>ひゃっきまるさん 乾闥婆さん
ご無沙汰していて申し訳ありませんでした。後からまた、詳しくレスを書かせて頂きますね。
ひさしぶりに乾闥婆さんの書き込みが読めて嬉しかったです。内容にも感動しました。
>>446さん
なかなかお返事が返せなくて申し訳ありません。
> 同じく鎌倉武士に受け入れられた、禅宗の一期一会的思想に繋がるののかなあ
なるほど確かに。非常に的確で興味深いご指摘だと思います。これについて私もまた、後日思うところを書いてみたいです。
レスをありがとうございました。お返事が遅くなって本当にごめんなさいです。m(__)m
>>703 >>704 宗教への寛容性についてレスいたします。
春田の蛙さんが僕の言いたい以上のことを言ってくれたので、ほとんど付け加えることはないのですが…。
まず、僕は他の宗教を批判してはいけない、とは思っていません。
僕自身が創価学会や日蓮正宗の独善性、排他性を批判していますし、オウム真理教なども悪質な宗教であると思っています。
ただし、宗教について批判したり宗教について論じたりするときには、その根底に、信仰者の信仰心そのものについての敬意がなければならないと思っています。この敬意が、僕の言う「寛容」の意味です。
例えば、「日本人は最も優れた民族であり、ほかの民族は劣っている」とか「カントは最も優れた哲学であり、ほかの哲学は劣っている」などという言い方はしなくても、民族の違いについて議論することは可能だし、思想の優劣について自分の主張を述べることは可能です。
ただし、こういった議論をする前提として、自分以外の存在や考えに対する尊重の気持ちがなければ、単なる差別になってしまうと思います。
自分の主張を述べるとともに、相手の立場も想像して話をするということです。
日蓮の「唯一性・排他性」を持つ主張は、宗教的な意味ではありますが、非常に論理的で、また、厳しい客観性を求めるものでもありました。
ですから、彼の生きた鎌倉時代においては、それなりに説得力を持つ考えであったと思います。その証左として、日蓮は積極的に法論を求めたと言われています。
しかし、現代に生きる我々が、日蓮の主張を、その根拠が仏教史から見て根底から崩れているにも関わらず、教条的に信じ続けることは、かえって日蓮の意図に沿わないように僕は思っています。
>>707 春田の蛙さん
早速のフォローありがとうございます。
レスは無理しないでくださいねw
>>705-706 他宗教にも自宗教と対等の真理や普遍性はあるのだ⇔「でも、ここは本当におかしい。間違ってる」という適切な批判
矛盾した論理。
全体を通じて云えるのは貴方は”基準”を認めない。基準がなければ批判もできない。
>そんなこと言うけど、じゃあお言葉に甘えて創価学会や日蓮正宗の過ちを厳しく指弾したら
過ちの基準は?そもそも”厳しく指弾”する理由は?
答えは貴方が実践し自分でも書いている
>非常に排他的で独善的なダブルスタンダード
です。
要は”我々アンチ”さまは”独善的な態度に陥ってしまうことが多い”のです。
>そんなこと言うけど、じゃあお言葉に甘えて創価学会や日蓮正宗の過ちを厳しく指弾したら、
貴方は実践し書き逃げをしていますね。
>自らの過ちから目を背けることで、その正しさを擁護し、そんな間違った“正しさ”にすがって他を非難する。
貴方が愚にもつかないWebサイトを盲信し実践していることですね。
>我々アンチも含めた、人間全てが陥りがちな過ちですけどね。
判っているなら中立の立場で是々非々のカキコをしてみたら如何かな?
>>710 もうちょっと分かりやすい書き込みをしないと、何が言いたいのか全く分からん。
とりあえず落ち着け。
>>711 春田の蛙氏のカキコも彼がこれまでしてきたことも自語相違だらけ。
>他宗教にも自宗教と対等の真理や普遍性はあるのだ
真理や普遍性が対等なら「批判」は有り得ない。
>「でも、ここは本当におかしい。間違ってる」という適切な批判
これは上記引用と矛盾したカキコ。
要は”我々アンチ”さまは”独善的な態度に陥ってしまうことが多い”のです。(「”」は春田の蛙氏からの引用。)
>そんなこと言うけど、じゃあお言葉に甘えて創価学会や日蓮正宗の過ちを厳しく指弾したら、
彼は仮定形を用いているが実践して信仰者を舐めた傲慢不遜の態度をとっている。
議論をせず書き逃げをした前歴がある。
彼は批判の為の批判をするサイトから引用し宗教批判をしているがそれを盲信と呼ぶ。
そのサイトの主張は間違いと判明した部分もあれば議論続行中で現在まだ結論が出ていない主張もあるからだ。
議論は学術的な学界で行われている。
春田の蛙氏は教義解釈以前に基礎的な歴史知識も持っていない。
713 :
711:2008/11/23(日) 02:10:20 ID:???
>>712 ごめん、やっぱり言いたい事が良く分からんwww
池田大作が朝鮮部落出身のクセに名誉会長なんかやってて巻き上げた金を地下銀行や
朝鮮総連経由で犯罪国家北鮮へ不正送金してるインチキ汚物基地害外道邪教低脳
カルト狂団ク創価学会の学会員や幹部連中の癌細胞クズ野郎は早く死ねよwww
池田は不正送金罪で逮捕されろよwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
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神仏板へ出て来てスレを荒らしたり糞スレなんか立てるな!!!
>>706 >日蓮正宗のやってる同じ過ちへは、直視出来ずに目を背けているのと同じです。
>自ら(の属する宗派)の過ちから目を背けることで、その正しさを擁護し、そんな間違った“正しさ”にすがって他を非難する。
不良さんについて言えば、たぶんちょっと違うと思う
彼は、まず創価学会の組織的なあり方に辟易したんだろうと思います
学会は人を癒し育むと宣伝しているのに、実際のところ学会は会員を傷つけ疲弊させているだけだ、と
ここから”宗教は人の幸福のためにあるはずなのに、学会のあり方は人の幸福のためになっていない”
というテーゼになっていたんです(ただ幸福の定義によっては、このテーゼは是非が別れます)
そして、あっちのスレにいる唯物論に立脚するアンチと彼の違いは、彼には宗教体験があったことです
だから彼は題目信仰そのものは捨てない
(従って唯物論で彼を単純に批判したところで信仰を捨てさせることはできないでしょう)
彼が立脚する批判と正しさの根元は”今のところ”日蓮正宗への盲信にあるのではなく
おそらく「人を傷つけ疲弊させる創価学会のあり方」と「自身の信仰体験」にあるのです
あと創価学会の本尊が偽物であるという批判そのものは、正宗の信仰者の立場に立つ必要はないはずです
”創価学会は本尊を重視し、自派の本尊は正しいとしているが、
それは日寛さんの本尊を正確に写したものではなく、改竄されたものである
改竄された本尊は正しい本尊とは言えないし、改竄したことを会員に秘密にするのは裏切りだ”
>>711 たぶんね
蛙さんは、
正宗の戒壇本尊は日蓮さんの製作ではなく、後世に作られたものだ
という主張で、その根拠は犀角独歩さんのサイトが根拠になっているらしい
蛙さんを批判している人は、
犀角さんのサイトで上げられる根拠は万全ではなく、誤りであると確定した根拠や、
学会で係争中のものもあり、学問的には真偽未決の状態という主張
で、学問的(客観的)に真偽未決であるのに、それを偽物と決めつけて批判するのは
本物であると決めつけて肯定することと同レベルの過ちを犯している
それは「客観的な立場で論義しましょう」という立場に立ちたいなら、ダブルスタンダードではないか、と
>で、学問的(客観的)に真偽未決であるのに、それを偽物と決めつけて批判するのは
>本物であると決めつけて肯定することと同レベルの過ちを犯している
より正確には
学問的(客観的)に真偽未決であるのに、それを偽物と決めつけて批判するのは
たとえ真偽未決であっても本物であると信仰することと、同じ信仰レベルの見解である
かな
寛容さについて言えば、信仰の自由はありますよ
でも、組織的に犯罪をやらかしたり、
組織的に信仰者に虚偽を教えたり、危ないマインドコントロールを掛けたりするような宗教は、
その部分に於いて批判されるべきですよ
>>705>>708 レス遅くなり申し訳ありません。
私がなぜ「他の宗教に対する寛容性」は無関心を引き起こすと書いたかというと
どんな宗教教義(例えオウム教義)でも寛容であるべきで、批判するべきでないと言う意味にとったからです。
そうならばオウムのような宗教があってもどうでもよい、自分さえ幸福になればよいんだという
他人、社会への無関心を引き起こすのではないかと思ったからです。
でも実際はそういう意図でなく言うべくときに批判するのはよいけど
その場合相手の立場になり謙虚に話をしないと相手は聞く耳もたないから
話し合いにならないよと言いたいのですね?
これは他宗教の友人との対話ならばお互い個人を尊重しあい対話をするのはよいと思います。
これは他宗教に寛容ということでなく、人間に対しての寛容ということだと思います。
>でなければ、上から目線で『ホントは俺の宗教が一番勝れてるんだが、
>まぁ一応、オマエの宗教も表面上は認めてやるよ』と言ってるだけということになってしまいます
これはその宗教の教義の質によると思いますよ。
オウムやエホバ信者に対して心から認めることはできないでしょう
あくまでも宗教教義においての寛容と人間に対しての寛容は別だと思います。
>>718 何処の宗教の方ですか?
>>719 レスありがとうございます。
おそらく同意見なのではないかと思います。
僕は、宗教に対して語ることがタブーであるかのような状況がなくなればよいと思っています。
創価学会の本尊改竄やその他の問題にしても、一般的に明るみに出にくいことが、より問題を解決困難なものにしていると思います。
なぜ宗教を語るのがタブーであるかを考えますと、それが一種の差別や偏見、つまり弱い者いじめの構図を生むからではないかと思います。
しかし、信仰とはどのような場合であれ、尊いものである、という共通見解があれば、積極的に宗教について語り合うことが可能ではないかと思っています。
>>701-702 ひゃっきまる ◆xuSOULGIL.
亀レス申し訳ないです
> 不良さんが日蓮教学の矛盾を十分に理解した上で、それでも信仰する、というのは、僕はむしろ立派なことだと思います。
> ただしそれは、他の宗教に対する寛容性がなければいけないと思いますが。
なかなか難しいところですね
日蓮仏法において、教学的見地から他宗の教えを学ぶことは謗法ではありませんから、仏教学や神学を学ぶことも
問題は無いだろうと思います
ですが、俺の立場は「在家」であり、出家僧侶ではありません、そこまで学ぶ必要性を感じていません
ただし、それは他宗を否定するにあたってはそうはいかないと思います
創価の続ける折伏大行進のような強硬な破折を行うのであれば、何故、真言宗や禅宗が過ちであるのか、相手を
十分に納得させるだけの題材が必要でしょうし、その人の信条を闇雲に否定することは人格をも否定する行為だと思う
からです、その理由には宗教思想はその人の人格形成に強く関わっているからです
自分が創価を信じていたときに論理的に、教学的に否定されたときの衝撃は大変大きかったことが思い出されます
あなたの仰るように、教義の正当性を主張したとして、それは直ちに正しいとは言えませんしその考えは俺も否定的です
ですから、富士門流における折伏・破折に対しては積極的になれない部分が多分にあります
化他行を行わないことは教義に反する行為ですが、そこには現代常識となっている宗教のテーゼが存在します
「宗教とは自身のために行うものであり、信教の自由は侵されない」ということです
相手に宗教を「勧める」のは信教の自由を侵さないでしょうが、それを「強要する」ことは明らかに自由を侵します
執拗に家に押しかけて「勧める」ことはもはや強要と変わりないものと考えます
> 他の宗教を信仰している人にとっても、その信仰がとても大切なものであると理解する態度が必要だと思います。自分にとってもそうであるように。
そうですね、俺もそう思います
相手への尊厳を否定してまで行うことは明らかにおかしいだろうと思います
相手を自分の立場に置き換えれば分かることですね
相手が無宗教であろうと、それは変わらないだろうとおもいます
(続く)
>>701-702 ひゃっきまる ◆xuSOULGIL.
(続き)
> 渦中にいる人たちにとっては、日蓮正宗と創価学会の争いを、俯瞰的に見れるくらいの心の余裕はなかなか持てない、というのが現実かも知れません。
> 僕も、「敵を作ることで団結する」「攻撃することで過ちを隠ぺいする」ような卑怯なことは本当に許せないと思います。
仏教とは人の不幸を祈るような呪詛をおこなうなど御法度の筈なんです、宗門問題を見ていればそれがよくわかります
端から見れば「どっちもどっち」だろうとおもいます、俺もそう思います
創価に売られた喧嘩を宗門は買っている部分もあります、日顕上人否定をする創価同様に、池田氏否定を行う宗門も
同様に思えるからです
俺が日蓮正宗を選んだのは最初は「賭け」でした、本当に宗門が創価の言うようなところであるのかどうか、確かめねば
ならない、なにより俺にとって教団と信仰とは必ずしも一致しないだろうという自分の信念によるものです
宗門には少なからず、創価のように宗門問題をはじめ、自分たちにとって不都合な情報を隠蔽していません(全てを公開している
かどうか知るすべはありませんが)、都合の悪いことも公開してます
いっぽうで、創価は全てに完全勝利、全く過ちはない!と今もなお断言しています、この嘘で塗り固められたところ、
そこが納得できないところであったといえます
結果、自分にとって信念ある信仰を行えるのは日蓮正宗であろう、そういう結論に至ったわけです
> 仏とは完全無欠で過ちのない存在かといえば、違うと思います。
> それでは、神様になってしまいます。
神仏とは完全無欠の存在であるという固定観念をずっと持ち続けていたことは事実です、かくて大聖人は普通の庶民であり、
漁師の子供でした、如何に自分が仏であると悟ろうとも、過ちもあるでしょう、そこをもっと人間的に捉えれば自然と答えが
出るということに気づくのに時間がかかりました
時代に対して普遍的で完全な宗教思想などはあり得ません、富士門流に至れば化儀として時代や場に則った教えに
解釈を変えていきます
これが一意に決まるものとは到底思えませんから、それを機に異流儀が出来たりすることもありうるでしょう
>>721 >化他行を行わないことは教義に反する行為ですが、そこには現代常識となっている宗教のテーゼが存在します
>末法に入つて今日蓮が唱ふる所の題目は前代に異なり自行化他に亘りて南無妙法蓮華経なり
(三大秘法抄)
唱題は自行であり化他行。自行即化他。唱題による化他とは廻向のことだ。
この義は通常は自行=唱題、化他行=折伏、とのみ教えられるが上記の義も御指南にある。
>「宗教とは自身のために行うものであり
つ依正不二
折伏とは慈悲行であり強要とは異なる。
>>721 不良さん
>創価の続ける折伏大行進のような強硬な破折を行うのであれば、何故、真言宗や禅宗が過ちであるのか、相手を
>十分に納得させるだけの題材が必要でしょうし、その人の信条を闇雲に否定することは人格をも否定する行為だと思う
>からです、その理由には宗教思想はその人の人格形成に強く関わっているからです
まさしくその通りだと思います。
僕は、どのような信仰を持っている人も、謙虚な気持ちで他の信仰について学ぶならば、自分の信仰について学ぶ
よりも多くのことを学べることがあると思っています。
>化他行を行わないことは教義に反する行為ですが、そこには現代常識となっている宗教のテーゼが存在します
僕も創価学会二世ですから、信仰で非常に深く悩んだことがありました。
しかし、日蓮仏法や法華経への信仰というのは、もっとずっと普遍的なものなのではないか、と思い到ったとき、気持が楽になりました。
特定の宗教や教義が正しいとしなければならないとすれば、そこにどうしても矛盾が生じ、矛盾が信仰者を苦しめます。
これでは、信者のための組織ではなく、組織のために信者があるようなものです。
例えば、不軽菩薩のふるまいは、宗教というよりは「信念」「生き方」と言えます。
これは、ある宗教を広める、というよりもずっと普遍的な行動と僕には思えます。
そのような「生き方」を広めることも、化他行とは言えないでしょうか。
自分の本当の心に蓋をして、なんでも宗教の言葉で自分や他人の人生を解釈して、いつまでも終わることのない、ちっぽけな教団とちっぽけな教団の喧嘩に気を揉んで、狭い世界に生きるよりも、今はずっと自由な心持ちです。
>>708 ひゃっきまる ◆xuSOULGIL.
レスありがとうございます^^
> 日蓮の「唯一性・排他性」を持つ主張は、宗教的な意味ではありますが、非常に論理的で、また、厳しい客観性を
> 求めるものでもありました。
> ですから、彼の生きた鎌倉時代においては、それなりに説得力を持つ考えであったと思います。その証左として、
> 日蓮は積極的に法論を求めたと言われています。
立正安国論などを見ると、日蓮大聖人の教えとは実に排他性が強いように思います、またこれを文上で
解釈するならば、信教の自由は奪われますし、結果として国教とすることこそが正しいとも取れます
実際問題として、俺の知る正宗時代(宗門問題以前)の教義において広宣流布とは、天皇が開かずの扉を
開いたときであって、人類の殆どが信徒ないし理解者となっている暁です
この解釈のままでは当然ながら、日蓮仏法は過去の遺物であり、現代に相通ずるものでは無いように思えます
大聖人といえども、700年後の現代の政治状況を把握することは出来ませんでした
化儀とは、つまり今の時世において如何に布教を行うか、法華経を学んでいくかであり、その文底解釈は
一意でなければなりません
その一意性を決めるのは指導者ということになってしまい、つまりは創価ならば池田氏、宗門なら御法主上人に
なるわけですが、異流儀の数だけ解釈は存在してしまいます
歴史的経緯から大聖人の教え「のみが」正しいと定義づけることは実に難しいことですし、俺はその排他性には
否定的です
「いいとこ取り」であるのは確かですが、完全無欠の宗教などあり得ないと思うからです
ただし、信徒というのは自らの意志で教義を学び、実践していくことこそが自行・化他だとおもうのです
> しかし、現代に生きる我々が、日蓮の主張を、その根拠が仏教史から見て根底から崩れているにも関わらず、教条的に
> 信じ続けることは、かえって日蓮の意図に沿わないように僕は思っています。
今、大聖人が健在であるなら、教義は間違いなく変わっているでしょう、それを鑑みるにあなたのおっしゃる通りで
あるとおもいます
>>706 春田の蛙 ◆j/aD5mpE9Y
> 例に挙げて申し訳ないけれども、不良学会員さんが創価学会の本尊へは偽物と度々非難しながら、
> 日蓮正宗のやってる同じ過ちへは、直視出来ずに目を背けているのと同じです。
> 自ら(の属する宗派)の過ちから目を背けることで、その正しさを擁護し、そんな間違った“正しさ”にすがって他を非難する。
いえ、日蓮正宗の過ちも認めています
日蓮大聖人、日興上人から血脈相承により今の日如上人まで続いた御上人ですが、この歴史の中で一回として
過ちがなかったり伝承されるべきものが曲げられたことがないとは思えません
御法主上人ご本人の御意志にかかわらず、教義が化儀として結果、歪曲された可能性も否めません
御宗門は謗法を厳然と禁じていると同時に、他宗の寺に墓を持っている事を謗法とはしていませんし、有師化儀抄の中にも
そうした趣意があります
とはいえ、創価学会をとことん否定しつつも御宗門をさほど否定しないことには二つの理由があります
1つに、仮にも法華講となった以上は信徒として御僧侶や御法主上人を尊敬していくべきであるという信条とともに義務があり、
もう一つに自らが所属する宗派を否定することは所属する意味を失い、信仰心としての意味が薄れるという理由にあります
>
>>696-697を読む限りでは不良学会員さんも、薄々は自分自身で分かっていらっしゃるように、これは創価学会員のやりがちな過ちと
> 同じです。より正確には、“創価学会員が”というよりは我々アンチも含めた、人間全てが陥りがちな過ちですけどね。
言葉足らずでしたが、俺が日蓮正宗を選んだのは信仰心の上から、その上で富士門流を捨てることは出来ない、
しかし創価学会は明らかにおかしい、顕正会など論外、正信会は廃れる一方、日蓮正宗は知りうる限り日蓮正宗創価学会時代と
そう変わりがないという理由です
こう書いてしまうと、あまりにも素っ気ない理由のようですが、俺にとっては実に深刻な問題でした
創価学会の教義が池田哲学に歪曲されていることは明らかであるのに、自分が思う正しい信仰が行えないことへの反感です
つまり、初心に戻って本来の信徒の形に戻ったのです
俺は生まれながらの学会三世ですが、信仰心においては日蓮正宗に近く、創価学会の池田氏崇拝はではありませんでした
>>725 立正安国論は真の民衆救済と恒久平和へ至る道を説く。
立正とは爾前迹門の謗法対治で実現するもので敢て不幸になる”信教の自由”を認めないのが慈悲だ。
>俺の知る正宗時代(宗門問題以前)の教義において広宣流布とは〜
既に宗創共に「舎衛の三億」が広宣流布の定義であり勅使門を通るのは時の法華講総講頭(即ち池田氏)と
謙虚に主張していた。
貴方の解釈は妙信講問題以前の定義だ。
>大聖人といえども、700年後の現代の政治状況を把握することは出来ませんでした
佛は三世を見通す。
>今、大聖人が健在であるなら、教義は間違いなく変わっているでしょう
大聖人は滅不滅本有常住の御本佛だ。化儀は変っても化法(佛法そのもの)は変らない。
>>726 春田の蛙氏の主張論ずるに値せず。
>>725 不良さん
ところで、携帯から見ると引用文と本文の区切りが分かりにくいので、間に一行空けるようにしてもらえるとありがたいです(^^;
>立正安国論などを見ると、日蓮大聖人の教えとは実に排他性が強いように思います、
>またこれを文上で解釈するならば、信教の自由は奪われますし、結果として国教と
>することこそが正しいとも取れます
不良さんのお話は至極もっともだと思います。
僕は、そもそも「宗教」というものが、当時と現代では社会的に全く異なったものであることに根本の原因があると思っています。
鎌倉時代においては宗教は実際に国を守る礎、要として認識されていたでしょうし、だからこそ「折伏」という強い手段をもってしても、正しい教えを広める、という考え方が自然だったのでしょう。
例えば、現代において、世界中に悪性のウィルスが流行したとしましょう。
その予防薬をある一人の研究者が気づき、自説の正しさを強い口調で主張し、法律的に予防注射を義務付けるように政府に主張したとして、何も不自然な点はありません。
また、実際にその処置が正しいと言えるのか、客観的な検証が行われ、多くの議論、多くの批判意見が出るのは望ましい、というか絶対必要ですね。
昔における宗教とは、そのようにとらえられていたのだと思います。
(続く)
>>725 不良さん
(続き)
現代における宗教とは、「(1)理論や実験で客観的に正しさを追求できる」ようなものでもなければ、「(2)実際に「オカルト的な」力を持っているもの」だとは、常識的にはみなされていません。
「オカルト的な」力とは、「超自然的な力によって」罰が当たるとか、逆に功徳があるとか、というものです。
現代では、(1)や(2)が信じられていないからこそ、「信教の自由」が保証されているのでしょう。
もし、(1)や(2)を誰もが納得できる形で提示できれば、信教の自由などと言ってる場合ではありませんから、法律など変わって当然ですし、古典的な意味でいう広宣流布は十分可能、やるべきだと思います。
創価学会や、日蓮正宗では、(1)や(2)を信じている人も多いでしょうから、世間との意識のズレが摩擦を起こすことになると思います。
僕は、(1)や(2)を信じている人は、それが本当に現代において主張できるのかどうか、徹底的に追求してみたらよいと思います。
>>729 本当に創大出身の二世なのだろうか・・・
(1)は自然科学の手法であって宗教に用いることは出来ない。(キリスト教の科学的創造論のような主張をする佛教宗派は無いだろう)
(2)人は神秘的超常的現象に魅せられ騙される。疑似科学が横行し霊感商法が摘発され「オーラの泉」は視聴率に貢献する。
ひゃっきまる氏は宗教の概念や定義を知っておくべき。占領政策の成功が今日の「無宗教」をもたらしたのであって
世界の大勢は宗教が決定的な役割を果たしている。これが現実。
信教の自由については西洋史の勉強を薦める。
>>730 (1)(2)が鎌倉時代において信じられていたか、もしくは今の創価学会や日蓮正宗が信じているか、が問題でしょう。
ひゃっきまるさんは創価をなぜ脱会したんですか?
反抗期(笑
>>734 ちょっと頭が働く奴なら誰でもアンチになってしまうと思う。
たとえ2世、3世だったとしても。
>>737 俺は本人じゃ無いから分からんけど、色々としがらみがあるんじゃないの?
気持ちは離れていても、色々と事情があって脱会出来ない人は多いと思うよ。
特に2世、3世だと。
アンチであるのに脱会していない理由は、まじめにやりとりできる方になら話しますよ。
できれば、コテハンにして、ご自身の立場と、なぜそれを知りたいのか、という理由を書いてください。
ただし、その質問は、例えば、北朝鮮の金正日体制に反対している人に対して、「あなたはなぜ脱北しないの?」などと聞くような、非常な不謹慎さがあることを理解してくださいね。
また、生まれた頃から宗教教育を受けていること、その宗教が非常に強い唯一性と排他性の教義を持っていること、親や身近な知人がその宗教に入っていること、こうしたことがどれだけ重い意味を持つか、理解できるという人が質問してください。
>>727 亀レスすみません、法華くん氏ですか?
> 立正安国論は真の民衆救済と恒久平和へ至る道を説く。
> 立正とは爾前迹門の謗法対治で実現するもので敢て不幸になる”信教の自由”を認めないのが慈悲だ。
そこには化儀というものが無ければならないと思います
信教の自由を否定することは違憲です
つまり、日本国民には宗教を選ぶ自由と宗教をやめる自由が保障されなければなりません
現行の法律に則った範囲で宗教活動を行い、時代や思想の変化、また広宣流布成就の暁となって信教の自由が
撤廃されればそれが時であり、今は時ではないのだと考えます
また、正しい教えを証明するにはそうでない教義やその信仰者の存在も必要です
それによって正しさが証明されるからです
> 貴方の解釈は妙信講問題以前の定義だ。
ご指摘ありがとうございます、勉強不足でした
>>728-729 ひゃっきまる ◆xuSOULGIL.
亀レス&レスが読みづらくてすみません、改行を入れてみました^^
> 鎌倉時代においては宗教は実際に国を守る礎、要として認識されていたでしょうし、だからこそ「折伏」という
> 強い手段をもってしても、正しい教えを広める、という考え方が自然だったのでしょう。
そうだと思います、であるからこそ、大聖人は執権北條氏に立正安国論を提出し、法華経こそが国を救える、
さもなければ自界叛逆難(内乱)、他国侵逼難(侵略)があるだろうと預言されました
今の日本は早急に内乱や侵略といった有事に備えるほどの緊張状態にはありません
もしも、それが即座に驚異となっていれば憲法9条における現行解釈である個別的自衛権は集団的自衛権を
認める必要が出てくるでしょうし、自衛隊は軍隊として防衛、場合によっては先制攻撃を行えなければなりません
戦後の日本においては、戸田氏が始めた折伏大行進は「地盤作り」として必要であったと思います
まず、ある程度の信者を確保しなければならず、そのためには強引な折伏も行われてきました
そのために、当時折伏を騙されてされた人たちの中には御本尊の重要性を知らずに下附され、結果として
御不敬もかなり多くあったようです
それは池田氏の時代になっても継続し、宗門問題が起きるまで続きました
池田氏個人の思想の問題もさることながら、折伏大行進におけるやり方を大いに誤り、結果として世間から
創価学会は相当の悪いイメージのある教団となったわけです
あなたの比喩される悪性ウィルスの話はまさにその通りであると思います
> 現代では、(1)や(2)が信じられていないからこそ、「信教の自由」が保証されているのでしょう。
そうとも言えないかと思います
というのも、身延門流日蓮宗をはじめ、他宗の伝統的宗教の存在の理由が説明できないからです
新興宗教も含め、カルトと定義づけられていない宗教でも、超常現象的な力や、功徳として何らかの祈りが
通じるとする教えを説く宗教はたくさんあります
(続く)
>>728-729 ひゃっきまる ◆xuSOULGIL.
(続き)
宗教思想は様々ですが、宗教を神秘的、超常的なものだとは考えず、自己啓発の一つだと考える人たちもいます
かくいう俺もそうでした
「病は気から」をノセボ効果とすれば、プラセボ効果を期待するものです
もちろん、日蓮正宗や創価学会も例外ではありませんが
日本は宗教観が世界的に見ると奇異な部分があります
多くの外国の宗教信仰者は、一つの宗教のみを信仰します、祭りや行事もそれに基づいています
日本は無宗教であると同時に、一つの宗派に落ち着かず、多くの宗派を浅く信仰する人が多いように思います
たとえば、クリスマスや初詣です、殆どの人たちは両方とも行うでしょう
キリスト教、仏教、神道がごちゃ混ぜですよね?
ですが、こうした行事はイベントであって、深い信仰心で行っている人は一部だろうと思うのです
合格祈願や安産祈願といったたぐいも、「願掛け」であって験担ぎに過ぎません
あとは、重大な要件に対して思わず合掌して神に祈る、「困った時の神頼み」といったところでしょう
日本はそれが一般的習慣であり、深く宗教に依存することが異色な存在なのだと思います
ですから、非科学的な宗教に依存する人たちを「意志が弱い」とか「気持ち悪い」とか差別する傾向があるように思います
俺は香港に親友が居ますが、香港は時代経緯もあってか、クリスチャンネームを名乗る人が多くいます
彼は宗教に対する偏見が全くありませんでした
同様に、ロスにいる台湾系アメリカ人の友人も同様です
いっぽうで、国民の7〜8割がクリスチャンで占められているフランスでは創価学会、日蓮正宗はセクトとされています
フランスはフランス革命により政教分離が日本より遙かに強く徹底されていますが、クリスチャンの多い中でもセクトという
考え方があるのは、日本における異色な存在と考え方に違いはあっても似ているように思います
人間は多勢の考えに準ずる傾向があると思います
統計学然り、法案や考えの衝突を多数決等で決定することも然り、より多くの同意を得られたものを「正しい」と定義する
わけですね
(続く)
>>728-729 ひゃっきまる ◆xuSOULGIL.
(続き)
> もし、(1)や(2)を誰もが納得できる形で提示できれば、信教の自由などと言ってる場合ではありませんから、
> 法律など変わって当然ですし、古典的な意味でいう広宣流布は十分可能、やるべきだと思います。
それはいろんな意味で難しいだろうと思います
一つに、宗教は思想ですから、人それぞれの人格に強く左右されます
現に大聖人の時代でさえも、法華経を受け入れない人たちは多くいました
また、創価学会に見られるように、「迫害されればされるほど正しい教えである」という思想がよりいっそう加速されます
この危険な例がオウム真理教やイスラム原理主義などであると思います
「大義」は絶対であり、法律も道徳も超越してしまうという危険思想を生む可能性があると思うからです
人によって考え方は違うと思いますが、宗教とはその時や場所、思想や時世に則らなければならないと思うのです
富士門流ではこれが「化儀」ですが、化儀は「都合の良い解釈をする」ことと前述した事の紙一重ですから、明確な
指導者が必要です、化儀を信徒一人一人が個人の裁量で解釈すればあらゆる解釈が生まれてしまいます
しかし、指導者が化儀の解釈を誤ると、教義の逸脱、しまいには危険思想をも生んでしまう可能性があります
この回避には、絶対的指導者という位置づけこそが危険であると思うのです
「指導者は決して過ちを犯さない」と考えるからです
池田氏はその典型で、会員が池田氏を否定することを創価学会の組織は許しません、それを行えばたちまち組織から排除
され、「異端」として扱われます
「指導者であったって、人間であることに変わりはない」ということを前提に、自己補正が出来る教団のあり方こそが
理想であると思えます
ですが、その実現は大変難しいように思います
>>741-743 不良さん
全体的に僕のレスの意図が全く伝わっていないようなので、とてもレスが難しいのです…。
>戦後の日本においては、戸田氏が始めた折伏大行進は「地盤作り」として必要であったと思います
僕が
>>728-729で言いたかったのは、「現代においては、ある宗教が唯一正しいとか、他の宗教を信仰すると不幸になるとかいった主張はできない」ということです。
不良さんは、日蓮仏法が正しい、という前提で話されているので、戸田二代会長時代の創価学会も、「やり方は強引だったが、正しいことをした」というスタンスなのだと思います。
僕は、「この信仰は素晴らしい」ということは主張しても、「他の信仰をすると不幸になる」とは主張できないと考えています。それは、昔も今も、です。
>新興宗教も含め、カルトと定義づけられていない宗教でも、超常現象的な力や、
>功徳として何らかの祈りが通じるとする教えを説く宗教はたくさんあります
僕が、(1)(2)が現代では信じられていない、と言ったのは、「一般的には」という意味です。
「法律では」と言い換えても良いです。
>>741-743 不良さん(続き)
>日本は無宗教であると同時に、一つの宗派に落ち着かず、
>多くの宗派を浅く信仰する人が多いように思います
このような批判は特に創価学会内部ではよく言われていたことですが、僕は日本が無宗教的であるとは全く思っていません。
欧米のキリスト教信仰などと比べると日本の宗教はいい加減な印象がありますが、「神仏は様々な場所に偏在する」「どのような神仏に対しても畏敬の念を持つ」「自然物やモノには魂や意思が宿っている」といった宗教感覚を日本は昔から持っていたと思います。
そういった感覚が、外来のいろいろな宗教行事を抵抗なく受け入れていく地盤になったのだと思います。
それは、昔から多くの仏教宗派や、儒教、神道が競合してきた歴史を持つ日本が、平和に暮らしていくための一つの在り方だったのではないでしょうか。
また、日本の宗教観が「困った時の神頼み」とは浅はかに思います。
日本は儒教の道徳観を非常に重視してきました。それは神仏に頼らず、自分自身の努力によって自分の人生を切り開くという考え方だと思います。
そのような意味で、どちらかというと「人事を尽くして天命を待つ」という言葉の方がふさわしいように思います。
>>741-743 不良さん(続き)
>日本はそれが一般的習慣であり、深く宗教に依存することが異色な存在なのだと思います
>ですから、非科学的な宗教に依存する人たちを「意志が弱い」とか「気持ち悪い」とか
>差別する傾向があるように思います
これは、不良さんが大きな勘違いをしていると思います。
日本で宗教に対して拒否感、差別感があるのは事実と思います。しかし、それは新宗教、新興宗教と呼ばれるものに対してです。
例えば、カトリックや、伝統仏教、イスラム教でさえ、おそらく忌避の対象にはなっていないと思います。
しかし、「創価学会」「エホバの証人」「幸福の科学」といったものは、差別されるでしょう。これらの宗教には、共通の特徴があります。
1・唯一性、排他性の教義を持つ。特に、他の宗教を信仰すると不幸になると主張する
2・熱心な布教活動をする
3・普通の話が通じないような独特の世界観を持っている
僕はアメリカでの現状は知りませんが、アメリカでも創価学会が同じような布教をしており、また創価学会が社会的によく知られた存在なのだとしたら、やはり忌避される傾向にあるだろうと思っています。
>>741-743 不良さん(続き)
>「指導者であったって、人間であることに変わりはない」ということを前提に、
>自己補正が出来る教団のあり方こそが理想であると思えます
創価学会は、正しい宗教であるが故に、それを実践してトップになった人間は、全てが正しい誤りのない人間である、という考え方になるのでしょうね。
僕は、指導者が導かなければならない教団、というもの自体がおかしいものだと思っています。
戸田二代会長が亡くなった後、大きくなった創価学会をひきいるため、さらにカリスマ性の高い指導者を信者が求め、池田三代会長が生まれたのでしょう。
こうなると組織は、もうそれ自体では自己補正がきかない、怪物のようなものになっていくと思います。
日蓮仏法の客観的正統性はとっくに失われています。
正しさの名のもとに全てが正当化された時代は終わりました。
「唯一正しい」というメッキを捨てた後、ようやく創価学会はまともになれるのだと思います。
ひゃっきまる氏は宗教が理解できていないと良くわかる。
・・・本を読めばいいのに。。。
視野が狭い。
>>748 そう? 此方としては、結構、参考になっていますけれど
・・・と言う事で 皆様 お久しぶりです
9月に入ってから、規制続きで、突然、暫く書きこめなくなったり
規制解除がなされても他のスレやらなんやら山積みで
彼是、書いていくうちに また突然、規制が掛かって書き込めなくなったり
この繰り返しで やっとこさ このスレに辿りついた感じが否めない ・・・_且~~~
さて、何処から返事を書きましょうか・・・・・・
>>654 結構、奥深く読んでいる様子ですね〜
まぁ〜 それが解るのでしたら、その悪文の部分を真摯に受け止めたら如何でしょうか?
・・・と一応、書いておきます。
別に自分が正しいとは思っちゃいませんが
ただ今までの本や指導などを伺い疑点や今まで感じたことなどを
他の視点や角度を変えて私はただ書いているだけです。
>>雪山さん
レスが遅れて申し訳ございません そうか携帯から家のブログが見えないのか・・・・
此方は携帯を持って居ないので 何処まで対応できているか把握して居ない部分も否めないんですよ
また携帯シミュレーターでも下ろさないと駄目なのかな
ただ、使用しているブログの説明を見ると携帯対応にはなっているらしいので・・・
そう考えると携帯からアクセスするには 下記のアドレスにいかないと対応がしないのかなぁ・・・
http://plaza.rakuten.co.jp/namassaddharma/ktai/ 記入欄に自分の携帯アドレスを送るとメールで送信できる様子なのですが
これで試してみてください
>>661 肝心なときに、突如、魔が襲うかのように書けなくなってしまって・・・
最近は、これが一番大きい・・・・
あとブログの方で書いて二度手間になったりする部分もあるので
その際、結構、労力を惜しまず全開で書いている時が多かったので
此方へ書き込みをする際はヘトヘトになっている状態なのと
意外ですが慎重に駒を進めている部分の二通りがあります。
>>662 二度手間な上、スレがかなり進んでいる部分も否めないので
とりあえず
http://plaza.rakuten.co.jp/namassaddharma/ktai/にアクセスした後 あなたに対して かなりきつい事も書いておりますが
Category欄の「イマドキのかんぎょう?」と言う部分クリックして
読まれると
>>662の事が更に詳しく書いております。
(それでも30本書いているので、如何、受け止めるか・・・)
因みに簡単に説明すると、秋谷氏などはかって聖教の4面などで
日顕上人に対し「師に逆らう奴は永久に許さない 下末代まで祟る」・・・と
平然と書いているわけです また懺悔しても許さない主旨まで書いているわけです
ところがこの“永久”と言うのが問題なわけです
私も雪山さんもこれからもずっと生きていくわけでしょ? つまり時間は永久に進むわけです
・・・と言うことは 仮に日顕猊下が池田先生に謝っても謝っても
池田先生が日顕猊下を永久に許さず甚振っても甚振っても気がすまないわけです。
そう考えていきますと、業の関係で永久に“悲惨”と言う二文字がなくならないわけ。
要はこれから地獄の環境が作られ永久に続いてしまう訳です。
ただ、秋谷氏も含めてそうなのですが この発想は原罪に通じる神と人間との間で
結果的に差別を作ってしまうキリストの発想なんだよな
以下、イマドキのかんぎょう?(16)より抜粋
http://plaza.rakuten.co.jp/namassaddharma/diary/200810200001/ ============================================================================
池田氏の指導によると 祈りには強弱なんていうのがあって
女性の祈りは御本尊に通じるが
男性の祈りは御本尊に通じないらしいね〜
そういった錯覚を起こさせるような紛らわしい発言を
平然と新人間革命に載せていたじゃないですか?
(中略)
池田氏の指導には、表向きでは生命の尊厳などと美麗辞句を並べても
実際にはWar Guilt Information ProgramやStanford prison experimentと同じ
飼育方法で「女性だけが仏で、男性は糞・・・」と思わせるような
まるで優生学のような指導が多く
更に一括りで「慈悲も優しさもない 冷酷で破壊する事しか出来ない生き物」と
分類表で決め付けるような無知な指導をしていたため
自語相違となってしまい これが結果的に卑下させる方向へと仕向けられて
意図的にも男性を地獄へとつき堕とすSystemが構築されてしまった訳
捉え方によっては、小乗や爾前経を逆さまに説いた「男性不成仏」を説いてしまう結果にもなるんですけれどね〜
======================================================================================================
ところで、インターネットを閲覧している方はお馴染みですが
「男性差別」と言う言葉があるのをご存知でしょうか?
あまりマスコミは取り上げていませんけれどね
男性差別
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B7%E6%80%A7%E5%B7%AE%E5%88%A5
>>753の補足(1)
そっか・・・wikiは携帯が対応してないだっけ
・War Guilt Information Program (wikiより抜粋)
文芸評論家の江藤淳が著書『閉された言語空間』(文藝春秋・1989年)に於いて
第二次世界大戦後に連合国軍最高司令官総司令部による日本占領政策として行われた宣伝として提示したもの。
“WGIP”の略称も江藤による。
この呼称を最初に使用した江藤はこれを
「戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画」とし
「日本の軍国主義者と国民とを対立させようという意図が潜められ
この対立を仮構することによって実際には日本と連合国
特に日本と米国とのあいだの戦いであった大戦を
現実には存在しなかった「軍国主義者」と「国民」とのあいだの戦いにすり替えようとする底意が秘められている。」
・・・と主張している。
また、「もしこの架空の対立の図式を、現実と錯覚し
あるいは何らかの理由で錯覚したふりをする日本人が出現すれば
CI&Eの「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」は、一応所期の目的を達成したといってよい。
そのとき、日本における伝統的秩序破壊のための、永久革命の図式が成立する。」とも主張している。
・Stanford prison experiment(1)
スタンフォード監獄実験とは、アメリカのスタンフォード大学で行われた、心理学の実験である。
心理学研究史の観点からは、ミルグラム実験(アイヒマン実験)のバリエーションとも考えられている。
(1)実験への準備
・刑務所
スタンフォード大学の地下に構築された刑務所には看守に反抗的な「悪い囚人」を閉じ込めるための独居房も作成した。
(中略)
各牢屋には、実験主催者に囚人達の動静を密かに監視する事が出来るよう隠しカメラが設置された。
また刑務所内には窓や時計などの囚人が時間を知るための設備が無かった。
・実験者
ジンバルドーは囚人達には屈辱感を与え、囚人役をよりリアルに演じてもらう為、パトカーを用いて逮捕し
囚人役を指紋採取し、看守達の前で脱衣させ、シラミ駆除剤を彼らに散布した。
背中と胸に黒色でそれぞれのID番号が記された白色の女性用の上っ張り(smock)、
もしくはワンピースを下着なしで着用させ、頭には女性用のナイロンストッキングから作ったキャップ帽を被せた。
そして歩行時に不快感を与えるため彼らの片足には常時南京錠が付いた金属製の鎖が巻かれた。
更にトイレへ行くときは目隠しをさせ、看守役には表情が読まれないようサングラスを着用させたりした。
囚人を午前2時に起床させる事もあった。
但し、これらの服装や待遇等は、現在ほとんどの国の本物の刑務所では見受けられず
実際の囚人待遇より非人道的であり、囚人待遇の再現性は必ずしも高くはなかった。