くの制約をこうむってしまう」ということです。
私は現代のカルト批判において、信者の『責任』という別の観点から似たような方向の
ことを言いたくなる衝動によく駆られます(もっとも、それはまた別の議論になりますが、
それはともかく)その論法は、現代のカルト信者に関しても言えることなのです。
過去の歴史が云々では済まない。『感受する知性は制約を受けてしまう』ということに
私は大いに同意するところです。それを謂わば『悪用』するのがカルトではないですか。
それを論点にしてしまうと、(つまり私が主観性に置き換えるべきではないと何度も
強調して指摘しているのは)現代においてもカルト信者が抱く妄想を妄想と呼べなく
なってしまう(重要なのは、それが根拠の問題としてということです)。
『共同主観の様態、知性への制約を対象』とすれば、アナロジーとして他の主観性を
問題とした制約をも認めざるを得ないでしょう。これは論の一貫性の問題です。
ですから、『対照されるべき』は客観性・合理性なのだと、主観性ではないと
私は何度も強調しているのです。これはカルト批判において、とても大切なことだと
私は考えています。時に、共同主観を『対象とする』ことも有益ですよ(そのこと
自体を全否定したりはしません)。
乾闥婆さんの論法では、カルトの教えに信ずるに足る根拠があるという方向に強く
踏み込んでしまいます(論を一貫させればの話ですよ)。数の論理だと指摘しているのも
同じことです。数の論理が問題視される一方で、実際に政治の場で強く活用されたりも
するのは(或いは、カルトが好んで使用するのは)、その論理・その状況に『感受する
知性は制約を受けてしまう』からです。そもそも人はそういう傾向を持っている。
それを根拠にするわけにはいかない(もっとも、だからといって人は簡単にそういった
傾向を乗り越えることなどできないわけで、なおのこと私はカルトが悪質だと感じます。
まぁ、感想ですがね。)『傾向として』制約を受けているからこそ、根拠足り得ない
側面が大きいともいえます。
>>201 >何故ならそれはこれこれの理由で区別出来るから、というだけの話でしょう。
おい、ダブスタの知ったか野郎。オマエいいかげんにしろよ。
それ『だけ』の話じゃないんだよ。『〜というだけ』などとのたまうぐらいなんで、
もちろん、それに唯一限定されると言えるような解釈や解説(それって証明だろ)を
提示してくれるんだよな。しょうもない難癖つけやがって。すっこんでろ。
あ〜ぁ〜、とうとう◆Bwr5tJDUMc氏まで敵に回しちゃったよ、春田の野郎は。
んでもって、長嶋にいるお前のファン達のことは無視ってことねw
しょーがないから、お前には頼まないよ(溜息)
・・・にしても敵が多いねぇ〜お前はw
そんな中で2chに居て楽しいのかい?まぁ、私のしったこっちゃないけどねw
お前のファン達の言動があまりにも酷かったらまたここに来るからね。じゃあね〜☆
>>211 >それ『だけ』の話じゃないんだよ。『〜というだけ』などとのたまうぐらいなんで、
>もちろん、それに唯一限定されると言えるような解釈や解説(それって証明だろ)を
>提示してくれるんだよな。
やれやれ……自説の「唯一性」を否定されたら、「じゃあ唯一と呼べるものを提示してみせろ」と
難癖を付ける。それではバリ創価が教義の唯一性を否定された時に、「創価とは別の
唯一正しいといえる教義を見せてみろ」と議論をすりかえるのと同レベルですよ。
創価学会の唯一性を否定するのに、他の唯一性を持ってくる必要はありません。
それをやるのでは、日蓮正宗や顕正会等と同じ態度になってしまいます。
現代の仏教学の見地から創価学会の唯一性を否定することが、その誤りの指摘にも繋がるように、
「間主観性」という用語についての、一般的・専門的な解説と◆Bwr5tJDUMc氏の私見(
>>185)とのズレを
指摘することが、その唯一性を否定し結果的に誤りを指摘することに繋がった、というだけのことです。
>おい、ダブスタの知ったか野郎。オマエいいかげんにしろよ。
>しょうもない難癖つけやがって。すっこんでろ。
そうやってみっともない逆ギレをする前に、自分が書いた乾闥婆さんへの指摘(
>>185)が
“実は間違っていないか”どうかを、一度謙虚な気持ちで調べてみましょう。
これは乾闥婆さんや、この議論に興味を持ってご覧になっている方々にも勧めます。
◆Bwr5tJDUMc氏や私のような、無知な素人の書いた文章を読み比べて、
どちらが正しいかをウンウン考えるというのはある意味時間の無駄です。それより
一般的・専門的な解説はどうなっているかを、自分で調べてみたほうが早いですよ。(笑)
そうすれば(
>>204などの反論も含めて)◆Bwr5tJDUMc氏の私見が本人が言い張るほどに正しいのか、それとも
横から口出しした私の指摘がより適切な内容なのかは、自ずから明らかになるでしょう。単にそれだけの話です。
一応、
>>204についても簡単には指摘しておきましょうか。
要は、これは不毛な哲学的議論を嫌っているように見せかけながら、実際には
自分の物差しに合わない見解を「不毛な意見だからこの場では取るに足らない」と誘導するために、
自ら不毛な哲学的議論を持ち出して対立する見解をそこに当てはめてみせる、議論のテクニックの一つです。
しかし、間主観性といった考えについては
>>204のような方向へ議論を拡大させることこそが
実は不毛なのであって、
>>195のように現実的な、地に足の着いた内容で間主観性について
論ずることは十分に可能ですし、このスレでのやりとりにも適しています。
それを
>>204のような方向に拡大すれば、話についてこれる人は少なくなりますからね。
……あとこれも一応言っておきますが、私は今回の件での乾闥婆さんの主張や議論態度が適切だったとは、
これっぽっちも考えていません。それは前スレから私も批判してきた通りです。
しかし、少なくとも間主観性や共同主観性についての乾闥婆さんの議論は、
細部はともかく概ねにおいて問題はありません。そこを揚げ足取っても仕方ないでしょうね。
>>213 オマエが以前からダブスタで『解釈の問題』を持ち出し、こちらが『科学的』事実に
解釈は含まれるという『当たり前の』論を展開していることに対して、非難をして
きたのだろうが。しかも、今回もまた、唯一性がどうこうと、オマエこそ創価信者の
やり方と同じだろ。そんなことを言うなら、その論を一貫させて、その唯一性とやらを
オマエ自身が提示したその難癖に従い示してみろということだ。話を摩り替えるな。
だからダブスタなんだよ。
心的用語・心的イディオム、信念に関しても同様だ。自然観に関して目的論が
根強いのは、そもそも志向という特徴を『心』が持っているからであって、
これは意識の再帰的問題そのものでもあり、意味や価値についての議論において
志向を語ること自体は特におかしなことではない。しかし、無知・無学なオマエは
知ったかで志向を語るかぎりはどうこうと、ど素人以下の難癖をつけていたのだ。
一般的・専門的な解説として認識論において共同主観性や間主観性というのは主体性の
問題としても語られる。共通性を重視し、集団を主体とするからこそ共同なのであり、
主客の区別もまた再帰的問題を抱えているからこそ間(主観)ということになる。
しかも、オマエが『〜だけ』と述べていること『だけ』ではないことは既に何度も
示してある。オマエが恣意的にそういうことにしたい『だけ』なのだろようよ。
逆ギレしてんのはオマエだろうが。
>春田の蛙
あれま〜、これは◆Bwr5tJDUMc氏と完全に敵対同士になったな。
ホントに敵を作るのが好きな奴だ。見ていてうっとおしくなってくるな。
で?◆Bwr5tJDUMc氏にレスすることによって、また私に対しても無視を決め込むぞ、といった態度を
とっているわけだ。
男なら男らしく正々堂々と議論しろよ!
お前は照るに似ていて女々しくて仕方がない。
自分から振った喧嘩に少しでも反論されたら逃げる姿勢をどうにかしたら?
別スレで、ある女子高生が論破されたら逃げ、ほとぼりが冷めたら戻ってくるってことを
やらかしているらしいが、その女子高生ってお前の成りすましじゃないの?w
お前の言動にそっくりだわwつまり、成りすましじゃなくてもお前は女子高生レベルのことをしているってこと!
それを認めるなら無視してくれても構わないし、認めたくないなら反論の1つでもしてみろ!
◆Bwr5tJDUMc氏とのやりとり面白そうだから、しばらく見ているわw
>◆Bwr5tJDUMcさん
おかえりなさい。
自分勝手な掲示板の主にアク禁にされて大変でしたね。お気の毒です。
私はあなたを支持致します。春田のような悪に負けてはいけません。
ここでのあなた方のやり取りは私には難しすぎてわかりませんが、いつも応援致しております<(_ _)>
>>214 『そして、今回のレスで、乾闥婆さんが表現を大きく変えて、趣旨の説明をしておられる
部分には(客観性の扱いについては)概ね(細部はともかく、ひとまずは)異論は
ありません。』と、こちらは認めてんだよ。揚げ足とってるわけないということに
関しても既に説明済みだ。それを無視して、『要は、これは不毛な哲学的議論を
嫌っているように見せかけながら、実際には自分の物差しに合わない見解を
「不毛な意見だからこの場では取るに足らない」と誘導するために、自ら不毛な
哲学的議論を持ち出して対立する見解をそこに当てはめてみせる、議論のテクニックの
一つです。』などと印象操作してんじゃねぇよ。
>>216 sewさん
>ここでのあなた方のやり取りは私には難しすぎてわかりませんが、いつも応援致しております<(_ _)>
ひょっとすると私が内容において、とんでもないことを言いまくっているかも
しれないではないですか。『◆Bwr5tJDUMcのような悪』というのが、あるいは正しいの
かもしれませんしね。だって何を言ってるのか、今ひとつわからないってそうこと
でしょ。ですから、主張内容がよくわからないのに支持するとか応援するというのは、
いろいろ問題があるように思います。
さあ、盛り上がってきました〜。
みんな敵同士!!
>>218 ◆Bwr5tJDUMcさん
すみません、感情的になってあなたのことを応援すると書いていました。今もたぶん感情的になっていると思います。。。
確かに仰るとおりですね。ですが、その主張が正しい間違っている以前に、
ご自分の主張を通して頂きたいと、自分が信じている・真実だと思っているご意見を通して欲しいと考えております。
それは春田に対しても同じですが、私はあなたのことをその上で応援すると言っているのです。
もし、相手の理論に納得したのならそれも有りですが、もしそうでないのなら、ご自分の意思をはっきりと貫いて欲しいと思っております。
私は哲学に関して素人以下ですが、それでも(たとえ問題があったとしても)あなたのことを応援しております。
これはある意味では妄信に近いものかもしれませんが、春田に敵対する者同士ならば、その同士を応援します。
ですが、これは今現在からず〜っと未来に渡るものではなく、「今は」という意味ですので。
春田との議論が終わればもしかしたら、応援することはなくなると思います。
でも、陰ながら応援していますよ。
>>220の訂正
xその同士を応援します。
○その同志を応援します。
失礼致しました<(_ _)>
>>220 sewさん
>ですが、その主張が正しい間違っている以前に、ご自分の主張を通して頂きたいと、
>自分が信じている・真実だと思っているご意見を通して欲しいと考えております。
sewさん、一般論として、漠然と『自分を信じる』『自信を持とう』というような
ことなら私は賛成できますが、それでもやっぱり、『その主張が正しい間違っている』
ということの判断(疑い出せばきりがないにせよ、ある程度の懐疑・自省)は、
とても大切だと私は思っています。
>これはある意味では妄信に近いものかもしれませんが、春田に敵対する者同士ならば、
>その同士を応援します。
残念ながら、それはおっしゃるように『妄信に近い』ように思いますし、或いは、
政治的というか、戦略的な問題ですよね。『敵の敵はひとまず味方』みたいな。
私はそういう観点から、sewさんと『同盟』を結んでとか、主張内容に賛同できるか
否かを措いて応援するといったようなことには反対なのです。
創価信者が、とりあえず(謂わば盲目的に)『同士擁護』にはしるのと似ているように
思えるのです。利害関係とか、まぁ、仲間意識とか、敵だとか、そういったことも
いろいろ気になるでしょうけれど、やはり、わからないことはわからないと、
わかることがあれば(内容としての真偽や正誤)それを基に、支持や応援をと、
そういう風に考えてもらえたらと願います。
同士ではなくて、同志ですね。私も変換ミスしています。失礼しました。
>>222 ◆Bwr5tJDUMcさん
私はあなたに加勢して春田に攻撃をしたいというのではありません。
それに、哲学的なものに対してその主張が正しい・間違っているというものは存在するのでしょうか?
その真実は自分の中にあるものだと私は思っております。
>『敵の敵はひとまず味方』みたいな。
私はあなたが春田にアク禁を受けた時からあなたの側の人間になったつもりでいます。
ですので、『敵の敵はひとまず味方』のような考え方はしていませんし、そうかと言って同盟を結ぼうとも思っておりません。
まぁ、私のことはあなたには空気程度の存在に思って頂ければ充分です。
今されている高度な議論に私はついていけませんし、恥ずかしい話ですが何がわからないのかもわかっていません。
私が願っているのは、あなたが春田の主張に流されずご自分の主張を貫くことです。
>>224 sewさん
>それに、哲学的なものに対してその主張が正しい・間違っているというものは存在するのでしょうか?
>その真実は自分の中にあるものだと私は思っております。
『真実は自分の中にある』というのが詩的表現といいますが、そういうものであれば
共感しますよ。そして、哲学的議論の真偽・正誤を厳密に判別できない、つまり対する
主張を根本的には、厳密には反駁・論駁できないこともよくありますよ。あんまり、
それを強力に推し進めると、懐疑論の扉が大きく開いちゃいますけどね。
>ですので、『敵の敵はひとまず味方』のような考え方はしていませんし、そうかと言って同盟を結ぼうとも思っておりません。
そうですか。支持するなら、『この主張の、この部分には同意できる』といった
感じで、支持して頂けたらと、私は思います(内容がわからない場合は、わからないから
支持も反対もひとまず差し控えるとか、まぁ、そんな感じです)。
>>225 ◆Bwr5tJDUMcさん
>(内容がわからない場合は、わからないから
>支持も反対もひとまず差し控えるとか、まぁ、そんな感じです)
そのようにします。
ひとまずわかるところがあれば言いますが(わかるところがあればですけど・・・)、
今は静観していようと思います。
春田に言いたいことは山程ありますが、春田がそれを聞いてくれない限りは話にならないので、
ひとまず静観しています。
あらら……まぁ喧嘩腰のやりとりはひとまず置いておいて、
口を挟んだ行き掛かり上、一応の議論の整理はしておこうかと思います。
http://www.23ch.info/test/read.cgi/koumei/1228826188/538 さて、乾闥婆さん。あなたは前スレで↑のような疑問を述べられていますね。
いつか解説しようと思っていたので、丁度良い機会ですから準備していた内容の一部を以下に述べておきます。
乾闥婆さんの疑問は、Wikipediaの以下の部分についてでしょう(改行は引用者)。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%A9%E3%83%80%E3%82%A4%E3%83%A0 >最大公約数的に言うと、パラダイムは“時代の思考を決める大きな枠組み”などと解されていることが多いが、
>これは誤った(拡大解釈しすぎた)理解であり、そのような“大風呂敷を広げて”いる概念ではないことに
>まず注意しなければならない。 クーンは自然科学に対してパラダイムの概念を考えたのであり、
>社会科学にはパラダイムの概念は適応できないと発言している。
何故、↑このように言えるのか。色々とややこしい議論はあるのですがそれらをさっぴいて端的に述べますと、
クーンによれば異なるパラダイムは共約不可能ではあっても、評価可能なものだからです。
たとえば、「アリストテレスの世界観」と「ニュートン力学」では、自然科学としての“問題解決能力”が高いのはどちらでしょうか?
また、「ニュートン力学」と「相対性理論」をこのように比べたら、どちらが優れているでしょうか?
↑このような判断は、それぞれのパラダイムの中身をきちんと理解していなくとも
(私たち素人にも)比較的容易に行えるということが分かると思います。
>>227続き
“理解していなくとも”――まぁ、この場に物理がご専門の方がいらした場合、
「自分は理解して比べてるぞ」と主張なさるかもしれませんね。けれども、そういう方だって
「アリストテレスの世界観」というパラダイムについては、本当のところ、
きちんと理解していないのではありませんか? むしろ、現代物理学の専門的な素養があるが故に、アリストテレスが
“本当は何を言っているのか”の理解が妨げられることになると思います(つまり共約不可能なのです)。
パラダイム同士は、互いに共約不可能です。しかしこのことは、パラダイム同士を比較したり
評価することが不可能である、という意味ではない。これがまず、よく誤解されている部分です。
さて、このように自然科学の分野においては、パラダイムの優劣も比較的容易に評価が可能な訳ですが、
これを拡大したらどうなるでしょうか? たとえば「日本社会」と「アメリカ社会」ではどちらの問題解決能力が上か。
こんな問いには、ニュートン力学と相対性理論を比べるようには、答えることが不可能ですね。
ですから、先に引用したWikipediaの記述のように言われているのですよ。
>>228続き
で、ここからが乾闥婆さんと◆Bwr5tJDUMc氏の行き違いに関係してきます。つまり、客観性ということについての両者の違いです。
簡単に言いますと、自然科学について考えるなら◆Bwr5tJDUMc氏の解釈のほうがやや適切になるのですよ。
これには、おそらく乾闥婆さんも異論はないと思います。つまるところ、客観性とは「そうあるべきだ」という話ですから。
しかしパラダイムの話と同様に、これを現実生活に拡大するとそう上手くはいきません。
現実の問題としては私たち一般人にとって、客観性とは
>>195の通りです。
専門家や科学者であっても、実際にはそういう側面があります。
そして――これが重要なことなのですが、客観性が私たちの現実の生活上そのようにあるからといって、
自己を客観視することが出来ない訳ではないし、個人や集団の主観的な誤りから
抜け出せない訳でもないということです(むしろ間主観性とはそのための概念です)。
現に乾闥婆さんも、客観性をそのように捉えた上で、日蓮の誤りからも創価学会の誤りからも抜け出し、
その誤りを指摘することが出来ているはずです(全てにおいて完璧に、ではないかもしれませんが)。
ですから、「〜であるべき」という価値判断を抜きに「現実に客観性とはどのようなものか」を分析するには、
乾闥婆さんの解釈のほうがやや適切ということになります。実際の生活上は、客観性とはそのようなものであるからです。
にも関わらず、乾闥婆さんの主張の一部分を見落としたまま、「それではこういう問題が起きる(はず)」
と決めつけているのが、◆Bwr5tJDUMc氏の主張の問題点ではないでしょうか。
230 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/03/31(火) 23:43:29 ID:AkJr1AL6
おいヲタ!
ROMってるだけじゃダメだぞ
今こそチッチャィ自分を変えるチャンスだ
今こそリアルで男になれるチャンスだ
ほとぼりがさめた頃に顔を出すような臆病ものにならぬよう今こそ立ち上がれ
>>227 春田の蛙
その喧嘩腰の状況にしたのはどこの馬鹿だっけねぇ。
やっぱ逃げるんだな。まったく最低な野郎だ!
自分から喧嘩売っといて相手がその気になったら逃げる。
お前のような女々しい奴は創価は勿論、アンチにとっても邪魔だろうな。
こんなところででしゃばってないで、自分の巣(焼きスレ)に帰れ!
232 :
法律ヲタ ◆8PR9uxYCzw :2009/04/01(水) 01:40:11 ID:PiFRhra1
>>230 オイオイ、俺のモノの方が、御前のモノよりも「チッチャィ」とでも言うつもりなのか?
>230よ。 “汝自身を知れ。” (w
233 :
法律ヲタ ◆8PR9uxYCzw :2009/04/01(水) 01:42:13 ID:PiFRhra1
>>228-229 春田の蛙さん
もしかすると、私のこのような考え方・立場こそ疑問を呈されることになるのかもしれませんけれど、
実は私としては、今問題とされている(間主観性・共同主観性といったことを含め)客観・主観等の
問題(以外の問題でも原則的には同じなのですが)について、例えばドイツ観念論だとか現象学
その他といったような哲学的深みにはまっていっても、我々の前に存在する現実の問題の解決に
資するところ少なく、無駄が多いだけだと思っております。
私としてはそのような立場からも、お二人が無用に争うことなきよう望むものでありますが、まァ
おそらくは、残念ながらそう簡単に対立を解消できるものではなくなっているのかもしれません。
しかし、仮にそうであっても、議論をするに際しても、何のために何を今問題としなければならないかは
忘れないでいただきたいものだと思います。
これは、春田の蛙さんのみに望むことではなく、◆Bwr5tJDUMcさんに対してももちろん同様です。
234 :
法律ヲタ ◆8PR9uxYCzw :2009/04/01(水) 01:46:23 ID:PiFRhra1
>乾闥婆さん
ここしばらくで乾闥婆さんがお書きになった内容について私としても述べたい事が様々あったのですが、
都合でそれも儘ならないでおりまして、今回もそのすべてに触れることはできませんけれど、少しだけ
述べさせていただきます。
乾闥婆さんはレス>198で『私が言っているのは妄想という言葉の使用に妥当性がないということですよ。
法律ヲタさんに対してはかなり頭ごなしにひどい言葉を投げつけたと反省していますが、そこに私が
感じ取ったのは、日蓮は間違っているがその根拠を探る態度に当事としてどれだけの落ち度があって
「妄想糞坊主」と罵るのか、という点です。ただ単に日蓮は間違っているというのであれば私も同意して
いますので何も言いませんでしたよ。』とおっしゃっています。
235 :
法律ヲタ ◆8PR9uxYCzw :2009/04/01(水) 01:48:57 ID:PiFRhra1
(レス>234の続き)
しかし、「糞坊主」という点はともかくとしても、「妄想」であるかどうかという点に関しては当人である
日蓮の「落ち度」は直接的には関係のない問題にすぎない、と考えるべきだと私は思っております。
それは、「妄想」の典型と言えよう精神的疾患による場合を考察すれば理解できるものと思います。
精神疾患による場合は、病気は仏罰とでも言ったような‘妄想’に従うなら別でしょうけれど、当人に
「落ち度」があるからその誤った認識・意識が「妄想」とされるわけではないのであって、そもそも
その場合に(通常は)当人に落ち度など存在しないのですよ。
つまり「妄想」という概念は、当人のその誤った認識・意識を生ずる原因・理由としての「落ち度」と
いった事とは関係なく存在しうるものなのです。
それ故に、以前、日蓮を私が“妄想糞坊主”と言う場合について、“妄想”は事実の問題であって、
“糞坊主”は私の日蓮に対する評価だという趣旨のことを述べたのです。
236 :
法律ヲタ ◆8PR9uxYCzw :2009/04/01(水) 01:53:49 ID:PiFRhra1
(レス>235の続き)
そして、「落ち度」を問題とすることから出発しているという「妄想」に関する乾闥婆さんの考察・分析
の方法や論理の体系といったものは、前に私が出したガリレオの地動説の例でも分かるように、
結局のところ出発点で当初から抱えた問題を解決できずに現実の分析・把握において破綻をきたす
結果しか生じ得ないものとなってしまっているのです。
思うに、「落ち度」とは一種の“責任”を問題とするものでしょうけれど、おそらくそれは、「妄想」概念の
段階ではなくて“糞坊主”なる評価の段階で扱う方がより問題が少ないのではなかろうかと考えますが、
しかし、仮にそこで問題とされたとしても、“大聖人”なる日蓮評価に対するアンチテーゼとして
出している“糞坊主”という評価を引きこめる気はなく更に反論させていただくだけです。
(これで一応終わります。)
>>233 法律ヲタさん
>例えばドイツ観念論だとか現象学
>その他といったような哲学的深みにはまっていっても、我々の前に存在する現実の問題の解決に
>資するところ少なく、無駄が多いだけだと思っております。
レスを延々そういう方向に持っていっているのは現状◆Bwr5tJDUMc氏の側であり、乾闥婆さんは
>>180からここまでを読む限り
“間主観性”や“共同主観”についてはそのような不毛な哲学的議論を避け、スレに合った
現実的な範囲での、一般にも分かり易い穏当な主張をなさっていますよ。
にも関わらず、あなたがそのようなレスをなさること自体、私が
>>214に指摘した手法が効を奏している証です。
印象や先入観に惑わされず、一連のあるいは個々のレスに実際に何が書いてあるのかを
きちんと読むことが、不要な対立を避け適切に問題点を指摘するために、最も有効なあり方でしょう。
>>237続き
>議論をするに際しても、何のために何を今問題としなければならないかは
>忘れないでいただきたいものだと思います。
>これは、春田の蛙さんのみに望むことではなく、◆Bwr5tJDUMcさんに対してももちろん同様です。
であれば、罵倒を私に向けた◆Bwr5tJDUMc氏の側をこそ、先にいさめるべきでしょうね。
むろん相手によっては、いつまでも丁寧にばかりは応じていられないのであって、
時に手厳しい内容のレスで相手に応じることがあるのは私も法律ヲタさんも同じです。
しかし
>>211のようなレスが、あの場合適切だと、あなたは思いますか?
私はそれでも、このスレにはふさわしくないと考えて、あのような売り言葉による喧嘩を同じ態度で買ってはいません。
>>233のように望まれるのであればまず最初にいさめるべき相手を、あなたは間違えています。
また、すべての場合にそうあるべきとは、私は無論思ってはいませんが、
しかし基本としては、スレを荒らすようなやり方に対してはスルーが原則です。
おかしな工作行為などに対してであれば、私も指摘することがありますが、
◆Bwr5tJDUMc氏の場合はたぶん以前にも乾闥婆さんに対するのと似たようなやり方で
延々掲示板を荒らし、私からアク禁になったことを逆恨みして感情的になっているだけでしょう。
それ以上の裏や悪意があるとも思えませんから、強いて喧嘩を買う必要もありません。
彼の罵詈雑言に対しては、現状スルーするのが適切であると考えています。
周りを見れば、敵ばかり。
by 桑田真澄
あぁ〜、完璧に◆Bwr5tJDUMc氏のレスもスルーかよ。人間の屑だな、春田は。
きっと反論できなくなったからレスしなくなったんだろうな。
私に対してもそうだろ?私に対して何も反論しないということは、
自分の過ちを認めたってことにも繋がるのかな?
まぁ、どうでもいいけどさ、春田よ、今後誰かの印象操作とか嘘吐くのとか勘弁してくれよな?
それと、私は無視してくれても一向に構わないんだけど、◆Bwr5tJDUMc氏との決着はちゃんと着けるように。
自分から喧嘩振っといて逃げるなんておかしいからね?人間として間違った行動をしているのよ、あんたは。
>>240のレスは全面的に却下致します。
春田が私にとって嬉しい事をしてくれたし、まさかあのスレに来てくれるとは思ってなかったもので。
ごめんなさい。春田の蛙には心よりお詫び申し上げます<(_ _)>
春田の蛙が病んでいると思われるピック病の症状
自制力低下(粗暴、短絡、相手の話は聞かずに一方的にしゃべる)、感情鈍麻、異常行動(浪費、過食・異食、
何でも口に入れる、収集、窃盗、徘徊、他人の家に勝手にあがる)などがあり、人格は変わり(無欲・無関心)、
感情の荒廃が高度で、特に対人的態度が特異である。たとえば、人を無視した態度、診察に対して非協力、
不真面目な態度、ひねくれた態度、人を馬鹿にした態度などで、病識はない。(←ここ重要)
その他、会話中に同じ内容の言葉を繰り返す滞続言語。
春田の蛙の悪循環
まず創価アンチ問わずスレ内で優位な人物に擦り寄る
↓
かじりつきの知識に妄想を増大して意味不明の連続長文
↓
当然叩かれる
↓
論点を擦り替えて反論しつつ強引にマウントを取ろうとする
↓
大概破綻した理論のためあっさり切替えされ火傷
↓
遁走して他スレに移動
↓
以降同様の繰り返し
自分が人間の屑である事に気付かず相手をよく屑扱いし、
知らぬ間に敵を量産している間抜けな蛙さんです!
今後とも可愛がってやって下さい!
244 :
乾闥婆:2009/04/01(水) 23:59:01 ID:???
>◆Bwr5tJDUMcさん
>>202-210 「『対照される』客観性が時代精神に左右されたりはしないのです。」そこを私は客観性そ
のものが時代精神に左右されるというのではなく、その客観性の受容の様態が左右される
といってきたのですね。対照するには対照される客観性が対照する側の認識にしっかりと
映っていなければならないということです。そうでなければ対照自体ができない。当時の
人たちの視点に立った場合、そのような対照はできないであろうというのが私の主張です。
「ここで重要になるのは『客観(主観に現れるものという一般的な意味ではなく、より厳
密な意味での生の世界)』は主観に依らないという考えを採用するのが『最良』だという大・
大前提です。」私もそのように考えています。「『落ち度』や、『誤った判断』というものが
(具体的な内容で)論点になってくるでしょうね。」「ですから、争点になるのは、具体的
に日蓮の場合どうなのか、ですね。」そのとおりです。では、いよいよ本題に入りましょう。
245 :
乾闥婆:2009/04/01(水) 23:59:57 ID:???
「日蓮は、たとえば『らい病(現代では概ねハンセン病と言いますね)』は、らい菌が末梢
神経細胞に寄生することで発症することに『気付くべきだった』というようなことではな
く、呪文の効果・効力に大きな疑問を持っても『おかしくはない(なかった)』わけです。」
では病気や死をめぐっての当時の認識を具体的に見て行きましょう。まず、当時の世界観
において大きな前提となっているのは「輪廻」です。三世に渡って、人間は生死を繰り返
してゆく、という考え方で、その生まれ変わりに当たっては「業」という概念が密接に関
わってきます。因果応報ですね。人間は死しても自分の生前の行いによって生じた業を背
負って転生してゆくという考え方です。このような考え方が当時の病気やそれによる死を
考える上での大前提となります。そういう時代だったということです。ではそのような世
界観の中で日蓮はどのように考えたのでしょうか。日蓮自身も晩年は病に苦しめられます。
そしてやがては死を迎えるわけです。日蓮はその弟子である四条金吾から投薬治療を受け
ています。良薬によりよくなったと感謝の手紙も書いています。当時そのような施薬の技
術があり、それを日蓮が受け入れるということは、題目を唱えれば病気が治るという単純
な構図を日蓮が是としていたわけではないということでしょう。おそらくそれらは日蓮に
おいても共存可能な事項だったはずです。むしろ良薬に出会える、そのような薬を調合す
る技量のある人物と縁することができることを、法華経を護持してきたことの「功徳」で
あると考えていたのでしょう。それを推察できる遺文を引用します。「将た又日蓮が下痢去
年十二月三十日事起り、今年六月三日・四日、日々に度をまし月々に倍増す。定業かと存
する処に貴辺の良薬服してより已来、日々月々に減じて今百分の一となれり。しらず、教
主釈尊の入りかわりまいらせて日蓮を扶け給ふか。地涌の菩薩の妙法蓮華経の良薬をさづ
け給へるかと疑ひ候なり」(中務左衛門尉殿御返事)。
246 :
乾闥婆:2009/04/02(木) 00:00:45 ID:???
この中で興味深いのは「定業」という言葉でしょう。定業とは当時の世界観を形成する輪
廻や業といった概念をより定式化したものですが、すなわち因果応報によって、苦楽の果
報を受けることが決定している業因を言います。そして、その業を受ける時期というもの
も順現法受業(現世において果報を受ける)、順次生受業(次の世において果報を受ける)、
順後次受業(第三世以降において果報を受ける)と決まっています。これは日蓮のオリジ
ナルではありません。当時の死生観とはそのようなものだったということです。現世にお
いて病に倒れるのであれば、それはそのような定業であるのでしょう。日蓮はそのような
時代の思考の枠組みの中で生きていましたので、自分の病を「定業かと存する処に」と思
い定める瞬間もあったということですね。また信心の果報を受けるのも、現世ではなく、
来世かもしれない。今受けている苦は実は前世の業によりもっと重い苦であったところが、
信心により軽く済んでいるのかもしれない(転重軽受の法門)などなど、当時の世界観を
ベースにすれば、どのようにも言うこともできるのです。当時におけるこれらの概念状況
に鑑みるに、当時の人間が置かれていた世界観の中で、現代の客観性・合理性に基づいた、
現象から推察しうる事実・またはそれ準ずるような事実の把握をすることは、不可能であ
ったと私は考えます。そのような状況に置かれている人間に、客観性・合理性に基づいた
現象から推察しうる事実の把握ができていないと、その落ち度をあなたは責め立てるので
しょうか。また、当時どれだけの人間がそのような思考の枠組みを破って、病と死は業や
信心と関係がないということを類推できたというのでしょうか。ましてやそのような見解
が当時の共同主観を得ることができるでしょうか。何か具体例を提示できるでしょうか。
247 :
乾闥婆:2009/04/02(木) 00:01:40 ID:???
あなたが
>>121「しかしながら、日蓮はその時代精神を否定していたのではないのですか?」
と言われたから、では当時の時代精神とはなんなのか、となるわけです。それをあなたは
そもそも明示していない。例えば浄土や禅といった専一性を伴った宗教が鎌倉期に登場し
てくるわけですが、それは「ひとつの」時代精神なのではないでしょうか。また
>>159 に
て私はそのような「ひとつの」時代精神に触れながら、なおかつ旧来の顕密体制の隆盛に
ついても触れたわけです。それもまた「ひとつの」時代精神でしょう。念仏は他の修行を
聖道門として退けます。それは末法思想がベースとなった社会において、次第に勢力を伸
ばしてゆくわけですが、それを従来の仏教教団は弾圧します。どちらが当時の時代精神と
呼ばれるものなのでしょうか。私はどちらもその時代を体現した精神活動であろうと思い
ます。日蓮とて同じことです。彼の専一性は先行する浄土をむしろ模倣するようなあり方
であったろうし、その護国的主張は逆にそれら新興宗教とは違った、旧来の保守的な教団
のあり方を先鋭化したものであったろうと思います(以前にも書きましたとおり日蓮は保
守反動であると私は思っています)。あなたのいう時代精神の否定とはなんなのか、よく分
かりませんが、私には日蓮は時代精神を体現しているものの一人と見えますね。だから時
代精神を否定しているというような印象がもてないのでそう書いたわけです。それを「そ
れは論点を摩り替えることになる」といわれても何をどう摩り替えているのか、よく分か
りません。そもそもあなたの言われている時代精神がなんなのかすら分かりません。
248 :
乾闥婆:2009/04/02(木) 00:02:52 ID:???
「他に広まっていた宗派に対しての姿勢など、そもそも『(当時社会的に流通している)根
拠に寄った場合は』などと、ご都合主義もいいところでしょ。」このような私に対する非難
もよく分かりませんね。各宗派は法論をしたわけですよ。その法論をするにあたっての根
拠となるデーターベースは様々な経・論だったわけです。別に日蓮だけが経・論に寄った
わけではありません。各種の経典・論書はそのように当時の知識階級では議論をする上で
の共通のデーターベースだったわけです。それに日蓮も依拠したし、他の僧侶も依拠した
のです。そのことのどこがご都合主義なのでしょうか。まったく理解できません。「そうな
ると、当時の価値観・当時の時代精神と日蓮の主観性を相対的に見比べて、どっちに『落
ち度』があったのか、一部、強く強く『(当時社会的に流通している)根拠に依らない』日
蓮に、『その当時、落ち度があった』その部分においては『当時における、妄想を抱いてい
た』ということになるはずですよ、論の一貫性を保つならの話ですが」これも意味が分か
りません。どちらに落ち度があったのか、というとき、日蓮に対比されている相手とは誰
のことでしょうか。その相手は、どのような宗派の人間で、膨大な一切経・論を根拠とし
てどのような教義を主張していたのでしょうか。そして日蓮とはどのような法論対決を行
ったのでしょうか。そのときに根拠として参照された経・論は日蓮と同じものであります。
つまり二人は同じ公理系の中にいるはずです。でしたら、その中で存分に議論を戦わせて
勝敗を決すればいいだけのことですよ。私が言っている「落ち度」とは当時の僧侶の誰も
が依拠する経典が事実として釈迦一代の説法ではなく、そこに描かれていることも事実で
はない、という真実を、知りえない時代状況の中で、その経典を根拠とすることを「落ち
度」と呼べるのか、ということを言っているのですが。
まだ続きがありますが、連続投稿規制が解除しましたらアップします。
>◆Bwr5tJDUMc氏の場合はたぶん以前にも乾闥婆さんに対するのと似たようなやり方で
>延々掲示板を荒らし、私からアク禁になったことを逆恨みして感情的になっているだけでしょう。
wwwwwwwwwwwwwwwwwwww
読んでもらうって事を意識しないで書いた長文なんて自慰行為以外の何物でもない
Bwrや乾闥婆はその典型だな
初めて読んだ時は縦読みするのかと勘繰ってしまった
>>250 読む人は読む、
読まない人は読まない。
簡単に言えば、
読まない人は別に来なくても良いと言うスレだここは。
そして空気すら読めずに、
ひょっこり顔を出す場でもないのだよ。
ついでに言えば、
その程度の煽りで内容が変わる場所でもないってこった。
話に加わりたければ、
頑張って読むことから始める事だな。
更についでに言うが、
(もうこれは蛇足だ)
敵の敵は味方ではない。
味方のいない団体もいるってことも理解した方が良い。
スレ汚し失礼しました。
俺は全然スレを読んでいないので、
このあたりで失礼します。
254 :
乾闥婆:2009/04/02(木) 01:50:22 ID:???
「その論法は、現代のカルト信者に関しても言えることなのです。過去の歴史が云々では
済まない。『感受する知性は制約を受けてしまう』ということに私は大いに同意するところ
です。それを謂わば『悪用』するのがカルトではないですか。それを論点にしてしまうと、
(つまり私が主観性に置き換えるべきではないと何度も強調して指摘しているのは)現代
においてもカルト信者が抱く妄想を妄想と呼べなくなってしまう(重要なのは、それが根
拠の問題としてということです)。」ところが私はそれを妄想と呼びます。私は現代におい
ては、中世社会と違って、科学的客観性・合理性に対する信頼という共同主観が成立して
おり、そのような背景の中で生きている人間は、実際的に「客観性」というものを感じ取
る条件が整っているのであり、それにもかかわらず、非客観的・非合理的主張を繰り返し、
それらを「事実の経験や論理によって」説得しても容易に訂正することがないのであれば、
それは妄想といってよいでしょう。そこには客観的・合理的事実を知りうる条件が整って
いるにもかかわらず、それを直視しようとしないという「落ち度」がその人間に見出しう
るからです。まさに、そのような人間にこそ、妄想、という言葉は用いられるのです。で
すので、「乾闥婆さんの論法では、カルトの教えに信ずるに足る根拠があるという方向に強
く踏み込んでしまいます(論を一貫させればの話ですよ)。」ということにはなりません。
私の論を一貫させれば、私は現代人における「落ち度」を見出しうる以上は、彼らの根拠
を信じるに足る根拠であると考えることはありえず、妄想であるといいます。
255 :
乾闥婆:2009/04/02(木) 01:51:43 ID:???
>>227-229 春田の蛙さん
パラダイムの説明、論点の整理、ありがとうございます。
>>235-236 法律ヲタさん
「しかし、「糞坊主」という点はともかくとしても、「妄想」であるかどうかという点に関し
ては当人である日蓮の「落ち度」は直接的には関係のない問題にすぎない、と考えるべきだ
と私は思っております。それは、「妄想」の典型と言えよう精神的疾患による場合を考察す
れば理解できるものと思います。精神疾患による場合は、病気は仏罰とでも言ったような‘妄
想’に従うなら別でしょうけれど、当人に「落ち度」があるからその誤った認識・意識が「妄想」
とされるわけではないのであって、そもそもその場合に(通常は)当人に落ち度など存在
しないのですよ。」
以前
>>32にてあなたは各種辞書を引いたとして「典型例としては病気に基づく場合なの
だとしても、そのような場合に限るとするのは今日の日本語の理解として少し狭すぎるの
ではなかろうかと思います。(以前から私自身そのように考えており、レス>442の“嘘”と“妄
想”の差異などは、自分としてはそれを明確に意識して説明しました。)」と主張されていま
すね。まったく逆のことを言われているようですが。
>>250 Bwrはそうだと思うけれど、乾闥婆のレスは非常に分かりやすい。
>>237-238 春田の蛙さん
レスが遅れてしまって申し訳ございません。
この前はいつもより遅くまで書き込んだせいか、翌日はやはり寝坊してしまい、その後できるだけ早く
書き込もうとは思っていたのですが、なかなか思うように行きませんでした。
昨夜など帰ってきた時刻は書き込むに問題なかったのですが、我が家では、布団に入らずとも私が
眠り込んでしまった場合そのまま毛布などを掛けて寝続けさせてくれるようになっているのですが、
ここのところ疲れているせいか、少し横になったらその通りに寝込んでしまって…。
ところで、もっとも適切に「スレに合った現実的な範囲での、一般にも分かり易い穏当な主張」を
しているのは私だと密かに自負するところでありますが…(春田の蛙さんのレス>237を参照のこと)、
と言う半分ほどの冗談はともかくとして、レス>233が春田の蛙さんに対してレスをする形になったのは、
お二人のうち直近でレスをされていたのが春田の蛙さんであったからに他ならず、他意はありません。
ただ、「であれば、罵倒を私に向けた◆Bwr5tJDUMc氏の側をこそ、先にいさめるべきでしょうね。」
という事が、責任は◆Bwr5tJDUMc氏にあるのだという事を意味するのであれば、おそらく、私が
それについて賛否いずれであっても何らかの発言をするのは、お二人の間の問題を更に大きくする
だけであろうと思っております。
それは、もともとの議論において、御両者共に自分の見解が正当なものとして譲る気などない程に
自信をお持ちだからであって、レス>233だけの問題では済まないからです。
(レス>257の続き)
しかし、そうではあっても、◆Bwr5tJDUMc氏のレス>211自体は、おっしゃるように問題でしょう。
◆Bwr5tJDUMc氏にとってあのように言いたくなる事実が背後に存在しているとしても、確かに、
あのレス自体は妥当・穏当な表現とは言えないと思います。
しかし、それに遡って原因が存在する以上、レス>211だけを見て問題としたところで、お二人の間の
問題が終局的に解決するどころか火に油を注ぐようなものでしかありません。
それに先行する春田の蛙さんのレスを見ていて、まずい結果を引き起こさなければよいがと、私は
危惧を抱いておりました。
それは第三者として見ていて、春田の蛙さんの意図がどのようなものであれ、これまでの経緯から
考えてそのような問題状況を誘発する可能性のあるレスと感じざるを得ないものだったのです。
そして、もちろんこのような事は、御両者にとって延々と遡って問題となってしまうだけのはずです。
つまりこのような問題においては、春田の蛙さんにとって相手方の行為を問題とする原因・理由が
存するように、相手方たる◆Bwr5tJDUMcさんにとっても原因・理由が存するわけであって、
これまでの経緯の中の或る一点を問題としたところで無意味に近いと言わざるを得ません。
一点ではなく、全体を問題としたとしても同様でしょう。
結局のところ実際には、どちらにどのような問題があろうとも、それについて第三者を含めた誰が
どちらの責任を問うことも、根本的な問題解決という観点からはマイナスとなる結果しか生じえない
であろうと、残念ながら私にはそのようにしか思えないのです。
(レス>258の続き)
こうした問題状況の中で他に事態を好転させうるどのような方途があるのか、非常に悩むところです。
私としては、春田の蛙さんが御自分には問題がなく冷静に対応しているとお考えになるのなら、
更に冷静に一歩引いていただけないかと、御無理を承知の上でお願いする次第です。
具体的には、今後、お二人がお互いを問題視しないで済むようになるまで、自分のハンドルを使って
相手に関するレスをしないようにするしかないのではないでしょうか。
もし、双方共に相手に関する内容を含むレスをしたければ、一切ハンドルは使わず名無しで行う
という事にせざるを得ないでしょう。(と言うより、御両者双方ともに、相手方に対するレスは
一切しないようにしていただくしか、ともかく当面採りうる道は他にないのかも知れません。
本当に残念なことですが…。)
>>255 乾闥婆さん
問題となさっている点について、私は論理一貫したことしか述べていないつもりであって、
乾闥婆さんのおっしゃっている事が理解できないのですが、「逆のこと」とは何の事なのか
御面倒ですがより具体的に指摘していただけないでしょうか。
>春田の蛙さんが御自分には問題がなく冷静に対応しているとお考えになるのなら、
これ、強烈な嫌みだなw。
>私としては、春田の蛙さんが御自分には問題がなく冷静に対応しているとお考えになるのなら、
>更に冷静に一歩引いていただけないかと、御無理を承知の上でお願いする次第です。
↑
同じことですね。
↓
>しょうもない難癖つけやがって。すっこんでろ。
>>251-253 このスレを全然読んでないテメェには何も聞いてねえのにしゃしゃり出てくるんじゃねえよ
長文、不親切な改行、連続投稿の三拍子揃ったレス群を読んでると目が疲れるんだよ
読んでない奴には分からないんだろうがな
>>256 内容はな
文章の形式の問題だったんだよ
そもそも持論を押し付けるだけで、オナ長文を貼り付けるしか能のない、
バカ蛙とアホwと議論なんて論外というものであって時間の無駄だろ?w
必死こいてるインチキ弁護士による裁判官ごっこも笑えるのだがw
>>257-259 臆病ものなどと煽って法律ヲタさんに口出しを勧めた荒らしは、今ごろほくそ笑んでいる
事でしょうね……。こんな筋道の通らないレスは、法律ヲタさんらしくないなぁと思います。
>ところで、もっとも適切に「スレに合った現実的な範囲での、一般にも分かり易い穏当な主張」を
>しているのは私だと密かに自負するところでありますが…(春田の蛙さんのレス>237を参照のこと)
>と言う半分ほどの冗談はともかくとして
>それは、もともとの議論において、御両者共に自分の見解が正当なものとして譲る気などない程に>自信をお持ちだからであって、
法律ヲタさんは、先のようなことを半分本気でお考えのようですから、ご自身の見解にも自信がおありなのかもしれませんが、
私は自らの“主観的な見解”について、そんな自信は全くありません。勝手に決めつけて、話を進めないで下さい。
良いですか? 客観的事実が主観から離れて存在するのなら、それは“私の”主観からも離れて存在するのです。
当然、◆Bwr5tJDUMc氏の主観からもです。これは他ならぬ、あなたと◆Bwr5tJDUMc氏の主張です。
ちなみに私は客観性について、この点を含めつつ、より包括的に分析している乾闥婆さんの見解に
同意していますが、そちら側の主張を、そちら側の定義に従って読むことには異存ありませんよね?
で、ここからの話は、根っこのところは単純です。あなたも◆Bwr5tJDUMc氏も、私のサイトでのやりとりから遡って話したいようですから、
先にそちらに触れましょう。このスレには無関係な話なので……元々のスレ住人の皆様には大変申し訳ないのですが。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/5753/1110729302/257-330 ↑まぁこれもバカみたいに長いやりとりです。(苦笑)
上記のスレより前にも創価板で長い議論が続き、さすがに板違いの話題でしたので私の管理する掲示板への誘導もしていたところ、
だいぶ日が経ってから◆Bwr5tJDUMc氏が議論の再開を望まれて、そこから上記リンク先でのやりとりとなったものです。
>>266続き
同じことを、乾闥婆さんとの議論に見てみましょう。これはもっと単純です。乾闥婆さんが実際には主張していないこと、書いてはいないことを、
◆Bwr5tJDUMc氏は、自分の論理に従えば合理的に言ってそうなるはずだ、だから書くことになる、主張したはずなんだと
延々言い張る。乾闥婆さんは、実際書いてもいないし主張してもいませんから(これがこの場合の“客観的事実”です)、
書いていません主張してませんと繰り返す。これがずっと平行線になってただけじゃないですか。
“自分の”論理に従えば合理的に考えてそうなる“はず”――これは主観的な思い込みです。
ですから◆Bwr5tJDUMc氏には、日蓮について
>>207のような糾弾をする資格はありません。
……正直私も、彼との自サイトでの議論では心底うんざりしました。私が今回、乾闥婆さんとのやりとりに口を挟んだのは、前に私が彼と議論した時に、
こういう風に第三者が論点を整理してくれたら助かるなぁ……と考えていたことを実行しただけです。でなければこのスレでも、これから延々と続いたでしょう。
そうなった時の大変さは身に染みて理解してましたから……彼のレスが執拗になるのは、私の体験上むしろここからです。
>それに先行する春田の蛙さんのレスを見ていて、まずい結果を引き起こさなければよいがと、私は
>危惧を抱いておりました。
>それは第三者として見ていて、春田の蛙さんの意図がどのようなものであれ、これまでの経緯から
>考えてそのような問題状況を誘発する可能性のあるレスと感じざるを得ないものだったのです。
ほう……よくそんな馴れ合い相手だけに身贔屓なことが言えますね。じゃあ、乾闥婆さんやひゃっきまるさんはどうなるのです?
前スレから、お二方に私がどれだけ辛辣な言い方をしてきたか。
私は、乾闥婆さんやひゃっきまるさんからなら、あのようにキレられても当然だと思っています。
>>267続き
しかし、乾闥婆さんはそれでも私の指摘を飲み込み、あなたに対して、その態度を謝って下さいました。
幾度も謝罪を繰り返してこられたその誠意を、あなたは何と見ているのですか。
今度は、我々が誠意を示す番です。口先の馴れ合いや気遣いではなく、乾闥婆さん同様に痛みを伴っても己れの態度で、です。
>>259のレスは論外です。あなたは、以前脱会スレが山岡に荒らされたとき、一時的にでも全員コテを外して、
名無しにすれば穏便に収まるのでは?と提案されたとき、何て言いましたか。
自分のその時の発言を思い返してから、
>>259の提案をする資格があるかを考えてみて下さい。
こんな風にあーだこーだとごねるくらいなら、◆Bwr5tJDUMc氏の乾闥婆さんに対する言い掛かりを、あなたが止めていれば宜しかったのですよ。
私でなくあなたが止めていれば、まだ◆Bwr5tJDUMc氏も素直に聞けたかもしれませんしね。
しかしながら私の見るところ、あなたはあれを不当な言い掛かりとさえ認識していなかったのではありませんか?
>私としては、春田の蛙さんが御自分には問題がなく冷静に対応しているとお考えになるのなら
いつ、私がそんなことを言いました? 私はスレにふさわしからぬと考えて、感情のまま対応してないだけです。
乾闥婆さんやひゃっきまるさんが、私に対してそうして下さったようにね。
内心は、大変ムカついてますよ、当たり前でしょう。今はあなたに対しても、です。
……そもそも、私が◆Bwr5tJDUMc氏を自サイトからアク禁したことを、どれほど粘着荒らしが
しつこく絡んできていたかはあなたも見ていたはずです。私は、その殆どをスルーしてきました。
理由は大きく二点。◆Bwr5tJDUMc氏の文章の問題については、以前から批判が出ていましたが、
私はずっと◆Bwr5tJDUMc氏を支持し、批判意見からも擁護してきました。
従って、◆Bwr5tJDUMc氏が行き過ぎた過ちを犯せば、その批判は私にも向けられて当然だからです。
>>268続き
しかしそれでも、あれだけ延々と続く粘着の、◆Bwr5tJDUMc氏に関する箇所を放置し続けてきたのは、
あなたが◆Bwr5tJDUMc氏の創価板への復帰を望んでおられたから、その障害にならないために
という配慮です。でなければ、放置にも限度がありますから、とうに今回の如く反論しています。
しかしだからといって、彼がここのような場所で他スレの常連さんに対し、
理不尽な言い掛かりを延々と付け続けることまでは容認出来ません。
法律ヲタさん。ここは私やあなたや◆Bwr5tJDUMc氏が常連だった本尊焼きスレとは違うのです。
議論相手も、あちらのスレで脱会者を引き止めたり「仏罰があたる」などとふりかざし、
疑似科学的な主張をふりかざして難癖を付けている輩ではないのです。
向こうが、仏罰だの功徳だのを「科学的にも立証出来る。だから脱会してはいけない」などと
主張してくれば、なるほど◆Bwr5tJDUMc氏の立論によって問題なく、的確に論破できるでしょう。
しかし、そうではない相手にまで、同じ立論で言い掛かりをつけるのは、悪質な難癖です。
◆Bwr5tJDUMc氏の客観性に関する定義は、議論相手も「創価学会の教義は科学的に正しい」と
主張し、相手も自然科学の議論の土俵に乗っているという前提があって有効なのですよ。
「創価学会の教義は科学的に正しい」などとは全く主張していない乾闥婆さんに、
そんな立論で議論をふっかけても噛み合う訳がない。それでは単なる言い掛かりです。
ここの本来の住人さんへそんな議論をふっかけてしまい、やりとりで延々スレを占有して、
前スレまで盛んだったスレ本来の議論さえ放置気味、それが現在の状況ではありませんか?
少しはその辺りの配慮もしましょう。
もし、これでも法律ヲタさんが
>>257-259の姿勢を反省されないのであれば、私は前スレからの
あなたに対する支持を撤回します。その点を謝罪した後、改めて以前より
乾闥婆さんとお約束している、日蓮肯定論のレスを再開させて頂こうと思います。
あれれ、なにこれ?
おかしくて腹痛て〜。
あんまり笑わせんなよ〜。
アカヒやらミサイルで忙しいのに。
>265-269 春田の蛙さん
レスを読ませていただき、お書きになっている内容について私としては簡単に肯んずる事の
できない点も含まれておりますところ、しかし、それを一つずつ取り上げて書き込むならば、
その事そのものが事態の好転にとってプラスとはならず、更なるご叱責を頂戴する原因と
なってしまうだけのようにも思え、そうかと言って何も応答しないというわけにも行かず、
どうすればよいのか困惑しております。
申し訳ございませんが、今このスレで春田の蛙さんに対して述べられるのは、それだけです。
蛙ちゃん女々しいよ、女みてえだよ。
男に振られた女が、男の悪口を言ってる感じだなぁ。その男が違う女と話をしている時に“この男はやめときな!”って笑点のオレンジがカマの真似して言っているみたいだ。
Bやヲタは内心お前の様な浄土の信徒も学会員同様妄想野郎でフィニッシュさ。
>>272 ハテ? 過去俺は、春田の蛙氏に対して「浄土の信徒も学会員同様妄想野郎」だなどと
思った事は一度もないが、もしかして、オマエさんこそ妄想にでも浸っているのかい?
ここは、まともに議論する気も能力もないゲスな「妄想野郎」の来る所ではないんだよ。
分かるよね?
分からなければ無能ってことだが、キミほどのお方だ。
よく理解して、そのようにするはずだよな。
>>273 いちいち相手にすんなこのスレはそういうやつはスルーだ
無能で結構w2ちゃんで資格とかウゼw
学会と違って浄土は素晴らしい宗教って事でOK?
>>274 スルー?出来ないね!俺の発言を認めた事になるからな。
まぁ、浄土は糞だがな。
276 :
法律ヲタ ◆8PR9uxYCzw :2009/04/05(日) 21:59:39 ID:eHf9IrRO
>>274 申し訳ないが、それは間違っていると思います。
これは、他スレで荒らしが問題となった時に述べたことがあるのですが、一般に2chでは
荒らしはスルーとされていますけれど、その場合の荒らしは単なる愉快犯的な荒らしだから
それが望ましいのです。
しかし、荒らしの中には、そのような在りようとは異なる種類の荒らしも存在するのであって、
特にこの板のようなそもそもが対立の激しい板の場合には、単なる愉快犯ではなく、明確な
目的をもって荒らす輩が存在するわけです。
例えば今回の荒らしは、そもそもは春田の蛙氏に対する粘着妨害を目的としているのでしょう。
このような輩には、その行為そのものが無意味であることを積極的に示すこと、つまり荒らしの
目的を様々な形で否定することこそが有効な対抗策なのだと思います。
(ありゃ、上げちゃったよ。すみません。)
>>275 無能君
無駄な書き込み、ご苦労だね。
「2ちゃんで資格」って、誰がそんなことを言っているんだね?
何が書いてあるのかすら理解できないのなら、国語の勉強でもし直して来た方がいいよ。
>学会と違って浄土は素晴らしい宗教って事でOK?
さァな。 素晴らしいかどうかはなんて、そもそも問題ではないだろう。
素晴らしいと思う人が信ずればよいだけの話だ。
もちろん例外はあるわけだが、創価学会とは違い、社会に対してわけのわからんdでもな
主張・行動を一般的にはしないというだけでも、まともだってことだよ。
278 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/04/07(火) 19:38:59 ID:pnV5AGtx
いままでここの常連さん達は居なくなっちゃったのかな?
春田や法律が出てきてB何とかさん叩いたり擁護したりの
流れになって今流行のスレジャッカーってやつですか?
スレ弱化ー スレの流れを弱めてもともと居た常連さん達
嫌気をさして追い出す人達
まったくBも一貫性がないというか、おそらく現実社会で劣等感を強く抱く人なのだろう?
そのためゆがんだ自己顕示欲が長文を貼り付ける行動にいたると俺は分析する。
昔は春田に賞賛されて一緒にデカイ面を下げていたわけだが、
相手を賞賛し思うように利用する手法は、
まさにどこかの宗教と酷似した手法ですでにアンチとして本末転倒なことになっているのだが
自己中心的なところと恥知らずな部分は蛙とよく似ている。w
法律よぉこのスレはお前やカスとかBwr5とかがくだらない雑談繰り広げていた
あっちとは違うんだぜ。 ちょっと見ただけでそれも分からないようではな。
お前が主催していたあの駄スレでは適当に馴れ合ってくっちゃべっていれば
よかったけどここではBwr5の我執論の間違えを指摘してやらねばますます図に
乗ってだらだらした読むに耐えないものを貼り付けられるんだぜ。
って事でOK? その流れの先には俺様が指摘してやっているんだぜって事が
含まれているのかな? 俺様はお前らとは違うんだって論外に含みいれてる。
282 :
法律ヲタ ◆8PR9uxYCzw :2009/04/08(水) 08:11:51 ID:Ujc2hXEZ
>>278 ハァ? ○なら有るのかもしれないが、△や×は、なァ…。
ましてや、□なんて、何の話だ?? 何のことか理解できんよ。
あれ、sageたつもりが…。 すみません。
>>279 「今流行のスレジャッカー」・・・オマエさんの事だね、アタマ弱化ーさん。 納得しまスた。
>>280 ‘まったく名無しの荒らしも一貫性がないというか、おそらく現実社会で劣等感を強く抱く人なのだろう?
そのためゆがんだ自己顕示欲が荒らしレスを貼り付ける行動にいたると俺は分析する。
昔はスレをこころよく思わないカルトに賞賛されて一緒にデカイ面を下げていたわけだが、
相手を賞賛し思うように利用する手法は、
まさにどこかのカルトと酷似した手法ですでに2ちゃんねらーとして本末転倒なことになっているのだが
自己中心的なところと恥知らずな部分はカルトとよく似ている。w’
アァ、カルト御本人様でしたっけね? (藁
>>281 何を言っているのだろうねェ。
ここがどのようなスレなのか理解できずに「雑談」をしているのは、オマエ様ではないのかね。
と言うか、はっきり言えば“荒らし”、それも単なる愉快犯ではなく確信犯であるところの
“荒らし”であるわけだけれどな。 (w
オマエ様方が更にこのスレにその趣旨とは無関係なレスを書き続けるならば、ますます
“荒らし”にすぎないことが明瞭になるってわけだよ、荒らし御一行諸君。
それとも、オマエ様自身が言っているように、「Bwr5の我執論の間違え」とやらを具体的に
「指摘」するレスでも投稿するのかね?
そうであるなら、俺は内容的に必ずしも間違いだと思っているわけではないのだから、
場合によっては相手をさせていただくぞ。
オマエ様の「指摘」とやらが楽しみだなァ。 ぜひ、“荒らし”ではないところを示してくれたまえ。 (藁
>>法律ヲタ
もうそういうレスはやめてくれんか?
みんなの迷惑になる。
>>284 お前とお前の馴れ合い仲間以外の意見の合わない奴はみんなカルト認定だもんなw
>>286 「みんな」?? 「キミら」荒らし君の間違いだろう。
俺としては、>260の質問に対するご回答をもう少し待ってから、乾闥婆氏にレスをするつもりだよ。
>>287 >お前とお前の馴れ合い仲間以外の意見の合わない奴はみんなカルト認定だもんなw
俺が書いたレス>284は
>>280をもじって批判させていただいたものだが、間違いだと言うのかね?
しかし、それが明確にわかるのは、>280などを書いた当人だけのはずなのだが、キミがその当人
だとでも言うつもりなのかね?
そして、明確にわからない場合にもそのように言いたいのであれば、俺がカルトと批判する立場
以外の立場から、なぜあのような事を書き連ねるのかを説得的に説明する必要があるだろうよ。
再度述べるが、キミ達自身がスレの趣旨と無関係なことを持ち出してきてキミの言うところの「お前と
お前の馴れ合い仲間」なる存在のみを対象とした批判を展開しているわけだが、それ自体が、俺には
このスレにとって一種のスレ荒らしとなっているとしか考えられないのだけれどね。
なぜ自らこのスレの趣旨に適う話題を展開しようとはせずに、そのような内容のレスをするのかね?
よく理解できるように、説得的に説明してくれたまえ。
なお、断っておくが、◆Bwr5tJDUMc氏のレスにしたところで俺のレスにしたところで、本来は日蓮を
めぐる内容なのであって、キミ達のようにスレの趣旨そのものと無関係なレスではないのだぞ。
>>289 >それが明確にわかるのは、>280などを書いた当人だけのはずなのだが、キミがその当人
>だとでも言うつもりなのかね?
質問に質問で返すようで悪いが、
>>284で
>>280をカルト認定し批判し、
「それが明確にわかるのは、>280などを書いた当人だけ」とするのであれば、
「>280などを書いた当人」とやらもお前ということならないか?w
それからな〜、カルト宗教に興じる信徒(信者)において、
往々にして、自身が所属する宗教団体がカルトであるという自己認識はなされず、
「唯一正しい宗教」とか思うものなのだ。w
ゆえに、「それ(カルト認識)を明確にわかるのは当人だけ」とする一連の内容もおかしい。
>そして、明確にわからない場合にもそのように言いたいのであれば、俺がカルトと批判する立場
>以外の立場から、なぜあのような事を書き連ねるのかを説得的に説明する必要があるだろうよ。
あのな〜、恣意的な法解釈に基づく主張を繰り返してきたことから、
「インチキ弁護士」などと揶揄されることや、蛙に対するカルト認定などは散見されるが、
>>280を見る限り、具体的にお前についてカルト認定している点が確認できず、単にお前の誤解によるものであろう。
>再度述べるが、キミ達自身がスレの趣旨と無関係なことを持ち出してきてキミの言うところの「お前と
>お前の馴れ合い仲間」なる存在のみを対象とした批判を展開しているわけだが、それ自体が、俺には
>このスレにとって一種のスレ荒らしとなっているとしか考えられないのだけれどね。
俺が常にお前やお前の馴れ合い仲間なる存在のみを批判の対象としてきたわけではなく、
常にスレの趣旨と無関係な内容を持ち出しているわけではない。
むしろこの現状は、蛙やBが起因となっているのであって、
蛙やBに対するお前の馴れ合うような態度にも問題がある。
凄げぇ〜 焼きスレ見たらここのスレで仲間同士の立ち回りが繰り広げられてるって
レスがあったので来て見たらついこの前まで仲良し倶楽部のメンバー同士で
遣り合っちゃってるよ。
盛況新聞の紙面座談会を批判していた人達が互いにそれ以上の修羅場を現じているぜ。
こういう状態を修羅の命って言うんだろうな?
それともジカイホンギャクナンって言う仏罰か?その次にはタコクシンピツナン?
って言う仏罰が来るんだろう? 怖えぇ〜よな?
まるで頭が7つだか8つだかに割れてしまうって言うナントカシチブって仏罰?
層化の折伏叫転に書かれているようになっていることがなんとも不思議だ。
>>292 その通りだなァ。 ●●学会とやらは、「層化の折伏叫転に書かれているようになっている」ものなァ。
ついこの前も、その実質的支配下にある政党がその元党首と争いを起こし、●●学会の信者で
あるところの元国会議員が元党首からその所有する手帳を奪ったとして裁判沙汰にまでなり、
それを報じたマスコミとの裁判において政党側が二審で逆転敗訴してしまったものなァ。
元党首との(法的)争いが最終的にどのように決着するのかはまだ分からんが、まさに●●学会の
主張するところの「ジカイホンギャクナン」ってヤツそのものではないか。
オマエの言うとおり、「修羅の命」の争いなのだろうよ。 (w
オマエが設けてくれたせっかくの機会だからついでに言っておくと、●●学会の歴史そのものが
そもそも「ジカイホンギャクナン」とやらの連続だものなァ。
今までにその名だたる幹部が争い、一方が他方をどのように排除してきたかを見てみろ。
そしてそれにもまして、●●学会自体が宗門として崇めていたはずの正宗との間で破門される
結果など生じたわけだが、これこそ「ジカイホンギャクナン」とやらそのものではないか。
日蓮の卓見には“恐れ入る”よ。 (妄想糞坊主の妄想は恐ろしいといっているのであって、
“畏れ入る”ではないぞ。)
これぞ、日蓮の主張するところの“現証”とか言うヤツであろうな。 (藁
題目・本尊とやらの力は絶大だな。 (藁々
オマエも「層化の折伏叫転に書かれているようになっていることがなんとも不思議だ」などと
言っているようでは、それこそが「頭が7つだか8つだかに割れてしまうって言うナントカシチブ
って仏罰」だと笑われてしまうぞ、妄想君。
>>290 「質問に質問で返すようで悪いが」・・・いや。内容を読ませてもらって、その程度のことは構わないが、
しかし、こちらからすれば俺が意図しているところを読み誤っているとしか言いようがない。
もちろん、それは俺の文章の責任だと言うなら、それはそれとして反省すべき点もあるのかも
しれないが、しかし、このままであっても意味するところをきちんと考えて読めば分かるはず
だと思うし、仮に分かりにくいとしても、根本的になぜそのような事を言っているのかを
考えようとする姿勢すらなくしてそのように言っているのなら、お話にならないではないか。
オマエが言うところの「俺が常にお前やお前の馴れ合い仲間なる存在のみを批判の対象としてきた
わけではなく、常にスレの趣旨と無関係な内容を持ち出しているわけではない。」なる件だが、
これこそ独善的で手前勝手な主張にすぎない。
名無しで書き込むもハンドルなどを使うも本人の自由ではあるが、その選択から必然的に
生ずるプラスもマイナスも自分自身の選択による結果・責任として享受するしかないのであって、
選択した本人がそれを無視し選択に抵触する内容を主張することなど許されないのだ。
そうでなければ、誰もが、客観的・外形的証拠を挙げる必要なく、好き勝手に過去の発言を
捏造したり否定したりできる事になりかねない。
(レス>294の続き)
これは、名無しの場合のみならずハンドルを名乗り、かつ、トリップを付けていたところで同様に
扱われなければならないわけであって、トリップも解析が不可能ではなく別人が使うことも可能な
システムとなっている以上は、オマエさんのような主張を容認するなら、仮に別人によって自己の
ハンドル・トリップが使われたと述べた場合に、何らの証拠を挙げる事なく、名無しの場合と同様に
他者はそれを受け入れなければならないという結論とならなければオカシイはずだ。
なお、このような場合に別人である事を確実に証明しうる証拠はないと言わざるを得ないわけだが、
そのような状況が生じた場合に、それ以降その者はトリップ等を変更することを以って、別人たる事の
一種の状況証拠とする以外にないであろう。残念ながら、2chのシステム上それを受け入れるしか
ないのであって、それが嫌なら、自ら2chに関与しないという方途しか採るべき道はあるまい。
ただし、そのような場合であっても、当然同一トリップの付された各レスにおける論理や立場の
一貫性は問題とされうるわけであり、そのような観点からする書き手の異同に関する合理的批判は
もちろん可能であろうけれど、それは別な問題だ。
(レス>295の続き)
先に俺が述べた事はこのような考え方が前提となっているのであって、問題としている各レスは、
可能性としては、そもそもが同一人物によるものか、或いは、結果的に、このスレの趣旨そのものに
関係するレスではなくして特定の者を攻撃する内容で、書き手が誰であるか区別できない形で
別人によって書かれたところの実質的には同種の内容のレスというべきものなのであるから
(客観的にそのようにしか把握できないものにしているのは、あくまでも、そのレスの書き手
そのものであって、読み手にその事実そのものを探求する責任があるわけではない。)、仮に、
同一人物によるものではないとしても、区別のつかない一連のものとして扱われる事に書き手が
異議を唱えても無責任という事になろう。
(繰り返しになるが、異議を唱えても、読み手側は積極的にそれを否定しなければならない責任を
負ってはいないのであって、この場合、別人である事の証明責任は異議を唱える側にある。)
要するに、レスの書き手を区別できるようにする事が一応は可能であって、2chの制度的にも
区別するための方途が準備されている以上は、その方途などの採否という選択の結果として、
それぞれの選択から当然に生ずるプラスもマイナスも、選択した当人の責任に帰させる以外に
ない、という当たり前の話だ。
もちろん、準備された区別の方途の個人的な不採用によって他のどのような方法を用いたとしても、
自己の選択から生ずるはずの当然の結果については本人が責任を負う以外にないわけだ。
>291の「自己中」君。 キミが本物のアホでもない限り、理解できるだろう? (w
真の「自己中」とは、自己の選択によって生ずる結果について無責任な輩のことだよ。
(レス>296の続き)
それと、俺の文章そのものの意味が理解できずに書いていると判断される箇所で、こちらとしても
もう少し説明を加えた方がよかろうと思われる部分があるので更に説明しておく。
オマエさんは、レス>290の三段落目で『ゆえに、「それ(カルト認識)を明確にわかるのは当人だけ」
とする一連の内容もおかしい。』として俺の述べたことを批判しているつもりらしいが、そもそも俺は
その()内の事など述べていないのであって、「カルト認識」などということを問題としているのではない。
通常カルトがカルトであることを自己認識していないのは、当然ではないか。
それに関連してついでに言っておけば、当該の者が自己をカルトと認識しようとするまいと、その
主張・行動などからカルトと判断される場合があることを、否定するつもりなのか。
俺がそこで言っている「それ」とは、今ここで説明している一連の内容に関係するのであって、
その本質を簡潔に一言で述べれば、誰がどのスレを書いたのか、という問題にすぎない。
そしてその上で、誰がどのスレを書いたかを考察するための考えうる合理的な判断基準としては、
書かれている内容しか考察の基礎としえないのだから、その内容から書き手の立場を推測する
事を以って判断基準とする以外にないわけであって、それをもってした結論としては、俺がカルトと
表現している立場に属する(場合によっては、現実には属していなくとも同調する立場)以外には
考えにくいではないか、と言っているのだ。
だから、例えばだが、レス
>>289の三段落目では「そして、明確にわからない場合にもそのように
言いたいのであれば、俺がカルトと批判する立場以外の立場から、なぜあのような事を
書き連ねるのかを説得的に説明する必要があるだろうよ。」としているのだぞ。
その意図・意味するところが分からないらしいが…。
ヲタさん
>>269 に書かれている
>>257-259のしせいは反省されたのでしょうか?
認めるところを認めていかないとだめですよ。
貴方がBをたしなめていけばあそこまでBを追い込まなくて良かったんです。
可愛そうに最後はいつものBのスタイルとはかけ離れて捨て台詞のような
罵倒を残して消えてしまったではないですか?
いくら仲良し倶楽部でもダウトな発言でしたらたしなめてやるのも
友人としての真心だと思うのですが?
仲良しだから突っ込まないとかだとただ単に馴れ合いだといわれても
仕方ないことなんですよ。
(レス>297の続き)
そして、それに遡って問題となるレスである>284そのものだが、そのレスでも述べているように、
それ自体がレス>280に書かれた文章をもじって批判に活用したものだが、よく読んでみろ。
一連の名無しレスの書き手をカルトだと断定しているわけではないのだぞ。 (最後の文章も、
一応疑問符を付けておいてあるのだ。)
その背後にあるのは、カルト(と、今俺が呼んでいる立場)ではないのなら、何故そのように、
このスレの主題と・趣旨そのものには直接関係しないレスを(オマエさん達?が)し続ける必要が
あるのかという疑問なのだか、その点について納得できる説明を求めても、まったくそれが
為される事などないではないか。 (と言うより、その点に関して名無しのまま説得的説明を
しようとすること自体が、絶対に不可能とまでは言えないにしても困難極まりないとしか
思えないのだけれどね。 しかし、それもアナタ自身が選んだ道なのだから、自分で
乗り越えるしかあるまい。)
(レス>299の続き)
以上の説明を前提とした上で、自分の書いた内容を考えてみてほしいものだ。 (もちろん、
この説明そのものが問題だと言うなら、具体的にその問題点を示す必要があろう。 もっとも、
そんな疑問は理屈が通らないであろうと俺は思っているけれどね。)
なお、今後この件を問題とするレスを書くに際しては、ハンドル・トリップを使用することを奨める。
もちろん強制はできないけれど、それを使い続ければ使い続けるほど、アナタ自身がその立場の
一貫性を他者に対して主張しやすくなるはずだ。
(というより、使い続けることが、一貫性の主張そのものであるわけだ。)
このスレでのみ使う、一種のステハン・トリップでよい。
あとそれと、直接スレの趣旨・主題と関係のないこのようなレスは、他スレで扱うことにしたい。
実質的に見捨てられているスレを指定してくれたまえ。
(これに応じるか否かも、アナタの立場・意図を推測する一つの手掛かりとなりうるであろう。)
>>298 何をどのように反省しなければいけないとおっしゃるのでしょうか?
私は、そもそもの問題についての主張内容そのものに関しては、乾闥婆氏のおっしゃっている
事の方に問題があるものと思っております。
それは、乾闥婆氏の理解するところに従うと、それを歴史的事実に当てはめた場合に問題を
生じかねない点からも窺い知れるものと思います。
既に述べたところですが、例えば、天動説・地動説といった問題で、当時のカトリック側の見解が
正しく、ガリレオなどの見解は“妄想”という結論になりかねません。
また、これも既に問題としたところですけれど、今日と過去とで妄想であるか否かの判断基準を
別なものとして設けなければならなくなるわけですが、それも論理的晦渋とでも言わざるを
得ないのではないでしょうか。(これに関しては、今日のアメリカにおける進化論と創造論の
対立する社会状況についての、◆Bwr5tJDUMc氏の指摘を思い出してみてください。 )
(レス>301の続き)
認識者本人がおかれた状況、(例えば、乾闥婆氏の主張する歴史的・社会的状況など)によって
認識者本人の認識に誤りが生ずることはやむを得ないが故に、誤った認識も妄想とはなりえない
のだとするなら、今日においても同様であって、先の創造論を申そうとする事はできなくなるでしょうし、
病気による妄想の場合も、本人にとってはそれを避け得ないのですから(さまざまな理解がありうる
とは思いますが、仏罰とでも言った考えを用いない限り、一般的にはこちらの方が、よりいっそう
本人にとって、避けられ得ないものだと考えるのではないでしょうかね?)、それを妄想とすることは
問題となるはずです。
しかるに、統一的に判断基準を考えるには、既に述べているように、その第一段階に客観的事実と
齟齬するか否かという要素を挙げざるを得ないものと、私は思います。
(レス>302の続き)
いつの時代であれ妄想か否かの判断基準としては、その根底に客観的に正しいと言える内容なのか
否かという観点を据えなければ、現実への当てはめにおいてこのような問題を生じてしまうのであって、
このような乾闥婆氏の見解の抱える問題を◆Bwr5tJDUMc氏は考察しようとしたものに他ならず、
考察のその基本的方向性として間違っているなどと私は考えておりません。
ただ、人間の認識だとか客観だとかを哲学的に問題としようとしても、究極的には一種の観念の
迷宮に落ち込まざるを得ないような点が存在するのであり、あまり深入りしても私としてはこの場合は
致し方がないのではないかと思うだけなのです。(創価学会員などが、自己の主張を裏付けようとして
哲学的論点を持ち出した場合などは、このような観点から応ずる以外に有効な反論は難しいのかも
しれませんが、一応は別な問題ですね。)
それ故に、アナタの御指摘が理解できず、理屈に合わないことをおっしゃっているとしか思えません。
アナタこそ、ここで問題とした内容について具体的反論を行なわず、スレの主題・趣旨そのものとは
直接は関係のないレスをする“姿勢を反省するべきなのではありませんか。”
このスレッドは【俺が法律ヲタだ!】に変わりました。
今後【日蓮】についての話題はスレ違いとなりますので他スレッドでお楽しみください。
粘着をつらねてやってきた勘違い野郎が引き際を失いなりふり構わず暴れていますので興味のある方は引続き御覧下さい。
306 :
母が熱心で困ってます ◆1Cz5bN8eQk :2009/04/15(水) 21:05:41 ID:jfLNanQr
>>269 春田の蛙さん
>そんな立論で議論をふっかけても噛み合う訳がない。それでは単なる言い掛かりです。
言い掛かり・・・・なのでしょうか?
僕からすると、むしろこの板に相応しい問いかけ(発言)のように感じられるのですよ。
せっかくだから◆Bwr5tJDUMcさんがドーキンス的な反宗教の強硬スタンス、そして蛙さんと
乾闥婆さんがグールド的な〜一度は否定した上で宗教に理解を示し逃げ場を与える〜
いわば折衷穏健スタンス(?)みたいな構図の議論になれば
「僕が迷ってる宗教との距離感について何かが見えてくるかも?」
と期待を膨らませつつ興味深く読ませて頂きました、無責任な野次馬で済みません。
(申し訳けありません、ついageてしまいました、sageます)
宗教との心地よい距離というのは人それぞれ違いますよね、カルトから離れた人の多くは
この宗教との距離感が掴めずに悩む傾向にあるようです、宗教を忌み嫌い極端に遠ざけたり、
僕のように伝統仏教の寺へと駆け込んでみたり、或いは別な種類のカルトに嵌ったり・・・
宗教・信仰が溢れる社会の中で右往左往もがく・・・
カルト教団から離れたら「ハイ!これでもう自分は自由だ」とはいかない、そこからがまた
新たなスタート、自分らしい宗教との距離を模索する段階です、これを乗り越えないと
本当の意味で精神が開放されたとはいえないと考えています、しかしこれは非常に難しい、
二世三世の場合、内部の"信心即生活"という教団ベッタリ信仰しか知りません、手探りで自ら
この距離感を定めていくより他は術がない、ですから日蓮からはやや逸れてはいますが、
これはこれで一定の意義がある展開だと思いました。
ただし折衷穏健主義(?)である春田さんの主張スタイルが皮肉にも・・頑なで・・・
(気のせいかドーキンスに猛反発する信仰者の振る舞いとも重なり)少々困惑しております、
蛙さん乾闥婆さんの主張自体は今の僕の考えにも近いのですよ、しかしその「頑なさ」に
やはり抵抗を覚えます、何故か少々乱暴な言葉使いの◆Bwr5tJDUMcさんのほうが冷静に見え、
蛙さん達に素直な気持ちで同意できない自分がいる、これも僕が◆Bwr5tJDUMcさんの復活を
心待ちにしていたせいなのでしょうか。
>>306-307 母が熱心で困ってますさん
お久しぶりです。 そして、ありがとうございます。
春田の蛙さん、◆Bwr5tJDUMcさん、そして私も当事者と言うべきなのでしょうが、の間において
このスレで生じた問題については、私としても>271で触れましたたように更に述べたい事も
あるのですが、ただ、私自身がそうする事が、当事者の関係においても、更にはこのスレにとっても
プラスとなるものなのか疑問に思っているとことです。
そのような中で、私の述べたい内容の一部を母が熱心で困ってますさんが代弁してくださる結果と
なっているのですが、それが更にどのような結果を生ずるかはともかく、感謝申し上げます。
(今は、これだけとさせていただきます。)
ヲタさん発言したい部分があってもそれを表に出せば他者に対して
角が立ちかと言って感情に竿させば流されてしまうよね。
かと言ってこの部分を無かった事にして話を進めても今後の持って行き方に
影響を投げかけないからね。
気持ち的に分からなくは無いけどさ、変な板ばさみになって自分の思っている
部分を口に出来ないって本末転倒じゃないかな?
その分春田さんやBwr5さんは相手がどのように感じているかを第一義とせず
発言したい思う所を直に相手にぶつけている分ピュアだしね。
大体思う理屈の部分を相手に気兼ねして言え無いって何なのさ?
現実の生活での隣近所のお付き合いだったら致し方無い部分もあるだろうけど
だとしても言いたい事も言えない掲示板の雰囲気って本来の意味無いんじゃ無いのか?
互いに意見をぶつけ会いながらもスレの本来の流れに沿って行ってこそ相手に
敬意をもてるし相手もヲタさんにそれなりのものを見出せるのでは?
二人に板ばさみの悩める友人をひたすら演じ切ってこの場をやり過ごすのも
一つの世渡り上手なのかもしれないけどだけど言うべき時に適切に対処して
それで居て本来のスレに沿った流れな意見をして行かないと只の馴れ合いだよ。
310 :
母が熱心で困ってます ◆1Cz5bN8eQk :2009/04/16(木) 22:21:50 ID:M55LAwhb
>>308 法律ヲタさん
とんでもないっす。
え〜、俺は色々思い出してきました、数年前T.Rさんと乱闘した時の事を(汗)
あの件では法律ヲタさんには本当に気を揉ませてしまった、僕がT.Rさんと仲直りが
できたのもヲタさんのお陰です、情け無い、あの時は蛙さんにも色々気を遣わせてしまった
ああ、思い出すだけで情け無い・・・
俺としては、春田の蛙さんや◆Bwr5tJDUMcさんには日頃から色々教えてもらったりと
お世話になってるんで、また二人と前のように楽しく話がしたいだけだったのですが
恥ずかしい過去の記憶が蘇り、なんだかコテハンを変えるか消えるかしたいような
気分になってます(苦笑)
(ああ!申し訳けありません、またageてしまいました、sageます)
>>309 >発言したい思う所を直に相手にぶつけている分ピュアだしね。
うーん、人間ってピュアな感性を保つのは凄く大切だと思うけど、
ストレートに思う所を表現すればピュアなのかね???
汚れのない無邪気な子供なら兎も角、大人なんだよ、もう・・・
気持ち丸出し≒ピュアで済むの?
母熱さん互いに言いたい事を相手に遠慮して言えずじまいってちょっとね。
貴方の言いたい事も分からなくは無いんだけどそれでしたら公開された
掲示板では無くて私設の個人まりした掲示板でやっていれば? って事になっちゃう。
俺はこう思うんだけどあの人が違う意見なので黙っていようって事では
そこの有力者の意見に逆らう者は異端扱いで話が出来なくなりかねないですね。
だけどいたずらに俺が俺がって我を通し過ぎてもギクシャクしたままだし。
貴方の言うように互いにもういい大人なのだから自分の意見を話しつつ他者の
意見を聞き間違いは間違いとしソースを示し譲歩する部分を模索して行くのが
いいと思うのだが?
そこまで行く前に遠慮して話せない雰囲気を醸しているのは少し違うみたいですね。
と、言う事でもう一度流れを読み返して見ましょうよ?
なぜ春田さんがヲタさんに注意を喚起したのかなぜBwr5さんが春田さんの事を
ダブスタは引っ込んでいろって喚き散らしたのかなぜヲタさんの姿勢を春田さんが
なじったのか?
その他にも何故ここの以前から居た常連さん達が来なくなってしまったのか?
以前の住人さん達だったら激しく火花を散らしつつも相手の意見を聞くところは聞き
言う所はハッキリと発言していって互いの寄って立つ部分を尊重してたからこそ
成り立っていたのでは無いのかな?
>>312 >互いに言いたい事を相手に遠慮して言えずじまいってちょっとね。
いや、リアルでもネットでもこれは基本でしょう、僕は言いたい事は半分以下しか
表現しませんよ、言いたい事を言ったら逆に気持ちは伝わらないし、後悔するじゃん。
アナタは身近な人(親・友人・恋人・配偶者・・・)に気持ちをブツけるのが基本なの?
それが許されるのは赤ちゃんだけだと思いますよ。
勿論タマにはそういうのもいいさ、スッキリしていいよ、でも程度や限度があると思う、
毎回とか長期化はヤバイ、お互いエスカレートして自分を見失ってしまうから、
そういう時は友人なら言いたい事を半分くらいに抑えて止めに入るよ、なのにアナタは
止めに入った人間にまで「思う所をぶつけるべき」と迫る(←あの煽りはアナタだよね
>>309)
気持ちを抑えてクールダウンを促すのも馴れ合いなのかな?
そもそもね、一発くらったレフェリーが勢いで途中参戦したらゲームはどうなるのさ(笑)
>>310-311、
>>313 母が熱心で困ってますさん
すみません、いろいろとお気遣いいただきまして…。
(昨日のレスは、あの程度の分量のレスをするについて、貴方のレスを朝読んだ時には十分に
時間的余裕があったのですが、レスするかどうかを含め迷ったあげく、実際に書き出した時点では
余裕がぜんぜんなくなってしまいタイプミスに気付くことなく書き込んでしまいました。)
>>309、
>>312 (おそらく同一人物のレスであろうと思いますが、強制するわけには行かないのですけれど、
できることなら一種のステハンでかまわないから使ってほしいところです。)
考えさせられる内容でありがたいことだとは思っておりますが、ただ、お話の範囲で私自身が
思うには、少し立場というか考え方が違うようです。
私は、一応は合目的的に振舞っているつもりです。
その目的とは、対創価という意味における立場としての共同ということです。
別に相手が「有力者」だから黙っているというわけではないのであって、そのような観点から問題と
ならない(問題とすべきではない)点については、仮に見解の相違があったとしても特に一々
取り上げる必要などないと考えております。
春田の蛙氏の立場と私の立場とで、そのような共同を行えない何かがあると思っているわけではなく、
ここで今直ちに問題とする必要はないのではなかろうかと、一応の結論を与えただけです。
そのような意味で、別に「ピュア」と評価されなくとも一向に構いません。(私自身の内部の問題
として一貫した見解・立場を採り続けられるなら、そのような事は当面の問題ではないのです。)
(レス>315の続き)
そして、このスレの元々からの住人さんの件ですが、私は発言を抑制したつもりなど一切ありません。
それどころか、今も発言を促しているつもりです。
レスをするか否かが自由である以上、私がこれ以上できる事はないと思いますが、具体的に
どのようにせよというお話なのでしょうか?
その点をもう少し明確に論じていただけるとありがたいのですが…。
なお、「妄想」という件については、対創価という立場からは、このスレの住人の方々とも話を
突き詰める価値のある内容のものだと思っております。
どうもお久しぶりです。
書き込めなくなったのは、アク禁が直接的な原因です。
一応ずっとスレは見ています。推測に過ぎませんが、乾さん、蛙さんもROMはしてるんじゃないかと思います。
多分もう書き込めるとは思うのですが、ずいぶん昔にかいたものなので今更投下するのもためらわれ、
また、現在私生活でもかなり多忙ですので、議論に参加するのは不可能と判断してのことです。
一応スレ主としての意見を言わせてもらえば、このスレは誰がどのような議論をしようとも、自由であると考えています。
しかし、乱暴な言葉づかい、挑発的な言動はできれば慎んでいただきたいです。
もっと本質的には、議論相手の意見に真摯に耳を傾け、理解しようという態度をもう少しもっていただきたいです。
話が通じないのは、相手の性根や知識や態度が悪いと考えるのではなく、
自分の伝える方法や態度に原因があるのではないか?、自分は本当に相手の意見を理解しているのか?と思う、
謙虚さを皆が少しずつ持てば、固くこんがらがった結び目も少しずつほどけるのではないでしょうか。
個人的には、感情的に反発されてしまった、僕の考えに対する数々の誤解を解きたいとは思っていますが、
今の流れでそのことをいくら説明しようとも、なかなか理解してもらうのは難しいな、と感じています。
僕はやはり学会員と議論したいわけですから、もう少し学会員が参加しやすい雰囲気になってほしいとは思います。
>>317 ひゃっきまるさん、え〜、久し振りにこちらのスレに参加させて頂いております、
何年ぶりでしょうか・・・もう記憶がないほど昔ですね(笑)
感情的にならぬよう気をつけたいと思います、宜しくお願い致します。
>>315 法律ヲタさん
>私は、一応は合目的的に振舞っているつもりです。
>その目的とは、対創価という意味における立場としての共同ということです。
>別に相手が「有力者」だから黙っているというわけではないのであって、そのような観点から問題と
>ならない(問題とすべきではない)点については、仮に見解の相違があったとしても特に一々
>取り上げる必要などないと考えております。
そうなんですよね、こういった対立(衝突含め)は存在したほうがむしろ望ましいと思います、
一見仲間のように見える人達が、実は対創価で寄り集まっただけの烏合の衆だということが
顕になるという歓迎すべき側面があるからです、妙に足並みが揃ってたら逆に異常ですよ。
こちらは統制された組織じゃないんだ、連帯(共同)は対創価という一点で充分なのです、
様々な立場の人がそれぞれの立場で、創価・公明の被害・危険性を訴え批判する姿こそ
説得力がある、一番優れた主張・立場を決めたり、主張を揃えたりする必要性はありません、
深刻な衝突で潰しあいになった時だけ仲裁が必要ですが、最低限の対処で良いのだと思います。
これは前にT.Rさんと衝突した後にも感じたのですが、揉めて周りに迷惑をかけた張本人が
そんな事を言ったら「ハア、舐めてんのか貴様は?」的反発必至(いや、ヲタさんじゃなくてね)で、
俺の口からは非常に言い難くかった(笑)
もしかしたら主義主張はバラバラのまま、そのバラバラでいることの意義(攻殻かよw)だけは
共有すべく啓蒙していったほうが効率がいいのかな?と考えていた時期もありました、
しかしそれも微妙なんですよ・・・面倒くさい上に胡散臭い。
>>217 ひゃっきまるさん
お書きになっている事で疑問を感ずる点があるのですが、まず、このスレの議論そのものについて、
改めて注意を促さなければならないほどに感情的な書き込みがなされているのでしょうか?
スレの主題・趣旨に適合する範囲での議論においては、さほど感情的な書き込みは無かろうと
思うのですが…。
それと、「僕はやはり学会員と議論したいわけですから、もう少し学会員が参加しやすい雰囲気に
なってほしいとは思います。」という点についてなのですけれど、勝手な言い種ではありますが、
私が思うには、ひゃっきまるさんのお考えとは異なって、このスレは、学会員との議論には
かならずしも向いていないのではないでしょうか。
(レス>320の続き)
これは、このスレの価値を毀損しようという趣旨のものではありません。
そうではなく、ある意味でこの板における“孤高のスレ”とでも言ったスレであって、創価学会員に
とっては、一面では相手にしがたく、一面では相手にする必要も感じないスレなのではなかろうか
と言う話なのです。
このスレは、少なくとも2ch創価・公明板としては、その書き込みの姿勢をも含めて良くも悪くも上質な
部類に入るスレなのですよ。
これが、他の掲示板などで散見する上質な議論を行おうとする人々が相手ならまた違うのでしょうけれど、
この板に書き込んでいる創価学会員のタイプ・質を考えれば、彼らのこのスレに対する姿勢は一般に
そのようになってしまうのではないかと思います。
一般に未だ現実に議論がその場において形成されていない場合に、議論(その場合に、真に「議論」と
言うべきものになりうるのかどうか自体が問題ではあるのですが)を創価学会員と開始するためには、
当然の事ですが相手方の関心を引かなければ始まりえないわけで、ある意味では、相手方を議論に
向けて引き入れるだけの動機付けが必要となり、動機付けのためのそれなりの衝撃を与えなければ
ならないのだと思います。
内容的にももちろんそうですが、形式的・方法的な点でもそれは求められるでしょう。
例えばですが、このスレは“sage推奨”とされていますが、“荒らし”を少しでも避けるための手段
としてはそれも価値のあるものだと思いますが、当然その反面として広く一般的には目に付きにくく
なるわけであって、学会員にとっても同様の効果を生ずるはずです。
おそらく、丁々発止の議論というものを望むと、その反面として否応なく、このスレの求めるような
きれいなスタイルは維持しがたいものとなってしまい、もっと泥臭くどこか好戦的なものとなって
しまわざるを得ないのではないかと思います。
(レス>321の続き)
ひゃっきまるさんの仰る「学会員と議論」というものの具体的在りようは、今ここで私が述べた
ものとは少し異なるようであって、相互理解に向けた粛々とした議論ということなのでしょう。
ただ、私としては、この2ちゃんねる創価・公明板という場においてそれを実現する(求める)のは
困難であろうと思うところなのです。
最後になりましたが、もちろん私は、このスレを否定したいわけではありません。
先にも述べたように、このスレには、この板における独特の価値があるのであって、その特質を
潰してまで無駄に別な方向を求める必要はないのではないかと思うだけです。
>>319 母が熱心で困ってますさん
私には「こういった対立(衝突含め)は存在したほうがむしろ望ましい」とまで言い切ることは
できませんけれど、事実として様々な見解・立場の相違が存在する以上、或る種の対立・衝突は
時として避け得ないものして出て来ざるを得ないと思います。 (現に、このスレで行っている
ところの私の“妄想糞坊主”なる見解を巡る論争も、そのようなものの一つと言うことができますね。)
しかし、時としてそのような対立・衝突が生じたとしても、議論そのものを封殺するような方向は
最悪の選択だと思います。
それは、相互理解にいたる道をも潰すものに他なりません。
重要なのは、それを修復しがたいほどのものに発展させないことでしょう。
お互いが共通に立つことのできるところをこそ、大切にしたいものです。
324 :
ひゃっきまる:2009/04/19(日) 02:23:38 ID:kmK54TzQ
PCから書き込んでみようと試みたのですが、どうやらもう永久にアク禁
のようですね。携帯に送って書き込んでみますが、非常に手間なので、
やはり頻繁には書き込めないと思います。
>>318 母熱さん
大変にお久しぶりです。またよろしくお願いしますね。
>>320 法律ヲタさん
率直な感想として、多くの人はあまり長文を好まないと思います。
また、意見の細かい点まで、いちいち自分とはどう違う、ああ違う、といわれても、読むのが疲れるだけなのです。
一般社会の通常のコミュニケーションでは、この人はこういう考えを
持っているんだな、ということで、それが深刻な問題でもない限りはそれで終るのではないでしょうか。
法律ヲタさんはべつに自分の意見への同意を求めているわけでは
ないことはよくわかっているつもりですが、レスをむけられた僕からしてみれば、意見を否定された気分になることはわかるでしょう。
そして、そのことについてレスせざるを得ない気持ちにもなります。これは自然な感情の動きだと思います。
結果的に、どうでもよいことでレスがエンドレスに続くことになり、読むのも書くのも大変な労力をさかれることになるでしょう。
325 :
ひゃっきまる:2009/04/19(日) 02:24:24 ID:kmK54TzQ
(続き)
>このスレの議論そのものについて、
改めて注意を促さなければならないほどに感情的な書き込みが
なされているのでしょうか?
Bさんの僕のレスに対する反応は大変感情的で、しかもそれが
完全に誤解に基くものであったので、それは今でも気にかかっています。
>勝手な言い種ではありますが、 私が思うには、
ひゃっきまるさんのお考えとは異なって、このスレは、
学会員との議論には かならずしも向いていないのではないでしょうか。
事実これまでこのスレでは多くの学会員が議論してきましたし、
なぜそれができてきたかといえば、僕やその他の常駐の皆さんが
そのような議論ができるように努力してきたからです。
具体的には、どんなに乱暴な言葉遣いをする人に対しても、
あくまでも丁寧に接するという態度を崩さなかった、ということです。
法律ヲタさんの、創価学会員に対するイメージは、僕のものとは
大きく異なっています。その前提が違うために判断や対応の仕方も
異なっているのだと思いますが、自分でそう思うだけならまだしも、
このスレでも自分のやり方を押し付けてくるようなことがあれば、
僕は繰り返しこういわねばならないでしょう。
「このスレでは、乱暴な言葉遣い、挑発、罵倒などはNGです」と。
>>320 法律ヲタさん
>改めて注意を促さなければならないほどに感情的な書き込みがなされているのでしょうか?
>スレの主題・趣旨に適合する範囲での議論においては、さほど感情的な書き込みは無かろうと
>思うのですが…。
これは僕の印象ですけど、
>>306を投稿した時にも、丁々発止は通り越したピリピリした
一触即発みたいな空気は感じられました、もし仮に議論の内容に興味を持った人がいたとしても
途中参加しにくい雰囲気だろうと思います、「なんか確執があるっぽいから部外者は遠慮しよ・・・」
と感じさせるだけのものは今も充分に残ってるんじゃないですかね?
それでも僕が敢えて割り込んだのは、なんかここで意思表示しないともう◆Bwr5tJDUMcさんとは
話ができなくなっちゃうかも?と考えたからです(蛙さんは別の掲示板へ行けば元気な様子は
確認でいますが、僕にとって◆Bwr5tJDUMcさんとの接点は2ちゃんだけ)もしその心配がなきゃ
僕も遠慮してましたよ、わざわざ10日も前の他人宛の蛙さんの書き込みに対しレスつけたりは
しません、そもそも僕の軽薄な空気はこのスレに相応しくないと自覚してましたしね。
327 :
母が熱心で困ってます ◆1Cz5bN8eQk :2009/04/19(日) 10:20:06 ID:3Cx36IM6
>>323 法律ヲタさん
>重要なのは、それを修復しがたいほどのものに発展させないことでしょう。
>お互いが共通に立つことのできるところをこそ、大切にしたいものです。
そうですね、対立を深刻化させない努力はやはり必要だと思います、これは
>>319でも
書いた「深刻な衝突で潰しあいになった時だけ仲裁が必要」というのと同じ趣旨ですよね、
ただし僕は"共通に立つことのできるところ"は対創価の一点だけで良いと思ってます、
相互理解まで期待していません、モチロン前のように楽しく話が出来れば最高なんですが・・
難しいかなと・・色々な意味で残念な気分です。
328 :
松木 ◆w7Twi9gr/. :2009/04/19(日) 11:22:06 ID:y6Jjx9wz
久しぶりに来ましたが、皆さん健在ですね。
かつて2CHができて間もない頃、散々やり合ったのが
懐かしいですな。。。
2ch以外でも法(呆)太郎なんかともやりあいましたね。
むかし居たコテハンの皆さん、アルフさんとか今は
どうしてるのでしょうかね。。。
329 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/04/19(日) 11:47:11 ID:y6Jjx9wz
過去のコテハン
8年以上前?
AREX、ギャグ係、隱居、佐田和成、片山友一
アルフ、ROCK、佐武誠 、電波男Ψ(´д`)Ψ
>>325 ひゃっきまるさん
>「このスレでは、乱暴な言葉遣い、挑発、罵倒などはNGです」と。
2ちゃんみたいな所は煽り上等で丁々発止のヤリトリになるのはある程度仕方ないと
思うのです、僕がそういうの好きだからというのもありますが、それだけじゃありません
ここはリアルより本音が出やすい場所なのに、言葉以外の伝達手段がないからです、
リアルにおいて視線、声のトーン、身振り・手振りで表現してる要素も、すべて言葉で
表現するしかなく、煽り等も許容範囲であり、醍醐味かなと・・・
ですが、それも自論展開中心のレスの話であって、感情面に突っ込みすぎたレスが増えてきたら
やはり意識して煽りや罵倒・皮肉の類は規制する必要があるのかもしれません、そういう展開は
不毛な感じがするので、そういう場面では僕も出来るだけスルーを心掛けてます。
それから・・・
>>312 >なぜ春田さんがヲタさんに注意を喚起したのかなぜBwr5さんが春田さんの事を
>ダブスタは引っ込んでいろって喚き散らしたのかなぜヲタさんの姿勢を春田さんが
>なじったのか?
↑ ↑ ↑ ↑
こういう部分については「シラネーヨ!」が基本だと思ってます、ある程度の事実関係を
承知しとく必要はあるんでしょうが、深く言及・介入する必要はないと考えています。
感情のもつれは各々自分の中で折り合いをつけてもらわないと、泥沼に嵌ってしまうから。
331 :
ひゃっきまる:2009/04/19(日) 13:50:27 ID:kmK54TzQ
母熱さん
おっしゃることはよくわかります。
僕もあくまでこのスレに限定したお願いとして言っています。
しかし、
>1
に明記されている以上は、このスレに書き込むかたはできるだけこのスレの精神を尊重してほしいと思います。
また、感情を抑えろと言っているわけではありません。「非常に腹立たしいです」「不快です」と、言葉で表現することではじめて、そこに「相手の人格そのものを否定しているわけではない」という相互了解、信頼関係が生まれ、議論に発展が促される結果となると思います。
単に相手を攻撃したい、罵倒したい、という衝動で書かれているかたは、別スレでお願いしたいです。
また、多くの学会員は、アンチ学会を「悪」「頭が悪い」「生命が濁っている」と考えていると思います。そういう宗教なのです。
ですからなおさら、学会員が安易にアンチを幼稚で野蛮な人間であり、その言には聞くに値する言葉などない、と判断させる余地がないほどに、僕は正々堂々と振る舞わねばならない、と考えています。
>>331 ひゃっきまるさん
>僕もあくまでこのスレに限定したお願いとして言っています。
了解しました、スレ主さんの言葉ですから重く受け止め、そのように心掛けたいと思います、
もし目に余る場面があったら、遠慮なく指摘して下さい。
>と判断させる余地がないほどに、僕は正々堂々と振る舞わねばならない、と考えています。
真摯な信条には頭が下がります、しかし苦しくないですか?
前述しましたが、自分(学会員)はこの通りの軽薄な書き込みスタイルであります、
軽さというのは、明るさと共に人を食った(舐めた)ような、ある種の挑発的要素を伴います、
自覚があるならもっと歳相応に重みのある書き方を・・・と言われちゃいそうですが、
そんなガラじゃないんで無理がありますし、背負ってるかなり情け無い諸事情もあって
僕が"重い"となんだか"暗い"に直結しそうなので、結果的にこのようなスタイルに
落ち着いてしまいました、ですからこちらのようなスレでは非常に肩身が狭い(汗)
>母熱さん
いや、苦しくはないですよ。お気づかいありがとうございます。
というより、これはネットの掲示板に限らず、現実にも通用する、心のトレーニングのようなものかもしれません。
まあ、ネットの人格なんて、悪いようにも良いようにもいくらでも装えるものです。
どういうスタンスであろうとも僕は良いと思います。
ただ、このスレではこのスレの決まりを守ってほしい、ということです。
>>1は自分が考えた一方的な決まりをふりかざしすぎ
乱暴な言葉遣い禁止なんてわざわざ明記する事じゃない
わざわざ明記しているからヲタ氏や春田氏がここでは態度を改め自重したカキコをしている。
>>335 ひゃっきまるさんにレス>324のように言われると、やはりスレの主題そのものではない内容は
多少とも書き込みにくく思うのですが、あえて書き込ませていただきます。
私の側からすれば、そもそも「態度を改め自重したカキコをしている」と思うこと自体が事実に
則っていないと言わざるを得ないのだが、一応それは措くとして、推測にすぎない事ではありますが、
おそらく春田の蛙さんも、単にひゃっきまるさんがレス>1で明記しているからそれに従っている
というわけではなかろうと思いますよ。 (もちろん、私は、そうです。)
そうではなくて、実際にスレの中でひゃっきまるさんがそのような態度をとり続けようとしているからこそ、
それを尊重する気になるわけではありませんか。
もちろん明記すること自体には価値があるとしても、単にレス>1に明記すればそれに従わなければ
ならないのだとするなら、実際にはとんでもないスレを拵える事もできてしまうわけであって、
そのようなものを認めることなどできないのです。
>>334 そのような批判もまったく成り立ち得ないものとは思いませんけれど、ひゃっきまるさんの明示する
内容も、それはそれで決して合理性を欠くものではないでしょう。
一般論として私は、スレ主なる存在の示す制約にどのような場合も絶対性を認めなければ
ならないとは思っておりませんが、具体的にそれを破る合理的必要性も存在しないにもかかわらず
そのように振舞うことも問題ではないかと思います。
そして、そのように明示することによって、何よりそのような制約に一番服さなければならない
制約を課する事になるのは、実はひゃっきまるさん御自身なのだという事を、書き込もうとする
我々は理解しなければいけないと思います。
そのような「決まり」を設けることで一番大変なのは、我々ではなく、ひゃっきまるさんなのですよ。
338 :
ひゃっきまる:2009/04/22(水) 12:29:31 ID:m+Jin8ny
法律ヲタさん
何度も言うようですが、僕はあくまでお願いとして1の主旨を守ってほしいと言っているだけです。命令ではありません(また、自分が管理しているわけでないネットの掲示板でそのようなことができるはずもありません)。
しかし、スレの主旨に反対しつつカキコむのであれば、スレ違いということにはなるでしょうね。
まあ、僕は今まで、「スレ違いだから他スレでやってくれ」といったことはほとんどないと思います。
それは、ほとんどの人は注意すれば直ちに態度を改めたからです。
制約云々に関しては、僕自身がこうむるリスクよりも、実りある議論ができるという利益のほうがはるかに大きいと思うので、少なくとも僕にとっては問題になっていません。
考え方の違い、価値観の違いというのはあると思いますが、できるだけ互いに尊重することが必要ではないですかね。
そのために2ちゃんねるには「すみわけ」という考え方が定着しています。
止みね善男子ィ
地涌の菩薩が喧嘩とはみっともない
三障四魔だらけのスレですねw
佛滅度後 恐怖惡世 多諸厨房 荒傳言板 (法華経厨房品)
佛の滅度の後 恐怖惡世に 諸の厨房多く 傳言の板を荒さん
人間革命=今の自分の意識や性格を変えること
さぁみんなで21世紀のマーチを合唱するときが来たんだ
阿梵大法 専家瀏覽 遇諸厨房 應得消散 (法華経厨房品)
阿梵の大法は 専家の瀏覽 諸の厨房に遇ふも 応に消散することを得べし
*阿梵 あぼ〜ん *専家 専用 *瀏覽 browsing
>>338 ひゃっきまるさん
今日は少し早めに出かけたいので、都合により夜に書かせていただくことにします。
わざわざありがとうございます。
僕も好きなときにかきこんでいるので、わざわざ断らなくてもよいですよ。
何故アンチは 嘘つきで 卑しくて ナマクラで 馬鹿で チョンが多くて
間抜けで 阿呆で キチガイばっかりなの? !!!
アンチが悪いのでは無く、ヲタが基地外なだけ。
50過ぎのオヤジがな。
350 :
滝山:2009/04/23(木) 22:09:12 ID:???
一時期、体調を崩していたため
書き込みを控えていました。
>>136 法律ヲタさん
>“現”では結果(応)が生ずることなくして
>“当”でのみ出る事があると明確に述べた日蓮の遺文は
>存在するのでしょうか?
とりあえず
>>124であげた
「今は毒身を棄て後に金身を受くれば豈歎くべけん」
が該当するのではありませんか?
そもそも業報思想とは、功徳にしろ罰にしろ
来世にも持ち越されるものだというのが大前提です。
日蓮はそこに現世での一発逆転要素を持ち込みはしましたが、
業を全く帳消しにするとまではしていません。
軽くにしろ必ず受けるべきものとされています。
それが結果の現れ方にも影響するということになるわけです。
現世で出なければ、来世に出ると考えるのは
業報思想の上では当然の考えだと言えるでしょう。
351 :
滝山:2009/04/23(木) 22:10:02 ID:???
>>138 >弟子に対しては蒙古襲来について触れることを
>禁ずるような内容の遺文を残すということ自体が、
>日蓮の敗北を示しているものだと思います。
撃退したとはいえ、多数の死者が出たわけです。
弟子に禁じたのは空気を嫁ってことでしょう。
日蓮は売国奴だったわけではないですから、
当時の社会情勢を考えれば当然だろうと思います。
>三度目以降の蒙古襲来について見解を
>公表しなければならなかったはずです。
日蓮は評論家ではありませんから
見解を示すだけのためのプロパガンタはしないでしょう。
日蓮は三度諌めて既に自分の果たすべき義務は
すっかり果たしたと考えていましたから、
そのような意図での発言もありはしないでしょう。
そして見解が元のまま、変更がないのであれば、
改めて新しく公表する必要性も特にはないだろうと思います。
最後まで安国論に手を入れ、講義していた事実をもって
十分と言えるのではないでしょうか。
この件に関する日蓮への人格批判は不適当なものだと思います。
「日蓮の言ってることは結局無茶苦茶。
予言的中?じゃなくてハズれたんですよ」
という事実の提示だけで批判としてはまぁ十分じゃないでしょうか。
>>338 ひゃっきまるさん
そもそも私の書いたレス
>>336-337について、ひゃっきまるさんからそのようにレスを頂戴する事に
なるとは思っていなかったのですが…。
どうも、何かを書けば思わぬ方向へ話が進行してしまうようで、多少困惑するところです。
まず、私も「命令」だと言っているのではありませんし、ましてや、その内容自体が間違っているとか
言っているわけでもないのであって、むしろ、このスレのあり方として基本的には支持できると
述べているつもりです。 (もっとも、物事は何でもそうだと思いますが原則があれば例外も
あるのであって、前にも書きましたように、荒らしに対する考え方などについては、全面的に
同調しているわけではありませんけれど、あくまでも例外です。)
(レス>352の続き)
>制約云々に関しては、僕自身がこうむるリスクよりも、実りある議論ができるという利益のほうがはるか>に大きいと思うので、少なくとも僕にとっては問題になっていません。
ひゃっきまるさんのお書きになった文章の順番を無視することになりますが、まずは、問題が
少ないと思われる、こちらから述べます。
ひゃっきまるさん御自身がそのように捉えお感じになっているという事自体は、私も喜ばしいと
思いますが、そのように、実際にひゃっきまるさんが主観的にどのように感じているかを問題とした
のではなく、客観的に自分自身の発言によって拘束されるという点に触れただけのものなのです。
当たり前の事ですが、誰でも自分の発言の内容に拘束されなければならないわけです。
ところで、その前に存在する三行の文章、「しかし、スレの主旨に反対しつつカキコむのであれば、
スレ違いということにはなるでしょうね。」・『まあ、僕は今まで、「スレ違いだから他スレでやってくれ」と
いったことはほとんどないと思います。』・「それは、ほとんどの人は注意すれば直ちに態度を改めた
からです。」という部分と、最後の二行、「考え方の違い、価値観の違いというのはあると思いますが、
できるだけ互いに尊重することが必要ではないですかね。」・『そのために2ちゃんねるには「すみわけ」
という考え方が定着しています。』という文章は、私としては気になる点が幾つかあります。
(レス>353の続き)
まず、この文章全体についてですが、これは、私のことを言ったものなのでしょうか?
つまり、スレ違いの事を書き続けており、価値観の違いを尊重していない、とおっしゃりたいのでしょうか?
それとも、一般論ということなのでしょうか?
それと、考え方・価値観の違いを尊重するための2ちゃんねるにおける「すみわけ」とは、具体的には
どのような事を指しているのかが良く分からないのですが、お手数ですがご説明いただけないでしょうか。
2ちゃんねるは一面では議論の場でもあると思うのですが、その点はどうお考えなのでしょうか?
そして、「それは、ほとんどの人は注意すれば直ちに態度を改めたからです。」という部分なのですが、
これは批判として述べるのではないので、その点をお間違えにならないでいただきたいのですが、
ある意味で、これがこのスレの特徴をよく表しているのだと思うのです。
それは、先にレス
>>320-321などで私が述べた点に関係するのですが、ここに来る学会員さんは
学会員の象徴的パターンとも言えるバリ創価といった存在とは少し異なるのだと思うのです。
だからこそ、“相手が態度を改めうる”のだと思いますよ。
いわゆるバリ創価との議論は、本質的には議論と呼べるようなものではありません。
私は、この板に来る以前の実生活の中での学会員との関わりの中でも、そのように感じてきております。
>>350 滝山さん
そのレスの最後の段落にお書きになっている内容は、私も別に問題があるとは思いませんが、
しかし、その内容から論理的に直ちに「“当”でのみ出る」とはならないのではないでしょうか。
“現”でも生ずるかもしれないし生じないかもしれないけれど、“当”でも出る、という結論しか
得られないはずです。
それと、これは日蓮自身の見解を客観的に追究するという事ではなくなってしまいますが、
創価学会的日蓮理解という観点からは、おそらく“現”を問題としないという見解は
採りえなくなるのではないかと思います。
創価学会の考え方というのは、まさに現世利益の典型ではないでしょうか。
>>351 滝山さん
>撃退したとはいえ、多数の死者が出たわけです。
>弟子に禁じたのは空気を嫁ってことでしょう。
>日蓮は売国奴だったわけではないですから、
>当時の社会情勢を考えれば当然だろうと思います。
しかし、こうも言っているわけです。 (富城入道殿御返事)
「今亦彼の僧侶の御弟子達・御祈祷承はられて候げに候あひだいつもの事なれば秋風に
纔(わずか)の水に敵船・賊船なんどの破損仕りて候を大将軍生取たりなんど申し祈り
成就の由を申し候げに候なり、又蒙古の大王の頸の参りて候かと問い給うべし」
一方で日蓮は、“何も言うな”ではなくて、このように富城(富木)入道に言えと述べている
わけですが、これを実際に富城入道が相手に言ったとすれば、それって、捨て台詞のような
ものでしかありませんよね。
>日蓮は評論家ではありませんから
>見解を示すだけのためのプロパガンタはしないでしょう。
>日蓮は三度諌めて既に自分の果たすべき義務は
>すっかり果たしたと考えていましたから、
>そのような意図での発言もありはしないでしょう。
過去、日蓮は、祈雨だとか公開法論だとかの勝負を望んだ人物です。
蒙古襲来に際しての真言等の祈祷の問題は、日蓮が世間に公開したものではないかもしれませんが、
そのような勝負と同じ性質のものではないでしょうか。
教団内部においてこれを問題としない(できない)のだとしたら、まさに妄想に固まった盲信と
評さざるを得ないのではありませんか。
日蓮は(その門下も含めて)、その意識としては真実・真理を追求(追究)した人ですよね。
それにもかかわらず事実を無視する姿からすれば、大聖人などと評価することこそ問題だと思います。
ヲタ氏が何ら日蓮関連研究書を(批判的・肯定的共々)読まずグダグダ言っているのが良くわかる。
ここで言及されている事柄を扱った文献はいくらでもある。
ヲタよ。
恥さらしも、もうそのへんにしとけや。
お前は層化以下だぜ。
これほど層化からもアンチからも嫌われてる奴は、あんまりいねえよ。
法律ヲタさん
どうもまた話にすれ違いが生じているようです。
僕としては一つ一つ僕の発言の意味を説明すべきなのでしょうが、もうしわけないですが、今はそこまでの余裕がありません。
また、またもやエンドレスのやり取りが続くのかなあ、という予感もあります。
なぜ毎回、単純なことを言っているつもりなのに、意図が正確に伝わらないのか不思議です。
しかし、おおむね僕の考えを理解してもらえているようですから、それでけっこうだと思いますし、これ以上ぐだぐだ言う必要もないでしょう。
何を議論しようとも、何を書き込もうとも、自由です。
ただ、僕は1の主旨に沿ったカキコミをしてほしいと、ときどき「お願い」をします。
それに従う、従わないも自由です。
1に沿っているかどうか判断するのも自分でやってください。
仏の顔も三度までだよ、ヲタ君。【住み分け】とは平たく言うと【出て行ってくんね?】という意味さ。
学会信者を論破して悦に入るのが目的の君には焼きスレがホームだろってこと。
焼きスレならいつもの仲間が必ず援護してくれるが此処では放置じゃないか?空気を読んで自重してるんだと思うよ。
>>359 ひゃっきまるさん
>なぜ毎回、単純なことを言っているつもりなのに、意図が正確に伝わらないのか不思議です。
それは、レス>338で「考え方の違い、価値観の違いというのはあると思いますが、できるだけ
互いに尊重することが必要ではないですかね。」と貴方ご自身が御指摘になっているように、
「考え方の違い」・「価値観の違い」があるからでしょうね。
>何を議論しようとも、何を書き込もうとも、自由です。
>ただ、僕は1の主旨に沿ったカキコミをしてほしいと、ときどき「お願い」をします。
>それに従う、従わないも自由です。
>1に沿っているかどうか判断するのも自分でやってください。
(レス>361の続き)
そうですか。
私は、基本的には「創価学会の教義と日蓮について」語っているだけです。
事実経過を簡単にまとめれば、当初は書かれている内容に関する資料を紹介してほしい旨を
依頼したことから始まり、私の意図するところではなかったのですが、結果的に「創価学会の教義
と日蓮」に関する議論が始まったわけです。
そして、その議論そのものではなく、それに付随してスレの運営の点も議論されるようになった
という事でしょう。
そのような中で、日蓮の認識の妄想性という点を考察するに際して“妄想”概念自体に関して、私としては、
乾闥婆氏のように(おそらく、ひゃっきまるさんも同様のご見解だと思われますが、)さまざまな現実に
それを適用しようとすると問題を生じかねない把握の仕方をするのかが理解できないと問題提起している
だけの事です。
もちろん、それに応答するもしないも自由な事ではありますから、私としては、しばらく行方を見守る
というだけの話です。
>>357 まったくオマエさんの書き込み内容は、恒常的に俺に粘着しているヤシのやり口そのものだな。
具体的事実を示さずに(示せずに)、さも何か問題があるかのように思わせる手口。
それがオマエさん達のやり方の特徴だ。
俺の言っている内容的に何か問題があると主張するのなら、その「文献」とやらを具体的に引用等して
キチンと俺を批判してみろよ。
書き込みの責任もとらずに済むよう名無しでしか書き込めないような奴にそれを求めても、無駄なだけ
だろうけれどな。
>>358 「恥さらし」・・・具体的に相手と議論することのできないオマエのような奴のことか?
オマエに嫌われることなど、俺にとっては勲章のようなものだとしか思えんぞ。
理屈の通った批判のできないオマエなどはな。
>>360 >仏の顔も三度までだよ、ヲタ君。【住み分け】とは平たく言うと【出て行ってくんね?】という意味さ。
ホ〜? ひゃっきまる氏は『まあ、僕は今まで、「スレ違いだから他スレでやってくれ」といったことは
ほとんどないと思います。』と言っているぞ。
矛盾する態度をとっていると言いたいのか?
>>365 その通りだよヲタ君。
言いたいけど言えないみんなに変わって代弁したまでだ。
巣にかえんなよ、見込みねぇよオマエ。
>>364 ヲタは自分にやさしく他人に厳しいのか?
そういう偉そうなことは、オマエがカエルと議論をしてから言え。
法律さんは法律の専門家みたいだから、仏教・宗教の
ディベート談義とかよりは、もうちょっと得意な法律分野の
知識を活用して語ってもらった方が世のため人のため
になるんじゃないの?
日蓮教義や創価教義が、めいわく極まりないカン違いな
仏教もどきであることはおいといても、それらが引き起こす
多数の問題は法律と照らしてどうなのか? というのは興味
はあってもしろーとにはなかなかわからんよね。
たとえば国立戒壇とか政教一致・王仏冥合とかは語られてる
みたいだけど、個人的なギモンとして要望だけ書いてみると・・
1. 法華経や日蓮御書をまったく知らないどシロート会員が
しゃくぶくなる勧誘行為を行うのは、訪問販売法あたりで
言う商品説明やその危険性を説明しない状態だから、
宗教とはいえ金を取ったり物品の購入を強要したりする
のは問題にならないのか?
2. たとえば信心で幸せになれる、はウソっぱちとしても、
社会的成功を保証するとか、白痴どうぜんのおっさんが世界
最高峰の知性とか自称すんのは 「商品の不当表示」
にあたるんじゃないのかなー? という気もするしww
3. サラ金の利息過払い訴訟なんか見ても、一般常識を
超えるぶぶんは全額返還の方向だから、そろそろザイム
返還の集団訴訟とかも・・・
↑こんな話題に答えたほうが、才能のムダ使いにならないような・・・
369 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/04/26(日) 14:41:58 ID:JZFEBHzd
えぇ〜っと 材料化学の僕は何をすれば…
とりあえず立正安国論正義顕揚750年おめ
人格障害者の法律ゴタゴタは永遠に法律家を夢見るだけで終わり
恐らく実社会ではゴミみたいな存在
>>364 ぴょんきち相手に議論することもできないオマエが「恥さらし」だろ。
理屈の通ったぴょんきち批判もできないの?
情けね〜なw
キモヲタよ!お前内部アンチと馴れ合う内にすっかりキムチ臭くなったな〜
それとも加齢臭がキツい年齢か?
老人ボケしてるようだから早く脳をスキャンしてもらえよ(藁)
質問しま〜す。
「文証」って経文の事でいいんですよね?
「御書」に従ったらダメですよね?
なんとなく、そんな気がして。
374 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/05/12(火) 21:52:52 ID:R351EzCi
日蓮の思想を論じる場合は日蓮の確実な遺文が基本資料。
(確実な遺文 真蹟在、真蹟曾存、上代写本在)
>>373 その通り。
日蓮自身の「文証」もそういう意味合いだね。
>>374 日蓮や仏教に限らず、基本中の基本だね。
質問します。
これから「仏法修行」する人、又は「学ぶ人」は
経文が先なのか?御書が先なのか・・・・?
譬えて言うとしたら「鶏食うか、もしくは卵食うか?」
星名五郎太郎殿御返事に
「仏法の邪正をただす事皆経文をさきとせり。今当世の道俗貴賎、皆人をあがめて法を用ひず」
とある。同様の趣旨の遺文は多い。
したがって日蓮の思想としては、日蓮の遺文にあわせて経文を解釈することは正しくないだろう。
>>954 >どこに何度も書いてあるというのだよ。
やっぱり全然気がついてないんだなw
一生気が付かないかもしれないし、そのうち気がつくかもしれない。
引用はあえてしない。
オマエが気付くのをたのしみにしてるわ。
>「立論から間違ってる」のは、乾闥婆氏の方だ。
それをカエルに言えよ。
日蓮ってをカエルのレスをもう一度よく嫁や。
379 :
378:2009/05/14(木) 17:20:19 ID:???
すまん、焼き刷れに書こうとして間違えた。
380 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/05/14(木) 18:10:36 ID:rZ2/8pZS
あげるよ
焼きスレ3人集ピョンキチ春田とホモ律ショタと長文居士B
あいつらが来るスレは必ず廃れるの法則。
質問です。
現世と来世の日蓮思想とはなんですか?
まさかと思いますけど「生れ変わり」って事?
お久しぶりです
>382
もう少し具体的に質問していただけますか?
あなたの聞いた日蓮思想のソース(友人、本など)と、文脈。
できれば、なぜ知りたいのか、どのようなことを知りたいのか、また、なぜ「まさか」と思うのか、を教えてください。
384 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/05/24(日) 20:52:14 ID:ytl7s/GG
「詳しく」と言われても・・・・・?
現世って? 来世って?
現世で悪い事すると生まれ変わってから・・・なんとか、なんとかとか
誰かが言ってた様な気がして。
386 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/05/24(日) 21:25:56 ID:ytl7s/GG
>>385 それは、 勧誘するときの罰論
前世法華経を冒涜したから今世○○だ
だから創価学会に入りましょう
前世法華経を冒涜したから障害者なのだ とかレパートリーは様々です。
因果のないところの因果応報論です。
誰かが言ってた、なんとかかんとか言ってた、では、申し訳ないですが、なんともこたえようがありません。
例えば、創価学会の友人が、勧誘するときになにか言っていた、くらいの情報は欲しいです。
ひとくちに日蓮思想と言っても、宗派は無数にありますし、考え方、立場は様々だと思います。
ある程度はネットでも調べられると思います。
388 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/05/24(日) 22:36:26 ID:VJOW+vP9
最近は「人生には師匠が絶対に必要」と勧誘
以前の「祈りは絶対に叶っちゃう」は引っ込めた
ここのスレ
>>350のレスです。
>現世で出なければ、来世に出ると考えるのは
>業報思想の上では当然の考えだと言えるでしょう。
390 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/05/25(月) 14:54:46 ID:6U3NHIYC
日蓮という人物は、仏という見方も誇張された伝説もあるが
頑固でハチャメチャに見えて、信念の人ですね。 まさに伝説に残る人間、
鎌倉時代の伝説人、日蓮の人間像を掘り下げてみてはどうでしょう?
391 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/05/25(月) 17:29:47 ID:19/0Kcm1
>>390 >日蓮の人間像を掘り下げてみてはどうでしょう?
「堀下げ」るとしても
「遺文書」は何処まで本物か?詳しい方が居ればいいですけど。
日蓮よりも大川りゅうほうだぜ!
大川きょうこは、りゅうほうの妻だぜ!
おまえら〜!
創価をぶっつぶすチャンスだ!
幸福実現党おうえんしょうぜ!
「遺文書」の付け加え、「偽遺文書」の証明もおながいします。
そうすれば真実が見えてくるはずです
「おながい」だって?
>>392の文底(=都合よく拡大解釈)を読むとやね。
正しいから法難が起こるのであって
大川工業、日本の柱とならむ、日本の柱とならむ
396 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/05/25(月) 19:19:12 ID:bwZ8pZqU
日蓮て時の幕府に3回だか追ってかけられた。
それを法難と称してる基地外さ。
今で言う指名手配!前科者さ。
397 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/05/25(月) 19:40:53 ID:19/0Kcm1
日蓮「文字曼荼羅」に疑問あり
日蓮ほどの人間が何故に「神仏習合」の「曼荼羅」を図顕されたかと?
>389
業報としての過去世、来世が語られることはあるかもしれません。
しかし、それは日蓮独特の思想ではありませんから、それを日蓮思想というのはおかしい気がします。
あと、あなたのイメージする生まれ変わりとは違うかもしれません。
仏教の基本的な教儀では魂は否定されており、輪廻するのは業ということになっています。
これは少なくとも伝統仏教では保たれているはずです。
日本人は転生を信じないので日本の仏教はなんとか来世の教義を無効化しようとした。
中国人も転生を信じないから、それは中国仏教から始まっているが(「サムエの論争」)。
日蓮や親鸞がいう浄土はイデアの世界みたいなもの(「実報土」、「寂光土」)で、
死後に行く実際の場所ではない。
創価学会では、生まれ変わりが積極的に語られることはあまりないと思いますが、どちらかというと肯定する立場じゃないですかね。
法律ヲタは創価信者だった。
家族(特に母親)が熱心で信仰に関する事で
ヲタに暴力を振るう過去もあった。
一時期日蓮正宗と手を組んで居たヲタはそのまま正宗に残った。
仲間の「母熱」は正直に創価信者を語るも
「春田、TR」は浄土真宗信者を語っていた。
創価幹部らに活動を強要され、恨みや憎悪の塊になる
創価被害者も少なくは無いが自縛霊同然の存在に過ぎない。
数年に渡り堂々巡りの論争を繰り返す現状がその証拠である。
特定の人を野次る目的でAGEるのはご遠慮いただきたく思います。
どなたさまも、以下を守っていただくようお願いします。
コテハン推奨。sage推奨。
単レスはなるべくひかえてください。
スレが荒れる原因になりますので、野次や乱暴な言葉遣い、挑発するような言葉遣いはNGです。
とくに継続したレスを希望するかたは、混乱をさけるためにもコテハンを使うようにして下さい。
404 :
乾闥婆:2009/05/26(火) 21:51:11 ID:???
>>399 中国において、仏教が受け入れられる最も強い要因となったものが輪廻の説であると、あ
る本で読みました。そもそも輪廻・転生の概念がなかった中国人にとって、儒教・道教で解
決し得なかった、善を成しても不幸に終り、悪をなしても恵まれた人生を終えることがあ
るのはどうしてなのか、という問題を、この輪廻説(中国では三世報応説)は解決してし
まったからだそうです。ところがインドでは輪廻説は仏教以前からある考え方なのであっ
て、インドにおいては苦しい生が永遠に繰り返されるという恐怖の対象であり、そのため
に転生を繰り返さない「解脱」が求められ、仏教もその一つであったわけで、中国におい
て仏教が受容されるそのありようとは逆であったようです。そういう意味では仏教自体が
最終的には転生を否定する方向を終着点として持っていたのかもしれませんね。それに、
浄土とは転生を繰り返さない到達点であるとするならば、そもそも転生の否定ということ
になるようにも思います。またサムエの宗論は中国の禅僧とインド僧との論争であって、
頓悟思想をその中心に持つ中国禅を持って中国の仏教受容を代表させることはいささか違
うように思います。日蓮の浄土思想には関心があります。日蓮のいう霊山浄土とはどのよ
うな概念なのでしょうか。強い現世志向の持ち主であった日蓮が晩年に霊山浄土を言う展
開はどのようなものなのでしょうか。親鸞の浄土、法然の浄土、補陀落渡海の補陀落も一
種の浄土であると思いますが、それぞれ概念としては違うものなのでしょうか。
法律ヲタは法律家とは全く無縁の妄想屋。
相手の顔が見えないのを良い事に
必要以上のハッタリをカマシているチンピラに過ぎない。
還暦に近いせいかプライドだけは高く
薬物投与しながら2ちゃんに張りついている。
すでに社会から疎外された産業廃棄物同様のヲタ。
後は死ぬまでこのスレの様な創価潰しと無縁のフィールドで
無駄なもがきを続けるのだろう・・
感化された内部アンチ達はヲタの悪影響を受け
更なる創価地獄に落ちて居る様だ。
>>404 外来宗教は最初はその変わった教義に魅力を感じた人たちが受容しますが、
幅広くひろまった場合には次第に民族固有の思想傾向に合わせて変容します。
大乗の仏とは全知全能の絶対者であり、いかにしても人がその一生の修道で
そのような者になれるわけがありません。無限回の転生を経て少しずつレベル
アップするしかないのは当然です。
そこで転生思想がない中国や日本では目標を下げました。頓悟、即身成仏、
一生成仏、現生正定聚みな同じです。なんらかの安心立命に達する以上の
意味はありません。ただしたてまえでは目標を下げたといいません。衆生は
みな本覚の仏であるから大乗の仏と本質は変わらないので下げていないという。
だからしかるべき葬儀をおこなえば、亡くなった人はすでに仏である。
これは結局、中国人や日本人には転生の思想がないからというしかありません。
ただし中国と日本ではかなり差があります。中国人には不老長寿の仙境信仰が
あったので、これを土台に願生思想が盛んになった。西方や兜率の浄土なら
仏や補処の菩薩がおり、国全体が仏教の大学院のようなもので、しかも寿命は
無限に近いからたてまえ通りの仏陀のレベルに到達できようという理屈です。
>乾さん
お久しぶりです。
若いときと晩年では自然と心境が変わるのですかね…。
短絡的な感想ですが、自分が歳をとってくると実感的にそんなことを考えてしまいます。
>荒らしさん
そろそろかんべんしてもらえませんかね?
sageにしてくれたのはありがたいですが。
408 :
アルミカン:2009/05/27(水) 20:28:16 ID:???
>アルミカンさん
ここでは基本的にどのような方でもOKです。
もちろん、スレの主旨に沿った範囲でですが…。
まあ、レスを返してくれた人にお礼くらいは言ったほうがよいかと。
410 :
アルミカン:2009/05/28(木) 09:51:53 ID:???
>ひゃっきまるさん >みなさんへ
どにタイミングでお礼の言葉をしていいのか
考えている所でした。
この場にてみなさんにお礼を申し上げます。
411 :
乾闥婆:2009/05/29(金) 01:47:06 ID:???
>>406 大筋分かるのですが何かすっきりしませんのでもう少し説明をしていただけるとうれしく
思います。日本・中国に転生思想がないという点ですが、仏教を受容するに当たって輪廻
転生は結局は受容されたのではないでしょうか。輪廻転生を受容しないで仏教(特に業と
いう概念)を受容することなどできるのでしょうか。仏教自体に輪廻転生からの脱却が思
想として組み込まれていますので、輪廻転生から結果として離れるにしても、ベースとし
ての輪廻転生の世界観が受容されなければ、そこからの解脱もないように思います。
また浄土往生ですがこれは転生とは違う概念ではないでしょうか。「日本人は転生を信じな
いので日本の仏教はなんとか来世の教義を無効化しようとした」とのことですが、そのこ
とと「日蓮や親鸞がいう浄土はイデアの世界みたいなもの(「実報土」、「寂光土」)で、死
後に行く実際の場所ではない」こととは直接的には関係がないように感じました。浄土と
いう概念自体がそもそも転生の否定ということを意図するものではないでしょうか。これ
は浄土教がいつどこで起こったのか、中国に受容され発展する前の浄土思想はどのような
ものであったのか、を知る必要があると思いますが、私にはその当たりのことがよく分か
りません。中国伝播以前の浄土とは来世に輪廻転生する実際的な場所のひとつに過ぎなか
ったのでしょうか。それは理念としての浄土ではなくて娑婆世界のひとつの土地として、
輪廻を繰り返す際に通過するひとつの土地として、想像されていたのでしょうか。
「そこで転生思想がない中国や日本では目標を下げました。頓悟、即身成仏、一生成仏、
現生正定聚みな同じです。なんらかの安心立命に達する以上の意味はありません」とのこ
とですが、ここの因果関係ももう少し詳しく語っていただけるとうれしく思います。転生
思想がないからそうなったのか。仏教受容の裾野の広がりの中で歴劫修行では教えが広ま
らないという需要・供給上の問題からそうなったとは考えられないでしょうか。もしくは
大乗仏教の中にそもそもそういった要素が含まれていたということは考えられないでしょ
うか。また転生思想がない場合、浄土往生という信仰は可能でしょうか。
412 :
乾闥婆:2009/05/29(金) 01:49:40 ID:???
>>407 ひゃっきまるさん
歳を取っての心境の変化ということはありますでしょうね。日蓮の晩年は、どうなのでし
ょう。自分の死期が近づけば、やはり死後の行く先へと関心が高まるものでしょうか。前
から気になっていたのですが、日蓮は法華経に書かれていることを、理念として捉えてい
たのか、それとも実態として捉えていたのか、そこがよく分からないんです。もし実態と
して捉えていたのだとすれば、日蓮の語る霊山浄土は実際にインドにあって、釈迦が法華
経を説き続ける霊山ということになってしまいます。
>乾さん
直感的な感想になってしまいますが、僕は「実態」と「理念」を分けることにさほど意味はないような気がします。
それは、科学的、客観的に世界を見ることを覚えた我々の思考法のくせのようなもので、中世の人間にとってはあくまで経典に 書かれたことが真実、
という以上の意味はない気がします。そして、それを愚直に信じることこそが大事だと日蓮は考えていたでしょう。
しかし、仏教は極めて抽象性の高い教義をもっていますから(色界、無色界なんてたしかにイデアを思わせます)、「理念」としての浄土と考えたほうが自然ですかね。
414 :
アルミカン:2009/05/29(金) 11:28:24 ID:???
>>412 >けんだっぱさん
初めまして。・・・名前を間違っていたらすみません。
「霊山と浄土」を分けて考えた場合
法華経の説く場所の「霊山」として、釈尊は
「如来寿量品十六」の最後に
「毎自作是念 似何令衆生 得入無上道 速成就佛身」と書かれている所
「悟ったはずの佛陀」が、まだ悩んでいます。
「日連」も同じように「いかにして人々を導いて行くか」と考えて居たんじゃ
ないかと思う処です。
「浄土」とは又「別の処に在るのでは」と思うのですけど・・・・。
別々と言っても人の心(頭)の中だと思いますけども。
>>412 「悟ったはずの佛陀」が、まだ悩んでいます。
↑これぜんぜん違いますよ、経典を解釈するのに
原文にない文意を勝手にくっつけるのはヒジョーに
悪い習慣だと思いますね。寿量品の最後は文章
どおりに読んだらよくて、、、
「それぞれがみずからのこの念を持っていて、
そのなにかをもって衆生をうながし、
無上の道に入ることを得、
すみやかに仏身があらわれるのである。」
衆生を導くのはそれぞれの本人が持っている
「念」 というもので、それに気ずけばその場所に
行くことができ、ほとけが現れるのです、という
意味。
是念というのはイデアではなくて、センス (感覚)
としないとダメだと思うよ、アタマで考えたら永久に
わかりませんからね、んでそのために行法が必要に
なるんだけど・・・。
>>376 これから「仏法修行」する人、又は「学ぶ人」は
経文が先なのか?御書が先なのか
仏法ってのは日蓮法華宗の独自表現だから、とーぜん
御書が優先でしょ、たとえば御書と経典の内容に食い
違いがあったとしたら、それは日蓮さまの深遠なお考え
があってのことだから、むしろ経典のほうがレベルが
低くて解釈が浅い、とか言い出しかねない摩訶不思議な
論理が日蓮仏法の特徴ですからね。
でも邪宗とされる他の仏教教団はこの逆で、つねに
経典の原文のほうが坊さん解釈より上位にきてる
はずよ。
ちなみに仏法を仏教にかえてお釈迦さまが菩提樹の下で
真理を理解したところまでさかのぼれば、大乗と言わず
仏教経典はひとつも存在してなくて、さらに御書なんかも
あるはずがないですから、他人の解説は聞きたくなくて
自分でそれを直接知りたいというなら、必要なのは経典
でも御書でもなくて、座禅瞑想プラス断食プラス菩提樹、
の三点セットでしょうかね。。
417 :
アルミカン:2009/05/30(土) 10:54:49 ID:???
>>415 >>416 有り難うございます。
私なりにもう一度考えてにます。
ただこの経は念を説くと言うよりも、
良医の譬えを引用し、衆生の心の病を治そうとしてませんでしょうか?
興門流においては、本仏は日蓮なので、たしかに御書のほうが経典より上位にくるということになりますね。
キリスト教における、
旧約聖書
新約聖書
イエス
の関係が、
興門流においては
経典
御書
日蓮
の関係等いう感じですか。
419 :
アルミカン:2009/05/30(土) 20:11:38 ID:???
>>418 ひゃっきまるさん
有り難うございます。
私の頭の中が悩んでます。・・・・頭七分??????。
>アルミカンさん
ニ点にまとめます。
・日蓮を開祖とする宗派の中でも、日蓮を本仏(釈迦仏は迹仏)とする立場と、そうではない立場があります。
日蓮正宗と創価学会は、前者の立場です
・前者の立場としては、御書(日蓮の遺文)の解釈に沿って経典を読むということです。
それは、キリスト教において、新約聖書に沿って旧約聖書を読むのと同様です。
421 :
アルミカン:2009/05/31(日) 00:00:56 ID:???
>>420 ひゃっきまるさん
その前者の対立から「疑問」に持ち、日蓮の言う文証を
先にするのが良いかと思うのです。
良く考えて見たら、この問題は私個人の気持ちの事ですね。
みなさんに悪い事した見たいでした。 申し訳ない。
>アルミカンさん
対立とは、日蓮正宗と創価学会の対立のことでしょうか?
もちろん、教義の正当性から、どちらかが正しいとか、間違っているとかいう検証は大事なことだと思います。
少なくとも信仰者自身にとっては。
そしてすでに、両陣営では論陣がはられているでしょう。
しかしすでにお気づきだと思いますが、両者の分裂は単なる教義解釈の違いからなされたのではなく、むしろ権力争い、利得争いのような政治的背景が原因となっているとみるほうが自然でしょう。
そもそも、宗教は科学のような正しさを論じることができません。
せめて、「論理の一貫性」を検証することくらいはできるでしょうが、どちらも、一貫性、矛盾、態度の潔白さなどに完全に堪えられるだけの歴史は持っておらず、
お互いに自分の弱点には目をつむり、相手の弱点をつくことを繰り返している状態だと思います。
どちらかというと組織的な意味で悪質なのは創価学会の方のような気もしますが、
どちらにも驚くような攻撃的な信者もおりますし、両者の対立が多くの信徒に対して数々の悲劇を与えていることを考えると、
まさに、宗教とはなんなんだろう、と思わずにはいられないですよね。
教義うんぬんの前に、自分たちの姿が、対外的にどれだけ醜いのか、また、はたして自分たちのやっていることが、宗教者の姿といえるのか、きづいて欲しいように思います。
423 :
アルミカン:2009/05/31(日) 01:44:09 ID:???
>>422 ひゃっきまるさん
私もひゃっきまるさんと同感でいます。
前者の事で議論したい気持ちに成りたいですけど
このスレッドでは話題にしないほうがいいとおもいます。
荒れる原因に成るとおもいます。
424 :
法華講衆:2009/05/31(日) 03:41:57 ID:???
>>422 ひゃっきまる氏、一応貴方は一方の当事者ですね。
日蓮正宗が創価学会を破門したのは「日蓮正宗の正常化」の為です。
ひゃっきまる氏のレスに沿って云えば日蓮正宗伝統教義を守る為の訣別です。
法主と信徒団体指導者に権力争いの余地のあるはずもなく、利得その他は在家側が出家と対等と思い上がった一方的な
思い違いです。
真相は北条報告書の通り元々在家教団として独立したかった学会の願望が叶ったに過ぎません。
宗教は自然科学と違った手法で正邪の判別法もあれば歴史学の観点から正統・非正統の検証もできます。
ひゃっきまる氏も「どちらも」と対等に考えているようですが伝統宗派と新興宗教では歴史の重みが違いますよ。
425 :
アルミカン:2009/05/31(日) 10:28:28 ID:???
元々は「異体同心」であったはずの両者は
どの様な「因」により対立「果」として現れたのでしょう。
始めから同心で在られるならば、この様な対立(機関紙などによる)が起きる理由が
なかったのではないでしょうか。
どっちにしても組織体の対立に「報い」を受けるのは純真な人々であるでしょう。
私事で言うならば、昔購入した出版物の代金を返してほしい。・・・(冗談)
古本屋に売りに行っても
次に買って読む人の事を考えたら、悪知識の本となってしまうと考えると
それもできない。かといって燃やすと「罰」があたるような気がする。
この不景気に私としては困った「報」だ。
>>422 ひゃっきまるさんへ
>>411 基本的な原理
1 民族宗教の来世観には一世観、二世観、三世観がある。
2 外来宗教は民族宗教という下部構造を変更せずにその上部構造となる。
転生の教義は上部構造として受容されるが土台の来世観は変更されない。
浄土教の発達(括弧=民族宗教) *半二世観=仙境信仰
二世観(ゾロアスター教)→半二世観(道教)→一世観(神道)。
真宗の西方浄土も日蓮宗の霊山浄土も往生する場所ではなく、現実の世界
をささえている理念的な世界である(高天原)。
一世観の民族には日本人の他にギリシャ人、ユダヤ人がいます。
>424 法華構衆さん
正宗側からすれば、当然そのようなストーリーになるでしょう。
では、あなたは何が原因でこのような状態がおこり、また、どうしたら問題が解決できるとお考えですか?
>425 アルミカンさん
これは僕に対してのレスですか?
日蓮本仏論のように、まるで日蓮一人が本仏のようにいうのは誤りであり、
日蓮の本意から反れて悪しく敬うことになるでしょう。
それでは唯一絶対の人格神になっちゃうよ。
始成正覚に対する久遠の仏とは、なにも日蓮ひとりのことではない。
諸法実相抄を読めば明らかだよね。
御本尊の中央は題目であり、変化相の仏を釈迦で象徴しているだけ。
釈迦も日蓮も私たちも、いや塵も含めあらゆる現象が妙法の姿だということ。
430 :
アルミカン:2009/06/01(月) 23:13:57 ID:???
>428 ひゃっきまるさん
自分のレス>425 検めて見ると一人事でした。スミマセン。
>アルミカンさん
あなたにとって価値のない本でも、他人にとってそうであるとは限りません。
世の中にはいろいろな立場、考え方がありますし、本をどう読むか、というのも様々です。
極端な話、単なる落書きでも、数千年後には重要な歴史資料です。
日蓮正宗と創価学会の対立を考えるとき、いつも思うのが、自らの組織さえ導くことのできない宗教が、信仰者を導くことなどできるはずもなく、
その問題を解決していないうちから正しいだの正しくないだのを語る信じられないほどの傲慢さ、恥知らずさです。
432 :
乾闥婆:2009/06/02(火) 19:58:48 ID:???
>>426 お答えが簡潔すぎて、よく分かりませんでした。申し訳ないのですがもう少し具体的に解
説していただけるとうれしいのですが。「一世観、二世観、三世観」の違いについてお願い
します。ネットで検索してもこの用語が引っかかりません。
「浄土教の発達(括弧=民族宗教)」これは浄土教は民族宗教であり、所謂世界宗教としての
仏教ではないということでしょうか?「*半二世観=仙境信仰」こちらも先の「一世観、二
世観、三世観」の中でどのような内容になるのか解説を願いたいのですが。
「死んだら仏」という言葉はもちろん日本にはありますが、逆に「袖振り合うも多生の縁」
とも「後生が悪い」とも言います。私はこれらの観念は日本人の中では平然と同居してあ
ったのではないかと思っています。輪廻転生をはっきり拒否するとか、そういった発想は
なくて、話の流れで輪廻転生を使いもすれば、死んだ人を仏様とも言ったりするのでは。
お盆でご先祖様を迎えもするし先祖供養もするけれど、平然と来世ではまた創価学会員に
生まれて広宣流布の戦いに参加していることでしょう、などと言ったりもするわけです。
願兼於業や転重軽受といった概念もそれこそ日蓮自身が使っていた概念であって、これは
輪廻転生が前提になっていなければ使えないはずです。それらを例えば創価学会の現場に
おいてはごく普通に日常的に使用しています。他の日蓮宗派ではどうでしょうか。上部構
造、下部構造とはっきり線が引けるものではないと思うのです。あなたが上部構造とされ
る転生思想はあなたが下部構造といわれる部分に侵食していませんでしょうか。
433 :
乾闥婆:2009/06/02(火) 19:59:31 ID:???
>ひゃっきまるさん、アルミカンさん、名無しさん
日蓮の浄土観に関しては、定義は一様ではないと思います。田村芳朗氏の著書にありまし
たが、そこからは三つの浄土観がうかがえるといいます。「ある浄土」(絶対浄土)、「なる
浄土」(浄佛国土)、「ゆく浄土」(来世浄土)です。「ある浄土」(絶対浄土)は名無しさん
の言われる「寂光土」つまり常寂光土です。日蓮の言葉で言えば「今、本時の娑婆世界は
三災を離れ四劫を出たる常住の浄土なり」(観心本尊抄)となります。「なる浄土」(浄佛国
土)は佛国土の建設です。広宣流布へ向けての日蓮の行動はここに集約されると思います。
最後に「ゆく浄土」(来世浄土)ですが、私が引っかかっているのはこの部分です。「後生
には霊山浄土にまいりあひまいらせん」(国府尼御前御書)「霊山浄土にてはかならずゆき
あひたてまつるべし」(是日尼御書)「母と子と倶に霊山浄土へ参り給ふべし」(光日上人御
返事)など、しきりに法華経を信じた功徳で、死後には霊山浄土で会えるでしょう、霊山
浄土に入ることができるでしょう、と信徒を励ましています。日蓮は明らかに死後に赴く
世界として霊山浄土を認めています。この傾向は晩年に顕著になります。このように説く
日蓮、またその言葉を受け止める信者のあいだに、輪廻転生及び浄土往生の観念は定着し
ているものと考えざるを得ないと思うのですがどうでしょうか。
434 :
アルミカン:2009/06/03(水) 01:59:41 ID:???
>431ひゃっきまるさん
本は過去として迹文として置いておきます。
宗教者の対立が仏の法を解釈できず人任せの国の法で
勝ったとか負けたとか・・・・。日蓮の立場考えてほしい。
元々同じ教義なのになにが折伏折伏論破論破でしょうね。
トップ二人の公開対論で解決できないかな。
同じ穴の狢かな?・・・・・この発言ヤバイかも。すまん。
>乾さん
なるほど、その三つの分類は面白いですね。
僕も当時の浄土観はほぼ確立していたと見てよいと思います。
それにしても、日蓮は、また生まれ変わって、法華経をひろめようとは思わなかったんですかね。
>アルミカンさん
法律で解決つくなら、積極的にやっていったらいいと思いますよ。
問題は、単に相手を糾弾するだけでなく、恒久的な平和を念頭においた解決を目指しているかどうかでしょう。
組織のメンツや保身でなく、信仰者のための行動なのかどうか。
この対立が数十年レベルのものになるのか、数百年レベルのものになるかは、現在の上層部次第だと思います。
ちなみに、正宗と創価学会は、はじめから別の組織といえるので、表面的には正宗側の言い分のほうが筋が通っていると思います。
>乾さん
ちなみに、「話の流れで死んだ人を仏さまとすることもあれば、生まれ変わりを前提としたり、はたまたお盆には霊を迎える」というお話は、たしかにそうだなあ、と思いました。
日本では体系づけられた宗教を強く信じるというよりは、わからないことはわからないなりに、「そうかもしれないね」という程度の合意でやってきてるんですね…。
437 :
アルミカン:2009/06/03(水) 19:18:18 ID:???
>けんだっぱさん
「日蓮」の映画の中での話しなんですけど
・・・「死んでから極楽浄土はあるものか、
極楽浄土はこの世にある」・・・
と言っていた場面があったのを思い出しました。
(薬王菩薩本事品)【後霊山会】
若し女人あって是の経典を聞いて、説の如く修行せば、此に於て命終して
即ち安楽の世界の、阿弥陀佛の大菩薩衆の、囲?せる住処に往いて
蓮華の中の宝座の上に生ぜん
日蓮の頭の中に、この経文があったかもしれない。
>ひゃっきまるさん
正宗の方が【堅物】であるとかでしょうか?
>アルミカンさん
創価学会は発足当時から、日蓮正宗の教義を独自に解釈していました。
正宗側は、信徒としての分を守るなら、ということで黙認してた状態ですかね。
創価学会側は伝統仏教のブランドを手に入れ、正宗側は信者を手に入れ、蜜月状態となったわけですが、
正宗はそもそも血脈という、法主を頂点とする(カトリック教会のような仕組み)教義だったので、
創価学会側が法主に従わない、というのは明らかに教義に反するわけです。
創価学会が正宗に反した理由は、許しがたいレベルの信徒への軽視、僧侶らしくない振る舞い、などです。
どこまで本当かわかりませんが、全く根も葉もないというわけでもないでしょう。
なにしろ寝ているだけで札束が集まってくる状況で、おかしくならないほうが変というものです。
分裂後の学会は、血脈教義自体が無効であるとの教義解釈を展開していますが(いわば、聖書を正しく解釈できる人こそが本当の信仰者だという、プロテスタントの立場)、
それをいうなら、かつて日蓮正宗を正しいとしていた根拠を失うことになり、かなり苦しい言い訳のように思います。
>>432 一世観、二世観、三世観は島地大等が『日本仏教教学史』で諸宗教の来世観を分類した語です。
一世観-現世で生命は終わる。ギリシャ人のハデス、ユダヤ人のシェオール、日本人の黄泉は単なる
死者の世界であり、そこに生命はもはやない。
二世観-善人は天国に悪人は地獄に往く。世界の終わりまで過ごす。イラン人のゾロアスター教に由来。
浄土教は仏教がイラン化したものと考えられる。
三世観-来世のみでなく前生もある。永劫に転生する。インド原住民の宗教に由来すると考えられる。
半二世観-わたしが仮につくった語です。桃源郷などの隠された世界に行くと長い寿命を得られる。
死んで往くわけではないが、中国人の浄土教受容の土台になった。しかし更に日本の浄土真宗では
「西方寂静無為の楽(みやこ)には、畢竟逍遥 して有無を離れたり。…帰去来(いざいなん)、魔境には
停まる可からず」(定善義・訓は真宗式)は物質的に存在する世界ではないと解釈されるに至った。
440 :
アルミカン:2009/06/05(金) 00:05:00 ID:???
>ひゃっきまるさん
当にその通りと思います。
創価学会側は「ブランドを手に入れちゃおう!!」とも思索していたんでしょうか。
【牧口常三郎 価値論 第六章 四節】に
「我々は皆幸福を求めて生活している。故に我々が真に幸福になり、
平和で幸福な社会を建設する為に根本的な原理となり規準となるものが
宗教でなくてはならない。
即ち葬式とか法事などの形式は宗教ではないのである。」
創価教育学としては評価できますね。・・・・・
ソクラテスはこのお方を、どのように観られるでしょう。
>>432 要するに三世観を持たない民族がインド起源の仏教を受容した場合に転生の教義は表面的には
認めますが、あくまで二世または一世の範囲で解決する宗教に変えてしまうのです。それが上部
構造に過ぎないという意味です。
霊山浄土はグリドラクータ(チャタ山)のことですから「浄土」は美称であり、そのような国土がある
わけではない。しかし霊山において釈尊が常に説法しているのを観見できると自我偈にある。
「霊山一会儼然未散」(大蘇開悟)とも伝える。一生にできなくても臨終の一念に見仏できようという
理屈でしょう。「靖国で会いましょう」の類かと。やはり日蓮においても来世の観念は実際にはほぼ
無いことが確認できるとおもいます。
>アルミカンさん
僕は基本的には、信仰者は純粋な動機、理想に燃えた動機が核にあると思っています。
思いたい、といっても良いですが。
創価学会と日蓮正宗は、はじめからきわめて不自然な関係、無理のある関係でした。
普通なら、出家は教導する立場、在家はされる立場でしょう。しかし創価学会は、指導も、折伏も、勤行も、教学研鑽まで、なんでも自己組織でやっています。
出家は妻帯肉食許されていますし、なにが在家と違うというのでしょう。宗教的権威の他に存在意義がない。そして今もそれだけにしがみついています。
そんな不自然な関係でも、トップ同士が仲良ければやっていけたのです。
互いによほど深い信頼関係、尊重の気持ちがなければ、この不自然な関係が一瞬で崩壊するのは、どちらも十分過ぎるほどわかっていたはずです。
しかし、出家は在家を見下し、在家は出家を侮り、莫大な不幸の種を撒き散らして核分裂が起きてしまいました。
創価学会が独自の宗教論を展開していたのは、新しい時代の新しい宗教を構想していたからでしょう。
僕はそのことは悪くないと思いますし、当初はお寺側も、あくまで伝統は守るという前提ではあっても、創価学会の理想にのったということがあると思います。
哲学なんて答があってないようなものですから、いつの時代もその時代の状況で、「正しきこと」を追っているのだと思います。
しかし、「反省」もなく、「情」もなく、金と欲と権力に振り回された人間、組織が、哲学はおろか宗教を語る資格などないのは、言うまでもないでしょう。
443 :
アルミカン:2009/06/05(金) 21:34:57 ID:???
>ひゃっきまるさん
私が思う所、出家とは其のまま字の如く「家を出る」と言う事で、
釈迦の言う、沙門の道に入る事と思います。
阿含経の仏伝に釈迦の出家を語られたエピソードがあり、釈迦が
「まだ正しい悟りを得てない菩薩であった頃、出家の暮らしは広くて自由である」
又その続きに
「家に在っては、清浄な、螺鈿のように光り輝く浄らかな道を
修める事は困難である」
と云ってます。
本来の解釈としては、この様だと思う所、後にこの言葉の使い方が変わってきて
しまい、人が住んでる寺の家に入るを出家と呼ぶようになり、寺の仏法解釈を
学び暗記することが僧とされてきました。(荒行、瞑想、スプーン曲げ?)も有り。
学会が正宗から出たことは、この出家にあたると思います。組織の出家ですけど。
初代牧口常三郎の入信の原点の誠意は何であったかを考えて観たくなります。
現代の宗教は「数」にこだわりすぎで、信者を増やすだけが平和実現だと
大変な間違いをしているんじゃないかと思う所です。そして政治目的など
とんでもない事です。
牧口常三郎氏の教育理念に宗教の価値を取り入れた分別の思想は、教育
としては間違っていたと思います。
もし生徒達の眼の前の教台にて「折伏とか流布」教えたら大変です。
牧口常三郎から甥の戸田城聖に伝わった思想は何であったかと考えてしまいます。
雑文ですみません。
>アルミカンさん
出家とは世俗を捨てることでしょう。日本の仏教は本来の意義は失われ、僧の役割は職業的なものになってしまいましたが、僕はそれはそれでよいと思います。
しかし、僧自身が、僧は尊敬されなければならない、などというのはあまりに恥ずかしい考え方だとは思いますね…。
尊敬ということ自体が、そもそも人に強要するものではないのに、まっさきにその邪念を捨てねばならないはずの出家者がそれをいうとは。
正しい宗教のもとに政治を行うという日蓮の思想は近代にはマッチしないものでしたが、積極的に現実を変えることのできる思想を目指したということでは評価できると思います。
創価学会に足りないのは、「反省」することだと思います。
勝ち続ける、ということに偏執的になっているというか。
それは牧口の理性的教育と逆行するものでしょう。
445 :
アルミカン:2009/06/06(土) 19:50:22 ID:???
>ひゃっきまるさん
いつの日か反省する時が来ると思いますよ。でもそれは一部の方々で
分裂とでもいいましようか。カルト教団を創りだしてしまう信濃城に
なってしまうのでしょうかね。
乱暴な推測してしまいました。
446 :
乾闥婆:2009/06/07(日) 01:11:46 ID:???
>>439 解説いただきありがとうございます。島地大等氏の著書からなのですね。かなり古い本の
ようですが、今は仏教書林中山書房からOD版として入手できるようですね。
>>441 >一生にできなくても臨終の一念に見仏できようという理屈でしょう。「靖国で会いましょう」の類かと。
申し訳ありませんが、これはよく理解できませんでした。日蓮の真蹟遺文の中の、後生の
霊山浄土ゆきに言及した文章において、臨終の一念に見仏を、という趣旨は少なくとも私
には読み取れません。あくまで法華経信仰の功徳による来世浄土を強調しています。また
日蓮における見仏とは、十界互具によって確認される己の仏界・菩薩界、己心に観じる仏・
菩薩ということではないでしょうか。それは当然、日蓮においては五字・七字の題目によ
って、ということになると思うのですが。「臨終の一念に見仏」とは、私は聞いたことがあ
りません。
>>446 「乞い願わくば、一見を歴るの末輩、師弟共に、霊山浄土に詣でて三仏の願貌を拝見し奉らん」
(観心本尊抄副状)
>>441で述べたように霊山浄土なるものは今のチャタ山の美称に過ぎず、そのような国土はない。
したがって「時我及衆僧 倶出霊鷲山」の見仏体験を臨終に期することと解釈するよりない。
死後の中有身は神足でインドまで行き、かつ肉眼では見えない釈尊の説法を天眼で以って見る
ことが可能と考えられるから。
グリドラクータとは別の霊山浄土なるものが娑婆世界の外のどこかにあるという説を唱えた人は
日蓮宗の歴史にいないのではありませんか?
448 :
乾闥婆:2009/06/07(日) 23:54:57 ID:???
>>447 >グリドラクータとは別の霊山浄土なるものが娑婆世界の外のどこかにある
いえ、私はそういうことを言っているのではなくて、日蓮の言う後生に赴く霊山浄土とは、
まさに「今、本時の娑婆世界」にあるグリドラ・クータであり、理念としての霊山浄土で
も、ましてや「単なる死者の世界」としての霊山浄土でもないのでは、ということです。「時
我及衆僧 倶出霊鷲山」と法華経に説かれていることを事実として受け止めれば、日蓮は
法華信仰の功徳によって死後に霊山へ赴き、まさに「三仏の願貌を拝見し奉」ることが出
来るわけです。その大前提となるのが輪廻転生であるということです。日蓮はしきりに過
去世の業に言及し、転重軽受などの考え方も遺文にて表出します。それは当然三世を前提
としてのことでしょう。過去世と現世をしきりに語りながら、同時に来世はないと考える
ことは矛盾ではないでしょうか。日蓮は三世を知るか知らないかで、その教えの浅深をは
かりすらします。仏教を考える上で日蓮は輪廻転生を大前提としていると思うのです。
>したがって「時我及衆僧 倶出霊鷲山」の見仏体験を臨終に期することと解釈するよりない。
つまりこれは発想が逆だと思うのです。輪廻転生の道を閉ざすところから考えたため、こ
のような解釈になったのではないでしょうか。
>>448 浄土とは娑婆世界とは異なる国土です。ただしトシタ天を浄土とはいいますが。
現実の世界にある山に往生するとか願生するということはありません。
それに霊鷲山の山頂はたいへん狭い。住民がいるような場所ではありません。
450 :
アルミカン:2009/06/08(月) 20:09:29 ID:???
>>499 名無しさん
「トシタ天」とは「兜卒天」のことですか?
451 :
アルミカン:2009/06/08(月) 22:26:04 ID:???
「時我及衆僧 倶出霊鷲山」について
日蓮の思想としては「師弟共に、仏の声や姿が己の心で観じられるように
なりましょう」と言いたかったのでは。
「観じられた時」に己心に仏が現れ説法をしてくれると、言いたかったのでは。
むろん生きて居ないと出来ないですけど。
すると経文通りに解釈が出来そうですけど。
私としてはもう少し頭を整理してみます。
452 :
乾闥婆:2009/06/08(月) 23:14:38 ID:???
>>449 >浄土とは娑婆世界とは異なる国土です。ただしトシタ天を浄土とはいいますが。
現実の世界にある山に往生するとか願生するということはありません。
確かに霊山と浄土という本来位相の異なる用語をひとつの成語として日蓮は使用していま
すね。霊山とは日蓮にとって「時我及衆僧。倶出霊鷲山」「自従是来。我常在此。娑婆世界。
説法教化」「常住此説法」の霊鷲山以外にはないと思います。だとすれば霊山浄土という成
語は、あなたも言われているとおり、霊山の美称であるのかもしれませんね。そこに日蓮
は法華経信仰の功徳により死後に赴く、と言っているのですね。
また日蓮の浄土観を考えると、娑婆世界に浄土を見ることはあるのではないでしょうか。
「今、本時の娑婆世界は三災を離れ四劫を出たる常住の浄土なり」(観心本尊抄)
>それに霊鷲山の山頂はたいへん狭い。住民がいるような場所ではありません。
それは私も写真などを見て知っていますが、日蓮は知らないことですね。
>アルミカンさん
個人的には今後創価学会はカルト的な傾向を弱め、主張内容を穏やかなものに変えていくと思います。
無理な拡大より、永続的な維持を優先するということです。
一方日蓮正宗は、一部に原理主義的な信仰をするグループが生まれてしまうでしょうね。
反省が組織内部から起こることは難しいと思いますが、客観的視点を持った優れた創価学会研究がもっと行われるようになれば、いつかは組織を変えられるのでは、と期待しています。
454 :
DB:2009/06/10(水) 05:27:28 ID:VgJMycxP
法身/報身/化身という三身説と照らすと、
久遠の釈迦牟尼 → 報身
久遠の釈迦が方便として示した
「インドに王子としてうまれ,法を説いたのち八十数年で入寂したゴータマ」
→ 化身
という理解でよいでしょうか?
455 :
DB:2009/06/10(水) 05:28:48 ID:???
突然のわりこみですいません。
日蓮の仏教理解に詳しいみなさまが集っておられるようなので、
ここでお尋ねしてみました。
よろしくおねがいします。
>>454 三身は意識レベルを説明してるだけよ。
法身 = 意識することも感じることもできない自分の
本体、他人や世界や宇宙も同じものを共有
しています。
報身 = 仏の眼を通して世界を見ている状態、この場合
は報身を意識したり感じたりできるけど、他人と話を
することはできません
応身 = ほとけ世界の情報を人に話したり、または会社に
行って仕事をしなきゃいけないので、通常レベルの
意識にもどります。ただし一度報身を理解したひとは
解脱と言って、だんだん俗物感覚が薄れていくようです。
久遠の釈迦牟尼仏はたんなるおとぎ話だから、つじつま合わせ
ようとしても大謗法スレみたいに無限の議論がつづくだけ・・
>>454 DBさん
個人的にはその理解で良いと思います。
まあ、始成正覚の仏と久遠実成の仏というのは、単に覚った時期の違いということですから、どちらも応身であると考える人もいると思います。
あと、三身説にはいろいろなものがあるのですが、化身よりも応身の方が通りがよいと思います。
787 法律ヲタ ◆8PR9uxYCzw age 2009/06/08(月) 08:38:14 ID:???
788 法律ヲタ ◆8PR9uxYCzw age 2009/06/08(月) 08:39:28 ID:???
789 法律ヲタ ◆8PR9uxYCzw age 2009/06/08(月) 08:41:12 ID:???
790 法律ヲタ ◆8PR9uxYCzw age 2009/06/08(月) 08:51:19 ID:???
829 法律ヲタ ◆8PR9uxYCzw age 2009/06/09(火) 08:38:36 ID:???
830 法律ヲタ ◆8PR9uxYCzw age 2009/06/09(火) 08:39:31 ID:???
831 法律ヲタ ◆8PR9uxYCzw age 2009/06/09(火) 08:40:24 ID:???
端末を複数所持し、別コテ、名無し自演をするので要注意!
いつもヲタは他スレもしくは当スレで名無しでも書き込みをする
もちろん複数の端末で自演を何度も行う毎日
ところがついつい「法律ヲタ」ネームの時にID表示を忘れた
年齢によるボケが始まった訳だがつまらない言い訳を
後だしジャンケンでしてくれたものだ
しかし全く自演の言い訳にもならない事実
もはやヲタ信者しか誤魔化せない
ぶざまな嘘つき老人法律ヲタ
>>458-459 さんすみません。このスレをROMしてる者です。
良スレなので他にも見ているかたがいると思います。
日蓮大聖人/日蓮上人とその法教えについての考察や
質問についての会話なので、できれば
そっと見今もって頂けたら有難いです。
461 :
アルミカン:2009/06/10(水) 21:15:27 ID:???
>>453 ひゃっきまるさん
もし創価学会さんが、宗門との対立路線を長引かせると、世間様から
よけい顰蹙を駆ってしまいますね。
仏教歴からすると創価学会はまだ始まったばかりの宗教の教えを取り入れた
平和推進の団体組織であろうと思います。
他宗への破釈、個人への折伏の振舞い方をもう少し考えた方が、
今の時代に合っていると思いますね。 けっして悪い団体ではないので。
日蓮正宗側も「可愛い子供には旅・・・」ぐらいの気持ちが欲しいものです。
目くじら立てて論争している末端の信者さん達をこれ以上、修羅界の場に
居ない様に指導できないものでしょうかね。
でも、そうしたら正宗信者さん達はやる事が無くなっちゃうのかな。
あくまでも両者を嫌って言っているのでは有りませんので。
462 :
アルミカン:2009/06/10(水) 22:50:22 ID:???
>>454 DBさん
DBさんの疑問も輪廻転生への事みたいですね。
仏教の語学、用語としての解釈は宗派によって似てはいるけど違っちゃう様な
気がします。
私も
>>456さんの「三身は意識レベルの説明」と同意します。
そうした方が私としても「三身即一身・一身即三身」の二つ語句が解りやすく
なる様な気がしてます。
阿含教典の教説に
「身体を我なりとして理解する事ができても
心は我なりと理解するべきではない。・・・」
なんか余計に考えてしまいますね。仏教はむずかし、むずかし。
日蓮って無くてすみません。
463 :
DB:2009/06/11(木) 01:23:58 ID:???
チベットの仏教をたびたび一般のひとに紹介する機会をもっておりまして、その中で、ダライラマをはじめとす
るチベット独特の「化身ラマ(転生活仏)」制度を紹介します。化身ラマ、化身の具体例には、
ダライラマ…代々僧侶の姿でチベットに出現する観音の化身(のひとつ)
パンチェンラマ…代々僧侶の姿でチベットに出現する阿弥陀の化身(のひとつ)
明朝や清朝の皇帝など中国の主たち…君主のすがたで中国に出現する文殊菩薩の化身(のひとつ)
などがあります。
こんな制度は、チベット仏教にだけみられる独特のものだけれども、チベットの土着文化が仏教を歪めたという
類いでは決してなく、その理論的根拠はすべて大乗仏教の教義のなかにあり、同種の考えは日本の仏教にもつた
わっている、として、たまたま私が所属してある程度知識がある日蓮宗の例を引き合いにだしております。
みなさまの回答を拝見して、
「日蓮宗では、こうだ!」と説明してきたことが、
おおむね合っていたことがわかり、安心しております。
ありがとうございました。
464 :
DB:2009/06/11(木) 01:26:47 ID:???
ちなみに、化身制度の理論的根拠としては、たとえば三身説をチベット式にもとづいて説明します。
法身=法そのもの
報身=有頂天または密厳浄土において解脱の境地を楽しんでいる身体
化身=仏が、あらゆる衆生を救うという誓いと、無量の慈悲により、凡夫が知覚・認識できる形態(僧侶、俗人、
神、お化け、動物…)で出現した身体
お釈迦さまについては
・はるか昔に成道した報身の釈迦
・歴史上のゴータマ・シッダールタ…釈迦の化身のひとつ
と説明したうえで、自我偈の一節引用しながら日蓮宗の「久遠の釈迦牟尼」と「方便により涅槃を現じた」歴史
上の釈迦の対比を紹介したりします。
またチベット仏教における現象として、非常に徳の高い僧侶があらわれると、信者たちは何らかの仏・菩薩の化
身とかんがえ、その死後、生まれかわりを探してその高僧の地位を継承させ、あらたな化身ラマの名跡がしょっ
ちゅう誕生しています。
制度化されるにはいたらなかったけれども、これに類似した現象は日本仏教にもあるという実例として、宗祖日
蓮が、自身を浄行菩薩の化身と見なした……という例を示し、「化身ラマ」制度はチベット独特ではあるが、理
論的根拠は純粋に、完全に大乗仏教の教義中にある、という結論の根拠にするわけです。
465 :
DB:2009/06/11(木) 01:40:02 ID:???
>>454 さん
「意識レベルを説明するための用語」として「三身」がもちいられる例があることはここではじめて知り
ました。ありがとうございました。
>>457ひゃっきまる さん
チベット仏教学の方面では最近 「活仏」、「転生活仏」という用語をあらためて「化身ラマ」と呼びか
えよう、という動きがおこっております。チベットでは生まれ変わりによって地位を継承する高僧の名跡
の継承者たちに「化身」という語のチベット語での訳語「トゥルク」という呼称を用いていることにより
ます。そのため、チベット式の三身説を紹介する場合には、「化身」という訳語ははずせない状態になっ
ています。
>>462アルミカンさん
>「三身即一身・一身即三身」
「日蓮宗では…」といろいろなことを引き合いにだしながら、じつはご紹介の語句をまったくしりません
でした。はずかしいかぎりです。
さらなる勉強の必要を痛感しています。
みなさまありがとうございました。
>>463-465 DBさん
私も以前、富士門流にありがちな日蓮理解の誤りを示すには、チベット仏教の例を挙げることが
適切な議論に繋がるのでは…と考えて、聞きかじりの浅学ではありますが紹介しようとしたことがありました。
DBさんのように実際に日蓮宗に属され、またチベット仏教について深い造詣をお持ちの方が、
スレにご参加下さり適切な解説をして頂けることは、何より有難いことだと存じます。宜しくお願い致します。
> チベット仏教学の方面では最近 「活仏」、「転生活仏」という用語をあらためて「化身ラマ」と呼びか
>えよう、という動きがおこっております。
せっかくのDBさんの的確な解説が誤解を受けないよう、浅学ながら捕捉させて頂きますと、
「活仏」という言葉自体が中国語の俗語であって、そもそものチベット仏教には無いということ。
にも関わらず、この「活仏」という言葉が輪廻転生と結び付いて使われることで、チベット仏教が
元々の仏教思想とは著しく矛盾する教えであるかのごとき『誤ったイメージ』を生み出しがちですから、
それで中国語の俗語から、元々のチベット仏教の用語に戻していこうということではないかと推察します。
>>466続き
このような『誤ったイメージ』は、単に私たち一般の素人だけのものではなく、
様々な分野に及んで弊害を生んでいます。以下に一例を示しますが、このような点からも
DBさんの仰るように、『化身』という用語がより適切であるのが分かると思います。
http://tibet.que.ne.jp/okamenomori/qing.html > また、平野氏は清皇帝の転輪聖王としての側面ばかりを強調し、皇帝が同時に文殊菩薩の化身としても
>ふるまっていたという点に注意をはらわない。しかし、後述するように、清朝皇帝が文殊菩薩の化身で
>あるという思想は、清・チベット関係を考える上で、非常に重要な意味を持つ。氏が転輪聖王と文殊菩薩
>の関係を整理できなかった理由の一つはチベット仏教圏における王権思想??菩薩思想??に対する理解の
>浅さが一因となっているものと思われる。それは彼が、ダライラマやパンチェンラマのような、
>生まれ変わりによってその座を継承する高僧を、チベット世界ではそれに当たる言葉のない
>「活仏」「霊童」という中国語で表現することよりも明かである。
> 「転生する高僧」のことをチベット語ではトゥルク(srpul sku)といい、モンゴル語の直訳では
>フビルガン (qubilγan呼必勒罕)という。これは仏教用語の「化身」という言葉にあたり、
>法身(時間・空間を越えた仏の意識)が現世に示現する存在を指す。仏教において、仏の境地(菩提)とは
>最高の位であり、この位に至ると輪廻を解脱するため、二度とこの世には生まれ変わらない。
>一方、この世にあえてとどまり人々を救い続ける存在としては菩薩という存在がある。
>つまり、チベット仏教世界ではダライラマを観音菩薩の化身といい、乾隆帝を文殊菩薩の化身と
>尊称することはあっても、「生き仏」を意味するような言葉で表現することはないのである。ダライラマ一世伝の冒頭の言葉を
>借りれば、彼ら転生僧は「あくまでも月 (仏の境地)の影(化身)」にすぎないのである。
>>467続き
またこれらの教えは、宗教教義の議論や学問研究といった机上の問題に留まらず、チベットで起きている
様々な問題に対する、現実的な『生きた力』としても働いています。
http://mltr.ganriki.net/faq18m04.html ↑こちらの、「ダライ・ラマ14世没後,中国が適当な子供を探し出して新ラマに仕立てたらどうするの?」
という質問をご覧下さい。以下に、回答の主要な箇所をを引用します。
> ただし,この中国製ダライラマが,チベット人たちから本物と認められる方法はある.
> すなわち,仏教の発展やチベット人の幸福に全力をあげてとりくみ,必要な場合には,身の危険をも顧みることなく中国政府批判を実践し続けた場合には,チベット本国と亡命社会が,本物と認定する可能性も出てくる.
>
> 1989年に亡くなった先代のパンチェンがそうで,もともと南京国民政府が滅亡直前の1949年,チベット政府と諮(はか)ることなく勝手に即位させ,1951年,人民解放軍を引き連れて,パンチェンの寺であるタシルンポ寺の主におさまった人物であった.
> が,チベット動乱後の1962年,チベット人に対する過剰弾圧と仏教への抑圧を告発し,是正をもとめる直訴状を毛沢東に提出.
> 毛の逆鱗にふれ,15年も投獄される羽目になったことから,「真のパンチェン」として,チベット本国と亡命社会の双方から信任されるようになった.
> 「化身ラマ」という観念では,ひとりの化身ラマが,今生(こんじょう)で果たしきれなかった仕事をよりよく果たすため,複数にわかれて生まれ変わるなんて例がしょっちゅうある.
> ので,14世の遺言どおりの場所にうまれた人物に加えて,中国製ダライラマも,行い次第では,本物と認められる可能性がある.
さらにチベット仏教の↑こうした思想は、大乗仏教との教義的な整合性のみならず、
元来の釈迦自身の説法(だろうと思われる教え)とも根底で深い一致をみます。
すなわち、人は生まれによってバラモンとなるのではなく、行いによってバラモンとなるのですから。
――以上、取り急ぎの雑文にて申し訳ありません。失礼致しました。
ぴょんきち懲りねーなぁヽ(´ー`)ノ
消えろよ、もしくはハンネ変えろ。必ず荒れんの分かんない?
>アルミカンさん
折伏も唯一性も、そもそも日蓮の思想に忠実であろうとした結果のものですから、
端的に言えば日蓮は今の時代にあっていない、ということになると思います。
難しい問題だと思いますが、開き直って原理主義を決め込むのも、
日蓮だかなんだかわからないわけのわからない宗教になってしまうのも、
どちらも違うんでしょうね。
>DBさん、蛙さん
ご解説ありがとうございます。
化身を含む三身論と、応身を含む三身論は別物と考えたほうが良さそうですね。
チベット仏教における宗教的権能継承の仕組みは、日蓮正宗の血脈教義の話題ともつながって大変面白いと思いました。
パンチェン・ラマの問題は政治的思惑に宗教の教義が利用された例として、
以前関心を持ったことがあります。
生まれ変わりというと、条件反射的に、あやしげなオカルト的なものと思われがちで、
その問題解決も近代的合理主義的科学的世界観をもちこむことを考えてしまいがちですが、
本来であれば、宗教内の考え方、価値観の枠組みに沿った問題解決を目指すべきなのでしょうね。
日蓮正宗と創価学会に関しては、また勝手が違うかも知れませんが、チベット仏教の例は参考になると思いました。
472 :
T.R:2009/06/11(木) 14:57:45 ID:???
>>466-468 私も詳しくは存じておりませんが、鳩摩羅什約の妙法蓮華経とソースダイレクトのチベット語約の法華経とでは、
かなり誤差が生じているとのことですが、どうなのでしょうか?
しかし、春田さんの意見の鋭さやその合理性、分かり安さを拝見させていただき大変感服させられるとともに、
やはりアンチから一目を置かれる方だなと改めて感じております。
それに比べ長文を書き散らし相手に持論を押し付けるだけの意地っ張りの方々にはやはり失望させられます。
その点春田さんおかれましては、「口先の馴れ合いや気遣い」とやらの自からを否定し悔い改め、
この度「痛みを伴っても己れの態度で」誠意を示されるのでしょう。
さて、当スレ
>>269において「もし、これでも法律ヲタさんが
>>257-259の姿勢を反省されないのであれば、
私は前スレからのあなたに対する支持を撤回します。
その点を謝罪した後、改めて以前より乾闥婆さんとお約束している、日蓮肯定論のレスを再開させて頂こうと思います。」
とのことですが、法律ヲタさんの反省とやらが春田さんに受けとられ今回レスを再開されたのでしょうか?
法律ヲタさんは
>>301のように「何をどのように反省しなければいけないとおっしゃるのでしょうか?」といったとぼけた態度に一環され、
「痛みを伴っても己れの態度で」反省しようといった誠意を一切見せようとせず。
あたかも「口先の馴れ合いや気遣い」でもしていれば創価を打倒できるとでも考えていらっしゃるように見えて大変滑稽ですね。
>>472 荒れるのを誘発してる。偽T.R?
こだわらず。淡々といきましょう
>>473 ちょっおま、
>>472が本物であるかは別として、
T.Rが荒らしだって事は知っているよな?w
春田はT.Rにコテや名無しで同調意見を書き込ませ、
あたかも多くの賛同を得ているかのように見せかけた。
また、その挙句にコテハン叩きを行ったり、荒らしをさせたりして、
T.Rはアク禁を食らった前科一犯の荒らしだ。
結局病気とかなんとかいって姿を消したが、
それも仮病であることがすでにバレている。
本来日蓮に否定的意見を持つ春田にとって、
「アク禁事変」以降、不都合な存在となったBwに対し、
彼の執拗な長文に困惑していた此処の住人に付け込んで、擦り寄り、
Bwを孤立させよと企て荒らし扱いを行った(悪者を作る)。
そして、法律ヲタ氏を引き込もう(囲い込み)としたが、失敗に終わる。
ま〜Bwが勝手に遁走してくれたので、
春田としては一定の成果を挙げられたといったところかもしれないがw
不特定多数が原則自由に書き込める2chでは、
多少なりとも荒らしに対する耐性や寛容さも必要だよ。
事実、此処は荒らされてない方だ。
475 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/06/11(木) 21:41:56 ID:sM24XX2L
476 :
アルミカン:2009/06/11(木) 23:19:21 ID:???
>475 名無しさん
たしかに昔死んだ人なんですけど・・・・
馬鹿と思われるかもしれないけど
私の頭の中に存在するんですよ・・・・
あなたの心の中にも存在しますよね。
余計荒れるかもしれませんが、できるだけ簡潔に荒らしに関しての僕の考えを書いてみよ
うと思います。
僕は、どのような書き込みであれ、それは書きこんだ人の何らかの意思が反映されてい
ると思いますから、その意味で十把一絡げに「くだらないもの」「意味のないもの」とはみな
したくはありません。
例え明確な荒らしであっても、それはたとえば単なるコンピューターウィルスのようなものにはでき
ないわけです。
画面の外には生身の人間がいて、悪意にしろ、悪戯にしろ、なんらかの意図を持って、な
んらかの意思を持って、その人の過去や思いを反映させた何かを書きこんでいるわけで
す。
僕は普段は理系の研究の仕事をしていますから、それがどんなに高度なことなのか、実
感できます。
一番原始的な細菌でさえ、恐ろしく複雑な、すべてを解明するのに数百年はかかろうかと
いう生命の仕組みを持っています。そんなものでさえ、表面的には極めて単純なことしか
できません。
(続き)
人間の活動というのはどんな些細なことでも、非常に高度なことです。だから、どんな書き込みも大切にしたい、という気持ちがあります。
春田の蛙さんや法律ヲタさんにずっと絡んでいる方も、僕にはなぜそのようなことをするのか理解できない部分がありますが、なんらかの過去、思いがあるのでしょう。
しかし、やはり適切な表現方法でなければ、どうしても単なる悪意、単なる荒らしとしてしかこちらは対処しようがないのです。
例えばコテハンで、お二人のどのような点に怒りを覚えているのか、野次、挑発、嘲笑なしに、冷静に語れるのであれば、スレ違いになろうともこの場で議論してもらって全くかまわないと僕は思っています。
そのような態度を示せないのであれば、どうしても無視し続けるしかありません。
そして、皆さんにも、荒らしには無視し続けるようにお願いするしかありません。
>>478 別に荒らすつもりもなければ、くだらないと思うのであれば無視してくれて構わない。
>僕にはなぜそのようなことをするのか理解できない部分があります
「理解できない部分」それを過去の「怒り」などの感情と結び付けるから悪意と感じられるのでは?
そういえば、法律ヲタ氏も春田氏に言いたい事があるような事を言っていたが、
おそらくその辺の事かもしれないな?w
春田:長文書き散らすだけのBwrと馴れ合ってきた事をいい加減馴反省しろ!
↓
法律:俺はお前に言いたい事があるんだが黙っておいてやってんだぜ(馴れ合い)
↓
オーディエンス:「言いたい事」って何?って実に自然な成り行きだと思うのだが?w
おかしいかな?
>>477-478 ひゃっきまるさん
結果的に、荒らしによる余計なご迷惑をおかけする事となり、申し訳ございません。
その上、「例えばコテハンで、お二人のどのような点に怒りを覚えているのか、野次、挑発、
嘲笑なしに、冷静に語れるのであれば、スレ違いになろうともこの場で議論してもらって
全くかまわないと僕は思っています。」との御配慮まで賜り、感謝申し上げます。
しかし、残念ながらそのような御配慮も、当の相手方にそのお気持ちが届く事はないものと思われます。
相手方たる荒らしは、他スレにおいても私や春田の蛙氏に粘着を繰り返している輩であろうと
考えられますが、その立場・見解のマトモな説明を求めても応じてきたためしがありません。
もちろん私としましては、相手が議論に応じるならそれに対応する所存ですが、考え難いものでは
ありますが相手方の選択としてそうなったとした場合、相手方の理解不能で公の場に書き込む
という点で無意味なレスが続く事になってしまうものと思われます。
他スレで断続的に行われている彼等のものと思われるレスの内容が、そのようなものでしかないのです。
従いまして、仮にひゃっきまるさんの御配慮の方向に進んだとした場合、このスレにマイナスを
及ぼすだけであろうと思います。
いうまでもありませんが、スレの議論に参加するつもりのない、単なるコテハンへの野次、挑発、嘲笑を目的としたカキコミは、
スレの正常な議論を妨げ、雰囲気を荒らす、荒らし的な行為です。
これは攻撃されたコテハンのみならず、スレ全体への迷惑行為です。
お分かりでしょうか?
この被害を最小限にするためには、我々としては無視するという消極的な対策しかありません。
しかし、荒らしといえどもなんらかの意図のもとにこうした行為を繰り返しているのでしょう。
単なる荒らしにしては具体的主張を持っているらしいふしもあります。単に粗暴なだけでなく、個人的な感情が感じられるレスが多いようです。
ですから、いっそのことご自分もコテハンを名乗って、ご自分の立場を明らかにし、荒らしでない正当な批判を述べればよいではないか、という提案をしているまでです。
>法律ヲタさん
これはお願いとしていうのですが、荒らしには無視で対応してほしいのです。
そうすれば、我々は荒らしを見ないものとして議論を続けることができるでしょう。
483 :
乾闥婆:2009/06/12(金) 13:19:25 ID:???
>>464 DBさん
>制度化されるにはいたらなかったけれども、これに類似した現象は日本仏教にもあるという実例として、宗祖日
蓮が、自身を浄行菩薩の化身と見なした……という例を示し、
これは浄行菩薩ではなくて、上行菩薩の誤りではないかと思いますが、上行菩薩であった
としても、日蓮自身がその真蹟遺文において自分のことを上行菩薩の再誕と述べている文
書はないと思われます。それをにおわす記述はありますが。
「而るに日蓮上行菩薩にはあらねども、ほぼ兼ねてこれをしれるは、彼の菩薩の御計らひ
かと存して、此の二十余年が間此れを申す」(新尼御前御返事)
これも、文字通り読めば、上行菩薩の化身ではないことを明言していると読めます。
484 :
アルミカン:2009/06/12(金) 18:57:17 ID:???
>>470 ひゃっきまるさん
私達現在世代は鎌倉時代と違って歴然と知識と情報を素早く得る事ができて、
それを考えて観ると伝統的な教えの宗教は変化して行っても良いかと思うの
です。
解らない物は信じても良いかもしれないけど、「解明される文証もありだなぁ」
と素直に成りたい物です。 でも仏教宗教は思想で創られているから、これ
も又、難しいものです。
今当に私達の方が泥の沼地に住んで居る様な気がします。
蓮華とは、種とは、浄土の土とは、良薬の薬とは、霊山とは、はた又・・・
一念三千の・・・」〜〜〜頭の中のファイル整理が大変になりまっす。
創価さんも正宗さんも整理が大変でしょうと思います。
>>481 >いうまでもありませんが、スレの議論に参加するつもりのない、単なるコテハンへの野次、挑発、嘲笑を目的としたカキコミは、
>スレの正常な議論を妨げ、雰囲気を荒らす、荒らし的な行為です。
それは大変残念ではありますが、おそらく「スレの議論」とはそのスレの趣旨を指しているのだと思います。
しかしそれはそのスレの趣旨に限定しなければならないというものでもないと個人的には考えています。
また、春田氏がBw氏に対し行った批判(叩き)が発端となり、
一連の法律ヲタ氏に対する「反省要求」に関する「議論」の継続であって、
これは単なる野次や挑発、嘲笑などでもありません。
(そのように見受けられるのであれば申し訳ないです)
>これは攻撃されたコテハンのみならず、スレ全体への迷惑行為です。
「あなたの意見を聞きたい」と尋ねる事が果たして「攻撃」となり得るでしょうか?
あくまで、個人情報などを聞き出すのであれば攻撃と受け取られかねないかもしれません。
しかし、それは法律ヲタ氏の「言い"たい"こと」であって、
春田氏自身が今回そのような「気遣い」や「馴れ合い」を、自ら否定されているのですよ。
>単に粗暴なだけでなく、個人的な感情が感じられるレスが多いようです。
非力ながら、私にははっきりしたことは申し上げられませんが、
それは、個人的な感情ではないことは明確にしておきます。
もしそれが、私個人による感情なのだとすれば、
私を「荒らし」と目する法律ヲタ氏が、春田氏に対して「言いたいこと」などあるはずがないのです。
これはグリム童話でしたっけ?「裸の王様」とよく似ていると思います。
「王様は裸だ」と主張する者は馬鹿、つまり「創価」だの「正宗」だの「荒らし」だのと揶揄される。w
>>483 万年救護の本尊讃文(真蹟保田妙本寺蔵)
大覚世尊御入滅後経歴二千二百二十余年 雖爾月漢日三ヶ国之間未有此大本尊 或知不弘之或不知之
我慈父以仏智隠留之為末代残之 後五百歳之時上行菩薩出現於世始弘宣之
大覚世尊御入滅後、二千二百二十余年を経歴ス爾リトイヘトモ月漢日三ヵ国の間、イマタコノ大本尊マシマサズ
或ハ知ッテ之を弘メズ或ハ之ヲ知ラズ我カ慈父仏智を以テ之ヲ隠し留メ末代ノ為ニ之ヲ残サル
後ノ五百歳ノ時、上行菩薩世ニ出現シテ始メテ之ヲ弘宣ス
>アルミカンさん
変わっても良いというより、変わらなかったら単なるカルト宗教なんですよ。
それは日蓮正宗も創価学会も分かってますし、他の日蓮宗諸派も分かっていて、ずっと問題になっていました。
こうなってくると、「振る舞い」がより大事であるというか。
単に正しさを主張して済む問題ではなく、信仰者としての態度が見られているように思います。
ちなみに、釈迦は「用の済んだ舟は乗りすてよ」と、法でさえこだわってはいけないと言ってますし(うろ覚え)、日蓮も「宗教の五綱」で、正しい教えは時代によって変わると言っていたと思います。
>>485 僕が問題にしているのは、議論内容ではなく、「野次、挑発、嘲笑」のように見える書き込みです。
今までのヲタさんや蛙さんに対する書き込みの中には、そうとしか受け取れない書き方をしたものが多くありました。
それを「荒らしとしか受け取れない」「間違った表現方法」だと言ったのです。
質問相手に対して、最低限の礼儀を示すことは当然のことと僕は思っています。
また、挑発に対して挑発で返すことも、このスレではやめていただきたいと思っています。
そのうえで、再度、あなたが誰に対して、どのような質問をしたいか、また、なぜそれを知りたいのか、書いてみてもらえますか?
建設的なやりとりとなることを希望します。
あなたが野次として言っているのでなければ、コテハンをつけてください。
(追記)
僕はネット上の議論は、できるだけ自由でなければならないと思っています。
なぜならば、これは義務でも仕事でもなく、まさに皆が自由意思で行っていることだからです。
ただし、人間と人間のやり取りである以上、そこに最低限の礼儀を求めるのはそれほど不自然な主張ではないと思います。
自由であるとの原則に基づいて、答えたくない質問に答えない自由もあるでしょう。
答えなかったからといって、それを責めることはできないと思います。
ただ、議論相手の不誠実さを、議論の当事者が指摘するといったことは、今までにもたびたびあったことですし、それがイケナイと言っているわけではありません。
なぜなら、それは相手の人格を批判するためではなく、より良い議論をするためのものであることが明白だからです。
>>486 万年救護本尊って、日蓮が書いたものですよね。
一般に「讃(文)」と言うものは本人が書くものではないはずなのだが、
その本尊の「讃」は本人である日蓮が書いたと仰るわけですね?
それが事実だとしたら、やはり日蓮と言う人物は変わっていますねェ。 (w
>>485 >また、春田氏がBw氏に対し行った批判(叩き)が発端となり、
>一連の法律ヲタ氏に対する「反省要求」に関する「議論」の継続であって、
>これは単なる野次や挑発、嘲笑などでもありません。
具体的にどのような事について、何故、私が「反省」しなければならないと言うのだ?
キミは、その「議論」に具体的にどのように関係すると言うのかね?
無関係の野次馬にすぎず、そのような者が挑発・嘲笑ているだけではないのかね?
誰もが理解できるように、説得的に説明してくれたまえ。
>しかし、それは法律ヲタ氏の「言い"たい"こと」であって、
>春田氏自身が今回そのような「気遣い」や「馴れ合い」を、自ら否定されているのですよ。
私が言いたい事であったとしたところで、キミに言いたいわけでも何でもないわけだが、
どうしてキミに問われて私がその点について応答しなければならないのかね?
>もしそれが、私個人による感情なのだとすれば、
>私を「荒らし」と目する法律ヲタ氏が、春田氏に対して「言いたいこと」などあるはずがないのです。
それがキミの個人的感情の問題なのだとした場合に、なぜ、私(法律ヲタ)が春田の蛙氏に対して
言いたい事などあるはずが無いとなるのかね?
その、理屈が理解できないので、説明して頂きたい。
(レス>491の続き)
>これはグリム童話でしたっけ?「裸の王様」とよく似ていると思います。
>「王様は裸だ」と主張する者は馬鹿、つまり「創価」だの「正宗」だの「荒らし」だのと揶揄される。w
キミは、いつ・どこで、私を(?)「王様は裸だ」と批判したと言うのかね?
それを具体的に示してくれたまえ。
過去、同様の事を何度も粘着君に要求してきたが、一度として、具体的にどのように
批判しているのかを示してくれた者はいない。
単に、挑発・嘲笑・揶揄しているだけとしか思えない状況だ。
そのような中で、相手方の立場を推測すれば、当然に根本的な対立的関係にある者の
行為と考えるのが自然ではないかね?
つまり、創価学会員であり、場合によっては日蓮正宗信徒などだよ。 (もっとも、今まで
私は、直接的には正宗を対象とし他批判は行ってこなかったつもりであり、正宗信徒が
そのような行為を行う可能性は相対的に低いものと思っているけれどね。)
違うと言うなら、キミがどのような立場から、なぜ批判(粘着)するのかを、誰もが納得
できるように説明してくれたまえ。
493 :
乾闥婆:2009/06/13(土) 00:34:04 ID:???
>>486 万年救護の本尊讃文(真蹟保田妙本寺蔵)この曼荼羅の図顕が文永11年12月です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%87%E5%B9%B4%E6%95%91%E8%AD%B7%E3%81%AE%E5%A4%A7%E6%9C%AC%E5%B0%8A 引用開始
天照八幡の二神が成仏している。
日蓮の上行自覚が示されている。
大曼荼羅ではなく大本尊となっている。
以上の特徴は他の真筆曼荼羅には見られない独特のものである。
引用終了
「而るに日蓮上行菩薩にはあらねども、ほぼ兼ねてこれをしれるは、彼の菩薩の御計らひ
かと存して、此の二十余年が間此れを申す」(新尼御前御返事)文永12年2月
「予、倩事之情を案ずるに、大師薬王菩薩として霊山会上に持して、仏、上行菩薩出現之
時を兼ねて之を記したまふ故に之を喩すか。而るに予、地涌の一分に非ざれども、兼ねて
此の事を知る。故に地涌之大士に前き立ちて粗五字を示す」(曾谷入道殿許御書)文永12
年3月
これらの遺文とは表現において齟齬がありますね。もし端書が日蓮の真蹟だとすると、そ
のような自覚に達したあと、その自覚に距離を置く表現に再び揺り戻していることになり
そうです。
「其故は日蓮聖人は御経にとかれてましますが如くば、久成如来の御使、上行菩薩の垂迹、
法華本門の行者、五五百歳の大導師にて御座候聖人を」(頼基陳情)建治3年6月
これは真筆はなく、日興写本のみあります。
>法律ヲタさん
お気持ちはわかりますが、売り言葉に買い言葉の展開にならないよう、できるだけ挑発的な表現をおさえて書いていただけるとありがたいです。
そうなると今までと同じやりとりになると思いますし。
また、相手の立場を特定するのはまだ早いと思います。
495 :
アルミカン:2009/06/13(土) 20:37:30 ID:???
>>493 けんだっぱさん
今の議論から離れた質問で申し訳ございませんが
曼荼羅に図顕されている天照と八幡とは、日蓮仏法としては矛盾を
感じてしまうのですけど、
この疑問を調べる方法が在りましたら教えてもらえませんでしょうか。
496 :
485:2009/06/13(土) 20:46:54 ID:???
>>スレ住人の皆様
ご迷惑をおかけして申し訳ありません。どうぞ引き続きそちらの議論を続けてください。
>>481 >僕が問題にしているのは、議論内容ではなく、「野次、挑発、嘲笑」のように見える書き込みです。
>今までのヲタさんや蛙さんに対する書き込みの中には、そうとしか受け取れない書き方をしたものが多くありました。
大変残念なことではありますが存じております。
しかし、私が他者に対し荒させたものではありません。
正直、住人の方と議論を同時に継続されながらなので、
ご面倒をおかけし、返答打ち切ろうかとも思いました。
しかし、それは此処が特別に荒らされたものではないと思います。
また、「表現方法」といった行為については問題もあるとは思いますが、
あなたもおっしゃるように「荒らし(行為者)」または「荒らされる(スレ)」には、
不当あるいは正当な理由(言い分)のいずれかがあると思います。
ただ無視する以外にも、その正当性を客観的に捉えて、公正に判断すること大事かもしれませんね?
(
>>496続き)
>そのうえで、再度、あなたが誰に対して、どのような質問をしたいか、また、なぜそれを知りたいのか、書いてみてもらえますか?
法律ヲタ氏が春田氏に対しておっしゃりたいことを正直に話して話していただきたいのです。
また、その理由は、この件うやむやにするれば自己矛盾が生じ不合理となる(筋が通らない)と思うからです。
私が考えた結論から言わせていただければ、合理的な選択肢は以下の2通りです。
1.春田氏がBw氏に対する批判を撤回し、今までどおり「口先の気遣い」や「馴れ合い」を続け、
身勝手な被害者意識から来る「荒らし」とやらに叩かれ続ける。
2.法律ヲタ氏が「痛みを伴う」形で「反省し」、「口先の気遣い」や「馴れ合い」を今後一切止め、
「誠意」示す。
法律ヲタ氏は相手に対し、合理性を要求する発言が多い一方、礼儀を欠く傾向が見受けられます。
(私は、それを彼の良さでもあると一定の評価していますが。)
しかし、自らが、その立派な合理性を崩してしまえば、本末転倒な状況に陥ってしまいます。
もちろんご本人の意思を無理に曲げてまで強制するつもりもありません。
しかし、法律ヲタ氏が「相手が議論に応じるならそれに対応する所存(
>>480)」と申されておりますので、
願わくば、明確していただけるよう要求していきたいと思います。
そして、無意味な質問の繰り返しや創価認定等にについては、大変落胆するとともに、
荒らし行為者の心情についても一定の理解ができるものです。
498 :
485:2009/06/13(土) 20:49:37 ID:???
(
>>497続き)↑は私です
>>491 >具体的にどのような事について、何故、私が「反省」しなければならないと言うのだ?
>キミは、その「議論」に具体的にどのように関係すると言うのかね?
>無関係の野次馬にすぎず、そのような者が挑発・嘲笑ているだけではないのかね?
当初、「荒らし」だと言った後に、今度は「野次馬」ですか?
どちらが「野次」を飛ばされているのか私には分かりかねます。
すでの上の文中においても矛盾が生じてしまっています。
「無関係」と目する私に対し、「どのように反省しなければならない」のか?と質問する必要性があなたにどこあるのでしょうか?
上の質問自体が、無意味(無駄)なものとなってしまっていますよね。
しかしあくまで私の所見を述べさせていただけるならば、
それは私に質問するよりも、春田氏に直接した方が質問した方が理に適っているでしょう。
事実、すでにそうされていたように記憶しておりますが、後ににあなたは春田氏との関係性についても否定されています。
とするならば、「無関係」の春田氏に対して「荒らし」だの「野次馬」だのと中傷しなければその合理性は保てず、
当方といたしましても、あなたのこれらの無意味な質問(要求)に対しまともに応じることも不可能なのです。
499 :
485:2009/06/13(土) 20:50:45 ID:???
(
>>499続き)
>私が言いたい事であったとしたところで、キミに言いたいわけでも何でもないわけだが、
>どうしてキミに問われて私がその点について応答しなければならないのかね?
私が「応答しろ」などと強制したことはありません。
ただこの一件をうやむやにし、「仲良しごっこ」を続けるのはあまりにもお粗末過ぎます。
また、強いて言うなら、意見の鋭さその合理性からアンチに一目をおかれる春田氏が、
あなたに対し、「口先の気遣い」や「馴れ合い」を必要せず、
「痛みをともなう」形で「反省」し「誠意」を示せと要求しています。
ならびに、さもなくば、あなたに対する支持を取り下げるとともに、
乾闥婆氏との議論を継続しない硬く決意しそれを宣言されているのです。
>キミは、いつ・どこで、私を(?)「王様は裸だ」と批判したと言うのかね?
>それを具体的に示してくれたまえ。
いえ、これは「比喩(ひゆ)」と申しまして、例え話しの一種です。
また、直接あなたのに限定したものではなく、
春田氏など創価認定する者に対する比喩なので悪しからず。
以上。
>>496-499 はっきり申し上げて、そこでアナタが何を言わんとしているのか理解できません。
こちらの質問に答えているとは言えない内容ですし、そこに議論として要求される理屈や
説得性も存在しないとしか思えません。
要するに、アナタが挙げているこちらの問題に関してアナタは無関係だが、しかし、個人的に
関心がある、と、そう言っているにすぎないわけですよね。
私としては、アナタとは無関係な事について「野次馬」のアナタに首を突っ込まれ、迷惑なだけです。
そして、そのアナタの行為は、このスレにとっては、スレの趣旨と関係のない「荒らし」にすぎない
と言う結果となっているのです。
ですから、これだけで私のレスを終りとしても良いとは思うのですが、一つだけ、アナタの
言っていることで頓珍漢すぎて第三者に誤解を生みかねない点があるようですので、
それについてだけは具体的に問題としておくこととします。
(レス>500の続き)
アナタはレス>497で「法律ヲタ氏が春田氏に対しておっしゃりたいことを正直に話して話して
いただきたいのです。また、その理由は、この件うやむやにするれば自己矛盾が生じ
不合理となる(筋が通らない)と思うからです。」と言っています。
私としては、それによって特に第三者との関係で問題としなければならない領域において
「自己矛盾が生じ不合理となる(筋が通らない)」とは思っておりませんけれど、仮に「自己矛盾
が生じ」たとしたところで、それは、この板における第三者との議論などのように第三者との
関係で問題となる領域の話ではないではありませんか。
それは、あくまでも私個人なり、或いは私と春田の蛙氏との関係において問題となるものに
すぎないのあって、そこに何故アナタが容喙しようとするのかが分かりません。
誰もアナタに、お節介など頼んではいないのですよ。 以上。
(それでは、明日は早朝から出かけなければなりませんので、これで終わらせていただきます。)
502 :
485:2009/06/14(日) 01:05:26 ID:???
>>500-501 >私としては、アナタとは無関係な事について「野次馬」のアナタに首を突っ込まれ、迷惑なだけです。
ですから、春田氏との関係ついても、アンチという共通理念以外にないのでしょう?
なぜ、春田氏に対しても同じように「迷惑だ」の「荒らし」だの非難しないのですか?
もう一度聞きますが、春田氏ともアンチという共通理念以外に関係はないのでしょ?
>私としては、それによって特に第三者との関係で問題としなければならない領域において
>「自己矛盾が生じ不合理となる(筋が通らない)」とは思っておりませんけれど、仮に「自己矛盾
>が生じ」たとしたところで、それは、この板における第三者との議論などのように第三者との
>関係で問題となる領域の話ではないではありませんか。
>それは、あくまでも私個人なり、或いは私と春田の蛙氏との関係において問題となるものに
>すぎないのあって、そこに何故アナタが容喙しようとするのかが分かりません。
それ(第三者との 関係で問題となる領域の話ではない)はあなたの勝手な決めつけや驕りです。
なぜなら、当初にも申し上げたように、まともな根拠も示さず共同して「創価認定」しているのは、他でもあなたたちです。
それが間違っていた場合に、「創価認定」された相手(私)が大変な迷惑を被ることになるからです。
しかし、それについてあなたはすでに、
創価にとって有益となることをするから「創価認定」をするといった旨を明かされています。
503 :
485:2009/06/14(日) 01:07:13 ID:???
(
>>502の続き)
さて、実際どうでしょうか?
春田氏がBw氏を直接非難したことの方が、私にはよっぽど創価にとって有益なことだと感じられるのです。
事実、アンチであるBw氏の書き込みも見られなくなってしまいましたね。
それを踏まえたうえで、あくまで論理上あなたの「創価認定」を理屈を用いれば、
春田氏に対してもあなた気持ち次第でいつでも、「創価認定」ができることになりませんか?
そこで、春田氏を「創価認定」する書き込みにあったとして、あなたが「荒らし」だのと非難するのはおかしいでしょ?
だって、俺(法律ヲタ)の馴れ合い仲間の春田は、スレの趣旨とは無関係の自分の掲示板での話しを持ち出し、
Bwというコテを叩いたとしても「荒らし」や「創価」ではないが、
他の利用者がそこでの話題に入り非難したすれば、それは「荒らし」や「創価」となってしまうのでは、
明らかなダブルスタンダードで不公正です。
で、第三者であるおまいには関係ない、この件に口を挟めば「荒らし」あるいは「創価」だの中傷の繰り返しでしょ?
どれだけ、あなたは偉いのですか?「裸の王様」ではないでしょ?
>485さん
まずは、僕のお願いに冷静に応じていただき、コテハンをつけてくれたこと、挑発的ではない議論を行っていただけていることに感謝いたします。
さて、法律ヲタさんへの要望ですが、ヲタさんが答えたくないとの意思を明確にされた以上は、
ひとまずこの要望を取り下げるのが筋であろうと思うのですがどうでしょうか?
あなたも、「あなたの立場」(日蓮正宗か、創価学会か、内部アンチか、他の日蓮系宗教宗か、またはそのいずれにも属さないか)と、
なぜあなたが法律ヲタさんとその関係する人に強い関心をもつのかの個人的理由を明かしていません(単に不合理だという理由でこだわるには無理があるように僕には感じられます)。
しかしそれは、答えたくないから答えないのでしょう。
日蓮や創価学会について語るのと、こうした個人的な事情について語るのでは、当然勝手が異なります。
後者の方はよりデリケートな問題であるはずです。ですから、僕はそれを深く追求するつもりはありません。
同じ態度を法律ヲタさんや他の方へもとれないでしょうか。
(続き)
「何が荒らしなのか」という問題ですが、何度も言っているように、「野次、挑発、嘲笑」のように見える書き込みです。
長文、わかりにくい文章、自分本位の勝手な文章といったものは、それが意図的にされたのでもなければ、荒らしではありません。
ところで、あなたはあなた自身の文章を客観的に見て、分かりやすい文章だと思うでしょうか。
自分で考えた文章が分かるのは当然ですが、果たして他人が読んだとき、分かるように書けているか…。大変難しいことです。
僕も毎回、分かりやすく書けているか、不安で仕方ありません。
長文で、内容や意図が意味不明に見える書き込みは、ともすれば荒らしに見えますし、実際に荒れる原因になることもあります。
しかし、実際に議論している人どうしは、自分の考えを文章で表現するのが難しいことをよく知っていますから、若干わかりにくくとも、分かろうと努力しますし、
分かりにくさを「荒らし」として責めることもしないのです。
もちろん、書く側は分かりやすく、簡潔な文章となるよう努力するのが前提ですが。
506 :
485:2009/06/14(日) 18:57:09 ID:???
(
>>504-505)
>ひとまずこの要望を取り下げるのが筋であろうと思うのですがどうでしょうか?
私がひとまず要望を取り下げるのは構いませんが、
それに変わる法律ヲタ氏がなんらかの誠意を示されるということでなければ、
一方の要求だけを取り下げさせるのは不公平であり、筋が通らないと思います。
>あなたも、「あなたの立場」(日蓮正宗か、創価学会か、内部アンチか、他の日蓮系宗教宗か、またはそのいずれにも属さないか)と、
>なぜあなたが法律ヲタさんとその関係する人に強い関心をもつのかの個人的理由を明かしていません
私はいずれの団体にも名実ともに属しておりません。
また、実をいうと法律ヲタ氏に対する、個人的な理由というのも特に思い当たらないのです。
しかし、これまでBw氏を擁護しておきながら、自身の掲示板に誘っておいて突如としてアク禁にしたり、
T.R氏(荒らし)と共同して荒らしまわったかと思えば、仮病をかばったり、相手に擦り寄ったり、
自身の掲示板に勧誘するなど、春田氏の行動には理解に苦しむことが多いのです。
507 :
485:2009/06/14(日) 18:58:04 ID:???
(
>>506続き)
>しかしそれは、答えたくないから答えないのでしょう。
いえ、答えたくないわけではなく、法律ヲタ氏が「言いたいこと」明示にする前に
こちらがそれに応じてしまうと、ヲタ氏の「言いたいこと」に関する観測を明示せざるを得ず、
「妄想」だのと後でなんとでもごまかすこと(後出しジャンケン)が可能となってしまうことが、
こちらの本意ではないのです。
しかし、そのような状況の踏まえたうえで、答えることが「最低限の礼儀」だとするなら、
ヲタ氏も春田氏に対し、「私と同じように疑念を抱いているのでは?」と考えているのです。
しかし、ヲタ氏にとっては、創価と対峙するうえで、そのことに触れない方が得策だと考えているのだと思います。
ストーカーなどを除いた一般的社会における、ごく自然な人間関係において、
どちらか一方が、その関係を否定すれば破綻するのが常識なのではないでしょうか?
春田氏自身が「口先の気遣い」や「馴れ合い」を否定し
ヲタ氏もアンチという共通理念以外の関係性を完全に否定している以上、
その関係とやらになんら意味を持っていないはずなのです。
ゆえに単に、ヲタ氏は春田氏との個人的な関係を口実にして断っているに過ぎません。
また、その裏づけとして、これまでヲタ氏は何度か春田氏の掲示板への誘いを受けていますが、
それに応じたことはほとんどないはずです。
2chという掲示板があるというのに、同様の掲示板に誘うという事自体不可解な行為にも思われますが?
508 :
485:2009/06/14(日) 18:59:08 ID:???
(
>>507続き)
それから、荒らしに関しては、私がコテを名乗れば一定の問題はクリアできたはずですよ。
「ひとまず要求を取り下げてみては」とか、徐々要求のレベルを上げるのには応じられません。
対等な立場において、公平な議論を望みます。
また、実は時間にあまり余裕がなく、合間をみては書き込んでいるもので、
誤字等が多いことは認識しており、分かりにくいこともあるかもしれません。申し訳ない。
ただ、「意味が分からない」や「荒らし」だの「創価」だのの繰り返しでは議論とは呼べないでしょう?
こちらとしても分かりやすく書き込むつもりですが、分かろうとする意思はあるのか?
あるいは分かっていながらとぼけているようにも感じられます。
>485さん
法律ヲタさんのレスを待つつもりですが、少しだけ質問させて下さい。
まず、485さんは日蓮系のどの宗教にも属さず、また蛙さんやヲタさん等と個人的ななんらの関係もなく、
しかし、その上で、ずっとsageで進行しているこのスレに関心を持ち続け、特定のコテハンへの不実さなどを、何がなんでも追求したいというのですね。
つまり、その動機は純粋な「義憤」ということでよろしいですか?
法律ヲタは元学会員の在日朝鮮人。
現在は日蓮正宗信者。
薬物依存症の還暦に近いじじい。
何を忠告しても脳乱するだけの真性のキチガイ。
511 :
485:2009/06/14(日) 21:41:25 ID:???
>>509 いや、そんな「義憤」とか、大それたものでも怒っているわけでもなく、
すでヲタ氏の同様のことをに述べられていると思いますが、
単に私の「興味」や「関心」を抱いているに過ぎないのです。
ただ「おいおい、俺のことカルト認定する前にオマエ馴れ合い仲間こそ大丈夫なのかよ?」とねw
おそらくはっきりしたことを言われない理由の中には、確証が得られていないということや、
これまでの整合性や一環性を保つことができなくなるといった懸念も、
あるのかもしれず難しいのかもしれませんが?
しかし、別に関係の無い者が「興味」や「関心」を抱くことは珍しいこと間違ったことでもないでしょうし、
荒らしたいとかではなく、本当に、本音を聞いてみたいといった気持ちになるのです。
申し訳ありませんが、こんなに遅くなるとは思っていなかったのですけれど、
今帰ってまいりましした。
実は、自分としては酔っているとは思っていない程度なのですが、
アルコールを飲んできております。
一応、書き込みは読ませていただきました。
言いたい事は沢山ありますが、明日にさせていただきます。
今朝も早かったもので、時間を考えると、おそらく明日の朝に書き込むのは
厳しいと思います。
(やはり昨日は長時間飲んでいたせいか、頭は痛くありませんが、スッキリとしませんね。
まァ自分の行いの結果なのですから、、書き込めるだけ良しとしなければいけないのでしょうね。)
>>502-503 >なぜなら、当初にも申し上げたように、まともな根拠も示さず共同して「創価認定」しているのは、他でもあなたたちです。
>それが間違っていた場合に、「創価認定」された相手(私)が大変な迷惑を被ることになるからです。
「まともな根拠」を示す必要があるのは、アナタ。
アナタ自身に、自分が何者であるかの説明責任・証明責任があるのです。
過去、何度も繰り返し他スレで説明してきている事ですよ。
他板において、議論の相手に対し根拠を示す事も一切なくして突然と「創価認定」したとでも
言うならともかく、ここは創価・公明板なのですよ。
基本的に、どういう立場の者が議論をしていると思っているのですかね?
公開された場なのですから、特に創価学会の問題に関心を懐いてはいない人物も、時としては
来訪し書き込む事もありうるでしょうけれど、そのような人物がたまたま何らかの理由でこの板に
来たとして、ず〜っと誰か乃至何かに対して粘着し続けるものでしょうかね?
はっきりと言わせていただければ、そのような人物がいたとしたら、それはどこか病的要素を
持っている方なのではないかと疑わない方がオカシイのではありませんかね?
普通は、創価学会の問題に対して何らかの意見・見解・主張を持っているからこそ、この板に
来続け、書き続けるものなのではありませんか。
(レス>513の続き)
ところが、アナタときたら、そのような点に関して自分の見解を明らかにした事など一度として
無いにもかかわらず(自らもそうですし、こちらが要求してもそうです。)、このスレではアンチ
コテハン同士の個人的な問題に口を挟もうとするわけです。
それは一体なぜなのかという事ですよ、アナタがどういう人物なのかと言う点に関して私が
問題としているのは。
レス>507でアナタは『ヲタ氏も春田氏に対し、「私と同じように疑念を抱いているのでは?」と
考えているのです。』としていますけれど、アナタが春田の蛙氏に対して「疑念」・批判を持って
いるのなら、私がどう考えようと関係なく、それをアナタ自身の責任で春田の蛙氏に直接
投げかければ良い事ではありませんか。
何故そうしないのですか?
仮に「それが間違っていた場合」(>502)であっても、つまり、アナタは学会員なのではないのか
という疑いが間違っていた場合であっても、自分が何者であるのかを示してこなかったアナタこそ
が問題なのであって、誤解を受けるような事を書き続けておきながら誤解について他人を
非難する資格など、アナタには無いのではありませんか。
アナタが創価学会員ではないか考える事は、当然の疑問なのであって、そうではないのなら、
アナタ自身が創価学会に対してどういう立場・見解を持つ人物なのかを示すべきなのです。
(レス>514の続き)
そしてアナタは『しかし、それについてあなたはすでに、創価にとって有益となることをするから
「創価認定」をするといった旨を明かされています』と述べていますけれど、それはアナタの行為
(書き込み)から判断すれば、そのように判断するのが順当であろうという話であって、そもそも
それ以前に、匿名掲示板で議論している以上、自分自身が自分の立場・見解を積極的に明らかに
するのでなければ、どのような人物なのかを判断する為には、その人物によるレスの全趣旨から
それを行うしかないではありませんか。
仮に私がこれまで一切創価学会にむけた批判を行っていなかったとして、創価学会に批判的だと
分かる人物に対し粘着し批判的レスをし続けたとしたら、問われて私が口先ではそれを否定したと
しても創価学会員ではないかと疑われるのは当然でしょうよ。
ましてアナタは、今は一時的にハンドルを名乗ってはいますが、名無しを選択してきたわけです。
もちろん名無しを選択する事自体は自由な事ではありますが、ハンドルを名乗るも名無しで
書き込むも、それに従って当たり前に生ずる結果の責任は本人が負うしかないのです。
誰が書いたのか判別しがたい名無しを選択した以上は、他の名無しのレスとアナタのレスを
混同されたところで、また、本当はアナタのレスであるにもかかわらず他の名無しのレスと
思われたところで、それはアナタの責任と言うべきものです。
アナタが一貫して創価学会を批判していると把握できない上に、アンチコテハンに対し批判的
粘着を行う以上、創価学会員と疑問を持たれたところで、アナタ自身の作出した原因に
よるのであって、他人にその責任をなすりつけるなど、無責任にも程があると言うものです。
これも、過去に他スレで何度も言ってきた事ですよ。
>485さん
>>511のレスを持って、あなたは法律ヲタさんや他のコテハンさんたちとは何の関係もなく、しかも創価学会や日蓮宗の問題にも関係のない人間だと明言されたということでよいのでしょうか?
個人的には、ここまで労力をさいている人物が、全く関係ないというのは信じがたいことではありますが、信用するほかありませんね。
そしてあなたは、全く自分に関係のない人物、関係のない議論に関して、単なる好奇心で(あるいは単に寂しくて話し相手を求めて?)、
拒否されているにも関わらず、質問をし続けているというわけですね。
それはまさしく、野次馬根性とでもいうもので、僕や法律ヲタさん、その他の方があなたの相手をする義理はまるきりない、ということになると思います。
もちろん、野次馬根性で質問するのは自由ですが、それに答えなかったからといって、不当だとナジるのはあまりに身勝手というものです。
単に法律ヲタ氏が憶測で創価認定するのをやめればいいだけでしょ。法律ヲタ氏の言っていることは屁理屈。
518 :
485:2009/06/15(月) 14:49:45 ID:???
>>513-515 >「まともな根拠」を示す必要があるのは、アナタ。
所属して「いない」ものを証明せよとおっしゃっているのですか?w
コテを示したうえで、創価などのどこの宗教団体にも名実とも属してないと言っているではないですか?
それとも身分証明書でも出せと?w 悪いが、個人情報なのでそれはお断りします。w
>仮に「それが間違っていた場合」(>502)であっても、つまり、アナタは学会員なのではないのか
>という疑いが間違っていた場合であっても、自分が何者であるのかを示してこなかったアナタこそ
>が問題なのであって、誤解を受けるような事を書き続けておきながら誤解について他人を
>非難する資格など、アナタには無いのではありませんか。
いえ、私は春田氏を創価だと言った事はないので、批判する資格はあると思います。
また同様の趣旨が重複しており、今後は、もう少し簡潔にまとめる努力を希望します。
>ましてアナタは、今は一時的にハンドルを名乗ってはいますが、名無しを選択してきたわけです。
>もちろん名無しを選択する事自体は自由な事ではありますが、ハンドルを名乗るも名無しで
>書き込むも、それに従って当たり前に生ずる結果の責任は本人が負うしかないのです
「名無し」が創価と疑われなければならない根拠が、あなたの脳内を除いてどこにあるというのでしょうかね?
客観的な根拠を提示してから創価認定の正当性について発言してください。
また2chはどこの板でも、名無しが一般的(デフォ)となっており、
名無しだから(創価に向けて批判を行っていることを証明できないから)、
創価扱いをしても良いなんて規定などどこにも存在しないはずです、
あなたの脳内を除いては。
519 :
485:2009/06/15(月) 14:58:09 ID:???
(
>>518続き)
そして、春田氏等の「創価認定」主義者に対する報復レッテル張りに対し
あなたは「荒らし」扱いはすでにできないはずです。
>レス>507でアナタは『ヲタ氏も春田氏に対し、「私と同じように疑念を抱いているのでは?」と
>考えているのです。』としていますけれど、アナタが春田の蛙氏に対して「疑念」・批判を持って
>いるのなら、私がどう考えようと関係なく、それをアナタ自身の責任で春田の蛙氏に直接
>投げかければ良い事ではありませんか。
>何故そうしないのですか?
春田氏に疑念を抱く以上、本人の弁を鵜呑みするわけにはいかないからです。
そのため、春田氏と馴れ合っていたあなたの主観的な正直な見解をお聞きしたいのです。
>仮に私がこれまで一切創価学会にむけた批判を行っていなかったとして、創価学会に批判的だと
>分かる人物に対し粘着し批判的レスをし続けたとしたら、問われて私が口先ではそれを否定したと
>しても創価学会員ではないかと疑われるのは当然でしょうよ。
一切創価学会に向けた批判を行ってとしてといこと自体が、あなたの勝手な推測(妄想)であり、
推測の上ではまともな議論として成立しません。
>来訪し書き込む事もありうるでしょうけれど、そのような人物がたまたま何らかの理由でこの板に
>来たとして、ず〜っと誰か乃至何かに対して粘着し続けるものでしょうかね?
別に私が粘着しているわけではなく、疑念を抱く名無しが複数存在するから、
粘着されているような身勝手な被害者意識苛まれるのでは?
>コテハン同士の個人的な問題に口を挟もうとするわけです。
ですから、コテハン同士の個人的な問題などないはずですよ?
アンチとしての「共通理念」以外に、あなたと春田氏との間に「関係ない」はずですから。
520 :
485:2009/06/15(月) 14:59:02 ID:???
>>516 >そしてあなたは、全く自分に関係のない人物、関係のない議論に関して、単なる好奇心で(あるいは単に寂しくて話し相手を求めて?)、
>拒否されているにも関わらず、質問をし続けているというわけですね。
法律ヲタ氏も創価とはまったく関係がないが、批判をし続けていますよ。
私はそうは思いませんが、あなたの理屈に従えば、
「それはまさしく、野次馬根性とでもいうもので、創価学会員は、ヲタ氏を相手をする義理はまるきりない、ということになると思います。」
そのうえ、「それに答えなかったからといって、不当だとナジるのはあまりに身勝手というものです。」
ということになりますよね?
そして、まったく関係のないのは春田氏もヲタ氏と同じなのですよ?
春田氏がヲタ氏に対して行った反省要求に関し、
あなたが「ヲタ氏がそれに従う義理はない」とはっきりおっしゃってからでないと、
その説得力や公平性を欠いてしまっています。
ましてや、あなた自身私にどこの所属しているか問い、きちんとそれに私は正直に"答えました"。
それにもかかわらず「信じがたい」ことなどと執拗に繰り返しているのはあなたですよ。
>485さん
では、このレスをもってあなたへのレスを終わることにしますね。お付き合いいただきありがとうございました。
この板やこのスレで創価学会のことが論じられているのは、当然ですが、ここがそのための場であるからです。
特定のコテハンの話題を行うためのところではないからですね。
今回は、あまりに法律ヲタさんに長期間絡む名無しが多かったので、その原因を知りたいと思い、あえて聞いてみたわけですが、
その目的は果たしたので、僕は再びスレ違いの話題に関しては無視するスタンスをとることにします。
>>522 時代の変化って、日本でも徐々に起きてんだ。
日蓮正宗と創価学会の対話は、何時のことやら。
そろそろチェンジするときじゃね?
524 :
485:2009/06/15(月) 22:36:42 ID:???
>>521 >この板やこのスレで創価学会のことが論じられているのは、当然ですが、ここがそのための場であるからです。
もちろんその通りです。しかし、どの宗教にも属していない私としては、
皆さんが話されているような議論には到底ついていけず、また興味もありません。
あるとすれば、なぜそんな馬鹿げた宗教に入り続けるのか?とかその程度ものでして、
スレ違いとなってしまってい申し訳ないです。
ただ、事実として、私がこの板に来るようになったのは、以前、創価学会の方から、
大変な迷惑行為をうけたことがあったのです。
そのため、自分のの宗教観からなどではなく、私個人として創価学会の問題を捉えるうえでは、
その本質が、教義の実践の為に社会通念を著しく逸脱するような
カルト的な要素にあると考えているからなのです。
しかし、アンチと称する者の中に、同様の社会通念を逸脱するような行為を行う者が存在したとして、
それが、「馴れ合い」やら「口先だけの気遣」やらという形でもっともらしく賛美し合ているのでは、
やってることはなんら創価と変わらない気がするのです。
そしてそれに意を唱えただけで創価に有益となる行為として「創価認定」です。
私としては本末転倒なことに思えてなりません。
>今回は、あまりに法律ヲタさんに長期間絡む名無しが多かったので、その原因を知りたいと思い、あえて聞いてみたわけですが、
>その目的は果たしたので、僕は再びスレ違いの話題に関しては無視するスタンスをとることにします。
そのような前提でるのであろうと薄々感じておりましたが、残念です。
>485さん
了解しました。
気持ちはわからないでもありませんが、
やはり人間関係というのは、
当人以外にはなかなか理解しにくいところがあると思いますよ。
要は議論自体が正確で健全であればよいのであって、
他の雑事にはあえて眼をつむることが必要と思っています。
個人的には。
リアルの人間関係もそうじゃないですかね。
526 :
485:2009/06/15(月) 23:59:28 ID:???
>>525 リアルの人間関係はまさしくその通りだと思いますw
ただ、ネット上なので多少思ったことを言いいたいって利用の仕方もありなんじゃないでしょうか?
現に、「私はどこの宗教にも属していません。」と言う他人が目の前に居たとして、
よっぽどな証拠でもない限り「信じがたい」なんて、いえないでしょ?w
おそらくヲタ氏はスレに迷惑を賭けることを嫌い、来られないでしょうし、
来たとしてもまとも答えていただけるとは到底思えないのも事実です。
みなさんにもご迷惑をおかけすることとなっているので、
不本意ではありますが、一旦私は失礼することにいたします。でわでわ。
>>524、
>>526 >もちろんその通りです。しかし、どの宗教にも属していない私としては、
>皆さんが話されているような議論には到底ついていけず、また興味もありません。
それは、このスレのみならず、この板に関係する場合全般に言える事だと思うが、アナタは
それにもかかわらず何故この板に居て書き続けるのですか?
しかも、分かるのはアンチに対する批判のみであって、口先では創価学会員ではなく「事実として、
私がこの板に来るようになったのは、以前、創価学会の方から、大変な迷惑行為をうけたことが
あった」などとは言っても、具体的に創価学会を批判している事は一切確認できない。 (どこで
どのように創価学会を具体的に批判しているのかを問い質しても、応じる事もない。 これも
過去にお願いしている事だが、その「485」というハンドルを使うなり何なりアナタ自身が工夫して、
今後はアナタが創価学会を具体的に批判している事を示していただきたいものですよ。)
言っている事とやっている事の整合性がとれているとは考えられず、オカシイではありませんか。
(レス>527の続き)
>そのため、自分のの宗教観からなどではなく、私個人として創価学会の問題を捉えるうえでは、
>その本質が、教義の実践の為に社会通念を著しく逸脱するような
>カルト的な要素にあると考えているからなのです。
>しかし、アンチと称する者の中に、同様の社会通念を逸脱するような行為を行う者が存在したとして、
>それが、「馴れ合い」やら「口先だけの気遣」やらという形でもっともらしく賛美し合ているのでは、
>やってることはなんら創価と変わらない気がするのです。
>そしてそれに意を唱えただけで創価に有益となる行為として「創価認定」です。
>私としては本末転倒なことに思えてなりません。
(書き込みの引用に際し、空白行を省略しました。)
仮に、アナタの言うように我々がこの板で行っている事が「なんら創価と変わらない」ものであったと
したところで(もちろん、私はそれを否定します。)、それは何らアナタに「大変な迷惑行為」をかける
事ではないではありませんか。
「大変な迷惑行為をうけた」創価学会に対しては具体的批判を行っていることが一切確認できない
にもかかわらず、別に、アナタ個人に対して迷惑のかかる事ではないはずのこちらの書き込みに
対しては具体的に批判する。
これって、何なのですか?
しかも、その批判は、一時的なものとは考えられず、複数のスレにまたがって延々と何年も続いて
いるわけですよ。
"いや、それは自分ではない"などと弁明しようとしても無駄ですよ。
このスレにアナタが書いていると思われる内容だけからしても、春田の蛙氏と私の関係について
このスレに意外に書かれた事も含めてズ〜ット注視しているのは明らかなのですからね。
(レス>528の続き)
仮にアナタの言うことが事実だとして(全く以って、事実だとは思えませんけれどね。)、「大変な
迷惑行為をうけたことがあった」創価学会に対しては沈黙していて、具体的にアナタ個人に
迷惑などかけていないこちらを批判する事こそ、「私としては本末転倒なことに思えてなりません」よ。
そのような状況において、アナタに対する私の「創価認定」のどこに問題があると言うのですか?
こちらは、自分自身で創価学会員でない事を第三者が合理的に納得できるように、何らかの形で
具体的にレスに示し続けるように求めてきているにもかかわらず、自分で一切の工夫をせずに
来ているのがアナタではありませんか。(過去そうであったように、まず違いなく、他スレも含めて
今後アナタが「485」なるハンドルを一貫して使う事はないでしょう。 使えば、そこで、私に簡単に
このスレのやり取りをひゃっきまる氏の書き込みを含めてコピペして示されてしまいますものね。)
アナタは、『現に、「私はどこの宗教にも属していません。」と言う他人が目の前に居たとして、
よっぽどな証拠でもない限り「信じがたい」なんて、いえないでしょ?』などと言っているが、
過去にこれまでアナタが書いてきている一連の内容自体が、雄弁に物語っているではないですか。
私は、名無しであれば誰でも見境なく「創価認定」しているわけでも何でもないのであって、
その者の書き込みと考えるのか自然であろうレスの内容から、判断しているのです。
私にしたところで、実際に誰であるのかを特定できるような個人情報を明らかにしているわけでは
ありませんが、しかし、私のことをアンチだと思わない人物はいないでしょう。 (元か現か知りません
けれど、私の事を「創価認定」するアホな輩はいますけれどね。当然それには、「よっぽどな証拠」が
あるのでしょうな。笑わせていただきますので、是非、示していただきたいものですよ。)
それは、書き込みの内容に、一貫して創価学会批判者である事が示されているからですよ。
匿名掲示板において、その内容で人物が判断されるのは当たり前の事ではありませんか。
(レス>529の続き)
>おそらくヲタ氏はスレに迷惑を賭けることを嫌い、来られないでしょうし、
>来たとしてもまとも答えていただけるとは到底思えないのも事実です。
まともに納得する事のできないレスを書き続ける御方に、何を答えろと仰るのですか?
必要な応答は行ってきているつもりですけれどね。
言っている事が理解できませんよ。
そして、もちろん私は、このスレにすれ本来の趣旨とは異なる事を書き続けたくはないが、
アナタとの関係で書かなくて済むか否かは、アナタ次第です。
一言言わせてもらう。これは義憤・公憤の類だ。
法律ヲタ氏、オマエが自分勝手な憶測で相手を勝手に創価認定したんだろ
う? それで相手は違うといっているんだ。その相手に対して、だったら層
化じゃない証拠を見せろとはどういう了見だ。オマエが一方的に憶測で認定
したんだろう? その憶測は相手の発言によって否定された。だったらまず
間違ってゴメンと誤るのがまず筋だろ? それを自分の憶測認定が否定され
たら、自分のいい加減な憶測を棚に上げて、今度は相手が層化を攻撃しない
からそう認定して当然だと屁理屈をのたまう。そういうのをなんていうのか
知っているか。盗人猛々しいというのだよ。どれだけ面の皮が厚いんだか。
あのネ、層化じゃない証拠を見せろって、アナタ、さきに創価認定した証拠
を示したらどうなのかね。名無しで、アンチを攻撃したから、なんて証拠に
ならないからね(それで創価認定して当然って、どんだけ自分に甘いん
だ)。所詮、オマエは憶測で決め付けてものを言う人間であることがはっき
りしたわけだが。そういう態度がどれだけ回りの人間を不愉快にさせると
思っているのだね。層化であるとかアンチであるとか、それ以前の問題です
よ。だからアナタの態度はアンチからでも充分に攻撃されるんですよ。それ
はアナタの態度が呼び込んだものでしょ。いい加減、自分の傲慢な態度を反
省することなく、すべてを相手に責任転嫁する姿勢を改めたらどうなのか
ね。485氏もちゃんと、義憤・公憤だっていいなよ。だって、おかしいじゃ
ないか。法律ヲタ氏の発言は。
532 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/06/16(火) 17:03:15 ID:x9D7lmzx
>>531 ほっとけよ
ヲタは目立ちたいだけ。頭は良さそうだけど、頑固過ぎて幼稚に見えるよ。
人格攻撃ととられたくないが、酒の飲みすぎじゃね?ほろ酔いで書き込みしてんじゃないかな。
そろそろ512kオーバーきそうなので新スレ立てようと思ったのですが、
僕のホストからでは立てられませんでした。
どなたかもしよろしければ、
>>533をコピペして、
日蓮ってver.17
として立てていただけるとありがたいです。
お断りします お断りします お断りします お断りします お断りします
お断りします お断りします お断りします
ハ,,ハ ハ,,ハ ハ,,ハ ハ,,ハ ハ,,ハ ハ,,ハ ハ,,ハ ハ,,ハ ハ,,ハ ハ,,ハ ハ,,ハ ハ,,ハ ハ,,ハ
( ゚ω゚ )゚ω゚ )゚ω゚ )゚ω゚ )゚ω゚ )゚ω゚ )゚ω゚ )゚ω゚ )゚ω゚ )゚ω゚ )゚ω゚ )゚ω゚ )゚ω゚ ) お断りします
/ \ \ \ \ \ \ \ \ \ \ \ \ \ お断りします
((⊂ ) ノ\つノ\つノ\つノ\つノ\つノ\つノ\つノ\つノ\つノ\つノ\つノ\つノ\つ)) お断りします
(_⌒ヽ ⌒ヽ ⌒ヽ ⌒ヽ ⌒ヽ ⌒ヽ ⌒ヽ ⌒ヽ ⌒ヽ ⌒ヽ ⌒ヽ ⌒ヽ ⌒ヽ ⌒ヽ お断りします
ヽ ヘ } ヘ } ヘ } ヘ } ヘ } ヘ } ヘ } ヘ } ヘ } ヘ } ヘ } ヘ } ヘ } ヘ } ヘ }
ε≡Ξ ノノ `Jノ `J ノ `J ノ `Jノ `J ノ `J ノ `Jノ `J ノ `J ノ `Jノ `J ノ `J ノ `Jノ `J ノ `J
俺、創価だけどヲタさん創価は名無しとかコテとか関係なくたたくよな?
そのやってきた理屈で叩かれると創価で無い人にもアンチの人にも創価だ
とか決め付けるしそういうのはちょっとな。
批判的な人でもそのスタンスを否定しているわけではなくヲタさんのやり方
に対しての批判が集まっているだけだよな?
春田さんは紛れも無くアンチだよな? その彼がヲタさんに対して言ってたし。
結局はアンチ、創価とかのたてわけではなくそのもって行き方が鼻についてしまう
と思うよ。 じゃまたROMにもどるから無視していいから。 あまりにもひどいので
一言いいました。
俺、創価ね。
537 :
DB:2009/06/17(水) 05:38:11 ID:???
宗祖が、上行菩薩の化身を自任というのは、
ホントかどうか議論の余地ある主張なのですね…
もっと勉強せねば……。
ありがとうございます
>>531 「義憤・公憤」・「自分勝手な憶測」・「いい加減な憶測」??
俺は、相手方の創価学会員ではないとする主張に対し、キチンと理由を示して疑問を呈しているのだぞ。
それをごく簡単にまとめれば、創価学会員ではないと確認できるのは、当人のその主張のみで
あるところ、実際に本人が書いている内容は、それを裏付けるどころか相違しかねないものでしか
ないのであって、創価学会員ではないとの主張に疑問を生じさせるものにすぎない、とする事が
できるであろうが、その疑問に対して客観的に納得しうる何らの説明もしていないのがアチラ様
ではないか。
それとも、当人が自己について説明した内容は、当人以外の者がそれは事実と異なる事を(厳密な
意味で)証明した上でなければ、否定する(疑問を呈する)事は許されない、とでも言うつもりなのか?
そのような考え方がおかしい事は、俺が他スレで分かり易い実例を示して指摘しているぞ。
再現してやるから、よく考えてみろ。
俺は、日蓮の生まれ変わりであるところの法律ヲタ大聖人様であって、日蓮は像法時代の仏に
すぎないところ、俺こそが末法のご本仏ナのであって、俺の言っている事を誹謗中傷するオマエの
ような輩は、地獄行きだ。
オマエは、これが事実ではない事を(厳密な意味で)証明することなくして、「自分勝手な憶測」・
「いい加減な憶測」でモノを言うなよ。
(レス>539の続き)
こうした主張の問題点は幾つかの方向から指摘する事ができるのだが、例えば、或る者が第一次的な
内容であるところの或る事を主張し、それが間違いのない事実である事を明らかにしていない場合、
一般的にはその主張を事実として扱わなければならない理由などないのであって、それは、通常は、
第一次的内容の主張を為した方がその主張の真であることの証明責任を負う事が原則となるから
なのであり、その主張を否定しようとする側は、自己の為す否定に関して証明責任を負うのではなく、
第一次的内容の主張に関して合理的な疑いを生じさせれば、それで足るのだよ。
そうでなければ、上の例でも示したように、デタラメな主張をした者勝という結果を生じさせかねないのだ。
それとな、まともなアタマの持ち主なら俺の事を創価学会員だとは思わないはずなのだが、それは
何故なのか考えてみなさいな。
この板における自分が何者であるかの証明とは、例えばだが、そういう類のモノさ。
もちろん、誰であるか特定できるようにしようと何だろうと具体的な方法自体は本人の自由だが、要は、
第三者が客観的に判断して合理的な疑いをいだかない程度の内容である事が重要なのさ。
議論を続けるつもりなら、これ以上このスレ(の新スレ)で行うのは迷惑であろう。
実質的には放棄されたであろうスレその他の適当な別スレを指定して続けたまえ。
ヲタさんが個人が叩かれるのではなくてそのやり口が
嫌われているだけだから例えばヲタさんが匿名で
名無しで書き込みしてもここ一連の流れになって行くと思うよ。
意味無名な短文でコテに付きまとうのが1名多い時で3名
それに、釣られて一緒に成って書いているのがいる
元の意味無名な(素性不明)短文の妨害行動が怪しい。
>>541 こちらに時間をとられ他スレに書き込めないでいたから昼を使って書き込もうとすれば、
またまた問題としている事には一切答えずに、話をそらすつもりかね?
その上、このスレに書き続けるつもりなのかね?
「ヲタさんが個人が叩かれるのではなくてそのやり口が嫌われているだけ」・・・俺は、必要と
考えれば、創価学会員か否かにかかわらず相手が誰であれ徹底して批判するから、
批判された者でまともに反論できないヤツには嫌われるだろうさ。
俺にとっては勲章のようなモノだ。 ゴクロウさん。
まともに、俺の言っている事に理屈でもって反論しろよ。
ネットの向こう側にいる人の立場を推論してみても、決して答えは出ないわけですから、むなしい議論をしている気がします。
それに485さんは創価学会の悪口も言ってますから、個人的には学会肯定派ではないように思います。
485さんが学会員だというのはちょっと断定し過ぎと思うのですが…。
また、このことに法律ヲタさんがこだわる理由もよくわかりません。
学会員である、ない、というのは全く法律ヲタさんの利害と関係ないと思うのですが。
>キチンと理由を示して疑問を呈しているのだぞ
違うね。理由ともいえない理由で「疑問を呈する」というレベルを超えて決め付けている。
>創価学会員ではないと確認できるのは、当人のその主張のみであるところ
このような匿名掲示板でそれ以外に何がある?
>創価学会員ではないとの主張に疑問を生じさせるものにすぎない
>その疑問に対して客観的に納得しうる何らの説明もしていない
疑問は疑問に過ぎない。あくまで疑問どまりだ。創価認定するな。本人は否定している。もしその否定を否定するのであれば、それを否定するに足る客
観的な証拠を示せ。まず先に創価認定したのはアナタだろう。
>当人が自己について説明した内容は、当人以外の者がそれは事実と異なる事を(厳密な
意味で)証明した上でなければ、否定する(疑問を呈する)事は許されない、とでも言うつもりなのか?
詭弁だ。まず、創価認定を先に行ったアナタがその客観的な証拠を示せ(もちろん名無しでアンチを批判したから、など客観的証拠にならない)。それ
にたいして485氏は論駁することであろう。485氏がしないのであればオレがしよう。もうひとつ言っておく。相手を創価認定することと疑問を呈するこ
ととは別だ。アナタは創価認定をしたのだ。決め付けたのだ。だったらその客観的証拠をまずアナタが示すのは当然の順序だ。疑問を呈した程度であれ
ば、本人が層化ではないと否定したのだ、それで充分だろう。現に485氏は層化的な教義の主張は何もしていない。アンチを批判しただけで層化だと疑
えるのかね。それで充分に層化だとでも言うのかね。笑止だ。だから、どんだけ自分に甘いのだ、というのだよ。まず、客観的な証拠として485氏が層
化の教義を主張した文章を提示せよ。もちろんその文章が本当に485氏のものであることも証明せよ。アナタが層化認定したのだからな。
>第一次的内容の主張を為した方がその主張の真であることの証明責任を負う事が原則
そういうことだ。まず、アナタの485氏にたいする層化認定について証明責任を果たしてもらおうか。