つづき
もう一度聞きます。下記矛盾点@Aについて説明願います。
@法主様限定の開眼しないと「南無妙法蓮華経」と唱えたら逆に罰がでると正宗側は主張する。
日蓮仏法は難信難解難入であり、法主様とて仏ではないから過ちの可能性もある
そしてその場合、開眼の意味を間違えたら民衆を救うはずの仏法が害になってしまい
害となった仏法がその後相伝され続けてしまう。
しかし、それほど重要事項なのに大聖人は開眼について御書で記載があまりないこと”
どう考えても不自然です。
ひょっとしたら既に今までの相伝のどこかで間違って解釈し、偽本尊になっているかもしれません。
しかし、秘すべしだから、今となっては本物、偽物の本尊か誰にも判断できません。
結局この貴方の結論は法主は仏ではないから間違いを起こすこともあるけど
この開眼だけは難信難解難入な仏法を絶対に間違えるはずがないという意見でよいですか?
Aもし日蓮大聖人は現世もお見通しであったから法主様が間違った開眼をしない事を知っていたなら
創価が法主様の開眼なしの本尊を世界中に広めないように開眼のことがもっと御書に記載されてるはずです。
説明がわかりずらかったようなので、もう少し補足すると
仮にあなたの教えの解釈で自分の亡き後、弟子同士が争うとわかっている場合
争わないように前もって遺書でも手紙でも残し、そうならないように手をうっておくでしょう。
それと同じように大聖人が今の害となす創価の発展を予言していたなら
「本尊は時の法主のみ開眼供養でき、その場合のみ功徳となる」といったような記載を繰り返し御書にあれば
今、開眼解釈問題など起こらない。つまり仏法の害となすはずの創価は発展しなかったじはずだと思います。
しかし、ないのはなぜか?と聞いているのですよ
この説明をお願いします。