このスレの話題にとっては余談ですが、昨夜NHKが白洲次郎氏の人生を題材としてドラマを放送しました。
白洲次郎氏は、先にこのスレで採り上げる結果となってしまった日中戦争当時にも、あまり表に登場する
事はなかったわけですけれど政界の裏で活躍した人物でもあり、そのような意味では、このスレともまんざら
無縁でもなくなっていると強引に関連付ける事で雑談をお許しください。
ドラマを見ていて幾つか気になった事があったのですが、その内の最大のものに明らかな時代考証の
間違いであろうと思われるものがあって、家庭において白洲次郎氏の子供が出てくるシーンがあるのですが、
時代は戦前であるはずなのに、子供の玩具として座れるように作られた木製のジェット旅客機と思われる
ものが出てきたのです。
機体前部や翼にプロペラと思われるものは存在せず、機体の後部に四発のジェットエンジンを模したと
思われる円柱状のものが付いており、翼も一般的なプロペラ機とは異なって後退角(と言うのかな?)が
つけられたように見えるものであって、更に、水平尾翼が直接機体からではなく垂直尾翼に取り付けられた
ものだったのです。
(レス>562の続き)
その他にも、そもそも正誤として扱うべきものであるのかは問題があるのですけれど、白洲氏の妻である
白洲正子さんが“仕舞”を舞うシーンがあるのですが、この流派(と表現すべきか問題ですが)は、おそらく
本来ならば幼くして正子さんが師事したはずの観世流(の傍系である)梅若派によるべきなのではないかと
思うのですが(なお、後に喜多流の能楽師と関与しますが、この頃は、梅若派のはずです。)、曲目が“羽衣”
である事は分かりまして、それ以上には私の知識では明確かつ断定的な判断はできませんが、ただ、ドラマ
のあのシーンは違う流派による可能性が高いのではないかと疑問は感じました。 (疑問に何の根拠も
ないと言うわけではないのですけれど、外部に表明するほど明確なものでもありません。)
(白洲正子さんは能に関する数々の著作を行っており、私は、彼女が白洲次郎氏と御夫婦である事よりも
先に、そちらの分野で白洲正子さんの存在を知りました。)
細かい点ではそのように気になる点がないわけではないのですけれど、ドラマ全体としては面白いですし
(確か3回続くドラマのはずで、まだ第1回目にすぎませんが)、ドラマの筋として実際の歴史を無視している
わけでもないと思われ、続きに期待もしていまして、今後、終戦(敗戦)から戦後を扱う事で、白洲次郎氏の
活躍は輝きを更に増して描かれることでしょう。
何と言っても、白洲氏の活躍で一番の光を放つのは、終戦後に行われたGHQなどとの折衝の過程です。
そして、その中の日本国憲法制定に到る過程においても(この点でも、表面上彼の名前があがってくる事は
少ないと思いますが)、GHQとの関係で白洲次郎氏の関与を忘れる事はできないものと思われます。
(レス>563の続き)
ところで、押し付けられた憲法と評されることの多い現行の日本国憲法ですが、その点に関しては、(今後
ドラマの中でどう描かれるのは不明ですけれど)白洲氏も忸怩たる思いを抱いていたようです。
ただ、それでは、いわゆる改憲論者じゃなのかと言うとそう言うわけでもなく、評価すべきは評価するという
立場であって、戦争放棄を定めた第9条など、制定の過程がどうであれ良いものは良いとしています。
白洲氏の言うところの“principle”なるものを重視し、それに従って現実を判断する、という事なのでしょうね。
さて、ここら辺を次への伏線として、いったん中断し、続いて前に述べていた日蓮信仰とキリスト教などの
問題(レス>517)について述べたいと思ってはいるのですが、どうなりますか…。
(少しやらなければならない事がありますので、ともかく終わります。)
>>546 雪山童子さん
>なんて読むのかわからなかったので申し訳ありません。
もしかしたらあまり興味ないことかも知れませんが、ちょっと解説します。
乾闥婆(ケンダツバ)というのは、法華経には釈尊の説法を聞きに来た人以外の種族の一つとして登場します。
法華経は(というより仏教は)人だけではなく、この世のあらゆる存在に対して説かれたものとして描かれています。
乾闥婆は香を食べる音楽の神様ということですから、法華経の華やかな雰囲気を演出するのに一役かっているかもしれませんね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/ガンダルヴァ ============
ガンダルヴァは、ヒンドゥー教の神の一柱。
(略)
梵語では「変化が目まぐるしい」という意味で魔術師も「ガンダルヴァ」と呼ばれ、蜃気楼の事をガンダルヴァの居城に喩え「乾闥婆城」と呼ぶ。
(略)
仏教では乾闥婆(けんだつば)と呼ばれ、天竜八部衆、また四天王眷属の八部鬼神の一つである。
============
http://ja.wikipedia.org/wiki/八部衆 ============
八部衆とは8つの種族という意味である。
(略)
天衆、龍衆、夜叉衆、乾闥婆衆、阿修羅衆、迦楼羅衆、緊那羅衆、摩?羅伽衆の8つを指す。
(略)
法華経の序品(じょぼん)には、聴衆として比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷(出家在家の男女)などの「人」のほかに、この八部衆を「非人」として名が連ねられている。
============
>>547 滝山
>>550 法律ヲタさん
>>560 法律ヲタさん
おおまかには法律ヲタさんの解釈されたようなことが言いたかったわけですが、一応僕の言葉で言い直すことにしましょう。
神話的な世界観に基づく信仰というものが、近代の知や合理主義といったものによってそのままの形の信仰として存続していくことが不可能になり、強い葛藤や思索を余儀なくされた。
そして、今現在、信仰無き世界において人がどう生きるのか、大きな課題を突き付けられている。
こうしたことは、法律ヲタさんがおっしゃるように仏教に限定された話ではなく、むしろ西洋史における科学革命以後から現代に至る数百年の間におこった世界観の変化、哲学の発展などに似ているとみなすことができると思っています。
僕が「貴重な体験」と言ったのは、かつて味わった「葛藤」の部分であったり、現在直面している「虚無感」の部分を指しています。
567 :
滝山:2009/03/01(日) 22:26:10 ID:???
>>546 雪山童子さん
テキストをコピー&ペーストすれば
読めない文字でも打てますし、
googleなどで検索すれば読みや意味を
自分で調べることもできます。
>>566 ひゃっき
なるほどね。
解説してくれてありがとう。
なあ、日蓮って本当に正しいのかな?
>>568 日蓮の「想い」や「人となり」が正しかったのか、間違っていたのか、
私にはわかりませんが、日蓮の「教え」の多くの部分は間違っています。
その意味で日蓮は正しくありません。呪文を唱えても、それが原因で病気が
治ったりはしません。特定の経典や僧侶を非難したことが原因で手足が曲がったり、
歯が抜け落ちたりもしません。それらの教えは原因と結果の捉え方に大いなる誤りを
抱えており、その誤りは「教え」の根幹に深く突き刺さっています。
日蓮が生きた時代精神を鑑みれば、人々はそういった「妄想」を現代よりも
信じ込みやすい状況にあったと評価できますが、その内容は当時においても
現代においても、この世界の真実・事実を表してはいないのです。
(
>>569からの続き)
私は日蓮の人となりをあまりよく知りませんが、もし日蓮がこの現代に生きていたら、
それでも日蓮は法華経を強く推すのだろうかと思わずにはいられません。
私は日蓮は「熱い」人だったのではなかろうかという印象を持っています。
もし日蓮が現代に生きていたら、法華経ではなく科学体系の啓蒙に励んでいたかも
しれません。特定の呪文を唱えれば病は消滅するというのは気休めにすぎないと、
法華経の名前と身命を捧げるという言葉(南無)を合わせて唱えるべきだという考えの
根幹が真実・事実としては間違っていると断じていたかもしれません。
五時八教説ではなく、二重盲検法の重要性を説いていたかもしれません。
神秘主義的な考え全般をある種の合理主義的立場から強く批判していたかもしれません。
その批判がいきすぎて、とても排他的で偏った内容の宗教全般に対する非難に発展し、
辻説法ならぬ、宗教非難の街頭演説をしていたかもしれません。
(
>>569からの続き)
もちろん、これは戯れの想像にすぎませんし、個人の人生の内容は様々ですが、
人とはそういうものではなかろうかと私には思えます。この戯れの想像にすぎない
日蓮「もまた」いろいろな「想い」を抱いて行動し、いろいろな側面を持った
「人となり」を滲ませています。関連する情報が残り続けるという意味において、
日蓮はこれからもこの世界に強く生き続けるのでしょうけれど、
「絶対に正しい日蓮」なる人物に私はあまり魅力を感じませんし、
好人物だとも思えません。
アメリカ原住民の教えに、生まれる時はあなたが泣いて周りが笑っていたが、
死ぬ時はあなたが笑って周りが泣くような、そんな人生を生きなさいというものが
あるそうです。私はこうも想像します。業病思想を説いた日蓮は病に倒れ死に臨み
「本当は」いったい何を想ったのだろうかと。
>>541 滝山さん
>「妄想」というものについての共通見解が
>得られていなかったように思われます。
妄想というのは、根拠のない誤った判断に基づいて作られた主観的な信念のことです。
>ですからこれは「病気が治る」という信仰が
>妄想にあたるのか否かをまず議論したほうが
>よかったのではないでしょうか。
民間療法であっても医学的に大きく間違っているわけではないものもあります。
経験則として「正しい」内容で真実・事実としての知識が積み重ねられてきた場合は、
(基本的に)現代の医学的な知識とそう変わらないものだと評価することができますし、
医学的に見直され、医学体系に取り入られるものもあるでしょう(逆に大きな問題を
抱えている場合が多いので、安易に支持する趣旨ではありません、念のため)。
他には、ストレス性の病気の場合、信仰によって心が(一時的にであれ)安定し、
それが治癒に繋がることもあります。ですが、「病気が治る」というのが
「信仰」であるとすれば、それは妄想の可能性が高いと思われます。
(
>>572からの続き)
人は真実・事実を「信仰」したりはしないのです(もっとも、そもそも「信仰」とは
いかなるものなのかという点について大いに議論の余地はあるでしょうけれど)。
先験的な議論(或いは啓示や権威に頼った議論)には懐疑的であれというのは、
一般的な認識論の原理・原則の一つです。
信仰とは、経験や知識を越えた存在を信頼することです。神や仏を信じ崇め、
心の安らぎを得ることです。「全知全能」という矛盾を抱えた人格的存在や
超自然的存在や、「完全な」真理を会得している存在を現実的なものとして
信ずるに足る根拠はありません。そういった存在(や、それに依拠した体系)に
自覚的に身を委ねるのは自由ですが、そのことによって病気が治るという判断内容
(或いは命題)は真実・事実を表したもの(或いは物事の理解)としては誤りです。
「病気が治る」という「信仰」が妄想でないのだとすれば、個人的な趣味というような
ことを別にして、いったい医学に(真実・事実についての理解という点において)
どんな意味があるというのでしょうか。
諦めるよりは希望をもったほうが幾らかはよい効果が期待できる。
また癌でも自然退縮、自然消滅はある。発見した癌をわざと放置することはないから、
自然治癒率は現在推定されているよりは高い可能性もある。
自然治癒した人の一部には何らかの信仰や根拠がないとされる民間療法を行っていた
人がいるはず。するとこの人たちは信仰や民間療法によって治癒したと信ずるだろう。
新興宗教の顕著な体験談はそれが真実であればこうした珍しいケースと考えられる。
>>573 > いったい医学に(真実・事実についての理解という点において)どんな意味があるというのでしょうか。
こんな単純なこともわからんのか?
病気になるのが自分なら、病気を治すのも自分。
医学は、その手助けをするに過ぎない。
576 :
滝山:2009/03/02(月) 21:22:38 ID:???
>>573 信仰が妄想だという認識の者同士であれば議論として成立し、
信仰が妄想だという認識とそうではないという認識の人達が
議論しようとしても、それは成立しません。
私はそういうことを言っているだけですね。
577 :
乾闥婆:2009/03/02(月) 22:59:33 ID:???
>>544 ひゃっきまるさん
>そんなふうに「これから」のことを決めつける必要はないと思いますよ。
現段階での実感ですね。そのようなありありと感じられる虚無は自分でコントロールでき
るものではないので、決めつけているというよりも、いかんともしがたい事実です。ただ、
悲観してはいないのです。このような虚無感に寄って立ち、生きていられることはある種
の強さですから。それは誰にでも経験できることでは確かにありませんね。虚無ほど強い
精神状態はないのかもしれません。どちらにしても後戻りはできないところにまで来てい
るので、それを悔いることもありません。ただふと信仰を持っていた頃の自分に懐かしさ
を覚えるくらいでしょうか。
>>546 雪山童子さん
>妄想糞坊主、この言葉をみて見ぬふりをせず、いっぽも引かず闘った姿は、ロムらせてもらってましたが
勇気を頂きました。
言葉は誰でも平等に使うことができます。私は私の中の想念と整合性が保てない発言に対
して、言葉を使って批判をしただけです。雪山童子さんも思うところがあれば、言葉を使
って述べていけばいいと思います。
578 :
乾闥婆:2009/03/02(月) 23:00:11 ID:???
>>549 法律ヲタさん
遠藤周作は『白い人・黄色い人』『海と毒薬』『沈黙』を読みました。『沈黙』は逆説的に神
を肯定してゆく筋書きではないでしょうか。私はそういうところはもう通り過ぎていると
思います。
>>554 滝山さん
>「虚無感を抱え込んで人生を生きていかざるを得ない」という見解を
俺は個人的には別に悪いともいいとも、帰る必要があるともないとも
言おうとは思わないですね。
生きているのか死んでいるのかわからないような人生に対して
肯定的に捉える見方があってもいいのではないかと思っています。
まあ、いい悪いではなく、それが事実であり、私に帰るところはありません。
このような虚無こそ、私なりの人生肯定です。
>◆Bwr5tJDUMcさん
“有朋自遠方来 不亦楽乎” (論語 学而篇より)
申し訳ない事に疲れておりまして、今日はこれをもって御挨拶とさせてください。
>>578 乾闥婆さん
そうですか、既にお読みになっていらっしゃいますか。
「『沈黙』は逆説的に神を肯定してゆく筋書き」と表現するなら、遠藤周作氏の意図としては、その通りでしょうね。
私としては、そのような意図でおすすめしたわけではないのですけれど…。
力強く生きるだけが人生ではないですよ。
人それぞれ、様々なことがありますからね。
581 :
滝山:2009/03/03(火) 02:04:41 ID:???
>>578 乾闥婆さん
「帰る」は誤変換で「変える」でした・・・(滝汗
>>576 滝山さん
庭に緑色の妖精がいるというのが妄想だという認識の者同士であれば
議論として成立し、庭に緑色の妖精がいるというのが妄想だという認識と
そうではないという認識の人達が議論しようとしても、それは成立しません
(或いは成立しないことが多い)。私もそう思います。
その大きな理由の一つは、客観的・合理的に物事の在り様を理解できる者と、
事実よりも願望に基づいて考える強い傾向をもつ者とでは話が
かみ合わないからです。
鎌倉時代の人達が妄想を真実・事実を表したものだと信じていたとしても、
日蓮が呪文を唱えれば病が消滅するという信仰(これは信仰内容の一部ですが)を
持つことが「道理」として正しいことだと判断していたとしても、
当時においても現代においても、その根幹には大きな誤りが含まれています。
(
>>582からの続き)
呪文はプラシーボ(「偽」薬)にはなり得ますが、「呪文で病気が治る」
わけではありません。また、その昔、多くの人が根拠があるかのように思って
いたから、当時においては妄想ではないということになるわけでもありません。
当時においても現代においてもそれは妄想なのです。
大地は平らで海の端は滝になっているという「誤った」信念を昔の人が
持っていたとしても(それは致し方ない側面が多分にあるでしょうけれど)、
当時においても現代においてもそれは妄想であり大地は丸いというのが
真実・事実なのです。もし、私がその昔に生きており、そう信じ込んでいる
大人達に育てられていたとしたら、私もその妄想を真実・事実を表した
ものとして受け入れていたかもしれないとは思いますが、現代に生きる私は
現代の知識をもとに(そして幸運にも幼少時にある種の強い教化を受けている
わけではないので)歴史上の人物の主張内容が妄想なのかそうではないのかを
判断することができます。
(
>>582からの続き)
「病気が治る」というのが「信仰」であるならば、それは妄想でしょう。
私は、信仰(或いは宗教体系)というものは有用なものが誤作動をした結果の
副産物という考えを支持しています。
それが妄想ではない(或いは妄想と表現してはいけない)という議論を
展開すれば、医学に真実・事実としての意味がなくなってしまいます。
極端な相対主義が頭をもたげることになるでしょう。なんでもあり、
なんでも正しいという。或いは、その裏返しの極端な懐疑主義、虚無でしょうか。
ともかく宗教は「病気が治る」ことについての客観的で合理的な判断基準を
提供してはくれないのです。だから私は病気になったら近所の寺社仏閣に
「診察」を目的に行ったりはせずに、病院へ行きます。
>>579 法律ヲタさん
お久しぶりです。そう法律ヲタさんに言って頂けるのは、
私にとってとても嬉しいことです。
「友人の自由な会話は、いかなる慰めよりも私を喜ばす」
(デイヴィッド・ヒューム、「ラムジィ宛の書簡」より)
>>585 >◆Bwr5tJDUMcさん
こちらこそ、嬉しいです。
しかし、ヒュームですか。 >◆Bwr5tJDUMcさんらしいと感じますよ。
このスレは、そもそも私にとって敵対的にレスをするような内容のスレではなく専らROMをしていただけ
だったのですが、少し書き込ませていただいたら思わぬ方向に話が展開しまして…。
ともかくも、今後ともよろしくお願い申し上げます。
あ、蛙に勘当されたB君じゃないか
お久しぶり〜^^
友人の自由な会話、だったら嬉しいんだけどな。
蛙さんは焼きスレでBwr5は俺様の掲示板に多大な迷惑をと言い放ち
会話が成立しないからアクセス禁止の処分のペナルティを与えたってさ。
Bwr5さんもお客さんなんだからあの調子でダラダラ長文貼り付けたら
蛙さんの迷惑になるって考えなくちゃ(藁 な?
>>586 法律ヲタさん
「妄想」という批判を気にする人がちらほらいるのが私には気になります。
昔であろうが現代であろうが信念・判断の内容に明らかな誤謬が含まれている
(つまりは妄想)と評価すること自体は特におかしなことではないですし、
信仰(宗教体系)の根幹は妄想によって(もちろん熱狂・熱情・その他によってとも
言えますが)支えられているものですが、「その点において(そういった妄想を
人々がより信じ込みやすい状況にあったかどうかというような点ではない)」
真実・事実であると断じられていた内容が、実は「妄想にすぎないものだ」と
評価することは、歴史的背景を鑑みない表面的で薄っぺらな批判に堕するわけは
ないですね。なのに、妄想という批判を気にする人が、熱狂・熱情(人の感情
ということなのでしょうか・・・)を重んじろとでもいいたげな、明後日の方向へ
ボールを投げるのはどうしてなのか、少々首を傾げてしまいます。
(たぶん「糞坊主」という部分が気になったのでしょうけれど、もしそこに
重点をおきたいなら、妄想という批判についての反論部分はこじつけも
いいところです。)
(
>>589からの続き)
時に社会を大きく変動させることもある宗教的熱狂という点に注目するのも
一つの視点ではありますが、そこに注目したからといって(或いは人の感情を
考慮したからといって)地「球」が平らになるわけでもないわけで、
(そして日蓮の業病思想の内容が正しいということになるわけでもない)
真実・事実なのか否か(その真偽は?)という点においては、やはり妄想に
すぎません(或いは「すぎない」という表現が癪に障るのかもしれませんね、
妄想も人の「想い」であり云々ということなのでしょうか・・・私には
よくわかりませんが)。
また「病気が治る」という「信仰」が妄想にあたるのか否かをまず議論する必要が
あるのではという提案は、つまるところ提案主は「信仰」の根幹に妄想が横たわって
いない場合が十分あり得るとでも思っているのだろうかと、ここでも少々首を
傾げてしまいます(信仰という概念について議論の余地はあるとは思いますけれど)。
病気の診断・治療について、客観的・合理的な判断基準を宗教体系は提供できないが、
医学体系は提供できることの意味について(つまり科学の合理性について)まずは
議論しましょうというのと同じような提案になっていることに気付いていないのか、
それとも「本当に」まずはそこを議論すべきだと信じて(?)いるのか。
と、まぁ、私はそのようなことが気になったもので、久しぶりにレスをしてみた
次第です。そういった私のレスもひょっとすると「敵対的」ということになる
(或いはそう受け取られかねない)のかもしれませんが、もしそうであれば
私としては残念なことです。
>◆Bwr5tJDUMc
・自分が悪文であるという自覚を持ちましょう
・悪文は読み手に苦痛を与えることを知りましょう
・書き終えてから三回は読み返して推敲しなさい
・()をできるだけ使わずに文を作りなさい
・長い文は複数の文に分けなさい
・主張内容をはじめに箇条書きにして提示することをおすすめします
592 :
乾闥婆:2009/03/03(火) 14:21:35 ID:???
>>582-584 >◆Bwr5tJDUMcさん
何度も法律ヲタさんへの批判として述べてきたことなので繰り返しとなりますが。
>また、その昔、多くの人が根拠があるかのように思って
いたから、当時においては妄想ではないということになるわけでもありません。
当時においても現代においてもそれは妄想なのです。
妄想であるとの判断が成立するためには、社会通念からの逸脱という観点は不可欠なので
はないでしょうか。社会とはその時代の人間が現に生きたその場です。その社会の中であ
る程度の規模での共通認識が成立していて、その共通認識から何の根拠もなく逸脱した主
張をくり返すから妄想と呼ばれるはずです。では、日蓮が生きた時代において、病気平癒
祈願が当時において妄想と判断されなければならない根拠はどこにあるのでしょうか。ま
た経典が釈迦一代の説法であるとされ、仏教が当時の宗教上の権威的存在であったことを
考え合わせて、経典から文言を引用しつつ主張がなされることが当時において妄想と判断
される根拠はなんなのでしょうか(もちろん経典は釈迦一代の説法ではなく、その経典間
の整合性は当時においても破綻してはいますでしょうが)。現代において、鎌倉時代の社会
通念は通用しませんから、それらの主張が今なされれば当然妄想です。鎌倉時代において
も妄想と判断される社会通念が当時において成立していたとする根拠を示してください。
示していただければ、それらの宗教的主張が当時においても妄想であったことに同意いた
します。
593 :
乾闥婆:2009/03/03(火) 14:22:19 ID:???
(続き)
>鎌倉時代の人達が妄想を真実・事実を表したものだと信じていたとしても、
日蓮が呪文を唱えれば病が消滅するという信仰(これは信仰内容の一部ですが)を
持つことが「道理」として正しいことだと判断していたとしても、
当時においても現代においても、その根幹には大きな誤りが含まれています。
この文章に関しては概ね支持します。ただしより正確を期するのであれば「鎌倉時代の人
達が(現代から見て)妄想(である事柄)を真実・事実を表したものだと信じていたとし
ても」と書くべきでしょう。しかし「その根幹には大きな誤りが含まれて」いることには
違いありません。
>それが妄想ではない(或いは妄想と表現してはいけない)という議論を
展開すれば、医学に真実・事実としての意味がなくなってしまいます。
極端な相対主義が頭をもたげることになるでしょう。なんでもあり、
なんでも正しいという。或いは、その裏返しの極端な懐疑主義、虚無でしょうか。
鎌倉時代の社会通念は現代とは違うので妄想というに妥当しないといっているだけであり、
現代からすれば妄想ですから、医学に意味がなくなることなどありませんね。日蓮にした
ところで当時の医療を否定したわけではないでしょう。いずれにしても、この文章が私の
法律ヲタさんへの批判に対する反論ではないのでしたら、スルーしようと思いましたが、
「極端な相対主義」「極端な懐疑主義、虚無」といった言葉も散見され、それが私に対する
批判であるとするのであれば、誤解を説くべき必要もあろうかと書かせてもらいました。
594 :
乾闥婆:2009/03/03(火) 14:22:55 ID:???
>>573 >◆Bwr5tJDUMcさん
>人は真実・事実を「信仰」したりはしないのです(もっとも、そもそも「信仰」とは
いかなるものなのかという点について大いに議論の余地はあるでしょうけれど)。
>信仰とは、経験や知識を越えた存在を信頼することです。神や仏を信じ崇め、
心の安らぎを得ることです。
信仰を持つ人はその対象となる教えを真実であると思うのではないでしょうか。ですから、
現代において、多くの信仰は不可能な段階にきていると思います。もし、その信仰を真実
として支持することに急となればカルトとなるほかないでしょう。真実ではないと思って
信仰を維持しようとすれば、そのような信仰はいずれ解体されてゆくことでしょう。少な
くとも私はそうなりました。
595 :
乾闥婆:2009/03/03(火) 14:23:22 ID:???
>>576 滝山さん
>信仰が妄想だという認識とそうではないという認識の人達が
議論しようとしても、それは成立しません。
そういう観点で言えば、私は、信仰は現代において妄想であると考えていると思います。
ただ信仰が妄想ではなかった時代もあると言ってきたに過ぎません。私が法律ヲタさんに
主張していたのは、歴史的事項や歴史的人物は歴史的に見なければならない、ということ
に尽きます。
信仰を現代において維持することの困難は想像を絶します。私にはできませんでした。そ
のことを実践できる人には畏敬の念を覚えます。日蓮を妄想糞坊主と呼ばない所以です。
>>581 >「帰る」は誤変換で「変える」でした・・・(滝汗
創価学会の世界観に帰る、ということを言われているのかと思いました。それは無理です、
という意味で、「私に帰るところはありません」と書いてしまいましたが、まあ、「変える」
であっても、同じことかもしれませんね。変えられないところに来てしまいました。
596 :
乾闥婆:2009/03/03(火) 14:27:56 ID:???
>>580 法律ヲタさん
>力強く生きるだけが人生ではないですよ。
人それぞれ、様々なことがありますからね。
強さというものは、一概には測れないものではあります。『沈黙』で描かれた棄教もある種
の強さといっていいかもしれません。信仰を捨てる強さも、維持する強さも、それぞれあ
ることでしょう。
>>592 乾闥婆さん
そこで乾闥婆さんが展開しておられる議論は概ね精神疾患か否かといったような方向の
議論になると思われます。
私が確認したのは日本語と英語ですが、双方共に、誤った信念という意味と、
精神障害の一症状という意味が辞書に記載されています。妄想という概念は
精神疾患の症状を表す専門用語だと受け止めている人もいますが、そうでは
ありません。前者の一般的な意味もあり、そして、精神疾患の一症状でも
あるのです。(乾闥婆さんが明確に精神疾患ということを気にしているという
話をしているわけではありません。議論の方向性が似ているということです、
念のため。)
>妄想であるとの判断が成立するためには、社会通念からの逸脱という観点は不可欠なので
>はないでしょうか。
社会通念から逸脱した妄想は精神疾患として診断される場合も多いことでしょう。
(それだけで、即座に精神疾患と診断されたりはしませんよ)ですが、一般的で
伝統的な信仰・宗教体系に見られる妄想は、精神疾患と診断されることは
(あまり)ありません。それがなんと呼ばれるかはご存知ですよね?
既にすぐ前で述べているように、信仰・宗教と呼ばれるのです。
「ある一人の人物が妄想にとりつかれているとき、それは精神異常と呼ばれる。
多くの人間が妄想にとりつかれているとき、それは宗教と呼ばれる」
(ロバート・M・パーシグ「オートバイと修理技術」より)
(
>>597からの続き)
>その社会の中である程度の規模での共通認識が成立していて、その共通認識から
>何の根拠もなく逸脱した主張をくり返すから妄想と呼ばれるはずです。
残念ながらそうではないのです。妄想という概念は、社会の中である程度の規模での
共通認識自体に根拠がない場合にも当てはまります。本当は、判断・推論としては
成り立たないが、その昔、十分に成り立つと多くの人に信じられており、しかも
社会通念としても広まっていたからその信念に「誤り」などないとは言えません。
そういう状況下においては、そういった誤った内容の信念を持つのも致し方ないし、
その当時は正しい(特に誤りは含まれていない)と広く信じられていたということと、
その信念にきちんとした根拠があるか否かは別の話です。
乾闥婆さんは自身が提示しておられる意味に限定される「はず」だと論点を
先取りしておられますが、既に何度も「一般的な」定義として通用する内容を
紹介しているように、妄想とはそういった意味に限定されるものではありません。
(
>>597からの続き)
>鎌倉時代においても妄想と判断される社会通念が当時において成立していたとする
>根拠を示してください。示していただければ、それらの宗教的主張が当時においても
>妄想であったことに同意いたします。
既に説明したように、「社会通念が当時において成立していたとする根拠」が必要に
なるわけではありません。そういった「誤った内容の信念(つまり妄想)」を
信じるのも当時の時代精神を鑑みれば致し方ないでしょう。乾闥婆さんは致し方ないのに
何が誤りだというのだ?という方向で妄想という評価に異を唱えておられることに
なるわけですが、その信念の内容が真実・事実としては誤りだと、その根拠が
根拠足り得ないと、そういう問題なのだと、こちらは指摘しているのです。
もし、この論点において多くの人が信じているからということが根拠として
通用するという反論を展開するのであれば(既にそういった反論を展開しておられる、
或いは片足を突っ込んでおられますが)真実・事実は数の論理によって
決定されるものであるという趣旨になってしまいます。科学的素養に大きな
問題ありということにもなってくるわけです。昔、大地は平らだったけれど、
多くの人が実は丸いと信じるようになった「から」、それが真実なのだということには
なりません。
乾闥婆さんは、「妄想」(たぶん「誤り」も)といった表現を一般的な意味よりも
限定した内容で使用しておられるようです。辞書や実際の使用例を調べてみて下さい。
私は無理に言葉の取り合いをしているわけではありません。
>>593 乾闥婆さん
>「極端な相対主義」「極端な懐疑主義、虚無」といった言葉も散見され、それが私に対する
>批判であるとするのであれば、誤解を説くべき必要もあろうかと書かせてもらいました。
乾闥婆さんの見解が明確な形でそうであると批判しているわけではありません。
先に述べたように真実か否か(その真偽・内容の正誤)の問題として、妄想という表現の
意味の捉え方とも関係して、仮に多くの人が信じている「から」「誤った」信念とは
言えないというのであれば、極端な相対主義にどっぷり浸かっていることを意味して
きます。(たぶん「誤り」という概念について見解の相違があるだけで、極端な
相対主義を支持する趣旨ではないのだろうと私は受け止めています。)
私が述べている「虚無」というのは、たぶん乾闥婆さんがおっしゃる「虚無感」とは
違うものだと思います(多少は重なる部分もあるかもしれませんが)。
信仰と恋愛には多くの類似性があります(乾闥婆さんは日蓮に恋をしていたと断じる
趣旨ではありません、念のため)。恋人に裏切られたら、或いは(大)失恋をしたら、
きっと何らかの「虚無感」や「喪失感」が尾を引くことも多々あるでしょう。
この世界には何の意味も価値もないと感じることもあるでしょう。こういった感情と
多少は重なる部分があるにせよ、(実は)この世界には何も存在せず空虚というのが
真理だと哲学的な思索に耽るのとは違うものであろうと私は考えています。そして、
乾闥婆さんがおっしゃる「虚無感」とは、前者に近いような感覚なのでは
なかろうとかというのが私の想像です。
極端な相対主義と極端な懐疑主義は裏と表の関係であり、懐疑主義を徹底すれば
虚無(論)に行き着くことも多いのです。そして信仰(或いは宗教)というものの
合理性が問題となる論点において、不合理とは言えないという論を展開する場合、
極端な相対主義に陥る場合が「多い」(必ずというわけではありません)のです。
そういうお話です。
601 :
超弦道士:2009/03/03(火) 16:22:53 ID:???
妄想
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A6%84%E6%83%B3 は精神病などの原因によって生じる不合理な信念をいいますから、
古代人の世界認識には「誤謬」があったというべきでしょう。
古代には洋の東西を問わず、人事と自然がマジカルに相関しているという思想が
ありました。古代の宗教には呪術が含まれていました。近世になると呪術は科学と
して独立し、宗教は「信仰のみ」(sola fide)の神学に移行して行きます。
「信仰のみ」の仏教は日本では法然、親鸞によって唱えられました。対して日蓮は
鎮護国家を復興しようと志し、彼の思想にはマジカルな自然観が含まれています。
しかし日蓮の場合でも『四信五品抄』には「信仰のみ」の思想があらわれており、
宮田教授が述べているように、大石寺日有などは更に純粋な浄土教的sola fideへと
日蓮教を再解釈しました。
「信仰のみ」の神学は宗教と世俗を分離し、文明の「世俗化」を進行させました。
>>601 超弦道士さん
精神疾患の特徴に限定する言葉などという趣旨のことは、そのページには書かれて
いませんよ。辞書や同じような内容の議論が紹介されている書籍からの引用など
羅列してもかまいませんが、私は信仰に関して妄想という概念を適用すべきでは
ないという見解には賛同しかねます。そういった主張は、一般的に妄想という言葉が
使用される場合(つまり精神疾患というわけではない非現実的な空想に対してなど)
差別だということにもなりかねません。私は言葉狩りには賛同できないのです。
603 :
乾闥婆:2009/03/03(火) 21:00:19 ID:???
>>597-600 >◆Bwr5tJDUMcさん
>辞書や実際の使用例を調べてみて下さい。
では、広辞苑から。「もう‐そう【妄想】@〔仏〕(モウゾウとも)みだりなおもい。正し
くない想念。徒然草「所願皆―なり」A〔心〕根拠のない主観的な想像や信念。統合失調
症などの病的原因によって起こり、事実の経験や論理によっては容易に訂正されることが
ない。「誇大―」「被害―」「関係―」」
>そこで乾闥婆さんが展開しておられる議論は概ね精神疾患か否かといったような方向の
議論になると思われます。
まず、私はこの議論において「妄想」という言葉を精神疾患の用語として使っていません。
「根拠のない主観的な想像や信念」として使いました。日蓮が生きた中世の時代において、
「根拠のない主観的な想像や信念」に対すべき「想念や信念」とは、当時の知識人層が依
拠した仏教に基づいた「想念や信念」であったことでしょう。ですので、日蓮は妄想を抱
いたとは当時の状況において言えないと主張したのです。
>本当は、判断・推論としては
成り立たないが、その昔、十分に成り立つと多くの人に信じられており、しかも
社会通念としても広まっていたからその信念に「誤り」などないとは言えません。
私は「「誤り」などない」などとは言っていません。誤っているとは言いましたが。
604 :
乾闥婆:2009/03/03(火) 21:01:26 ID:???
(続き)
>そういう状況下においては、そういった誤った内容の信念を持つのも致し方ないし、
その当時は正しい(特に誤りは含まれていない)と広く信じられていたということと、
その信念にきちんとした根拠があるか否かは別の話です。
私は、日蓮は現代から見て誤った情報に基づいて主張したので間違っている、と言ってき
たのです。ただ当時の状況において、それは妄想とは言えないと主張しているのです。
>乾闥婆さんは自身が提示しておられる意味に限定される「はず」だと論点を
先取りしておられますが、既に何度も「一般的な」定義として通用する内容を
紹介しているように、妄想とはそういった意味に限定されるものではありません。
広辞苑から引用した定義の中で、私は「妄想」という言葉を使用しています。おそらくあ
なたが「妄想」という言葉を拡大解釈しているのでしょう。その原因は歴史的観点の欠如
にあります。
>既に説明したように、「社会通念が当時において成立していたとする根拠」が必要に
なるわけではありません。
必要になります。なぜなら「妄想」という言葉は「根拠のない主観的な想像や信念」だか
らです。日蓮は中世日本社会の精神世界において大きな影響力を持った仏教によりながら
自身の主張の根拠を探ったのですから、そのような当時において根拠足りえた仏教を中心
とした精神世界に照らして、日蓮の言っていることが「妄想」であると判断されなければ、
当時の日蓮の言動が「妄想」であると判断することはできません。もう一度要求します。「鎌
倉時代においても妄想と判断される社会通念が当時において成立していたとする根拠を示
してください」。
605 :
乾闥婆:2009/03/03(火) 21:02:48 ID:???
(続き)
>信じるのも当時の時代精神を鑑みれば致し方ないでしょう。乾闥婆さんは致し方ないのに
何が誤りだというのだ?という方向で妄想という評価に異を唱えておられることになるわけですが
あなたは私の主張が分かっていないのです。私は、日蓮は間違っている、と再三言ってい
るのです。「何が誤りだというのだ?」などとは言っていないのです。ただ単に妄想という
評価は妥当しないと言っているだけです。その理由は「妄想」とは「根拠のない主観的な
想像や信念」だからです。この行き違いはどうもあなたが「妄想」という言葉をただの「誤
り」という言葉に拡大解釈しているゆえに生じているのではないでしょうか。
>もし、この論点において多くの人が信じているからということが根拠として
通用するという反論を展開するのであれば真実・事実は数の論理によって
決定されるものであるという趣旨になってしまいます。
何度でも書きますが、日蓮は間違っている、のですよ。私のその主張が、なぜ、あなたに
おいて見落とされてしまうのか不思議です。故意に見落としていますか?
>乾闥婆さんは、「妄想」(たぶん「誤り」も)といった表現を一般的な意味よりも
限定した内容で使用しておられるようです。
それは「妄想」という言葉が「根拠のない主観的な想像や信念」であるということが、あ
なたにおいて充分に理解されてないゆえに起こる錯覚です。日蓮の主張に関しては、超弦
道士さんの言われるとおり、「誤謬」があったという表現が極めて妥当でしょう。これは言
葉狩りなどとは違います。言葉の適切な使用というべきです。宮田氏の論文など読む限り、
当時においても日蓮の主張には整合性の破綻した点があるようです。五時説と無量義経と
の矛盾など、非常に面白い観点からの日蓮批判でしょう。
606 :
乾闥婆:2009/03/03(火) 21:07:57 ID:???
>>590 >◆Bwr5tJDUMcさん
>そういった私のレスもひょっとすると「敵対的」ということになる(或いはそう受け取られかねない)
のかもしれませんが、もしそうであれば私としては残念なことです。
このような掲示板で何を言っているのでしょうか。論争をしている人間が、ある程度は相
互に敵対的になるのは当たり前のことではないでしょうか。ここで言葉を交わしている人
たちの多くと、かつて私はそれこそ「敵対的」でありましたが。しかし議論の相手に対し
て敵対的であるからといって、その相手に不誠実な面がないのであるならば、私はその相
手を排除したい・邪魔だと思うような姿勢はございませんので、「残念」がることもないで
しょう。「敵対的」と思われることが「残念」であるのなら、このような掲示板に文章を書
くことはお止めになったほうがいいでしょう。
607 :
滝山:2009/03/03(火) 21:38:46 ID:???
>>582 >その大きな理由の一つは、客観的・合理的に物事の在り様を理解できる者と、
>事実よりも願望に基づいて考える強い傾向をもつ者とでは話がかみ合わないからです。
あなたに釣られて書き方を間違えてしまいましたが、
そういうことではないのです。
>>595 乾闥婆さん
>ただ信仰が妄想ではなかった時代もあると言ってきたに過ぎません
そうですね。
「鎌倉時代において」という前提をつける必要がありました。
>そのことを実践できる人には畏敬の念を覚えます。
>日蓮を妄想糞坊主と呼ばない所以です。
以前、その点であなたには非常に不快な言葉を浴びせられました。
思い出すと今でもとても不愉快になります。
それはそうと、矛盾したことを言っているように思います。
日蓮を妄想糞坊主と呼ばない所以ということに関してです。
それは歴史学の問題ではないでしょう。
科学、医学、宗教、全部的外れです。
>変える」であっても、同じことかもしれませんね。
>変えられないところに来てしまいました。
いえいえ、前向きなことを言って励ますかどうかということです。
>>603-606 乾闥婆さん
予告した私のレスは長文になりますし、それを現状のような長文のやりとりに差し挟むのは
混乱の元ですから、◆Bwr5tJDUMc氏の投稿が落ち着くまでは控えます。
お待たせしている状況で、大変申し訳ありません。以下、横レスで二点のみ。
>>605 >あなたは私の主張が分かっていないのです。
>何度でも書きますが、日蓮は間違っている、のですよ。私のその主張が、なぜ、あなたに
>おいて見落とされてしまうのか不思議です。故意に見落としていますか?
乾闥婆さんの↑上記の◆Bwr5tJDUMc氏への反論は的確だと思います。私もそこは乾闥婆さんに同意です。
◆Bwr5tJDUMc氏は、ある種の予断を持ってあなたのレスを読み取っているのでしょうし、
であれば、◆Bwr5tJDUMc氏の決めつけや思い込みが、その議論の行き違いを生んでいるのだと思われます。
――ただ、その上で一連のご自身の言動も振り返って頂きたいのですが、あなたの法律ヲタさんへ対する感情的な反論も、
それと似たような決めつけや思い込みから、予断を持って行われたものではありませんでしたか?
◆Bwr5tJDUMc氏が、おそらくは「信仰者やそれを擁護する人間はこういう奴だ」といったカテゴライズであなたの言動を解釈しているように、
乾闥婆さんも、法律ヲタさんの言動を「こういう批判をする人間は、歴史的観点が分かってない奴だ」と決めつけて、感情的になっていたように思います。
そして◆Bwr5tJDUMc氏が、あなたの言動の中の“◆Bwr5tJDUMc氏の思い込みにとって不都合な部分”が目に入っていないように、
あなたも法律ヲタさんのレスの不都合な部分は見落とし、また「そうではないんですよ」という趣旨の反論部分を適切に考慮しないまま、
感情的な批判を繰り返してはいなかったでしょうか?
――以上のことに、もし乾闥婆さんは身に覚えがないと思われるようでしたら、後日の投稿の折りにでも具体的に例を挙げて指摘します。
>>601 超弦導士さん
「信仰のみ」の仏教・思想・神学についての、簡潔ながら要点を得た的確な考察に同意致します。
あなたのような方のレスを読み、またやりとりをさせて頂けるのは、個人的にも大変楽しみです。m(__)m
610 :
乾闥婆:2009/03/03(火) 23:08:34 ID:???
>>607 滝山さん
>以前、その点であなたには非常に不快な言葉を浴びせられました。
思い出すと今でもとても不愉快になります。
申し訳ないことをしたと、深く反省しております。私が逆の立場であったとしても、不愉
快と感じるであろうと、今は、そう認識しております。そう言っても、もう取り返しはつ
きませんでしょう。今私がここに書き込むことであの頃の不快感を甦らせてしまうようで
したら、姿を消そうと思います。
といいますか、ここに書き込むような資格のある人間ではありませんでした。
議論の途中ですが、これにて私は身を引きます。
滝山さん、法律ヲタさん、春田の蛙さん、◆Bwr5tJDUMcさん、そしてひゃっきまるさん、
不愉快な思いをさせてしまい申し訳ありませんでした。
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