寿量品長行を読誦摺しないことは、謗法ですよpart2
1 :
yuriko:
創価学会員が使っている経本には、法華経寿量品長行は、完全に省かれている。
長行には、「如来秘密之力」「我本行菩薩道」「更賜寿命」など、
日蓮大聖人の教学を理解するのに無くてはならない語句に溢れている。
また、法華経七譬の内の「良医病子の譬え」もここで説かれている。
自我偈を読むにしても、この長行の内容を踏まえてこそ意義がある。
学会員が超短縮+省略「勤行」を行うことは、単に怠行というだけではなく、十四誹謗の内に懈怠誹謗に当たる。
何もしない方が益し、ということだ。
2 :
平家@妖輝緋@月納言咒教本庁管長 ◆Tyn2tfw0AU :2005/12/30(金) 06:12:28 ID:JNCAOVj9
2げっとぉ!
3 :
yuriko:2006/01/01(日) 17:58:26 ID:???
「法華経の智慧」第四巻by池田大作を購入。
同巻には、法華経如来寿量品に関する対談が行われている筈だ。
池田先生は、これまでも対談方式で原島教学部長と対談して、それを冊子にまとめて販売したりしていた。
今までは、一応は、御義口伝などを元にして一応は、寿量品、とりわけ長行部分に関して、言及していた。
ところが、「法華経の智慧」では、全く「お経」の内容については述べていない。
やはり、というべきだろうが、もう創価学会員にとっては、寿量品に何が説かれているかは、どうでもいいことになってしまったのだ。
何より驚いたのは、この対談に登場する人達が、法華経が説かれた意義を全く理解してないということだ。
もっと、言い換えれば、「釈尊(歴史上の)が法華経を説かなかった」意義を全く理解できていない。
小国釈迦族の王子だったシッタルダは、真理を求めて、妻子を捨てて、真理を求めて出家した。
結局、シッタルダが悟ったのは、人間を苦から解脱するための哲学だった。
ここまでなら、釈尊はせいぜいソクラテスと並び称される哲人で終わっていただろう。
仏教が宗教となったのは、一世紀に起きた「大乗仏教運動」所以だ。
アインシュタインの相対性原理がガイレオやコペルニクスの存在無しに誕生しなかったように、
法華経もシッタルダの存在や大乗仏教運動があったればこそ誕生したのだ。
そして、アインシュタインが特殊相対性理論から一般相対性理論に発展する中で天才的「閃き」を加えたように、
13世紀に生きた日蓮大聖人も法華経に新しい命を吹き込んだ。
日蓮大聖人こそ悉有仏性という仏教の窮極の悟りを実践し、証明したのだ。
日蓮大聖人の悟りが沈められている法華経長行を読誦するのは、他門が字面だけで詠むのとは意義が根本的に異なるのだ。
日蓮大聖人は愛弟子日郎が牢に繋がれた時、「土籠御書」を送り、口先だけでなく、行動で
法華経を読むことの重要さを強調している。
4 :
yuriko:2006/01/01(日) 18:02:47 ID:???
続
日蓮大聖人こそ悉有仏性という仏教の窮極の悟りを実践し、証明したのだ。
日蓮大聖人の悟りが沈められている法華経長行を読誦するのは、他門が字面だけで詠むのとは意義が根本的に異なるのだ。
日蓮大聖人は愛弟子日郎が牢に繋がれた時、「土籠御書」を送り、口先だけでなく、行動で
法華経を読むことの重要さを強調している。
5 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/01/01(日) 20:33:14 ID:y+HsAFbb
お〜お〜、分かったようなこと言ってるが、yulikoはなんもわかっとらんな〜!!
『南無妙法蓮華経』が分かっていれば↑のような初歩的なことは考えない
はずだが、少し教学をかじるとこんなことを言いたくなるんだろうな〜。
yulikoよ法華経と南無妙法蓮華経の違いがなんだか、答えてみ。
>>1 >自我偈を読むにしても、この長行の内容を踏まえてこそ意義がある。
↑アホ丸出しの発言。
長行の「如来秘密神通之力」は
自我偈では「以諸神通力」の言葉で説かれている
長行の「我本行菩薩道 所成寿命」は
自我偈では「久修業所得」の言葉で説かれている
長行の「良医病子の譬え」も自我偈では
「如医善方便 為治狂子故」の言葉で説かれている
そもそも、自我偈の経文が「長行の内容を踏まえて」いるのは
「爾時世尊 欲重宣此義 而説偈言」と経文に書いてある通りではないかw
8 :
yuriko:2006/01/03(火) 11:48:47 ID:???
>>6 >法華経と南無妙法蓮華経の違いがなんだか
それは、釈尊(歴史上ではなく)が説いたとされる法華経と日蓮大聖人が唱えた
南無妙法蓮華経の違いということか?
法華経の成立の過程自体が、あまりにドラマチックだ。
担い手が、釈尊の直弟子を名乗る、出家者でもあり、在家でもある地湧の菩薩達だった。
それを時代、場所の異なる日本で、日蓮大聖人は、それを自分の身に宛てて読んだ。
それも身読したのだ。それを顕したのが「南無」で帰命を意味する。
日蓮大聖人は、生死を超越した人間生命の絶対尊厳が時空を超えて存在することを主張した。
したがって、日蓮大聖人が唱え始めた題目は、ただ単に法華経の題目という形式的なものを超えている。
20世紀程、人間の生命は無論、あらゆる形の地球生命が傷付けられた世紀は無かった。
野鼠は、その数が増え過ぎると、種を保存する為に集団自殺するという。
それと似たようなことは、人類も経験しつあるのではないか?但し、それは人口爆発に対する行動というよりも
地球生命自身が自己防衛の為に、人類を滅亡させようと企図しているのではないか?
支配よりも共存を主張する日蓮大聖人の説く仏法は、益々注目されることだろう。
日蓮大聖人の唱えた題目は、事の一念三千といわれるように、実践の中にこそ、その本質が顕われるのだ。
9 :
yuriko:2006/01/03(火) 11:55:35 ID:???
>>8参考
●土籠御書
【文永八年十月九日、日朗・門弟、聖寿五十歳】
『法華経を余人のよみ候は、口ばかりことば(言)ばかりはよめども心はよまず。
心はよめども身によまず。色身二法共にあそばされたるこそ貴く候へ。』
10 :
yuriko:2006/01/03(火) 12:20:19 ID:???
>>7 >自我偈の経文が「長行の内容を踏まえて」
。。。
逆に質問しよう。
人間というのは、立派な葬式をし、立派な墓を建てる為に生きてるのかい?
確かに、エジプトのファラオや古代の天皇は、死後の自分の存在が如何に立派なものにするかということに大きな関心があった。
ところが、現代では、死後の生命に対しても関心があるが、主な関心が「今」となった。
たとえ確実に死に向かう存在であることを自覚したとしても、それまで「如何に充実した人生を歩むか」に主な関心が移った。
寿量品読誦の目的も同じだ。
すなわち、究極的には、「お題目」を唱え、広めることがあるものの、その「広める」過程にこそ、
一冊の本を読むにしても、粗筋と前書き、更に終章(エピローグ)を読めば事足りるとした「池田哲学」は
仏道修行とは無縁だ。
省略し、短縮した「楽」な怠行は、懈怠誹謗以外の何ものでもない。
それらを「欠略」といい、「存略」とは根本的に異なる。
日蓮大聖人の教えを奉じるなら、せめて、朝晩の勤行で一回ずつ、寿量品長行を読誦するべきだと思う。
11 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/01/03(火) 12:32:00 ID:w7EHRrIJ
何か平気でお題目をネットに載せているが
題目を唱えて、題目が削除されるネットに載せているのは意味が無い無駄だ
理屈が分かっているのに違うように文章考えるのって大変なんだなって思うよ
>>8 >日蓮大聖人は、それを自分の身に宛てて読んだ。
>それも身読したのだ。それを顕したのが「南無」で帰命を意味する。
やっぱりな!南無を帰命だなんてストレートに読んでる。
だからあんたにゃ分からんだろうっていったんだ。
>>10 >逆に質問しよう。
>人間というのは、立派な葬式をし、立派な墓を建てる為に生きてるのかい?
自我偈の義に関する話をしてるのに、論点をずらした質問返しかよ(呆)
>一冊の本を読むにしても、粗筋と前書き、更に終章(エピローグ)を読めば
>事足りるとした「池田哲学」は仏道修行とは無縁だ。
>省略し、短縮した「楽」な怠行は、懈怠誹謗以外の何ものでもない。
yurikoの理屈で行くなら「法華経一部読誦」に相対すれば「題目三唱」は
「省略・短縮した楽な修行」であるが「題目三唱」は「懈怠誹謗」になるわけか?w
日々の修行で「法華経一部二十八品全部」読まず「題目と方便寿量」で事足りるとする
日蓮大聖人の教法は「法華経の仏道修行とは無縁の怠行」なわけか?w
>それらを「欠略」といい、「存略」とは根本的に異なる。
自我偈には長行の義が「欠けることなく備わっている」ことは
経文に「爾時世尊 欲重宣此義 而説偈言」と書いてあるとおりだろがw
yurikoは「爾時世尊 欲重宣此義 而説偈言」の経文を無視し
「自我偈には長行の義が欠けている」主旨の己義を構え「自我偈不信」の論を
維持しつづけるわけだなw
ようするにyulikoは形式が大好きなんだよな。
もっと究極を言うならば、題目オンリーでもいいんだよ。
仏誕生からのこと、全部できるか?
万人に1人も出来ないと思うよ今の日本人には。
だとしたら仏はなんのために仏法を説いたのか考えてみ.....
まあ、ここでは『長行』についてだが、一生懸命難解な教学を
弄んでる連中にもひとこといっておくよ。
子供や田舎の婆さんに空観や唯識が理解できるとおもうか?
かといってスッタニパータにあるような道徳律で成仏できるとおもうか?
よく考えてみ。
15 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/01/04(水) 00:54:37 ID:qXlqkNUC
ほ〜、学会員にスッタニパータ読んでるやつがいるとは思わなかった。
16 :
yuriko:2006/01/04(水) 03:33:58 ID:???
>>11-15 題名(THE WORLD RELIGEON?)は、はっきり覚えていないが、仏教国で、僧侶や信者が
わざわざ経典を読誦することなく、お経を摺った紙を筒にして、それを何度も回すことで読んだことにする
修行をしていた。
コンセプトは称名念仏と同じだ。
法然や親鸞が行った仏教改革というのは、難しい仏道修行は末法という「仏様から見放された」衆生には向かない。
だから、人々は自分で仏界に至るなどと思うべきでなく、ひたすら阿弥陀仏の慈悲にすがるべきとしたのだよ。
日蓮大聖人も易行ということには、強い魅力を感じられたのは明らかだと思う。
そこには、権威主義に走っていた天台教学を初めとする当時の仏教界に対する反発があったのだよ。
でも、だからと言って、仏教の伝統を無視するということも無かった。
日蓮大聖人は、易行に走り過ぎることもなかったし、逆に権威主義的難解な教学を振りざすこともなかった。
要するに、中道を目指したのだよ。
日蓮大聖人の仏法の真骨頂は、「桜梅桃李」にあると思う。
すなわち、それぞれの能力に応じて仏道修行をしていけば、それぞれ最高の功徳が得られるということ。
「世界に一つだけの花」by槙原 敬之は、私の好きな歌だが、日蓮大聖人の仏法の心をよく表していると思う。
>>16 >「世界に一つだけの花」by槙原 敬之は、私の好きな歌だが、
>日蓮大聖人の仏法の心をよく表していると思う。
発言者が自我偈不信の論を立てて蓮華の花を枯らすyurikoでは
上記の発言も「単なるブラックジョーク」だなw
18 :
yuriko:2006/01/04(水) 18:07:48 ID:???
>>17 >自我偈不信
アフォ!
そういうのって、「揚げ足取り」という。
私は、自我偈の重要さを少しも軽視してない。
自我偈は、如来寿量品の部分だ。
例えば、人体で言えば、体全体が寿量品とすると、顔。目がお題目。
という関係になる。
小林秀雄は、エッセーの中で、ミロのヴィーナスの美について考察している。
小林に依れば、ミロのヴィーナスは、元々、完成された美があるからこそ、たとえ腕が無くとも、全体の美が想像されるとしている。
言い換えれば、彫刻の作者は、意図的に腕を欠いたヴィーナス像を制作したのではない、としている。
それと同じことが、寿量品読誦にも当て嵌まる。
すなわち、寿量品が制作された時は、最初から長行を欠いたものが意図的に制作されたわけではないのだよ。
日蓮大聖人は、「お題目」を女性の目に譬えた美しい、消息文を女性信者に贈っている。
女性の目の美しさも、全体の美の中に調和してこそ映えるのだよ。
>>18 >私は、自我偈の重要さを少しも軽視してない。
>自我偈は、如来寿量品の部分だ。
>例えば、人体で言えば、体全体が寿量品とすると、顔。目がお題目。
>という関係になる。
法蓮抄
夫れ法華経は一代聖教の骨髄なり自我偈は二十八品のたましひなり
三世の諸仏は寿量品を命とし十方の菩薩も自我偈を眼目とす
自我偈の功徳をば私に申すべからず次下に分別功徳品に載せられたり
此の自我偈を聴聞して仏になりたる人人の数をあげて候には
小千・大千・三千世界の微塵の数をこそあげて候へ
其の上薬王品已下の六品得道のもの自我偈の余残なり
涅槃経四十巻の中に集て候ひし五十二類にも自我偈の功徳をこそ仏は重ねて説かせ給ひしか
されば初め寂滅道場に十方世界微塵数の大菩薩・天人等雲の如くに集て候ひし
大集・大品の諸聖も大日経・金剛頂経等の千二百余尊も過去に法華経の自我偈を聴聞して
ありし人人信力よはくして三五の塵点を経しかども
今度釈迦仏に値ひ奉て法華経の功徳すすむ故に霊山をまたずして爾前の経経を縁として
得道なると見えたり
されば十方世界の諸仏は自我偈を師として仏にならせ給ふ世界の人の父母の如し
日蓮大聖人は自我偈を「法華経二十八品のたましい」と言ってるが
yurikoは自我偈を「法華経寿量品の部分」と認識しているわけか?w
心では「軽視してないつもり」でいても、yurikoの発言内容は「自我偈を完全に軽視」そのものやないかw
20 :
yuriko:2006/01/06(金) 22:27:57 ID:???
>>19 ここ三日間は、どうしても忙しい。満足したレスが出来ない。御容赦頂きたい。
まず、御書を読む時に心掛けるべきは、対告者や書かれた状況等を考えなければならない。
詳しい検討は後にするが、例えば、対告者が法華経二十八品は無論、経典に通じているのなら、
大聖人は、他の経典と法華経を比べた上で、更に詳しく、法華経の中にも軽重があることを述べ、
更に、寿量品の中でも、自我偈の功徳を述べ、更に題目の功徳を述べるだろう。
また、もxひ、一般信者が対告者であれば、当時流行っていた「念仏」と比べた上で、「お題目」の功徳を強調しただろう。
重要な順は、五重の相対といって、日蓮教学の基礎だ。
外道>仏教>大乗仏教>法華経>寿量品>自我偈>題目
という関係にある。
人間の生長にも、それぞれ段階があり、負わなければならない責任も変わってくる。
法華経に関していえば、いくら自我偈が重要といっても、不軽品の内容を知らなければ、
あの有名な『人の振るまいこそ仏法』と説いた四条金吾殿御返事を理解できまい。
筆者が洞察するに、鎌倉時代、一般信者でも相当な仏典の知識を常識として持っていたと思う。
だから、念仏などは、他力本願で念仏以外何もやらなかったかも知れないが、
日蓮信者達は、常識として寿量品長行は読誦していたと思われる。
参考 ●月水御書
『法華経を日ごとに一品づつ、二十八日が間に一部を読みまいらせ候ひしが、
当時は薬王品の一品を毎日の所作にし候。ただもとの様に一品づつを
よみまいらせ候べきやらんと云云。(略)先づ法華経と申すは
八巻・一巻・一品・一偈・一句乃至題目を唱ふるも、功徳は同じ事と思し食すべし。
(略)常の御所作には、方便品の長行と寿量品の長行とを習ひ読ませ給ひ候へ。
又別に書き出だしてもあそばし候べく候。余の二十六品は身に影の随ひ、玉に財の備はるが如し。
寿量品・方便品をよみ候へば、自然に余品はよみ候はねども備はり候なり。』
21 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/01/06(金) 23:25:36 ID:iwlnJ+Km
長行を読まないとホウボウ…って御書のどこかに載ってるの?
>>20 「自我偈は法華経寿量品の部分」の自分の発言が、御書に示された日蓮大聖人の
「自我偈は二十八品のたましいなり」とつじつまが合わない事実について
結局、yurikoは「説明なしの完全スルー」を決め込んだか(苦笑)
>>20 >常の御所作には、方便品の長行と寿量品の長行とを習ひ読ませ給ひ候へ。
この御書を出して「長行を嫁」と言うなら方便品の長行も嫁w
>>20 >日蓮信者達は、常識として寿量品長行は読誦していたと思われる。
漢字やかな文字の読めない農民信徒の存在や十如是・自我偈の法華経読誦をしてた
松野殿の御書は無視するのか>yurikoよ
>>1 >十四誹謗の内に懈怠誹謗に当たる。
自我偈不信の論で「懈怠誹謗」の主張をするyurikoの十四誹謗
・驕慢(増上慢と同義)
・計我(我見と同義)
・浅識(御書に示された史実とつじつまの合わない推論を立てる)
・不解(「爾時世尊 欲重宣此義 而説偈言」の経文を理解しようとしない)
・誹謗(「自我偈は寿量品の部分」発言で自我偈不信の論を立て、自我偈読誦の修行を謗法呼ばわりする)
26 :
yuriko:2006/01/07(土) 05:49:47 ID:???
>>16 >日蓮大聖人の仏法の真骨頂は、「桜梅桃李」にある
私はこう書いた。
すなわち、もし、人々が充分に教育を受ける機会がなく、経文の知識が充分に無ければ、
それぞれの能力に応じて読誦、行動すれば、それなりの功徳=利益があるということだ。
日蓮大聖人は、更に草木成仏の理も説いている。
更に、創価学会員が拝んでる御本尊は偽本尊で、堕地獄の因そのものだが、その曼陀羅を見てみよ。
そこには、中央に仏の当体である、題目がでんと座り、その回りに、十界の生命の実相が散りばまれている。
それぞれが、そのものの姿で尊厳を主張している。
それを円融具足という。十界互具ともいう。
もしも、現代、幸いにも五体満足で、日蓮大聖人が書かれたものを容易に読むことが出来、
日蓮大聖人の遺言とおり仏道修行できるのに、しないのは、如何なる言い訳をしようとも、それは怠慢だ。
懈怠誹謗そのものだ。
新人間革命14巻で、山本会長は病気のふりをして、勤行唱題を怠けているが、それこそ懈怠だ。
人間というのは不思議な生き物で、困難があれば、それを乗り越える努力をするが、楽であれば、
却って何もしない。ある意味仏教で説く、戒律というのは、今、私達が考えるより、深い意味があるのかも知れない。
「困難だけれども実行する」という決意が、仏道修行で尚一層重要なのではないか。
これは、安っぽい精神論というものではない。
釈尊が成道した時も、何年もの苦行を捨てて、菩提樹の下で粥をすすって、成仏したとされるが、
あの釈尊の苦行の姿を顕した仏像(ガンダーラ美術)に深く感動するのは何故だろうか?
何故、北極探検で命を落とした植村直己が人々に感動を与えたのだろうか?
何でも便利になった現代は、もしかしたら、本当は仏教徒にとって、受難の時代かも知れない。
やはり、池田創価学会はいくら体裁を繕うとも、破仏法も団体だと思う。
27 :
yuriko:2006/01/07(土) 05:54:50 ID:???
続
「困難だけれども実行する」という決意が、仏道修行で尚一層重要なのではないか。
これは、安っぽい精神論というものではない。
釈尊が成道した時も、何年もの苦行を捨てて、菩提樹の下で粥をすすって、成仏したとされるが、
あの釈尊の苦行の姿を顕した仏像(ガンダーラ美術)に深く感動するのは何故だろうか?
何故、北極探検で命を落とした植村直己が人々に感動を与えたのだろうか?
何でも便利になった現代は、もしかしたら、本当は仏教徒にとって、受難の時代かも知れない。
やはり、池田創価学会はいくら体裁を繕うとも、破仏法も団体だと思う。
28 :
yuriko:2006/01/07(土) 06:12:51 ID:???
>>21 >長行を読まないとホウボウ…って御書のどこかに載ってるの?
。。。
それでは、お前に訊ねるが「息をしなと、死ぬ」と親に教えてもらったことがあるか?
これは、重要なことで、人間の生命に関わることでも、常に意識していなければ、いざという時、確保できない。
人間は幸いにも、教育によって、それを学習できる。
同様に、日蓮大聖人が御在世の頃、日蓮大聖人の信者達は、法華経寿量品長行読誦をあまりに当たり前としていたのではないか?
私達が唱えている題目にしても、果して、日蓮大聖人が唱えていた題目と全く同じものだったとは限らない。
ちなみに、日蓮宗系では「ナムミョウホウレンゲキョウ」と唱え、日蓮正宗のみが「ナンミョウホウレンゲキョウ」と伝えた。
蓮祖没後750年余、21世紀を生きる日蓮信者が少しでも、大聖人が行った仏道修行に近いものを行いたいと思うのは、当然だと思うが。
29 :
yuriko:2006/01/07(土) 06:21:20 ID:???
訂正
>>27 >やはり、池田創価学会はいくら体裁を繕うとも、破仏法も団体
↓
やはり、池田創価学会はいくら体裁を繕うとも、破仏法な団体
30 :
yuriko:2006/01/07(土) 08:20:08 ID:???
訂正
>>28 >それでは、お前に訊ねるが「息をしなと、死ぬ」と親に教えてもらったことがあるか?
↓
それでは、お前に訊ねるが「息をしないと、死ぬ」と親に教えてもらったことがあるか?
31 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/01/07(土) 08:34:31 ID:didV3vpu
28
あなたが言ってる大聖人御存命の時代に、アタリマエのように読んでたのではないか…と言うのだって予測でしょ。
あなたがもし日蓮仏法者なら文証で示すべきではないですか?
32 :
yuriko:2006/01/16(月) 08:12:15 ID:???
>>31へ
日蓮大聖人の講義を日興上人が書き留めた「御義口伝」や日向が書き留めた「御講聞き書き」
など、僧侶の間でも、必ずしも、全部が全部、師匠から弟子へと「書かれたもの」だけが伝えられる
わけではないのです。
何より、現在の私達が、過去に生きた者達の考え方を推し量るのには、想像力が必要です。
物事には、それぞれの時代の常識というものがあるのですよ。
気に留めるべきは、それは変化するという事実です。
英語では、パラダイムといいます。
例えば、現在、アインシュタインの一般相対性理論や特殊相対性理論が常識として、
普通の高校生でも理解できます。
しかし、今から百年程前には、それが理解できる人の方が稀だったのです。
まして、ブラックホールの存在を理解し、その近くでは、略、時間が停止している事実など
現在でも理解できる人は少数でしょう。
日蓮大聖人が地球が丸いとか、人間が猿から進化した動物の一種だと知っていたとは思われません。
33 :
yuriko:2006/01/16(月) 08:14:21 ID:???
続
しかし、その時代の「仏教僧侶」としての常識は備えていたと思います。
やはり、当時、鎌倉時代というのは、「中華文明」というのが圧倒的権威にあったと思われます。
そこで漢字を知り、経文が読める僧侶が一心に尊敬されていたと思われます。
経文を書写したり、読誦することは、今では考えられないくらい尊い行為とされていたと思います。
そして、この鎌倉時代の一大特徴として、それまで宮廷の独占物だった文化が、武家階級が伸し上がることで
横に広がるという庶民化が進んだのです。
また、「書写」という行為は、個人こじんが経文類や手紙を自宅に持ち帰り、「個人」として仏道修行
ができるようになったのです。
わざわざ、寺院に行く必要もないし、何より、僧侶の独占行為だった「祈祷」を僧侶に依頼しなくて
済むようになったのです。
月水御書では、一般信者で女性信者が「自宅で行うべき」仏道修行について指導を仰いでいるのです。
言い換えれば、当時の仏教徒の常識を前提に質問しているのです。
池田創価学会の怠行の言い訳というのが、在家の忙しい日々に対応して、超短縮省略形式が必要というのだが、
本当に、健康面、スケジュール的に勤行を短くするというのなら、わからぬでもない。
しかし、信仰の拠り所であるべき池田名誉会長は、健康面に「勤行できぬ程」問題があった、
とは到底思えないし、忙しいとも思えない。
しかし、この男が勤行を中心とする信仰活動を最も苦手としているのは、様々な関係者の証言によって
明らかだ。
日蓮信者として、信仰に励むのなら、できうる限り、日蓮大聖人の仰せの通り、信心
するべきです。
現在のところ、日蓮正宗の教えが最も、大聖人の意図に近いのです。
牧口先生や戸田先生が日蓮正宗の教義を創価学会員が厳守すべき宗旨としたのは、
決して、偶然からではなかったのです。
もしも、文証云々をいうなら、現在の創価式怠行の勧めを文証で示すべきは創価学会の方だ。
最初から、素直に「退転届け」を最寄りの正宗寺院に提出していれば問題なかったのです。
34 :
yuriko:2006/01/16(月) 08:22:42 ID:???
とは到底思えませんし、忙しいとも思えません。
しかし、この男が勤行を中心とする信仰活動を最も苦手としているのは、様々な関係者の証言によって
明らかです。
日蓮信者として、信仰に励むのなら、できうる限り、日蓮大聖人の仰せの通り、信心修行
するべきです。
現在のところ、日蓮正宗の教えが最も、大聖人の意図に近いのです。
牧口先生や戸田先生が日蓮正宗を創価学会員が厳守すべき宗旨としたのは、
決して、偶然からではなかったのです。
もしも、文証云々をいうなら、現在の創価式怠行の勧めを文証で示すべきは創価学会の方です。
もっとも、最初から、素直に「退転届け」を最寄りの正宗寺院に提出していれば問題なかったのです。
35 :
yuriko:2006/01/25(水) 16:24:49 ID:???
>波木井坊竜尊@日蓮宗葵講@佛所
>月水御書は儒官大学三郎殿に送った御遺文で神社参拝が主だった大学殿
>専用に綴られたお手紙である。(笑)
>決してヴォケのyurikoに送ったお手紙ではない。
>ちなみに日蓮正宗には大学殿いわれの遺物も寺院も何もない。
スピーチレスだな。
日蓮大聖人が、「仏道」を本とし、「神道」を迹としながらも
決して、蔑ろにしたのではないことは、常識的だ。
したがって、月水御書 が特殊な立場にある信者に宛てたとするのは大きな間違いだ。
三沢抄でも、明らかになっているように、何を根本とするかが、重要なのだよ。
大聖人の文底秘沈の悟りが沈められている寿量品長行を神前で読むことなどあり得ない!
やはり、如何に、日蓮宗が無慚に法儀を歪曲したのかが、明らかだ。
それに、日蓮正宗に史跡が少ないのは当たり前のことで、日興上人以外の五老僧が
悉く、大聖人の法門を理解しなかったものの、数で圧倒したことは、容易に想像できる。
「日蓮を悪しく敬えば国滅ぶべし」の金言は、邪教化した、日蓮宗の為に用意されていたようなものだ。
(* ̄m ̄)プッ
2 名前: yuriko 投稿日: 2003/12/01(月) 10:59
\(^o^)/ ぅわ〜ぃ)^o^( ぶちゅ〜(//▽//)
れいなさん、頑張って!(^o^)//""" パチパチパチ
3 名前: れいな 投稿日: 2003/12/01(月) 21:46
頑張りまちゅー!
アリガト
254 名前:yuriko :2005/11/25(金) 12:29:33 ID:???
私を女の子と信じてくれる人の為に。
思いっきり、女の子らしくしま〜す!
相談募集中♪
☆ヽ(^.^)/ チュッ
37 :
yuriko:2006/01/28(土) 19:49:51 ID:???
あげ
38 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/01/28(土) 21:19:29 ID:2oyaNnVt
あ! へんなおばさんだぁ。
age
40 :
yuriko:2006/02/21(火) 08:00:35 ID:???
http://orange.ap.teacup.com/kouzou/35.html はったり特急
創価学会員が毎日、朝夕にお経を読むことは良く知られていますね・・
経典では「毒気深入、失本心故、於此好色香薬、而謂不美」の部分です。
これは、僕は皮相的にこう読んでいます。
「政治が宗教活動であるとする誤った教えを深く染み込ませてしまった者には、
本来の宗教の異議を問われても素直に認めることは出来ないし、
自分がしていることが仏教の本義から外れていると感じることも出来ず、
本来の祈りとそれによる幸福感を味わうことが出来ない」
こう考えると、寿量品の長行を読まなくなったのも、今流行の戦略なのかと・・・
勘ぐってしまうのですが。。
41 :
波木井坊竜尊@日蓮宗葵講 ◆xd7mxrd9Z6 :2006/02/21(火) 08:12:41 ID:1tnHCa70
ふうむ。おもしろい。
もうちょっとROMってようっと。
42 :
yuriko:2006/02/28(火) 08:33:14 ID:???
43 :
yuriko:2006/03/29(水) 06:42:02 ID:???
先日、創価学会の会合に出席した。
「お経読誦」は意味内容がわからなくとも、功徳があるのです。
とか言ってましたが、それなら、寿量品長行を読んでもいいのでは?と聞きましたら、
「別に読んでもいいが、池田先生が実行しなくていい、と言っている」
と言いましたので、
「それでは、日蓮大聖人の説いた仏法とは、全く違いますね、もういい加減、騙るのを止めては
如何ですか」と返しました。
>>43 >「それでは、日蓮大聖人の説いた仏法とは、全く違いますね、
>もういい加減、騙るのを止めては如何ですか」と返しました。
>>18 >>19 でyurikoが言ってる「自我偈は、如来寿量品の部分だ。」の放言は、
「自我偈は二十八品のたましひなり(法蓮抄)」の日蓮大聖人の金言とは全く違いますね!
「もういい加減、騙るのを止めては如何ですか(暴)」
45 :
yuriko:2006/03/30(木) 14:44:51 ID:???
>>44 >「自我偈は二十八品のたましひなり(法蓮抄)」の日蓮大聖人の金言とは全く違いますね!
日蓮大聖人は、一遍唱えるお題目は、経文を千巻読誦するより優れていると仰っています。
それは、無論、法華経28巻も含むものです。
つまり、日蓮大聖人は、仏道修行の軽重をつけなさい、と言っているのです。
その順位とは、
1 お題目 2 自我偈読誦 3 寿量品長行 4 方便品長行
となりますが、4は、現在はどの宗派でも行われていません。
そして、日蓮大聖人は、弟子の日郎に宛てた消息文「土蘢御書」で、
身と口と心で信心修行していかなければならない、と仰っています。
これは、自行他行とか信行学の実践とも表現できます。
要するに、日蓮大聖人が身を持って示された「御本仏としての振る舞い」に近い形で
お題目を唱えてこそ、功徳が具わるというものです。
創価学会員が最悪の誹法を行っている所以は、現代という鎌倉時代と比べれば、
遥かに「信心修行に恵まれた環境」にありながら、怠けているからです。
かつて、戸田先生は、勤行の励行を剣豪の修行に譬え、持続するからこそ、意味がある、とおっしゃいました。
池田先生は、戸田先生が生前の頃から、勤行を怠けていたそうです。
日蓮大聖人は、信心修行を疎かにすることを「懈怠誹謗」として、厳しく戒めています。
池田先生と共に、地獄への道を歩まなくてもいいと思います。
46 :
yuriko :2006/03/30(木) 14:50:58 ID:???
まったくほんっとに誰?私の偽者はぁ〜 本当に嫌ねぇ〜
私が yuriko よ!
私は「創価学会を脱会する会」会長様の れ い な じゃありません。
私は 黒 川 和 雄 よ!
あっ、久しぶりに本物のyurikoさんだ!
>>45 >そして、日蓮大聖人は、弟子の日郎に宛てた消息文「土蘢御書」で、
>身と口と心で信心修行していかなければならない、と仰っています。
-------------------------------------------------------------------------
9 :yuriko:2006/01/03(火) 11:55:35 ID:???
●土籠御書
【文永八年十月九日、日朗・門弟、聖寿五十歳】
『法華経を余人のよみ候は、口ばかりことば(言)ばかりはよめども心はよまず。
心はよめども身によまず。色身二法共にあそばされたるこそ貴く候へ。』
-------------------------------------------------------------------------
「寿量品長行と自我偈の義は同じ」の経文に示されている事実を理解しようとせず
「自我偈は、如来寿量品の部分だ。」の放言をして未だに撤回しないyurikoこそ
「ことばばかりはよめども心はよまず」の典型例じゃのうw
49 :
yuriko:2006/03/30(木) 17:53:10 ID:???
>>48 >「寿量品長行と自我偈の義は同じ」の経文に示されている事実を理解しようとせず
...わからんちんだな。
日蓮大聖人は、お題目一遍でも仏教経典すべての義より優れていると仰っている。
『なへ候。
南無妙法蓮華経と申すは是れ一句一偈にて候。然れども同じ一句の中にも肝心にて候。
南無妙法蓮華経と唱ふる計りにて仏になるべしやと、此の御不審所詮に候。一部の肝要、
八軸の骨髄にて候。
人の身の五尺六尺のたましひ(神)も一尺の面にあらはれ、一尺のかほ(顔)のたましひも一寸の眼の内におさまり候。
又日本と申す二の文字に、六十六箇国の人畜・田畠・上下・貴賎・七珍・万宝一もかくる事候はず収めて候。
其のごとく南無妙法蓮華経の題目の内には一部八巻・二十八品・六万九千三百八十四の文字一字ももれずかけずおさめて候。
されば経には題目たり、仏には眼たりと、楽天ものべられて候。 』
『妙法尼御前御返事
【弘安元年七月三日、妙法尼、聖寿五十七歳】』
50 :
yuriko:2006/03/30(木) 18:02:19 ID:???
ちょっと〜 何よあんた!私が正真正銘のyurikoよ〜
あんた黒川れいなでしょ!
51 :
yuriko:2006/03/30(木) 18:28:52 ID:???
続
日蓮大聖人にすれば、お題目を一遍でも唱えれば、仏道修行として最高の功徳が得られると言っている。
それは、易行の面だ。
しかし、それだけなら浄土教の他力本願とあまり変わらない。
すなわち、特に一遍の開いた時宗などでは、キリスト教の「予定説」みたいなものを立てて、
衆生の側からの努力を一切否定した。
日蓮大聖人の説いた教えは、極端な易行に傾くこともなく、難解な宗儀を振り回すこともなかった。
僧侶のみの徳も説かなかったし、在家のみの修行を目指したのでもない。
それぞれに適した仏道修行を説いた。
したがって、僧侶が経文の読誦や題目の数が多いことは当然期待され、在家は、簡略なものを勧めただろう。
そこで、現代だが、創価学会の主張は、在家=創価学会のみ=主体で、日蓮大聖人の仏法の在家に向けられた部分のみを切り取って
きている。
日蓮大聖人は、出家功徳抄など、出家者に特別に宛てた消息文も少なくない。
要するに「対機説法」というものだから、現代にあっても、その旨を汲んで、御書を拝すべきだ。
現代という時代であっても、朝夕一回ずつくらいの、寿量品長行の読誦こそが、
日蓮大聖人のお心に沿う、最も適当な勤行のあり方だと思う。
52 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/03/30(木) 21:39:46 ID:w7OM+xoI
邪宗喪家もここまできたら堕地獄一直線だな
それでも分からんのだろうな
53 :
yuriko:2006/03/30(木) 22:59:22 ID:???
もう〜 れ い な のバカ!
初老で頭禿げてて冬なのに薄着してるネカマさん!
>>51 >日蓮大聖人は、出家功徳抄など、出家者に特別に宛てた消息文も少なくない。
「出家功徳抄」は、曹洞宗・道元の説示をまとめた「正法眼蔵」に書かれている
「出家功徳」の文を元にして、後世において創作された偽書だ(爆)
「されば其の身は無智無行にもあれかみをそり袈裟をかくる形には天魔も恐をなすと
見えたり」
「身は無智無行にもあれ形出家にてあらば里にも喜び某も祝著たるべし」
在家の経文読誦を「怠行」呼ばわりするyurikoが「無智無行坊主」を讃歎する御書を
持ってくるとはホンマにお笑い者じゃのう! m(_ _)ノ彡☆バンバン!
55 :
yuriko:2006/03/31(金) 14:32:32 ID:???
>>54へ
出家功徳御書には、花押が押されている。
私は、出家者に宛てた消息文は少なく無いという「当たり前のこと」を言っただけだ。
あんまり、アフォを曝ないでね。
>在家の経文読誦を「怠行」呼ばわりする
私は、『要するに「対機説法」というものだから、現代にあっても、その旨を汲んで、御書を拝すべきだ。 』
と書いた。わかってくれよ。
創価学会員が四条金吾殿御返事が大好きなのはわかる。
それに在家の者が邪宗の僧侶相手に法論をするのに、こと細かい注意を書いた「弥三郎御書」を
異様ともいえるほど熱心に勉強し、一方宗門は、殆ど引用さえしない、というのもわかる。
私が主張してるのは、現代という出家と在家の境界がぼやけた時にあっても、御書を拝するときは、
その対告衆の背景を思って拝読するべきと主張しているのだよ。
日蓮大聖人の御書は佐渡前後の違いはあるものの、全てを現代の経文と拝するべきだ。
私は、在家の経文読誦を「怠行」と言っているのではなく、
猊下(僧侶)に如何なる「伺い」を立てることもなく、勝手に他儀を変更した池田創価学会の
信心の姿勢を批判しているのだよ。
そもそも、日興上人に背いた五老僧の流れを汲む日蓮宗系は、お題目の発音まで異常だ。
「namumyouhourenngekyou」と唱えるらしい。日蓮正宗のみが「nam myouhourenngekyou」
と唱える。また、寿量品長行読誦も日蓮宗では行わないそうだ。
大聖人が入滅して、750年余り。その伝統を護ってくれた僧侶達に感謝するのは、
人間として当然だし、次世代に伝統を伝えていくべきだと思う。
生物の種は一度絶滅すれば、二度と同じ種がうまれないように、人間の文化も一度失われれば、二度と同じものはできない。
56 :
yuriko:2006/03/31(金) 14:37:59 ID:???
続
そもそも、日興上人に背いた五老僧の流れを汲む日蓮宗系は、お題目の発音まで異常だ。
「namumyouhourenngekyou」と唱えるらしい。日蓮正宗のみが「nam myouhourenngekyou」
と唱える。また、寿量品長行読誦も日蓮宗では行わないそうだ。
大聖人が入滅して、750年余り。その伝統を護ってくれた僧侶達に感謝するのは、
人間として当然だし、次世代に伝統を伝えていくべきだと思う。
生物の種は一度絶滅すれば、二度と同じ種がうまれないように、人間の文化も一度失われれば、二度と同じものはできない。
57 :
yuriko:2006/03/31(金) 14:46:17 ID:???
訂正
>>55-56 >勝手に他儀を変更した池田創価学会の
>信心の姿勢を批判しているのだよ。
↓
勝手に化儀を変更した池田創価学会の
信心の姿勢を批判しているのだよ。
よう!薄ら禿げの黒川れいな!頑張ってるのぅ
>>55 >出家功徳御書には、花押が押されている。
印章偽造の預金引出犯罪が存在するのと同様、
花押が偽造された偽書だって存在しうる事実がyurikoは理解出来ないらしい(爆)
「正法眼蔵」と類似する表現が「出家功徳抄」に使われている事実も
こっちは把握してるんだぞ(爆)
「されば其の身は無智無行にもあれかみをそり袈裟をかくる形には天魔も恐をなすと
見えたり」
「身は無智無行にもあれ形出家にてあらば里にも喜び某も祝著たるべし」
無智無行のアフォ坊主を讃歎する偽書で「あんまり、アフォを曝ないでね。」(爆)
>>55 >猊下(僧侶)に如何なる「伺い」を立てることもなく、
>勝手に化儀を変更した池田創価学会の信心の姿勢を批判しているのだよ。
破門されて無関係になった在家教団が、自分の教団の化儀を変更をするのに
何で破門前の教団にお伺い立てなきゃいけないんだ(爆)
yurikoのトンチンカンぶりをたとえて言うなら、日蓮教団が南無妙法蓮華経の布教を
行うのに関して、南無妙法蓮華経の題目を秘伝書に記してた天台宗にわざわざお伺いを
立てるようなものだし(爆)植民地が宗主国から独立して主権国家となった後も、
自国の法律を制定するのに元宗主国のお伺いを立てるようなものだ(爆)
61 :
yuriko:2006/03/32(土) 05:45:59 ID:???
>>13 >「省略・短縮した楽な修行」であるが「題目三唱」は「懈怠誹謗」になるわけか?w
こいつは、信仰の意味が全くわかっていない。
これは、エピソードだが、
米国創価学会=NSAの時代だが、
あるニューヨークの女子部のメンバーの体験だ。
当時、ニューヨークのセントラルパークで、連続レイプ殺人が起きていた。
ある夜る、運悪く、彼女はこのレイプ魔と遭遇してしまった。
襲われたとき、彼女は思わず、大声で「ナンミョウホウレンゲキョウ」と唱えたという。
すると、その男は、驚き、退散したという。
私は、この話を聞いて感動した。
たった一遍の題目でも心から唱えれば、その功徳は計り知れないという貴重な体験だ。
池田先生は、月刊ペン事件で提出された「行動記録」によると、
勤行とは、題目三遍のことだったようだ。これは、怠業というべきで、
それこそ、功徳があるわけがない。
戸田先生の指導にもあるように、勤行でも「剣豪の修行の一つ」のように、
毎日、弛まずやっていこうとの、決意があってこそ、功徳が具わるのだよ。
62 :
yuriko:2006/03/32(土) 06:04:41 ID:???
>>60 >自国の法律を制定するのに元宗主国のお伺いを立てるようなものだ(爆)
お前って、フォントにアフォだな。
確かに、年長の息子や娘に、いつまでも口煩く、小言を言う親は鬱陶しい。
しかし、そんな親心は、自分が親の身になって、初めてわかる。
親にとっては、自分が育てた子供が、幾つになっても心配なものだ。
彼等の心の中には、まだ幼かった我が子の姿がくっきりと、存在している。
それを責任という。
最近の日本では、育児放棄や幼児虐待が急速に増えているそうだが、彼等は、皆、
自分に課せられた責任を放棄しているのだ。面倒くさくなったのだ。
人という文字は、人が支えあって初めて成立することを象徴しているそうだ。
自分の子供を蔑ろにする人間が、自分の親も蔑ろにすることは、容易に想像できる。
そういう「人で無し」に溢れた日本に暗い未来しかない。
創価学会にとって、親にもあたる日蓮正宗を蔑ろにすることは、まさに、
その「人で無し」の道を歩むことになると思う。
64 :
yuriko:2006/04/06(木) 07:58:33 ID:???
こういう御書もありますね。 ↓
下 山 御 消 息
【建長三年六月、下山兵庫光基、聖寿、真筆−断存】
{随て又鑑真の末の南都七大寺の一十四人三百余人も加判して大乗の人となり、国挙て小律儀を捨て畢ぬ。
其の授戒の書を見るべし。分明なり。』
『人身は受けがたくして破れやすし。過去遠遠劫より由なき事には失ひしかども、法華経のために
命をすてたる事はなし。』
『我等と釈迦仏とは同じ程の仏なり。釈迦仏は天月の如し、我等は水中の影の月なり。
釈迦仏の本土は実には娑婆世界なり。天月動き給はずば我等もうつるべからず。』
65 :
yuriko:2006/04/06(木) 08:06:31 ID:???
更に
三世諸仏総勘文教相廃立
『れ皆悉く一人の身中の法門にて有るなり、然れば八万四千の法蔵は我身一人の日記文書なり、
此の八万法蔵を我が心中に孕み持ち懐き持ちたり我が身中の心を以て仏と法と浄土とを
我が身より外に思い願い求むるを迷いとは云うなり此の心が善悪の縁に値うて善悪の法をば造り出せるなり、
華厳経に云く「心は工なる画師の種種の五陰を造るが如く一切世間の中に法として造らざること無し』
66 :
yuriko:2006/04/06(木) 08:21:27 ID:???
信仰は、演繹的(教えを垂れる)か帰納的(信仰体験を語る)かと言われれば、
どちらも大切のようですが、一信仰者としては、やはり実体験に優れたものはないと思います。
創価学会の実質的、最高責任者である池田名誉会長にとっての信仰体験とは、
かつて、東大の小口偉一教授のインタビューに答えた、
「三日間は、受けた御本尊は拝まないで放っておいた。しかし、三日目に雷がなり、それが自分の方を目掛けて鳴っているように思えたので、
思わず、口からナンミョウホウレンゲキョウと声に出た」
というのが、池田先生の信仰体験の原点だと思う。
16世紀宗教改革を始め、現代において、キリスト教の枠を超えて、「信仰」という意味で、
多大な影響を与えているマーティン ルターの信仰体験と原点は、同じ雷だったという。
創価学会員が信仰を語るとき、この「思わず題目が口から出た」というような
信仰体験こそ、原点であり、それを大事にしていって頂きたい。
>>66 そんな強電波な馬鹿ばなしが、なんらかの説得力を持ち得るとでも思っているの?!
創価学会はキチガイの危険な集団だな
68 :
yuriko:2006/04/06(木) 08:47:51 ID:???
>>67へ
哀れな「テーノー」ネ。
一々、漢字の音読みと訓読みくらいから日本語を教えなくちゃいけないのかね。
あんまり、「スレ汚し」をすんじゃないわよ。
アフォ!
よう!黒川れいな!元気にやっておるのぅ〜!
71 :
yuriko:2006/04/06(木) 10:46:13 ID:???
アフォどもに、わかりやすく説明すると、
戸田先生が勤行について説明した、「剣豪の修行」というのは、姿勢こそ重要ということ。
時代相応とか、大衆の為とか言って、勤行を省略、簡略化しても、
仏道修行の意味がない、ということなんだよ。誰でも、努力すれば、それだけの結果(功徳)が得られる
ということが訴えたかったに違い無い。
一方、経文の意味もわからなくて、勤行する意味があるのか、と聞くと、僧侶から、
「知らなくても、いい(知らない方がいい)」と言われて、納得するのも可笑しい。
現代という時代、自宅にコンピューターのインターネットアクセス機能さえあれば、
嘗ては、大きな図書館とリサーチ能力が無ければ得られなかった情報でも、容易に手に入れられるになった。
「愚かな大衆の存在」は消えたのだ。知識を占有している特権階級は存在しない。
池田名誉会長が獲得した勲章の価値も、マウスクリック一つで得られるが、
「何故、寿量品長行が重要なのか」の情報も得ることができる。
釈尊が「如来の拳には、何も隠すものがない」と言ったのは、「自灯明 法灯明」の教えと同じであり、
人間の知識と知恵の絶対的尊厳を宣言したものに違い無い。
法華経寿量品長行を含んだ、五座三座の勤行ができることは、日蓮信者の特権と捉えるべきと思う。
72 :
yuriko:2006/04/06(木) 14:01:24 ID:???
こんな御書もあります↓
●蒙古使御書
【建治元年九月、聖寿五十四歳】
『所詮万法は己心に収まりて一塵もかけず。九山八海も我が身に備はりて、日月衆星も己心にあり。
然りといへども、盲目の者の鏡に影を浮べるに見えず、嬰児の水火を怖れざるが如し。
外典の外道、内典の小乗・権大乗等は皆己心の法を片端片端説て候なり。然りといへども法華経の如く説かず。
然れば経経に勝劣あり、人人にも聖賢分れて候ぞ。法門多多なれば止め候ひ畢ぬ。』
73 :
yuriko:2006/04/06(木) 14:06:27 ID:???
こういう御書もあります ↓
●三世諸仏総勘文教相廃立
『無分別の法とは、一乗の妙法なり。善悪を簡ぶこと無く、草木・樹林・山河・大地にも、一微塵の中にも互に各十法界の法を具足す。
。。。妙法蓮華経の寤の心に摂まりて心の外には法無きなり此れを法華経の開会とは云うなり、譬えば衆流を大海に納むるが如きなり。
。。。心と仏と衆生と此の三は我が一念の心中に摂めて心の外に無し。。。
釈迦如来五百塵点劫の当初凡夫にて御坐せし時我が身は地水火風空なりと知しめして即座に悟を開き給いき、』
2 名前: yuriko 投稿日: 2003/12/01(月) 10:59
\(^o^)/ ぅわ〜ぃ)^o^( ぶちゅ〜(//▽//)
れいなさん、頑張って!(^o^)//""" パチパチパチ
3 名前: れいな 投稿日: 2003/12/01(月) 21:46
頑張りまちゅー!
アリガト
254 名前:yuriko :2005/11/25(金) 12:29:33 ID:???
私を女の子と信じてくれる人の為に。
思いっきり、女の子らしくしま〜す!
相談募集中♪
☆ヽ(^.^)/ チュッ
75 :
参考になります:2006/04/07(金) 14:12:40 ID:KvXyByyr
声に出して読んでる時に「おっここは大事そう」と感じる箇所がありまして
それは「我本行菩薩道」とか「毒病が治る」のところとかなのです。
「社会世間に正しく役立つ」の意味に思ってますので
「自分毒」が強情な私ですので常に「自身の内面の魔性と闘っております」
なんとか「南無妙法蓮華経」で自分毒を解毒していきたいと思います。
「毒が直る」
って、何かの物語の最後の方だよな?
>>71 >現代という時代、自宅にコンピューターのインターネットアクセス機能さえあれば、
>嘗ては、大きな図書館とリサーチ能力が無ければ得られなかった情報でも、
>容易に手に入れられるになった。
>「愚かな大衆の存在」は消えたのだ。知識を占有している特権階級は存在しない。
>池田名誉会長が獲得した勲章の価値も、マウスクリック一つで得られるが、
>「何故、寿量品長行が重要なのか」の情報も得ることができる。
日々の修行に法華経一部読誦でなく経典の重要度を取捨選択して方便品寿量品を
採用するのと同様
「自我偈は、如来寿量品の部分だ。」を主張するアフォの情報も得た上で、
アフォが発する情報を取捨選択することも広い意味での仏道修行w
79 :
yuriko:2006/04/08(土) 13:38:32 ID:???
>>77 >日々々の修行に法華経一部読誦でなく経典の重要度を取捨選択して方便品寿量品を
採用するのと同様
何か、ル−プ状態になってしまって、最初から説明しなくちゃいけないみたいね。
まず認識したいのは、「南無妙法蓮華経」は日蓮大聖人のオリジナルの教えということ。
これは、当時、大流行していた「南無阿弥陀仏」を意識したものであることに間違い無い。
しかし、それはただ単に「換骨奪胎」というものではなく、「アンチ念仏」ことが大事。
易行という面では大きな共通点が見られたが、「念仏」行の場合、「他力」こそ主であり、
衆生を「汚く救われる」=自力を完全否定した。一遍にいたっては、予定説を立て、「踊ってるだけで救われる」とした。
一方、日蓮大聖人は、一部の修行僧のみが、理解できるような難解な天台や真言密教の教学や修行を否定し、
日常生活にありながら、それぞれのレベルで修行すれば、誰でもの功徳が得られると説き、「中庸」を目指した。
なにが「適当か」と言えば、実存的に、それぞれが体験していくしかない、と思う。
寿量品長行を含んだ「勤行唱題」=自行とし、折伏を化他に励み、信行学に励むことは、難しいことではない。
更に、日蓮大聖人は、信者は「宮仕いを法華経と思し召せ」と仰り、日常生活を懸命に励むことこそが、信心修行だとまで仰っている。
>>77 ループ状態というより、題目・自我偈・寿量品・一品二半・本門
いずれも法華経の「肝要」であることをyurikoが理解出来ないか
わかってて論点をすり替えて失言をスルーしているだけだろw
yurikoの寿量品観
寿量品 = 長行 + 自我偈
寿量品 ≠ 自我偈
一般的な法華信者の寿量品観
寿量品 = 長行 = 自我偈
寿量品 = 自我偈
ちゃんと答えろ!回答不能でまた逃げるのか!この黒川yuriko!
82 :
yuriko:2006/04/11(火) 10:55:45 ID:???
>>80 >寿量品 = 長行 = 自我偈
寿量品 = 自我偈
↑
アフォ!
それは、日蓮宗方式だ、お前は、身延系か?
池田名誉会長は、よくスピーチなどで、小説などの粗筋を元に話を進める。
それが、「きっかけ」となって、聞き手に、実際に作品を読んでみようという気持ちにさせるならいい。
しかし、嘗て名誉会長は、「学会指導は全てを含んでいる」とか嘯き、秋谷会長が
「へへ〜!そうでございます!」と畏まっていた。何か「居心地の悪さ」を感じた。
「戦争と平和」byトルストイなどは、「粗筋」で充分なのだろう。しかし、
要するに、俗物的既製物、インスタント、他人任せ。
本来の優れた指導者なら、「実際の作品を読んでみて欲しい」と促すべきところではないのか?
何でも「易しく、省略、単略」するのが、池田創価学会方式なのだろうが、
自ら修行を行い=自行化他、即身成仏するという、本来の仏道修行ではない。
「アフォ!」・・・・・は、れいな語なのだが?(藁)
84 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/04/11(火) 20:09:31 ID:gxh6PwC1
>>82 そういうyurikoは自分が日蓮宗やハキリ葵講よりアフォ晒してることに気づいてない(暴)
85 :
yuriko:2006/04/12(水) 16:47:19 ID:???
86 :
yuriko:2006/04/15(土) 04:20:28 ID:???
要なのは、信心の姿勢です。
仏法僧への感謝があるかどうかです。
日蓮大聖人が寿量品を読みなさいと言った場合、自我偈を含めた長行です。
長行を読誦しないことは、日蓮大聖人の法門さえ軽蔑していることになるのです。
南無妙法蓮華経を「なんみょうほうれんげきょう」と発音するか、
「なむみょうほうれんげきょう」と発音するかで、大して違わないようですが、
日顕上人が仰せのように、日蓮正宗のみが、日蓮大聖人が唱えられた題目をそのまま、発音しているのです。
同様に、法華経の方便品と寿量品を大聖人が行われたように実践しているのが、日蓮正宗のみなんです。
もし、創価学会が、真に独立した宗を立ち上げたかったら、独自の題目の上げ方も考案すればよいのです。
●勤行の省略で怠行を勧めるとは、毎度のこととは言え、小賢しいし、みっともないと思います。
●池田大曼陀羅の登場を、一日千秋の思いで待っているのですが。
2 名前: yuriko 投稿日: 2003/12/01(月) 10:59
\(^o^)/ ぅわ〜ぃ)^o^( ぶちゅ〜(//▽//)
れいなさん、頑張って!(^o^)//""" パチパチパチ
3 名前: れいな 投稿日: 2003/12/01(月) 21:46
頑張りまちゅー!
アリガト
254 名前:yuriko :2005/11/25(金) 12:29:33 ID:???
私を女の子と信じてくれる人の為に。
思いっきり、女の子らしくしま〜す!
相談募集中♪
☆ヽ(^.^)/ チュッ
88 :
yuriko:2006/04/26(水) 10:52:04 ID:???
>>75 参考になります
>それは「我本行菩薩道」とか「毒病が治る」のところとかなのです。
。。。恐れ入ります。
現代日本に最も必要なことは、「菩薩行」=「他人の心の痛みを感じること」
だと思います。
仏の慈悲は、三世(過去現在未来)を超えて、全ての生き物に注がれている筈です。
そんな慈悲を感じられない原因こそ、私達の内に潜む「毒」のせいなのです。
仏様に願われて存在している自分達の「幸運」を信じたいものですね。
法華経寿量品十六長行は、釈尊の教えの中で最も大切な「仏の慈悲」を説いているのです。
10276.お知らせ 返信 引用
名前:れいな 日付:4月28日(金) 9時15分
長らくご利用頂いておりました「創価学会からの脱会を考える会」(ヤフー版)は先日創価学会員のイチャモンによりヤフーが削除いたしました。
数日後復旧はされましたが、ISPの無料ホームページスペースには規制など情報に対する限界があり、
今回、これを機会に独自のドメイン保有のサーバーを構築することに決定いたしました。 サーバー構築には時間が掛かりますが、今しばらくのご辛抱お願い申し上げます。
今までの「創価学会からの脱会を考える会」よりも数倍強烈な、日本最大の反創価学会、脱会支援サイトの本格的行動の開始を実行いたします。
尚、「法華チャンネル」の管理人様、また多数の人々からのご支援、アドバイス、有難うございます。
また当方が今まで極秘扱にしてきました創価学会内部資料など、創価学会の犯罪を(会員制)にて公開してゆく計画です。
当方の戦いもいよいよ最終段階となるでありましょう。
これからもよろしくお願い申し上げます。
創価学会からの脱会を考える会
ってのは、創価学会員を脱会させるのが目的なの?
それとも、脱会させた後、日蓮正宗へ勧誘するのが真の目的なの?
>>90 「創価学会からの脱会を考える会」は、れいなタソが
自分の脳内脱会者を自慢することを目的とする団体で
別名「日蓮正宗れいな脳内教」とも呼ばれているよw
92 :
yuriko:2006/04/30(日) 10:16:43 ID:???
創価学会員が超短縮+略勤行をするようになって、寿量品長行を全く読誦しなくなりました。
実をいいますと、日蓮宗では、古来より、寿量品長行読誦は行っていないのです。
創価学会の行く着く先は、結局は「日蓮宗化」に過ぎないのです。
「長いものに巻かれろ」ということなんでしょう。
日蓮正宗が古来から伝えてきた「引き題目」=「ナ〜ムミョウホウレンゲキョウ」も唱えなくなりましたし、
じきに、日蓮正宗のみが伝えた「ナンミョウホウレンゲキョウ」も唱えなくなり、
日蓮宗方式の「ナムミョウホウレンゲキョウ」と唱え始めるでしょう。
映画「宮沢賢治」では、「ナンミョウホウレンゲキョウ」と唱えていましたが、それも一般的でなくなるかも知れません。
日蓮大聖人→日興上人に伝えられたお題目と同じ題目を唱えたいものです。
93 :
yuriko:2006/04/30(日) 10:18:15 ID:???
そういえば、学会員の唱える題目は、
「ナマゲキョ ナマゲキョ」としか聞こえないときがあります。
果たして、あれで、何らかの功徳が得られるのでしょうか?
>創価学会の行く着く先は、結局は「日蓮宗化」に過ぎないのです。
近年は消臭坊主と日蓮宗僧侶の交流が再開され活発化しちゅるようですがw
いっそのこと、消臭が日蓮宗に合流し、大石寺出身僧が久遠寺の管長に就任して
大御本尊の久遠寺遷座を目指すのが消臭広布の現実的手段ではw
95 :
yuriko:2006/04/30(日) 12:11:30 ID:???
>>94 >近年は消臭坊主と日蓮宗僧侶の交流が再開され活発化
確かに、日蓮正宗の誇りある伝統としては、
「謗法厳禁」というものがあります。
しかし、誤解してはならないのは、仏教に於ける「異端」に対する姿勢だ。
ユダヤ教を母体にする
「一神教」」の宗教は、一つの神への、絶対的帰依を要求する為に、その帰依のあり方まで、絶対の服従を
人々に要求した。
したがって、例え同じ宗教内でさえ、時には、「殺し合い」をしてまで、自分達の派の正しさを主張しあった。
ところが、仏教においては、争いごとは、世俗上の対立故に起ることはあっても、自分達の信仰を護る為に戦う、ということが
殆どなかった。
例えば、日本では、奈良、平安、鎌倉時代と、それぞれの仏教寺院が、それぞれの教義の正統性を主張 しつつも、
決して、「殺し合い」にまで発展することがなかった。建て前はともかく、仏教は、どこまでも「人間中心」の教えだったから、
「神仏の栄光」の実現には関心はあまりなかあった。
そこで、一神教的な浄土真宗や日蓮教団が例外として挙げられるかも知れないが、
教祖達の行動を具に観察すると、良い意味「言ってること」と「やってること」がちぐはぐだ。
釈尊の教団にしても、戒律の遵守が常に絶対だったわけではなく、時と場合によって、相当な
融通性があったようだ。それに関して、ひろさちや氏が詳しく研究している。
日蓮大聖人にしても、三沢抄などでも明らかなように、別に「神社詣で」を禁止していたのではなく、
「仏への供養」を第一とするべきとしたに過ぎない。
96 :
yuriko:2006/04/30(日) 12:12:34 ID:???
続
佐渡に滞在していた際には、念仏信者の一谷入道の供養をしっかり受け取っていたし、後に
その女房に託した手紙にも、感謝の言葉が述べられている。
但し、大聖人は言う、「あなたが念仏を称えてる限り、あなたは確実に地獄に墜ちる」と。
そこで、現代の仏教徒である私達が考えなければならないのは、「軽重の区別をつける」ということになると思う。
違った考えを持った人々に対して、「口も利かない」というのではなく、
「是々非々」で、「だめは駄目」「学ぶべきは学ぶ」という真の寛容の心を育てるべきだ。
思想上の談合は、みっともいないが、ルールに従って、自由競争はするべきだと思う。
創価学会が問題である所以は、同団体が、「場外乱闘」を繰り返す故だ。
おい!負け組みの黒川れいな!お前、連投してる間に、カキコが男ぱっくなってきたぞw
気をつけろよなw また馬鹿にされるぞ(激藁)
98 :
yuriko:2006/04/30(日) 22:11:23 ID:???
>>97 へ
?。 (^_-), ウインク
もっと、やさしくしてね♪♪
99 :
yuriko:2006/05/07(日) 14:05:53 ID:???
最近、「耳無し芳一」という映画を観ました。
志村喬が和尚さん役で出てましたから、相当に古いものです。
原作は、ラフガデオハーンの「怪談」を映画化したオムニバスの内の、
一話です。
有名なんで、粗筋は必要ないでしょ。
死霊に取り憑かれた芳一の体に経文(般若心経)を書くのですが、
耳に書き忘れて、耳だけ死霊の武士にちぎり持って行かれるのですが、
私が注目したのは、日本仏教に於ける「言霊」の力です。
庶民の大部分は、唱える経文の意味内容を充分理解していなかったと思います。
しかし、信仰の力で「言霊」を吹き込むのです。
果たして、これを迷信の一種と片付けるべきでしょうか?
お題目のアップビートな響きは、「命が盛り上がっていく」感じがします。
その流麗な力強さは、法華経全体を貫いています。
法華経、とりわけ、寿量品は、法華経の中心として、人々から尊ばれてきたのです。
法華経寿量品読誦は、本来、大聖人門下の誇りであり、特権なのです。
池田創価学会に居続けることは、十四誹謗の内の、懈怠誹謗をおかすことになります。
2 名前: yuriko 投稿日: 2003/12/01(月) 10:59
\(^o^)/ ぅわ〜ぃ)^o^( ぶちゅ〜(//▽//)
れいなさん、頑張って!(^o^)//""" パチパチパチ
3 名前: れいな 投稿日: 2003/12/01(月) 21:46
頑張りまちゅー!
アリガト
254 名前:yuriko :2005/11/25(金) 12:29:33 ID:???
私を女の子と信じてくれる人の為に。
思いっきり、女の子らしくしま〜す!
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☆ヽ(^.^)/ チュッ
>>99 >私が注目したのは、日本仏教に於ける「言霊」の力です。
>庶民の大部分は、唱える経文の意味内容を充分理解していなかったと思います。
>しかし、信仰の力で「言霊」を吹き込むのです。
>果たして、これを迷信の一種と片付けるべきでしょうか?
yurikoは怪談映画を観て言霊信仰に宗旨替えを表明(激藁)
>>101へ
確かに、日蓮大聖人は、
●唱法華題目抄で、
『但法門をもて邪正をただすべし、利根と通力とにはよるべからず。』
と仰っています。
しかし、●妙一尼御前御消息
『法華経を信ずる人は冬のごとし。冬は必ず春となる。』
●祈祷抄
『厳宗・法相宗・三論宗・小乗の三宗・真言宗・天台宗の祈りをなさんに、いずれかしるしあるべきや。
答て云く、仏説なればいづれも一往は祈となるべし。但法華経をもつていのらむ祈は必ず祈となるべし。 』
ともあるように、
日蓮大聖人は、祈祷とか、墨に書いた文字を尊びました。もっとも有名な御書は、
『夫について経王御前の事、二六時中に日月天に祈り申し候。(略)
日蓮がたましひ(魂)をすみ(墨)にそめながしてかきて候ぞ。信じさせ給へ。』
と仰っています。
やはり、「宗教」の次元と「信仰」の次元では、微妙に違うと思うのです。
極端な話。
宗門は「信仰」を失ってしまいましたし、創価学会は「宗教」で無くなってしまったのです。
私は、信仰に裏付けられた宗教こそ重要だと思っています。
真正の御本尊を無造作に集めて、挙げ句、創価大学の焼却炉で燃やし、
そして、こともあろうか、焼却場そのものが、火災で全焼したり、
地震神話のあった神戸の地で、御本尊回収→焼却処分の翌日に、町全体が燃え落ちたり、
法華経に最も馴染み深い活火山だった、雲仙普賢岳で、大火砕流が発生したり、
「迷信」「偶然」とかで片付けきれない、偶然があるのです。
無論、被害者の方々にしてみれば、不愉快でしょう。
しかし、人間の宿業には、あまりに深いものがあって、「空想 迷信」の類いでは簡単に
済ますことが出来ないのです。
そんな「未知への恐怖感」が「拝み屋」達に付け入る元なんでしょう。
私的には、「自分は神だ」と言い出す人間は、100%嘘と言い切れます。
ですが、人間を超えた存在が常にある、ということと、その力は、決して
人間を罰する為に存在しているのではない、と思います。
そして、生きとし生ける存在は、「生かされてる」し、
「何かを成し遂げることを期待されてる」と信じたいと思います。
>>102 言霊信仰の新興宗教「yuriko言霊教」の旗揚げダーッ!
極端な話。
宗門は「信仰」を失ってしまいましたし、創価学会は「宗教」で無くなってしまったのです。
私は、信仰に裏付けられた宗教こそ重要だと思っています。
NHKドラマ「功名が辻」で、
山内一豊が、「比叡山延暦寺焼き討ち」で信長の命令に逆らえず、残虐行為を働いてしまったことに対して、
後々まで後悔する場面が登場します。
恐らく、実際の一豊は、もっと堂々としてうたでしょうが、
当時の日本人の常識だったあ「神仏への畏敬」に挑戦したのは、確かでしょう。
私は、この信長が「大作」にイメージが重なってしょうがないのです。
池田先生は、実際に、若い頃の口癖が「天下を取ろう」でしたし、公明党には、「天下を取れ」と揮毫もしていました。
そこで、池田先生曰く「堕落した聖職者達」に鉄槌を下そうとした点も重なります。
そして、自分が「弟子」としに次から次へと裏切られる点も重なります。
やはり、池田先生の人としての業績を振り返るとき、
聖職者としてではなく、「俗物王」としての評価だと思います。
そういう点では、池田先生は、戦国大名達に比肩すると思います。
>>103 >真正の御本尊を無造作に集めて、挙げ句、創価大学の焼却炉で燃やし
燃やしたんでつかー?
どうしてなんだ?
すまん初心者質問で
創価学園出身者で、ハンドル名「ちゅうた」さんんという素晴らしい方がいらしたのですが、
ちゅうたさんの思いでとして、
ある時、お家で、小火(ぼや)騒ぎがあったのです。
家族全員が、外に飛び出したて「ほっと」していると、「じっちゃん」が突然、
「御本尊様を取りにいかねば」と小火が煙る中、戻って行ったそうです。
そこで、ちゅいうたさんは、「御本尊様ってそんなに大事なんんだ」と幼い心み刻んだそうです。
この「じっちゃん」に限らず、学会員は本気で、「御本尊様」を護っていたのです。
それが、昭和54年に会長を引退した騒動で明らかになったのは、
池田先生は、自分に個人的に与えられた「お守り本尊」でさえ、無惨に破壊した挙げ句に、板に模刻するなど
御本尊への信仰心が全く無いことが明らかになってきたのです。
如何なる宗旨であろうと、「御本尊は、その信仰の中心」です。江戸時代、何故「踏み絵」が残酷な取り調べまのかわかります。
池田名誉会長の場合、藤原弘達氏が慨嘆したように、御本尊利用の詐欺師に過ぎなかったのです。
訂正
>>107 江戸時代、何故「踏み絵」が残酷な取り調べまのかわかります。
↓
江戸時代、何故「踏み絵」が残酷な取り調べだったのかわかります。
109 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/05/11(木) 01:13:55 ID:kMdvf5ad
>>92 の事で聞きたい。
日蓮は南無妙法蓮華経の南無は月氏語のナマスまたはナモと読むと言ってるが、それが何故 ナンと発音していたと言えるの?
昔、教学部長に聞いたら
「その時代の人は南無阿弥陀仏をなんまんだぶと唱えていたから、南無はナンと呼ぶんだよ。」と言ってましたが、はっきり言って信じてません。
ちなみに反創価の学会2世です。
110 :
波木井坊竜尊@日蓮宗葵講 ◆xd7mxrd9Z6 :2006/05/11(木) 01:19:03 ID:6BdYrlX4
yuriko おまえ学会よりひでえよな。
111 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/05/11(木) 01:21:30 ID:kMdvf5ad
それと、月水御書に於いて方便品の長行、寿量品の長行を読誦するようにとありますが、方便品は長行を読まなくていいの?
>>92 >>109 「ナムミョウホウレンゲキョウ」と「ナンミョウホウレンゲキョウ」の違いは
「ナ」と「ミョウ」の間は、かならず口唇を閉じる必要があり、口唇を閉じて
舌先を上あごにつけ、鼻に息を抜けば「ン」の発音になり、口唇を閉じて
舌先を下あごにつけたまま鼻と口内で息を抜けば「ム」の発音になるわけ。
単純な話、「ナムミョウホウレンゲキョウ」と「ナンミョウホウレンゲキョウ」
の違いは『舌先が上にあるか下にあるかのわずかなもの』であり、わずかな違いで
成仏の有無に大きな違いが生じるなら、舌がんの手術等で舌先の態様が正常人と
異なる方や、言語障害者、筋ジス患者等の舌やあごに運動機能の障害を抱え、
正常に題目を唱えるのが困難な方は、成仏困難か成仏出来ないことになるw
日本語文化圏で「南無」に関する「m」「n」論争は、「蓮華」の発音で
「l」「r」どっちなのかを論ずるようなもので、「南無妙法蓮華経」の漢字で
「ナムアミダブツ」「ナンマンダブ」を唱えるならいざ知らず、発音記号も
録音機材も存在しない鎌倉時代に、発音の細かな部分まで日蓮大聖人が
規定していた事実はないし、発音の形式に詳細なこだわりを必要とするなら
法華経読誦も音節の細かな部分まで天台大師や羅什三蔵の頃の古代中国の発音に
する必要があるのかとツッコミ入れたくなるところだw
>>86 >南無妙法蓮華経を「なんみょうほうれんげきょう」と発音するか、
>「なむみょうほうれんげきょう」と発音するかで、大して違わないようですが、
>日顕上人が仰せのように、日蓮正宗のみが、日蓮大聖人が唱えられた題目を
>そのまま、発音しているのです
日蓮正宗には題目の唱え方について舌先の細かな動きまで
厳密に規定した「秘伝」があるのかよ m(_ _)ノ彡☆バンバン!!
自作自演を繰り返し、自画自賛することは人間として最も恥ずべきことです。これは信仰以前の人間性の問題です。
宗祖日蓮大聖人は「賢人は八風と申して八のかぜにをかされぬを賢人と申すなり。利・衰・毀・誉・称・譏・苦・楽なり。
をを心は利あるによろこばず、をとろうるになげかず等の事なり。此の八風にをかされぬ人をば必ず天はまほらせ給ふなり。」
とおおせです。
「創価学会からの脱会を考える会」などという反社会的カルト団体を立ち上げて会長におさまり、自作自演の脱会話の武勇伝
を創作し、八風に犯された、れいな氏は完全に異流義の存在であり、日蓮正宗の信仰とはまったく関係ない異質な存在なのです。
名聞名利の権化・池田太作氏と同じだと言えます。
日蓮正宗の誠の信徒が意図的に日蓮正宗の評判を落とすようなことはしません。なぜなら日蓮正宗の信徒は、御住職さまに恥を
かかせないことが常に念頭にあるからです。
私達日蓮正宗法華講員はれいな氏に対して疑いの目で見てきました。それは日蓮正宗信徒のサイトを荒らし、また謗法団体だと
はいえ創価学会員のサイトを荒らし回り、法論と称して出鱈目な論争を始めてわざと敗北している、れいな氏を日蓮正宗の信徒だ
と思う法華講員はいないからです。
114 :
そんな事より:2006/05/12(金) 14:07:02 ID:bIceAIjS
方便品の長行は40ページもあるけど、朝晩読むのか?
さすが日顕宗だな・・
115 :
109、111:2006/05/12(金) 15:12:29 ID:PQLrO9/M
>>114 バカ創価お前らの勧誘がうるせぇから御書読んだんだよ!事実ねじまげてんじゃねぇ、お前らの御書だろ!
反創価、2世だよw
一般人のオレが見ても
日蓮正宗も日顕宗も日蓮宗も妙観も法華購も立正校正会も日蓮系もあんま変わらんよ!
今一番デカイ害悪は創価だろ早く気づけよ低脳w
>>115 法華経も題目も読む気ない反創価は方便品長行も読まなくていいよw
117 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/05/12(金) 16:59:44 ID:PQLrO9/M
>>116 正式な答えも出せない低脳は引っ込んでろ!
長行の部分の間違いを認めたのは創価の教学部長だよ!
反論出来る題材を用意しろって言ってんだよ低脳!
>>117 >法華経も題目も読む気ない反創価は方便品長行も読まなくていいよw
↑は「正式な答え」ですが、何か?
119 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/05/12(金) 17:29:51 ID:PQLrO9/M
>>118 お前ね、そんなんでよく広戦流布とか言ってんね!
創価の恥晒しだね。宣伝ありがとうw
>>119 2世を自白するお前も「創価の恥晒し」w
121 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/05/12(金) 17:43:45 ID:PQLrO9/M
>>120 アンタ字も読めないの?
反創価の2世だw 親も反創価って事だw
妄想だけじゃなくここまで低脳とはwww
>>121 >109 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/05/11(木) 01:13:55 ID:kMdvf5ad
>ちなみに反創価の学会2世です。
親は「反創価の学会」信者で、その子供は「反創価の学会」2世かw
123 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/05/12(金) 18:12:23 ID:PQLrO9/M
>>122 創価の恥晒しあげご苦労様w
文見て内容、理解出来ないなら御書も分からんだろ低脳!
創価嫌いな一般人だ!って事w
勝手に信者にしてんじゃねぇ!
妄想集団創価学会員www
124 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/05/12(金) 19:21:49 ID:bulhBc4n
>118
×広戦流布 ○広宣流布
人の指摘をするなら、貴方もされないように!
125 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/05/12(金) 19:29:54 ID:PQLrO9/M
>>124 文の心を読めw
皮肉を込めてるの感じとれw
なかなか面白い議論がされてますね。
まず、障碍者がちゃんとお題目を唱えられなくとも、成仏するのか、ということですが、
「正しい信仰心で、お題目を唱えれば、間違い無く成仏する」と言えます。
真心こそ、大事なのです。それを「桜梅桃李」の成仏といいます。
では、正しい信仰心とは、何でしょうか?正因仏性 縁因仏性 了因仏性が働き合ってこそ実現するのです。
日蓮大聖人が開宗された意図もそこにあったのです。
仏教は、釈尊によって始められたのですが、釈尊が始められた仏教と、日蓮大聖人が在世の頃行われていた
仏教は全く違ったものになってしまっていました。それで、大聖人は、「可笑しい」と気付かれたのです。
釈尊は、人生の苦から逃れる為には「解脱」が必要なことを説きました。何より、「個人の救済」に最大の関心があったのです。
それが、日本人、とりわけ、鎌倉時代の指導者達の最大の関心は、「鎮護国家」であり、好き勝手なことを祈り、宗教家は
堕落した「拝み屋」になってしまったのでした。
それを、日蓮大聖人は観察して、「それは可笑しい。仏の教えを信じてるのに、人々は不幸だ!」と主張したのです。
そして「個人の魂の救済と国家の安泰は、矛盾なく成立する」と主張したのです。
すなわち、浄土真宗的な「世俗に塗れ過ぎた上、あの世の救いのみを願ったり、
真言密教的な秘密の儀式や、「おまじない」による祈祷で、他人を呪ったり、勝手な欲望を達成を祈ったりするのは間違ってるとしたのです。
日蓮大聖人は「心こそ大事なれ」(千日尼御返事)とか「心の財」(四条金吾殿御返事)と述べられ、
一人ひとりの信心こそ、成仏にとって大事だとしたのです。
その一方で、「立正安国論」を著した上で、為政者を諌めもしたのです。
月水御書で、法華経寿量品長行のみか、方便品長行読誦を日蓮大聖人が勧められてる件ですが、
それは、直接方便品長行を読んでみればわかります。
すなわち、方便品長行には、繰り返しの語句が多く、寿量品長行のように、「ここにしかない」という語句はないのです。
方便品長行で重要なのは、一切皆成仏の可能性を宣言した点です。
いかなる仏典での、その「お経」を代表する「語句」というものがあるのです。
「般若心教」であれば「色即是空、空即是色」ですし、
「法華経」であれば「諸法実相」です。
現代語に訳せば、「一切の生きとし生けるもの、存在その全ての存在の本当の姿は、仏」
というのです。
日蓮大聖人は、自分の命を繰り返し狙った平左衛門を「最大の善知識」と称えたり、
「冬は必ず春となる」」とか「病によりて道心はおこれり」とされ、困難とか、一見、悪の存在こそ
真の善性を引き出すとしています。
日蓮大聖人の仏法は、恩寵的信仰でもないのです。
>>126 >正因仏性 縁因仏性 了因仏性
正因仏性とは、社会的地位や富、才能に拘わらず、あらあゆる生物、無生物に
侵すことのできない「尊厳」が存在していると自他ともに、信じることです。
縁因仏性とは、そのことを気付く為の智慧の働きです。日蓮大聖人はその最大の智慧こそ、お題目だとしました。
自分で唱え、主張し、他人に聞かせ、唱えさせる行為にこそ成仏のカギがあるとしました。
了因仏性とは、御本尊のことです。
たとえどんなに、自分に仏の命が具わってると言われても、愚鈍な衆生はわからないものです。
そこで、実際に成仏した「生きた手本」が必要になってきます。
日蓮大聖人が御在世のときは、日蓮大聖人の生き方、そのものが「手本」になったのでrすが、入滅後は、日蓮大聖人の「魂魄」を留めた
大御本尊こそ、末法唯一の本尊と拝するべきです。
創価学会員のやってることは、正因仏性の主張ばかりです。
迷いの多い自身を拝みあって、何の功徳がありましょうや?
まして、大御本尊=了因仏性を真似ただけの、偽(御)本尊を拝んで、害こそあっても、功徳などあありません。
創価学会員の唱える題目が、宗祖日蓮大聖人の唱えた題目=縁因仏性と違ったものになりつあるのは、
当然といえましょう。
おまいはあほか!黒川れいな!
130 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/05/13(土) 10:17:09 ID:Ptlw43xq
>128
仏とは宇宙法界を司る法則の根源であり偏満していて
それを図示したのが本尊であるから、相ミョウがあってれば良いのではないか。
日寛上人の御本尊に変わりはない、これをニセというのか。
131 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/05/13(土) 13:35:45 ID:EIUOecfi
132 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/05/13(土) 13:47:38 ID:EIUOecfi
>>130 配列書き方が個人よって違う本尊に本物なんかないだろ!それに創価のは単なる複写じゃなく手を加えてるだろ!しかもビニール製w
日蓮は心の墨を書き本尊とした。単に同じだからは通じないコピーなんて心がねぇよ!
134 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/05/13(土) 14:23:19 ID:EIUOecfi
133
個人攻撃してる自体で創価とあんま変わらないな。
創価、法華購にも言えるけどもっとデカイ組織叩いてみろよ!
個人や小さい組織に目を向けないでもっと他に叩くとこあるだろ!
まぁ、創価じたい諸悪の根元だから色んなグループ組織と繋がってそうだな…
135 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/05/13(土) 14:34:47 ID:u30nhew7
とうにょーほーれんーげーきょー
とうにょーほーれんーげーきょー
とうにょーほーれんーげーきょー
136 :
GRASS HOPPER:2006/05/13(土) 15:10:37 ID:ZQqkjLAm
いや〜、信心って大切だよ。あと、お題目も。
近所のおばさん、生きとったよ。
びっくらこいた、ピンピンだったよ。
どうやら、窓から世間の動向を窺ってたらしい。
まさにSGI特殊部隊だよ。
俺が、イカン崎のポスターみて、腹抱えて笑ってる図も、キャッチされたかもな。
>>130 >宇宙法界を司る法則の根源であり偏満
。。。宇宙に遍満する法があるというのは、仏法ではありませんね。
それに近い考えが
●蒙古使御書
『所詮万法は己心に収まりて一塵もかけず。九山八海も我が身に備はりて、日月衆星も己心にあり。 』
にありますが、これとて、大聖人は「己心の法に宇宙法界が納まっている」と述べているのであって、
客観的な法が宇宙に遍満しているという考えではありません。
西欧哲学は、人間の心から離れた、客観世界を想定して、それを「神から許された人類が支配する」という
考え方が発達したのです。
宇宙に根本法則があるとしたのが、インド古代哲学ウパニシャッドでしたが、その考えに異を唱えたのが
釈尊だったのです。
仏教は、小乗教、大乗教に拘わらず、内省的宗教です。
御本尊は、日蓮大聖人の内省のはての「悟り」を顕わしたものです。
「概念的」なのです。
御本尊を仏像などの偶像崇拝と同列に考えてはなりません。
それで相貌(そうみょう)が同じならいいではないか、とのことですが、
日蓮大聖人は、自分の教えを正確に伝える事にも、気を配りました。
●一谷入道御書
建治元年五月八日『又日蓮が弟子となのるとも、日蓮が判を持ざらん者をば御用ひあるべからず。』
と述べました。
御在世の折は、現在んぴょうな精巧な複写技術はありませんでしたから、自分の魂を留めた御本尊
の相貌は、代筆するにしても、自分が最も信頼する弟子に託したに違いありません。
そんあ宗祖の心を最も正確に伝えてきたのは、日蓮正宗というのは間違いないと思います。
その歴史に少々「くもり」があるからといって、その功績を全くの「蔑ろ」にしていい筈がありません。
訂正
>>137 御在世の折は、現在んぴょうな精巧な複写技術はありませんでしたから、自分の魂を留めた御本尊
の相貌は、代筆するにしても、自分が最も信頼する弟子に託したに違いありません。
↓
御在世の折は、現在のような精巧な複写技術はありませんでしたから、自分の魂を留めた御本尊
の相貌は、代筆するにしても、自分が最も信頼する弟子に託したに違いありません。
139 :
130↑:2006/05/13(土) 18:46:57 ID:dpgy0qye
「相みょう」というより、「南無妙法蓮華経 日蓮在御判」という文字が書いてあったら全て対鏡として働く事を日寛上人が言われています。
つまり片っ端から「ほんもの」です。
要は信心の違いです。
富士門流以外は上行日蓮。宗門は法主日蓮。
 ̄〜 ̄ぷ)・・
140 :
波木井坊竜尊@日蓮宗葵講 ◆xd7mxrd9Z6 :2006/05/13(土) 18:49:11 ID:NmkqaDRf
日蓮在御判と書いてない大石寺歴代の御本尊もあるんですけど・・・。
だいたい日興上人御書写のかなりの御本尊に”在御判”がない。(藁)
3 名前: yuriko 投稿日: 2003/09/15(月) 14:48
ここが乙骨さんが主催してるサイトです
2 名前: yuriko 投稿日: 2003/12/01(月) 10:59
\(^o^)/ ぅわ〜ぃ)^o^( ぶちゅ〜(//▽//)
れいなさん、頑張って!(^o^)//""" パチパチパチ
3 名前: れいな 投稿日: 2003/12/01(月) 21:46
頑張りまちゅー!
アリガト
254 名前:yuriko :2005/11/25(金) 12:29:33 ID:???
私を女の子と信じてくれる人の為に。
思いっきり、女の子らしくしま〜す!
相談募集中♪
☆ヽ(^.^)/ チュッ
142 :
140↑:2006/05/13(土) 19:01:23 ID:dpgy0qye
へ〜そうなんだぁ?
じゃぁ、御本尊七箇相承の「日蓮御判と書かずんば天神地神もよも用ひ給はざらん」ってのは間違いなんだ?
 ̄〜 ̄ツリ)・・
>>140 あっはっは!
朝鮮人学会員の溝口浩が、なにを言ってもねぇ。w
144 :
140↑:2006/05/13(土) 19:06:16 ID:dpgy0qye
日蓮在御判が無いから何?
何?何?
日蓮在御判がある本尊は全て本物だと日寛上人が言われてるんだけど。
無い場合は何?
 ̄〜 ̄ぷ)・・
ウヨの法華講員降臨?
146 :
140↑おまけ:2006/05/13(土) 19:17:16 ID:dpgy0qye
へ〜じゃあ日興上人は相承書通りには書いて無いんだぁ〜
(日目上人もね)
じゃぁ御本尊七箇相承書は何?
いつの時代に書かれたのかなぁ〜
 ̄〜 ̄ぷ)・・
147 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/05/13(土) 19:34:30 ID:k0fXbX/y
原創価値があるね。
起伏に富んだストーリーとか沢山ある。
torrentが大行進しているよ。
+ +
+ ハ_ハ + +
('(゚∀゚∩ また釣られてくる。。。
ヽ 〈 + +
ヽヽ_) +
分かった!
起伏大行進だ!。
148 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/05/13(土) 19:51:47 ID:EIUOecfi
…日蓮は末法に於いて唯一人の法華経の行者と断言してる。
だ・か・ら…日蓮系及び創価は妄想集団なのw
>>148 >日蓮は末法に於いて唯一人の法華経の行者
だ か ら「凄い」んです。
日蓮大聖人は、「示同凡夫」の立場を貫かれました。
巷で、「一往とか、再往」とか言っておりますが、それは、いんちきです。
日蓮大聖人は、本気で、いかなる差別もなく、凡夫だからこそ、仏になれるとしたのです。
仏になる為には、三因仏証が説かれましたが、
正因仏証=誰でも、具えている仏性 了因仏性=仏になる為の智慧=お題目=以信代慧
縁因仏性=仏=御本尊
なのです。この三因仏は、一切衆生は無論、
草木にも具わっています。ですから、紙の「御本尊」にも、三因仏性が具わっているのです。
★諸法実相抄
『妙法蓮華経こそ本仏にては御座候へ。経に云く「如来秘密 神通之力」是なり。
如来秘密は体の三身にして本仏なり。神通之力は用の三身にして迹仏ぞかし。
凡夫は体の三身にして本仏ぞかし。』
訂正
>>149 三因仏証
↓
三因仏性
この三因仏
↓
この三因仏性
>>150 日蓮大聖人は謗法ですか?
三座五座してなかったんですけどw
勤行好きは法華経全品読誦して一日終わってればいいよ。
現証として現れるんじゃない?
>>151へ
日蓮大聖人は次のように、仰っています。
「この法華経は一切の諸仏の眼目教主釈尊の本師なり、一字一点もすつる人あれば
千万の父母を殺せる罪にもすぎ十方の仏の身より血を出す罪にもこへて候ける」
(「兄弟抄」)
法華経寿量品長行には、日蓮大聖人の仏法を理解する為に、「無くてはならい」語句が散りばまれています。
せいぜい朝夕併せて、15分くうらいの時間をかけて読誦してもいいとおもいます。
それに、そうすることは、「脳の活性化」に多大な効果があることは、研究の結果、広く知られています。
>>153←偽物です!
それより、
「五月蝿い」←生まれて初めて見る日本語です。
どう読み、なんて言う意味ですか?
変な日本語を使わないでね。
yurikoって前に別の掲示板で俺の質問に答えられなくなってたのに
まだ懲りずに同じことをほざいてるのか。
枝葉末節にいろいろこだわっているようだが、
結局こいつの主張は「長行を読まずに題目を唱えても無駄」ということ
これだけで長行>題目ということであり、すでに終わってる
>>156 >これだけで長行>題目ということであり、すでに終わってる
↑
アフォ!
日蓮正宗法主二十六世で、哀れにも、創価学会から、自分の書写した御本尊を基に
偽(御)本尊を制作された、中興の祖と言われる、日寛上人は、
法華経読誦の功徳を「米に酢や塩を混ぜる」ようなものと仰っている。
上手いことを言うと思う。
果たして、日本人は、酢の入って無い「握り飯」で寿司を食べれるだろうか?
法華経の存在は、あくまで「酢」の存在。寿量品長行の存在は、「上とろ」くらいの意味合いか?
お題目は、当然、メインディッシュ、「マグロノカマ」に当たろうか?
いくら食べても「食べ飽き無い」存在とも言えるかもしれない。軽重の区別はつけるべきだ。
学会員は、超省略勤行で、「仏満修行の味わい」を失ってしまったことに、
気づくべきだ。
訂正
>>158 「仏満修行の味わい」
↓
「仏道修行の味わい」
>>158 調味料が無いと米の栄養がなくなると主張してるのはお前だアフォ
161 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/01(土) 13:34:59 ID:mb0aCXGT
>>158 スレタイ「寿量品長行を読誦摺しないことは、謗法ですよ」
>軽重の区別はつけるべきだ
主張変わってるね。タイトルの意味は「調味料が無いと毒になる」だよ
>>1 クソスレ、自慰スレ乙ダヨ。。。ったく。
P915
「九月十三日の夜なれば 月大にはれてありしに
夜中に大庭に立ち出でて 月に向ひ奉りて自我偈少少よみ奉り 云々」
P1563
「御仏に供しまいらせて自我偈一巻よみまいらせ候べし。」
オマエの理屈だと大聖人も勤行をサボったらしい。w
P1568
「御菩提の御ために法華経一部自我偈数度題目百千返唱へ奉り候い畢ぬ。」
オマエの理屈だと大聖人は一部読誦しちゃった悪党だな。w
P986
「いよどのもあながちになげき候へば日月天に自我偈をあて候はんずるなり、恐恐。」
P1381
「御文に云く此の経を持ち申して後退転なく十如是自我偈を読み奉り題目を唱へ申し候なり」
P1467
「そのほどまづ弟子をつかわして御はかに自我偈をよませまいらせしなり」
オイオイ、大聖人が自我偈を薦めちゃってるヨ。
推して知るべきだ。早くクソスレ片付けろ。
オマエは方便の長行、寿量の長行を五座三座読誦してろ。
つか、読みたきゃ読みゃいいんだよ。好きにしろ。
自由だ。自由。
他宗が好きでやってるから、そっちが正しいとかどうでもいいしw
正邪は現証として表れるだろうね。
それが一番わかりやすいでしょ。
>>160-161 >調味料が無いと米の栄養がなくなる
→栄養以前に、「食べなければ」意味がない!
「食欲をそそる」役目も食事においては、重要だ。
栄養を取るだけなら、鼻とか、胃とかから、直接チューブを差し込んで取ればいい。
「日常生活で当たり前」と思ってることでも、それを失って初めて、その「ありがたさ」がわかるのだよ。
同様に、「親の恩」とか「伝統の力」も失って初めて、その「有り難さ」が知れる。
>>162←アフオ!
さぼり=懈怠誹謗=十四誹謗の内の一つと「勤行」=「弛まずに行う」とは、区別すべきだ。
もし、時間の都合がつかなかったり、体力的に出来なければ、しない方がいい。
「心こそたいせつなれ」(千日尼御返事)なのだよ。真心だよ。
「何とか誤魔化そう」「さぼろう」=池田創価学会流処世術と仏道修行とは、無縁だと知るべきだ。
>>163 >他宗が好きでやってる
大部分の学会員は、日蓮正宗の「御受戒」を受けている。
もし、それら信者が、誤った信仰をしてしまったら、「正しい信心指導」を行うのは、僧侶の当然の責任だ。
「他宗」を名乗るなら、日蓮正宗から拝借した「教義」「歴史」礼拝法」「御本尊」など
全て「きれいに」返却してから、「でかい口」を叩くべきだ。
「他宗」を名乗るなら、日蓮正宗から拝借した「教義」「歴史」礼拝法」「御本尊」など
全て「きれいに」返却してから、「でかい口」を叩くべきだ。
166 :
D.S鬼瑠◇ ◆T2ETDaxtSg :2006/07/02(日) 06:50:18 ID:H6r1o88n
>>158 『上トロ』 とか 『マグロノカマボコ』 って何ですか? (@_@)?
ちょっと知らないものでしたから。
( ̄▽ ̄;)
>>164 アハハ、もう迷走をはじめてるね。
「食べる」=「題目を唱える」に決まっとるだろう。
それともなにか?君は題目だけでは飽きると言いたいのかい?
ところで
「寿量品長行を読誦摺しないことは、謗法です」=「調味料が無いと毒になる」
これは撤回したのか?
「上トロ」とは、言うまでもなく、まぐろの部位です。
まぐおの「かま」とは、「和牛」の「霜降り」に当たります。
<参考>
1.腹節上(カミ)
一般的に一番おいしいといわれる部分で、お寿司屋さんで一番好まれる部位です。寿司屋の大トロといわれるのはこちらの部分です。
まぐろ自体の産地などにもよりますが、高級店の大トロはこの部分が使われています。
2.カマ
一般的にかまとろと呼ばれる部分です。
少数しか取れない貴重な部位で、牛肉の霜降りに似ています。特に触感がとろける非常においしい部位です。
http://www.megumi-suisan.com/regio.html
169 :
D.S鬼瑠◇ ◆T2ETDaxtSg :2006/07/02(日) 09:08:14 ID:H6r1o88n
ごちですたぃ。
(゜▽゜)ウマウマ〜。(想像)
失礼しましたぁ!
>>165 北山から盗んだ二箇相承で「でかい口」を叩いてる小宗の小僧が笑わせるなw
171 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/02(日) 16:11:08 ID:0NM8Kyr8
>>1 >>162の「自我偈だけの読誦」を述べた御文に対して一つずつ
「寿量品長行を読まない」悪をあなたの論調で論破してくれよ。
162は全て
>時間の都合がつかなかったり、体力的に出来なければ、しない方がいい。
なのか?w
もっともあなたは文証を示さない時点でアウトなのだが
>>32で
>など、僧侶の間でも、必ずしも、全部が全部、師匠から弟子へと「書かれたもの」だけが伝えられる
>わけではないのです。
自ら遠まわしに「文証は無い」と言ってるし。w
>日蓮信者として、信仰に励むのなら、できうる限り、日蓮大聖人の仰せの通り、信心
>するべきです。
自ら「日蓮大聖人の仰せの通り」と言ってるくせにさ。w
>何より、現在の私達が、過去に生きた者達の考え方を推し量るのには、想像力が必要です。
それ以降はあなたの想像・憶測→我見=計我という十四誹謗までしちゃってるし。w
カワイソ杉
172 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/02(日) 16:27:52 ID:VN8i2gCp
SGIの世界公布に向けて外国人の勤行を簡略化するためだよ。
173 :
大石寺蔵:2006/07/02(日) 18:54:59 ID:Nz1Tv8hy
逆に、でかい口きく前に、寄進してもらった土地、建物、御供養、その他返してから云うべきですね。
175 :
D.S鬼瑠◇ ◆T2ETDaxtSg :2006/07/03(月) 01:47:48 ID:rf8hnk7f
一貫百円の中トロ食べました。 最初少し酸っぱい感じで口に入れると溶ける。 回転寿司が精一杯、まぐろのかまぼこは来世で食べれるかな? 再来世かも。 ちょっと心配。
法華経の題目は年輪の様に月日や年月を重ね、年輪の線の内と外には謗法が存在するかも。
>>171-175 大石寺蔵さん DS鬼瑠さんへ
>世界公布に向けて外国人の勤行を簡略化するため
→困難に挑戦する「愉しみ」もありますね。
>寄進してもらった土地、
「御供養の精神」は、「交換条件」を出したら、供養する側、供養を受ける側、
双方とも功徳は消えますね。
そういう意味で、創価学会の謀略で「正本堂御供養金返還訴訟」を起こさせられている「学会員」
が哀れでならない。
供養に参加した学会員達は、「供養をさせて貰った」事実だけで、既に大変な功徳を受けたことを知るべきだ。
>まぐろのかまぼこ
極貧層が大多数を占める学会員に対して虚しい気もするが。
「まぐろのかまぼこ」ではなく「まぐろのかまとろ」だ。
極上のとろのことだよ。
一貫、五百円くらいではないか?
>>170 >北山から盗んだ二箇相承
邪教と成り果てた日蓮宗の輩か。
もし、北山が日興門下として、その独立性を主張し続けてきたのなら、
話も聞こう。しかし、その実態は、完全に日蓮宗化している。
他宗では、地位と名誉の象徴となっている「色衣」を易々と、纏(まと)ってしまったのが、北山だ。
最期まで、権力と世間的名誉に抗し続けた、宗祖日蓮大聖人への面汚しとしかいいようがない。
私は、長年、何故、甲斐の武田信玄家臣が、「二箇相承」を強奪したのか、疑問だった。
だが、よく考えれば、甲斐とは、身延山の本拠地。
恐らく、嫉妬に狂い、悩乱した日蓮宗信徒が「どさくさ」に紛れて、強奪したのだろう。
「歴史を書き換えよう」とする行為は、創価学会同様、「成り上がりもの」がよくやる手口だ。
他人の悪口や勲章が大好きな創価学会員が、心して拝読するべきです。
●日女御前御返事
【建治三年八月二十三日、日女、聖寿五十六歳】
『此の御本尊全く余所に求る事なかれ。只我れ等衆生の法華経を持て、南無妙法蓮華経と唱ふる胸中の肉団におはしますなり。是を九識心王真如の都とは申すなり。
十界具足とは十界一界もかけず一界にあるなり。之に依て曼陀羅とは申すなり。 』
『日蓮が弟子檀那等「正直捨方便」、「不受余経一偈」と無二に信ずる故によつて、此の御本尊の宝塔の中へ入るべきなり。たのもし、たのもし。如何にも後生をたしなみ給ふべし、たしなみ給ふべし。穴賢。
南無妙法蓮華経とばかり唱へて仏になるべき事尤も大切なり。信心の厚薄によるべきなり。仏法の根本は信を以て源とす。 』
179 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/17(月) 07:39:19 ID:D7x7yLxc
今の層化は読むべき
僧の恩をいはゞ、仏法・法宝は必ず僧によて住す(御268)
26世日寛上人は
「当家三衣抄」に「南無本門弘通の大導師、末法万年の総貫首、開山・付法・南無日興上人師。南無一閻浮提の座主、伝法・日目上人師。嫡々付法歴代の諸師」(六巻抄225)とあり代々の上人猊下を僧宝として敬うべきである。
180 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/17(月) 11:54:32 ID:D7x7yLxc
層化の勤行に過去の法謗罪障消滅がないけど、過去はどうでもいいの?
>『九識真王真如の都』
>どういう意味でしょうか。
→久しぶりです。ずっと、忙しくて、ネットから離れてました。
語句の解説だけなら、他のサイト名を教えれば済むことですので、
自分の考え、知ってる範囲を書き込みます。
『九識真王真如の都』とは、あらゆる人間、否、生物、無生物も含めて、宇宙に存在する全ての「もの」に具わっている、「尊極の仏界」のことです。
私達が拝んでいる「御本尊様」の中央に「でんと」構えている「南無妙法蓮華経」こそ、
『九識真王真如の都』です。
御本尊には、十界が描かれていますが、その都=お題目の回りには、様々な「愚かで」「欲深く」「憤り」に満ちた生命が蠢いてます。
ですが、その「汚らしい生命」も「仏の命」に照らされることで、本来の尊形を顕わすというのが、御本尊の意味です。
それが、『九識真王真如の都』だというのです。
ヴィクトル フランクルというユダヤ人の精神科医は、第二大戦中の強制収容所の体験を「夜と霧」という本にまとめました。
彼によれば、人間が「最低最悪」の状況に置かれても、神々しい「他人を思い遣る心」が「自己を犠牲にしても」発揮されるのを観察したといいます。
彼は、全ての人間の内面に具わる「絶対的良心」=ロゴスに目覚め、その存在を信じることが、希望を失わない「手だて」だと訴えています。
その「ロゴス」とは、『九識真王真如の都』に近いものだと思います。
話が逸れたようですが、私が言いたかったのは、「日蓮大聖人が仏道修行をしたように、
現代の信徒も従うべきでは?」ということです。
法華経寿量品は、流麗な漢文で書かれていて、音読すると、それだけで「楽しく」なります。
般若心経は、有名な仏典ですが、聞いてるだけで、「気持ちが沈んで」いきます。
日蓮大聖人は、毎日の所作で寿量品を読誦することを当然のように書いています。
日蓮宗や創価学会は、寿量品自我偈だけの、短略形を用いていますが、
「懈怠誹謗」であるのは無論ですが、「せっかくの功徳」=寿量品長行読誦の利益を「みすみす」
逃してるのです。
特に「我本行菩薩道」の句は、朝晩の勤行で、声を出して。確認しあいたいものです。
173
大石寺を利用して、折伏した背景も忘れずに。
新興宗教とは区別できたのは、日蓮正宗大石寺七百年の
歴史があったからでしょう?
教学やご本尊そのものが、日覚上人に由来するものでしょう?
持ちつもたれずの関係が学会と大石寺だったはず。
185 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/22(土) 08:11:47 ID:3bjyiC8n
層化が長経読んでみたところで、偽本尊を祈る法謗の事実は消えない。
だから短縮の怠慢だろうが関係ない(笑)
ではなぜ自我偈を書いて送ったりしたのだろう
謗法推奨?
>>182 日蓮大聖人は般若心経を読んでも来は沈まなかったですよ。
身延に入ってから弟子達に処経や摩訶止観の御講義をしていた記録がある。
親心子知らずもたいがいに。
>>187 →「自我偈」というお経はありません。
「自我偈」は、妙法蓮華経如来寿量品第十六の偈です。
日蓮大聖人は、できれば、全体を読誦したかったのでしょうが、
あくまで形式として「自我偈」を送ったのです。それを「存略」と言います。
すなわち、全体の内容を踏まえた上だったのです。
日蓮宗や創価学会は、ただ単なる省略ですから、それは、「欠略」というのです。
「懈怠誹謗」に当たりますから、最初から何もしない方がいい、ということになるのです。
>>188 信仰があるかどうかですよ。
それが根本です。
>>189 それはそう「推察」してるだけでしょ
なにを根拠に「存略」「欠略」を判断しているのですか?
どの御書に書いてあるのですか?
次の御書は、在家女性信者に与えられたお手紙である。
当時、女性の地位が向上したといっても、月経中の女性は仏道修行にとって、「不浄」とされがちだった。
それでも、最低限、寿量品長行を読誦しなさい、と激励されている。
●月水御書
『法華経は何れの品も先に申しつる様に愚かならねども、殊に二十八品の中に勝れてめでたきは方便品と寿量品にて侍り。余品は皆枝葉にて候なり。
されば常の御所作には、方便品の長行と寿量品の長行とを習ひ読ませ給ひ候へ。』
これから推察されるのは、たとえ在家であろうと少なくとも、法華経長行読誦は、日蓮門下では常識だったのだ。
また、●曽谷入道殿御返事
『此の経の文字は皆悉く生身妙覚の御仏なり。然れども我等は肉眼なれば文字と見るなり。
例せば餓鬼は恒河を火と見る、人は水と見る、天人は甘露と見る。水は一なれども果報に随て別別なり。』
と仰り、日蓮大聖人が「省略」した形のみを推奨された筈もない。
>>193 スレタイの通りなら、一品二半自体が大いに謗法と言う事に成ってしまうが如何か。
貴方は曼荼羅の御前に「二十八品」を経箱に収め御安置されているのかな?
日蓮は確か、法華経二十八品の御文字一字一字が仏であると仰せであった筈だが。
日蓮の教えを擁するのなら、日蓮の所業を厳格に検証するのも御弟子末流の務めかと存するのだが。
もし、「広略要」を云々すると言うなら、それは「化儀」上の問題であり実際の所作の事では無かろう、と加えておく。
日蓮の存命中に明らかではなかったものが、祖師入滅後日興以降に明文化されたものが殆どと言うのもおかしな話だ。
一、曼荼羅正意。
二、像仏造立不要正意。
三、日蓮本仏正意。
四、一品二半正意。
五、日興第二祖正意。
これ等は全て、日興系富士門流独特の「ドグマ」だと言える。
私は日蓮宗も安易に擁護しない立場ではあるが、750年の因習を打ち破ろうとしている姿勢は大いに賞賛できると思う。
その一つが、「久遠実成の釈迦本仏」だと言える。
日蓮を本仏と立てた時点で「三宝破壊」も甚だしく、既に仏教ですら無いのである。
如何か。
法華経寿量品には、 事の一念三千・三大秘法の妙法が秘沈されている。
日蓮大聖人は「我本行菩薩道 所成壽命 今猶未盡 復倍上数」の本因初住の文底に秘沈されている、と明かされている。
この「我本行菩薩道」の本因初住の文は、自我偈ではなく寿量品の長行中にあるのである。
●如説修行抄
『所詮仏法を修行せんには人の言を用ふべからず。只仰て仏の金言をまほるべきなり。 』
●開 目 抄
『一念三千の法門は、但法華経の本門寿量品の文の底にしづめたり。
竜樹・天親知てしかもいまだひろいいださず、但我が天台智者のみこれをいだけり。
』
196 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/15(火) 01:21:49 ID:9HqkAHTq
大白法 大正10年から11年に、1座・4座・6座・7座の勤行があったと書いてありました。
有師聞書注解
197 :
黒川和雄:2006/08/15(火) 01:29:01 ID:???
糞れいな!頑張っておるのぅ〜
>>195 なるほど、良く勉強されていますね。
富士門流の教義上では最早「定型文」とも言える切り替えし、お見事です。
件の文は成るほど「筋」は通っている様に見えます。
しかし、引用の遺文に聊かの問題があります。
是を機会に検証されて見ては如何でしょう。
先ず、如説修行抄。
是は所謂上代諸師写本に類するもので、日尊写本・日朝写本のみ存在し真蹟が有りません。
いつから無いのかも解っていません、最初から無いと言われても仕方が無いものです。
早い話、「真偽未決」故に参考程度にしかならない代物な訳です。
次いで、開目抄。
是は五大部に属するほどの重要書な訳ですけど、これほど重要な書で有るが故もっと慎重に検証されて方が宜しいかもしれません。
何故なら、「真蹟が明治8年の火災まで身延山に存在していたもの」と言う事であり、開目抄全文を認める姿勢は即ち、
「身延系の諸説」も認める事になる訳です。
大石寺にある筈の「日興写本」は要文断簡だそうで、全文写本は京都本満寺所蔵の日乾写本が底本だそうです。
日蓮法華宗宗祖の言葉が、途中で曲げられていないかどうかを検証するのは、大変重要な事かと思われます。
この意義を無視すれば即ち、曲解カルト宗と言わざるを得ないと思う訳です。
アフォ!
日蓮大聖人が在世の頃は、コピー機などなかった。
それで、主に弟子達が、「写本」をした。
特に重要な御書は、複数の弟子が写本した。
確かに、「真偽が定かであない」御書はある。
しかし、日蓮大聖人の「人と思想」という観点から、もし、その書に日蓮大聖人の人格
が投影されてるとしたら、それを「参考」に拝読することは許されるべきではないのか?
一々「権威者」が真偽を定めるとすれば、ヨーロッッパ中世のように、「聖書を読めるのは
聖職者だけ」となってしまう。
創価学会的な「自由=我が儘」な解釈を許すというのも頂けないが、
何より、個人こじんが宗祖日蓮大聖人の魂に直接触れる作業というのは
信仰上、最も大切なことだと思う。
続
例えば、私が最も好きな御書に「船守弥三郎許御書 」がある。
この御書は、専門家によれば、「偽書」と決定しているらしいが、
その内容を鑑みれば、日蓮大聖人の法門の根本が説かれているように思える。
「諸法実相抄」の内容を実際に身読しているのである。
さらに、ここでも日蓮大聖人は、寿量品長行にのみ現れる「語句」に言及している。
日蓮宗や創価学会が採用している勤行形式だと、この語句は読まない。
日蓮正宗のみが、宗祖の遺志を正確に後世に伝えているのである。
『過去久遠五百塵点のそのかみ(当初)唯我一人の教主釈尊とは我等衆生の事なり。法華経の一念三千の法門、常住此説法のふるまい(振舞)なり。
かかるたうとき法華経と釈尊にてをはせども、凡夫はしる事なし。寿量品に云く「顛倒の衆生をして近しと雖も而も見えざらしむ」とはこれなり。 』
訂正
>>200 例えば、私が最も好きな御書
↓
例えば、私が最も好きな御書の一つに
●経王殿御返事
『日蓮がたましひ(魂)をすみ(墨)にそめながしてかきて候ぞ。信じさせ給へ。』
●木絵二像開眼之事
『法華を心得たる人木絵二像を開眼供養せざれば、家に主のなきに盗人が入り、人の死するに其の身に鬼神入るが如し。 』
●船守弥三郎許御書
『過去に法華経の行者にてわたらせ給へるが、今末法にふなもり(船守)の弥三郎と生まれかわりて日蓮をあわれみ給ふか。
(略)べし。
我等衆生無始よりこのかた生死海の中にありしが、法華経の行者となりて無始色心本是理性、妙境妙智金剛不滅の仏身とならん事、あにかの仏にかわるべきや。
過去久遠五百塵点のそのかみ(当初)唯我一人の教主釈尊とは我等衆生の事なり。法華経の一念三千の法門、常住此説法のふるまい(振舞)なり。
かかるたうとき法華経と釈尊にてをはせども、凡夫はしる事なし。寿量品に云く「顛倒の衆生をして近しと雖も而も見えざらしむ」とはこれなり。 』
204 :
転載:2006/09/14(木) 16:37:22 ID:???
5座3座について
26世日寛上人も、
若堪タラン人ハ本山ノ如ク相勤ヘシ爾ズンバ十如自我げ題目ナリトモ5座3座ノ様式守ヘシとあります。
どんなに遠くの信徒や忙しい人も可能な限り5座3座を行い、出来ない場合には方便品の十如是までと寿量品の自我げに略してでも5座3座は守れと仰せられている。
化儀については、当流行事抄に
「但我富士のみ蓮祖所立の門流なり、故に開山巳来化儀・化法全く蓮師の如し」6-19
相伝に有らざれば知り難し(御書92)とあり、御書の面しか見る事の出来ない不相伝家には知り難き伝承と言える
とある。
つまりSGI勤行などとやり方を変える事は謗法なのです。
いくつかのスレに池田大作著 広布と人生を語るの文をコピペしたが、
いかなる理由があろうとも教義を変える事は日蓮大聖人の教えに背い
つまりSGI勤行などとやり方を変える事は謗法なのです。
いくつかのスレに池田大作著 広布と人生を語るの文をコピペしたが、
いかなる理由があろうとも教義を変える事は日蓮大聖人の教えに背いている事を知れ!