創価学会に疑問を感じて苦しんでいる人達

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21名無しさん@お腹いっぱい。

仏教の目的とは何か?

それは煩悩、無明からの救いである、すなわち釈尊如来、応身仏陀の
悟りとは何か?それは、「あらゆる呪縛と束縛からの解放」である。

実は、よくよく読めば、法華経も本来はそのために生まれたものである
ことがわかるだろう。

お題目行とは、天台の止観行の状態を手っ取り早く得ることができる
ようにした「カンフル注射のような行方だった」ということであり、本来は
その観心行の即席版としての位置づけであった。

しかし日蓮は、それを念力の効果を相混ぜて願望実現のための祈願
効果をも得させることができる、ということも主張したため、日蓮正宗
ではそれが主眼になってしまったにすぎない。しかし本来はそれは止観
行、禅修行の代替のためであったのだ。それが末法の行としての主要
な眼目であったのだが、願望実現力のためという目的が主になって正宗
が生まれてやがてそれが創学会という存在に行き着いたということなのだ。

そこから、仏罰という観念が生まれた大元だった。願望実現、福運を言う
が故に、その反対の仏罰というものが生まれたのである!
22名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/17(土) 11:58:30 ID:???

煩悩からの解放、無明からお救い、束縛からの解放が主眼であった
仏教が、

束縛を作り出してそこに落とし込むための存在になったとしたら矛盾だろう。

お題目を唱えて、あらゆる精神的呪縛、束縛から自由になり、禅定を得て
三昧に入り、あらゆる煩悩から救われるのでなければ、その行の本来の
眼目は果たせていないということなのだ。

それが人心を束縛して仏罰の箍をはめて組織の外に出ないようにする
道具にしているとしたらいったいこれは仏教なのだと言えるのかどうか?

それは人の精神を解放しているのであるか?それとも束縛を増やして
誰かの私腹肥やしのために利用あれているだけなのか!?

仏教を研究しなさい、仏教を学びなさい、仏教を極めなさい!日蓮はどう
しましたか?日蓮は自分で天台延暦寺に入って自分で仏教を探求して
道を求めたのです。世界は自由なのです、そこから答えはあなたの存在
の中に生まれるでしょう。それが世界からあなたへのプレゼントであり
その自由こそまさしく「弥陀の本願」なのです。