歴史的に見てみましょう。
開眼は必要ですよ、仏像を草木で建立したときはね。
仏像を建立した門下に対し、聖人はお弟子を派遣して開眼供養されてます。
これはちゃんと記録に残ってます。
しかし、紙曼荼羅を開眼したという大聖人の証拠はどこにもない。
ですから普通に考えて、仏像建立の際には開眼が必要です。
これは他の仏教と同じです。
日興仏教の大きな間違いは、釈迦を拝さないことですね(神社は建立するのに)。
それから、誰にでも本尊書写は可能かという邪難ですが
大丈夫、書けます。なんならこれをみているあなたが書けばいい。
歴史的にみて、御本尊書写を始めたのは、日朗上人さまです。
それに対し、蓮祖聖人がとがめたとかいう記録も伝承も一切ないです。
ですから聖人在世から、弟子が本尊書写をしていたようです。
また聖人没後、日興門下でも日華や日仙などの平僧らが、本尊書写を繰り返していますが
日興は彼らを「法水もない人間が書いている」などととがめたり批難をした記録伝承も一切ない。
日興門流のトップだけが本尊書写をできるというのは、
もはや歴的にみてもあり得ない。カルトです。
日興門流法主だけが特別で絶対だというのは、接待に認められないし
富士派が日興門流であるとは歴史的にみても異論がある。