340 :
名無しさん@お腹いっぱい。:
>>322 >それが日蓮原理主義者の理屈になると、小乗を否定したまんま。
>何故どうやって法華経で二乗が成仏可能なのかも説明できない。
>理由は簡単。法華経にはその方法論が説かれてないから。
>般若の空も理解してないしね。いわゆる法華経無内容説。
日蓮は天台大師の説を正しいとして、その無内容の法華経を解釈して
法華経は「要するにそれらを全部成就するためには、そのお経のタイトル
を口で唱える行をしろと言ってるんだよ」と「暗に示唆している」という考えに
至りついた、てことなんでしょう。
これが「文底に秘沈されているのだ」という主張でしたね。
341 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/06(日) 21:57:35 ID:rgyPGfDH
>>340 (続き)
で、創価学会の「大白蓮華」なんかにはこうも書いてある。それによると、
「釈迦の教えは(輪廻転生の末に既に一定のレベルの境涯に達した人に
解脱を得させる”脱益”がご利益であり」、一方、「日蓮のそれは”下種益”
であり、
仏教などにさらさら縁の無いレベルの低い種類の人間(観無量寿経などに
よるとそうした人々を「下品」とか「下生」とか分類していますね)に種を植え
付けて縁を擦り付けるためのものだ」と、はっきり言っているね。つまり「縁を
”下種”する目的のがご利益なのだ」とある。
つまり折伏してその「法華経の文底の趣旨である題目を唱えることを教えて
(それまでになかった変わった)行をさせるのは、解脱して極楽往生が目的
ではなく、次以降の転生で少しはましになるために縁を擦り付けるのが目的で、
今の人生で仏のような完成を得させるのが目的じゃない、ということらしい。
創価学会の主張ではどうもそういうことらしい。
342 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/06(日) 22:12:05 ID:rgyPGfDH
343 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/06(日) 22:31:06 ID:rgyPGfDH
>>342 (続き)
で、この
>>341の話なのだが、もし、そういう「下品下生の人用に法華経の
タイトル、つまり題目というものを埋め込んであるのだ」ということであると
したらば、日蓮はつまりは自分の主張は、仏教の初心者用、初学者用の
序の口の方便なのだと実は考えていたというふうにも取れるのではない
だろうか。
つまり、日蓮の教えは仏教初級用者用、序の口用の方便であり、本格派の
上級者になるにはそれを卒業し、方便の教えから本来の釈迦の教えに
結局は到達しなければならない、あるいは禅などの本来のハイレベルの
修行に移行し進級して行かなければならないのだ、と実は自分の内部では
悟っていたのだろう、
とも考えられた次第です。
だからこそ、私が主張しているように、題目の連続称揚でバイブレーションが
整えられたら、そこで禅行、天台大師の修行された止観の黙行に移行する
コラボレーションがより有効なのだということもうなづける。日蓮が題目を唱える
行為でより有効な利益を得られたとしたら、彼が叡山で天台式の混在修行を
現実に修していた最中であったからに他ならないと推察されます。
天台式では、天台小止観や魔可止観などの禅修業、止観行を修している
わけで、その下地を実地で修行していく中で、題目を発見したわけです。その
コラボレーションによって彼の身体は本当は整えられて得られた利益であった
のに、それを彼は偏ってすべてが題目の利益であると即断してしまったのだろう。
344 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/06(日) 23:14:57 ID:rgyPGfDH
>>343 (続き)
>「下品下生の人用に法華経のタイトル、つまり題目というものを埋め込んで
>あるのだ」ということであるとしたら
この「観無量寿経」の説は、実際にこのようになっています。
観経・現代語版A ->
http://www2.saganet.ne.jp/namo/sub28.htm >(28) 釈尊はさらに阿難と韋提希に仰せになった。>
> 「 次に下品上生について説こう。さまざまな悪い行いをするも
>のがいる。大乗の経典をけなすようなことはしないが、このような
>愚かな人は、多くの悪い行いをしても少しも恥じることがない。
> この人がその命を終えようとするとき、善知識にめぐりあい、そ
>の人のために大乗経典の経題をほめたたえるのを聞く。このいろ
>いろな経題を聞くことにより、千劫の間のきわめて重く悪い行いの
>罪が除かれる。
日蓮殿がこの観無量寿経も大いに参考にされたであろうことは、「当世念仏者
無間地獄事」からも読めましょう。「当世念仏者無間地獄事」では確かに機根が
末法では悪いので易行以外ではだめであると説いて、善導らが南無阿弥陀仏を
発見したこと自体には賛辞を送る部分も多くあることも読み取れますが、
それでも「ナンミョウホウレンゲーキョウ」が「現実的なご利益をもたらす」という
実験的検証(病気が軽くなって癒えたり、やる気が出たり、気分が整って禅定の
境地が得られ安い、など)を感じられたのは、彼自身が実際には天台式の止観行
も先に修行して精神も身体もその方向である意味「鍛えていた」からだと思われます。
皆さんも、題目称揚を数分あるいは数十分連続して行じたら、そこで止観行の準備
が整ったと解釈し、本格派の仏教の行に移行してみてください。これを日々実践する
ことで、お題目行というものが、実は禅行、禅定行の準備行であったことを納得される
はずです。日蓮様に習って、本来の仏教の行、あるいはこの止観行の実践で実感して
みてください。天台止観の修行を現実に行じられることをお勧めするものです。
345 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/06(日) 23:31:28 ID:rgyPGfDH