351 :
名無しさん@お腹いっぱい。:
池田大作や戸田城聖らの始めた「明るい心持ち」になる宗教というのは、
要は同じようにお題目を唱えて病気治しなどをして「功徳を実証して広めた」と
されている「本門仏立宗」などと同じ系統だったと思う。
池田氏らがしばしば口にする戸田らの強調したところの「生命」という言葉も、
大正時代に流行った単語で、実存を明るい力にみちら気持ちに誘導するのに
貢献したと思う。創価学会の存在というものは、そもそもこの「生命」という
言葉に単(ひとえ)にかかっていたし、また現在もそうなっていると思う。
人間が明るくなる言葉には暗示力があり、人はなんとなく力を得て楽しくなった
気になるものだと思う。何か不思議な力が内側から湧いてきて私自身が内側から
元気になってくる効果があるのだ。これが創価学会の唯一の「正義」観の根源に
なっているのではないだろうか?
352 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/04/23(日) 17:28:45 ID:vPAuYNk2
あなたはこの根源として自分を明るくしてくれる言葉によりすがって
自らを元気にしてくれる言葉を吐く池田氏を、つまりは自らの「正義」の
根源に据えていく気にさせられる。
それが布教の根拠にさえなっていると思う。その正義に逆らうことは
できそうにない、世の中を明るく元気にする「正義」にあなたも従って
この世に貢献するべきではないか、創価学会を広めるべきではないか?
と。
354 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/04/23(日) 17:29:51 ID:j2I4nV7n
◎馬鹿げた非科学的なことをいうから詐欺師といわれても
致し方ないのだ。
355 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/04/23(日) 17:33:17 ID:vPAuYNk2
実際、お題目を唱えると、池田氏がしきりに「生命」と煽ってその元気や
明るい気分を与えてくれる効果を実証することができるので、彼の言葉は
ますます現実感を伴って首肯させられることになる。
お題目の効果は絶大だ、それはあたかも「生命」を多用して我々を鼓舞
叱咤するところの「池田氏」に「正義」があるかのように錯覚を与えて
「創価学会という組織の正義」と同一視するに至らしめるのではなかった
だろうか。
356 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/04/23(日) 17:35:11 ID:6sUeHryl
日蓮大聖人は日本人なの!チョンじゃないの!わからんのか?????
357 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/04/23(日) 17:45:15 ID:vPAuYNk2
実際お題目を唱えると、元気が出てくるし、それが及ぼす効果は人体の
免疫システムにプラスの刺激を与えて、運動エクササイズの効果も伴いつつ
マントラの連続称揚によるプラスの影響によって我々はますます元気を得る
ことになった。
ここに正の帰還、フィードバックがかかることで、我々の精神が「池田氏の
鼓舞叱咤激励」が「正義」であることをますます保証してくれているかの
ように思うに至るのだった。我々の組織としての布教行動には「人を明るく
元気にするという正義」に基づいて、「世界に在るべき根拠」を与えるに
至るのだ。
これが創価学会の存在の、人間精神に根源的に正義感を感じさせてひるませない
ような状況を作り出す回路が存在していたのだ。これが我々に存在の根拠を与えて
その精神に暗示を送り続けるところのフィードバック回路であったといえるのだ。
これが創価学会が現代に潜航して人々の心を真綿で縛り付けるような暗示を
与えて離れられなくした根源ではなかっただろうか。そこには「正義感」の
感覚があったからではないだろうか。人を元気にして助けることは「良い事」
なのだから、あなたはそれを推進していくことで「功徳」が得られるのは
当然であり、逆にこの「正義の団体組織」に逆らえば「この人を明るく元気
にして助けるという正義」に逆らうことになるのだから、つまりはそれは
同義として存在するかのように、ほとんど「生命」という単語だけでそう
なっていたところの「カリスマ」である「池田氏」への反逆を意味し、その
逆もまた然りであるという観念にまで至らしめていたのだ。
359 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/04/23(日) 17:53:45 ID:vPAuYNk2
>>357 しかし、この初段のところにあるとおり、このお題目の称揚効果とは、別に
池田氏の存在とは本来別のものであったし、そこには論理的な関係は何も存在
していない。
彼はただ人の心の機微を捉えて大変よく暗示を与えて鼓舞叱咤激励してうまく
操っただけのことであった。それは人間が根源的に「正義」の側にいないと
精神が安定して存在できない存在であることをはじめから知っていたかのようで
さえある。
彼はその精神に横たわる間隙を突いて、あたかもインドの叙事詩バガバッドギーター
の語り手でもあるかのようにして、目の前の精神の砕けた人々を鼓舞する演出を
行い続けたのだ。それが創価学会という存在そのものであり続けたのは、つまりは
人々が「罪悪感」と「正義感」の狭間で「安定して存在し続けたい」と望むあり方
にどこまでもツケ入ったからに他ならなかった。