2 :
マハーバイロ:2005/03/30(水) 00:09:55 ID:/rCJ8FpG
2ゲット
ver13も宜しくお願いします(笑
スレ立て有難う。
新スレ乙
このスレでは名無しにはレスしないことにしたのでよろしく
4 :
マハーバイロ:2005/03/30(水) 17:48:58 ID:???
前スレ終わっていませんが、
それでも多少レス付けとかないと落ちてしまう・・・のでは?
5 :
ひゃっきまる:2005/03/30(水) 18:53:57 ID:???
マハさんどうも。
新しい話題は新スレで、前スレの話題は前スレで続けていきましょう。
ということですので、こちらで引き続き質問します。
詳しい方にお聞きしたいのですが、
丑寅勤行は、正宗系列だけで行われているのでしょうか?
日蓮自体は丑寅勤行をやっていたのでしょうか?
7 :
マハーバイロ:2005/03/30(水) 22:04:35 ID:???
>>6 あまり詳しくないので確証を持った御答は出来ませんが・・・
>日蓮自体は丑寅勤行をやっていたのでしょうか?
やっていなかったと思います。
法華経読誦していたとすれば、朝夕2回だろうと思います・・・
>丑寅勤行は、正宗系列だけで行われているのでしょうか?
富士門流では正宗以外でも五座三座の勤行を行うのはあると思いましたが、
丑寅勤行が形式化されているのかどうか知りません・・・
夜中に各本堂などを見張り番するようになり、勤行するようになった・・・
それが形式として定着したのではないかと想像するのですが・・・
資料を調べたわけではないが、
丑寅勤行は日蓮本仏論と関係しているから、
上代からやっていたものと思えないけど、、、。
発迹顕本の意義を含んでいることは明らかだし。
当流行事鈔
開目抄下に云わく、日蓮は去ぬる文永八年九月十二日子丑の時頚刎られ
ぬ、此れは魂魄佐渡に至る等云云。
応に知るべし、丑寅の時は是れ陰の終り死の終り、陽の始め生の始め、
陰陽生死の中間なり。
上野抄五に云わく、御臨終の刻み生死の中間に日蓮必ず迎え参らせ候べ
し、三世諸仏の成道は子丑の終り、寅の刻みの成道なり等云云。
故に知んぬ、子丑の時は末法蓮祖垂迹の凡身の死の終りなり、故に頚を
刎ねらると云うなり。寅の刻みは即ち是れ久遠元初の名字本仏の生の始
めなり、故に魂魄等と云うなり。
日我本尊抄見聞に云わく、開目抄に魂魄佐渡に到るとは是れ凡夫の魂魄
に非ずして久遠元初の名字本仏の魂魄なり云云。
然れば則ち蓮祖大聖佐渡已後今日凡身の迹を開して久遠元初の本を顕わ
す、豈発迹顕本の現証に非ずや。
現代語に直してしまうと、まったく深みのない文章になる。
文語訳だから、多少、形にはなる。それだけのもの。
あれにこう書いてある。これにこう書いてある。それだけのこと。
チャート式発迹顕本
子丑の時=陰の終り死の終り=凡身=頚を刎ねられた
丑寅の時=陰陽生死の境界 =成仏=発迹顕本
寅の時=陽の始め生の始め=仏身=魂魄
開目抄下には『日蓮は去年の文永八年九月十二日子丑の時に頚を刎ね
られた。今現在は魂魄が佐渡に至る』と言っている。
まさに、丑寅の時間は陰の終り死の終りであり、また陽の始め生の始
めであり、つまり陰陽生死の境界であることを知るべきである。
上野抄五には『あなたの御臨終の時、生死の境界に日蓮が必ず迎えに
参ります。三世諸仏の成道は子丑の終りであり、また寅の時間の成道
です』と言っている。
これらの文献から、子丑の時は、末法における蓮祖の垂迹の凡身の死
の終りであるために頚を刎ねられたといわれているのであり、また寅
の時刻はすなわち久遠元初の名字本仏の生の始めであるので魂魄など
といわれていることがわかるのである。
日我の本尊抄見聞には、『開目抄に魂魄佐渡に到るというのは、凡夫
の魂魄ではなく久遠元初の名字本仏の魂魄である』と言っている。
したがって蓮祖大聖は佐渡已後においては、現在の凡身の迹を開いて
久遠元初の本を顕わしているのであり、これは発迹顕本の現証といえ
るのではないだろうか。
佐渡は、本土より暖かい。雪はほとんど積もらない。
夏は涼しく、冬は暖かい土地として知られる。
今は、日本海のマリンスポーツのメッカですね。
あまり、昔の人の美談に夢を抱かないことです。
人間は、定期的に正座して題目を唱えなければならないほど、
惨めな生き物ではありません。
題目に依存して生きる人は、世界人口比率約0%です。
題目から離れて生きることに、世界人口の約100%が不安感を持ちません。
仏暦って何だ?
なかなかオツなことをやってくれますね<仏暦
もしかして4・1限定なのかな。
15 :
Sb ◆SbSGI7AtEA :仏暦2547/04/01(金) 14:35:55 ID:NuNk1pcO
基本:皇紀
イスラム情勢:ヒジュラ太陽暦
創価・公明 神社仏閣:仏暦
ハングル:檀君暦
東亜+ 中国:黄帝誕生暦
極東 ニダー:主体暦
日本史板:慶長
中東+:ユダヤ暦
旧シャア:宇宙世紀
新シャア:コズミック・イラ
喪男:彼女いない暦
世界史:エジプト暦
235 名前:同定不能さん sage :地球暦45億5000万2005/04/01(金) 11:32:02
記念真紀子
このまま日付が変わっても元に戻らなかったりして。
もう直ったかな。
併記だ・・・(^^;
20 :
月やん ◆Moon/fPAsI :仏暦2547年,2005/04/03(日) 10:51:10 ID:pM+YgteE
>17 ひゃっきまるさん
会員さんの反応が薄いでつね。(笑
日蓮さんが見たら腰抜かすかも、彼の末法史観が間違っている仮説の上に立っていることになりますからね。
日蓮は仏入滅が紀元前949にあたるという「周書」異記の説を採用し、彼の時代が末法に入って200年であると
考えていたのだから。。。
日蓮にもっぱら依存している“ふり”をしている会の運営サイドはほっといて、真面目な会員さんは層化板の暦を
議論しないのかな。(笑
>>20 月やんさん
どうも。どうしてあの当時はそんなに末法思想が信じられていたんでしょうかねえ。
あまりにも世の中が悪かったから、今が末法だからこんなにひどいのであって、本来は
もっと楽しく生きられるはずなんだ、って思いたかったのでしょうか・・・。
そういう考え方って、けっこういろいろな宗教にありますね。創世記の原罪とか、
ギリシャ神話のパンドラの箱の話とか、日本神話のいざなぎ・いざなみの話とか。
本気で日興上人の系統での暦を作ろうとしたら、仏暦はありえないかもしれません。
釈尊の法は現代では役に立たないとされているし、日蓮が本仏とされているので。
1・日蓮の生誕年 1222年
2・竜の口の法難 1271年
3・立宗宣言・開目抄 1272年
のどれかってところが妥当じゃないでしょうか。
特に竜の口の法難は、凡身が仏身に変わったということで宗教的意味が大きいと思います。
ホシュ
>>21 末法思想というのは、ただの終末思想なんじゃないですかね
末法思想の成立には、キリスト教の終末思想が影響しているのでは、と思っているのですが
仏暦表示は日蓮本佛の否定なのではと・・・
ほんとうの仏教なら末法思想なんてものはない。
大乗経典も畢竟じて、きちんときっぱり否定してるよ。
まぁ、法華経はそこんところはすごく曖昧で否定し切れてないが…。
この時点で法華経は一乗とは言いがたい。
そんな事を言ってるからキリスト教やイスラム教から笑われるんだよ。
>>24 たしかに。もし仏教が末法の問題をそのままにしておけば、
一切の衆生を済度を標榜しながら、それを果たせないと認めるので矛盾が生じる。
真実の仏法は、過去・現在・未来の三世に渡って不変のものであるとされる。
したがって末法はこの教えでないと救われない、などというヘリクツは真っ赤なデタラメ。
ちなみに末法には真実の仏法が現われるなどというのも、結局は巧妙なレトリック。
26 :
ひゃっきまる:2005/04/05(火) 23:44:53 ID:???
>>23 Sbさん
キリスト教の終末思想とだいぶ違うと思うんですが・・・
>>24 なんか前にも同じ話題が出たような気がしますが、法華経を素直に読む限り、末法思想はないと思いますよ。
むしろ、「逆」じゃないですか。
過去も未来も永遠と思えるような期間、釈尊が衆生を導き続ける、というのが法華経の一番主題になる内容ですからね。
>>25 >真実の仏法は、過去・現在・未来の三世に渡って不変のものであるとされる。
なんですかそれは? どこの経典にそんなこと書いてあります?
>>26 >過去も未来も永遠と思えるような期間、釈尊が衆生を導き続ける、
>というのが法華経の一番主題になる内容ですからね。
↑↑24に対してこのようなレスをしているのに、
>なんですかそれは? どこの経典にそんなこと書いてあります?
25に対すして、このようにレスするのは矛盾してませんか?
逆に質問しますが、
>過去も未来も永遠と思えるような期間、釈尊が衆生を導き続ける、
>というのが法華経の一番主題になる内容ですからね。
それは法華経のどこに書いているのか文証をもって教えて頂きたいです。
別に煽っているのではないので、誤解しないで下さいね。
>>27 >文証
法華経の寿量品読んでくださいな。
>三世
「三世」というのを単なる過去現在未来という意味で使っているんだったら、異存ありません。
創価学会ではよく、過去世と未来世という意味で使われるんで、過剰反応してしまったかも。スマン。
>>27 まあ、「真実の仏法は」なんて言葉にもひっかっかったんですがね。
文章全体からなんらかのイデオロギー的なものを感じたんで、なんかの新興宗教に属している人かななんて思ったわけです。
25です。
「法華経を素直に読めば末法思想はない」
法華経には末法という言葉も直接出てくるし、
天台以下、鎌倉仏教の諸宗、特に日蓮門下は
末法思想の上で成り立ってきたんでしょう。
なら、なぜ末法思想を否定しなかったのですかね?
しかも、それが日蓮本仏論の骨格になっているのは否めません。
>なんですかそれは? どこの経典にそんなこと書いてあります?
大乗の各経典でも、「十方三世諸仏の法」などとありますし、
ひゃっきまるさんが挙げた法華経寿量品にも書かれてませんか?
前スレ991-998について。
白隠は「生涯に大悟18度、小悟数を知らず」と述べている。
「ひそかに日用の事を顧みるに、動静矛盾し、去就総てに脱洒ならず」
つまり悟りは得たけれど、それが自分の行動にまで表れておらず、現実に対して役立ってないという反省だね。
禅の十牛図で言えば入テン垂手の段階でないって事だし、密教で言うなら成所作智を得ていない事。
つまり悟ったけど涅槃には達してない。そういう意味。
もし「大悟は一度だね。小悟は数回」を、旅人さんの言うようにSbさんが
自身の体験に基づかない一般論として語ったなら、単なる無責任な戯言になる。
そう解釈されるのは、Sbさんにとっても不本意でないかい?
体験も無しに禅を語ったと見なされる事になるんだから。
要は旅人さんが「涅槃に達してない」を「悟ったと言ってない」だと読み間違えたって事。
ソースを示した名無しさんの指摘が正しいよ。
今スレでまでごちゃごちゃする前に書いとこうと思ったんだけど、
今スレの流れに関係ない話&むしろスレ違いだろ!な書き込みスマソ。
ついでにSbさんへ。
前スレ948は、確かに相手に非がある。
しかし、それを理由に名無しさんをひとくくりにして、新スレにまで>3と持ち込むのはどうかね?
前スレ948も、非を指摘されて前スレで謝罪してるじゃないか。
前スレのやりとりを知らずに>3を見たら、単なる傲慢なコテハン。
そんな風に見られるのは、誰よりもSbさんが損すると思うよ?
31者
おれの読み違いだったかな
しかしそこまで粘着するほどのことかね
>>しかしそこまで粘着するほどのことかね
間違いを指摘してくれた人に向かっていう言葉ではないね。
コテ潰し粘着でこのスレも埋めるつもりか
スレ違いだ
鳥を晒してしまったorz
不吉だ
無理にというわけではありませんが、レスを希望する方はなるべくコテハンを使ってほしいです。番号でもなんでもいいんですが。
相手の考え方や立場によっても答え方が変わるし、横レスなのか回答なのか判りずらいですから。
春田の蛙さんは傲慢と思うかもしれませんが、やりとりを希望していながら名無しなのは、
レスをもらえなくてもある程度は仕方ないんじゃないかと僕は思ってます。
>>30 >法華経には末法という言葉も直接出てくるし、
末法思想というのが意味するのは通常、正法・像法・末法という過程を経て、末法には釈尊の説いた教えの効力が失われる、というものです。
法華経に末法という言葉がでてくるといっても、ストーリー全体を眺めてみれば末法思想のことだと解釈するのは無理があります。
一般的にも、この思想は中国が発祥と考えられています。
日蓮がそれを信じるようになった歴史的経緯や、その当時の世相などはまた別の話ですが、
>>24 >まぁ、法華経はそこんところはすごく曖昧で否定し切れてないが…。
>この時点で法華経は一乗とは言いがたい。
に対しては、「
>>26法華経を素直に読む限り、末法思想はないと思う(むしろ逆)」と答えました。
>>30 >三世
三世が単に過去現在未来のことを指しているのなら依存ありませんよ。
>>28で述べたとおりです。
まあインドでは輪廻する世界観が普通だったらしいので、過去世、未来世と解釈してもいいのかもしれませんが、
「生まれ変わり」をもって仏教の特徴とすると主張しているのかとはやとちりしてしまったのです。
そのことは素直にあやまります。すみません。
やっぱり
>>25の、
>真実の仏法は、過去・現在・未来の三世に渡って不変のものであるとされる。
>したがって末法はこの教えでないと救われない、などというヘリクツは真っ赤なデタラメ。
という「言い方」にひっかかったんですよね・・・。(「真実の」とか「される」とか)
世の中いろいろな宗派がありますが、「真実の仏法」というものに何かお考えがあるのでしょうか。
僕は鎌倉仏教も立派な仏教だと思っているんですが。
>>30 >大乗の各経典でも、「十方三世諸仏の法」などとありますし、
>ひゃっきまるさんが挙げた法華経寿量品にも書かれてませんか?
一部同意だが一部異論ある。
大集経や法華経をはじめ大乗経典の多くが末法があることを示しつつ、
般若心経のように「三世諸仏も般若波羅蜜多に依るが故に涅槃を究竟す」と説いている。
これも見方によれば、端的に末法思想を否定しているかとも思えるが、それだけでは不十分。
法華経寿量品でもそのことに触れており、過去の生命を解き明かしたが、
未来の生命についてはごく僅かしか触れられず、詳細に解き明かさなかった。
しかも法華経では、それ以外の経典を方便の教えで低いものとし、
正直捨方便と説いているので、他の経典との接点がまったくなく纏め切れていないし
最終的に末法思想を否定し切れていない。逆縁も漏らして済度し切れてない。
しかし釈尊は最終的に、三宝一体常住不変易を説いて末法思想を根本的から否定している。
一切の衆生を済度することが仏教の最終目的だから当然といえば当然のこと。これが真実の仏法。
>>お邪魔しますさん
前スレの(僕へ向けたと思われる)レスの返答をお望みですか?
>>32 春田の蛙さん
すばらしいです。後でじっくり読ませていただきます。
というか、このHPって以前企画していたものですかね。
創設当時は僕も少し(ほんとにささいですが)意見とか出していたのに、全く忘れていました。
ここのメインライター及び管理人さんって春田の蛙さんなんですか?
わかりやすく読みやすく内容がしっかりしているし、著者の良識的態度が伝わってきて本当に良いですね。
補足。
贋物の仏法とは、末法思想をそのまま肯定し仏教の衰退を認め、
「釈尊の説いた教えは現代では通用しないから、それに変わって真実の法が現れる」
などという、およそ仏教の教えとはいえない戯論を説いているものをいいます。
真実の仏法とは、末法思想があることを示しつつも、最終的にはそれを否定しているものです。
ブッダの説いた法が過去現在未来の三世問わず不変金剛のものであり、時代によって変わらず、
一切の衆生を済度し尽くすことを明記しているものを指します。
法華経だけでなくいろんな経典を読み解けば、はっきりと理解できるはずです。
鎌倉仏教はたしかに立派ですが、末法思想に立脚しています。
また我々は、娑婆世界に住んでいます。西方極楽浄土などではありません。
したがって、その教主は阿弥陀仏でも大日如来でもなく
ましてや日蓮でもありません。あくまでも釈尊がこの世界の教主なのです。
>>39 >法華経寿量品でもそのことに触れており、過去の生命を解き明かしたが、
>未来の生命についてはごく僅かしか触れられず、詳細に解き明かさなかった。
寿量品のストーリーですが、
1・釈尊が五百塵点劫の比喩であらわされるとてつもない期間の時間よりもはるかに過去に成仏し、
現在に至るまで教えを説き続けてきたことを明かす
2・如来の寿命は無限であり、常に存在し、果たすべき所行を果たしておらず、寿命が満了していないことを明かす
3・如来の寿命が満了するまでには今までの二倍もあることを明かす(復倍上敷)
文章こそあっさりですが、未来については過去の二倍の長さの寿命をもつ、と言っている以上、少なくとも数百年・数千年
レベルの未来は問題にならないのでは。
また、この辺の主旨は、釈尊は一切の衆生を救いきるまでは入滅しませんよ、ということなので、末法について不安に思う
必要はないわけです。
ほんとコテハンつけてくれないと困るんですが・・・。
誰が誰のどのレス番につけているのか、文意で判断しろ、ってのは押し付けだと思いますです。
>>42 ひゃっきまるさんは末法史観を否定されているのなら問題はありません。
たしかに法華経寿量品にはあっさりと説かれている(ともいえる)でしょう。
しかし詳説されていないため、天台教学以降は末法史観に立脚しているのは否定できません。
そして、それが現在まで及んでいるという事実があるでしょう。
>また、この辺の主旨は、釈尊は一切の衆生を救いきるまでは入滅しませんよ、ということなので、
>末法について不安に思う必要はないわけです。
実は私もそう思っているのですが、日蓮を本仏とする宗派はどこをどう違えたのかが問題なのです。
そして、仏教が末法史観を肯定するニヒリズムの教えだ、というイメージが広まってしまっているのは
仏教徒全体の認識の問題で、それを肯定してしまってはほんとうの仏教ではないでしょう。
連続投稿にひっかっかってしまった。
>>41 個人的には、何が真実の仏教で、何が贋物の仏教かなんて答えはないように思っています。
ただ、信頼できる考え方、人生を生きるに拠り所にできる考え方、そういうものはありますが、人によって違うのかも、とも思います。
今の僕が思っているのは、「真実」「贋物」を声高に叫ぶことは、争いの心を生むだろうな、ということです。
文献や歴史事実について、そのことに限って正誤を議論することは誰にとっても大事と思いますが。
>>44 >そして、仏教が末法史観を肯定するニヒリズムの教えだ、というイメージが広まってしまっているのは
末法史観てそんなに広がってるんでしょうか? たぶん一般の人って知らないと思います。
それに、他の宗派にしても、末法だから今の世は悪い、と考えているところってあんまりないと思います。
仏教が「ニヒリズム」と言われるのはむしろ、一切皆苦とか、初期の基本的な教義の方だと思います。
法華経「我が滅度の後後の五百歳の中に閻浮提に
広宣流布して断絶せしむること無けん」
天台 「後の五百歳遠く妙道に沾おわん」
妙楽 「末法の初冥利無きにあらず」
伝教 「正像稍過ぎ已つて末法太だ近きに有り
法華一乗の機今正しく是れ其の時なり」
日蓮 「日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は
万年の外未来までもながるべし」
法華思想は、末法を意識しながらも終末というよりは、
逆に本来の経力を発揮する正時と捉えているよ。
>34さん
ありがとです。m(_ _)m
>ひゃっきまるさん
>37
2chに慣れてくると分からなくなるけど、始めは名無しで書くのさえ勇気がいるもんですよ。
でもそういう(特に創価内部の)人にこそ、むしろ此所に参加してもらって語り合いたいんでしょ?
だから「始めは名無しで構わないけど、
やりとりに参加するなら、分かりやすくレス番くらいは付けてね」は無問題だけど、
「名無しには始めからレスしねぇぞゴラァ」は初心者がビビるだけ。
私が指摘したかったのはそゆこと。
それと煽りも荒らしも粘着も、何も名無しさんの専売特許じゃないからね。
そればっかやってるコテハン沢山居るじゃない?(笑)
なのに煽られた事と相手が名無しだというのを結び付けちゃマズいって。
ああ、今更Sbさんを責める気はないよ。
前スレでのあれは相手の言い方が悪い。
カチンときたから、つい新スレでまで持ち出しちゃっただけでしょう。
>>47-48 春田の蛙さん
>名無し
ん〜。確かにそうですね。気軽にどんな立場の人も書き込んでほしいってのは僕も同意です。
最近なんとなく書き逃げっぽいレスが多いような気がして、やきもきしていたかもしれないです。
「怖くて」というより、レスに責任を持ちたくないために名無しにしてる人も確実にいるわけで・・・。
>希望の風
BBSかなりすごいですね。着実に力になってるというか。
日本書紀も、古事記も日本人なのにだれも信じていません。
お伽話なのですから。
末法思想や、法華経の成り立ちを信じている創価学会の人たちは、マインドコントロールされているからですよ。
麻原の空中浮揚や、白装束連中の定説、池田大作の釈迦の生まれ変わり。
マインドコントロールされない限り、普通はだれも信じません。
他の寺院に行っても、仏罰は下りません。
慈悲深い、神様も仏様もそんな些細なことで人を戒めません。
仮に、戒めるとしたらそんな心の狭い、日蓮なんか見限ってしまいなさい。
51 :
Sb ◆SbSGI7AtEA :2005/04/07(木) 12:56:26 ID:L1EsCNic
>>26 そりゃ違いますよ、まぁ、多分もともと人間の恐れとしてあるのでしょうけどね
景教等の他教と接したことは歴史的に確かなのですよ
だとすると思想も混ざります、似たようなものが出来てしまってもおかしくないのではないかと思いますけどね
>>31 >>Sbさんにとっても不本意でないかい?
本意非ず、不本意非ず
発言した以上どう捉えるかは読んだ人によって変わるのは承知しています
>>誰よりもSbさんが損すると思うよ?
だと思うけど、前々から思っていたのですよ
名無しで発言するってことは、レスを求めていないのではと
自分の意見として発言したいなら、トリップだけでも付ければいい
名無しではどんな意見でも、ただの野次ととられても仕方ないんです
意固地になるというよりは、いいきっかけだからそう宣言させてもらいます、という感じです
>>33 することだし、することが無意味でもあります
どっちかではないのでしょうね
鳥晒し( ´,_ゝ`)ピ
正直なところ、Sbさんにレス返されてもみんな困るんじゃないかな?
Sbさんが返してきたレスをみるとそう思う。
もちろんこのレスにもSbさんのレスなど求めません。
だから名無しです。
このスレ限定でコテハントリップ推奨とする百鬼丸氏の意見に賛成です。
>>53 そりゃ無意味だと思いますわ(;´Д`)
連投スマソ
新鳥test
>>51 Sbさん
キリスト教、ユダヤ教、イスラム教でいう終末思想っていうのは、ある時点の時期に、神の側の力によって、悪い人間が
滅ぼされ、悪い世が終わり、そこから理想郷がはじまる、というものだったと思います(なんか大雑把でスイマセン)。
だから仏教の末法とは、完全に意味が逆なんですよね。似てもいないと思います。
>コテハンについて
>>1でも述べているとおり、なるべくコテハン使ってほしいです。単純に議論をスムーズにさせたいっていう理由で。
でも強制ではないんで、自由に発言してください。あくまで推奨ということで。
>>50 >池田大作の釈迦の生まれ変わり。
誰がどこでそんなことを言っている?
>>57 んーだから、似ている似ていないではなくて
そういう考え方がこっちの教えにはあるが、どうなのだろうというような
触発というのですかね、そういうことが、中央アジアで起きたのではないかということです
実際、唐の長安にはユダヤ教、回教、景教の寺院もあったわけですから
そういうものに触発されて、末法思想が成立したのではということで
末法思想の先には567千万年後に弥勒がうんたらがあるわけですし
こんなに世が乱れるってことは、この世が終わってしまう、までは同じじゃないですかね
それに対してどうなるかは宗教によって変わるのだと思いますけど
>>Sbさん
言ってること変わりすぎやいませんか?
相手の話の矛盾突くのは子供じみてるかもしれませんけど、ちょっとあまりにいい加減に思えるもので。
>>23 名前: Sb ◆SbSGI7AtEA [sage] 投稿日: 2005/04/05(火) 13:40:58 ID:???
>>21 末法思想というのは、ただの終末思想なんじゃないですかね
末法思想の成立には、キリスト教の終末思想が影響しているのでは、と思っているのですが
「末法思想と終末思想は違う」というレスに対して↓
>>51 名前: Sb ◆SbSGI7AtEA 投稿日: 2005/04/07(木) 12:56:26 ID:L1EsCNic
>>26 そりゃ違いますよ、まぁ、多分もともと人間の恐れとしてあるのでしょうけどね
景教等の他教と接したことは歴史的に確かなのですよ
だとすると思想も混ざります、似たようなものが出来てしまってもおかしくないのではないかと思いますけどね
「末法思想と終末思想は似てすらいない」というレスに対して↓
>>59 名前: Sb ◆SbSGI7AtEA [sage] 投稿日: 2005/04/08(金) 11:56:50 ID:???
>>57 んーだから、似ている似ていないではなくて
そういう考え方がこっちの教えにはあるが、どうなのだろうというような
触発というのですかね、そういうことが、中央アジアで起きたのではないかということです。
聖書に書いてあるから終末が来るなんて話は只の電波としか思えないし
同様に、御書に書いてあるから末法だとか言われても胡散臭い・・・
御書の正当性は、どのように担保されるのですか。
>>59 Sbさん
末法思想も終末思想も、実はどちらも「世界が終わる」という話ではないんですよね。
末法思想は「救いのない時代が訪れる」、というものだし、終末思想は「悪に対して神の裁きがくだる」というものです。
共通点といえば、それが未来に対する予言であるということと、この世が悪世であるという認識ということですね。
仏教とキリスト教が接触しており、また互いに影響もきっとあったでしょうが、ここまで違う2つの思想に対して、片方が片方に
触発されて、もともとなかったものが成立にまで至ったと考えるのはちょっと強引だと思いますよ。
>>61 旅人さん
このスレには御書が正しいと思っている人はいないようですよ。
あと、誰に対してのレスなのか明確にしたほうがよろしいかと。
>>63 御書根本の人なら誰でもよかったのですが
スレ違いのようでしたら他でやります・・・
65 :
蘇った、お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :2005/04/09(土) 16:51:34 ID:rc7Mz2Hw
>>60 Sbさんに言っても無理ですよ。Sbさんの世界は
趙州因みに僧問う、狗子に仏性有りやまた無しや。州云く、無。
趙州因みに僧問う、狗子に仏性有りやまた無しや。州云く、有。
のような考え方ですから。
頭が正常な人は、このスレに書き込まないほうがいいですよ。
日蓮の超能力や奇跡を信じる、子供じみた妄想の世界の住人が
垂れ流す毒電波を観察するスレにしましょう。
ttp://www.j-world.com/usr/sakura/index.html もうすでに誰かが紹介しているのかもしれませんが、大変面白いHPを見つけました。
無我や空というのは、言葉で語ることが不可能なわけのわからなく捉えどころのない深遠なものなのではなく、
極めて理路整然として単純な(しかし意味深い)ロジックで語ることができることが説明されています。
原始仏教や竜樹について詳しくはないのでどこまで著者の研究を信用することができるかはわかりませんが、
少なくとも僕にとっては、これまで捉えどころがなく嫌厭していた空や縁起に関するもやを晴らさせてくれました。
言語外の甚深な思考法があるという考え方は、ときとして安易な神秘主義に陥ることになると思いますし、また言葉
を否定することによって逆に単なる言葉遊びになってしまって、語る言葉の一切が意味をもたない、ということ
になると思います。
中観派の語る「空」が、本当に我々一般が用いているロジック(言葉)を否定するものであれば、それはおそらく
生きるにおいて役に立たぬものであろうし、それ故に興味ももてない、と思っていたので、そうではないらしいと
知って安心したところです。
また空論が単なる哲学的議論なのではなく、初期の仏教に立ち返った、極めて実践的、実際的、具体的なもので
あるとも知って、非常に嬉しく思いました。
68 :
マハーバイロ:2005/04/10(日) 12:30:53 ID:???
>>67 ひゃっきまるさん
非常に興味深いサイトですね。じっくり読んでみないと理解出来ませんが・・・
私は「空」の概念と数字の「0」の概念との関係性をよく考えるのですが、
「空」の概念が出来てから「0」が発見されたのか?などと・・・
末法と終末の話題が出て来てるようなので、ふと思った事を無責任にレスしますが、
人間は生まれながら「業」を持っているとか、「罪」を持っているとかの思想には、
元々「マイナス」から出発して「プラス」に転じようとする意味の宗教的背景があるような感じがするのです。
シャキャムニの時代には「0」も「マイナス」も概念としてなかったのであれば、「業」や「空」と呼ばれる観は
現代感覚から捉えようがあるのだろうか?と・・・
まぁ これは自問ですが、宜しければご意見お聞かせ下さいませ(笑
>>68 マハーバイロさん
>空とゼロ
「空(くう)」は、部屋に人がいない喩えで説明されますから、日本語の「空(から)」と同じような概念とみなせるようです。
そうなると、意味としては空とゼロは完全に一致しますね。
まあ、「から」という概念はどの文化圏にも自然にあるはずですから、ゼロの発見と因果関係があるのかは分かりませんが・・・。
>元々「マイナス」から出発して「プラス」に転じようとする意味の宗教的背景があるような感じがするのです。
>シャキャムニの時代には「0」も「マイナス」も概念としてなかったのであれば、「業」や「空」と呼ばれる観は
>現代感覚から捉えようがあるのだろうか?と・・・
ちょっと文章の意味がわかりませんでした(^^; 答えになるかはわかりませんが↓
バラモン教やユダヤ教の成立の経緯はわかりませんが、対して仏教やキリスト教が発祥した経緯、少なくともこの両宗教が
興った当時の社会的背景は、現代からでもある程度推察可能です。
どちらも、なんらかの問題意識(差別、四苦、支配者からの圧制、世の乱れなど)を契機として興っているはずです。
つまり、仏教もキリスト教も、マイナスの問題意識から出発していると思います。
70 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2005/04/10(日) 23:09:10 ID:B/n/tsM+
>>69 >意味としては空とゼロは完全に一致しますね。
ド馬鹿だなwww
>>70 空というのは人によってものすごく多様な解釈がされているのですよ。
仏に対して多様な解釈と概念があるように。
だから僕は、空について今まで非常に胡散臭い印象をもっていたわけです。
空をわけのわからない言語外のものとすることで、いたずらに神秘主義をもちこんでいるのではないかと。
>>69では、
もし「空が日本語の空(から)と同じような概念とみなせるとしたら」、という条件付きの意味で述べました。
これは、
>>67で紹介したサイトの解釈ですが、この考え方はいかにも素朴で、初期の仏教では単純にそれだけの意味で
使われていたとしても不思議ではないと思いました。
あなたこそ、自分がそうだと思っている「空」の概念について、見直してみたらどうでしょうか。
72 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2005/04/11(月) 00:41:45 ID:cMK2njK0
73 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2005/04/11(月) 01:01:45 ID:UWIWnPZg
横レス失礼
完全無欠の真空。
これは無かというとそうではない。
そこには空間が存在する。
完全なる無とは空間すらない状態。
数字の0とは……。
空という概念は……。
全く関係のない首の突っ込み方で失礼します。
74 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2005/04/11(月) 01:15:58 ID:yc//BBua
空は1つの概念だよ。
それは、例えるなら、快楽。
自慰を言葉で説明するのは難しいが、人間の脳の
ある種の快楽中枢を刺激することで起こる現象という
共通認識があるだろう。その前提に立って、
空も人間の脳に既にセットされている感覚と言って良い。
現実というのは存在していない。そういう感覚というのは
確かにあるそれが「空」。私は、現実というものが、
全く存在していないこと親におんぶされている頃から認識していた。
人は存在していない・・・。人間は牢屋にいるということを認識しないと、
仏教は全く意味をなさないよ。牢屋とは機械的な肉体に支配された自我。
自我をヴィッパッサナー瞑想で見つめると、その本質は「自分がある」
という感覚にある。
自我なんてのは、動物の脳と前頭葉の「差(空)」に過ぎない。
それらを融合させるのが、仏教の目的といえる。
だから、仏教はどこかの団体の所有物であったり、
特定の人物の占有物ではない。それを望み手に入れる
各自のメソッドに過ぎない・・・。
言葉遊びスレはここですか?
76 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2005/04/11(月) 01:37:38 ID:yc//BBua
>動物の脳と前頭葉の「差(空)」
インスピレーションで書かせてもらうよ。
動物が人間となり自我を持ったのは、前頭葉が発達してからだ。
人間の前頭葉は動物の脳に反発するように作られている。
この動物の脳と人間の脳との差が自我を形作る。
だから、自我の存在そのものが肥大化すると、動物の脳(ある種法則)
との乖離が生じる。コレが悪となる。人間の目的とは、
ある段階で、強制的に自我を持たされ、そしてその自我を
動物的な本能と融合させる。ことにある気がしてならない。
もちろん、それには自我が作り出す因果を超えることが必要だ。
因果を超えるには、前頭葉と動物の脳が作り出す自我をもう1つの
意識で見つめる作業が必要となる。これが空観であり、
仏教で伝えられてきた止観、ヴィパッサナー瞑想であると思われる。
とりあえず、2つの選択肢があり、常に自分が損をする選択を選べるぐらいの
空観を得ないと仏教の入り口にも立っていない。
私が理想とするのは、自分を苦しめ憎む人のために進んで命を投げ出すことだ。
このぐらい因果を超えていないと、仏教を学んでいるなんて恥ずかしくて
いえないからな。
77 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2005/04/11(月) 01:41:18 ID:yc//BBua
>75
確かに。「呪文を唱えれば欲得が満たされる」とは違う類だがな。
月は同じなのに
水に映った月は
かたちを変える
ありのままの自分は
何も変わらないのに
ジタバタすると心はくもり
水に映った月のような自分しか
見ることができない
ああ、しまった。
前にも「空」の話題出て収集つかなくなったことあるのに・・・。
みんな、自分の「空」の解釈開示するのが大好きなんだよね・・・。
ナーガールジュナはさすが大乗の大論師。
大乗非仏説説はナーガールジュナの前では意味をなさないな。
ひゃっきまるさん、
よいサイトを紹介して下さりありがとうございます。
一念三千は仏教思想の究極だと考えておりますが、
ブッダから続くその思想的系譜の途上にナーガールジュナが
重要な位置を占めていることを確認できました。
これからの思索の糧にしたいと考えています。
82 :
Sb ◆SbSGI7AtEA :2005/04/11(月) 11:27:06 ID:DG7uPTIC
>>62 直接的に触発されたのではないにしても
人には根源的な死の不安から来る終末不安があるとすれば
あっちの教えではこういうふうに説いているが、こっちではどうなのかという疑問が民衆に生まれ
それに答えるために生まれたのではと考えることも出来るのではないでしょうか
あくまでも推察の粋なので乱暴に感じるかもしれませんが、一つの考察としてみていただければの程度ですので
83 :
Sb ◆SbSGI7AtEA :2005/04/11(月) 11:34:12 ID:DG7uPTIC
>>67 何で突然空なのかわかりませんが
空は説明できるものではないと思いますよ
ロジック云々ではないし
私の方法論で言ってしまえば、悟るしかないのです
空についてのどんな説明も間違っているものなのですよ
記せば間違ったものになる、だから無記といたします
84 :
マハーバイロ:2005/04/11(月) 14:03:14 ID:???
私もインスピレーションとお断りして・・・
>>80 賛同致します。
中観派についてとは関係ないレスで、独り言です・・・
シャキャムニは「空」について説かなかったと思っています。
でも「空」をシャキャムニの思想の中に結びつけると・・・
きっと「ありのまま」って事なのかな〜?
だからきっと、人間は「業」を背負って生まれるとか、「不幸な境遇」に生まれるとか、
そうは考えていなかったのだろう・・・決してニヒリズムでない「ありのまま」・・・
確かに、記せば間違ったものになってしまうのかも知れませんが・・・(虚
そうやってあれこれ考えるのは「空」ではないよね。
86 :
蘇った、お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :2005/04/11(月) 17:51:26 ID:0xQxQz16
>>無我や空というのは、言葉で語ることが不可能なわけのわからなく捉えどころのない深遠なもの
なのではなく、
極めて理路整然として単純な(しかし意味深い)ロジックで語ることができることが説明されてい
ます。
本当にそうですかね〜。釈尊が無我を倫理的に説き、天台がさらに詳しく説き、日蓮が
その倫理を発展させた。その日蓮の教えを正確に理解し、成仏し涅槃の境地に入り多く
の学会員を指導する立場の人が聖教新聞の4面のような記事を書いているのですか。
「極めて理路整然として単純な(しかし意味深い)ロジックで語ることができる」
このような教えですから、さぞかし智慧と慈悲に満ちあふれた内容の記事ですね。
87 :
蘇った、お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :2005/04/11(月) 17:53:08 ID:0xQxQz16
ごめん。理論と倫理を間違えた。
仏教は否定の否定。
人間社会の世間的な自我を否定するために般若で無我を説いた。
その上で八大自在なる「真我」を涅槃で説いた。
空も末法も同じ。「有って無いもの」
案の定、各人の悟りを披瀝するスレになってしまいました。
百人に 百様の悟り これでよし
>>82 Sbさん
「死の不安からくる終末不安」とは、「世界が終わるという恐怖」に対応しそうですが、
>>62でも述べたとおり、
末法思想も終末思想も世界が終わるという思想とは無関係です。
>>83 Sbさん
「空は言葉で語らず、説明できるものではない」というのは、今の僕からは、そうかもしれないし、そうではないかもしれない、としかいえません。
僕自身は何か確信できる空の答えをもっていませんから。
しかし、今まで「空」をそう語ってきた人間を、「うさん臭い」と感じているのは確かです。
>>81 件のサイトでそこまで言えるかどうかはわかりませんが、どういたしまして。
>>86 お邪魔しますさん
文章の意味が分かりづらく、よく理解できませんでしたが、学会批判の問題は立て分けて論じたほうがよいのでは。
あと、よほど文章力に自信がなければ、皮肉的表現には手を出さないほうがよいのでは。
>>80 & マハーバイロさん
>ナーガールジュナはさすが大乗の大論師。
>大乗非仏説説はナーガールジュナの前では意味をなさないな。
大乗非仏説には大きく分けて2つの主張があるように思います。
1つは、「釈迦が説いたと見せかけておきながら、実は違う、偽経典である」という批判、
もう一つは、「大乗仏教の思想は、釈迦の思想から逸脱している」という批判です。
前者については、現代では言い逃れるすべはないでしょう。後者については、教典に
よって違う、ということになると思います。
大乗非仏説が龍樹によって意味をなさなくなる、とは安直に思えません。
(それとももしかしたら、龍樹が大乗経典を創作した、という伝説に基づく発言でしょうか?)
>>84 マハーバイロさん
>だからきっと、人間は「業」を背負って生まれるとか、「不幸な境遇」に生まれるとか、
>そうは考えていなかったのだろう・・・決してニヒリズムでない「ありのまま」・・・
釈迦在世当時の社会はそんな生易しいことを言える時代ではなかったと思いますよ。
被差別階級の扱いは想像を絶する悲惨なものだったはずです。「不幸な境遇」は事実として
存在していたし、しかもそれは人為的につくられさえしていました。
僕は、仏教はある意味ではニヒリズムと言ってよい思想と思っています。しかしそれは、
「悪性のニヒリズム」ではありません。「悪性のニヒリズム」とは、かつて部派仏教がそう
批判されたように、自分自身の覚りにしか関心をもたず、覚りすまして世の不幸に目を向けない
態度であると思います。
94 :
マハーバイロ:2005/04/11(月) 23:06:23 ID:6UsxyZOw
それではスレの主旨に沿って、ネタになるかどうか解りませんが、学会の仏法哲学大辞典(S39年)より空観について引用します。
賢学の皆様の活発なご意見を期待します。
---------------------------------------
(2)また空観とは生命観である。一般の哲学においては、
「有」「無」の二つを根源にしているが仏法においては「有」「無」の他に「空観」という考え方がある。
たとえば、睡眠時における心はどこにもないが、目がさめると同時に心は活動する。
すなわち睡眠時には心はなく、起きると同時に心が活動する。
このようにあってなきがごとく、なくしてあるがごとき有無で論ずることのできないとする考え方を「空観」とも「妙」ともいうのである。
しかしてこの空には即仮・即中を具すのである。
---------------------------------------
95 :
マハーバイロ:2005/04/11(月) 23:30:03 ID:???
スマン ageてしまった(汗
>>93 ひゃっきまるさん
私はJ・ゴンダなどに影響受けていて客観的に見るところなど結構好きなんです。
彼のインド思想史から竜樹について紹介します。
-------------------------------
竜樹(西暦紀元第三世紀?)は最も偉大なインドの思想家である。
彼の思想は、いわば現実世界での諸法の実在性を肯定立場と、(諸法によって)生じる現実世界(の事実性)を否定するという意味で諸法を否定する立場とのいずれにも偏らないという点で、中観と呼ばれる。
竜樹の著書は中観派を、数世紀にわたって優勢を誇った北方系仏教の内部ばかりか、またインド思想一般でも、最も重要な教派の一つに仕立てあげた。
彼は忠実な仏教徒として終始、自らを独創的と主張することはなかった。
------------------------------------
>>94-95 マハーバイロさん
引用ありがとうございます。
自分で話題をふっておいてなんですが、もう空に関しては収束させる方向にしたいと思います。
本当にこの話題、尽きることがないんで・・・。
J・ゴンダの空の説明は、まるでプラトンのイデア論そっくりですね。
97 :
マハーバイロ:2005/04/11(月) 23:40:05 ID:???
インドという国に於いては、かなり独創的な思想であっても
皆、自称「仏弟子」なわけです。
又そうでなければ認めてもらえないという背景があったのだと思います。
>>97 マハーバイロさん
そりゃ当然の話だと思いますよ。
仏(釈迦)や経典と違う思想が正しいんだ、と主張したとしたら、その人は仏弟子ではないわけですし。
「自称」だけでなく、竜樹は身も心も仏教徒だったと思います。
99 :
蘇った、お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :2005/04/12(火) 03:59:18 ID:gw8ZIWjV
「特別な真理(空みたいなもの)」を理解し、法を極めたから
救われるのではなく、自分自身の心を変えることによって安心
立命の境地にはいることをブッダは指し示したのではないかな。
修行する過程と言うか、悟ろうとする姿勢が大事なんじゃないの?
まぁどう考えても御利益を強調する宗教は全部インチキなのは間違いないね。
運がよくなるとか人間を革命するとか、それは馬鹿でしょ。(嘲笑
悟りても 何もかわらず 茜雲
>>92 末法思想についてはもうやめましょう、人それぞれものの見方が違うのですし
大乗成立時に生きていたわけでもありませんから
非風非幡ですよ揺れているのは私たちの心
空に関しては、私は空を説明しているものこそ胡散臭いと思います
空は説明をして相手に伝わったら空ではなくなる
わかるものではないものをわかるように説明するなど、ただ嘘をついているだけです
「摩訶衍の法は、四句を離れ百非を絶す、諦聴、諦聴。」
「無門云く、且らく道へ、是れ説法するか、説法せざるか。
口を開けば即ち失し、口を閉ずれば又喪心す。
開かず閉じざるも、十万八千。」
>>95-98 竜樹は第14祖、仏弟子なだけではなくて仏祖ですよ
袈裟と衣鉢を受け継いだお方です
仏陀の悟りを受け継いだお方なのです
それを思想家などと貶めるとは(怒)
竜樹のとき大乗化は避けられないことだったんじゃないでしょうかね
中央アジアという文明の交差点にあったわけですから
104 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2005/04/12(火) 10:18:27 ID:Exy6Lm9t
http://www.j-world.com/usr/sakura/replies/buddhism/buddhism01.html ただ、ナーガールジュナが「衆生済度の大乗仏教を起こ」したかどうかは、僕には疑問です。もちろん、ナーガールジュナの批判の主な対象となったのは、
後に大乗仏教者が、小乗仏教と呼んで批判した仏教学派の一つであるサヴァスティヴァーダ派(説一切有部)です。しかし、ナーガールジュナを大乗仏教
の祖師として祭り上げたのは後代の仏教徒であって、彼自身はその主著において、どこにも「大乗仏教」の立場を語りません。例えば「妙法蓮華経」など
の多くの大乗仏典に特徴的な「大乗対小乗」という図式を、ナーガールジュナの著作に見つけることはできません。また、大乗仏教の特色である菩薩の
思想や般若波羅密の思想もありません。それどころか、先に挙げた縁起の概念などの例に見られるように、積極的に小乗仏典から、その教義を「ブッダ
の教え」として受け継いでいます。仏教を大乗と小乗に分け、ナーガールジュナを大乗の味方に位置づけるのは、ナーガールジュナの思想を誤解する危
険があると思われます。実際、後代の大乗仏教徒は現在に至るまで、自分たちの宗派の教えを権威づけるために、あるいは正当化するために、しばしば
ナーガールジュナを利用しています。それは、一方ではナーガールジュナの影響がいかに大きかったかを示すものですが、他方では、実像のナガールジ
ュナを見えにくくしています。ナーガールジュナに関する書ではなく、ナーガールジュナの書が必要となるわけです。
105 :
蘇った、お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :2005/04/12(火) 11:12:30 ID:D/1Y3OVz
>>99のつづき
スッタニパータから
尊者ナンダが〔尋ねた〕
「これらの沙門や婆羅門たちは、誰もが、〔外に〕見られたもののうちに
〔清浄の境地を〕、さらには、〔他から〕聞かれたものによって清浄〔の
境地〕を説きます。さらには、戒や掟によって清浄〔の境地〕を説きます。
〔その他〕無数の〔外的な〕形態によって清浄〔の境地〕を説きます。牟
尼よ、もし、〔彼らを〕激流を超えざる者たちと説くなら、尊師よ、それ
では、しかして、誰が、天〔の神々〕と人間たちの世において、生と老と
を超えたのですか。世尊よ、〔わたしは〕あなたに尋ねます。それを、わ
たしに説いてください」と。
世尊は〔答えた〕
「ナンダさん、わたしは、『全ての沙門や婆羅門たちが、生と老に覆われ
ている』と説くのではありません。まさに、この〔世において〕、あるい
は、見られたものを〔捨てて〕、あるいは、聞かれたものと思われたもの
を〔捨てて〕、あるいはまた、一切の戒や掟を捨てて、さらには、一切の
無数の〔外的な〕形態を捨てて、渇愛を知り尽くして煩悩なき者たち――
まさに、彼らを、『激流を超えた人たちである』と〔わたしは〕説きます」
と。
−1081.1082−
「見解や伝承や知識」などの断片的知識でもなく、あるいは、マニュアル化されパタ
ーン化された「形だけの行為」では無く、己のうちにある、欲望、執着心を徹底的に
洞察し、「かくあるべきの理想」「自己中心的な思い込み」「こうしなければの心
理的抑圧」「欲望の対象として虚構された他者・他物」などなど、これら、特定の視
点で限定された「イメージ(=形態)」をすべて捨て去った者、固定観念(先入見)
という「イメージの呪縛」から解放された者、そのような者でなければ、激流は超え
られない、とブッダは説いている。
問題は外にある法ではなく、自己の心をどうするかなのです。
>>102 Sbさん
>末法思想についてはもうやめましょう、人それぞれものの見方が違うのですし
人間の知識には限界があるし、人によって視点や考え方が違うのですから、話が平行線で終わることの方が多いし、
そのことはお互いにとって全く恥じることではありません。
しかし、Sbさんは、相手のレスの内容を理解してからレスするという当然のことを行っていません。
そのことは恥じるべきことと思います。
>空に関しては、私は空を説明しているものこそ胡散臭いと思います
>空は説明をして相手に伝わったら空ではなくなる
空を悟ること=成仏=目的達成、という文脈でいうなら、当然そのような話になるだろうと思います。
しかし僕はこのような仏教観に疑問を持っています。
四諦や八正道のように、空自体は難解でも何もない素朴な概念なのではないかと。
そして仏教は、それらの「実践」こそが重要なのではないかと思っています。
>>103 Sbさん
>竜樹は第14祖、仏弟子なだけではなくて仏祖ですよ
>袈裟と衣鉢を受け継いだお方です
>仏陀の悟りを受け継いだお方なのです
大変興味深い話です。
「第14祖の仏祖」とはどういう意味でしょうか?
釈尊は「第1の仏祖」で、代々悟りを得たとの証に袈裟と衣鉢が受け継がれてきて、竜樹はその14番目だという意味
でしょうか?
そして仏祖は、仏弟子とは違い、過去の経典とは違っていたとしても自分の悟りを仏の言葉として語る権限がある、
ということになるのでしょうか?
付法蔵の24人というのをご存じですか。
正法時代に法灯伝持をすると予言された伝法者です。
竜樹は付法蔵第十三に当たります。
釈尊から数えると十四代目ですね。
付法蔵経などをもとにした思想です。
>>107 情報ありがとうございます。
付法蔵というのは、単なる伝説の類ですか? それとも、史実ですか?
また、禅宗以外で認められた話なのでしょうか。
>>ひゃっきまる
『功徳』『仏罰』『生命論』
それぞれロジックで存在を証明してみろよ。
>>108 天台は摩訶止観にて次のように書いております。
「法を大迦葉に付す(以下略)これを取れば則ち二十四人なり、
諸師皆金口の記する所なり、並びに是れ聖人にして能く利益する
こと多し」
日蓮も開目抄において次のように書いております。
「されば仏、付法蔵経等に記して云はく『我が滅度に正法一千年
が間、我が正法を弘むべき人、二十四人次第に相続すべし』と、
迦葉・阿難等はさてをきぬ、一百年の脇比丘、六百年の馬鳴、七
百年の龍樹菩薩等一分もたがわず、すでに出で給ひぬ、此の事い
かんがむなしかるべき、此の事相違せば一経みな相違すべし」
これらのことから考えますと、天台家、日蓮家においても
かなり認識されていた話と思います。
111 :
蘇った、お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :2005/04/13(水) 03:25:15 ID:WR8zacFR
付法蔵の二十四人
摩訶迦葉、阿難、摩田提、商那和修、優波崛多、提多迦、弥遮迦、仏陀難提、仏駄密多、
脇比丘、富那奢、馬鳴、迦毘摩羅、竜樹、迦那提婆、羅[ゴ]羅多、僧伽難提、僧伽耶舎、
鳩摩羅駄、闍夜多、婆修槃陀、摩奴羅、鶴勒那夜、師子
だそうです。
付法蔵は学会でも教えてると思うが・・・
>>106 >>そのことは恥じるべきことと思います。
己の心揺れていたが事ゆえとお許しください
>>空を悟ること=成仏=目的達成
修証一等でありますからそれはありえません
空を悟るとはすなわち己に立ち返ることです
到達点であり、出発点です
確かに空は難解でもなく素朴です、でもそれだけではないのです
解が無く、判ぜられず、分けられない、でも神秘的なものではない
当たり前のことなのです
四苦八苦である人生を生きていくこと、それそのものが実践です
>>仏祖は、仏弟子とは違い
仏祖であるから仏弟子なのです、違いは無いのです、違うものではないのです
>>自分の悟りを仏の言葉として語る権限がある
この質問が一番重要だと思います、他は自分でお調べください
なぜ、この質問が重要なのかといえば
この質問が、すなわち、仏とは何ぞやということになってしまうからです
袈裟と衣鉢を継ぐ、すなわち仏祖
権限などというものなのでしょうか?
仏教とはそういうものなのでしょうか?
達磨はなぜ西から来たのですか?
庭の柏の木です
横レス失礼
>113 Sbさん
> 己の心揺れていた事がゆえとお許しください
これはアレだよね。「ごめん」って事だよね?
だとしたら、潔くてカコイイと思う。惚れなおしたよw
禅やその他仏教知識に関しては、「相手はそれを知らなくて当然」という前提で話すのが、礼儀かなと思うんですよ。
でないと、法華経至上や日蓮本仏を当然の共通理解として、一方的に論を進める学会員の鏡になってしまうので。
ひゃっきまるさんが、今までのやりとりからすればご自身は当然知ってる話を、
前提の問いから始めるようになさってるのは、ROMの方や新しい参加者さんの視点を意識した、
スレの間口を狭めない交通整理の意味合いがあるのではと思います。
>>109 「功徳」「仏罰」は、ロジックではなく実験でないと証明とは言えないでしょうね。
「生命論」は、論ですから証明する対象ではないかと。いってみれば「考え方」ですから。
ちなみに僕は、いいことをすればいいことが返ってくる、程度のことは、信じる、というかなんとなく意識して生活しています。
創価学会のいうところの「生命論」ですが、「仏=生命」というのは違うと思っています。
>>110 なるほど。摩訶止観の全てが天台によるものとは限らないと思っていますが、
少なくとも天台の流れからくる宗派は認めているということになりましょうか。
>>111 情報ありがとうございます。
>>112 そうかもしれません。不勉強なもので。
>>113 >仏祖であるから仏弟子なのです、違いは無いのです、違うものではないのです
はて? では、仏祖=仏弟子ということですか? では何故、
>>103で、
「竜樹は第14祖、仏弟子なだけではなくて仏祖ですよ」と怒ったのですか?
竜樹は、「仏祖かつ仏弟子」で、我々は、「仏弟子ではあるが、仏祖ではない」ということですか?
>袈裟と衣鉢を継ぐ、すなわち仏祖
>権限などというものなのでしょうか?
>仏教とはそういうものなのでしょうか?
「権限」でなくてけっこうですが、その仏祖とやらは、「一者相伝」なのですか?
あと、僕はSbさんに信仰上の教えを請うているわけではないので、勘違いされませぬよう。
>>114 春田の蛙さん
>ひゃっきまるさんが、今までのやりとりからすればご自身は当然知ってる話を、
>前提の問いから始めるようになさってるのは、ROMの方や新しい参加者さんの視点を意識した、
>スレの間口を狭めない交通整理の意味合いがあるのではと思います。
あれ?(^^) 天然なんですが・・・。
僕は仏教のことなどほとんど知りませんよ。創価学会の2世ですから、学会教学は少しだけ知って
いますが、詳しい人には全く及ばないでしょうね。
あとは、信仰する上での仏教というより、考古的研究としての仏教の本を少し読んだ程度ですね。
付法蔵というのははじめて聞きましたが、正直「むちゃくちゃ胡散臭いなあ」と思ってます。
ちゃんと調べていないので今はなんともいえませんが、もし根拠無くこんなことを禅の人が信じているの
だとしたら、日蓮本仏論を笑えないじゃないか、と思ってます。
仏罰は専用のスレがあるからいいとして
功徳ってのはどうやって実験すれば有無を確認できるだろう?
あ、題目しろってのは無しね。費用がかかる時点で詐欺確定だから。
いろんな小道具を買わされて、功徳がなかったら大損だからなw
お邪魔しますさん
ひゃっきまるさん
「空」を蒸し返すつもりではないですが(笑
「ウダーナヴァルガ」を読んでいたら、こんなのがあった・・・
--------------
12章 道
七、「一切の形成されたものは空である」と明らかな智慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。
これこそ人が清らかになる道である。
--------------
「ダンマパダ」にはちょうど抜けている部分ですね。
>>115 ですから、説明という手段では伝わらないのです
怒ったのは思想家などと辱めたからです
>>我々は、「仏弟子ではあるが、仏祖ではない」ということですか?
涅槃に至っていないのですから仏祖とは言えないでしょうね
でもそう言って良いのかはわかりません
>>「権限」でなくてけっこうですが、その仏祖とやらは、「一者相伝」なのですか?
一者相伝だったようですね
釈迦の袈裟と衣鉢は一つしかありませんでしたから
何が伝わったかは迦葉さんに聞いてください
ところで、仏教は信仰なんですかね?
121 :
Sb ◆SbSGI7AtEA :2005/04/14(木) 13:39:27 ID:8izzQJzJ
>>116 >>正直「むちゃくちゃ胡散臭いなあ」と思ってます。
(笑)方便ですよ、そうやって伝わってきました、
ただそれだけでいいんです
そこに悟への道があればそれでよし、それが大乗でしょう
Sbさん、私は他の名無しさんと違って別に煽る気持ちも何もないけど、
そういう論理だと層化と同じように思いますが、いかがでしょうか。
悟れるのなら方便、つまり手段は選らばない、ということになると思います。
大乗の拡大解釈が層化みたいなものを生んでしまったのですし。
ちなみに層化や正宗では、付法蔵は付法蔵経に拠って認めてるものの、
粘華微笑はまったくの作り話だといってます。
それの元になったのが大梵天王問仏決疑経ですが、
偽経とされてるというのがその主張らしいです。大乗非仏説ではなくです。
ただ、それも枝葉の議論のような気もしますがね…。
>>120 Sbさん
>怒ったのは思想家などと辱めたからです
僕もマハーバイロさんも「思想家」などと一言も言っていませんよ。
マハーバイロさんは、竜樹は自称仏弟子ではあっても、実際はそうではなかった、というような口ぶり
>>97だった
ので、僕は、竜樹が大乗仏教を発明したなどという「伝説」に非常に懐疑的だったので、「身も心も仏教徒だったと
思う」と答えました
>>98。
仏教徒に対して、「あなたは敬虔な仏教徒ですね」というのは、むしろその人にとって最大の誉れと思いますが・・・。
教祖なんかに祭り上げられたら逆に困惑するとは思いませんか。
それともSbさんは、J.ゴンダさんに怒ったんでしょうか
>>95(この人の空の説明はなんかおかしいですけどね)。
仏教思想の発展という文脈からみた場合、思想家という位置づけは間違ってはいないと思います。ただ、それは
あくまで竜樹が仏教徒であったという前提があってこその話だと思いますが。
>一者相伝だったようですね
>釈迦の袈裟と衣鉢は一つしかありませんでしたから
日蓮正宗の血脈の教義もそうですが、一つのものが代々受け継がれていく、という考え方は、「これこそが正統」と
いう主張に結びつくように思います。というよりは、逆に、「これこそが正統」と言いたいがために、後からこうした「伝
説」が生み出された、と考える方が自然のように思います。
胡散臭いだけでなく、むしろ危険だと思います。
>ところで、仏教は信仰なんですかね?
どの仏教を言っているのかにもよると思いますし、信仰の定義にもよると思います。
>>121 Sbさん
>(笑)方便ですよ、そうやって伝わってきました、
>ただそれだけでいいんです
>そこに悟への道があればそれでよし、それが大乗でしょう
「お話」を信じるのは勝手ですが。
しかし、個人的には、そういう類の話を信じることと悟りの道とは関係ないと思います。
「ものごとをありのままに観察する」というのが仏教的と思ってます。
>>124阿呆
物事をありのままに観察できる人間が層化なんぞに騙されるわけないだろうが。
>>123 ひゃっきまるさん
>>95 はJ・ゴンダの「空」への理解の説明ではなく、なぜ「中観派」と呼ばれるかの説明です。
自称仏弟子というのは、ナーガールジュナは大乗とか小乗とかの分類分けではなく、
それまでの仏教の流れからいっそう発展させたという意味で使用しましたが、
賛否両論あろうと思います。「空」がただの存在論で語られるとは思いませんが、
J・ゴンダのそこんところ引用します・・・
-------------------
竜樹は自らを仏陀の弟子であると称する。
人間仏陀の説いた教えが、決して、唯一絶対の真理でないことは言うまでもないし、仏陀自身も、
完全な意味で、真に実在とすることはできない。
--------------------
>>120 Sbさん
「思想家」と呼ぶ事がなぜ辱めることになるのかよく理解できませんが・・・
私にとってシャカもナーガールジュナも偉大な思想家であり哲学者です・・・
禅宗の達磨は付法蔵の第二十八祖として付嘱を受けたとかいってるしなw
さすがぁ禅天魔、ニケーンとおんなじだねw
>>126 マハーバイロさん
J・ゴンダの説をやや読み誤っていたようなので、
>>96の発言は撤回します。すみません。
無知をさらすようですが、中観派というのは「空」についての理論を展開した派であり、
中観というのはほとんど空観と同義であると思っていたのですが、違うのでしょうか。
>>127 もしあなたが騙りでなく本物の創価学会員なら、自らと自らの所属する組織を卑しめるような発言は慎んだ方がよいでしょうね。
http://www.j-world.com/usr/sakura/replies/buddhism/buddhism01.html ただ、ナーガールジュナが「衆生済度の大乗仏教を起こ」したかどうかは、僕には疑問です。もちろん、ナーガールジュナの批判の主な対象
となったのは、 後に大乗仏教者が、小乗仏教と呼んで批判した仏教学派の一つであるサヴァスティヴァーダ派(説一切有部)です。しかし、
ナーガールジュナを大乗仏教 の祖師として祭り上げたのは後代の仏教徒であって、彼自身はその主著において、どこにも「大乗仏教」の立
場を語りません。例えば「妙法蓮華経」など の多くの大乗仏典に特徴的な「大乗対小乗」という図式を、ナーガールジュナの著作に見つけるこ
とはできません。また、大乗仏教の特色である菩薩の 思想や般若波羅密の思想もありません。それどころか、先に挙げた縁起の概念などの
例に見られるように、積極的に小乗仏典から、その教義を「ブッダ の教え」として受け継いでいます。仏教を大乗と小乗に分け、ナーガールジ
ュナを大乗の味方に位置づけるのは、ナーガールジュナの思想を誤解する危 険があると思われます。実際、後代の大乗仏教徒は現在に至
るまで、自分たちの宗派の教えを権威づけるために、あるいは正当化するために、しばしば ナーガールジュナを利用しています。それは、一
方ではナーガールジュナの影響がいかに大きかったかを示すものですが、他方では、実像のナガールジ ュナを見えにくくしています。ナーガ
ールジュナに関する書ではなく、ナーガールジュナの書が必要となるわけです。
130 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2005/04/15(金) 10:21:09 ID:yyvnJPid
龍樹の大乗は、一種の仏教原理主義だと思うよ
説一切有部等によって作られた不要な部分をざくざく刈り取っていっただけ
もうちょっと具体的に言うと、本来“無記”とされるべき部分に対しても
あーだこーだと註釈解釈をつけられていた為、そこの部分に対して
「ちょっと待て。そこんとこは口出ししちゃまずいだろ。そんなのは仏教
じゃねーぞ」と論駁の限りを尽くしていっただけで
>>129さんのコピペには賛同する部分多くありますよ・・・
でも連続はやめてね欲しいです・・・
>>123 誰もひゃっきまるさんたちを怒っているなんて書いてませんですよ(笑)
提示されたJ.ゴンダさんの説明に対して、貶めていると怒ったのです
わかりづらく書いたことをお詫びします(っていうか不安的中)
思想や哲学では空足りえないのではないでしょうか
思想や哲学からも解脱する、その仏祖に対して
思想家や哲学者など辱めていると感じてしまったのです
一者相伝に関しては悟ったときにありがたくなるのですかね
悟る前にありがたがるものではないとおもいます
確かに危険だし、ありがたいものでもあり、どうでもいいことなんですけどね
どの仏教って、御釈迦様は信仰を捨て去れとおっしゃっていますが
信仰からも開放されるのが空なのではとおもっています
>>122 出来ればトリップだけでも付けていただければとおもいます
ほかの名無しさんと区別が付かなくなってしまうのです
それではもったいないのです
>>128 ひゃっきまるさん
私の浅識ですが、(実在論の観点から)大雑把に大別すると・・・
「一切は皆、空である」・・・よって一切は実在しない。・・・空観派の空観
「一切は皆、空である」・・・全てには実体と作用があって存在する。よって空を知る事が全ての事象を知る事である・・・根本一切有部
これらの議論に対して起こってきたのが、「全ては関係性に依って存在する」という・・・中観派の空観
しかし、「自性」や「本性」というのはシャカのアートマンの否定を否定してしまいますね・・・
「空性」に至ってはこの2文字だけで矛盾していると思うのですが(笑
>>132 Sbさん
>思想や哲学では空足りえないのではないでしょうか
>思想や哲学からも解脱する、その仏祖に対して
>思想家や哲学者など辱めていると感じてしまったのです
人間の考えることですから、思想、哲学といってよいと思います。少なくとも僕はそう思っています。
そのような思想や哲学とは違うというものがSbさんの「信仰」ということではないのかと、僕は思いますが。
>確かに危険だし、ありがたいものでもあり、どうでもいいことなんですけどね
僕も、「どうでもよいこと」だということに賛成です。
>どの仏教って、御釈迦様は信仰を捨て去れとおっしゃっていますが
>信仰からも開放されるのが空なのではとおもっています
釈尊は「信仰を捨てよ」といったかもしれませんが、世間一般では仏教は「信仰」するものだということになってます。
これは、「仏教」が時代を下ってから変質したか、「信仰」の定義が違うのか、どちらかということになりそうですね。
僕は両方だと思っていますが。
とりあえず、Sbさんにとっての「信仰」の意味がわからないと、会話にはならないわけです。
>>134 マハーバイロさん
つまり、空観には様々なものがあり、中観派はその一つ、というわけでしょうか。
それならば、
>>126で、なぜ「中観派」と呼ばれるかの説明とおっしゃった意味がわかりますが、であればやはり
>>95は中観派における「空」の説明だったのでは?
>しかし、「自性」や「本性」というのはシャカのアートマンの否定を否定してしまいますね・・・
確かに、普通に考えればそうなりますね。しかし、 僕は違う解釈も成り立つと思っています(それを積極的に支持するわけではありませんが)。
アートマンというのは当時のインドではかなり具体的な概念でしたから、自性という概念がそれとは明確に異なる、という考え方も、それはそれで
筋が通っているかもしれません。世に存在する様々なものの自性の理解によって悟りを得ようとする態度などは、一念三千にも似たところがある
ように思います。(むろん明確に違うということがわかっている上で言っていますよ)
ところで、マハーバイロさんは「仏性」についてどのようにお考えでしょうか。
>>136 ひゃっきまるさん どうもです(笑
資料手放しでレスしますが・・・
>中観派における「空」の説明だったのでは?
仰る通りです・・・そういうことになります。
ただ、J・ゴンダはサンスクリットからの訳者としての立場からという風に考えています。
またイデア論との共通点というのはさすがと思いました。
J・ゴンダもインド圏と語源が同じ事と、ある思想や概念に名前(呼名)を与える点など挙げています。
また別ですが、法付、竜樹について気づいて点なのですが・・・
龍樹(竜猛)は3人出てくるようです。
1、摩耶経に出てくる竜樹
2、中論の龍樹
3、八宗の祖(仏祖)としての竜樹
年代的にも別人だと思うのですが・・・(法付についてsbさんが詳しいと思いますので教えてくだされば助かります・・・)
>「仏性」についてどのようにお考えでしょうか
出来れば、仏性=如来蔵 から離れた話をしたいですね。
それと、仏性は唯識派からの展開だと思いますので、中観派の「空」とは別に考えていった方がよいと思います・・・
また、羅什は般若経に影響をうけて涅槃経を訳しているのではないかと勝手な想像をしています。
ですので、漢訳される際に「仏性」や「空」のエッセンスが盛込まれてしまっているのではないかと・・・
そこで、ひゃっきまるさんやお邪魔しますさんがおられるスレですので、
大乗興隆以前の出来るだけ原始仏教に近い資料の中から「仏性」らしきものが探しだせるのか話すのはどうでしょう?
私はスッタニパータ(岩波)を読んでる途中です(笑
>>135 信仰もまた色なのだとおもいます(いろじゃないですよ)
大切なものであるが、絶対な物なわけじゃない
いくら凄かろうが所詮信仰、糞の役にも立たないともいえるのだとおもいます
いくら信仰だからといって、疑うことを失くすなら捨て去るべきです
仏教は実践するものだとひゃっきまるさんもおっしゃっていたではありませんか
実践すなわち己の人生を生きること、違いましょうか?
>>137 マハーバイロさん
イデア論に似ているのではないか、と言った点は、前にいったとおりに撤回いたしましたので。
しかし確かにこのような抽象論が展開できるという点はインドと古代ギリシャでは似たような思想母体をもっているといえそうですね。
龍樹については、2,3は少なくとも同じのはずでは・・・?
>仏性
学問的なことはともかく、創価学会の教学では仏性というのはもっとも重要な中心的教義といってよいので、マハーバイロさん自身が
どのように捉えているのかお伺いできますか?
羅什の時代も当然、仏説は全て同一人物によって説かれた一貫性のあるものとして受け取られていたはずなので、ある経典の思想に
よって他の経典の内容を解釈するということは、頻繁に行われていたでしょうね。法華経などはその最たるものだと思いますが。
僕は別に仏性を肯定したいわけではありませんので、原始仏典の中から仏性思想をひろいだそうとすることにあまり意義を感じません。
しかし、無我と縁起の思想だけでは信仰する上では問題があるのではないかと思っています。物事が全て関係性によって成り立って
いるとすると、人間の「意志」もやはりそうだということにならないでしょうか。つまり、現代風な言い方をすると、その人が育ってきた環境や、
または遺伝などによってその人がその人たりえているわけですが、その人が「何かしよう」と思って行動していることは、実はその人の
中心主体のようなものが意思を働かせているわけではなく、意思を働かせていると思い込んでいるだけで、その意思の方向性などは全て
その人に関係するものの関係性によって決まっている、ということにならないでしょうか。
この考え方は、その人自身の意思による「行」という努力によって「覚り」という目的を得る、仏教に極めて馴染まない考え方のように
思われます。仏性という概念が後で現れてきたのは、こういう事情があったらからなのではないかと。
今気づいたのですが、浄土系の他力信仰は「無我と縁起の思想だけ」の決定論・運命論のような世界観に極めてよく馴染みますね。
>>Sbさん
繰り返しになります。
Sbさんの言う信仰の意味がわからないと、会話にはならないわけです。
人の道を諭す前に、まず会話を成り立たせる努力をしてください。
仏教は一般的に宗教であり、信仰するものだということになっています。
Sbさんは、仏教」は信仰するものではない、という主張をお持ちになるということですか?
>>137 マハーバイロさん
>大乗興隆以前の出来るだけ原始仏教に近い資料の中から「仏性」らしきものが探しだせるのか話すのはどうでしょう?
気づいたから書きますが、「法灯明 自灯明」というのはどうでしょう。
もちろん仏性ではありませんが、自分自身を拠り所にして歩め、という、その人の主体性を肯定する立場などは、
通じるものがあるように思います。
>139 ひゃっきまるさん
>中心主体のようなものが意思を働かせているわけではなく、意思を働かせていると思い込んで>いるだけで、その意思の方向性などは全て
>その人に関係するものの関係性によって決まっている、ということにならないでしょうか。
横レスすみません。
たぶん話題として出したもので、本気ではないと思いますが、
ずいぶんと極端なはなしですね。
それでは運命決定論のようになってしまいます。
未来が決まっているのなら、何をしても一緒だということになります。
それなら交通事故や病気に気をつける必要もないし、努力の必要もない。
でも、決まっていないから、交通事故に気をつけるでしょう。
なるほど、複雑な関係性によって思い通りにならないのも事実で、
落ち込む自分をどうすることも出来ないこともあるし、意思に反して
死んでしまったり、コントロールできない自分があります。
と同時に束縛されない意思があるのも事実でしょう。
本筋から外れたレスなので、スルーしてください。
日蓮大聖人が開目抄において以下の経文を引用されている。
「心地観経に曰く『過去の因を知らんと欲せば其の現在の果を見よ
未来の果を知らんと欲せば其の現在の因を見よ』等云云」
この経文、なかなか趣き深いと尾思わないか?
縁起の思想の一端がここにも現れているといってよい。
ひゃっきまるさんは議論を喚起するために書かれていると思うが、
縁起の思想は決定論とは全く異なる。
自身を縁起という関係性の中の受け身の存在ととらえてしまうと、
あたかも大海の波間に漂ううたかたの如き無力な存在となるだろう。
そう捉えてしまうと、決定論・運命論のようになってしまう。
しかし、それは一面的な見方である。
縁起は、相手だけでは成り立たない(もちろん自分だけでも成り立たない)
ことに気がつく必要がある。
互いに依報となり、正報となり縁起を紡ぎあげていくものなのだ。
一念三千に説かれる三世間のうち、国土世間を自分の外のものと思ってはいけない。
自分も国土世間なのだと捉えてこそ、一念に三千を倶するのである。
そしてもう一つ。現在の姿は、過去の縁起である。
未来の姿は、今から紡ぎあげる縁起である。
自分自身も互いに、また万象の縁となり、またなられている。
よく思索せよ。未来はこれから作られることを。
スレを汚して済まないが、話のネタにでも、、、。
もうこのスレはひゃっきまるの専用の演説会場でいいよ。
日蓮マンセーしないと一方的に罵倒されるだけみたいだし。
>>142 レスありがとうございます。
>>139は、僕がそう考えているというわけではなく、縁起の思想を突き詰めると
そういうことになるのではないか、だから後代では仏性という概念が必要になったのではないか、と推測
している、ということです。
勘違いされているかもしれませんが、通常我々が自分の自由意思だと信じているもの、判断なども実は
自由意志ではなく、自由意志だと思い込んでいるだけ、という考え方です。
交通事故に気をつけるだとか、努力するだとかも、する人としない人がいますが、する人はする縁起をもって
おり、しない人はしない縁起をもっているがゆえにしない、ということになります。
この話はお気づきと思いますが、極端な唯物論者に見られる、人間の自由意志を認めない、という考え方に
似ています。例えばDNAの2重螺旋の発見で有名なクリックはそう主張していますし、アインシュタインもその
ように考えていた節があります。
もうこのスレはひゃっきまる専用の演説会場でいいよ。
日蓮マンセーしないと一方的に罵倒されるだけみたいだし。
>>144 僕はアンチですよ。日蓮擁護のレスはしたことないと思いますが。
>>143 もちろん日蓮にしろ、龍樹にしろ、縁起を決定論・運命論とは認識していなかったでしょう。
それは、前にも言いましたが、そのような考え方は極めて仏教に馴染まない考え方だから
です。
あと、僕は日蓮や創価学会の信仰をどちらかといえば否定するスタンスでこのスレにいる
のですから、専門擁護を羅列して信仰の喚起を促すのはどうでしょう。あなたが創価学会員
なのでしたら、「アンチとしてのひゃっきまる」と議論に応じてくれれば嬉しいのですがね。
それとも、正宗の人ですかね。
過去にも属さず、未来にも属さないものがある。
それが一瞬の生命に他ならない。
いや、一瞬とは時間を内包するが故にまだ語弊がある。
英語のcurrentが近い考え方であろう。
それは、あるといえばなく、ないといえばある。
未来を過去に移し変えていく厚みのない膜のようなもの。
仏の通号を如来という。
過来にも属さず、未来にも属さず、如々として来たるもの。
それが如来であり、仏である。
すなわち、来たり過ぎ行く時間の中を、良く生きていこうとする姿に仏はある。
>>139 ひゃっきまる さん
仏性とは何?と尋ねられれば「わからない」としか答えようがありません。
学会、正宗から言えば、仏性、仏種、仏界、阿摩羅識、三因仏性から非情仏性まで結局「妙法蓮華経」ということでしょうから、
此の辺のところは今更でしょう・・・
ただ「非情仏性」これは私においての仏性への考えてにに正直非常に影響しています。
礫、塵、まで仏性を具すという考えは、
シャキャムニの否定した「アートマン」「プラクリティ」「グナ」のような思惟を肯定しいるように感じるかもしれません。
しかし仏性が本当に実在すると思う人は現代社会にはいないですよね。
つまり、自性、本性とは違って、仏性「ブッダ・ゴートラ」は言うなれば「仮設営」なのだと思います。
仮設を展開して発展してきたが、結局この仮設を取り除けば本質的にはなにもない「空」なのです。
しかし関係性による仮設であっても対する認識は可能であると思いますので、
名目の認識による力(影響力)の発生は有得ると思います。
話の本筋ではないが、仏性=妙法蓮華経ではないよ、いっとくけど。
一念三千がなぜ十界互倶、百界千如、そして三千世間なのか。
そしてそれが縁起の理法とどう関連しているか考えるべし。
じゃおやすみ。
つづき
ですので、学会の現代から「仏性」を、
「生命」として見る着眼点もあながち切り捨てようとは実は思っていないのです。
仏性って十界論の仏界のことじゃないの
153 :
142:2005/04/18(月) 00:54:58 ID:???
>>145 ひゃっきまるさん、レスありがとうございます。
>アインシュタインもそのように考えていた節があります。
神はサイコロをふらない、というやつですか。
違うかな。
余談ですが、私は、どうも相対性理論はしっくりきません。
空間がゆがんでいるというのは、重力場を
空間のゆがみに変換したものでしょう。
実際に空間がゆがんでいる、というより、そう考えても
つじつまが合う、というものではないかと思っています。
>通常我々が自分の自由意思だと信じているもの、判断なども実は
>自由意志ではなく、自由意志だと思い込んでいるだけ、という考え方です。
私もそうですが、多くのひとは意思が完全に自由だと思ってはいないでしょう。
自分を含めた様々な影響下にあります。
そうした影響を離れた選択はありませんが、選択はできます。
意思は、今そして未来を大きく変えます(良くも悪くも)。
ひゃっきまるさんの考えではないので、反論ではないですが。
「解答は知っているが、後は自分で考えて」は、この種の議論を目的とする掲示板では
あまり適切ではありません。それは、その知っている解答が正しい、ということを前提とする
言い草だからです。
つまり、その言葉を投げかける人間と、投げかけられる人間は、師弟や先生生徒のような関係
である場合にのみ、「解答は知っているが、後は自分で考えて」が意味を持つようになるわけです。
そのような関係の了解がとれていない場合では、自分の主張はきちんと自分の言葉で説明する
ことが必要でしょう。
>>154 禿同。
それと同じことを、華元にも言ってあげてください。
まさか層化だけは例外なんてことはないよね?
もしそうだとすればダブルスタンダードです。
>>149 >>151マハーバイロさん
仏性については了解です。何か思惟がすすまれましたら、またお答えをお聞かせください。
創価学会はもう正宗とは切れたわけですから、それまでの仏教の伝統にこだわらず、
どうどうと「仏=生命論」を展開してよいと思いますよ。
僕は創価学会のいう「生命」がどういう意味なのかまだよくわかっていないのですがね。
>>153 142さん
>相対性理論
詳しくはレスしませんが、重力によって空間がゆがむ、ということです。
しかしこれは科学理論ですから、印象で正しい正しくないの議論はできないでしょうね。
>決定論について
選択をしている主体はなんなのか、もしくはそんなものは存在しないのか、というのがこの問題の要の部分と思います。
ただ、勘違いしてほしくありませんが、たとえばこの種の運命論・決定論を信じている人が、努力を不毛だと
考えているかというとそれはまったくの誤解です。なぜなら、努力をしなければならない、良い選択をしなければ
ならない、という通常の意味で言う「意思」も内包した上での決定論だからです。
>>155 華元って誰ですか。
創価学会員であろうとなかろうと、僕の主張は変わりません。
>>140 正直困っております、明確な答えがわからないのです
でも、確かに持っているのです
仏に対する信仰、神に対する信仰
強いて言えば感謝でしょうか
でもそれに固定するものではありません
>>154 「自分の解答は持っているが、それはあなたの答えではない、あなたの解答はあなたが見つけるしか方法がない」
の場合はどうでしょうか?
同じ質問でも意味が変わってくるとおもうのですか
>>153 物質は空間のゆがみによって存在していると考えてください(実際そうらしいです)
大容量物質があれば空間のゆがみも大きくなります
相対性とは、主体と客体によって結果が異なるということだと理解しております
また事態によっては主体と客体があいまいになってしまうのです
>>157 いるんですよ、この板に、
仏罰というどうでもいいものを絶対視して
それが普遍的であるかのように語る人です
162 :
ゆうポン:2005/04/18(月) 12:55:06 ID:???
>>148 言われる真意は理解できます。
ただ気になったので、重箱の隅をほじくらせてもらいます。
時間を空間にたとえた時点で、そこに今は存在していません。
「未来を過去に移し変えていく厚みのない膜のようなもの」は
存在しません。膜は無く、未来と過去のどちらかに属します。
面自体は空間的に存在しなくて、面積の境界を表現する概念です。
しかし、実際には「過去にも属さず、未来にも属さない」今が
あるだけです。また、空間から時間を切り離すのは、こころと身体
を切り離すほどに無理があります。単独では存在しません。
つまり現象・変化にはごく僅かでも時間が必要であり、
変化のない厚みゼロの膜にはベクトルもないということです。
ベクトルは前後間の(むしろ前での)平均を表すものであり、
厚みゼロの膜にはそうした意味もありません。
「current」、そう流れであり、いつでもそしてずっと今です。
微妙ですが、時間ゼロの一瞬ととらえるのとでは全く違ってきます。
「current」を使われた148さんは、解っていると思いますので
妄想家の戯言と聞き捨ててください。
163 :
ゆうポン:2005/04/18(月) 13:02:34 ID:???
>未来を過去に移し変えていく厚みのない膜のようなもの
失礼! 「移し変えていく」とありましたね。
私の読み違いでした。148さんに異論はありません。
164 :
142:2005/04/18(月) 14:34:40 ID:???
>Sbさん
相対性理論について、ありがとうございます。
やはり難しいですが、私が勘違いしているのかもしれないので、
また勉強してみます。
>ひゃっきまるさん
>選択をしている主体はなんなのか、もしくはそんなものは存在しないのか、
その議論は難しいので、ROMさせてもらいます。
主体があるなしに関わらず、解釈によって縁起は成り立つので難しいです。
空なるものであるとすれば、生死という変化も、縁起における主体の姿であると
解釈することもできます。また、認識し選択している主体は、縁起によって仮に
存在している、ともとれます。
それはともかく、いわゆる生物学的生命体が存在しなかった時代から縁起によって
現象がいとなまれていたわけで、電子にもあるとされる気まぐれが徐々に進化して、
複雑な能動性を可能にした生命体を生み出したと感じます。
165 :
蘇った、お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :2005/04/18(月) 15:03:19 ID:Q3+sgpY8
すみません。少し上座部(いわゆる小乗)仏教の方から、釈尊の教えを
説明させて貰いますね。私が主に学んでいるのは、部派仏教の中の「長老
部」と言う保守的なところです。
まず釈尊の教えとは、空想世界に幸せや救いを求めるのではなく、現
実世界を言葉や理屈で取り繕って、無理矢理自分を納得させる教えでも
ない、と言うこと。釈尊の教えたことは、悟りを開いて、仏(ブッダ)に
なる具体的な方法を、示していることです。
それはどのような方法かというと、・・これを書くとひゃっきまるさん
が、頭から湯気をだすかも知れませんが・・識別作用の停止、判断の停止
と言うことです。
私が過去の記憶に基づいてある〈基準〉を作れば、その〈基準〉によって
〈あなた〉と〈私〉は分断される。
あなたが、あなたの〈記憶〉に基づいて〈基準〉を築けば、やはりその〈基
準〉によって〈私〉と〈あなた〉は分断される。
その〈基準〉の設定が、ここで釈尊が言う〈識別作用〉なのです。
〈識別作用〉は経験の寄せ集めである。寄せ集められた経験は、それぞれ名づ
けられ、記憶される。そして〈私〉の中の〈基準〉となる。その〈基準〉は、
言い換えれば私の経験を総体化させた、あくまでも〈私だけの思想〉であり、
〈私だけの信念〉である。何ら普遍性を持っていないと言うことですね。
ところがこの〈私だけの思想〉、〈私だけの思想〉が世の中全般に通用す
ると思うから色々おかしくなってくるんです。
およそ苦しみが生ずるのは、すべて識別作用によって起こるの
である。識別作用が消滅するならば、もはや苦しみが生起すると
いうことは有りえない。
スッタニパータ 734
>>158 Sbさん
仏に対する信仰、神に対する信仰、をSbさんが確かに持っている、という意味でしょうか。
とりあえず、「わからない」につきあたったところで、我々の会話は終了を迎えます。
>>159 Sbさん
もちろん「純粋な意味で」そのような呼びかけを発するのは、OKでしょう。
>>160 Sbさん
スルーしますが、僕は科学理論を哲学的に解釈しよう、というような試みはあまり好きではありません。
>>148さんと
>>162 ゆうぽんさん
あなたがたは創価学会員なのですか? だとしたら、創価学会の教義もずいぶん様変わりしたんですね。
>>162 142さん
選択している主体はなんなのか、というのはたぶん、それこそ釈尊が「そんなもの考えても仕方ないよ」
といいそうな対象なのでしょうね。運命論の真偽にしても、人間の理解の範疇を超えているから、やはり
どちらという答えはだせないんじゃないかと思うし、それでよいと思います。
>>165 お邪魔しますさん
「長老部」に、お邪魔しますさんの言われるような内容が書かれているのでしょうか?
もし大変でなければ、引用していただけないでしょうか?
スッタニパータの言葉は、含蓄が深いと思います。
167 :
蘇った、お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :2005/04/18(月) 19:33:14 ID:JyELtybN
>>166 長老部と言うより日本では、テーラワーダ仏教といった方が通りが
よいと思います。
主にダンマパタ゜、スッタニパーダなどのパーリ語の教典によって
学んでいます。
特に「慈経」(スッタニパータ143から152)「宝経」(スッ
タニパータ222から238)は独立した教典として、日常唱えられ
ています。
法華経が教義論争で無敗だというのは本当ですか?
創価の人と論争になって、法華経が他経より優れている証として言われたのですが、
調べてみても、教義論争はあまり見つかりません。伝教大師の論争も途中で死亡してしまってるし。
ちゃんと教義論争してる例を紹介してもらえたらうれしいのですが。
できれば、釈迦の直接教義ではないことが認識された後のものがいいです。
その人に例としてあげられた小樽問答は、宗派間の争いだったのであまり参考にならなかったもので。
169 :
ゆうポン:2005/04/18(月) 21:19:17 ID:???
>>166 ひゃっきまるさん
こんばんは、ここはいろんな人が来るので
時々ROMして学ばせてもらってます。
>あなたがたは創価学会員なのですか?
立場としては、アンチでも層化でもありません。
そうした表面的なことに、あまりこだわってはいません。
いずれにしても、私は私です。
何ものにも必要以上に束縛されたくない、ということです。
>だとしたら、創価学会の教義もずいぶん様変わりしたんですね。
あくまで今の私の考えです。
もし問題があるようなら指摘してください。
>>167 お邪魔しますさん
情報ありがとうございます。ダンマパダ、スッタニパータを読めば、
>>165に書かれているような内容がある
ということですね? 読んでみます。
といっても、2つとも友人に貸したまま返ってこないので、また買わなければいけないのですが(^^;
>>168 法華経が歴史的にどのような教義論争の対象になったのか、僕は詳しく知りません。
察するに、その創価学会の方は、日蓮在世時の話をしているのかもしれませんね。
このスレには有識な方が多くいるようですから、誰かが答えてくれると思います。
個人的な考えですが、大乗非仏説が共通認識となった後では、そもそも経典間でどちらが優れているか、
という議論自体が無意味になってしまっていると思います。
「法華経は釈迦が説いたんじゃないよ」のひと言ですむと思うんですが・・・。
>>169 ゆうぽんさん
>>148さんやゆうぽんさんの考えは、いったい何が元なんでしょうか?
どのような経典も釈迦が説いたものではないかもしれない。
その可能性は?
釈迦が説いたことにどれだけの価値があるのだろう。
釈迦のみが絶対の真理?
大乗非仏説が共通認識なのだろうか。
それは歴史学の話では?
しかも誰も証明できない?
>>171 質問ばかりしてないで自分で調べてみることも大切だよ。
釈迦は非科学的な超常現象を説かなかった。寧ろ退けた。
すくなくともその態度は正しいと言える。
>>171 話が長くなっても良いですか?
できれば過去スレを見てほしいんですが、それも難しいので、
面倒でも順を追って対話しながら話したほうがいいかもしれません。
あと、できればあなたの立場(属している宗派など)も教えてほしいのですが。
立場によって説明の仕方も変わるので。
統一協会の原理議論がキリスト教にあらざる異端の教義であるが如く
創価学会の生命論、これも仏法にあらざる異端と言わねばならない。
宗派には属さず。
仏教には興味あるが、修行には興味なし。
これでいいかな。
176 :
ゆうポン:2005/04/19(火) 00:14:18 ID:???
>>170 ひゃっきまるさん
>ゆうぽんさんの考えは、いったい何が元なんでしょうか?
ん? どの部分のことを言っているのでしょうか。
「過去でも未来でもない現在という一瞬」という表現は、
厳密には、そんな一瞬は存在しないからおかしいと言っているのですが、
そのことでしょうか。強いていえば、妄想です。
>>175 >>171さんですか? 次からは、番号でよいのでコテハンを使ってください。
あと、ここでは基本的に「sage」を使ってください。
これは、このスレが基本的に長文が多いので、板住人迷惑をかけないためと、荒らされて
話が中断されるのを防ぐためです。
>>171の複数の問いは、仏教に関する基本的な前提が判っていなければ答えることができません。
1・ほぼ全ての経典は、釈迦の「金口直説」として、近代まで認識されてきた
2・その根拠は、ほぼ全ての経典の冒頭で、「如是我聞」(私は釈迦からこのように聞きました)という文句が使われていたことや、
釈尊がその経を説いた、という体裁の内容になっていたからである
3・しかし、近代からの考古的研究により、釈尊が直接説いたと推定される教えは多くの経典のごく一部であり、特に大乗教、
密教と総称される経典群などは、初期の教え(学問的には「原始仏教」と呼ばれる)とかなり思想的な隔たりがあることが指摘されている。
※正確には、「大乗非仏説」は江戸時代からあった。
仏教における「悟り」とは、釈尊の独占物ではありません。しかし、ほとんど多くの経典において、釈尊が直接説いたところの教え、
となっていることが問題なわけです。釈尊が説いたわけではないのに、釈尊が説いたことにしてしまっては、単純に言ったら「嘘」
ということになります。
特に日蓮は、法華経は釈尊の「出世の本懐」(この世に出現した本当の目的)であるから、他の経ではなく、法華経に帰依しなさい、
という主張をしています。もし法華経を説いたのが釈尊ではなかったら、日蓮の主張は覆ってしまうわけです。
あと、歴史上のことは誰も完全には証明できない(タイムマシンでもない限りは)というのは確かです。
しかし、我々が真偽を判断するとき、どちらがより確かで説得力があるのか、という観点で判断します。
「説得力がなくとも、信念として信じる」は、信仰上は有りなのでしょう。
178 :
168:2005/04/19(火) 00:18:36 ID:???
>>170 法華経は釈迦が説いたものでは無い事を説明したんですが、それでも法華経は他教を圧倒してると主張するので。
その証拠として、創価学会の圧倒的な会員数と、論争で無敗だと。
論争の部分はどうやら学会のもののみしか知らないようですが。
正直、かなり盲信入っててちょっとびっくりしてます。
なんだか、何を言ってもムダな気がしてるんですが、これはこれで面白いので論破しようと頑張ってます。
>>176 ゆうポンさん
ゆうポンさんの言葉ではありませんが、ゆうポンさんが同意するという、
>>148さんの、
>過去にも属さず、未来にも属さないものがある。
>それが一瞬の生命に他ならない。
という「生命」に対する考えや、
>仏の通号を如来という。
>過来にも属さず、未来にも属さず、如々として来たるもの。
>それが如来であり、仏である。
>すなわち、来たり過ぎ行く時間の中を、良く生きていこうとする姿に仏はある。
という「仏」「如来」に対する考えです。
「生命」はともかく、「仏」「如来」は仏教の用語なのですから、自分でオリジナルに考え出した
わけではないだろうと思いました。
>>178 168さん
>>177の話をしてみてくれますか?
まあ結局のところ、どんなに理詰めで説明しても、学会員を納得させることはできないのですよ。
このスレも多くの学会員に議論途中で逃げられています。
できれば、このスレでその方と直接お話してみたいですね。
181 :
171:2005/04/19(火) 00:31:11 ID:???
sage進行の件は、了解。ageてしまってすまなんだ。
ところで長く書いてもらってすまないけれど、そのあたりはほぼ知っているつもり。
大乗非仏説は、大乗は釈迦が説いたものではないということだけであって、
釈迦の説いたことが真理であるかどうかは何も言及されてないのでは?
釈迦が説いたかどうかということがそれほど意味があることなのか?
>>181 >釈迦が説いたかどうかということがそれほど意味があることなのか?
宗派によりますが、釈迦が説いたかどうかというのはかなり重大なんです。
特に日蓮系の宗派では大問題です。その理由は
>>177で述べました。
183 :
171:2005/04/19(火) 00:41:50 ID:???
なるほどね。
それもわからんでもないが、鬼が説こうと乞食が説こうと
真理は真理で嘘は嘘というのがすっきりするけどな。
大乗は釈迦が説いてないから真理ではないってのは論理的にはおかしいでしょ。
>>183 釈迦が説いてないものを仏教とするのは論理的におかしいでしょ
185 :
171:2005/04/19(火) 00:46:56 ID:???
>>181 おっと。そうともいえないよ。
思想的につながれば、仏教と十分呼べるのではないかな。
他の思想や哲学もそうだろう?
>>183 171さん
法華経が実際に教えを説くものだったらそうなってもよいのですが、ちょっと違うのですよ。
法華経は、「法華経」という経を説くところを物語った経、なのです。
できれば現代語訳で法華経を読んでいただいたら、後の話がしやすいのですが。
あと、レスをするときは、レス先の番号をつけてくれるとありがたいのですが。(>>184 のように)
187 :
168:2005/04/19(火) 00:50:08 ID:???
それと、大乗非仏説の論点は、大乗経典が言わば偽書だったというところにあって、
別にそれらが真理かどうかは問題としてないと思うのですが。
実際、大乗の多くの宗派はこの結果を受けても、
「それぞれの経は、たとえ釈迦が説いてなくても真理だ」と考えているわけですし。
188 :
171:2005/04/19(火) 01:00:13 ID:???
>>186 後の話ってのは、法華経は真理を説いているかどうかという話かい?
それはそれで興味があるが、それはまた今度だな。
今日は大乗非仏説と真理は無関係というところで終わろう。
ではまた。
>>187 168さん
>>188 171さん
>>93でも述べたように、大乗非仏説には大きく分けて二つの主張があると思います。
「真理」というと宗教的な概念になってしまうんで、釈迦の思想とでもいいかえた方がいいかも。
>>185 「つながる」とは、どのような意味?
後世の人間が拡大解釈したり捏造したものは「似て非なるもの」だと思うけど。
>>190 キリスト教と、統一教会もつながっているんだろう
>>185の感性では。
オウムも、仏教系だし。
192 :
蘇った、お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :2005/04/19(火) 04:01:00 ID:8iUGcH8i
>>170ひゃっきまるさんへ
http://www.j-theravada.net/sakhi/buddha_manazashi-0.html で、ブッダのまなざし入門編を読んでみてください。
ここでスッタニパータ第5章「彼岸への道」について詳しく解
説してあります。
これを読むと「悟り」が理論や理屈でなく、自分の身で体験
するモノであることが分かると思います。
「悟り」が言葉に表しにくいのは、思考方法における一種の名人
芸的なモノではないかと思っています。中日の落合監督は独特の
バッテッング技術を持っていますが、それが他の選手に伝わりに
くいのと同じだと思います。「悟り」にも思考方法のコツやツボ
みたいなモノがあって、それに気がつくかどうかだと思います。
私の場合は分別、識別、認識、等一つのモノを他と区別して考え
ることをやめると言うことです。実際はなかなか出来ないので、物
事に対してとりあえず自分の思いや、考えることを保留すると言う
ことにしています。それもできなかったら、一呼吸おいてから判断
します。この場合も「自分が判断している」ことを頭に入れておき
ます。
最近仏教に興味を持ち始めたものです。
ここの皆さんのように知識的にはまだまだです。
私の認識だと法華経をはじめ諸仏典は釈迦がまったく
ゼロから考え出したものではなく、人間という生き物が
生まれてきてから在る人としてのありかたを説明した
ものだと思っています。
法華経に書かれている「久遠実成の仏」はそういう意味
なのでは?。釈迦はあくまで編集者であって著者(実際は
本人は書いてませんが)ではないと思います。
「仏=(実在の)釈迦」とするのか、「仏=真理または法」
とするのかで見方は変わってきますよね。
まだ勉強中ですが私の理解はとりあえずこんな程度です。
194 :
ゆうポン:2005/04/19(火) 14:32:40 ID:???
>>179 ひゃっきまるさん
なるほど、
私が気になったのは、「一瞬」という表現の部分です。
それについて、真意は理解できるが云々としたのです。
それ以外に関しては148さんの考え・表現の仕方で、
特に異論を挟む気はないということです。
>>166 >仏に対する信仰、神に対する信仰、をSbさんが確かに持っている、という意味でしょうか。
だといえます
>>187 真理なのかな?、悟に導くものではあるけど
ひゃっきまるさんへ
如来は略語です。正しくはtata-a-gata=「如去如来」(如なる世界へ去り如なる世界より来たりし者の意)です。
>>188 171さん
>>186の続きです。
法華経の重要な内容は2つあります。これらは、基本的に「釈尊しか語り得ない」内容であることが分かると思います。
1(方便品)・今まで説いてきた教えは、真実の教え(法華経)に導くための「方便」(巧みな方法)であるから、
法華経が説かれた今となっては、正直に捨てなさい
2(如来寿量品)・私(釈尊)は、これから、一見寿命を終えて死ぬように見せかけるけれども、実はそうではなく、
私の寿命は永遠に続き、衆生(全生物)を救い続けていきます
特に1に関しては、「今まで説いてきた教え」つまり、実在の歴史上の人物である釈尊が説いた教えまでも否定
することになりますから、釈尊の名を騙ってこんなことを言ってしまうのは、とんでもないということになります。
もちろんこれは、法華経の「表面上の意味」をとらえた場合、こうなるということであって、いわゆる「深読み」した
場合、違う読み方もできるかもしれません。しかし、それはあくまで解釈の問題になります。解釈というのはどんな
ふうにも、例えば全く逆の意味にさえ捉えようと思えば捉えられるわけです。
どんな風にでも捉えられる解釈の次元で真偽だとか優劣だとかを比較しても意味がないと思います。
ただ、各人がどのような信仰をしようと勝手ですけどね。
>>192 お邪魔しますさん
ご指定のリンク先にはとべませんでした。また今度。
>私の場合は分別、識別、認識、等一つのモノを他と区別して考えることをやめると言うことです。
これが論理的に考えることや言語の否定なのだとしたら、僕は賛成しかねますね。
またそのような事が経典に書かれているとも思えません。
>>193 もし本当に仏教を学びたいのなら、少ない情報から想像をたくましくするよりも、確かな文献を多く読んでから
ご自分の考えを深めていった方がよいように思います。(皮肉ではないですよ)
>>194 ゆうポンさん
了解です。
>>195 Sbさん
了解です。
>>197 何が言いたいのかわからないのでスルーします。
>198
> ただ、各人がどのような信仰をしようと勝手ですけどね。
そう言われたら書いてしまいたくなるのが人情。
2は誠意(?)の問題もあるのではないのかな、如来(スーパーブッダ)を登場させるのに
生身の釈尊が生き続けているのではほんとの御伽噺になってしまう。
その一方、「法」は伝承し続ける。この「法」をわかり易く擬人化したのが如来なのではないかいなっと。
私は考えますよ。
1など論外。まさに詐欺。
中国語の法華経は原典と相違する部分も多いようだが、
その背景に訳者の置かれた境遇も考慮に入れる必要もあろう。
訳者の羅汁は敗戦の煽りで囚われの身となった人物、自由など無い
当時、守っていた戒を破るようにしむけられた(女を与えられ無理やり性交渉をもたされたり)
という説もある。
そういう境遇の中、唯一自由であったのが翻訳の内容であったのは疑う余地もない
そう、喩えるならば聖教新聞のライターのような状態だ。
聖教新聞・・・(外を批判しているようで部外者からみれば自分達のことを皮肉っているような内容)
法華経とは彼の呪いなのかもしれないね。
「正直捨方便」
日蓮系諸宗では、法華経以外の教え(諸経)を捨てて、正直に法華一乗に帰依すべし、
と解釈するのが一般的になってるが、それでは法華経自体が成り立たない。
諸経に細かい差異はあれど、すべての教えはつながっているのだから、
それを捨ててしまって法華経だけを信じろ、というのはやはり独善的でしかない。
また法華経はそれまでの教えとの関係をまったく説明せずに終わっている。
「久遠実成〜久遠常住」
如来の生命の永遠性は法華・寿量品の前にも、金光明経・寿量品等でも説かれている。
ちなみに今日の仏教学では、法華の寿量品は金光明経の寿量品を参考に編集されたことが判明している。
ともあれ、法華経では久遠実成=壮大なる過去に如来と成ったことを明かした。
もちろん久遠常住=未来の永遠性にも少し触れているが、それは涅槃経の方が特に詳しく説かれている。
したがって、日蓮本仏論などの根拠となる末法思想を否定し、
しかも新しい仏と教えが娑婆世界に出現して救うなどということも、
ごくごく簡潔に否定しているといえる。
203 :
ゆうポン:2005/04/20(水) 10:36:57 ID:???
法華経に関してですが、
ひゃっきまるさんが
>>186でふれた
>法華経は、「法華経」という経を説くところを物語った経、なのです。
というところに一つの大きなヒントがあるように思います。
経典中に出てくる「法華経」は、特定の経典や教えを指しているのでは
ないということです。
いわゆる「月をさす指」の"月"にあたるものを「法華経」という名で示し、
"指"にあたるものを方便としているのでしょう。
その「法華経」は無分別法を象徴しているので、特別な何かではありません。
法華経経典中にも、その「法華経」を気付かせるヒントが出ています。
妙楽の法華玄義釈籤(せん)に「声色の近名を尋ねて無相の極理に至る」とあります。
ですから、言語としての法華経経典中の「法華経」からみれば、
法華経という経典もまた月をさす指となるのだと思います。
言語などの指・方便はどうでもいいと言っているのではなく、
指に固執してしまうことを戒めているのではないだろうか。
また、何が指(言語とは限りません)になるのかは、ひとそれぞれ違うでしょう。
204 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2005/04/20(水) 11:25:24 ID:hH6ATz1E
>>202 >ちなみに今日の仏教学では、法華の寿量品は金光明経の寿量品を参考に編集されたことが判明している。
法華経の成立は1〜2世紀。
金光明経の成立は4世紀。
いったいどこの学者のお説ですか?
>>204 sageないとひゃっきまる君に怒られるよ(藁
206 :
ゆうポン:2005/04/20(水) 16:43:16 ID:???
>203の続き
「月をさす指」というのは一面の例えなので無理がありのかな。
付け加えると、その月は、それらの指も、湖面に映る月も全て含んでいますね。
きりがないので、この辺にしておきます。
私もよく解らなくなってきたので、忘れてください。
Sbさんが
>>138で言った
>己の人生を生きること
結局は、そこに行き着くと思います。
207 :
名無しさん:2005/04/20(水) 17:28:25 ID:???
>法華経は法華経という経を説くところを物語った経
ややこしいのぅ。なら、何で法華経(妙法蓮華経=サッダルマプンダリカ)と名づけたのだ??
というより、法華経は一乗を説こうと宣言しただけの経でしかないように思うのだが。
何が指になるのか人それぞれなのなら、何が月になるのかも人それぞれにならんかぇ?
208 :
名無しさん:2005/04/20(水) 17:32:54 ID:???
それと法華経の経文に詳しい方へ質問を
法華経の経文には、法華経が一乗(一仏乗、仏乗も同義語)と
宣言しているところはあったっけ?探したが見つからなかったもので・・・。
209 :
蘇った、お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :2005/04/20(水) 20:04:39 ID:4XWZvPGg
「唯一乗の法のみ有り、二無く亦三無し」(方便品第二・
岩波文庫 法華経 上 90頁)
から来ているのじゃないですかね。
210 :
蘇った、お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :2005/04/20(水) 20:51:11 ID:4XWZvPGg
あと
舎利弗、過去の諸仏も、無量無数の方便、種種の因縁、譬喩の言辞
を以って、衆生の為に諸法を演説したもう。
是の法も皆一仏乗の為の故なり。(方便品第二 92/94頁)
それと一乗とは違うけど、同じ方便品をよみかえしていたら
三世の諸仏の 説法の儀式の如く 我も今亦是の如く 無分別の
法を説く(128頁)
と書いてあり、識別作用のない(無分別の)法を説いている所があり
ました。
>>202 >>203 ゆうポンさん
実は僕は、三乗方便一乗真実の教えは、諸々の法は皆それぞれに正しい、という解釈の方が話的には
筋が通ると思っています。このことは過去スレで何度か述べましたが。しかし、あくまで解釈なので、そちら
の方が正しいのだと言うつもりもありませんが。
>>207-208 なかなか鋭いですね。つまり、法華経というストーリーの中で、一仏乗として説こうとしているものは、法華経
とは限らないのではないか、という疑問でしょうか。
まず、序品で、「これから法華経が説かれますよ」という内容の話が語られます。ところで、ここで言う法華経
とは、説くのに六十小劫(何十億年、何百億年というようなとにかく長い期間)もの時間を必要とされるものです
から、ここでも、二十八品の法華経と、法華経の中で説かれる法華経が違うということが分かります。
確かに、一仏乗について説くところでは、妙法蓮華経という言葉は使われておらず、単に「この法」のような表現
をしていると思います。しかし話の流れとしては、「この法」が妙法蓮華経を指していると解釈するのが最も自然だ
と思います。
>>177 ひゃっきまるさん
亀レス申し訳ないですが・・・
「如是我聞」について微妙に認識が違うと感じたのでレスします。
何故、経典の冒頭に「如是我聞」が置かれるのかですが、(私の想像の部分も入っているが)
第一次結集の際に、多方面からの人々が「私はシャカよりこのような説を聞いた」との発表に対してアーナンダが「確かに私も聞いた」という風に「裏づけ」したのではないか、
つまり文章で言えば「押判」のような使われ方が、暗誦によって「決まり文句」になって行ったのではないかと思います。
結局、如是我聞がなければシャカの教えではないと言う事になってしまうので教典作成の際に置くようになったのではないかと・・・
勿論(私は釈迦からこのように聞きました)で正しいわけですが、その発声者はどの教典に於いてもアーナンダであると言う事です。
確かに単純に言ったら「嘘」と言う事になりますが、そのように「暗記」されたものを編集したのでしょうからその暗誦に「如是我聞」があったのは本当だと思うのです・・・
ですから、暫定コテ(仮)さんの仰っているような「偽書」、「捏造」の類ではなく、
「発展」「展開」又は「創作」というような位置付けに(私は)しております。
ではいったい「法華経」はどのような集団に暗誦されていたのだろうか?
>>212 マハーバイロさん
なぜアーナンダを特別視するのかよくわかりません。
確かに彼が一番釈尊の説法を聞いたでしょうが、全部というわけではないと思うのですが。
釈尊の死後、釈尊の教えを忘れないようにするために、釈尊の弟子達が集まってお互いに教えの内容を確認しあった、
これが仏典結集ですが、ここで「私はこのように聞きました(如是我聞)」という語句の後に、自分が聞いたことを話したので、
経典には必ずといっていいほど如是我聞が使われるわけです。
もちろんご存知であると思いますが、仏典結集は釈尊を直接知るものがいない数百年後でも何度か行われています。
これは、教えを文字ではなく暗記で伝えていたため、お互いに記憶が正しく伝わっているか確認する必要があったからです。
この場合の如是我聞は、釈尊から聞いた、という意味ではなく、自分に教えを伝えた人から、「このように聞いた」という意味
でもあったかもしれません。
あと、そもそも経典を「編集」してはイカンでしょう。
釈尊の言葉を間違いなく伝えるために仏典結集が行われ、内容の確認を間違いなくするために如是我聞と言ってきたのに、
その信頼性を逆手にとって、釈尊が言ってもいないことを釈尊が言ったことにしてしまっては・・・。
ましてや大乗仏典、密教は、編集というレベルを超えていますし、だから一般的にも「創作」と表現されています。
>>212マハバイさん
法華経が全部間違いとは言い切れないと、おれも思いますよ。
神の御言葉のように絶対視する人には違和感を覚えますが。
編集の段階で意訳などが紛れ込んでいるとすれば、所謂
玉石混淆の状態になっている可能性を検討すべきかと。
>212
>ではいったい「法華経」はどのような集団に暗誦されていたのだろうか?
もちろん白蓮グループですよ。
経題がすべてを表しています。
なにゆえ「正しい教えの白蓮」という名前を持つのか。
白蓮華に仮設して説こうとしたものはなんだったのかということです。
ご存じのように、蓮華には華果同時と清浄不染の徳がありますね。
すなわちこれは前者は因果倶時であり、縁起の法を表し、
後者は不染世間法であり、涅槃ぼ境地を表すのでしょう。
これは釈尊の悟りを表すのに蓮華を比喩に用いたのだと思います。
法華経の中にも、法華の御名を受持せんは福量るべからずとあるように、
「正しい教えの白蓮」は、そのグループでは悟りを表す象徴的なキーワードだったと思います。
法華経は一乗の教えに帰依すべしと宣言してはいるものの、
法華経そのものが一乗であるという経文はなかったように思うな。
ただし、この経典こそが一仏乗であると宣言しているものはあるんだけどね。
>>216 天台大師いわく
「法の蓮華は解し難し、故に草花を喩へと為す、利根は名に即して理を解すれば
譬喩を仮らず、但法華の解を作す、中・下は未だ悟らず、譬へを須ひて乃ち知る、
易解の蓮華を以て難解の蓮華を喩ふ」
日蓮大聖人いわく
「劫初に華草有り、聖人理を見て号して蓮華と名く、此の華草因果倶時なること
妙法蓮華に似たり、故に此の華草同じく蓮華と名くるなり、水中に生ずる赤蓮華
白蓮華等の蓮華是なり、譬喩の蓮華とは此の華草の蓮華なり、此の華草を以て難
解の妙法蓮華を顕す」
一仏乗の法そのものと法華経は別だと知るべし。
因果倶時不思議の一法とは、因縁果の理法、縁起の理法である。
なんだかこのスレ、変な人が増えてしまいましたね。
>なんだかこのスレ、変な人が増えてしまいましたね。
鼻糞の気配がする
特定の宗教や信仰に帰依するという意思表示がない人間に対して、
特定の宗教や信仰でしか通じないような術語を多用して、しかも
特定の宗教や信仰の主張をすることは、ちょっと感覚がおかしいと僕は思います。
まず順序ってものがあるでしょう。
インド人の暗記力というのは凄いらしいですね。しかし「詩」になる前の会話を記憶するとすれば限界はあると思います。
第一回結集(ラージグリハ)伝承でのアーナンダが発声した「如是我聞」をその後襲踏するわけですね。ひそみに習うという表現が合うかもしれません。
口伝によってでも編集(長老の許可のような)は必要であったと思います。
100年後の二回結集(バイシャリー)では内容の確認というより議論に近かったのだろうと想像します。
集会参加の皆さんが一様に「如是我聞」と言うのですから・・・
また第二回結集の時期はジャイナ教の結集大会とも重なるし、マハーバーラタの編集の時期とも重なります・・・
地域的違いはあれども三巴であったと想像・・・
AD100年頃以前の法華経信仰集団(小集団)が異端扱い(カルト扱い)を他仏教徒より受けていた事はまず間違いないだろうと思います・・・
迫害、弾圧までされていたという説に対しては私としてはやや疑問残るが・・・
何故、何処にそれ程までカルト扱いされる理由があったのでしょうか?
此の辺に法華経の解読のカギがあるように思えます・・・
よく言われるのが「一仏乗」であるわけですけど、異端ではあったろうが「嫌われた」理由には弱いような気がします。
>>215 何故、法華経だけが「正しい教えの白蓮」という一風変わった「名前」がつけられたのか?
http://www.furugosho.com/nomadologie/matsuyama1.htm
何を言っても 結論は病死
223 :
蘇った、お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :2005/04/21(木) 02:41:24 ID:P5xfsGvV
無病息災、不老不死を望むのが「苦」の始まりです。
釈尊も中毒死です。
224 :
蘇った、お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :2005/04/21(木) 04:06:38 ID:osnzwZmq
日蓮が病死したことにより、その教えが無意味なら、あらゆる
仏教の教えもすべて無意味ですね。(ある面では真実・諸法無常
・一切皆空)
ま、自分を救えるのは、自分しか居ないと言うことです。
>>224 たぶん本尊焼きスレの影響だとおもいます
でも、仏罰があるとするならば、結局は病死、で全て無に帰すのではないでしょうか
その点で仏罰なんぞは否定しますよ、私は
感謝の心を忘れてはいけませんが、その恐怖心を持って組織を固めるなど
それこそ仏罰ものでしょう
>>213 確かに、話は記憶で伝えられるとおもいますが
記憶で心が伝えられましょうか?
>>226 Sbさん
記憶(文字)で伝えるべきものは記憶で伝え、それで伝えられないものは他の手段で伝えればいいだけのことです。
教えを改ざんする理由にはなりません。
>>227 心はどのようにして伝えましょうか?
悟はどのようにして伝えましょうか?
仏法は言葉だけなのでしょうか?
>>227 追記、もちろん改ざんはよくないことです
それとは関係なく、ひゃっきまるさんの見解を聞きたいのでお願いします
230 :
ゆうポン:2005/04/21(木) 17:12:44 ID:???
>>211 ひゃきまるさん
>諸々の法は皆それぞれに正しい
全てはその月の姿であり、それぞれに大切である。
その月を特定の宗教や教え、または部分・側面であるとしてしまうと、
それは成り立たなくなります。
ですから、
>>207さんのいう
>何が月になるのかも人それぞれにならんかぇ?
でいう月は、その月の(それぞれ大切な)部分・側面であるということになります。
実際には、のどが渇いたら水を飲めばよい、でいいのかな。
誰でもない、自分に合ったいい人生を生きることだと思います。
難しいですけど(つД`)
231 :
ゆうポン:2005/04/21(木) 17:29:15 ID:???
>>207さん
>何が月になるのかも人それぞれにならんかぇ?
すみません、勘違いしてました。
"実際には"そうなると思います。
>>228-229 Sbさん
もちろん言葉だけでは伝わらないものもあるでしょう。
それは宗教だけの問題ではありませんが。
例えば、技術や伝統のようなものは言葉で伝えきれないものもあります。
また、絵画や音楽もそうでしょう。
組織や人間関係なども一度断絶されれば復縁するのは難しいと思います。
何か誤解されているようですが、僕は「言葉だけ」が正しいのだ、と主張したいわけではありません。
言葉の他にも大切なものはいくらでもあります。
そうではなく、「言葉」や「論理的に考えること」も、人間が人間らしく生きるための非常に大切なものだと
思っているのです。
そもそも言葉がなければ、経典が現代に至るまで伝わることもなかったわけです。
ただ、言葉だけが全てではないと思っていればいいだけのことで、そんなことは誰でも知っています。
しかしSbさんやお邪魔しますさんは、ときに言葉や論理そのものを否定しているように思えることがあります。
>>230-231 ゆうポンさん
正直言ってゆうポンさんの文章は非常に読みづらいです。
何が言いたいのかよく分からないままにレスすることになってしまうので、それは僕にとっても不本意です。
できるだけご自分の考えをまとめてから、主語や指示語がよくわかるように、分かりやすい文章を書くように
心がけて下さい。
まあ人のことは言えませんが・・・。
>全てはその月の姿であり、それぞれに大切である。
>その月を特定の宗教や教え、または部分・側面であるとしてしまうと、
>それは成り立たなくなります。
僕はゆうポンさんの月だとかそれを指す指だとかの譬えにのっとって自分の意見を言っているわけでは
ありませんので、勝手にその譬えをひきあいにだされても困ります。
僕の考える法華経の主張を端的に表現すれば、「世の中にはいろいろな教えがあるけれども、どれも
仏がただ一つの目的のために説いたものであるから、最終的には皆同じ素晴らしい仏果を得るのです
よ」という程度のものです。
>>156 お邪魔しますさん。
超亀レス申し訳ないです・・・
>およそ苦しみが生ずるのは、すべて識別作用によって起こるのである。
>識別作用が消滅するならば、もはや苦しみが生起するということは有りえない。
>スッタニパータ 734
ここでいう「識別作用」とはなにを指すのでしょうか?
「無分別」で捌いてしまうのはなんとなくですが頷けません。
ウダーナヴァルガの26章16にですが、
「身体を破り、表象作用と感受作用とを静めて、識別作用を滅ぼすことができたならば、苦しみが終滅すると説かれる」
とあります。
スッタニパータより後のものだとは思いますが、シャカの時代には既に五うん説に近いものは出来上がっていたのではないとも思うのです。
シャカの言った「識別」とはなんだったのでしょうか?
>>232 >ときに言葉や論理そのものを否定しているように思えることがあります。
はい否定いたします。
私にとって否定するということは肯定しないということではないからです
どちらかだけにはしません
言葉が大切であるならあるほど、捨てる必要性も大きくなります
大切であるからといって、それに捉われることは嫌うのです
236 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2005/04/22(金) 17:34:19 ID:JguT+sXH
創価学会は公明党だけど、
日蓮正宗は特定の政党を
推してるのですか?
Sbさん
>>235 は私にとって殆ど意味不明です。読んでも理解不能なのが正直な感想なのですが(汗
まぁそれはそれでしょうがないと思いますが・・・
Sbさんにとって自身の心情にたいして理解示さない人達をどのように考えるのでしょうか?
別にかまわないのですか。それとも理解し合いたいと思ってるのですか。
238 :
ゆうポン:2005/04/22(金) 22:33:07 ID:???
>>233 ひゃっきまるさん
>分かりやすい文章を書くように心がけて下さい。
頭の中であちこち飛ぶものですから、つながりが見えなく
なるかもしれませんね。気をつけます。
月に関しては、譬えをひきあいに出したというよりも、
それを表す共通の名詞もないので、あえて喩えの月とさせてもらいました。
自然と呼んでもいいのかもしれませんが、解釈によっては
誤解をあたえてしまいます。
ということで、しばらく静観します。
>>235 Sbさん
言葉や論理を肯定も否定もしない、という表現では駄目なのですか?
僕は、言葉や論理も肯定し、それ以外も肯定し、また、言葉や論理を絶対とはしないが人間にとって
大切なものだと思っている、という考えですが、それにはSbさんは同意されませんか? 同意されない
としたら、どのような理由で同意されませんか?
大切であると思うことは捉われることとは違うと思います。むしろ、「大切なもの」と認めることによって、
用いるべきときに用い、捨てるべきときに捨てる、ということを正しく認識できると思います。
たとえば「包丁は料理をするときに非常に便利であり、そのために作られたものであり、しかし誤って
使えば人を傷つける危険のある道具である」と認識できていれば、便利に使うことができ、また誤って
使う危険性も減らすことができます。
しかし、ただいたずらに「包丁は人を傷つけるからよくない」と否定するばかりでは、逆にそのものの
もつ性質を正しく理解することができないままになります。
Sbさんやお邪魔しますさんは、ただ無意味に言葉を否定することに「捉われている」ように見えるのです。
240 :
ゆうポン:2005/04/23(土) 00:19:28 ID:???
今、自分のレスを読んで、解りにくい箇所に気付いたので、
二点だけ訂正しておきます。
>>203の
>言語としての法華経経典中の「法華経」からみれば、
>法華経という経典もまた月をさす指となるのだと思います。
↓
"言語としての"は、「法華経」ではなく法華経経典を形容しています。
<法華経経典中の「法華経」からみれば>、にした方がすっきりします。
>>230 >でいう月は、その月の(それぞれ大切な)部分・側面であるということになります。
↓
でいう月は、私がいう月の(それぞれ大切な)部分・側面であるから月ではない
ということになる、と言おうとしたものです。
でも、「何が月になるのかも人それぞれ」という表現も可能だと
気付き、
>>231で訂正しました。
>>239 すばらしい論理展開力。わかりやすいですね。
でも悟りは言葉では表せないという信念の人を説得するのはむずかしいかもね。
>>238 ゆうポンさん
月とそれを指す指、というのは、禅でよく使われる喩えですね。
この喩えには、この喩えが表現したい主題があるのですし、それを理解した上で用いるべきだと思います。
「月も人それぞれになる」というのは、それはそれでゆうポンさんの考えなのでしょうが、それを表現したい
と思うのならば、明らかにこの喩えを出すのは不適切ですし、相手にも混乱を与えます。
>頭の中であちこち飛ぶものですから、つながりが見えなく
>なるかもしれませんね。気をつけます。
それは違いますよ。ゆうポンさんが分かりやすい文章を書くために必要なのは、単に相手に対する想像力
です。自分の考えを理解してもらえないのを相手の読解力のなさのせいにしてはいけません。
解釈によって相手に誤解を与えてしまうのならば、誤解を与えないような文章にすればよいだけです。
ゆうポンさんの考えが人に理解しがたいから理解できないのではなく、ゆうポンさんの文章が読みにくいだけ
です。
ところで、法華経にはせっかく面白い喩えがたくさん使われているのですから、その喩えを使ってご自分の
考えを表現した方がよいかもしれませんね。
>>239 論理展開能力がまだまだ未熟だな。
主観と客観の区別も出来ない厨房レベルだ。
ひゃっきまるの文章は無駄が多すぎる。
長文でダラダラ能書きを垂れるのは自己満足か。
コンパクトにまとめると説得力を増すだろう。
>>240 ゆうポンさん
僕が
>>242を書く間に、
>>240を書いてくれたようですね。
入れ違いになってしまいました。
僕がこのレスを書いている間に、また
>>242に対するレスが来てしまうかもしれませんが・・・。
>何が月になるのかも人それぞれ
という意味は、月は一つだが、それぞれの指が指しているものは月の部分・側面である、という意味でしょうか。
たとえば、ある指は、月の色を指し、ある指は、月の形を指し、ある指は、月の満ち欠けする性質を指し、という
具合に。
ただ、法華経の三乗一乗の思想を最も適切に表現できる喩えは、やはり三車火宅の喩えと、三草二木の喩え
であると思うのですが、どうでしょうか。
>>243-244 ご忠告ありがとう。
ダラダラ書くのはなかなか直りそうもありません。
文章としての切れ味よりも、自分の言いたいことを誤解のないように伝えることを優先すると、そうなってしまいます。
>>241 ありがとう。僕の言っているのは論理ではないですけどね。
僕は、悟りが言葉で表現できない、という考えを否定しているわけではありませんよ(悟りがなんなのかなんて分かりませんし)。
ただ、Sbさんはどうも言葉を否定することが悟りだ、と言っているようで抵抗があるのです。
ここは珍しく荒れないスレだね.
他のスレみたいに滅茶苦茶にならないのは、マハバイ氏や
ひゃっきまる氏に他のガカーインより良識があるからだろうね.
肩肘張らずにマターリ進行が吉ですな.
>>248 ありがとう。ここがマターリなのは昔っからですね。
教義上の議論するとこなんで。
他スレは全く見ないんですが、そんなに他のところでは学会員が暴れているんですか?
そういう人とこそ、このスレで議論したいんですがね。
いいっぱなしで消える人ばかりです。
>>249 他の殆どのスレでは「華元」という
ものすごい馬鹿が一日中暴れまくってますよ。
かく言う私も、お気に入りのスレを華元に荒らされて
遂にキレたので報復攻撃してますが(藁
それで板全体が戦争状態です。
>>250 荒らしをするような人ならここには来てほしくないですね。
>>251 荒しですか・・・心配しなくてもこのスレは荒らしませんよ(藁
来るのは私の自由なので、気が向いたらまた書き込みます。
>>252 誤解を与えてしまったようで申し訳ない。
華元さんという人物が、荒らしの常習犯のような人ならここには来てほしくない、という意味です。
>>253 これは失礼、私の勘違いでした。それにしても
華元がアンチに喧嘩を売ったり、荒らしたりしなければ
層化のイメージも随分良くなると思うのですがねぇ…。
見境なく噛み付いてくるので困ったものですよ。(藁
もしかしたら民族による気質の違いがあるのかもしれません。
(差別的な意味ではないです)
>>254 このスレも様々な学会員が議論をしていきました。
何しろ世紀をまたがっていますから。
華元さんという方は、過去の学会員でいえば、姜子さんのような人かもしれませんね。
256 :
名無しさん:2005/04/23(土) 06:30:35 ID:???
法華経は三車火宅や三草二木の喩えで会三帰一を示してるとはいえ、
その論拠となる論理的説明が法華経では乏しいなぁ。
しかも他の経典を捨てて法華経に帰依すべしと説いて、
他の経典との関係を断絶しているので、完全な円教といえるのだろうか?
法華経の方便品に示される釈尊の出世の本懐をどう考えるかが一つのポイントだろう。
「諸仏世尊は、唯、一大事の因縁を以っての故に、世に出現したもう」
ここで「一大事の因縁」はより具体的に「開示悟入の四仏知見」として明かされる。
すなわち、様々な説法を行ってきた仏の目的はただ一つであり、
それは衆生を仏と同じ境涯にすることであることがわかる。(如我等無異)
これまで三乗のそれぞれの分別された種々の説法と悟りはあったが、
それは例えていうならば、小学生が足し算ができた、九九ができたというのと同じであり、
先生の立場からすれば、生活に役に立つ智慧を身につけてもらうことが
教育の最終目的であると常に考えるのと同じことである。
つまり、釈尊の立場にすれば、三乗の法を種々に説いていた時も
この目的はいささかも変わらず揺らいでもいない。
ただ釈尊の境涯に至っていない衆生の側から見れば、
教説が違うように感じられ、以前の教説やそれぞれの悟りに囚われてしまうのである。
たとえば、足し算ができなければ、その後の数学の展開を理解するのは困難なように、
それぞれの教説も釈尊の境涯に至るための分分の悟りを含んでいる。
法華経に至って、真の目的が明かされた後では、
これまで説かれた三乗の法はこの目的のためのものだったと再認識されるのである。
同じ教えなれど、目的を知る前と後ではまったく物事に対する認識が変わってしまうのは、
一般世間の事象においてもよく体験することであろう。
三乗法に対する認識もまた同様である。(体外、体内の三乗法)
この三乗分別の法を開いて、全ての教えが一仏乗のためのものとの
再認識を共有することが方便品のテーマである。(開三顕一または開権顕実)
この認識に立てば、はじめから三乗分別の法などはなく、一仏乗の法のみがある。
その立場に立てば、全てが菩薩道であり、二乗の修行者もまた一仏乗の修行者である。
その立場に立たないならば、三乗分別の法であり、二乗の修行者のままである。
そしてこの法軌は、釈尊だけでなく、三世十方の諸仏も同じであることを示すのである。
「なんのため」に、釈尊は法を説いたのかという原点を確認することが趣旨である。
>>237 自身の心情とは己の心情ととってよろしいでしょうか?
それとも相手の心情と取るのでしょうか?
それによって答えは大きく変わりますので
>>239 言葉や論理を、否定し肯定し、否定も肯定もしない、としましょうか
突詰めてしまえば、言葉も論理も空でありますから、存在いたしません
存在しないものを否定も肯定もできません
また、色でありますから、否定も肯定もできます
>僕は、言葉や論理・・・
同意いたします
大切であると捉われるとは違いますが、大切であるが故に捉われてしまうということは起きます
>むしろ、「大切なもの」と認めることによって・・・
そうだとおもいますし、「どうでもよいもの」と認めることによっても
用いるべきに用い、捨てるべきときに捨てるということを認識すべきであると考えます
>ただ無意味に言葉を否定することに「捉われている」ように見えるのです。
見えるものは仕方ありませんが
私の場合、否定の裏には必ず肯定があると見てもらえれば幸いです
>>239 >たとえば「包丁は料理をするときに非常に便利であり、・・・
別のたとえを出しますなら
「包丁は確かに物を切るには便利でありますが、別のものを切るにはほかの道具、
はさみやナイフといったものを使ったほうがよい場合もあります」
包丁で木を彫刻するなど愚かなことでしょう
261 :
ゆうポン:2005/04/23(土) 13:52:27 ID:???
>>245 ひゃっきまるさん
>月は一つだが、それぞれの指が指しているものは月の部分・側面である、という意味でしょうか。
いえ、私のいう指は、月そのものを気付かせるための指です。空観や縁起観は
そうしたものでしょう。部分や側面を示すことによって月をさす指です。
月そのものに気付けば、全ては月の姿であり、それぞれの姿・現象を離れて月があるわけ
でもなく、大切であると気付きます。
大切とは、善悪、正邪などの評価ではありません。
でも、この喩えは、ひゃっきまるさんの言うように喩えの本来の主題から
逸脱しかねませんので、やめておきます。
>やはり三車火宅の喩えと、三草二木の喩え
ここでは、一般的な喩えではないと思い、使いませんでした。
>姜子さん
懐かしいですね。乾さんも最近はみかけません。
昨日の流れからいくと、私が名無しで投稿していると思うひともいる
かもしれませんが、142以外は、私ではありません。念のため。
他のかたの投稿であれば、その内容以上のものではありませんが、
私の投稿だとすると、別の意味に変わってしまいます。ヨロシク。
142の時は、単発レスのつもりで書いたので、名無しにしました。すみません。
262 :
ゆうポン:2005/04/23(土) 16:31:21 ID:???
>>242 ひゃっきまるさん
>「月も人それぞれになる」というのは、それはそれでゆうポンさんの考えなのでしょうが、
それは、私の考えではありません。
>>207さんの
>何が月になるのかも人それぞれにならんかぇ?
に対して、そういう表現も可能かな、としたものです。
「何色が光になるのかも人それぞれ」、と言われたら
その真意が解らない以上、否定も肯定もできません。
赤が光だと定義すれば、緑は光でなくなる。色と光は違います。
でも、赤は光だと言うことはできます。まぎらわしいですが。
263 :
ゆうポン:2005/04/23(土) 23:04:11 ID:???
>>257さん
>それは衆生を仏と同じ境涯にすることであることがわかる。(如我等無異)
私は難しいことはよく解りません。
もし釈迦が呆けてしまったり、酒に酔いつぶれてしまったり、
寝てしまったら、仏ではなくなるということですか。
「如我等無異」の解釈に、そう感じました。
>>258 Sbさん どうもです。
「Sbさんの己の心情を」です。
例えば「洞察」、「観察」、「智慧」これらの言説に対する表現はどうでしょう。
sbさんは「否定でも肯定でもない」を肯定して書き込んでいるのではないのですか?
265 :
マハーバイロ:2005/04/24(日) 00:36:36 ID:UupuwiR8
>>262 ゆうポンさん
一切は確に証明出来ない・・・
------------------
「 不生にしてまた不滅、不常にしてまた不断、不一にしてまた不異、不来にしてまた不去」
龍樹 中領
------------------
を思い起こしました・・・
「否定も肯定も出来ない」は「空」に近い思惟なのかも知れません・・・
「月が見える原因」の最初の因、「第一原因」は何でしょう?
266 :
ゆうポン:2005/04/24(日) 10:27:17 ID:???
>>265 マハーバイロさん、こんにちは。
>「月が見える原因」の最初の因、「第一原因」は何でしょう?
それは、私がいるからです。
もちろん無常なる私を、どう定義しても、ことごとく崩されていきます。
それとも、認識という答えを期待していたのでしょうか。
>>256 >>257 基本的には「法華経の内容の意味するところについて」、
>>257さんに同意します。
法華経は円経というよりは、諸々の経典の位置づけを説いた経といった方がいいのかもしれません。
だからこそ天台他は教判の根拠に法華経を用いたのでしょう。
>>259-260 Sbさん
>突詰めてしまえば、言葉も論理も空でありますから、存在いたしません
ここで問題になっているのは、言葉や論理の「存在論」などではないことはすでに自明のことと思っておりましたが。
>> 僕は、言葉や論理も肯定し、それ以外も肯定し、また、言葉や論理を絶対とはしないが人間にとって
>>大切なものだと思っている、という考えですが、それにはSbさんは同意されませんか?(ひゃっきまる)
>同意いたします
であれば、そもそも僕とSbさんの考えは同じなのですから、対立などしていなかったわけです。
なぜこんな簡単な意思確認がすみやかに行われなかったのでしょう。
「この程度の」意思確認は、普通の人が普通に使う言語と論理のルールで充分に表現できるはずですね。
普通の言語と論理のルールでは表現できないものなど我々は扱ってはいないわけです。
>>259-260 Sbさん
>別のたとえを出しますなら
>「包丁は確かに物を切るには便利でありますが、別のものを切るにはほかの道具、
>はさみやナイフといったものを使ったほうがよい場合もあります」
>包丁で木を彫刻するなど愚かなことでしょう
この喩えでSbさんが表現したいものを、仮に
・包丁=言語、論理
・料理=他人との意思疎通、適切な判断をすること(言語、論理の目的)
・ナイフ=言語、論理以外のなにか
・木の彫刻=悟り
としましょう。
Sbさんは、今までこのスレの中での話し合い(僕や他人との会話)で、言語を用いてはいても、
論理的には矛盾しているレスをたびたび返していますね(それともそれはSbさんにとっては、
実は「論理的」なのでしょうか?)。
それは、「ナイフ」で「料理」するようなものではないですか?
なぜナイフで不味い料理を作るような人から、「木の彫刻をするには『これ』を使えばいいよ」
と示されたものを信用することなどできますか?
それは、僕からすれば、「ナイフ」どころか、単に「壊れた包丁」以外の何ものでもないように見えます。
>>261-262 ゆうポンさん
やはりゆうポンさんの文章は分かりずらいですね。
>>261と
>>245は同じことだと僕は思うのですが、ゆうポンさんが違うと思うのならきっと違うのでしょう。
>>やはり三車火宅の喩えと、三草二木の喩え
>ここでは、一般的な喩えではないと思い、使いませんでした。
何を言っているのですか。ここでテーマになっているのは、「法華経に説かれているもの」でしょう。
法華経を読んでいない人がこのテーマについて議論することは不可能なはずです。
「ここでこそ」使える、また使うべき喩えです。
>
>>207さんの
>>何が月になるのかも人それぞれにならんかぇ?
>に対して、そういう表現も可能かな、としたものです。
何を言っているのですか。
>>207さんに同意して
>>231のレスをゆうポンさんがしているのだから、
「月も人それぞれになる」というのはゆうポンさんの考えでもあるのではないですか。
>その真意が解らない以上、否定も肯定もできません。
でしたら、「
>>207さんの真意がわからないので否定も肯定もできません」と答えておけばよかったという
ことです。
偉そうに人の文章にケチをつけるような奴に限って
つまらない文章を書く。
読む価値のないスレだな。
>>263 「如我等無異」とは仏の悟れる智慧を衆生に共有させることに他ならない。
それが仏の「一大事の因縁」、すなわち出世の大目的であると明かしている。
「仏種は縁に従って起こる」と知るがゆえに、法を説くのである。
「一大事の因縁」とは仏縁であり、その縁起によって衆生は成仏の因を得るのである。
ゆえに、仏の悟れる智慧を、一切種智という。
その智慧とは、諸法の実相であり、無生無滅の一法である。
これ難信難解ゆえに、「退くも亦佳し」とするのである。
>>271 僕に対するレスとしてお答えします。単なるケチつけのようにみえるかもしれませんが、議論に
直接からむ必要なことです。
僕のレスはどちらかといえば新規性も独創性もない当たり前、普通のことを説明過剰気味に書く
ことが多いですから、つまらないのはある意味当然だろうと思います。
274 :
ゆうポン:2005/04/24(日) 19:45:29 ID:???
>>270 ひゃっきまるさん
どう説明したら解ってもらえるのでしょうか。(自分に腹がたちます)
>ある指は、月の色を指し、ある指は、月の形を指し、ある指は、月の満ち欠けする性質を指し
これだけなら意味は解ります。
でも、これらの指は、私がいう"月をさす指"ですか。
指されたものは目的であり、指は目的に対する手段またはヒントでしょう。
"月の色"を指している指が、どうして"月"をさす指なのですか。
この喩えでは、月の部分・側面を示すなどは手段(様々な指)であり、
指された目的ではないはずです。意味が大きく変わってしまいます。
>「ここでこそ」使える、また使うべき喩えです。
私は、できるだけ一般的な表現にしたかっただけです。
月をさす指が一般的かどうかは解りませんが、さほど説明も不要で
解りやすいと判断しました。それだけです。
法華経の喩えを使った方がいいと判断したら使います。
>「月も人それぞれになる」というのはゆうポンさんの考えでもあるのではないですか。
「何が月になるのかも人それぞれ」という表現に対しては、
むしろ
>>230で、それは私のいう月ではない、と否定しています。
そこでの、私のレスのテーマでもありませんでした。
ましてや他からのレスの引用です。
「"実際には"そうなると思います」と条件付きでその表現も可能だとしたものです。
それが、「」や
>>245では">"をつけてまで強調されて、私の考えとされていたのです。
それでも、私の考えではありません、と言ってはいけませんか。
私がうまく伝えられないことは自分でも承知していますから、
別に、ひゃっきまるさんを責めている訳ではありません。
ただ、私にとっては大事だと感じたところを、そのままに出来ませんでした。
>>266 ゆうポンさん どうもです。
確かに月をみる「私」さえも「無常」な故に確固たる証明は出来ないことになり、
自身さえ否定も肯定も出来ません。
しかし、その連続性を遡って突き詰めれば「月を見る私」への第一原因(宇宙生起)については
肯定しなければならないことになりませんか?
>>274 ゆうポンさん
>>270はキツメな文章になってしまいました。すみません。
喩えを使うためには、喩えの対象と喩えの対応が正しく理解されていることが重要です。
僕は
>>274を読んでも、やはり
>>261と
>>245が違うことを言っているようには思えないのですが。
以下に僕がこの場合で捉えている対応関係を示しますので、同じようにしてゆうポンさんの対応関係を教えてください。
月 = 一仏乗=仏が衆生を導こうとしている目的
指 = 三乗、諸々の経典、縁起の教え、空の教え
それぞれの指が指しているもの = 月の部分(色・形・性質) = 諸々の経典の目的
実は最後の、「それぞれの指が指しているもの」というのはない方が整合性がつくのですが、
>>230の内容を無理やり
盛り込んだものです。本来であれば、月と指の喩えを使うなら、「それぞれの指が指しているもの」は「月」でいいはずです。
なんだかこの辺で混乱がおこっているようですね。
>それでも、私の考えではありません、と言ってはいけませんか。
ある人が言った意見に同意したら、その人と同じ意見を持っているということになるというのは、
普通の判断と思います。
「実際にはそうなると思います」の「実際には」というのはいったいどういう意味なのでしょうか。
「実際ではない場合」には「同じ意見にならない」のだとしたら、「実際ではない場合」について、
ゆうポンさんはどのような場合を想定されていたのでしょうか。
277 :
ゆうポン:2005/04/24(日) 20:32:43 ID:???
>>272 257さんでしょうか。
すみません、前後を読むと、あの読み方が正しいんですね。
私は「如我等無異」から、別の解釈をしていました。
レス、ありがとうございます。
>>275 マハーバイロさん
>第一原因(宇宙生起)については肯定しなければならないことになりませんか
意表をつかれました。
疑いようのない事実だと感じます。
その続きを教えてください。
ひゃっきまるさん。
>>271は、たぶん私のことだと思います。
>>276のレスは、待ってください。
私の場合、レスを作るのにかなり時間を要します。
>>275 マハーバイロさん
>>277 ゆうポンさん
話の内容がよく見えていないまま横レスしますが、「第一原因」は他のものに依らずに
独立して初めに存在していなければならなくなるので、もしそういったものがあるとしたら
縁起説が成り立たなくなるということになると思います。
ところで宇宙生起の第一原因というのは肯定せざるを得ないものなのでしょうか?
それが「時間のはじまり」を意味しているのだとしたら、人間の理解の範疇を超えているし
(実際には現代の宇宙論はこの点を扱っていますけど、また別の話なのでここでは
脇において置きます)、宇宙の存在そのものを指しているのだとしたら、「私」がいなくても
宇宙が存在するかどうかは「私」には確認できませんしね。
的外れなレスでしたら申し訳ありません。
279 :
ゆうポン:2005/04/24(日) 21:39:48 ID:???
>>276 ひゃっきまるさん
>月と指の喩えを使うなら、「それぞれの指が指しているもの」は「月」
そこが重要だと思います。
>>203で、次のように対応させています。
月=経典中に出てくる「法華経」(特定の経典や教えを指しているのではない。無分別法を象徴)
指=月を気付かせるもの。月の側面・部分の説明。譬喩。その他もろもろ。
何が指(言語とは限りません)になるのかは、ひとそれぞれ違う
※ 言語などの指・方便はどうでもいいと言っているのではなく、
指に固執してしまうことを戒めているのでは・・
私は、こういった対応表というものは好きではありません。
ましてや、その対応が正しいとも思っていません。
そういう考えもできる、という段階のものです。
>ある人が言った意見に同意したら
同意というより、私が否定してしまった表現を、
あながち否定できないと訂正したものです。
>「実際ではない場合」について、 ゆうポンさんはどのような場合を想定されていたのでしょうか
私が
>>262でレスした「何色が光になるのかも人それぞれ」についての次の部分
>赤が光だと定義すれば、緑は光でなくなる。色と光は違います。
>でも、赤は光だと言うことはできます。まぎらわしいですが。
では、だめでしょうか。
今日は、これにて失礼します。
譬えを説明するのに別な譬えを使ってはいけないよ。
それでは説明にならないということだ。
難信難解ゆえに、「退くも亦佳し」
へぇー、仏教の究極は一切衆生の済度と聞いてるのに
それを放棄するっていうのはどうなんざんざんしょ??
それで円教??一乗??
>>277 ゆうポンさん
私の勝手な見解と御断りしておきます。
「月」も「月を指す指」も「指を指す私」、これら(諸法)は単独では肯定出来ないが、
「月」(色境)と「指」(眼根)「私」(眼識)の関係性の結合(無分別)に縁っていっきに「実在」(肯定出来る存在)に転換することが出来ます。
そして全ては「実在」と肯定するならば、縁起説の最初因「無知無明」、
そして「無知に際限なし」と考えられるのではないでしょうか。
>>279 ゆうポンさん
ゆうポンさんと僕とのすれ違いの原因はほとんど限定できたように思います。
おそらく、月と指に関する考え方は両者では全く一致していますが、僕はゆうポンさんが
「月も人それぞれ」という考えを持っているように思えたので、それがどういう意味なのか
聞いていたのです。正直言って今でもその辺に関するゆうポンさんの説明はほとんど理解
できません(「実際ではない場合」も含めて)。つまりは、この喩えでは扱えないケースという
わけでしょう。
しかし、「月も人それぞれ」という主張がゆうポンさんにとって全く重要なことではないらしい
と気づいたので、僕もこれ以上つっこむのはやめます。
>ましてや、その対応が正しいとも思っていません。
>そういう考えもできる、という段階のものです。
人の意見はどんなものも全て「正しいとは限らない」ものです。これは話をするときの
大前提です。しかし、「自分がどのような考え方と主張をもっているのか」をはっきりと
させることは必要です。そこを思い違いしないでください。
法華経の会座に集った声聞も、機根の違いがあった。
いわゆる三周の声聞である。
法理を聞いて悟ったもの(法説周)
譬えを聞いて悟ったもの(譬説周)
因縁を明かして悟ったもの(因縁周)
それらさまざまな機根の衆生のために、
まず法理を示し、次に三車火宅の譬えを示し、
最後に大通結縁の因縁を明かしたのである。
また、説法が始まる前に、自ら座を立ち、退いた衆生もいたのである。
>>281 法華の会座に集った衆生は、大通結縁以来の機根を育ててきた衆生とされる。
法華経を聞いて信受できないならば、その機がまだ未熟であり、
かえって不信の心を起こさせ、それまでの調機を無駄にしてしまうが故に、
「退くも亦佳し」としたのである。
一切諸法は、信をもってその源とするのである。
法華経においてもそれは同じであり、
不信のものをただちに悟りの境地に至らせることはできないのである。
ただし、いったん結んだ仏縁は、やがて必ず成仏へと至る。
方便品に、種々の仏事をもって「皆已に仏道を成じき」とするのはその意である。
それすべて一心の妙用であり、実相の深理によるものである。
三乗分別の法は、仏の智慧より出生したのである。
ゆえに仏の智慧を一切種智と呼ぶのである。
その智慧の源は、仏の大慈悲の一念に他ならない。
その一念を信解しなければ、八万法蔵を空に読むとも、悟りには至らない。
例えば、子供をもって初めて親の苦労がわかるという。
釈尊の一念を信解するとは、釈尊と同じ立場に立つということである。
釈尊と同じように大慈悲を起こし、迷える衆生のために法を説き、難を忍ぶものである。
法師品には、その修行者の姿が説かれる。
すなわち、如来の使いであり、法華経の行者の姿である。
如来の使いは、「大慈悲を室と為し、柔和忍辱を衣とし、諸法空を座と為す」のである。
そしてつづく宝塔品で、その姿こそが「皆是真実」と説かれるのである。
286 :
ROM:2005/04/25(月) 06:03:17 ID:???
自分も含めた一般論として・・・
ニュース議論板や政治板の猛者どもと対話してくると、
自然とスマートな議論が出来るようになってくるような気がするよ。
・・・・・・スレ汚しスマソ
>>264 そういったものを押し付けようとはおもいませんが、
言葉を発する、意見を言うということが押し付けであるといわれてしまえば、どうにもなりません
>sbさんは「否定でも肯定でもない」を肯定して書き込んでいるのではないのですか?
またそれも空の前では否定もすることができると考えます
>>269 >言語を用いてはいても・・・
つまり、言葉では論理的矛盾があるものは伝えることはできないとおっしゃりたいのでしょうか?
それとも言葉を使う以上論理的矛盾など許さないのでしょうか?
>それは、「ナイフ」で「料理」するようなものではないですか?
ここでは「ナイフ」しか用意されていませんからね
ですから、「ナイフ」にも「包丁」にも限界があり、それに捉われてはいけないのです
悟や空といったものを言葉で扱うとは、「石」や「木」を「包丁で料理する」ようなものです
しかし、われわれには言葉「包丁」しか用意されていない
「石」を「包丁で彫刻」すれば「壊れた包丁」になるのは必然といえましょう
ですから、「いし」を「包丁」を壊さないように「料理」しようとしても、「彫刻」はできない
私から見れば、ひゃっきまるさんは言葉に捉われていると見えているのです
289 :
ゆうポン:2005/04/25(月) 21:03:49 ID:???
>>ひゃっきまるさん
ひゃっきまるさんが
>>211で述べている、
>三乗方便一乗真実の教えは、諸々の法は皆それぞれに正しい、
>という解釈の方が話的には筋が通ると思っています。
に対し、私が
>>230で
>全てはその月の姿であり、それぞれに大切である。
>その月を特定の宗教や教え、または部分・側面であるとしてしまうと、
>それは成り立たなくなります。
とレスしてしまったことが、食い違いの原因ではないでしょうか。
ひゃっきまるさんの言う「諸々の法」を、私が別な意味にとったまま
レスしてしまったのではないかと思います。
ひゃっきまるさんは、様々な指・方便も皆それぞれに大切であると
言われたのではないでしょうか。
私がいっている「全て」や「それぞれ」は、月の姿です。
月の解釈も微妙に違うのかもしれません。
月を無分別なる一法とすれば、全てはその一法の姿であり、それぞれの
姿・現象を離れてどこかにその一法があるわけでもない、という意味です。
無分別法もまた、説明してしまえば、月をさす指となります。
名づければいいのかもしれません。もちろん名詞とそのものとは違いますが。
290 :
ゆうポン:2005/04/25(月) 22:01:50 ID:???
>>282 マハーバイロさん
すみません、私の知らない言葉がいくつも出てくるので、
かなり難しいです。前回での宇宙生起は、私にとっても
三大不思議のひとつで、宇宙に始まりがないとしてもイメージの
限界をはるかに超えています。でも、私が今生きている以上、
そのいずれかの不思議を認めないわけにはいかないのでしょうね。
>関係性の結合(無分別)に縁って
>いっきに「実在」(肯定出来る存在)に転換することが出来ます。
と
>縁起説の最初因「無知無明」、そして「無知に際限なし」と考えられるのではないでしょうか。
は、特に難しいです。
私も妄想家ですが、マハーバイロさんもそうなのでしょうか。
頭がパンクしそうですヽ(`Д´)ノ
>>288 Sbさん
>つまり、言葉では論理的矛盾があるものは伝えることはできないとおっしゃりたいのでしょうか?
>それとも言葉を使う以上論理的矛盾など許さないのでしょうか?
場合によっては論理矛盾した言葉の方が感情や意図を伝えることもあるでしょう。また言葉では
うまく伝えられないものもあるでしょう。論理というのは言葉に内在的にあるものだとしても、後から
発達したものでしょうし。
しかし、ここで我々が「言葉」を使っているのは、他人と意思疎通するためでしょう。もしその役目を
言葉が果たしていなければ、それは「おかしい」と言うべきであると僕は思います。
この点Sbさんはどう思われますか?
>ここでは「ナイフ」しか用意されていませんからね
Sbさんは言葉も論理も使えますよね? 包丁も用意されていますよ。
他人と意思疎通をする場合には包丁を使うのが適しているし、包丁を使えばすむことをわざわざ
ナイフを使っているように思うことがあります。
「悟り」や「空」を非論理的な言葉でしか語れないのなら、それはそれでそういうものだと思う他は
ないのですがね。Sbさん以外には知ることができないので。
>私から見れば、ひゃっきまるさんは言葉に捉われていると見えているのです
よろしければそう見える理由を教えてください。
ところで、僕は初期の仏典に書かれていることは、非常に論理的なこと、納得のいくこと、が
多いように思います。もちろん日常の感覚からは変わったことを言っているのかもしれませんが、
きちんと筋が通った主張が多い。だから釈尊の対話者も納得せざるを得ない。ちっとも非論理など
述べていないのです。
しかしSbさんの話は、「単にわれ『在るでもない無いでもない』っていいたいだけちゃうんか」
って感じなのです。
>>286 政治や思想関係の議論は難しそうですね。
そこで語られている内容の切実さと比べたら、ここは遊びみたいなもんでしょう。
>>289 ゆうポンさん
僕が考えている「月」は、教えではなく、「目的」といった方がよいです。
大百牛車は、火宅を出た後にはじめて得るものだからです。
いろいろな教えが目指している目的は結局は同じだ、ということです。
>>233参照
> 僕の考える法華経の主張を端的に表現すれば、「世の中にはいろいろな教えがあるけれども、どれも
>仏がただ一つの目的のために説いたものであるから、最終的には皆同じ素晴らしい仏果を得るのです
>よ」という程度のものです。 (ひゃっきまる)
また、月を「無分別法」とも考えていません。もしかしたら日蓮宗派の考えではその辺は重要なのかもしれ
ませんが、どちらかというと、ブラフマニズム的な発想と思います。法華経そのものからその辺の思想を
読み取ることは、少々飛躍がある?(ちょっと断定まではできませんけど)
ゆうポンさんの考えによれば、羊車、鹿車、牛車は、大百牛車の部分の姿ということになりませんか。
294 :
ゆうポン:2005/04/26(火) 22:40:35 ID:???
次から次へと痛ましいことが多過ぎます。
>>293 ひゃっきまるさん
三乗方便一乗真実についての、ひゃっきまるさんの考えは解りました。
ただ確認ですが、三車火宅の譬えでは、三乗は釈迦の説いたとされる教えに限定
した方がいいかもしれません。たとえ広げても、目的が同じでなければなりません。
一般の教えには様々な目的があり、釈迦の目的とは違うものが多く、
三車火宅の譬えから外れていくように思います。
釈迦は相手に合わせていろんな教えを説いたけれども、それが目的ではないよ、
ということが解ればいいのではないでしょうか。
一乗の説明ではなく、一乗に対する三乗の位置を説明した譬えでしょう。
(以上は、法華経があくまで仏教であることを前提にした話です)
私は、長者窮子の譬えや衣裏珠の譬えに、釈迦が本当は何を
説こうとしたのかのヒントがあるように感じます。
ですから、三車火宅の譬えを使った
>ゆうポンさんの考えによれば、羊車、鹿車、牛車は、
>大白牛車の部分の姿ということになりませんか
にどう答えていいものか、困惑しています。(私が混乱しているのかも)
心の変化もまた現象であるとすれば三乗も含まれる、でよいでしょうか。
>>290 う〜ん。
確かに私は妄想家・・・かなり当たってます(笑
宇宙生起については混乱を避ける為にまた別の機会に・・・
ところでこのスレで「無分別法」という語句を使用したのはゆうポンさんが最初ですよ。
ゆうポンさんは「月」を肯定も否定も出来ないとの見方を提言なさっていますので、
確かに無分別な見解だと思いましたが・・・
私は「無分別」とは識別作用の否定とは別のスタンスを取ります。
単にAとBを分別しないという意味ではなく、
「AはBである」と「AはBではない」を分別しないという意味で使用しました。
つまり「AはBでありBでない」を成立させます。
勿論これは基本的に倫理矛盾していますので混乱を感じるのは当然かと思います。
しかし、ゆうポンさん自身が仰ってるように、
「A」は肯定も否定も出来ない主体性を持たない(個我の否定)存在であれば成り立つことも可能です。
「A」「B」とも個別に見れば否定も肯定も出来ない不確ではありますが、
「AとB」と言う風に全体を観れば実在を感じることが出来ると思います。
(これはもしかしたら体空観の解釈とは違うかもしれませんが)
>>294 ゆうポンさん
>ただ確認ですが、三車火宅の譬えでは、三乗は釈迦の説いたとされる教えに限定
>した方がいいかもしれません。たとえ広げても、目的が同じでなければなりません。
法華経の主張はそうでしょうね。同意です。
ただ、実際の話をすれば、「法華経」も、他のほとんどの経典も、仏教という名がついている
だけで釈尊が説いたわけではないわけです(大乗非仏説)。
ここからは完全に僕の想像です。
法華経を創作した人は、もちろん釈尊が法華経を説いたのではないことを知っているわけですが、
どのようなわけで法華経を創作し、どのようなわけで釈尊の名を騙ったのか、ということに思いを
馳せて見ます。
創作者が、釈尊は永遠に存在して衆生を導き続けている、と信じていたとすれば、いろいろな
「不思議な方法」で衆生に教えを説いている、と考えていた可能性もあります。
その「不思議な方法」で、大乗経典や、法華経を説いている、というわけです。
法華経の「方便」の考え方も、法華経が創作経典であることに対する自己言及のように思える
ところもあり、あながち的外れな考え方ではないと思います。
そういった考え方を拡張していけば、三乗を仏教に限らずともよいのではないか、などとも
考えます。まあ僕個人の想像に過ぎません。
>>294 ゆうポンさん
長者窮子の譬え、衣裏珠の譬えは大変面白い話だと思います。
一般的には、本覚思想や仏性思想と結びつけてとらえるのだと思いますが(おそらくゆうポン
さんもそうでしょう)、なぜこの譬えが面白いかといえば、日常生活で感じるような微妙な感情の
機微を表現しているからなのだと思います。
>長者窮子の譬え
自分の境涯が不運だったり不幸だったりすることに、かえって「身分相応」と思って安心して
いたり、唐突に大役をまかされたりして恐れを感じてしまうことってよくあると思います。我々は、
自分の無力さを、「自分には本来的に大きな能力は無いのだ」、と卑下することで納得しようと
する心理が働きがちなのだと思います。
このような考え方に慣れきってしまうと、挑戦意欲のない、無気力な生き方しかできなくなって
いくと思います。そのようになってはいけない、というように戒めているのではないでしょうか。
また、この譬えには「身分」に対する仏教の考え方をはっきりと示しているところが素晴らしいと
思います。
>衣裏珠の譬え
自分の一番身近なところに一番求めるものがあるのに、「そんなはずはない」という思い込みの
あまりに、それに気づかず虚しい努力をし続ける、ということもありがちに思います。これも、自分を
卑下することの愚かさを説いているのだと思います。
こうして考えてみると、法華経を信奉していたグループは社会的には蔑まれた立場にあったのでは
ないでしょうか。
>>291 釈迦の言葉だろうが、悟の論理だろうが、法華経だろうが
仏への旅行記やガイドブックでしかないのです
旅行記に首っ丈になっていないで自分で旅行したらどうですかといいたのです
色も音も味も触覚も伝えることはできない、悟もそうです
人の書いた言葉や論理を呼んでも、それは色でも音でも味でも触覚でも悟でもない
>もしその役目を言葉が果たしていなければ、それは「おかしい」と言うべきであると僕は思います。
おかしくても、違っているよりは良いではありませんか
299 :
蘇った、お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :2005/04/27(水) 19:09:48 ID:l3sEtE4M
三車火宅、長者窮子、衣裏珠等の譬えは釈尊の教えによって救われるより
自ら成仏し、また菩薩となって多くの人々を救えるような人になるべき
ことを示していると、とっています。釈尊は悟りを開いて仏になる方法
を示したのですから。
そして悟りは一つの精神的な体験であり、それを言葉にするのは大変
難しいことです。
300 :
ゆうポン:2005/04/27(水) 20:57:56 ID:???
>ひゃっきまるさん
>>296 >三乗を仏教に限らずともよいのではないか
言われる意味は解ります。
私は、鳥の鳴き声、風のそよぎにも仏法を感じることができると思っています。
一乗からみれば、仏教であるとか、釈迦の言葉であるとかは、どうでもいいことです。
釈迦は、そんな(閉じられた・特別な)ことは説いていないでしょう。
それは侮辱などではなく、釈迦や仏教に対する敬意だと思います。
何故なら、それを仏教(特定の宗派ではなく)から感じたからです。
>>297 私は、自分では特定の考えに縛られないようにしています。
複雑な現実を生きるためのひとつの智慧です。
というより、多くのひとは無意識にそうしていると思います。
ですから、私の考えが本覚思想であるのかどうかは解りません。
私が言う大切であるとは、私を含めた一切に対する、不思議さという畏敬であり、
決して傲慢になることでも、優劣・美醜・善悪・正邪・愛憎などの
評価でもありません。
301 :
ゆうポン:2005/04/27(水) 22:19:45 ID:???
>>295 マハーバイロさん
>確かに私は妄想家・・・かなり当たってます(笑
私だけではなくて、安心しました(;´Д`)
「無分別法」という語句は、数年前「三世諸仏総勘文教相廃立」を読んで初めて知りました。
自分が納得できるものとして、日蓮が、本当は何を言いたかったのかを
探している中で知りました。それは、宗教から自立したかったからなのかもしれません。
>全体を観れば実在を感じることが出来ると思います。
マハーバイロさんの言われる意味が、少しは理解できたかと思います。
こちらに合わせて簡単な表現に直してもらい、ありがとうございます。
私は確かにいる、というのも、そういう意味かもしれません。
そそ、創価に利用されているだけでは気の毒です。
みんなどした? ホシュ
304 :
蘇った、お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :2005/05/22(日) 05:13:04 ID:Frb6Iwyg
4月になったとたん仕事がモーレツに忙しくなってなかなか
書けなくなってしまった。
基本的な疑問に戻ると、学会の言う悟りを開いて成仏(死ぬ
ことじゃなく仏になること)するために御書を読み、お題目を
唱えなくてはならないとすると、歴史上のブッダも御書を読み
お題目を唱えて悟りを得たのか?。
どんな熱心な学会員でも、これは否定するよな。
じゃ当然、御書を読み、お題目を唱えなくても、ブッダと
同じように悟ることが出来るわけだ。創価学会の教え以外で
も悟れることを、ブッダは示している。
末法の世の中では、最初のブッダの教えは効力がなくなり
日蓮の唱えた教えでなくてはならないと言うのなら、それは
ブッダの教えと違う教えを広めていることを自ら証明してい
るのではないか。
なら、「唯一正しい仏法を信じている」という言葉を使うの
はやめて貰いたい。
日蓮はあらゆる教典を読み「法華経」こそがブッダの教えを
正しく伝えるお経であるとして「法華経」信仰を強く押してい
る。ところで「無我」はどうした。「四聖諦」「八正道」「縁
起」「中道」の教えはどこに行った。
これらを抜きにしてブッダの教えは正しく伝わるだろうか。
日蓮はブッダが何を説いたかではなく、自ら考えた「仏教は
こうあるべきだ」と言う主張を強引に押し広めただけではない
だろうか。
>>304 学会員の味方するわけじゃないけど、簡単に反論できるよ。
> 基本的な疑問に戻ると、学会の言う悟りを開いて成仏(死ぬ
ことじゃなく仏になること)するために御書を読み、お題目を
唱えなくてはならないとすると、歴史上のブッダも御書を読み
お題目を唱えて悟りを得たのか?。
その時代やその国に合った成仏の方法があるということでしょ。
特に末法思想ってそういう考え方なのでは。
創価学会批判というより日蓮批判だと思うけど、ちょっと教義を
浅く捉えすぎ。批判になってないよ。
それに日蓮は独特の主張をしたっていうより、どちらというと
保守的だよね。ただ、原理主義すぎた。
日蓮批判するんなら大乗非仏説だけで充分。
306 :
蘇った、お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :2005/05/24(火) 15:22:55 ID:kJXeV/Mz
>>305 >その時代やその国に合った成仏の方法があるということでしょ。
特に末法思想ってそういう考え方なのでは。
このような事を言ってしまったら、どのような教えでも、ブッダの教えとして通用してしまうのではないですか。
もっとも創価学会は教義で
日蓮大聖人を末法の御本仏と仰ぎ、一閻浮提総与・三大秘法の
大御本尊を信受し、日蓮大聖人の御書を根本として、日蓮大聖人
の御遺命たる一閻浮提広宣流布を実現する
と主張しているとおり、ブッダの教えを守るのではなく、日蓮を拝む団体であり、ブッダとは何も関係がない別の宗教であると割り切ってしまえば良いのだけれど。
自分自身がブッダの教えとは別の教えを信じておりながら、ほかの宗派に対して、その信仰は正しくないと批判しているのはどういうことなんでしょうね。
>その時代やその国に合った成仏の方法がある
のなら当然創価学会会員は、成仏している人が大勢いるはずですね。創価学会は何人成仏しているか、公表してもらいたいものです。
初期経典の大パリニッパーナ経ではナーディカと言う一つの村で
・50人近くがニルヴァーナに至り(不還)、
・90人以上は一来(一度だけ帰る人)、
・500人以上は預流(聖者の流れに踏み入った人)
とされています。(岩波文庫 ブッダ最後の旅 48.49ページ)
仏陀のいたころはたった一つの村で、これだけの人々が悟りに近づけたのですから、何百万人もいる創価学会ではとても数え切れない大勢の人々が悟っていることでしょう。
307 :
蘇った、お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :2005/05/24(火) 16:16:19 ID:kJXeV/Mz
おまけです。
>その時代やその国に合った成仏の方法があるということでしょ。
>特に末法思想ってそういう考え方なのでは。
そうすると「永遠の真理」「絶対正しい教え」との創価学会の主張は、矛盾していますね。
ブッダの唱えた「すべてのモノは常に変化し、永遠に変わらないモノはない」と言う教えの方が肯定できるのではないですか。だから一つのことに執着してはならない、と続くのですが。
>>306 もうちょっと自分の考えを整理してから書き込んでくれ。
自分の考えに自分で反論したりしてわけわからん。
>このような事を言ってしまったら、どのような教えでも、ブッダの教えとして通用してしまうのではないですか。
ぶっちゃけたらそうだよ。だけど歴史の積み重ねがあるだろう。
日蓮の一派に対して、ブッダとは何の関係もない教えと反論するのは幼稚すぎる。
そういうことを言うなら、あなたは原始仏教だけが正統だという立場に立てばいい。
>創価学会は何人成仏しているか、公表してもらいたいものです。
成仏が何を指すかも宗派によって違うと思うが、題目を唱えているときが成仏している状態だという位置づけではなかったかな(違うかも)。
本覚思想の立場をとるのかもよく知らんが、そうだとすれば皆成仏してるってことかな。
>そうすると「永遠の真理」「絶対正しい教え」との創価学会の主張は、矛盾していますね。
真理は同じだが成仏の方法=修行の方法が異なるということでしょ。矛盾というより詭弁だけど、筋は通っているな。
というか、別に俺が学会員の肩をもつ必要はないのだが・・・・。
こいつ程度だったら簡単に反論できるんだから誰かリアル学会員相手してやれよ。
309 :
蘇った、お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :2005/05/25(水) 04:32:13 ID:O1p6QTTn
>あなたは原始仏教だけが正統だという立場に立てばいい。
ハイ、その通りです。正統というと語弊があるかも知れませんが、初期仏教の教えと
創価学会が信じている日蓮の教えはあまりにも違いすぎています。
>>309 あんた頭悪いな。
はじめから大乗非仏説を根拠として原始仏教が正統で他は間違っていると主張すればいいだけ。
原点が大切ですね。
そこには、最小限の煩悩しかない。
312 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2005/05/26(木) 02:28:59 ID:gwbgogwH
>>309 原始仏教マンセーなのに、なぜ
ブッダのことば(スッタニパータ)の
796〜803(最上についての八つの詩句)を
無視した発言をするのかね?
世界人口比率で、約6%の人に「成仏」という概念が愛されているけれど、
「成仏」するメリットとデメリットがよく分からない。
「成仏する」とは、具体的に「何がどうなる」という話なのだろうか?
追求する価値は、あるいは目標とする価値はあるのだろうか?
どうして世界人口比率6%(ほとんどアジア人)だけが「成仏」を必要とするのだろうか?
それほどまでに満たされていないのだろうか?
>>312 別に学者の定説を信じたっていいだろ。個人の自由。学者の定説だから真実ではないというのも偏見。
>>314 生きるのがむなしかったり苦しかったりする人にとっては意味がある。
あんたがそう思わないのならそっとしておいてやれ。
>>315 >>生きるのがむなしかったり苦しかったりする人にとっては意味がある。
具体的に、どんな意味が?
目標の定義(成仏)が「あいまい」なのに、なぜ意味があるの?
無定義かつ無意味なのでは?
>>316 世界さん、あなたのやっていることも無意味では?
あなたもいずれは死ぬのです。
人は皆、生まれながらにして死刑囚といったのはユゴーだったかな、、、。
生物学的には、生まれたら死ぬだけの存在ですよ。
人間は強い自我を持つので、終わりがあるというのは非常に恐いものです。
結局のところ、宗教というのは死の恐怖をいかに和らげるかということに尽きるのです。
良き生き方が死の瞬間の安楽を約束すると信じさせることにあります。
永遠の生命、天国、極楽浄土などの来世観や、成仏による安心立命など、
すべては死の瞬間のための準備ということですね。
そういうものが必要ない人は別にいいのです。
でも必要な人がたくさんいることを理解できないなら、ほっといてほしいものです。
あなたは人の死の恐怖を代わりに解決できるのですか。
>>316 一・批判をするなら知ってからやれ。自分が理解してないことを批判するな。
二・人にものを聞くときは教えてもらうのだから謙虚な態度をとれ。
成仏=仏に成ること=悟る(目覚める)こと
成仏の定義があいまいというのはあなたの偏見。どの宗派にとってもそれが一番教義の根幹となる。
しかし宗派によって考え方が違うからあいまいなように感じるのだろう。
一番素朴な考え方としては、成仏というのは輪廻から解脱し、永遠に苦から開放される(二度とこの世に生まれ変わらない)ことを指す。
が、たぶん言葉通りに理解しようとすると誤解するだろうな。
「諸法無我」「涅槃寂静」「諸行無常」「一切皆苦」(意味については自分で調べて)といった仏教の最も基本的な教義をふまえて、の話だから。
319 :
蘇った、お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :2005/05/27(金) 04:31:52 ID:9OI76Wes
>>313 仏意仏勅の団体が、創価学会である、のですからどうぞ「唯一正しい仏法」
を信じてください。ただそれはブッダが唱えた最初の教えとは違いますよ。
>世界さん、あなたのやっていることも無意味では?
>あなたもいずれは死ぬのです。
死ぬことを考える以前に、哺乳類である我々が言うところの「生きている」とは何でしょうか?
3000年前の貴方の状態は、死んでいる状態ですか?
3000年後の貴方の状態は、死んでいる状態ですか?
そもそも貴方は今、「生きている」という前提は、正しいのですか?
>成仏=仏に成ること=悟る(目覚める)こと
では、「悟る」とは何ですか?貴方は、朝、目覚めないのですか?
障害のある子ども達をディズニーランドに連れて行く立場だとして、
悟っている人と、悟っていない人の、
ディズニーランド内での「行動の差」は、具体的に何ですか?
「二度と此の世に生まれない」ことは、本当に良いことですか?
>>321 世界さん、前にも書いたけど、
そんなこと聞いても答えなんか返っちゃこないよ
その答えはあなたのなか以外には無いんだもの
人の悟りはあなたの解答にはなり得ない
まぁ、解答への道しるべ程度だね
それはあなたの嫌いな経典でも同じこと
自分がなんなのかを悟る
生きるとはなんなのかを悟る
死ぬとはなんなのかを悟る
仏とはなんなのかを悟る
空とはなんなのかを悟る
色とはなんなのかを悟る
悟とはなんなのかを悟る
それらがまったく違うことだと悟る
それらが同じことと悟る
それが仏道
だから、生きることそのものが仏道
>>332 何を言いたいかというとね。
「悟る」とか、「成仏する」ことが本当に良いことなのか、見つめなおすことによって、
それらが「宗教業者(生業にするもの)」の食い物にされていないかどうか、
内省的になってみて欲しいということなんだ。人を「勧誘する」前にね。
案外大事な質問だと思うよ。
『障害のある子ども達をディズニーランドに連れて行く立場だとして、
悟っている人と、悟っていない人の、
ディズニーランド内での「行動の差」は、具体的に何ですか?』
もちろん答えは「差は無い」、ですよ。あるわけない。
あるというなら、「具体的に」説明して欲しい。
「人はいつかは死ぬ」・・よくそう私に言ってくる人がいる。
宗教の動機として、死の恐怖を克服することを念頭に書いてくれているのだろうけれど、
「成仏したい」「悟りたい」・・・これらも煩悩だと思うよ。
その動機に「死への恐怖」が動機に含まれているならば、
「食欲」「性欲」よりもやっかいな「成仏欲」にとらわれていることになると思う。
人が生まれることが素晴らしいならば、
この人生が素晴らしいならば、必ずヒトの人生が終わるならば、
それは素晴らしいことなんだよ。終わりがあるということは素晴らしいことだよ。
「成仏欲」という言葉を、考えてみて欲しい。
なんだかさぁ、こう形而上学的になるのって危うくねぇか?
>>324 なにがどうすばらしいのさ?
ばかなおれにもわかるようにかいてくれ。
>>321 何度も同じこと言わせるなよ。
理解していないことについて批判するな。阿呆!
知らないまま何をいってもトンチンカンなんだよ。
そして少しは考えをめぐらせたり実際に調べたりしてみろ。自分の意見を正当化するためでなくな。
328 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2005/05/28(土) 05:04:53 ID:9SAZRJu1
>>327 どうせ念仏宗だろ
正体ばれてんだよ
いい加減にしろ
>>326 馬鹿でも自分が何かぐらいは考えることはできるでしょ
>なにがどうすばらしいのさ?
>ばかなおれにもわかるようにかいてくれ。
生まれたことは素晴らしいですよね?
人生は素晴らしいですよね?
人間は必ず死にますよね?そのように最初から出来ていますよね?
「死後が分からない」という理由で、死を忌むならば、
生を与えてくれたサムシングを冒涜することになると思います。
私たちには、生が与えられ、死も与えられた。自分の意志で生まれてきた人はいません。
「分からない」という理由で死を忌むならば、
中身の分からない誕生日のプレゼントも忌むべきでしょうか?
人間に100%与えられた「死」ならば、それは素晴らしいのです。
「死」を分からないと忌む心があれば、
それを利用しようとする宗教業者(生業にするもの)が現れます。
分からないことを、さも分かったように解説し、
「○○すれば成仏できる」などと、嘘を並べるのです。
誰にも分からないことは、分からないまま置いておく勇気を持ちたいものです。
さもなければ、宗教業者に利用されてしまう確率が高くなります。
>>319 全然回答になってない。
スッタニパータへの言及もまったくないし、堂々巡りしてるよ。
日蓮の教えと原始仏教が違うということは疑いがない。
だから、それを何回繰り返し書いても意味がないよ。
俺が問題だと思うのは、層化は日蓮の教えが、あなたは原始仏教が「唯一正しい仏法」 だと、
それぞれが主張してること。
あなたは原始仏教が「唯一正しい仏法」だと思っているんだから、
まず、スッタニパータの796〜803になにが書かれてあるか読んでみ。
そこにどういうことが書かれている?
あなたの発言の趣旨をそれに絡めて回答してくれよ。
スッタニパータの796〜803を引用して、それにコメントをつけてくれればいい。
今度のレスは、頭悪いと言われないようにがんばってね。
>>323 だとすりゃスレ違いだよ、このスレでそんなこと書いたって意味が無い
問題を提起したいってのも解るけどね
そのことを考えないやつはあんまり来ないんだからさ
まっ、噛み付く相手を間違えてるってことだね
>>330 おなじことをこの前のJR事故で死んだ人の遺族の方に言えるかい?
>>323 宗教やることに何の意味も無い、とあんたが思うのは勝手。
だけどあんたがそう思うからって他人の信仰心を否定する理由にはなるまい。
何しろあんたは他人がどういう気持ちで、どういう理由で信仰しているのか理解しようともしていない。
ただ自分が固執している考えを駄々っ子のように繰り返しているだけだ。
「僕の方が正しいのにどうしてわかってくれないの」って・・・
・・・・・・・ガキだ。
仏教を信仰していようがいまいが、お前の言葉より釈迦の言葉の方が説得力があると考える人の方が圧倒的に多いとは思わんのか。
336 :
蘇った、お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :2005/05/28(土) 12:56:56 ID:GyssNPno
>>319さんへ
ハイハイ、ではキチンと解説します。
>あなたは原始仏教が「唯一正しい仏法」だと思っている
このことから行きますね。
正しい=無条件に間違っていない、正しい=無条件に善い、等々このような考えは、
成立しないと言うことです。
一つ例を挙げますと、ガリレオが『天文対話』で地動説を発表したところ、時の
ローマ教会は異端審問所でガリレオの学説は正しくないとして、有罪の判決を下し
ました。
「正しい」と言うことはその時代、唱える人の立場等で変わります。
ブッダの教えの基本の一つに「諸行無常」があります。
物事すべては、常に移り変わり決して同じ状態ではない、と言うことです。
だからブッダの教えには、決まった教義がありません。
337 :
蘇った、お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :2005/05/28(土) 12:58:43 ID:GyssNPno
つづき
「私には、自分はこれこれのことを説くということがない」(スッタニパータ.837)
また
「修行僧らよ、たとえば街道を歩み行く人があって、途中に大水流を見たとしよう。そ
してこちらの岸は危険で恐ろしく、彼方の岸は安穏で恐ろしくないとしよう。そのとき
かれが思うに、こちらの岸から彼方の岸に行くのに渡し舟もたく、また橋もない。そこ
でその人は草・木・枝・葉をあつめて筏を組み、その筏によって安全に彼方の岸に渡っ
たとしよう。かれが彼方の岸に達したときに、次のように思ったとしよう。すなわち『
この筏は実にわたしを助けてくれた。さあ、わたしはこの筏を頭にのせ、あるいは肩に
かついで、進んで行こう』と。汝らはそれをどう思うか。かの人はこのようにしたなら
ば、その筏に対して為すべきことを為したものであろうか」
「そうではありません。尊師よ」
「そのように、救い渡すためにこの筏のたとえをわたくしは説いたのである。実に筏の
たとえを知っている汝らは法をもまた捨てるべきである。」
(『原始仏教』 中村元 NHKブックスより)
この様にブッダの教えは、必要なときは、その人にその時一番適した教えを説き、必要
がなくなったら捨て去るべきモノなのです。
338 :
蘇った、お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :2005/05/28(土) 12:59:27 ID:GyssNPno
またまたつづき
さて、あなたが問題としている
>スッタニパータの796〜803
は、それぞれ自分の説が一番正しいとして、お互いに争っている所ですね。
これはブッダに当てはまるでしょうか。ブッダには主張すべき固定した説も、教義もな
いのです。もし固定した説や教義があったなら、それは「諸行無常」の教えに反してし
まいます。
この教えが「唯一正しい仏法」だと主張する人には、それはブッダの最初の教えとは
違いますとは、言います。
ただ人が「正しい」と主張しても、それはその人の色々な条件によって真実「正しい
」のですからむやみに否定はしません。ただそれも、時代、状況によって変化するモノ
なのです。常に無条件で「正しい」と限らないのです。
339 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2005/05/28(土) 13:01:53 ID:9SAZRJu1
340 :
蘇った、お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :2005/05/28(土) 13:06:45 ID:GyssNPno
すみません
>>338の
>この教えが「唯一正しい仏法」だと主張する人には
を
自分の信じている教えを「唯一正しい仏法」だと主張する人には
と、直してください。
341 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2005/05/28(土) 13:07:39 ID:9SAZRJu1
>>338 スッタニパータの796〜803を引用して、それにコメントをつけてくれればいいよ。
>>334 そんなアンフェアな話したるなよ〜。
遺族が仏教と深い関り持ってたら別だけど、ほとんど無宗教なんだし。
とはいえ、遺族の一人にテレビに出演したりしている有名な弁護士さんがいて
悲しみながら複雑な心境ながらも達観したコメントを言ってたんだよ。
人間の生死とは何か、そこに俺は感じるものがあった。
344 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2005/05/28(土) 14:51:08 ID:fn2Sny9I
>>328 日蓮カルトは念仏宗etc,なる仮想敵を語り続けねば体制が維持でき
ない不安定な狂団だな。北朝鮮やオウムと同じ構造だから崩壊は目
に見えている。日本にこんなカルト集団がオウム以降も未だのさば
っているとは、いやはや。
>>337 スレ違いな意見は承知だが、スッタニパータを通して読むとき、今日の
言葉で教義・思想が無いとは言えないだろう。
>おなじことをこの前のJR事故で死んだ人の遺族の方に言えるかい?
当然、TPOは考えないといけない。
例えば、「ウォーキングは体に良い」ということは、ほぼ常識化しているけれど、
車椅子の方の集まりで、わざわざそんなことを言って良いわけはない。
逆に、創価公明板において、宗教業者によるカルト被害を心配するならば、
当然、法華経や仏教自体も批判の対象になってくる。あえて対象外とはしない。
ですから、あえて仏教全般の話をするならば、「心と宗教」板の方が適切かもしれないね。
346 :
蘇った、お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :2005/05/28(土) 23:28:16 ID:CduV9rDW
>>342さんへ
Sbさんがどこかで書いていましたが、ブッダの教えは悟りへのガイドブックなのです
。ですからその教えについてあれこれ解説してみても、自分で見、自分で体験してみな
いことには何もならないと言うことです。日光の華厳の滝について、どんなに詳しく説
明しても、実際に目の前で見せ、滝壺の音を聞かせた方が分かり易いのと同じです。
公明・創価版なのでそれに乗っ取った形で書きますが。
796 世間では、人は諸々の見解のうちで勝れているとみなす見解を「最上のも」のであ
ると考えて、それよりも他の見解はすべて「つまらないものである」と説く。それ故に
かれは諸々の論争を超えることがない。
これは日頃創価学会が行っていることです。折伏と称して入会させるときに使います
。そしてそれが争いの元になっているのです。
347 :
蘇った、お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :2005/05/28(土) 23:29:51 ID:CduV9rDW
797 かれは、見たこと・学んだこと・戒律や道徳・思索したことについて、自信のう
ちにすぐれた実りを見、それだけを執着して、それ以外の他のものをすべて劣ったもの
であると見なす。
怪しげな体験主義―私はそれを(実際に)体験した。毎日お題目をあげたおかげで、事
業を立ち直らせた。目指す大学に入学できた。医者に見放された病気が治った等々、だ
から学会の教えは、真実・事実であるに違いない。うちの教義はスゴイ! それで世界の
すべて(すべての現象)を説明することができる―などにはまり込むことですね。ただ
この体験は、その人にとっては真実なのです。でもそれが他のすべての人にとって、常
に通用するかそれが問題なのです。
798 人が或るものに依拠してその他のものは劣ったものであると見なすならば、その
ものは実にこだわりである、と真理に達した人々は語る。それ故に修行僧は、見たこと
・学んだこと・思索したこと、または戒律や道徳にこだわってはならない。
自分が学習したことや、個人的な体験で学会の教えが最高であると思っても、他人に
とってはそうではない。他の人には他の見解がある、学会の人はこれが分かっていない
。自分は真理であると思っても、世の中には他にも色々な見方、考え方がある。そのこ
とに気づき、一つの考えにこだわらないと言うことです。
348 :
蘇った、お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :2005/05/28(土) 23:31:07 ID:CduV9rDW
いま「気づき」と書きましたが、私の学んでいる教団ではこの「気づき」を大切にし
ています。気づきのサンスクリット(梵語)は、budhという目覚めを意味する言葉。
そこからbuddha覚者という言葉が派生していますし 、bodhi菩提という言葉が出ていま
す。
宗教が元でおこる争いは、自分達だけが正しいと思いこんで排他的な行動をとること
から起こります。2500年も前にブッダはこのことを見抜いていました。
これから803まではこのことに気づいて特定の立場をとることをやめた人は、どの
ように考え、どのような行いをするか、そしてそれが彼岸の道に続いていることを示し
ています。
349 :
蘇った、お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :2005/05/29(日) 00:20:20 ID:6e5f65B6
>>344さんへ
>スレ違いな意見は承知だが、スッタニパータを通して読むとき、今日の
言葉で教義・思想が無いとは言えないだろう。
自ら論争するなと言っておきながら、スッタニパータはブッダの論争集みたいなモノで
す。ただこの論争は、弟子達から聞かれてその質問に答えるという形が大部分です。ブ
ッダの方から自分の主義主張を押しつける形ではないです。例外としてウダーナ(自説
経)と言うお経もありますけど。
これら論争の拠り所としてブッダの主張しているのは、何ら固定した立場をとらない、
決まった教義がない、一つの思想に偏らないと言うことです。
前にも書いたようにすべての物事は常に変化していて、ある一つの立場、思想、教義
にこだわっていても、それが常に正しいとは限らない、と言うのがブッダの見方です。
あえてブッダの教義・思想を言えば、決まったあるいは固定した教義・思想がないと
言うことですね。
350 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2005/05/29(日) 00:29:11 ID:f9TpkclN
仏陀には固定したものはある。
それは、肉体そのものは牢獄だから、
早くそれらの愚かしさから脱せ。ということ。
無常を理解するには相当な精神レベルが要求される。
層化程度の教義に感動を覚えるようなレベルのものでは
絶対に理解できない。
私としては、芥川の小説よろしく、クモの糸をたらす仏陀の心境
だが、彼らは欲ゆえに必ず糸を自らの欲望で断ち切ってしまう。
自分を捨てること。こんな煩悩まみれの宗教に陥った人には、
それしか自分を救うすべはない。日蓮を含め、自分らが地獄にいるという
自覚を持てる高度な人物がどれだけいるか・・・。
351 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2005/05/29(日) 01:24:42 ID:3/oRJdi/
>>349 固定した態度を取らないというのはあくまでそういう「態度」に過
ぎないのであって、態度イコール(言葉で表現される)釈迦の教義
・思想とはならないのです。これを混同するのは何となく分かる気
がしますが。釈迦にはやはり根底で固定した態度があり、それを弟子
にも教示していました。戒および律はその際たるものです。
また教義・思想が「押し付けるもの」、という前提がアプリオリに
あるようですが、釈迦が得意とした「問いという形式」によって初
めて表現されるような教義思想があってはいけないという決まりは
もとより全然ないのです。
表現上の問題でしょうが、あなたの言う「一つの思想にこだわらない」
は恐ろしい表現なのです。つまりそれは「何でもアリ」へ転化する危う
さ秘めた表現であって、ここ踏みはずせば金剛乗やサハジャ乗がすべり
込んだ領域と変わらなくなります。
言語は真理を指し示すには不完全だという認識から、言語による積極
的な理法の定言を拒む龍樹のような思想家のことはご存知とも思いま
すが、そうした系譜が土台としてあることで八万四千の法門、無数の
方便という融通性がはっきりと顕在化し、「思想化」したのは大乗の
特徴なのです。「一つの思想にこだわらない」という態度は寧ろ後の
大乗より「思想」ということになるでしょう。
また釈迦が説いたといわれる「八正道」を、「正しいとは限らない」
とは伝統的にいわないものです。矢張り苦の滅に正当性をもつと(信
じらえれた)からこそ、実践の道となりえると解釈をするのが自然で
あり、そこまで釈迦も入り込んだ、無責任な物言いはしなかったでし
ょう。原始仏教の折角のシンプルさを、あなたはややこしくし過ぎと
思います。
352 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2005/05/29(日) 01:44:54 ID:3/oRJdi/
>>350 わたしはアンチ層化だが、あなたのような己のみ一人高し、仏陀にな
りきって救ってやろう、でもおまいら煩悩だらけの馬鹿は無理だな、
というしれっとした物言いは鼻につくんだよ。
因みに日蓮の地獄なんてあなたが知る由もないことだ。もしかしたら
酒に酔っ払ってヨイヨイだったかもしれないではないか。
353 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2005/05/29(日) 01:54:46 ID:f9TpkclN
>表現上の問題でしょうが、あなたの言う「一つの思想にこだわらない」
>は恐ろしい表現なのです。つまりそれは「何でもアリ」へ転化する危う
>さ秘めた表現であって、ここ踏みはずせば金剛乗やサハジャ乗がすべり
>込んだ領域と変わらなくなります。
何でもあり。確かにそうだが、例えれば動物はどうだろうか。
何でもありの状態で、無秩序は生じるだろうか。肉食獣は
必要以上の狩や食事はしない。だが、人間だけに度の過ぎた狩や
食事が生じる。
私が言っているこだわらないというのは、自我を超えた人間のそれであり、
本能の域を超えない。矛盾だが、人間は自由であればあるほど、
節度(本能のブレーキがかかる)を持った行動ができる。
>言語は真理を指し示すには不完全だという認識から、言語による積極
>的な理法の定言を拒む龍樹のような思想家のことはご存知とも思いま
>すが、そうした系譜が土台としてあることで八万四千の法門、無数の
>方便という融通性がはっきりと顕在化し、「思想化」したのは大乗の
>特徴なのです。「一つの思想にこだわらない」という態度は寧ろ後の
>大乗より「思想」ということになるでしょう。
仏教そのものは、言語(知識)より、理解(知恵)の思想であり、
「一つの思想にこだわらない」というのも、知識ではなく、
知恵の概念でしかない。それらは実際に体験しないと全く意味がないのだが・・・。
法華経は明らかにジャータカのような、大衆に仏教に興味を持ってもらうための
効能書きでしかない。効能書きでは病気を治せない。
無論、効能書きで病気を治すなど、片腹痛い。
>>351 >また釈迦が説いたといわれる「八正道」を、「正しいとは限らない」
>とは伝統的にいわないものです。
同意。
仏教で「正」または「正しい」というのは、四諦や縁起を理解した、
または四諦や縁起にのっとったということ。
「八正道」の「正」も、そういうことだね。
だから、お邪魔しますさんの「正しい」の定義は間違い。
355 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2005/05/29(日) 02:06:14 ID:f9TpkclN
>わたしはアンチ層化だが、あなたのような己のみ一人高し、仏陀にな
>りきって救ってやろう、でもおまいら煩悩だらけの馬鹿は無理だな、
>というしれっとした物言いは鼻につくんだよ。
案外、そういう言い方のほうが彼らの心に響く。
何故なら、層化の人たちの心理はまさにそれだから、
鏡を見ているようになる。
例えば層化に北朝鮮に似ているな。と言うだけでいい。
マスゲームなど、恐ろしく似ている部分を夢想して、
考える時間を与えるからだ。
>因みに日蓮の地獄なんてあなたが知る由もないことだ。もしかしたら
>酒に酔っ払ってヨイヨイだったかもしれないではないか。
これは俺の妄想に等しい。
ただ、ある程度のそういう知識、
相当な力のある霊能者の言葉を聴くとあながち嘘ではない。
日蓮が原因で現世で大混乱を巻き起こしているわけだからな。
仏教とは全く逆の発想で。
もちろん、それは私の妄想でもかまわない。
356 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2005/05/29(日) 02:15:59 ID:3/oRJdi/
>>353 野生動物のなかにも同種族間での子殺し、胃袋を満たす以上の闘争等は
存在し盛んに観察されるようです。従って動物の世界が必ずしもあなた
の考えるような調和の楽園ではないでしょう。近親相姦も動物の世界は
まれではないでしょうが、これはたとえ未開社会でもインセストタブー
として禁じられています。
また仏教が知識の丸暗記をすることだとは今時誰も本気では考えないで
しょう。
357 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2005/05/29(日) 02:29:53 ID:f9TpkclN
>野生動物のなかにも同種族間での子殺し、胃袋を満たす以上の闘争等は
>存在し盛んに観察されるようです。従って動物の世界が必ずしもあなた
>の考えるような調和の楽園ではないでしょう。
まさに反論のための反論だな。共食い。それも本能に基づいているわけだから
問題はない。
人間の場合、動物の脳(大脳辺縁系など)に大脳新皮質(自我)が無理やり乗っかっている。
この大脳新皮質といったら・・・。
動物の脳と全く逆のことしか考えない。
人間が猿から人間に進化して自意識を得たのは、
この動物の脳と人間脳の差だったわけだが、
人間の場合、自意識がある分、動物(本能)でに共食いなどとは
全く次元が異なる害悪をおこなう。例えば原爆で地球上の生物を
死滅させることもできるだろう。本能とは調和ではなく、法則であり、
人間は、自我をその法則にあわせて動かすことができるのが望ましいと
考える。無我とは自分を消滅することではなく、自己を本能の法則に
投げ出す状態といえる。孔子は晩年にして、自らの意思を望まなくても、
自然の法則にあわせることができる的な事を言っていただろう。
>また仏教が知識の丸暗記をすることだとは今時誰も本気では考えないで
>しょう。
層化のような信者は言われたことの丸暗記だよ。
358 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2005/05/29(日) 02:30:37 ID:3/oRJdi/
>>355 妄想なら妄想って最初に言ってくらはい。マジレスしちゃったじゃん。
359 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2005/05/29(日) 02:31:54 ID:3/oRJdi/
360 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2005/05/29(日) 02:39:48 ID:f9TpkclN
>359
ラベルを貼り付けることで、なにかを納得し、
自尊心を満たそうとするのはみっともないよ。
真面目にレスしたのはいいが、たいした反応がなく
拍子抜けだったな。
361 :
蘇った、お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :2005/05/29(日) 09:59:11 ID:0bTtDTLn
>>354さんへ
>仏教で「正」または「正しい」というのは、四諦や縁起を理解した、
>または四諦や縁起にのっとったということ。
>「八正道」の「正」も、そういうことだね。
八正道のひとつ「正見」について仲間と話したことがあります。同じ一門ですか
ら「偏らない」「こだわらない」ことは同じなのですが、やはり皆感じ方が違うの
ですね。それぞれ皆違うと言うことで納得しましたが、これが正しい「正見」と言
うことで統一しようとすると、そこで争いが起こるとおもいます。
私自身のことを書きますと、世の中の見方というモノは年齢や環境などで変わって
きてます。だからその時々で「正しい」モノの見方があって善いと思います。無理に
一つに決めることはないのではないでしょうか。
362 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2005/05/29(日) 13:03:38 ID:3/oRJdi/
だからさ、そういう論法でいくとその時々でカルト教祖が勝手に教義を
作り変え、方法も本尊もとっかえひっかえできるという思考構造がもた
らす甚だしい弊害についてはおんなじなんだよ。あぼーん宗なんてまさ
にその際たるものではないか?
性臭は「末法」においては釈迦は利益ナシ、故に日蓮を唯一本仏にたて
るという何処から見ても仏教とはいえない様相に変化している。層化も
その系譜にあることはしってるだろう。
「一つに決めることはない」そういう考え方が『法華経』等の方便を積極
的に認め奨励する大乗独特の考え方であることは常識だろ。大乗が全て悪
いとは思わんが、ここで『スッタニパータ』出すのは変だって言ってるん
だよ。
363 :
蘇った、お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :2005/05/29(日) 16:13:24 ID:Ddt7GgQs
そうですか。かえって一つに決める方が問題が多いのとは違いませんか。
極端な話、公明党が政権を執って創価学会の教えを国教とし、他の宗派を一
切認めないとしたらどうでしょう。すべての問題は解決しますか。
日蓮仏法が国教になっても、全ての問題は解決しない。
信教は自由でなければならない!
365 :
蘇った、お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :2005/05/29(日) 16:34:44 ID:Ddt7GgQs
あと学会の池田氏もあちこちの講演で、スッタニパータを初め色々な
初期教典から引用していますが、この板でスッタニパータの話はお門違
いですか。
366 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2005/05/29(日) 19:24:52 ID:3/oRJdi/
原始仏教の思想の枠組みがはっきりあることが、そのまま「その思想に
帰一すべき」「帰依せずば謗法の大罪にて来世は地獄」なんていう結論
にはならんでしょ。
だいたい思想という言葉を、信仰集団を超えた「社会思想」としてに捉え
なくてはならないなどという約束ごとなんて最初からない。あるとすれば
「思想」を、或いは『スッタニパータ』を狭く限定して「社会思想」とし
て論ずる癖があなたのなかに染み付いてしまっているからだが、これは日
蓮や層化の発想と同じ誤解と強迫観念なんだよ。
また原始仏教サンガはカースト社会の外部にあり、問題は個人の涅槃を問
題としていたのであれば、この涅槃すらも方便だったと言ってのけた『法
華経』やその系譜のカルトの層化や犬症、性臭に批判理論として出しても
大して有効でないばかりか、あなたの諸行無常の理解では原始仏教の理解
は更に混乱してゆくだろう。
>>365 デーサクの真似なんぞして、下手な見解を晒せば同レベルですぞ。
368 :
蘇った、お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :2005/05/30(月) 02:38:02 ID:IIe3r/qa
>>366さんへ
>デーサクの真似なんぞして、下手な見解を晒せば同レベルですぞ
スッタニパータにこう書いてあります。
799:智慧に関しても、戒律や道徳に関しても、世間において偏見をかまえてはならない。自分を他人と「等しい」と示すことなく、他人よりも「劣っている」とか、或いは「勝れている」とか考えてはならない。
369 :
蘇った、お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :2005/05/30(月) 07:00:50 ID:RroaCOWL
でもまあ、日本最大の宗教団体の指導者と同じレベルと言う評価も悪く
ないな。あの人も大勢の信者を引きつける何かがあるんだろう。
>>369 >日本最大の宗教団体
→まさか、創価学会の事じゃないですよね?
371 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2005/05/30(月) 12:24:23 ID:ap+aQbzg
脊髄反射的な反論の為に『スッタニパータ』を部分引用するのは、アサハラや
切山、デーサクのようなレベル。それを好むも、あなたの勝手だけれど。
372 :
蘇った、お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :2005/05/30(月) 14:45:30 ID:RroaCOWL
色々書いたけど仏教に共通する教えは
人生と言うのは概ね、苦しいものである。(一切皆苦)
しかし、世の中は常に変化しゆくものだと知り(諸行無常)、
何事においても、自分と言うものに執着しなくなれば(諸法無我)、
この世は「涅槃」と言う静寂な世界になる(涅槃寂静)。
これはたいていの人は知識として持っているけど、日常の生活にどう生
かすか、この言葉が自分にどのような関わり合いを持っているか、そち
らの方が大切じゃないかな。
ブッダの教えは実践して初めて生きるモノだと思う。頭の中でいくら
教義をこねくり回しても、意味がない。
スッタニパータをお邪魔しますさんに当てはめてみました。
お邪魔しますさんが草加にコメントしたことも、すべてお邪魔しますさんにあてはまる。
一所懸命草加を攻撃してたら、知らないうちにお邪魔しますさんは草加と同じになってたんですね〜。
自分自身の姿を鏡で見てみてください。たぶん草加の姿をしたお邪魔しますさんが映ってますよ。
草加とお邪魔しますさん、どちらにも芯でほしいです。
>>346 796 お邪魔しますさんは諸々の見解のうちで勝れているとみなす見解を「最上のもの」
であると考えて、その他の見解である日蓮の教えを「つまらぬもの」と言う。
だから、論争が絶えることがない。
これは日頃お邪魔しますさんが2ちゃんで行っていることです。
そしてお邪魔しますさん自身も草加と一緒で、争の元をつくっているのです。
>>347 797 お邪魔しますさんは、見たこと・学んだこと・戒律や道徳・思索したことについて、
自分が奉じていることだけを、すばらしいと思い、それだけに執着して、日蓮の教えをつまらぬものみなす。
お邪魔しますさんの体験は、お邪魔しますさんにとっては真実なのです。
でもそれが他のすべての人にとって、常に通用するかそれが問題なのです。
798 お邪魔しますさんが自分の見解に依拠して日蓮の教えがつまらぬものであると見なすならば、
それは実にこだわりである。
それ故、見たこと ・学んだこと・思索したこと、または戒律や道徳にこだわってはならない。
お邪魔しますさんが学習したことや、自分の見解が最高であると思っても、他人にとってはそうではない。
他の人には他の見解がある、お邪魔しますさんはこれが分かってない。
お邪魔しますさんが真理であると思っても、世の中には他にも色々な見方、考えかたがある。そのこと
に気づき、一つの考えにこだわらないと言うことです。
375 :
蘇った、お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :2005/05/30(月) 17:13:13 ID:RroaCOWL
>日蓮の教えをつまらぬものみなす。
つまらぬものとみなしていないよ。
特に鎌倉時代の三人、道元、親鸞、日蓮についてはそれぞれ意味があると思っている。
道元は「ただ座禅」と言い、日蓮は「ただ南無妙法蓮華経」と言い、法然・親鸞・一
遍は「ただ南無阿弥陀仏」と言う。
この「ただ〜する」というのは自我を押さえるのに有効な方法だと思っている。
これら祖師たちは直感的に感じ取っていたのではないか。
376 :
蘇った、お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :2005/05/30(月) 17:31:56 ID:RroaCOWL
桜梅桃李の己己の当体を改めずして無作三身と開見すれば是れ即ち・・・」
桜は桜、梅は梅、人はそれぞれ生まれ持った個性があり人それぞれ違うのが当たり前なのだと言うことです。桜の木に梅の花を咲かそうとするから、無理があるのではないですか。桜は桜のままで仏になればよいし、梅は梅のままでなればよいだけのこと。
「成仏欲」という名の煩悩。
「悟り」という名の慢心。
「剃髪・袈裟」という名のコスプレ。
「○○が言った、○○に書いてある」、という主体性の欠如。
世界人口の書き込みは胸くそが悪くなるな。こういうやつ嫌い。
>>378 誰それが言ったから正しいなんて話誰もしてないだろ。
それなりの知識やソースを出して自分の意見言うのは大切なこと。
逆に自分で考えたから正しいともいえないだろ。
お前って前に、議論はしないけど、主張はし続けるみたいなこと言ってたな。
お前みたいなやつが一番卑怯だな。
お邪魔しますさんは一つの思想にはこだわらないとおっしゃるけど、
実体はテーラワーダ原理主義なんじゃないですかねぇ。
あそこは思考の対象にはこだわらなくても
瞑想方法には十分拘ってるような気がします。
382 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2005/05/31(火) 20:07:22 ID:fa4Hwf88
「やってみなければわからないよ、体験はいっぱいあるよ」という層化の
物言いと、お邪魔します氏の知識より知恵だと主張する一見仏教徒として
正論にみえる物言いが、殆ど同じレベルに映ってしまう。
そして知識以上の知恵云々を標榜する割には、その知恵の輝きというもの
が文章から感じられないのは残念だ。
層化は題目を唱えて知恵がついてくるとか頭がよくなるとか言ってるくせ
に、反論できずに地獄におちるよ、という捨て台詞が関の山だったりする。
わたしもナントカ瞑想体験主義も題目体験主義もどちらも過大評価しない。
>>375 >つまらぬものとみなしていないよ。
では今までなぜ散々攻撃や論争をしてきたの?
表現は違っても、実質的には「つまらぬもの」とみなしてきたんだろ。
グーグルヒット数
(仏教系限定)
1 真言宗 170000
(開祖 空海)
2 浄土真宗 142000
(開祖 親鸞)
3 曹洞宗 130000
(開祖 道元)
4 天台宗 122000
(開祖 最澄)
5 浄土宗 114000
(開祖 法然)
6 日蓮宗 86800
(開祖 日蓮)
7 臨済宗 81700
(開祖 栄西)
8 日蓮正宗 21100
(開祖 日蓮)
385 :
哀悼:2005/06/01(水) 04:50:16 ID:Sk92ceZj
前略、成太作 様
立派な本名をあえて伏せ非暴力の闘いで朝鮮民族の日本侵略を試みたその凄まじい報復の執念恐れ入ります。
朝鮮民族が日本を侮辱する意味の島国と言う言葉を何度も引用してくれましたね、その上日本の信者から集めた巨額の資産を海外に移してくれてありがとう、日本の不利益は別として海外の数カ国はきっと大喜びしていることでしょう。
ただし眠っていた日本人の愛国心を叩き起こしたのは大きな計算違いのようですね。
ところで最近お体の調子が思わしくない旨お聞きしましたがお題目さえ唱え続ければすぐに全快されると信じています。
ひとつだけご質問よろしいですか、天照大神の御名がある御本尊様をあなた方朝鮮民族が何故一生懸命拝むのですか?
どなたかお教え願います
グーグル検索続編
創価学会 232000
創価の検索には、多数の
反創価団体が絡んでいる
と思われ。
結論、さすが弘法大師
日蓮対した事ねぇな!!!
どっちが字が上手いかも
明白!!!
だが浄土宗と浄土真宗は
親子だから最大勢力は、
浄土系だと思われ。
>385
胸をえぐられるようだ……。
388 :
マクロの国士:2005/06/02(木) 08:37:19 ID:pcIHqSIB
>385で哀悼を書いた者です、私の文章に何かの配慮が欠け、はるなさんを始め善良な方々が気を悪くされたり心が傷ついたのでしたら深く謝罪します。すみません
私が意図するのは
日本のあらゆる権利を侵害しようとする集団によって、人を疑うことを知らない純真な人々が集金集票機械化していることを憂い、一人でも多くの人に気づいて欲しかったのです。
唱題念仏祈り合掌等は
向上のための強い願望の現れで落胆失望自暴自棄と比較すればり遙かに幸福に近づけることは事実です。
倫理観があり公衆道徳を守り、犯罪行為、虚栄心、我が強く無く、厚顔無恥、強欲、不潔で背信行為無く、忘恩で図々しく無く、感情の抑制ができず見苦しく取り乱すこと無く、勤勉で思いやりがある人物なら人種や出身地に関係無く好かれています、どの国でも
389 :
マクロの国士:2005/06/02(木) 09:04:53 ID:pcIHqSIB
>385で哀悼を書いた者です、私の文章に何かの配慮が欠け、はるなさんを始め善良な方々が気を悪くされたり心が傷ついたのでしたら深く謝罪します。すみません
私が意図するのは
日本のあらゆる権利を侵害しようとする集団によって、人を疑うことを知らない純真な人々が集金集票機械化していることを憂い、一人でも多くの人に気づいて欲しかったのです。
唱題念仏祈り合掌等は
向上のための強い願望の現れで落胆失望自暴自棄と比較すればり遙かに幸福に近づけることは事実です。
倫理観があり公衆道徳を守り、犯罪行為、虚栄心、我が強く無く、厚顔無恥、強欲、不潔で背信行為無く、忘恩で図々しく無く、感情の抑制ができず見苦しく取り乱すこと無く、勤勉で思いやりがある人物なら人種や出身地に関係無く好かれています、どの国でも
>マクロの国士さん
傷つきはしませんよ。衝撃的だったものですから。
ご活躍を期待しております。
・・・「成仏欲という名の煩悩」という概念に関して、
何らかの仏教としての「先回りした論理」がありそうな気がするけど・・・
ないのかな?ちょっと気になってね。。。
個人的には気にいっているんですよ。「成仏欲という名の煩悩」というフレーズが。
「成仏欲」とは、あなたの造語ですか?
「悟りという名の慢心」についても、恐らく悟りとは「成仏」と
同義で言われておられるかと思いますが、
浅いのと違いますか?
393 :
蘇った、お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :2005/06/03(金) 03:25:29 ID:gclm2ZVW
庭野日鑛「心田を耕す」より
(※庭野日鑛氏は立正佼成会の会長ですが、先入観を抜いて読んでみてください。法華経、日蓮を信じていてもブッダの教えにたどり着けます。)
釈尊が悟られたものとは何か、その根本となるものは何か、それをつきつめることが私の次のテーマとなりました。
そして、私なりに先達や祖師方が残された書物をひもとき、また、その教えるところをかみしめ、最後に行き着いたもの、それは「無常」であります。「無常の法」であります。これこそが仏教の第一義であり、釈尊の悟りの根本・本質であると思い至ったのです。
「諸行無常」と「諸法無我」をさらに一つに絞ると「諸行無常」であり、それをさらに端的に表現すると「無常」であると、私は受けとるのです。
この「無常」をしっかりと認識すると、私たちが出会う一切の「苦」を根本的に解決できるのです。
仏教は難信難解であり、非常になじみにくい、とっつきにくいという人もおられますが、釈尊の悟りの根本である「無常」一つに絞って受けとめると、仏教は非常に分かりやすく、また身近なものとなります。
394 :
蘇った、お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :2005/06/03(金) 03:28:11 ID:gclm2ZVW
一切のものごとは、必ず変化します。そのことをよく知ると、どんなできごとにも柔軟
に、明るく対処できるようになります。
柔軟であれば、たとえ苦しみや悲しみに出会っても、その苦しみ悲しみのなかでしか
経験できない人生の機微を味わえます。また、楽しさ、うれしさのなかでも、それにお
ぼれることなく、さらなる精進ができるのです。
無常とは、すべては変化する、単にそれだけのことです。だれでも、すぐに分かること
です。日常のできごとを素直に、ありのままに見ればいいのです。
すべては常に変化し、生成・発展し、あるいは消滅していて、固定したものは何一つ存
在しないというさまを、別の言葉で「空」と表現します。
執着を離れることができれば、すべての人生苦から解放されるーーーそれが無常の法で
す。
仏知見によると、世の中のすべてのものごとが、一瞬もとどまることなく、刻々と変
化し続けている、と見えます。変わらないものは何一つとしてないと見える。これはも
うご承知のとおり、「無常」ということです。つまり、仏知見を開くというのは無常の
法を認識することです。
また、仏知見で世界や人生を見ると、世の中には何一つとして、それだけで存在して
いるものはなく、すべては他のものとの依存関係によって存在していると見えます。す
べては相関関係、持ちつ持たれつの共存関係にあるのです。
無常であるのもかかわらず、ものごとを固定的に見て、無我であるのに、自分だけが絶
対に正しいと主張する。そこにトラブルが次々と生じてきて、その人生は苦悩の連続と
なるのです。
395 :
蘇った、お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :2005/06/03(金) 04:16:17 ID:gclm2ZVW
創価学会がブッダの教えをどのように理解しているか、学会の公式ホームページで検
索してみたところ、そのような文章がなかった。また学会が説く「日蓮仏法」に対する
まとまった文章もない。学会が日蓮の説く仏法に帰依しているのなら、その仏法をキチ
ンと表明すべきだと思う。しょうがないので学会のホームページから関係のありそうな
モノを拾ってきた。
仏典には、「己こそ己の主である。他の誰がまさに主であろうか。己がよく抑制された
ならば、人は得難い主を得る」「まさに自らを熾燃(=ともしび)とし、法を熾燃とす
べし。他を熾燃とすることなかれ。自らに帰依し、法に帰依せよ。他に帰依することな
かれ」(宮坂宥勝『真理の花たば 法句経』筑摩書房)等とあります。
いずれも、他に紛動されず、自己に忠実に主体的に生きよと強く促しているのでありま
す。ただ、ここに「己」「自ら」というのは、エゴイズムに囚われた小さな自分、すな
わち「小我」ではなく、時間的にも空間的にも無限に因果の綾なす宇宙生命に融合して
いる大きな自分、すなわち「大我」を指しております。
396 :
蘇った、お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :2005/06/03(金) 04:18:47 ID:gclm2ZVW
仏法では、小宇宙である人間が、自己を大宇宙の妙なるリズムに合致させゆくことによ
って、幸福への軌道を歩んでいけることを教えている。
「我即宇宙」「宇宙即我」であり、人間と自然とが、また人間同士が、「共生」――
共に生き、支え合いながら繁栄していくところに、人間本来の理想的な生き方があると
説いている。
森羅万象を貫く、その妙なる法則とは何か――。全宇宙の根本法則ともいえる「南無
妙法蓮華経」。大宇宙をも揺り動かす力が、題目にはある。
御書には「我等が小音なれども、題目の大音に入れて唱え奉る間、一大三千界にいた
らざる所なし」(808ページ)とある。
題目は、どんな小さな声で唱えたとしても、全宇宙へ大音声となって響き渡る。それ
は、小さな声でも、マイクを通せば大きくなるように。そして、あらゆるものが題目の
声に反応して動き始める。
私たちは、ただ“宇宙の一部分”なのではない。実は一人ひとりの中にも、宇宙と同
じ法則が脈打ち、“宇宙大の力”が秘められているのだ。
>お邪魔しますさん
一つ苦言
人の言葉を引用するときは-----などを用いて明確にするべきですよ
あなたの言葉として捉われかねないですからね
398 :
蘇った、お邪魔します ◆nH2G.RjIE2 :2005/06/03(金) 15:13:37 ID:5k2v7Ap2
>>398 例えば
聖教新聞*月*日*面
--------------------------------
御題目は宇宙のリズム!!
--------------------------------
なに言ってんだか
みたいなかんじにしたほうが、どこまでが誰の意見なのかがわかりやすくなるとおもいます
題目が宇宙のリズムなんていうデムパなことを自分の意見だなんて思われたくないでしょ
400 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2005/06/03(金) 18:03:35 ID:MRpmZvAY
日蓮大聖人は御本仏です☆
興味さんが同じこと言ってた・・>お邪魔しますさんの書き込み
402 :
マハーバイロ ◆MEH/Pp7SnQ :2005/06/03(金) 21:19:37 ID:g4fUmfbA
>>394 蘇った、お邪魔しますさん。
池田氏も何度か御紹介に近いスピーチを行っていますよ。
---------------------------------------------------
1974年 UCLAでの「21世紀への提言」
仏教の真髄は、煩悩を絶ち執着を離れる事を説いたのものでは決してない。
無常を悟って諦めを説いた、消極的、虚無的なものでもなく、煩悩や執着の生命の働きを生み出し、
究極的な生命の実体、無常の現実の奥にあり、
それらを統合実動させている常住普遍の法のあることを教えたのが仏法の真髄なのであります。
403 :
マハーバイロ ◆MEH/Pp7SnQ :2005/06/03(金) 21:20:42 ID:g4fUmfbA
すなわち無常の現象に目を奪われ、煩悩に責められているのは、小我に捕らわれているのであります。
その奥にある普遍的真理をとり、その上に立って、無常の現象を包みこんでいく生き方こそ、大我に生きると言えるのであります。
この大我とは、宇宙の根本的な原理であり、またそれは同時に、私たち生命の様々な動きを発現させていく根本的な実態を捉えた法であります。
(中略)
404 :
マハーバイロ ◆MEH/Pp7SnQ :2005/06/03(金) 21:21:43 ID:g4fUmfbA
したがって、仏教が無常を説き、死を見つめる事を教えたのは、
逆に、常住普遍の実在することを教える為であったわけであります。
否、むしろ仏とは諦めを教えるのではなく、常住の法を悟った人を言うのであります。
死を恐れず、見つめ、無常を明らかに悟ったのは、その奥に常住普遍の法があり、
わが生命もその法則の上に立って運動する尊き存在である事を知っていたからこそであると言えるのであります。
-----------------------------------------------------------
405 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2005/06/03(金) 22:51:33 ID:mheWkwo0
大我に生きる?
ウパニシャッドに逆戻り。仏教とはいえないな。
「死」は「生」とセットで与えられており、同じものだ。
407 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2005/06/03(金) 23:01:12 ID:7rf1oaIi
バイチャが書いた逝け作(のゴースト作)の作文は、
大乗側(中観)が間違いを指摘した
常 見
じゃな。(-人-)
無常ですか・・
個人的にはですね、「無常を喜べ」という思想は好きです。受け止めるだけでなく、大喜びするわけです。
メシアとかは信じないのですが、過去、キリスト教に触れたごく短期的な時期に、
「自分にとって一見、悪いと感じられることでも【賛意】を示して、飛び上がって喜べ」
という教えに、パラダイムの転換を覚えました。
・・・まあ、私も若かったということでしょう(苦笑)。。。
今は既成宗教団体の信仰は一切、ありません。
>>404 仏教における「諦(てい)」を諦めとしているあたりに
この男の底の浅さが露呈していますね
もっともらしいことを書いてあるけど、
言葉の中にほんの少しの真理をちりばめることで、
人を操ろうとする、詐欺の手法が見え隠れしていて面白いですね
で、結局その真理は学会だけが持っているって導きたいという意図の
腐臭がプンプンしています
こういう文章に慣れると騙されやすくなるんですかね
>>410 どの辺が嘘でどの辺が真理なんでしょーか。
あと、俺は基本的に誰が仏教をどう解釈しようが勝手だと思ってますが、Sbさんは
仏教はこれこれしかじかのもので、それ以外は仏教ではないという考えを持っているのでしょうか。
あと、どの辺が、「その真理は学会だけが持っているって導きたいという意図の
腐臭がプンプンして」いるのでしょうか。
あと、Sbさんは池田氏や創価を蔑んでいるのでしょうか。
そういう臭いがプンプンしますが!
>>375 >つまらぬものとみなしていないよ。
では今までなぜ散々攻撃や論争をしてきたの?
表現は違っても、実質的には「つまらぬもの」とみなしてきたんだろ。
>>411 たいへん申し訳ございません
このスレではトリップを付けておられない方には
レスはいたしません
>>410 どの辺が嘘でどの辺が真理なんでしょーか。
あと、俺は基本的に誰が仏教をどう解釈しようが勝手だと思ってますが、Sbさんは
仏教はこれこれしかじかのもので、それ以外は仏教ではないという考えを持っているのでしょうか。
あと、どの辺が、「その真理は学会だけが持っているって導きたいという意図の
腐臭がプンプンして」いるのでしょうか。
あと、Sbさんは池田氏や創価を蔑んでいるのでしょうか。
そういう臭いがプンプンしますが!
>>415 一つ訂正、真理の中にと書きましたが
池田氏の言葉の中には仏教的真理などありませんでした
真理に似せたもの、真理のようなものだけでした。
仏教をどう解釈しようとその人の勝手だといえるのは
仏教が諸行無常を謳っているからでしょう
常住普遍の法もまた諸行無常を前にしては無に帰するのです
>煩悩を絶ち執着を離れる事を説いたのものでは決してない。
嘘です
>無常を悟って諦めを説いた
諦めではなく「諦」です、池田氏は何も解っていません
>煩悩や執着の生命の働きを生み出し
魔道です
>統合実動させている常住普遍の法のあることを教えたのが仏法の真髄なのであります。
これも嘘
>すなわち無常の現象に目を奪われ、煩悩に責められているのは、小我に捕らわれているのであります。
>その奥にある普遍的真理をとり、その上に立って、無常の現象を包みこんでいく生き方こそ、大我に生きると言えるのであります。
諸法無我ですから大我もまた無となりましょう
>むしろ仏とは諦めを教えるのではなく、常住の法を悟った人を言うのであります。
前述に帰します
>わが生命もその法則の上に立って運動する尊き存在である事を知っていたからこそであると言えるのであります。
それを学会が独占していると思い込ませるための戯言でしょう
こんな奴の言葉を素晴らしいという識者とはいったい何者なのかとおもいますね
417 :
大脱走:2005/06/08(水) 11:36:59 ID:???
>>416 > >煩悩を絶ち執着を離れる事を説いたのものでは決してない。
> 嘘です
これは矛盾がある。
人間には欲(煩悩、執着)がある。
これを離れる否定するということは、人間(有情)じゃなくなることを示している。(化け物と言い換えてもいい)
いくら無欲になろうと努力しても、本能上どうしても出てくるものは通常消すことはできない。
どうしても消そうとすれば、文字通り灰身滅智することになる。
執着を離れるのが釈尊の本意だと仮定する。
釈尊の教えを受けて、弟子は修行を進めていくと最終的には灰身滅智を目指すことになる。
灰身滅智を目指すということは、三界に生まれないことを目指すわけで、他を利することのできない利己的なものになるということ。
これは、釈尊の行動と真っ向から矛盾する。
釈尊は衆生を教化しているので、仏であり菩薩である。
師と弟子の有り方が違うなぞ、どう考えても矛盾である。
釈尊の行動を考えるなら、どうしても菩薩というのを考えなければならない。
だが、煩悩を絶つ執着を離れるの中には、菩薩はない。
菩薩というのは、人々の中に積極的に飛び込んで救う、また救いたいという欲がなければならない。
釈尊にはこれがあったから、人々を導くことができたわけだ。
ここからは、釈尊に大乗の考えがあったことを見て取れる。
| ´_ゝ`) 創価板の2ちゃんねらは大菩薩ということででよろしいか。
ソッカーのことではありませんよ。
>>417 >これを離れる否定するということは、人間(有情)じゃなくなることを示している。
しいて言えば、これを諦し悟し生きることを説いたのでしょうね
離れると表現しても良いのです、
しかし、池田氏はそれに対して魔道へと導こうとする
釈迦にも欲はあったでしょう、しかし、それはあなたや池田氏の言うような
欲におぼれよというものではない
欲を諦し悟せよであると考えます
生きることから矛盾を排除するなどそれこそ矛盾
矛盾を諦し悟することができないなら、ただ流されていることも知らずに流され続けるでしょう
つまり法華転法華であるといえましょう
>>419 極端なことしか理解不能なソッカー共に理解は不可能だと思われ。
>>417 釈迦だって、欲(煩悩や執着心)を捨てろと言ったって
0に出来るとは思ってなかっただろう。
だからこそ、「程よく、欲を持った(小欲)生活を送ろう」
という【方便】として「欲を捨てよ」と諭したのだと思う。
それを、屁理屈こねて無理やり「欲を持つ事はいい事だ」
という結論に持っていくのは間違いじゃないかな?
しかし、なんでこう極端に考えるのかね?
欲が全く無い人間は当然いないし、
欲だけしかない人間もいないだろう。
こういう問題は白か黒どちらかしかない、なんてことはないと思うぞ。
白に近い灰色とか逆にほとんど黒にしか見えない灰色とか、
そういうのもありじゃないのか?
結局、釈迦が言いたい事をこの色の例え
(白=無欲 黒=欲望の塊)
を用いて言えば、
「白にはなれないだろうけど、白に近い灰色になろうよ。」
って事だと思われ。
421 :
http://au.geocities.com/soka_vs_2ch/2ch.html:2005/06/08(水) 19:46:14 ID:heamdD0X
>>416 まあまあ。Yes, Noで答えてね。
@Sbさんは 仏教はこれこれしかじかのもので、それ以外は仏教ではないという考えを持っているのでしょうか。
Aどの辺が、「その真理は学会だけが持っているって導きたいという意図の 腐臭がプンプンして」いるのでしょうか。
BSbさんは池田氏や創価を蔑んでいるのでしょうか。
423 :
大脱走:2005/06/09(木) 04:48:19 ID:???
>>420 そんなのは、小乗教団に言ってくれ。
上座部(小乗)がそういう方向に行ったため、対抗して大衆部(大乗)が興ったのは有名な話なのだからな。
>>422 420さんが私の
>>419に対して書いたことを読んだ上でそれをお聞きになりますか
まぁいいでしょう、しかし、YES,NOでは答えませんよ
1、諸行無常の世界観を離れては仏教とは云えないとおもっています
ゆえに常住普遍の法もまた無でありましょう
2、常住普遍の法、すなわち学会の法華経解釈のことをさしているのでしょう?
そもそも諸法無我の仏教ではありえない常住普遍の法を肯定し大我を説く、
池田氏の虚言から腐臭を感じないとしたら、いったいどういう仏教に触れてきたのかと疑問を持ちます
3、池田氏は軽蔑していますね、仏教とは程遠いものを説いて人心を悩乱する輩だと思っていますから
大方の学会員はMCを施されていますからかわいそうだと思いますよ
学会のために仏教に触れることができないのですから
名無しで悪いが…
釈尊が諸行無常や諸法無我を説いたのは、仏法の段階では一通過点にしか過ぎない。
仏法は段階を踏んで説法しいてる。仏法がよく否定の否定と言われるけどそういうこと。
釈尊は世間が享楽的な間違った常楽我浄であると認識しているのを否定し、
仏教以外の教えは正しい教えを説いていないから外道であると否定した。
そして、それを離れよ、と説いたのが諸行無常であり諸法無我。
まずそこが理解できないと、仏法の永遠性を説いても
理解されないだろう…という、み仏の深いお計らいがあるよ。
諸行無常、諸法無我ならホントに末法だよ。
何のために釈尊は法を説いたの?仏教はニヒリズムじゃないよ。
しかも常住普遍の法は道元もきちんと理解してるよ。大乗仏教の基本というか究極といえる。
それを学会批判などと一緒くたにしてしまっちゃぁ混乱してしまうよ〜。
ただし法華経では単にそれを少し薄く示しただけ。きちんと説いてない。
つまり学会などの法華経解釈は常住普遍の法を他の経典から都合よく偸み取ったもの。
で、仏教徒なら、池田氏は軽蔑するというより、憐れな人という認識でないと…。
あえて、独り言
だから「諦」と「悟」という言葉を用いているのですよ
常住普遍の法を言葉に出して説いたところで常住普遍の法にはなりませんもの
仏教がニヒリズムではないのは「諦」が
今用いられている諦めるという言葉の意味と
仏教での言葉の意味ではまったく違うということがわかれば
それですむと思いますけどね
独り言なのでレス不要
諦の一般的な語義はsbさんが仰る通り。
なおレスは不要で構いません。これも独り言ですw
しかし四諦にはもっと深い意味があることを知ってもらいたいですね。
一般的な四諦
苦…人間の世界は苦に満ちていることを諦める(悟る)こと
集…苦の原因(集起)を知り、それを諦めること
滅…苦の原因(集起)である心を変えることで、それを滅することができることを諦めること
道…苦を滅する道を諦めること
涅槃の四諦
苦…如来の常住法身を知らずして、ただ食身のみを見ているのが真の苦であることを諦めること
集…真の仏法や涅槃とは、法の常住不変不異であることを諦めること
滅…如来蔵、仏性を知ることが真の涅槃滅であることを諦めること
道…涅槃は三宝・解脱の常住を知るであることを諦めること
なお、学会その他では一般的に、声聞には『四諦』を、縁覚には『十二因縁』を、
菩薩には『六波羅蜜』を説いたなどと説明してますが、これでは仏法の相関関係が説明しきれない。
それは最終的にすべて一つにつながっていることを申し上げておきます。
>>427 四諦の「諦」はサンスクリット語の satya の訳で「真理」という意味。
なんで「諦める」と訳してしまうのかね〜?
おっと、独り言だ。
レスいらね〜よ。
「成仏欲」という名の煩悩。
・・・ここも見守りますか・・・
またまた独り言(ほんと面倒だからトリップくらい付けてたもれ)
深い意味の諦である涅槃の四諦は出しても無意味だと思いますね
悟を啓いていないものに聞かせてその気になってしまうなら毒
悟を啓いたものには言わずもがな
悟を啓き自ら会得するものなので知識としても不必要
かと
「悟りを欲する心」も、煩悩かと。
ハワイの眩しいばかりの陽光と、エメラルドグリーンの海を前にして、
なお人は「悟り」を求めるだろうか?
「悟り」を欲したとき、
果てしなき、答えの無い、「迷いの道」に踏み込んでしまうのではなかろうか?
ましてや、剃髪や、袈裟など。
創価お得意の言葉の意味のスリカエだな。
こいつは馬脚を現してるのにまったく気付かないのな。(ゲンナリ
そりゃそうさ
ソッカーは宿命転換(注:ソッカーの造語仏教に非ず)などと嘘吹くが
本質は責任転嫁の詐欺教室。
諦を諦めとスリカエるアホ。
>>427 >道…苦を滅する道を諦めること
精進しなくてもいいということになるが…。
>>432さんがいうように、馬脚を現してるのにまったく気付いてない。
436 :
432:2005/06/12(日) 14:17:30 ID:???
>435
お前も層化だろ。
>>431 世の中不幸な人間はいくらでもいるよ。
戦争の絶えない国に生まれてしまった人もいるし、飢え死にするのがあたりまえの世界に生きる人もいる。
それに、今幸せに生きていても、他に不幸な人がいるという理由で幸せと思えない人もいるだろう。
信仰の動機でもっとも純粋なのは、自分が不幸から逃れたいという思いよりも、他人を救いたいという思いだろう。
釈迦自身がそうだったわけだし、そういう仏教僧はたくさんいた。
宗教信じる信じないは自由だと思うけど、あなたの批判は一面的すぎると思う。
諦める=一般のあきらめると同義だと誤解してる奴多いんだなぁ。
「諦める」ということは「あきらか」ということなんだよ。435わかったかい?
そういうのを浅学というんだよ。
>>439 創価お得意の言葉の意味のスリカエだな。
こいつは馬脚を現してるのにまったく気付かないのな。(ゲンナリ
>>424 OK Sbさんのスタンスはわかったよ。感想。
結局あんたも学会と同じ穴のムジナじゃね?
宗教者がお互いに自分の考えに固執して軽蔑しあってどうすんのさ?
442 :
432:2005/06/13(月) 01:22:11 ID:???
440はコピペマルチがスキルの層化
層化は宗教じゃないからな
「不幸」すら、幻想なんだよ。
言葉に過ぎない。受け止め方に過ぎない。
「死」ですら栄光である場合もあるよね?考え方によっては。
ありもしない「不幸」を趣味にしちゃ、いけない。
「成仏欲」という名の煩悩も、同じようなもの。
>>444 本当に不幸が存在しないなら今までの世界の歴史はなんだったのか。
限られた資源とわずかながらの食料をめぐって太古の昔から人類は争ってきたんだよ。
今だってずっと解決されてない問題なんだよ。
あなたの好きな「もし世界が百人の村だったら」に詳しく書かれているだろう。
たまたま豊かな国に生まれた人間が平和呆けして不幸など幻想だとのたまうなど笑止。
あなたは飢餓に苦しむ国に行ってボランティア活動などしようとは思わないだろう。
それどころかそういう人をかわいそうとも思わないようだが。
釈迦は王子として生まれながら最下層の人間の中に飛びこんでいった。
俺だってえらそうなことは言えんし、仏教を信仰しようとも思わないが、そういう人や釈迦は尊敬しているよ。
確かにカルトはよくないが、宗教者の中にはそういう意味で偉大な人もたくさんいることも忘れてはいけないよ。
まあそういう人は、「成仏欲」なんて持ってなかっただろうけどね。
人を救いたいという思いだけがあったんだろう。
446 :
今日もひとり旅:2005/06/13(月) 10:04:13 ID:kAXwpjGK
世界さんは、不幸を食い物にするものが許せないのだろう。
100人の村〜がそうであるように、視点を変えてみると
違ったものが見えてくる。世界さんの試みでもある。
異性に悩んでいる奴に、異性のくだらなさを語るようなもの。
逆もまたしかり。
不幸のほとんどは、他との比較からきていることを知れば、
幻想であることは間違いないだろう。
幻想であっても、幻想と見破らなければ、全てを圧倒するほどの力がある。
ほんとの苦しみ悲しみは、比較を離れてもあるもの。
>>431 だから、もうちっと勉強してから書きなさいっての
それの答えを自分で見つけなければいけないのも仏教
>>446 いいたいことはわかるが、世界はちょっと考えが足らなすぎるところがあるし、無意味な混乱を持ち込むこともあるよな。
ここは層化のカルト性を糾弾すればいいのであって、宗教そのものに批判の矛先が向くならスレ違いといえる。
なにより同じ文章を繰り返し投稿して真摯なコテハンの議論にはまともに応じないのは荒らしのようなもん。
あと、「不幸は相対的なもの」うんぬんのように不幸を観念論で語るのはどうか。
国の政情不安も飢餓もちゃんと具体的な理由とそれゆえに具体的な解決策があるんだよ。
そうでなければ国も政治も経済も無意味になってしまう。
不幸が観念論で解決できるというやつは本当の不幸を体験していないだけ。
一回病気になればわかる。
>>448 おりゃ学会だけど、基本的にあなたと同じように感じるね。
世界氏は、もうすこしまじめに対話してもいいんじゃないか。
Sb氏とかいろいろ話だけでもおもしろいやつがここにはそろっていると思うよ。
450 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2005/06/14(火) 13:30:45 ID:md6e1dbu
/ \ /\
/ .\.,.,.,.,..,,/ ヽ
/ `:、
,:' ',
.,:' i
.i ○ ○ i / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
.', * i < 層化氏ね
`:、 ー―‐ / \_______
| \
| \ |ヽ
| ヽ丿 |
| )_ノ
(.,.,.,.,..,).,.,.,..,.,.,.(,..,.,.,.,..,.),.,.,,../
>>448 さんが言っていることと、私がいっていることは
相反するものではないですよ。
視点または強調する部分が違うだけです。
誤解を与えていたら、すみません。
病気といえば
今全身に発疹が出ているのと、腕の神経痛でけっこう苦しいですw
山登りは、苦しい、辛い。でも「不幸」ではない。
「苦しい、でも、楽しい」。「苦しい、でも、この病気がありがたい」。
言い切ってしまっては、反発を買うでしょうが、受け止め方でしょう。
困っているから助ける。飢餓を救う。。。素晴らしいじゃないですか。
でも、満ち足りていても「不幸」な人は、いる。
「幸・不幸」は、結局、自分が決めているんだよ。
誰にでも、終わりは来る。素晴らしいじゃないですか。
すべては、この「生」が、始ったおかげさま、です。
でも私は、宗教人じゃないよ。
性欲・食欲・成仏欲。
前の2つは皆あるが、3番目の「成仏欲」は、一般的じゃないね。
人生のどこかで「刷り込まれて」いると、私は、思う。
>>453 成仏欲と呼ぶからややこしい。
幸せに暮らしたいなら一般的だろう?
誰も不幸に暮らしたいとは思わない。
>>454追記して良いですかって言うか追記します。
死んだら後はどうでも良いとは考えない。
幸せな死を願うことは、ごく自然なことだし。
子や孫の幸せを願わない人はいない。
いるとすれば、先祖代々の宗派を無視し創価に入る人。
子孫の苦しみを考えない自分勝手な創価の人。
自分の行う行為は自分だけで無く永遠に影響する事。
創価との結婚を躊躇するのは愛の無い証拠。・・・だとか。
創価にもいい人は沢山いるよ・・・・だとか。
言っている創価学会員。
自分の言動に責任を持て。
>>453 仏教に対して無知なことを晒しているよ
そういうことは悟ってから書きなさい
Sbさんはすでに悟りを開いてるの?
>>457 ないよ、だから仏そのものには言及などしない
って、名無しじゃないかおまいは
433 名前:Sb ◆SbSGI7AtEA 投稿日:04/07/15 16:18 ID:+kIbiuUK
>>430 大悟は一回だね、小悟は数回、だからなに
聞いてどうするの?
それであんたが悟れるの?
あんたは悟ろうと思うの?
馬鹿になどしてないし、
本質もそらしていない、
だいたい、あなたに本質が見えているの?
日蓮は罪深い。
昭和・平成の世にこんなカルト集団を作らせる礎を築いたのだから。
「悟っている人」と「悟っていない人」の差。
例えば、障害者の子ども達をボランティアでディズニーランドに連れて行く役目だとする。
悟っている人と、悟っていない人の差は、どう現れるのか?
「悟り」は、実りある何かをもたらしてくれるのか?自己満足か。
「成仏欲」や「悟りへ向かう煩悩」は、人に何をもたらすのだろうか?
分かりにくいかな?
結論として、「悟りは幻想である」「悟りは何にもならない」ということ。
宗教業者の「食い扶持」ではある。
悟っていると自称しても、ボランティアの現場では、機能しない。
無論、死に臨んださいに、取り乱さないという保証もない。
わかってないね。
釈尊は悟りある故に偉大なわけではなく、慈悲ある故に偉大なことを。
悟りの面を重視したのが小乗、慈悲の面を重視したのが大乗。
釈尊は自己満足という悪魔の誘惑に打ち勝てり。
大乗の人は、確実に行動にさとなって現れる。
>>462 そのあなたの書き込みもまた自己満足という名の欲ではないのですか?
自分は問題提起をしている偉大な人間だという自己満足
悟に関しては悟らなければその本質など見えてはこないと思いますよ
つまり、悟らなければ悟に関してどうのこうの言うことはできない
答えはあってますよ、そう何も変わりはしない
いや、何も変わりやしないということを悟るのですから
道元さん曰く、「中国に渡って、目は横に鼻は縦に付いていることを悟って帰ってきた」
有りの侭、本来無一物
悟に幻想を抱いてるのはあなたですよ
>>460 あるとしてどうなることでもなし、ないとしてどうなることでもなし
素の自分に戻るだけのこと
>そのあなたの書き込みもまた自己満足という名の欲ではないのですか?
欲かもしれません。私は「欲」を肯定していますからね。
人はすべて、性欲から生まれています。それは素晴らしいことです。
母に生んでもらった命でありながら、性欲を否定し、
結婚しない神父や坊主が「聖」などとは、まったくおかしい話しです。
いいじゃないですか。「成仏欲」。欲望は欲望です。ただ「欲望」だと認めることです。
悟りを求める「欲望」。成仏したいという「欲望」。
大いなる煩悩は、否定すべきものではないと思うよ。「成仏欲」という名の煩悩。
シャカはダメ男ですよ。ペニスがあるのに活用していない。
歩ける足があるのに、歩かないようなものです。
ですから「釈尊は〜〜と言った」という表現を見ると、
なんと情けない言い回しなんだろうと思います。
ダメ男の言葉を引用しないと語れないようではダメです。
自分の責任のもと、自分の言葉で語れ。
470 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2005/06/17(金) 00:09:34 ID:brbq1wTM
>>469 アンタもダメ男っぽいよね。だからアンタの言うこと聞かないw
>>469 あんたがどれほど立派な人なのか。
本質がわからないあんたは創価我学会員以下だね。
>>469 >>469 >シャカはダメ男ですよ。
>ペニスがあるのに活用していない。
は?ヤショーダラーという女性の性器にペニスを挿入して、
その結果、ラーフラという男子を儲けていますが?
それどころか妃后は他にもいて何人か子供もいたけどねw
そりゃインドの王子様ですからハーレムですから
いやシャカは実は不能者だったという説もあるぞ。
だから生まれてきた息子が他人の子だからラーフラって
名前にしたり、出家の原因のひとつだったとのこと。
>>468 あなたは欲望が二つあるということを念頭においていない
あなたが言っているのは欲望を満たすことでしょ
生きていれば欲望があるということなど、仏教では折込済み
だがあなたの言うような欲望があるからといってそれに流され、
満たすことを良しとはしない
それは欲望というものが業だからです
生きていれば欲望はある、そしてその欲望は他に苦を与える
なるべく他に苦を与えないように生きようということも、釈迦の提唱した道
ダメ男は欲望に溺れる事を勧めるあなたのほうですよ
大聖人の仏法では、諸の執着を明らかにするという立場である。
つまり、執着Aは理由(イ)で思い切って執着しなければいけないとか、執着Bには理由(ロ)があるから現状維持とか、執着Cは理由(ハ)があるからこの程度で止めるべきだとか。
執着を明らかにしていけば、執着がいくら強かろうが、或は捨てる場合にしても、はっきりしてくる。
執着はすべて捨て去るもの(これは不可能)でも、すべて受け入れるものでもない。
必要な執着と、不必要或は害になる執着の区別をきちんとしろということ。
区別をきちんとするのは、当然以前。
わざわざ語るほどのことは、ない。
題目への執着は、最も見苦しいもの。
しかし性欲への執着は、素晴らしいもの。だけど見境がないのはダメだね。
へえ、シャカに子供がいたの。それなら少しだけ評価する。
本当に知らなかったよ。
悟りを開いてからも、子供を作ったの?それなら本物だ。
「悟りを開いた」と言ってから後(のち)、子供を作れなかったのなら、間違った悟りだ。
ニセモノだね。
480 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2005/06/18(土) 09:11:24 ID:lxYT7qDu
釈迦にラーフラという息子がいたこと知らなかったのかよ・・・
>>479 世界さん
ラーフラ(羅ご羅、“ご”をパッドを使って変換しようとしても、候補は存在する
のですが出来ないですね。“目”偏にの右に“侯”だと思います。)は、シャカが
出家する以前に生まれた子供です。
「“目”偏にの右に“侯”だと思います」の中の「に」はミスです。
→“目”偏の右に“侯”だと思います、が正しいです。
ありがとうございます。
さて、悟ったならば、「さらに子供を作れ」とシャカ君に言いたいですね(笑)。
悟ったから、もう歩かない、とか、
悟ったから、心臓を止めました、ではまずいですよね。
悟ったら、愛し合いましょう。
(・・・意味の無い発言ですね。お気になさらず。)
ありがとう教sage
このスレッド、長寿ですね(苦笑)。
>>485 お前みたいな荒らしモドキがいなけりゃもっと有意義なスレなんだからとりあえず消えろ。
世界さん>釈尊の息子ラーフラは障碍と言う意味です。
修行の妨げになると釈尊は感じたんですね、その後ラーフラは釈尊により強制出家させられました。
釈尊ってかなりの信者を強制出家させてますよ。
ラーフラの出家には諸説あったと思うが…
そうだなあ、日蓮のスレッドだものね、日蓮を語らなくちゃ・・・。
といっても、
「中傷を率先して行った坊主」「功徳なく、苦しんで病死した坊主」というイメージが先行して、
すでに、彼について語る気持ちのない私がいます。
もう「遺文」を読むのもつらいんです。あまりにも日蓮が小人物過ぎてね。
晩生は物乞いのような文章が増えていた。無理も無い。
>その後ラーフラは釈尊により強制出家させられました。
その釈尊というゴータマ兄いは、悪いやっちゃなあ(笑)。人権無視だ!
・・・という視点があって良い。
>490
まるで、学会員が立場悪くなった時に吐く台詞だなw
日蓮に興味持てないならこのスレに来なきゃいいだろうに。必死過ぎ。
創価も覚えとけよ。オマエラがよくやる荒らしまがいの果ての捨て台詞も、端から見たらこんなだぞ。
なんか暫く見ない間に凄い事になってるな(´ω` )
今夜まとめて最初から読もう・・・
「成仏欲」←層化のような御利益妄想のカルトに限定すれば、言い得て妙ですな。
>>494 浄土宗系はどうなるんだろうね?
法華経信者でさえ最期は「阿弥陀様の浄土へ参ります」
って人が多いのに。
念仏は往生欲w
>>495 成仏 or 往生したいと願うのは、仏教的にはいわゆる欲望の範疇ではないと思うんだけどね。
でも層化みたいに功徳乞食になって
サンタクロースがやってくるようにゲキョゲキョお願いするのは功徳欲丸出しで可笑しいw
&
>>105にとてもいいことが書いてあるよ・・・
>「見解や伝承や知識」などの断片的知識でもなく、あるいは、マニュアル化されパタ
>ーン化された「形だけの行為」では無く、己のうちにある、欲望、執着心を徹底的に
>洞察し、「かくあるべきの理想」「自己中心的な思い込み」「こうしなければの心
>理的抑圧」「欲望の対象として虚構された他者・他物」などなど、これら、特定の視
>点で限定された「イメージ(=形態)」をすべて捨て去った者、固定観念(先入見)
>という「イメージの呪縛」から解放された者、そのような者でなければ、激流は超え
>られない、とブッダは説いている。
>
> 問題は外にある法ではなく、自己の心をどうするかなのです。
これが仏法でしょ。普通に考えれば。
この上の内容と
>>402の太作妄言録は矛盾するような気がするんだけど・・・
>>403-404原理とか逝ってるし。(´ω` )原理ヤバス
衆生を救おうとする仏の慈悲もまた「欲望」ですな。
500でもgetしてやるか。
そんなおまえらに十界互倶をおしえてあげるよ
仏界にも餓鬼界なお具われり
仏、衆生を救わんと欲するが故に
hosyu!
504 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2005/08/09(火) 13:54:50 ID:JdqPAqHh
あのさあ-.人間革命とか、宇宙法界論なんかは、御書に書かれていないんだよね〜
age
506 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2005/08/24(水) 12:03:28 ID:ThpnadZN
498
そのような欲望、執着があるから、菩薩は輪廻にとどまり、衆生を
救い続けるわけだが。
それは一部の菩薩。
多くの菩薩は衆生を救わんと欲する=仏に成ろうとする「大欲」がある。
いつまでも留まっているのは観音、地蔵の2菩薩のはず。
>>507 仏であっても、人に法を広めようとしている時やその他人を救おうとしている時は菩薩の境涯である。
よい欲望はいいでしょう。
対象への執着とか、悪い果を生む、そういう欲望を否定するのが仏教なんだから。
よい果を生む欲望ならいいよ。
垂迹思想に基づいて菩薩が如来の化身とするなら何とでも言える。
等覚、妙覚という位もあるが…。
菩薩はそもそも悟りに至ることが約束された者なのだから、
垂迹とか化身とか、そういうことではないのでは。
如来は、tatha+agataで、真実の世界より来た者。
むしろ大乗の菩薩を意味しもするでしょう。
tatha+gataだと行ってしまった者だけれどね。
如来はピアノと同じで略語だって知ってる?
>>512 それは511に言うんじゃなく509に言うのが筋じゃないのか?
515 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2005/09/26(月) 01:27:57 ID:xxoa3Hxh
ひゃっきまる氏やマハーバイロ氏は元気なんだろうか?
ときどき観てます。
517 :
乾闥婆:2005/09/30(金) 00:22:36 ID:???
お久しぶりです。私も時々見ています。
あまりに書き込まなくて落ちるのではないかと思って見ていますが、意外と落ちないものなのですね・・・。
>乾さん
お久しぶりです。お元気でしたか?
最近はどうでしょうか。
僕の方は組織の方に全く顔を出していないので、全く情勢が分かりませんが。
519 :
乾闥婆:2005/09/30(金) 23:55:34 ID:???
こちらは転職やら引越しやらであたふたとしておりました。
別の地域に来ても学会とは付かず離れずの関係を続けています。
最近は別の掲示板で時々書き込みをしています。
520 :
乃杏 ◆noaw746W1Q :2005/10/05(水) 13:45:34 ID:xNrBpl/R
お坊さんへ質問です
日蓮正宗、日蓮宗には戒律はありますか?
ポアならあります
522 :
乃杏 ◆noaw746W1Q :2005/10/05(水) 18:01:20 ID:xNrBpl/R
この板には日蓮宗禿も日蓮正宗禿も来てるはずなのに、誰も答えない。
>>522 このスレを見ていないってだけのことですよ
宗教板か、神社仏閣板で聞けばいいんじゃないですか?
>乾さん
>>519 転職されたのですか。
僕の方は相変わらずですが、組織の人とは選挙のときくらいにしか接触がありませんね・・・。
>乃杏さん
とりあえず僕は知りません。Sbさんのおっしゃるとおり、他の板か他のスレッドで聞いたほうがよさそうですね。
525 :
乾闥婆:2005/10/16(日) 23:54:44 ID:???
ひゃっきまるさん。
まだ、組織との接点はあるのですね。
勤行・唱題はどうですか?
526 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2005/10/17(月) 02:51:14 ID:ej+Avoxk
IDチェーックd(`・∀・´d)
528 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2005/10/17(月) 22:13:04 ID:nnMTswVy
IDチェ━(´・ω・`)ノ━ック!!
529 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2005/10/18(火) 02:27:04 ID:dGl1+qz0
IDチェーックd(`・∀・´d)
530 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2005/10/18(火) 02:41:48 ID:OEHpFGXz
IDチェ━(´・ω・`)ノ━ック!!
IDチェックw
532 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2005/10/19(水) 02:09:33 ID:7AdfM3Ke
IDチェーックd(`・∀・´d)
533 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2005/10/19(水) 02:10:15 ID:sgjmCmwb
IDチェ━(´・ω・`)ノ━ック!!
534 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2005/10/19(水) 02:11:46 ID:sgjmCmwb
sgj・・・惜しいw
535 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2005/10/20(木) 00:17:16 ID:QiIAtHIG
IDチェ━(´・ω・`)ノ━ック!!
536 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2005/10/20(木) 01:29:55 ID:vI5Jz9bU
IDチェーックd(`・∀・´d)
IDチェック馬鹿がwwwww
さらしage
>>525 乾さん
返事遅くなりすみません。急に寒くなってきましたね。風邪などひかぬようお気をつけてください。
僕は明日にでもストーブを出そうかと思っています。
ずいぶん長い間、三唱すらもしていない状況が続いています。
以前はぼんやりとした罪悪感や罰(ばち)への恐怖のためか三唱だけはしていたのですが、
そのような動機は不純であると自分でも気づいていて、なんとなくやらないようになってしまいました。
本来は組織だとか迷信めいた気持ちだとかなどと全く関係なく、自分の信仰のために唱題すべきなのでしょうが、
生来性根が曲がっているせいかなかなか「きれいな」心構えで信仰をすることができないようです。
社会人になって4年目ですが、最近は仕事慣れしてしまったせいかだらだらと惰性で生きている気がします。
こんなことではいけませんね。
540 :
通りがかり:2005/11/01(火) 02:17:06 ID:???
ひゃっきまるさん
あなた若いのに爺臭いですね
広布のロマンに生きてみませんか
・・・ってのは無理なのはわかってるんでいいませんが(いってるやん)
もう少し目的観を持った生き方をした方がよいと思います
何か資格でも挑戦して、海外雄飛とか、がんばろうじゃないですか
では
542 :
乾闥婆:2005/11/04(金) 23:44:43 ID:???
>>539 ひゃっきまるさん。
>返事遅くなりすみません。急に寒くなってきましたね。風邪などひかぬようお気をつけてください。
お気遣いありがとうございます。
>以前はぼんやりとした罪悪感や罰(ばち)への恐怖のためか三唱だけはしていたのですが、
そのような動機は不純であると自分でも気づいていて、なんとなくやらないようになってしまいました。
自然な移行であると思います。「罪悪感や罰(ばち)への恐怖」といったものが、マインド
コントロールの所産であることはまちがいありません。まさに私たちはそのようなものか
らの脱却のために、ここでの書き込みを続けていたのでしょう。
>本来は組織だとか迷信めいた気持ちだとかなどと全く関係なく、自分の信仰のために唱題すべきなのでしょうが、
生来性根が曲がっているせいかなかなか「きれいな」心構えで信仰をすることができないようです。
信仰は自身の必然性の中で求めるものではないでしょうか。そのようなやむにやまれぬ必
然性がなければ、持つ必要はないと思います。
>社会人になって4年目ですが、最近は仕事慣れしてしまったせいかだらだらと惰性で生きている気がします。
こんなことではいけませんね。
そうですか。日々繰り返される仕事はそのようなところに落ち着くのかもしれませんね。
私は思えば社会人14年目でした。一向に落ち着く気配もなく、まさに「四苦八苦」の日々
です(笑)。だから信仰を捨てきれないのかもしれません。一切皆苦との直面こそ仏教の出
発点ですからね。
>>539>>542 ひゃっきまるさん、乾闥婆さん、おひさしぶりです。
久々にこのスレを覗いたら、お二人のやりとりがあったので、
ご挨拶がてら書き込みに参りました。
確かに寒くなってきましたね。
トシをとると、何だか季節の移ろいが早く感じます。
子供の頃は、学校の学期が過ぎるのさえゆっくり感じて、
冬休みや春休みや夏休みがやってくるのが、
いつも待ち遠しかったように思うのですが。
あの頃の一年の感覚で、最近は何だか五年くらい過ぎてるような気がします。(笑)
544 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2005/11/05(土) 13:38:09 ID:2ApRN107
南無妙法連華経
すげージジくせースレだな
農家の縁側で茶飲み話でもしてるつもりか
>>540 心からの励ましありがとうございます。
>>541 いろいろな言い方ができると思いますが、僕にとっては筋の通った生き方をすることです。
>>543 まあいろいろなスレがあっていいと思いますよ。
ここも良い論客が現れれば、すごいスピードでスレが消費され、熱い議論が交わされるスレに変わりますし。
>>542 乾さん
>信仰は自身の必然性の中で求めるものではないでしょうか。そのようなやむにやまれぬ必
>然性がなければ、持つ必要はないと思います。
信仰とは何か、というのは未だに僕の中で未解決のテーマであり続けているのですが、
信仰がなければただ単に怠惰で無気力な毎日になっていくだけのように感じています。
それは僕が2世だからそう感じるのかも知れません。
どうしようもない厭世観や自分に対しての無力感(無意味観)を打ち消すことのできる、
一心に打ち込める対象があれば、そのようなことはまるで考える必要はないのでしょうね。
今までの人生を振り返って、他人の目ばかり気にしてここまで来てしまったなあ、と
しみじみ考えるようになりました。なかなか生来の気質を変えることはできないでしょうが、
まだまだ今後の人生は長いですし、ひとつ思い切ったことをしてみようかと考えています。
>>543 春田の蛙さん
お久しぶりです。
気づいたらもう季節が終わっていただとか、1年経っていた、と感じることが最近は多いですね。
何か新しいことに挑戦してみたら、少し時間の感じ方も変わるのかもしれません。
548 :
乾闥婆:2005/11/07(月) 00:33:31 ID:???
>>543 春田の蛙さん。
お久しぶりです。確かにあっという間に時間は過ぎ去っていきます。
かつて遣り取りしあったことも、随分昔のことのように思えます。
…なんだか同窓会じみてきてますね。
>>547 ひゃっきまるさん。
>どうしようもない厭世観や自分に対しての無力感(無意味観)を打ち消すことのできる、
一心に打ち込める対象があれば、そのようなことはまるで考える必要はないのでしょうね。
厭世観や無力感というものを、私はずっと抱え込んで生きてきましたし、これからも抱え
続けて行くのだろうと思っています。無意味を生きることの辛さは、言いようがありませ
ん。それは意味というものを求めるから生じる苦しさなのでしょう。しかし私は意味と無
意味のあいだを生き続けることになると考えています。
>今までの人生を振り返って、他人の目ばかり気にしてここまで来てしまったなあ、と
しみじみ考えるようになりました。なかなか生来の気質を変えることはできないでしょうが、
まだまだ今後の人生は長いですし、ひとつ思い切ったことをしてみようかと考えています。
他人の目はやはり気にするものですね。私たちのような二世は特にその傾向は強いのでは
ないでしょうか。私が創価学会の内部にいて違和を感じるようになったのは、やはり、他
人の目によってのことでした。私たち二世がその組織内部から見る創価学会と、外部から
見る創価学会とのズレに、まずはじめの苦しみの萌芽があったように思います。そのズレ
のあいだに私は立ち止まり続けているようです。思い切れればいいのかもしれませんが、
思い切ることは偏頗になるような気がして、敢て思い切らないのだと思います。
>>548 乾さん
前々から気づいていたことではありますが、乾さんの感性、思考というのは、時折驚くほど僕自身のものと
似ていると感じます。僕は自分の考えや思いを文章の形にするのが本当に苦手で、いつも歯がゆく思っている
のですが、乾さんとやりとりしているとまるで明晰になった自分と対話しているような錯覚を覚えます。
無意味に生きることの辛さというのは、乾さんほどの歳(失礼! 存じませんが、僕よりは年配と思いましたので)
でも相変わらず持ち続けるものなのですね。
ここ1年ほど、信仰のことをほとんど意識することなく、ただ漠然とお金を稼ぐために時間を切り売りし、休日は遊びに
行く、という生活を送ってみました。そして、このままほどほどに人生を楽しみながら年老いていくことは充分に可能だし、
常に人との交流を継続していれば自分の存在の無意味さを忘れ去り、そんな思いを幻とすることも可能だとも思いました。
しかしそうすることが可能であると思えば思うほど、「俺は人並みに楽しい人生を送っているはずだ」、と嘯いている自分の
片隅で、目を背けられた領域に心の空虚は尚いっそう闇を深くしていくようで、結局「紛い物」と軽蔑していた世の中でこれ
以上自分を傷つけたくないがために自分まで「紛い物」になってしまったのか、と自虐的な気分になったりします。
他人の目を気にしてしまうのは僕自身の気質に由来する傾向が強いのではないかと思っていますが、今切望しているのは、
例え馬鹿と思われようと、正直な自分の今と、正直な自分の履歴を、どうどうと他人に自己紹介できるようになりたい、という
ことです。
そのためには常に行動の選択において、正直で素直な自分の気持ちに従うという勇気と、他人に対する本当の意味での
信頼と尊重が必要なわけですが、なかなか難しいことです。
>>546 >いろいろな言い方ができると思いますが、僕にとっては筋の通った生き方をすることです。
ならば釈迦仏法と日蓮仏法は全然違うものなんだし、平行的にどちらも信仰することも可能だろう。
>>550 どちらも信仰することも可能だし、片方を信仰することも可能だし、両方信仰しないことも可能です。
もっと言えばカテゴリーや宗派になどおそらく意味はないと思います。
社会的には便宜上特定の宗派に帰属する必要があるのかもしれませんが、今の僕にはその必要はありません。
ややこしいことを言っているわけではありません。単に正直に正しいと思うことをしたいというそれだけです。
>>551 それでいいのではないか。
「理由」も「きれいな心構え」も欲を言えば切りがない。
組織も人も宗派も同じこと。
昔の人が何を言ったかどうかなど、
いくら求めても永遠に真実に辿り着くことはない。
それらを学ぶことができただけでも有り難いことではないか。
自分の経験、それを直視し、それに足るを知ればよい、と俺は思う。
553 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2005/11/11(金) 09:01:25 ID:yid6K+ik
.
>>547 お久しぶりです
>信仰がなければただ単に怠惰で無気力な毎日になっていくだけのように感じています
とのことですが、生きることはそんなに楽で、つまらないものなのでしょうか?
四苦八苦ですよ、生きるということはそれだけで大変なことなのではないでしょうか?
信仰が無ければ生きるということに真正面から向き合えないというのは
信仰に頼りすぎているのではないでしょうか
>正直な自分の今と、正直な自分の履歴を、どうどうと他人に自己紹介できるようになりたい、ということです。
それこそ、只管只坐、どう足掻こうが、ありのままでありましょう
>>542 >一切皆苦との直面こそ仏教の出発点ですからね。
なら、生まれてから死ぬまで、仏の道
さすが乾さん、お見事
556 :
乾闥婆:2005/11/11(金) 21:17:45 ID:???
>>549 ひゃっきまるさん。
>無意味に生きることの辛さというのは、乾さんほどの歳(失礼! 存じませんが、僕よりは年配と思いましたので)
でも相変わらず持ち続けるものなのですね。
生きることの意味を問い始めてしまった者には、その苦しみは一生ついて回るものである
と思います。「意味という病」は完治することはないでしょう。
>ここ1年ほど、信仰のことをほとんど意識することなく、ただ漠然とお金を稼ぐために時間を切り売りし、休日は遊びに
行く、という生活を送ってみました。そして、このままほどほどに人生を楽しみながら年老いていくことは充分に可能だし、
常に人との交流を継続していれば自分の存在の無意味さを忘れ去り、そんな思いを幻とすることも可能だとも思いました。
>しかしそうすることが可能であると思えば思うほど、「俺は人並みに楽しい人生を送っているはずだ」、と嘯いている自分の
片隅で、目を背けられた領域に心の空虚は尚いっそう闇を深くしていくようで、結局「紛い物」と軽蔑していた世の中でこれ
以上自分を傷つけたくないがために自分まで「紛い物」になってしまったのか、と自虐的な気分になったりします。
確かに日常に埋没することで、例えば、結婚し、子供ができ、日々懸命に生きていれば、
意味など問う余裕もないでしょう。しかし生きることの意味を問い始めてしまった者には、
ふと立ち止まり、その意味を省みる瞬間はたびたび訪れることでしょう。「紛い物」という
表現にはしかし、ひゃっきまるさんの価値判断が紛れ込んでいます。人間の営むすべての
事物に虚構性は胚胎しているでしょう。わざわざ「紛い物」という表現を使う必要はない
と考えます。私はかつてその虚構性を「物語」と呼び積極的に肯定しました。「紛い物」と
いう表現の裏には「紛い物」ではない「真実」がどこかにあるという願望が隠されていま
す。私はそのようなものはないと考えており、すべては「物語」であるとしてきました。
大事なことは自分にどのような「物語」を課すのか、であると思います。
557 :
乾闥婆:2005/11/11(金) 21:18:20 ID:???
>>549(続き)
>例え馬鹿と思われようと、正直な自分の今と、正直な自分の履歴を、どうどうと他人に自己紹介できるようになりたい、ということです。
>そのためには常に行動の選択において、正直で素直な自分の気持ちに従うという勇気と、他人に対する本当の意味での
信頼と尊重が必要なわけですが、なかなか難しいことです。
そうですね。たとえば自分が創価学会の家庭に生まれたこと、そのことで苦しんできたこ
と、などは相当に親しくならなければ、私は語りません。それはその人との関係が一つの
ラインを超えたかどうかの基準といってもいいと思います。それほど親しくない表面的な
人との付き合いにまで、自分の深い部分を語ることは、やはり普通ないのではないでしょ
うか。そういうことを語りえる人との出会いはそう多くはないと思います。
558 :
乾闥婆:2005/11/11(金) 21:19:25 ID:???
>>554 Sbさん。お久しぶりです。
>信仰が無ければ生きるということに真正面から向き合えないというのは
信仰に頼りすぎているのではないでしょうか
それは少し違うと思います。私たち二世は、まずはじめに強力な意味を与えられてしまっ
ているのです。その意味が無意味に転換することの苦しみは理解しがたいとは思いますが、
強力な意味の中に生きた者において、それが取り払われた状況が、虚しくくだらないもの
に見えてしまうことは、避けがたいことなのです。それを克服する作業は、まさに、一生
物でしょう。その過程において信仰の再構築ということも視野には入るのです。
>>555 >なら、生まれてから死ぬまで、仏の道
いえ、一切皆苦に向き合う意志があるかどうか、です。
もちろんそれを回避することもできるのでしょう。それを悪いこととは思いません。
>>558 つまり、信仰に囚われてしまっているということですね
愛別離苦になりましょうか
一切皆苦に向き合う意思が無くとも、一切皆苦、四苦八苦の人生ですよ
仏性有や無やですね
信仰無くとも生是即仏、でしょうね
なんだか人生相談みたいなことを書きこんでしまってすみません。
はじめは近況報告というか、雑感程度の気持ちで書いたのですが、いろいろな方から真面目にお答えいただき大変ありがたく思いました。
人生相談の答え方、ということを僕はときどき考えることがあります。
哲学、心理学、宗教などに詳しい人は、その用語や知識を駆使して、道を指し示そうとするかもしれません。
僕自身もそういった方面はそれなりに興味がありそれなりに本を読んだりもしましたが、それらの書物は、実は新しい知識や認識をもたらすというよりは、
自分がもともと持っていた思いや考えに言葉を与える作業に近いように感じています。それは他人と対話するときには便利なのかもしれませんが、悩みを
解決する手段にはなりえませんでした。
そのような言葉を人生相談に使うことは、むしろかなり注意すべきことと思っています。単なる知識のひけらかしにとられ、上からものを言っているように
思われれば、もう話を素直に受け取ることは難しくなるでしょう。他の言葉に置き換えられればそのほうがいいに決まっています。
悩みの内容はたいてい具体的で微妙なさまざまな問題をはらんでいるものですが、「本質、概念、法則」といったものは、一般化され最大公約数化され、
抽象化された結果です。そのようなものは使い方を誤れば、言葉の権威のもとに相談相手や相談内容を大雑把にカテゴライズして断罪するいいかげんな
ものになる可能性をはらんでいます。
今のところ僕が最良だと思う方法は、「具体的内容に即した話をすること」、「共感すること(相手の身になった場合を想像すること)」、「自分の実体験を話すこと」、
できれば「一緒に行動してあげること」です。
釈尊はまた異なるアプローチをとっていたようですね。ソクラテスのように、相手に問うことで自ずと解答を導き出させるという方法のようです。
仏教で教えを説くとはこういうこと(逆に相手に問いを出すこと)なのかもしれません。
>>556 乾さん
>「紛い物」という 表現にはしかし、ひゃっきまるさんの価値判断が紛れ込んでいます。
>人間の営むすべての 事物に虚構性は胚胎しているでしょう。
>わざわざ「紛い物」という表現を使う必要はない と考えます。
そうですね。「紛い物」と軽蔑していた世の中、と書きましたが、これはいろいろな価値基準(物語)の中で揺れ続ける不安定な心理が
書かせてしまいました。
562 :
乾闥婆:2005/11/14(月) 00:13:23 ID:???
>>559 Sbさん。
>つまり、信仰に囚われてしまっているということですね
ひゃっきまるさんはどうか分りませんが、私はそうですね。むしろ自分から積極的に宗教
に囚われる人間ですから(笑)。確信犯です。
>一切皆苦に向き合う意思が無くとも、一切皆苦、四苦八苦の人生ですよ
そのような物語もあるのでしょうが、あまり私は賛同しません。一切皆苦など知らぬ振り
して生きることもできますから。私は知らぬ振りをしないだけのことです。
>仏性有や無やですね
信仰無くとも生是即仏、でしょうね
何の努力もしなくていいという物語ですか。私はやはりそのような考え方には組しません。
563 :
乾闥婆:2005/11/14(月) 00:14:24 ID:???
ひゃっきまるさん。
もう、宗教から卒業してもいいのかもしれませんね。私はまだまだ、といいますか、むし
ろ深みにはまっていくタイプのようですけれど、ひゃっきまるさんは、自分でも言われて
いましたが、一心に打ち込めるものを見出せれば、何も宗教に拘泥する必要はないのでし
ょう。それは創価学会の家庭に生まれ育った者にとって、喜ぶべきことなのだと思います。
>>562 いえいえ、そうではありません
生きているということはそれだけで四苦八苦であるってことですよ
生きているというだけで努力しているといえるのではないでしょうか
信仰が無ければ仏性は無いとおっしゃるのでしょうか
一切衆生悉有仏性では無いと
それとも趙州狗子?
>>562 それから、物語扱いは仏教への愚弄になりますよ
生きとし生けるものは皆、命がけで生きている
それに気づこうが、気づくまいが、命がけで生きている
その命がけの命が仏でしょう
努力など、命がけの生には足元にも及びやしません
その命、すなわち仏を見下すことには組するのですか?
>>563 乾さん
僕は、宗教=自分を縛り付けるもの、宗教的価値観からの脱却=本来の自立、とは考えていないのです。
むしろ、信仰心というものが自分にとって大切な要素であると考えています。また、どのような人間であっても、
信仰心は大切なものと考えています。そのような意味で、創価学会の家に生まれたことを必ずしも否定的に
捉えているわけではありません。
ただしその信仰心というのは特定の組織や考え方を指すのではありません。ただ、信仰心としか言えない
ようなものです。強いて言えば、何ものかを「尊い」と思う感情そのもののことです。もしくは「生きる理由」です。
では僕の考えに沿うような新しい宗教がどこかに存在しているかといえば、おそらくそのようなものはないと思います。
現代においてはあらゆる宗教は力を失いつつあると思います。
そして宗教に変わる様々な異なる「物語」があちらこちらで発生してしまいました。
人は「物語」なしには生きていけないからです。中にはむしろ宗教よりも稚拙といえる思想もあるでしょう。
そのような混乱の中で、あえて古い宗教の物語に還ろうとする人たちがいることも知っています。
数年前、僕は世界に芽生えつつある、「すばらしい新しい物語」の胎動を確かに感じていたのですが、今では
どうも錯覚だったように感じています。そのようなものは、大きく時代が動くとき、刹那に見せる蜃気楼のようなもの
だったのかも知れません。
この数年間の間、社会人としての経験の中で、通常多くの人はどのような物語の中で生きているのだろうか、
ということを考えてきました。また、自分でもできるだけ同じ価値観を持つように同化しようとしてきました。
そして結論として、実際に少なくとも僕の周りのほとんどの人間は幸せに生きているのだという実感を得ることが
できました。しかし、僕自身は、そのような価値観の中では僕にとっては「本当に生きたことにはならない」、という
事もよくわかりました。
567 :
乾闥婆:2005/11/16(水) 01:25:23 ID:???
>>564 Sbさん。
>生きているということはそれだけで四苦八苦であるってことですよ
苦は苦を感じる感受性があって苦であるのであって、苦を感じることのない者に苦はあり
ません。また苦を感じる感受性は研ぎ澄ますこともできれば、鈍化させることもできるで
しょう。一切皆苦はこの感受性を極端に研ぎ澄ました結果なのであって、そのように感じ
ないことはその人の資質や意志により可能でしょう。
>生きているというだけで努力しているといえるのではないでしょうか
それはとても気楽な考え方ですね。いいのではないでしょうか。私は組しませんが。
>信仰が無ければ仏性は無いとおっしゃるのでしょうか
一切衆生悉有仏性では無いと
有るとか無いとかいうことにあまり拘らないほうがいいのではないかと思います。どちら
でもいいと思いますが、私は有るという物語を選択しています。しかしそれを選択してい
るのは私の意志です。そのように私は信仰しているということです。
568 :
乾闥婆:2005/11/16(水) 01:25:57 ID:???
>>565 >それから、物語扱いは仏教への愚弄になりますよ
それはあなたが物語を愚弄しているから起こる現象です。私にとって両者は同格です。
>生きとし生けるものは皆、命がけで生きている
それに気づこうが、気づくまいが、命がけで生きている
その命がけの命が仏でしょう
努力など、命がけの生には足元にも及びやしません
その命、すなわち仏を見下すことには組するのですか?
私は命とは物語を生きるにある、と思っているので、まったくもって的外れな批判です。
何の物語ももたず、無為に日々を送ることまでもが、命懸けと同じとは情けないことです。
命を懸けるとは懸けるに値する物語をもつということです。もちろん必ず命を懸けなけれ
ばならないということはありません。それは自分の意志で決めることです。
569 :
乾闥婆:2005/11/16(水) 01:28:10 ID:???
>>566 ひゃっきまるさん。
>僕は、宗教=自分を縛り付けるもの、宗教的価値観からの脱却=本来の自立、とは考えていないのです。
であるけれども
>現代においてはあらゆる宗教は力を失いつつあると思います。
なのですね。この状況はよく分かります。
私はかつて自分の信仰心を純粋に培養するために、そのままキリスト教に移し変えること
はできないかと考えたことがありました。しがらみ、背景、自分というものを成立させて
いる文脈、それらを全て自分から引き剥がして、自分の意志で、新しい土壌に、その信仰
心を植える、という作業です。半年ほど教会に通い続けましたが、イースターに参加した
あたりで、ああ、同じだ、と思い、止めました。人間の集団が行うことなど、全て同じだ、
植え替える意味がない、と考えました。
いまは「国家」という物語が再浮上してきています。私は、それはそれでいいと思ってい
ます。もはや、ひとつの物語に閉じこもっている時代でもないのだろうと考えています。
570 :
乾闥婆:2005/11/16(水) 01:29:18 ID:???
>>566(続き)
>そして結論として、実際に少なくとも僕の周りのほとんどの人間は幸せに生きているのだという実感を得ることが
できました。しかし、僕自身は、そのような価値観の中では僕にとっては「本当に生きたことにはならない」、という
事もよくわかりました。
そうなのですね。私も同じです。といいますか、私はおそらく中学生のころからそのよう
であったようです。
しかし「本当に生きたことにはならない」とは、何なのでしょうね。私はおそらく一生そ
う感じながら生きるのだろうと覚悟しています。「本当に生きたい」という思いから抜け出
せなければ、「本当に生きたことにはならない」人生をずっと歩むのだろうと思います。そ
れでかまわないとも思っています。私は一生「本当に生きたい」と思い願い続けるのだと
思います。
一度覚めてしまった夢を再び見ることは出来ない。
人とは一度見た夢を諦めきれず、追い求める旅人なのであろうか。
芭蕉は辞世の句でこう詠んだ。
旅に病んで夢は枯野をかけ廻る
572 :
ひたち:2005/11/16(水) 07:09:10 ID:???
それは生きた証を残したいということではありませんか
物語の傍観者として一生を送るのか
物語の主体者として一生を送るのか
人生は劇の如く人は観客にも役者にもなり得ます
最近感じることは心はいかようにも物語を紡ぐ力があるということです
また多くの人の物語に影響を与え与えられ
自他の心を動かし得るということ
その中にしか生きた証は残せないのではないかなと思います
結局人との関わりあいの中にのみ
自身が存在したことを残せるということでしょう
「広宣流布とは夢を作り夢を実現すること」
「一生という壮大な劇の名優たれ」等など
学会の指導にはその覚めた感覚からの回帰があります
覚めてなお積極的に物語に関わっていく
それは実は物語は自身だけのものではなく
同時に未来に続く人々の物語でもあるからでしょう
>>568 乾さん、物語も何もあんた生きてんだろ
無為であったって生きてんだよ
じゃあ、無為である命には価値は無いってのかよ
生きているってだけで命は懸かっているんじゃないの?
だから、無為に非ざろうとするんじゃないの?
意味を見つけようとするんじゃないの?
物語はあくまで命あってのものだよ、生きているからだよ
どう生きるかの前に、生きること、生きていることに目を向けるべきだとおもうよ
「本当に生きる」も何も、今生きているってことが一番大切なんだよ
生きているんでしょや
悲しいですよ
|ω・´) コソーリ
>>570 乾さん
>しかし「本当に生きたことにはならない」とは、何なのでしょうね。
あまり深い意味で言ったのではないのです。
僕は今までの自分の人生を振り返って、自分の行動にあまりに虚偽が多いことに鬱々としているのです。
そのほとんど全ては他者の目を意識して、自分を偉く見せたい、だとか、嫌われたくない、だとかいうことで発生しているものです。
感情や嗜好でさえそのようにして作り上げてきたものかもしれません。
怒りも悲しみも、ただそのように反応すれば人間らしく見えるから、そのようなものがある素振りをしているだけのように思うことすらあります。
食べ物は何が好きだとか映画は何が好きだとかいうことも「選択」の問題でしかありません。
他人にどう思われるかということが最重要・・・。
「ペルソナ」という壁を構築することに必死になっているうちに、いつのまにかその内側がなくなってしまったような感じです。
その結果なのかどうか分かりませんが、僕は「本当に楽しい」ということが分かりません。
「本当に生きる」とは至って単純な意味で、「自分のやりたいことをやる」、というただそれだけのことです。
必ずしも信仰に生きるという意味ではありません。
576 :
乾闥婆:2005/11/18(金) 01:12:16 ID:???
>>571 >旅に病んで夢は枯野をかけ廻る
まさに。芭蕉、死を前にしての句ですね。
>>572 富士門流掲示板で、折伏について書き込んでいらしたひたちさんですか?
>人生は劇の如く人は観客にも役者にもなり得ます
そうですね。私はまだ多分に観客であり、脚本の読者かもしれません。実際の生活の中で
振る舞いとして、現れてこなければ、物語の主体者として生きているとはいえないのでし
ょうね。
>学会の指導にはその覚めた感覚からの回帰があります
なるほど。そういうところはあるかもしれませんね。しかし結局のところ読んでいて夢中
になれない物語は、その読者にとってリアリティがないのでしょう。私は学会の指導はど
うも駄目です。
577 :
乾闥婆:2005/11/18(金) 01:12:58 ID:???
>>573 Sbさん。
>じゃあ、無為である命には価値は無いってのかよ
そういうことは一言も言っていません。
>物語はあくまで命あってのものだよ、生きているからだよ
全ての生き物は生きていますが(当たり前ですが)、物語を紡げるのは人間だけです。もち
ろん生きていることは重要なことです。しかし生きているだけなら全ての生き物が行って
います。Sbさんの考え方だと、人間、何も志さなくていいし、何もしなくてもいいし、た
だそこに寝ていたり、突っ立っていたりして、樹木のように栄養分だけとって、死に至る
のを待っていればいい、何をしようが、何をしなかろうが、人間、皆仏、と聞こえます。
私の好きな蓮祖遺文に「教主釈尊の出世の本懐は人の振る舞ひにて候けるぞ」(崇峻天皇御
書)とあります。人はどう生きたか、です。その前提としての命はもちろん大切です。し
かし、我々はその前提の上での話しをしているのではないでしょうか。
>悲しいですよ
そうです。一切皆苦ですからね。
578 :
乾闥婆:2005/11/18(金) 01:14:08 ID:???
>>575 ひゃっきまるさん。
>「本当に生きる」とは至って単純な意味で、「自分のやりたいことをやる」、というただそれだけのことです。
必ずしも信仰に生きるという意味ではありません。
しかしその自分のやりたいことがわからないのですね。
私はおそらくひゃっきまるさんと同じように生きながら、感じ方は対照的であると思いま
す。私もかなり周りに合わせる人間です。仕事の進め方なども完全にそうで新しい職場に
入ったときはまずその職場の人間関係を把握しその枠組みの中に自分がうまくおさまるよ
うに自分を対応させます。一時期、私は「『自分』などない」とまで考え、その生き方を徹
底しました。しかしむしろ「自分」という現象は、つまり、そういうものではないのか、
と考えるようにもなりました。「『自分』などない」ではなくて「それが『自分』だ」と考
えるようになりました。縁起という考え方がありますね。私は縁起とはそういうことなの
だと理解しました。「自分」などという実体はないのだ、全て縁して起きる現象であり、「自
分」などというものも空なのであるから、とらわれる必要はないのだ、と。
しかしこのような人間関係を維持してゆくことはどこかで無理があり、やはりいびつなの
だと思います。このような傾向の人間にありがちなのですが、私は軽症のうつ病を患って
います。ある意味で、ひゃっきまるさんが「僕は「本当に楽しい」ということが分かりま
せん」といわれることを、私も自身に感じています。
579 :
乾闥婆:2005/11/18(金) 01:14:39 ID:???
(続き)
人間関係の中で「自分」を作ってゆく場合、ではその枠組みをはずしてみたら、自分はど
うなるのか、という状況に直面します。休日、自分を関係性の外に置いてみる。創価学会
の組織にがっちりとついていれば、また別の関係性の中に巻き込まれるのでしょうが、私
はそのようにはしませんし、休みも平日にとることが多いので、友人と会うことも多くは
ありません。つまり関係外の自分というものに直面します。これはなかなか苦しいことで
す。自分がよく分からなくなってしまうのですから。しかし結局のところ、私は一人でい
ても関係性を持つわけです。自分が自分に関係する、という形で。本を読み、文章を書き、
物を考える。もちろんそのような時の過ごし方に楽しみを感じたりもしますし、またその
ように本を読み考えることは、自身に必要だから行っているわけです。(まだまだ私は本を
読み足りていないし勉強不足なのです)。まさに「自分のやりたいことをやる」、それだけ
のことなのです。しかし、そのような「自分」は、やはり本当の自分ではないと考えてい
ます。本当の自分とはやはり人間関係の中に築いていくものでしょう。それは固定的な実
態ではないし、周りの人間に合わせながら、なおかつ自分というものを鍛え上げてゆく、
そのような過程の中にしか存在しないものだと思います。
ひゃっきまるさんは周りの人間関係の中で「自分」を形作ることにうまくいっていないの
でしょう。それが創価学会の二世として生まれたことと関係があることなのか、よく分り
ませんが、私は自身を振り返ってあると思っています。私は一見親しげに関係をつくって
いても、ある一線は絶対に超えさせようとしない、敷居の高さのようなものがあるようで
す。それは学会の内部と外部という狭間で苦しんできたことの延長線上にあると考えてい
ます。それが私の人間としてのゆがみとなって表れていると思います。Sbさんのようにも
う少しおおらかになれればいいのですけれどね。参考にはならないかもしれませんが、私
自身の経験に即して語ってみました。
|дT)・・・シカト・・・
581 :
乾闥婆:2005/11/18(金) 02:17:20 ID:???
ええと。滝山さん。ご本人ですか?
運営されていたホームページは時々覗いていたのですが、閉鎖されてしまったようで。
日記などを読みつつ、心配していたのですが・・・
本人ですよ、
乾さん、どーもお久しぶりです。
いい対話をされているなぁと思い、顔を覗かせてみましたw
HP閉鎖のことではどうも心配かけてしまっていたみたいで・・・
どうもすみませんw
HPは閉鎖しましたが、まぁ自分はボチボチと元気にやっております。
それにしても、乾さんとひゃっきさんは本当に縁が深いようですね。
今も対話が続いているのを姜子さんあたりが知ったら
かなり吃驚するでしょうねぇw
>>578-529 乾さん
>それは学会の内部と外部という狭間で苦しんできたことの延長線上にあると考えています。
>それが私の人間としてのゆがみとなって表れていると思います。
僕の場合はそれはどちらかと言えば自分の内部での「真実」と「真実」の葛藤、という形で頭を混乱させ続けて
きたのだと思います。どちらの「真実」も僕にとっては大切なもので、しかもアイデンティティの芯となっているもの
でした。どちらかを選んでどちらかを捨てるなどということは到底考えられなかったのです。
結果的に僕は、片方の「真実」のなんとか腐っていない部分を選り分けて、腐ってしまった部分を捨てることで
解決しようとしています。しかし腐ったその部分は足元に留まり続けて一生視野に入り続けるであろうという意味で
結局その支配から完全に逃れることはできないのでしょう。
二つの「真実」の間で悩み葛藤したことにより、逆説的に僕は「真実」などどこにもない、ということをこの身で
思い知りました。この先、僕は自分や自分の判断というものを強く信頼することは一生できないのであろうと思います。
またいかなるイデオロギーも僕を侵すことはないでしょう。ただ一つ、懐疑主義を除いては。
何かを決定するとき、まず頭に浮かぶのは、「間違っているかもしれない」という思いです。必ずしもそれが悪いとは
思いません。僕はこうした経験により、驚くほど他人を「優しく」見ることができていることに気がつきました。その人が
どのような人であっても、軽蔑や怒りは通り過ぎて、留まることがありません。
しかし燃え立つような情熱、熱い思い、そのようなものは最早僕には無縁です。そのような気持ちは、「真実はただ
一つである」という信念から生み出されるものでしょうから。
>>580 滝山さん
僕は創価学会肯定派の人間と馴れ合うような関係にはなりたくありません。少なくともこのスレにおいては。
感情としてもいろいろ複雑なものがあります。僕は創価学会は良いでも悪いでもない、などという曖昧な意見では
ありません。今までの間違いを謝罪し、解体されるか新しい組織になるかするのが一番良いと思っています。
しかし、もちろん議論であれば大歓迎です。
Judge not,that you be not judged. <MATTHEW 7:1>
For with what judgment you judge, you will be judged; and with the
measure you use, it will be measured back to you. <MATTHEW 7:2>
Do not give what is hoiy to the sokas; nor cast your pearls before daisaku,
lest htey trample htem under their feet, and turn and tear you in pieces. <MATTARI 7:7>
>>586 retrieve
Do not give what is holy to the sokas; nor cast your pearls before daisaku,
lest they trample htem under their feet, and turn and tear you in pieces. <MATTARI 7:6>
∧ ∧
(;゚Д゚)† ∠ ギコ神よ赦し給え
| つつ
| |
〜| |
し`J
>>584 ひゃっきさん
このスレは議論中心でやってきてますからねぇ、スレの趣旨にも合ってませんから
馴れ合い的な流れにはしたくない、といったところでしょうか。
俺自身も過去、対話スレにおいては議論をふっかけられると
公然と嫌がってたものなだけにそれはわかるつもりです。
もしくは、あなたにとっては乾さんとの対話は心地いい馴れ合い的なものであるから
異分子は入ってこないでほしいといったところかもしれませんね。
まぁどちらにしろ承知しているつもりであるし、俺にはそんな心算は全然ありません。
ただ旧知の二人の対話を見かけて、感心したので挨拶をしたというまでのことです。
とりあえず議論ならば大歓迎ってことですが、
残念ながらその期待には俺は応えられません。
話に参加したいと思っているわけではないし、
「謝罪」とか「解体」とか書かれてありますけど、
そんなことに釣られたりもしませんので悪しからずw
あなたが一番よいと思うことを一番よいと思うと書く。
それが、釣りじゃないことはわかっています。
そういう人じゃないと知っているし、また
以前からそういう考えであることは重々承知していることですからね。
別に俺が文句や反論を言うようなことじゃないでしょう。
つづき
>>575で
>「本当に生きる」とは至って単純な意味で、「自分のやりたいことをやる」、というただそれだけのことです。
とありましたね。
それは本当にその通りだと思います。
特に言葉を発するということ、言いたいことを言えないというのは辛いですね。
きっとひゃっきさんには活動家の友人や知人もいるのでしょう。
ネットで今回のようにズバッと書きたくなるのはわかります。
だって俺もそうだからね。
言いたいことがあってもなかなか言い出せない、それも何年も。
例えば、相手が自分に対してしている隠し事を知ってしまった時、
あえてそのことには触れないでおく、
いつか自分から明かしてくれる時がくるだろうと信じて。
しかし相手が未だにばれていないと信じて、好き放題なことを書き連ねる時、
ようやく自分は裏切られていたんだ、ということを悟る。
相手に合わせた「あわせ鏡」、その無限に思える迷宮も
あわせることをやめてしまえば、それは終わる。
そういうことだよね、銀さん。
>>588 滝山さん
本当にあなたにはあきれはてました。あなたは匿名掲示板における重大な「ルール違反」を犯したのですよ。
もし2chにはルールなどないというのなら、マナー違反と言い換えますが。
滝山さんは、「言いたいことが言えない」という僕の言葉から、全く違う連想をしたのですね。
>しかし相手が未だにばれていないと信じて、好き放題なことを書き連ねる時、
>ようやく自分は裏切られていたんだ、ということを悟る。
なんなのですかこの妄想は。勝手に突っ走らないでください。
滝山さんの悪い癖は、なんでも自分の「狭い」理解の範疇に物事を引き寄せて解釈するところでしょう。
ずいぶんと懐かしい名前が出てきてるね
相変わらずだけど( ´,_ゝ`)ピ
>>577 私は、そうはならないと思いますよ
すべての生命は命をかけて生きているから、すべて尊い
大事にしなければならない、差別など出来ない
自分の命も尊い、だから無駄に生きることは出来ない
前提である生きているということに真正面から向き合えば
自ずから、どう生きるかなど見えてくるんじゃないのかな
>>590 いったいルール違反とは何のことですか?
私には何のことを言っているのか理解できません。
具体的に述べてください。
>>591 俺のことですかね?
相変わらずですよ。
Sbさんも相変わらずお元気なようで。
>>593 滝山さん
匿名掲示板で私の身元を明かしたことですよ。
しかも私はあなたにそのことを言ったことはないのですから、あなたは間接的に知った、もしくは推測したことでしょう。
あなたの頭の中には、あなたの知らない私の知人だとか、あなたも私も知らない第三者の存在はないのでしょうか。
>>590 >滝山さんは、「言いたいことが言えない」という僕の言葉から、全く違う連想をしたのですね。
これももう少し具体的に御説明ください。
俺に対して書いた以上は俺に理解できるように。
>なんなのですかこの妄想は。勝手に突っ走らないでください。
>滝山さんの悪い癖は、なんでも自分の「狭い」理解の範疇に物事を引き寄せて解釈するところでしょう。
どうやら多少感情的にさせてしまったようですね。
少し気分を入れ替えて考え直してみてください、
争おうという気はこちらには全くありません。
知人を無視した上で、挨拶もせずに拒絶し、挑発するという事実が
どういった結果を生み出すかということは子供でもわかることです。
>>595 >匿名掲示板で私の身元を明かしたことですよ。
俺とあなたの関係がネット上だけのものではないことを
俺は気がついていると暗に示唆したのみです。
あなたがご自分から傷口を開いたのです。
我々の仲をよく知っている現実上の知人ならば
俺が書いたことであなたが誰なのか推理することはできるでしょう。
しかしそれでも身元を明らかにはしたということにはなりません。
>しかも私はあなたにそのことを言ったことはないのですから、あなたは間接的に知った、もしくは推測したことでしょう
これは上で書いてあることと矛盾しています。
推測で語っていると俺のことを非難するなるならば
身元を明かしたとは普通、書かないでしょう。
ちなみにあなたの口からではありませんが、数年前、
あなたの近しい人から聞きえた、というよりも偶然ある事実をもって示されて、判明したことです。
確実なことです。
やれやれ・・・。
>>598 質問したことに対して答えがないようなら
返答する意思がないととり、これで終わりにします。
俺は最初から挨拶だけのつもりでしたので、それでも満足です。
もし何か言いたいことがあれば、今後は電話でお願いします。
(ちなみに電話番号は変更していますので悪しからず)
あなたがなんの対応もしないならば、俺と関わりたくないという意思ととります。
そのあなたの意思を尊重して今後、俺はあらゆる場面で会話しないこととしましょう。
601 :
乾闥婆:2005/11/20(日) 00:04:49 ID:???
お二人の事情は分りませんが、私は私で進めます。
>>582 滝山さん。
>HPは閉鎖しましたが、まぁ自分はボチボチと元気にやっております。
信仰の面でも変わらず元気に取り組んでいるということですか。私は創価学会と日蓮仏法
は教学上まだまだ未解決な部分を多く保留にしていると思いますが、それはそれ、信仰は
信仰、といった感じでしょうか。
あまり、そのあたりの議論をしたいとは思っていらっしゃらないようですので、信仰も、
仕事も元気でやっている、という、挨拶程度のご返事でもかまいませんけれど。
私は何となくあなたが心配なのです。何か一途であるといいますか、信仰なら信仰で一色
になってゆきそうな、ある種のバランスの悪さを感じているのです。人のことを言えた身
ではありませんが。
602 :
乾闥婆:2005/11/20(日) 00:05:26 ID:???
>>583 ひゃっきまるさん。
>二つの「真実」の間で悩み葛藤したことにより、逆説的に僕は「真実」などどこにもない、ということをこの身で
思い知りました。この先、僕は自分や自分の判断というものを強く信頼することは一生できないのであろうと思います。
またいかなるイデオロギーも僕を侵すことはないでしょう。ただ一つ、懐疑主義を除いては。
似たような経緯を私も経てはいますが、私はそれほど悲壮な思いは抱いていないんですね。
自分の判断にはむしろ信頼を置いています。懐疑主義という言い方も用いません。いうな
れば縁起主義とでも言いましょうか。そのような世界の捉え方こそ、「諸法の実相」を如実
に見ることなのだと、信じています。
> しかし燃え立つような情熱、熱い思い、そのようなものは最早僕には無縁です。そのような気持ちは、「真実はただ
一つである」という信念から生み出されるものでしょうから。
私の場合、自分の意志に基づいて選択した「真実」に対しては責任を負おうという、情熱
のようなものはあります。
603 :
乾闥婆:2005/11/20(日) 00:05:59 ID:???
>>592 Sbさん。
>前提である生きているということに真正面から向き合えば
自ずから、どう生きるかなど見えてくるんじゃないのかな
つまり私は「前提である生きているということに真正面から向き合」っているのだと思い
ますよ。そうは見えませんか?(笑)
>>588 >このスレは議論中心でやってきてますからねぇ、スレの趣旨にも合ってませんから
>馴れ合い的な流れにはしたくない、といったところでしょうか。
少なくともこのスレで、創価学会肯定派と否定派がその最も問題になっている点を無視して雑談などに
興じるというのはおかしなことでしょう。しかし、これは無論僕の考えであって、仕切るつもりはありません。
そして再度
>>584を見直してみてください。僕は「少なくともこのスレにおいては」と言っています。
あなたの一切を拒絶するなどと一言も言っていません。むしろ、お互いにとって不愉快になりそうな話は
このスレに隔離して、別の場では仲良くしたいと思っていたのです。
>あなたにとっては乾さんとの対話は心地いい馴れ合い的なものであるから
>異分子は入ってこないでほしいといったところかもしれませんね。
異論があればどうぞ。
>>589 僕が「言いたいことが言えない」というのは、広範な意味でのことであって、嫌創価学会だということを
友人に話せないという意味ではありません。
しかし、ひゃっきまるというHNを使い始めた頃は、仲の良い知人には僕がこのような考えを持っている
ということを知られたくない、という思いはかなり強くありました。
僕は滝山さんがここに初めて現れたときから、当然リアルの友人だと知っていたわけですが、べつに明か
そうとは思わなかったし、今後も明かすつもりもありませんでした。僕の正体がバレる可能性は充分高い
と思っていましたが、その場合も「知らぬふり」をしていてくれるだろうと、あなたの「良識」を信頼していた
わけです。
そんなことよりも腹立たしいのは、ネットの危険性をあなたが充分に理解していないことです。
>>597 >我々の仲をよく知っている現実上の知人ならば
>俺が書いたことであなたが誰なのか推理することはできるでしょう。
>しかしそれでも身元を明らかにはしたということにはなりません。
可能性の話云々の前に、そもそもあなたは本来あなたが知りえない情報をあなたの独断で明かす
権利はないということに気づいてください。
>推測で語っていると俺のことを非難するなるならば
推測で語ったことを非難しているのではありません。僕の意思ではないところで知った情報をネットに
流したことを非難しているのです。
ところで、
>>589 >しかし相手が未だにばれていないと信じて、好き放題なことを書き連ねる時、
>ようやく自分は裏切られていたんだ、ということを悟る。
「好き放題なこと」とはなんですか? 「裏切る」とは、僕があなたの何を裏切ったのですか?
むしろ裏切られた気分なのはこっちです。僕はたぶん今後あなたを信用することはできないでしょう。
>>601 乾さん
>信仰の面でも変わらず元気に取り組んでいるということですか。
活動という意味ならば、元気に取り組んでいませんw
正直なところ学会活動、今はしていませんねー。
以前、死ぬまで1時間の唱題を毎日続けるという誓いを立てたのですが
あるきっかけからそれを破りました。
きっかけはそれまで強く祈ってきた祈りを叶えたことでした。
しかし叶えたそれは、思っていたものよりも、その当時の俺にはかなり
辛かったもので、信仰的に受け入れ難く、理解不能であり、
不信ということになったのです。
しかし、自分で決めたことを守れなかったということに間違いはありません。
過去に俺は自殺願望のある人をとどめたということもあったので、
自分が生きる意味であるとか、人生の意義などにあまり悔いも欲もありませんでした。
一応仕事らしいことはしただろうという感覚です。
そこで、「死ぬまで続ける」ということで、もう続けていないため、
「もういつ死んでもいいかな」「俺はもう死人なのだな」「死刑囚だな」
という心境が非常に強くなっていきました。
そのせいかある日とうとう、「臨終する直前」というシチュエーションの夢を見ました。
夢で、俺は遠くにある光り輝く塔に向かって祈りを捧げていました。
安らかなる死よ、これこそ望むものという感覚でした。
しかし、そこに邪魔をする黒い男が現れました。
もはや死に損ないで動けない俺に対して彼は言いました。
「このまま安らかになど死なせるものか、苦しめ」
俺の口を無理矢理こじあけ、異物か手かを突っ込んできました。
彼の言っていることは実はもっともなことなんですが、説明もないため
俺は「やめてくれ!」と叫び、その自分の声を聞いて跳ね起きました。
起きてすぐにこれは三悪道の命かと思いましたが、後で考えてみて、
あるいは、根本の生存欲の現れか、またはそれの使いであったのかもしれない、
と考えるようになりました。
「苦しめ」とは生きろということでしょう。
自分で決めた誓いを破っておいて、安らかさを望むなんて欲深く
調子が良すぎてあり得ないので、恐らく彼はやってきたんでしょう。
その夢を見て以来、心を静めればその男の吐く息もわかるような
身近なものとして感じられます(文学的表現)。
夢の中のこととはいえ、俺にとっては観念というより
体験に近いものとして捉えられています。
唱題とその決意、そして敗北の結果の延長線上に続く以上の事柄。
さて、どうしたものか……という感じで戸惑いは隠せません。
そういう意味でボチボチ元気といったところなのです。
>私は創価学会と日蓮仏法は教学上まだまだ未解決な部分を多く保留にしていると
>思いますが、それはそれ、信仰は信仰、といった感じでしょうか。
組織の教義に共有できない面はありますね。
先日も任用試験の勉強を私的に教えましたが、
「人界は聖道正器というのは俺はどうかと思う」
と教える際にこぼしたところ、保護者に伝わって怒られましたw
男子部の部長さんと話した時も、宇宙と自己についての考え方で意見が食い違いました。
俺は「そんなこと考えるのは本来どうでもいい派」ですが
それではダメだと言うのですね、名誉会長の趣味の影響でしょうね。
別に組織に嫌悪感も恨みもありませんが、望んでなくても距離ができてしまいます。
基本的に俺の哲学は経験主義であり、人間主義ですが、
それは学会活動を自分の意思で始める前から持っていたものです。
教義・対境・組織というのは自分の哲学と経験を前提とした
修正、実践、解釈のための共用ツールみたいな感覚で捉えています。
自分をなくしてしまったら意味がないですからね。
そもそも大昔の知らない人の教えですから「正しさ」は仮説なのだということは
誰でもわかっているはずでしょうし、俺も昔から述べていることですね。
自分の中に「真実」を持つこととは別問題です。
言い伝えとか遺物とか、そういうことに拘り過ぎるのは趣味の範疇だと思っています。
>何か一途であるといいますか、信仰なら信仰で一色になってゆきそうな、
>ある種のバランスの悪さを感じているのです
感情的になって、周囲の存在を忘れるということはありますね。
もし喧嘩になったら周囲の存在を忘れて相手のパンツを引きおろすような真似すら
俺はするかもしれません。
ただ、信仰一色というのはあり得ませんね、買いかぶりすぎ?です。
11/20
>>604 >少なくともこのスレで、創価学会肯定派と否定派がその最も問題になっている点を
>無視して雑談などに興じるというのはおかしなことでしょう。
いろいろ書いてあるが、俺を無視したこと、挨拶抜きだったことの
十分な説明になっていないと思う。
>これは無論僕の考えであって、仕切るつもりはありません。
いや、仕切ればいいだろうと思うよ、ひゃっきのスレなんだから。
俺はそういうのは嫌いじゃない。
>あなたの一切を拒絶するなどと一言も言っていません。
一度無視した上に、挨拶もしないでおいて言える言葉か?
>異論があればどうぞ。
ない。
>僕が「言いたいことが言えない」というのは、広範な意味でのことであって、
>嫌創価学会だということを友人に話せないという意味ではありません。
俺もそういう意味で取っている。
しかしアンチであるということを活動家の友人には言い難いというのも
そこに含まれるだろう。含まれなければ言い争いが好きだってことだからな。
ひゃっきがそーゆー奴じゃぁないってことはわかっている。
別に間違っていないじゃないか。
>僕は滝山さんがここに初めて現れたときから、
>当然リアルの友人だと知っていたわけですが
俺が自分で宣伝したからな、今思うと当時は自己顕示欲が強かったんだなぁ。
>その場合も「知らぬふり」をしていてくれるだろうと、
>あなたの「良識」を信頼していたわけです。
ネットで「バレてるぞ」と書くのは別に良識に反しているとは思わないが、
ただ、言うならばリアルでだろうと思ってたさ、だから何年間も黙ってたんだよ。
しかし、俺が正体を知らないと思ってか、無視して挨拶も抜きで
ああいったことを書くってのはどういう了見だ?
俺が知らないと思って俺の顔を思い浮かべてああいう態度を取るのは
友人として信義に反していると思いはしないのか?
俺はそれを想像してハラワタが煮えくり返ったわけだが。
>ネットの危険性をあなたが充分に理解していないことです。
たったあれだけの文章だ。どこにでもあるものだろう。
知人以外が個人情報に達する可能性はほぼなきに等しいだろう。
>そもそもあなたは本来あなたが知りえない情報をあなたの独断で明かす権利はない
本来とは何のことか。俺は情報を得るのに何も後ろめたいことなどしていない。
そもそも先に人として信義に反したことをした人間に言われる筋合いでもない。
俺はいったいどれだけ我慢して、茶番に付き合えばよかったというのだ、
わがままというものだろう、それは。
>そもそもあなたは本来あなたが知りえない情報をあなたの独断で明かす権利はない
本来とは何のことか。俺は情報を得るのに何も後ろめたいことなどしていない。
そもそも先に人として信義に反したことをした人間に言われる筋合いでもない。
俺はいったいどれだけ我慢して、茶番に付き合えばよかったというのだ、
わがままというものだろう、それは。
>僕の意思ではないところで知った情報をネットに流したことを非難しているのです。
ひゃっきが勝手に隠していた情報だろう、そのわがままに付き合わされる身にもなれよ。
・・・とはいえ、
身近な人間に正体を知られても今は別にいいようなことを書いてはいるが、
そのことについては詫びようと思う、もし共通の知人が目にすればすぐわかるだろうし。
よい言い方は他にもあっただろうし、思慮の足りないことをしたと思う。すまんかった。
>「好き放題なこと」とはなんですか?
>「裏切る」とは、僕があなたの何を裏切ったのですか?
俺に隠してはいても、俺のことを友人として遇するだろうと信頼していた。
しかし見事にその信頼を裏切られたのだよ、ひゃっき君。
>僕はたぶん今後あなたを信用することはできないでしょう。
本来はひゃっきが先に謝罪すべきことだろう。
俺を騙し続けていたのだからな、悪いと思っていないのか?
以前チャットした時、どういう嘘をついて自己紹介した?
リアルで会った時、腹に悶々としたものを抱えたままで話せとでも言うのか?
騙して続けてきた人間が信用云々などと口にできると思わんでくれ。
いろいろ言ってももう滝山はひっこみつかないだろうが、この2点だけは覚えておいて、
一ヶ月後くらいに反芻しておいてほしい。
1・安易に怒るな。今回みたいに勝手な思い込みが原因なら馬鹿馬鹿しいだろう。
2・怒りを動機として行動するな。特に対人においてそれが良い結果を生むことなどほ
とんどない。
>>610-611 >いろいろ書いてあるが、俺を無視したこと、挨拶抜きだったことの
>十分な説明になっていないと思う。
>一度無視した上に、挨拶もしないでおいて言える言葉か?
>しかし、俺が正体を知らないと思ってか、無視して挨拶も抜きで
>ああいったことを書くってのはどういう了見だ?
>俺が知らないと思って俺の顔を思い浮かべてああいう態度を取るのは
>友人として信義に反していると思いはしないのか?
>俺はそれを想像してハラワタが煮えくり返ったわけだが。
>俺に隠してはいても、俺のことを友人として遇するだろうと信頼していた。
>しかし見事にその信頼を裏切られたのだよ、ひゃっき君。
1・ネット上での滝山とひゃっきまるの関係で、リアルでの友人だということを考慮する
必要はないと判断した。リアルでのコンタクトで邪険したことは一度もないはず。
ひゃっきまるというキャラは、リアルの人間の中の相反する矛盾した葛藤の中で、
「嫌創価学会」という一部分の要素を抜き出したもの。滝山が想像するよりもずっと
悲壮な思いが込められている。できるならそっとしておいてほしかった。
2・2ch独特の浮わついた絵文字にまともに反応しようとは思わなかった。特にこの
スレにおいては、遊び感覚、馴れ合い感覚で来られるのは腹立たしいと思っていたので、
釘を刺したまで。普通に挨拶してくれば普通に返した。
3・だいたい、相手が自分の思ったようには歓迎してくれなかったということに対して
意気消沈するのならともかく、逆上するなんてガキか。
>>610-611 >たったあれだけの文章だ。どこにでもあるものだろう。
>知人以外が個人情報に達する可能性はほぼなきに等しいだろう。
それは滝山の独断だ。そして独断でしてはいけないことをしたということだ。全くの赤
の他人を想定しているわけではない。滝山は、俺の交友関係を全部知っているとで
も言うのか。中には非常に危険な人物だっている。大体、そもそも「知人」に知られ
たくないから匿名なんだろう。一番ありそうなのは、リアルの俺をよく知っている人物が、
このスレを偶然発見することだ。実害はなくてもそういう心配の種を増やしたことが大きい罪なんだ。
>本来とは何のことか。俺は情報を得るのに何も後ろめたいことなどしていない。
何度も言うように、その情報をネットで出してしまったことがいけない。
>>610-611 >そもそも先に人として信義に反したことをした人間に言われる筋合いでもない。
>俺はいったいどれだけ我慢して、茶番に付き合えばよかったというのだ、
>わがままというものだろう、それは。
>本来はひゃっきが先に謝罪すべきことだろう。
>俺を騙し続けていたのだからな、悪いと思っていないのか?
>リアルで会った時、腹に悶々としたものを抱えたままで話せとでも言うのか?
>騙して続けてきた人間が信用云々などと口にできると思わんでくれ。
俺はリアルの誰にも知られたくないからこそ、匿名で投稿していた。もう7年も前からだ。
知られたくないというのはいろいろな意味がある。自分の中での整理がついていないと
いうこと、嫌創価学会というのが非常に大きな罪悪で、しかも人間的に嫌らしいものであ
るという認識、狂信的な友人からの防衛および人間関係の維持。「わがまま」で匿名に
していたわけじゃないんだよ。だいたい、隠す必要がないことなら、すぐに明かしていた
はずだろう。何年も明かさなかったままにしていたことに「俺なりの理由がある」とは想像
もしなかったのか。
はじめから匿名でやっていたところに、リアルの友人が参入してきたところで、正体を明か
すのは俺の自由だろう。それを「信義に反する」「騙す」扱いされてはたまらない。何度も言
うが、はじめから「匿名」の意思がある人間に対してなぜそんな言葉が吐ける。
ひゃっきまるはひゃっきまるでひゃっきまるでしか言えないこともあった。だったら、ひゃっき
まると滝山で話せばよかったんだ。リアルで話したかったらリアルで話せばよかったじゃな
いか。なぜそういう関係で満足できなかったんだ。俺だって滝山が気づいているだろうこと
は薄々気づいていたよ。じゃなかったら、「少なくともこのスレにおいては」などと入れるもの
か。滝山とひゃっきまるが話す機会があるのはこのスレだけなのだから、意味不明の文章
になってしまうだろう。言わずとも相手を信頼するってことが本当の友情じゃないのか。
>>610-611 >身近な人間に正体を知られても今は別にいいようなことを書いてはいるが、
>そのことについては詫びようと思う、もし共通の知人が目にすればすぐわかるだろうし。
>よい言い方は他にもあっただろうし、思慮の足りないことをしたと思う。すまんかった。
総合的に言えば、滝山はひゃっきまるがなぜこのスレで議論をやっているのか、どんな思
いを抱えているのか、想像できなかったということだ。たぶん単に、「間違ったことをしてい
るから正してやろう」程度の気持ちだったんだろう。だから少し冷たくされたくらいで簡単に
逆上したし、何年も明かさなかったことを怒りにまかせて簡単にばらしたりしてしまったんだ。
>>613 その2点は覚えておこう。
>>614 つまりは自分そのままというよりも、自己の中のアンチを抽出し
「キャラ」として作って、それを通して代弁させていたということか。
俺も「滝山」というキャラを当初は作っていたからそれはわかる。
今はほとんど同期してるがな。
>2ch独特の浮わついた絵文字にまともに反応しようとは思わなかった。特にこの
>スレにおいては、遊び感覚、馴れ合い感覚で来られるのは腹立たしいと思っていた
自分で書いた613を読め。
>3・だいたい、相手が自分の思ったようには歓迎してくれなかったということに対して
>意気消沈するのならともかく、逆上するなんてガキか。
意気消沈したさ、それはあの時の文章読めばわからないか。
「ハラワタ煮えくり返り云々」の前回のレスはおまえさんの「信用云々」で
気が昂ぶった状態で書いたから、つい脚色してしまったものだ。
実際は非常に萎えて、全てを終了させるべくして書いていた。
>>615 基本的には俺とお前、両方を実際知る人物じゃないとわかるはずがないと思う。
その中に危険人物というものがいれば、それはおまえさんの言うとおりだろうけど。
俺も俺の個人情報をそこまで垂れ流しているつもりはないし。
だが、おまえさんが方々で個人情報の断片を垂れ流しているなら話は別だが、
そんなことはなかろうとタカをくくっていたわけ。
しかしこうして自分から傷口を広げているおまえさんを見てると不安になってきた。
危険人物なるものが被害妄想でないという確証もないが、
確かに取り返しのつかないことをしたのかもしれない。
>>616 匿名で書くこと自体をわがままとは言っていない。
それが俺に関わらなければ、俺に知られなければな。
「滝山」に関わってきたのは確かお前からのはずだと記憶するがそれは俺の記憶違いか?
俺は姜子さんには興味を持ったが、「ひゃっきまる」に興味はなかったはずだよ。
お前から関わってきたのだから、俺はそれに付き合う立場となったのだ。
それに嘘をついて俺を騙したのは確かだろう。
以上の理由から「積極性あり」と俺は判定している。
>滝山とひゃっきまるが話す機会があるのはこのスレだけなのだから、意味不明の文章
>になってしまうだろう。
まさに俺にとって意味不明だったよ。
俺は件の掲示板には長く投稿してないわけだが、別に忙しいからじゃない。
何故なのか、それぐらいは勘案してくれ。
実質的にネットでお前さんと関わるのはここのみだよ。
>>617 俺はお前とこうしてネットで関わっても何の得もないのだ、実際。
お前はしかし、論敵を欲しているな。
俺に関わってきたのもそのためだろう。
俺はその需要を需要として認めた、それなりの理由があると。
だから需要に応じて供給してきたつもりだ。
だがもうそのような茶番に付き合う気は一切ない。
「間違ったことをしているから正してやろう」
と書いているが、そんな考えは全くない、考えが甘すぎるな。
おめでたい妄想だ。
そもそもアンチはアンチであるために敵が必要だ。
だが、アンチによって敵に仕立て上げられる者はアンチを必要としていない。
それは迷惑な話であり、甘え以外の何物とも映らないのだ。
お前はそのことを全く自覚してないのだな。
「間違ったことをしているから正してやろう」
という妄想をこしらえなければお前は「ひゃっきまる」を維持できないのだろう。
お前はお前をアンチにさせた人物と俺を同一視したいのかもしれない。
だが、それは我侭というものだ、俺にとって甘えでしかない。
友人であるから、俺は今までお前を甘えさせてきた。
友人と思えばこそ、ままごとに付き合っていただけのことなのだ。
「間違ったことをしているから正してやろう」
と本気で思ってる奴は、女神大神官みたいな馬鹿しかいないだろう。
だから相手をしてやったのだ。
今からすれば間違いだったと思うがな。
実際のところ、俺はお前の敵でも味方でもなんでもないのだよ。
ここに書き込みをしてしまったことを俺は今、実に後悔している。
やはり書き込むべきではなかったよ。
なんか議論が妙な方向にいってるな
一言だけ。
滝山はひゃっきまるが黙ってたことを「騙していた」って言ってるけど、アンチが偏見の目で見られる層化社会で
言えるわけないよな。その辺滝山が思い至らないのは、やっぱアンチじゃないから。
それでもひゃっきが滝山に積極的に議論したがってたとしたら、やっぱ友達と議論したかったんじゃね?
自分の心のうちを。
それにしても滝山の罪はほんとにすっげえ重いと思うぞ。滝山は全然分かってない。
バラしてしまった一部の仲間って、どうせ大学のクラスメートか、学生部か、クラブかのどれかだろ。
この集まりの中では、ひゃっきがアンチだってことが公然になってしまったわけだろ。
もうひゃっきは普通の顔して仲間に会えなくなってしまったんじゃないかな。
人にどう見られるか気にするって何度も書いてるから、姿消すかもな。
大量の友人失ったのと同じだな。
それにネットにももう姿を現さないかもな。
ここで書き込みできてたのって、バレてないからこそ書き込めたんだろ。
ここはひゃっきにとって、誰にも言えない悩みを打ち明ける駆け込み寺みたいなところだったんだろ。
滝山はネットでの居場所も奪ったんだな。
でも滝山は自分の非は絶対認めないだろうな。
だって層化だから。
11/21
>>623 >黙ってたことを「騙していた」って言ってる
嘘もつかれているので騙されたと言っているんだがなぁ、
ひゃっきはそれを重要視してないようだがな。
>それでもひゃっきが滝山に積極的に議論したがってたとしたら、
>やっぱ友達と議論したかったんじゃね?自分の心のうちを。
まぁそうなんだろうねぇ。
そういうこともあると考えて過去、俺も対応したんだろうね。
しかし俺はもうその気はないってことだ。
>バラしてしまった
バラしていないって。
ひゃっきのリアルの知人であり、滝山=何者か、を知る人のみが
もしこのスレを見たらわかる可能性があるというだけ。
(ひゃっきが個人情報垂れ流しでない限り)
つづき
>この集まりの中では、ひゃっきがアンチだってことが公然になってしまったわけだろ。
全然そんなことにはなってない。
それに俺がこのハンドルを明かしている人物達はほぼ
俺よりもひゃっきとの関係が親密だし、俺は異端児みたいなもんだから
知られたところで俺が責められるのがヲチってもの。
>ここはひゃっきにとって、誰にも言えない悩みを打ち明ける
>駆け込み寺みたいなところだったんだろ。
なんだかんだ書いて正当化しようとしてるが、実際のところ
そんなしょぼいのとはワケが違うだろ、ひゃっきは。
>でも滝山は自分の非は絶対認めないだろうな。
>だって層化だから。
非は非として既に詫びている状況だ。
俺は層化でもなければアンチでもない。
アンチはアンチである限り、層化を必要とするからそう言うんだろうがな。
あいにく俺は俺なんでね。お前のご期待にはお応えしかねる。
>>621-622 乾さんとひゃっきの対話がよい流れだなと思い、
挨拶程度に書き込んだだけのつもりがこうなってしまって、
非常に後悔している。
627 :
乾闥婆:2005/11/21(月) 02:30:28 ID:???
ひゃっきまるさん、滝山さん。
話は残念な方向へと向かっているようですが、私なりの、感想、を述べさせてもらいます。
私は正直滝山さんが顔を出してくれたのはうれしかった。最初は「騙り」と思っていたの
ですが、二度も顔を出すし、同じトリップもついているので、反応したわけでした。滝山
さんに関してはHPを拝見していて、心配をしていたことはすでに書きました。私はあな
たのことを信仰に一途になりすぎるところがあると書き、買いかぶりだと滝山さんは返し
ました。しかし創価学会の組織とは信仰者であることと同時に組織人であることを要求さ
れる場なのです。そして滝山さんは信仰者としての一途な思いによって、組織人としてう
まくいかなくなるときがあるのではないかと、心配していたのでした。ひゃっきまるさん
はそのような組織人としてのあり方が、信仰を左右することに不純を感じるかもしれませ
んが、創価学会という信仰の場は、組織の中でいかに自分を織り上げてその信仰を全うし
てゆくのか、が問われる場なのです。怨嫉、ですね。多くの会員がこの怨嫉により信仰自
体を失いました。はじめは、いや間違っているのはあいつだ、とか、組織に問題があるの
だ、といい、自分の信仰は大丈夫だ、と思うのですね。しかし、多くの人がそのまま信仰
を失ってゆくのだと思います。(もちろんそうでない人もいるでしょうけれど)。まあ、そ
れはそれでいいのです。しかし、滝山さんにはそのようになって欲しくないと、私は思っ
たのですね。なぜかは分りませんが。あなたはこのような場所で、多くの批判者に囲まれ
ながら、自身の信仰を貫いて見せようと、一途に語っていました。教義的には非常に困難
なことです。しかし、そのような姿を私やひゃっきまるさんに、示したかったのかもしれ
ません。姜子さんに何か言われたのかもしれません。そのような姿は、私自身あなたを批
判してはいても、好ましいものと映ったのでしょう。私が言うのも何なのですが、今は活
動されていないと言っていましたが、どうなのでしょう。滝山さんにこれ以上ここに書き
込む意志があるかどうか分りませんが、もし、私、と話す気持ちがあるのでしたら、もう
少し話をしたいと思うのですが。
628 :
乾闥婆:2005/11/21(月) 02:31:04 ID:???
ひゃっきまるさんは非常に嫌っていましたが、姜子さんのことは好きでしたね。かなり作
っているな、とは思いましたが、その挑発的な言い回しに、私は何となく愛情を感じてお
りました。もちろん批判はしましたが。彼は創価学会内部で信仰者としても組織人として
もやっていける人間なのだろう、といった安堵感もありました。私はここでスレッドを立
てたことは一度しかありませんが、それは姜子さんがいなくなったあとの「強固」スレだ
けでした。ああいう人にいて欲しかったのだと思います。結局姜子さんから言わせればそ
れは私の甘えということになるのでしょう。いい加減甘えてないで自分で決めろ、といっ
た感じでしょうか。その後、私自身この掲示板に出入りすることが減り、自分なりにやっ
てきたわけですが、ほぼ、創価学会に対してどのようなスタンスを取るのか、はっきりと
固まってきた感じがします。
ひゃっきまるさんの言っていることは、私の感情とも重複する部分が多いし、ネットでの
スタンスも、私はやはりひゃっきまるさんと同様でしょう。リアルの知人が紛れ込んだら、
それと分っても、やはりネットでの関係として限定的に囲っておいて欲しかった、と思う
でしょう。やはり、こういう空間は、現実社会とは異空間だと思います。地続きにする弊
害はあるでしょう。私自身今は大分自分自身に近い形で語っていますが、ネットだと違う
人格が顔を出すときもあります。それで疎遠になってしまった知人もいます。実際に会っ
て話していれば、こうは語らなかった、という部分も、ネットではあるのではないでしょ
うか。二人の議論がネット上でのマナーに終始してしまったことは残念なことです。もっ
と他に語るべきことは、我々にはあるはずなのではないかと、しかし、こうなっては二人
のあいだで実りのある対話は困難であろうと、本当に残念に思います。滝山さん、ひゃっ
きまるさん、私はネット上での議論を通して多くのことを学び、視野を広げてきました。
不毛であったことはないし、不毛にするにはもったいない空間であると思います。
>>627 なるほど、確かに「なんでこーなるかなー?」と思うことはままありますよ。
きっと蓮祖に一途であったり、ゴータマ・ブッダに一途であるなら衝突するのでしょう。
しかし彼らはもう大昔に死んじゃっていて、実際のところ全然知らない人達ですから。
これを言うとさみしい気持ちになるかもしれませんが、でもそれは今を生きる人には
誰でもそうなわけで、それさえ理解しあえる人となら衝突することはないんじゃ
ないでしょうか、子供でもわかることですし。
この事実を認めたからといって、信仰が失われるとは俺は思っていません。
あくまでも、信仰とは人を気高く磨くためにあるのだということを
自分は最重要視しているからです。
活動についてはそうですね、
就職して以来、仕事の都合上結局時間がとれずじまいでした。
また選挙活動にも残念ながら、自分にはついていけませんでしたw
まぁ先輩方には期待させていたのでプリプリ怒らせてしまったり、
また、逆に勝手に責任を感じられて謝られたりもしましたが
陰湿な感情的軋轢など、特に思い当たることはありません。
今は転居を機に男子部の活動からは徐々に遠ざかりましたが、
組織の人ともそういうことはありませんね、
意見の食い違うことはあっても平和を愛していますから。
自分自身、教義的な事柄をほとんどの会員よりも知悉しながら、
同時にどうでもよいことだとして執着してないため、
考えを言うことはあっても、あえて必要以上に争う気にはならないのです。
子供が理解するシンプルな行いにこそ、真髄があると考えていますし、
自分はそういうことを話すようにしたいと思っています。
>>628 乾さんの言われることはもっともなことだと思います。
しかし、会に対して、蓮祖に対して、ゴータマ・ブッダに対して、
あらゆる仏教徒に対して、批判することも擁護することも、
自分自身にとって既に何ら資することがないことだと考えているのです。
それらから離れたものでない限り、自分は関わりあう気が起こりません。
怨み、嫉み、恚り・・・それらは実体を離れて語られていますが、
批判でも侮蔑でもありませんが、それらはまるで霊のように思われます。
そして必ず現実とネットは違うのだという線引きをされます。
しかし異空間と言われますが、自分はネットを幽界として接する気はありません。
したい人は自由にすればよいと思いますし、別に止めはしませんし、
そこに場合によっては実りがあるということも否定はしません。
しかし今、自分は親切な霊媒師にも除霊師にもなろうとは思っていないのです。
ですからひゃっきまるが「ひゃっきまる」である限り、
俺には無理なのです。その意思はもうないというわけです。
ちなみに自分は乾さんに批判されたという自覚がありませんでした。
意見の交換の中にも、批判というよりもいつも何か心配されていたような
感覚がありました。
批判・擁護以外でお話があれば、なんなりと…と書きたいところですが
今は時間がありませんので、明年以降、機会があればということでお願いします。
>>623 フォローしてくれたのなら、ありがとう。ご心配なく。
>>618-620 言うべきことは言ったつもりなので、理解してもらえていないと思っているが、いちいちにレスはしない。
これ以上続けても無理だと思うし、本気で滝山を嫌いになってしまう気がするので、それだけは避けたい
からな。理解してもらえていないままでの詫びは詫びではないと思っているので、許しはしない。俺も滝
山に詫びは入れない。
しかし、確かに「騙していた」ことはどうあれ事実だ。俺だって罪悪感はずっと感じていた(だからこそ滝
山の無思慮さに俺は怒ったわけだ)。それは申し訳なく思う。今回のことは長年溜まっていた滝山の鬱
憤が噴出したようなものかも知れないな。
あと、
>>620は蛇足だ。本気なのか口が滑ったのか知らないが、非常に人を馬鹿にしているように読め
る。こういうことを言うのは滝山の悪い癖、欠点だから治した方がいい。
今回のことでいかに自分が未熟で成長がないか思い知った。最近は心穏やかに生活していたが、それ
は単に周りの人間とは大人の距離のとり方を保っていたからなのであって、一度些細な事件が起これば
簡単に修羅界、地獄界に叩き落されるのだな。
争いの本質というのはこういうことだろう。お互いに譲れない部分があり、自分の意見を通そうとすること
に集中するあまりに相手の意見が見えなくなる。自分の怒りを過大評価し、相手の傷を過小評価する。お
互いにそれでは言葉が届くはずがない。言葉が届かないからますます相手が憎くなる。憎しみが増幅する。
個人と個人でさえこうなのだから、集団の意思を背負う国や、長い民族の歴史を背負った宗教なんかの
問題を解決するのは、至難の業なんだろう。
憎しみを解決するのは不軽菩薩の精神だというのが俺に残った唯一の信仰心だが、今回の事はそれを
忘れた罰として受け止めよう。
>>629-630 知悉か。
自分におごっていると何も見えなくなる。
我見の中にしか生きない者は何れか破滅する。
気をつけるべきだな。
とは言え、君はその事すら気づいていないのだろうから、幾ら言っても無駄かもしれないが。
>>631-632 今までの君のレスのなかで、ここ数日のレスが一番人間味があって俺はいいと思うがな。
憎しみと対峙する事も人間にとって必要不可欠だと思われる。
上辺だけの付き合いなら誰でもできるが、より深い部分での付き合いはなかなか出来るものではない。
許せないなら、許せるまでとことんぶつかり合う事も必要だと思われる。
その気がないなら、放っておくことだな。
とは言え、滝山が相手では我の張り合いで終わりそうな気もするが。
>>627-628 乾さん
大変見苦しいやりとりを見せてしまって、申し訳ありません。また、「感想」とおっしゃっていますが
なんとなく我々の仲を取り持つような配慮をされていると思いましたので、ありがたく思います。
僕と感情面で重複する部分が多いと言ってくれていますが、まあ僕も今まではけっこうそんな気
でいたのですが、そんなふうに思っていたことが恥ずかしくなりました。
>>633 誉めてくれたのなら、ありがとう。
最近は死人が書くようなレスをつけていましたからね。
>>631 >今回のことは長年溜まっていた滝山の鬱憤が噴出したようなものかも知れないな。
まぁ簡単に言うとそういうこと。
しかもあのレスを見た時の、俺のコンディションというのが今思うとかなり悪かった。
PCの再インストールで、膨大な資料とか作成していたデータが全部パーになったとか、
何かとにかく色々重なっていたのだ・・・。(八つ当たりってわけじゃないが)
俺としても、実際、個人情報の流出というのは全く意図していなかった。
2つのキーワード、そのうちの1つはひゃっきに対して、ちゃんと関心を
持っているんだよということを俺なりに示したメッセージのつもりでもあった。
ただもう1つは完全に蛇足だったな、書かないとまだ伝わらないかと思ってな・・・。
すまんことをしたと思っている。
>>633 なんかまさに予想通りの反応だな・・・「釣りワード」にw
もっと自分の言葉で語れないと響かないと思うけど。
人にアドバイスするなら決まり文句を使うような手抜きをしないで、
もっと工夫することが必要だと思うよ。
ちなみに俺はかなり恣意的に「釣りワード」を仕込んでるから。
つっこみ入ると嬉しいのでよろしく。
>>633 >上辺だけの付き合いなら誰でもできるが、より深い部分での付き合いはなかなか出来るものではない。
>許せないなら、許せるまでとことんぶつかり合う事も必要だと思われる。
>その気がないなら、放っておくことだな。
>とは言え、滝山が相手では我の張り合いで終わりそうな気もするが。
いいことを言うね、同意だね。
最後の文章以外は。
つ〜かあんた俺に何か含むところでもあるんか?
言ってみろ?聞いてやるぞ。
638 :
乾闥婆:2005/11/22(火) 01:27:25 ID:???
>>630 滝山さん。
>今は時間がありませんので、明年以降、機会があればということでお願いします。
分りました。私はいつでも時間がありませんが、機会がありましたらお話しましょう。
しかし、いくつかの点で気になる発言がありましたので、二点ばかりコメントさせてもら
います。次の機会に話すことがあれば、心に留めて置いてください。
>過去に俺は自殺願望のある人をとどめたということもあったので、
自分が生きる意味であるとか、人生の意義などにあまり悔いも欲もありませんでした。
一応仕事らしいことはしただろうという感覚です。
>「もういつ死んでもいいかな」「俺はもう死人なのだな」「死刑囚だな」
という心境が非常に強くなっていきました。
このような感情は一種のメランコリーではないでしょうか。厳しく言えば自己満足からく
る自己陶酔です。もう、自分の仕事は終わった、などとは自分で決めることではありませ
ん。死ぬまでが自分の仕事です。それが一切皆苦ということではないのでしょうか。滝山
さんが見た夢は、ご自身も触れていますが、人生から逃げるな、ということなのでしょう。
>しかし彼らはもう大昔に死んじゃっていて、実際のところ全然知らない人達ですから。
私たちはもはや、それらの人物を過去の文献や考古学的資料に基づいて、類推するのみで
しょう。滝山さんが、法華経や蓮祖の遺文を読み、何も感じるところがないのであれば、
それらはどうでもいいことでしょう。しかし、もし、信仰者として感じるところがあるの
であれば、全然知らない人たち、などとは言ってはいけないと思います。残された文書に、
誠実に向き合うべきです。教条的になれ、とか、原理主義的になれ、とか、言っているの
ではありませんし、学会の批判者になれ、と言っているのでもありません。(もちろんそう
したければすればいいと思いますが)。私が言いたいのは、仮にも「蓮祖」と呼ぶ人間が、
当の宗祖や釈尊を「全然知らない人達」などと言うべきではない、ということです。誠実
に向き合って、消えてしまうような信仰ならそれまでのことなのです。
639 :
乾闥婆:2005/11/22(火) 01:29:16 ID:???
>>634 ひゃっきまるさん。
私は学会二世として、ほぼひゃっきまるさんと同じ感情を生きてきたと思います。何年も
同じ掲示板に出入りしてきて、それははっきりと感じることです。温度差のある点として
は滝山さんや姜子さんへの感情でしょうか。その違いがどこから来るものなのかは分りま
せんけれど。私はどう彼らを批判しても彼らのことが好きなのです。
>>638 乾さん
>厳しく言えば自己満足からくる自己陶酔です。
そう思われてもかまいませんが、それは全く違うとだけ申しておきます。
誓った際に「破ったならば死を」ということを決めていなかったため
そうなってしまっただけです。
誓いを破れば死ぬものだと俺は信じていたし、信じたかったのです。
次にもし、こうした信仰上のことを誓うことがあるとすれば、
必ず入れるつもりでおりますが・・・だからこそ
「戸惑っている」と書いているのです。
>「全然知らない人達」などと言うべきではない
蓮祖もゴータマ・ブッダも実際に会ったことのない人達であり、
どれほど長く生きようとも決して会うことのできない人達です。
残されたものをいくら積み重ねても、真実に到達することはあり得ません。
類推に類推を重ねても答えは彼らとともに消えました。
本当かどうか尋ねることもできはしないのです。
ですから全然知らないというのです。
知ったようでいて、全然知らないのです。
私たちにできることは知ったつもりになることだけです、違いますか?
乾さんは本当に知っていると言えるのですか?
いくら知ろうとしても知ろうとしても、絶対に知ることはできないでしょう。
残されたものから感じることはできても、それは知ることとは全く違います。
己心にどれほどはっきりと彼らの姿を思い浮かべても、
それは彼らそのものではありえないのです。
信じることはできても、知ることは絶対にできないはずです。
自分がそうしたことを少しでも知っていると言うのは、
思い上がりというものだと思っていますが、いかがですか?
今彼らを信じる者たちの中で、もし彼らと同時代に生きたとしたらば、
彼らを本当に尊敬し、帰依することができる人がどれほどいるのか。
皮肉な話ですが、絶対に誰にも知ることができないからこそ
信じることができるということも言えると思うのです。
>>633 「知悉」と書いたが、実際の俺の心境というのは以上の如くだ。
「我見」というが、おまえの言う「我見」とは何ぞや?
上のは俺です。
もし、現代に蓮祖や、ゴータマ・ブッダが出現したと仮定します。
まさに本来ならば、我々にとって想像を絶する吉事です。
しかし、彼らは名前も姿かたちも言語表現も違って現れます。
まったくの先入観抜きで、考えてみてください。
彼ら生きた人間を本仏として、
蓮祖、ゴータマ・ブッダの再来として
信じられる心が自分にあるかどうかを。
>>643 >もし、現代に蓮祖や、ゴータマ・ブッダが出現したと仮定します。
筒井の「堕地獄仏法」も知らないんだろ(藁
645 :
乾闥婆:2005/11/22(火) 10:04:17 ID:???
>>640 滝山さん。
>誓いを破れば死ぬものだと俺は信じていたし、信じたかったのです。
そのような心持を、私はメランコリーであり、ナルシズムであると言ったのです。滝山さ
んは仏教徒として自殺を肯定しますか。もしそうであるならば、なぜ「俺は自殺願望のあ
る人をとどめた」という振る舞いに及んだのでしょうか。矛盾していませんか。蓮祖は三
度国を諌めて用いられなかったとき、自殺はしなかったでしょう。身延に入り、病で身が
ぼろぼろになるまで生きたはずです。私はうつ病傾向の人間に特有な自殺念慮を常に抱え
ていますし、信仰上の誓いなど守れてきていませんが、生きています。滝山さんも生きる
べきでしょう。誓いなど何度でも立てればよい。ぼろぼろになって死ぬまで、生きるべき
です。
646 :
乾闥婆:2005/11/22(火) 10:04:50 ID:???
>>641 >類推に類推を重ねても答えは彼らとともに消えました。
本当かどうか尋ねることもできはしないのです。
ですから全然知らないというのです。
それは端的に間違っています。そういうことを「全然知らない」とは言いません。分らな
い部分がある、と言います。分らない部分があるから、「全然知らない」と投げてしまう。
それを私は信仰者、求道者の姿として認めません。そうであるならば滝山さんは潔く棄教
すべきです。
>残されたものから感じることはできても、それは知ることとは全く違います。
己心にどれほどはっきりと彼らの姿を思い浮かべても、
それは彼らそのものではありえないのです。
その認識も間違っています。残された文献から「知る」ことは多くあります。「感じる」と
は、そのように「知る」ことの積み重ねの中から信仰として感じるのです。何も知らなけ
れば何も感じられません。例えば蓮祖の時代に釈尊はすでにおりません。つまり滝山さん
の言い方の倣えば蓮祖は釈尊を知ることはできない、「全然知らない」、ということになり
ます。しかし蓮祖は己心に仏を見ます。膨大な経・論を読み、実践し、諸難に遭い、蓮祖
己心には教主釈尊を見るわけです。その蓮祖が釈尊のことを「全然知らない」などという
でしょうか。我々は、諸文献から知り、そして感じ、信仰に至るのでしょう。
647 :
乾闥婆:2005/11/22(火) 10:05:19 ID:???
>>643 >もし、現代に蓮祖や、ゴータマ・ブッダが出現したと仮定します。
まさに本来ならば、我々にとって想像を絶する吉事です。
その仮定にはほぼ意味がありません。そのようなことは起こらないからです。出現したと
ころで彼らは当時と同じような人生を歩むことはないでしょう。人間は関係性の中で縁起
してあるのです。関係性が変われば自分のあり方もおのずと変わります。つまり現代に蓮
祖や釈尊が出現する仮定すること自体が不可能なのです。
>>639 乾さん
こんばんは。おいそがしいようですが、お体に気をつけて無理のない程度でお付き合いください。
>温度差のある点として は滝山さんや姜子さんへの感情でしょうか。
この点は僕も何度となく内観してきたことですので、そのことについて話します。僕は、創価学会員に「ある種」
のものが感じられたとき、それを敏感に感じ取ってしまい、彼らに嫌悪感が生じます。それは、相手を軽視する
気持ち、もしくは思い上がる気持ちです。おそらく僕は教義などよりもよっぽどこのことについて多くの言葉を尽
くしてきました。
この嫌悪感の出処は、自己嫌悪でしょう。僕が創価学会の信仰をしていたころは、そういう気持ちが少なからず
自分の中にあったのです。
姜子さんなどがどういう気持ちで悪態をついているのかは僕には分かりません。もしかしたら、相手を馬鹿にする
つもりなど全くないのかもしれません。それでも、僕は過去の自分に対する反省から、そういう言動を見過ごす事
はできないのでしょう。
無論、創価学会員の中にはそのようなものを感じさせない人も多くいます。蔑視や傲慢は人の心の弱さから来る
ものですから、充分に心が丈夫な人はそのようなものを必要としないからです。
>>636 >ちなみに俺はかなり恣意的に「釣りワード」を仕込んでるから。
恣意的な釣りではなく本音じゃないのか?
自分に嘘をついて誤魔化すのはやめたまえ。
それでも釣りだと言うなら、それはそれで構いはしないが。
>>637 >>とは言え、滝山が相手では我の張り合いで終わりそうな気もするが。
>つ〜かあんた俺に何か含むところでもあるんか?
ひゃっきまると君のやり取りを見ていて単純にそう感じたのだよ。
>>640-641 君の誓願は命を賭ける程に重いと読むべきか?
命を軽率に扱っていると読むべきか?
どちらにせよ、「破ったならば死を」と思えるというのは
余程の考えなしか、無鉄砲なガキかのどちらかという事は解る。
君には守らなければならない家族や、責任というものがないのだろう。
何れにせよ、君の考えは甘い。
自分の祈りを叶えたが、自分の思い描いたものとは違うというだけで
退転している点を見ても、かなりの甘ったれなのは読み取れるがな。
>「我見」というが、おまえの言う「我見」とは何ぞや?
言葉のままだよ。
自分の狭く偏った考え方に固執していると見受けられる。
そのように君のレスを見て言ったまで。
>>643 >彼ら生きた人間を本仏として、
>蓮祖、ゴータマ・ブッダの再来として
>信じられる心が自分にあるかどうかを。
その仏の再来と言われる人物を信じたならば、生き仏として崇めるかもしれぬし
信じられなければ、今の現状を保つのみ。
生きている相手も、過去の人物も信じるには然程大差はない。
生きている相手じゃなければ、自分の目で見、自分の耳で聞き、対話する事はできないが
人は二面性を兼ね備えて生きているからな。
口では奇麗事を連ね、腹では貶す事ができる時点で、信用性は過去の人物と然程の差はないように思うが。
現に、このようにネットという場を媒介して、レスを交わしている相手が実際はどのような人物か等
到底わかるわけもない。
しかし
>>634にて乾闥婆が文字だけの世界のこの場において
「私はどう彼らを批判しても彼らのことが好きなのです。」と言えるのは
何かしら君に感じるものがあるからじゃないのか?
>>643にて君が投げかけている疑問は、身近な場に置き換え考えられる程、単純な内容のように俺は思う。
>>644 日蓮が現代にやってきて学会見てなんじゃこりゃっ!?
て驚くって内容だろ。
読んだことはないが知っている。
ラストはどうなってるんだろうな。
「堕地獄仏法」とやらをたまたま読んだ日蓮がそこに書かれてある
日蓮を見て、「俺こんなんちゃう」とか言って終わる、みたいな
メタメタな展開に俺ならするが。
>>645 乾さん乾さん、とりあえず落ち着いてください。
乾さんは鬱を持ってるということだから、
そう感じられるんでしょうけど、俺は違いますから。
誤解させてしまったようですが、俺には自殺願望はありません。
死にたいと思ってたら、こんなところに書かずに死んでます。
だから安心してください。
>そのような心持を、私はメランコリーであり、
>ナルシズムであると言ったのです
ケルト神話の騎士達はゲッシュ(誓約)という、
命に代えても守るべき約束というものを持っています。
破れば、どのような英雄でも必ず運命的に落命してしまう、
というものですが、俺は中学生の頃からこれが好きなのです。
真実が失われるなら、死んだほうがましだ、という感じでしょうか。
ガンジーのサッティヤーグラハも好きです。
乾さんが何を言ってるのか俺には結局さっぱり意味がわからないです。
>仏教徒として自殺を肯定しますか
仏教徒であれば肯定しなければならないかもしれませんよ。
何故なら経典によれば、ゴータマ・ブッダは認めているようですから。
過去とどめたことを挙げられましたが、
本当は自殺したくないだろうに、自殺願望にとり憑かれている、
と見えたので、俺はそれを取り除く手助けをしただけです。
人情論から言えば自殺なんてとんでもない、となるでしょう。
まぁでも俺はそういうことに対する考えをあらかじめ用意しておくのは
違和感を感じます。そのことで論争することに価値を感じません。
俺はそうした場面に出くわした場合にその人を見てそのつど、
どうするかを選択するだろうと思います。
ただ、俺自身に関しては少なくとも過去自殺したいと思ったことはないし、
これからも思うことはないだろうと思っています。
>蓮祖
勧諫は誓いと関係ないと思いますが。
いわゆる「目標」と「誓い」は別物だと認識しています。
>誓いなど何度でも立てればよい
破ってよい誓いなど誓いとは言いませんよ。
>矛盾
矛盾するからこそ、でしょう。
元々自殺したい人に破ったら自殺、
としても、何の罰にも制約にもなりませんから。
>分らない部分がある、と言います
静的なものと、動的なものはやっぱり全然違いますから。
百聞は一見にしかず、と言います。
あまり乾さん相手に適切であるとは思えない例えですが、
エロ本やAVをいくら見ても、実際の女はわからんのと同じです。
いくら妄想逞しくして、想像しても女を知ることはできません。
乾さんはご自分でも「物語」だと言っているではないですか。
>膨大な経・論を読み、実践し、諸難に遭い、蓮祖
>己心には教主釈尊を見るわけです
ホントにゴータマ・ブッダ本人を知ってたら
あんなことやそんなことは言わないでしょう。
俺は観念の話をしているのではないのです。
>>649 >自分に嘘をついて誤魔化すのはやめたまえ。
>それでも釣りだと言うなら、それはそれで構いはしないが。
まぁ前から、「我慢偏執」だと言われて育ってきてますから。
ただ転居してからは言われなくなったので、
久しぶりに言われて懐かしい感じですな。わはは。
>>637 >ひゃっきまると君のやり取りを見ていて単純にそう感じたのだよ。
いやいや、それならよかったです。
>君の誓願は命を賭ける程に重いと読むべきか?
>命を軽率に扱っていると読むべきか?
誓いを絶対に反古にしたくないから、
反古に絶対できないように追い込むってだけで。
格闘技だって殺す覚悟と殺される覚悟があって
初めてホントにできるもんなんですよ。
俺はいつもそうしてやって、そうできなくなった時に退きました。
信仰だって本来、命賭けなきゃ意味ないと思ってます。
あなただってね、ネットだから偉そうなことが言えるのです。
安全ですからねぇ、俺はあなたに触ることもできない。
現実なら相手に「おまえは盲信だ」とか「お前は退転同然」とか
「信心辞めれば」とか言えば、逆上されて殴られることだってあるし、
命の危険を感じる事だって相手によってはあるんですよ。
気づいてないだけで命はいつもかかってるんです。
ホント、あまり大層に考えなさんな。
いつまでも生きられるなんてただの願望・妄想なんだから。
どの道人間ってのは明日死ぬかもしれん身だ、
いつだってホントは命賭けて人は生きてるんですよ。
>どちらにせよ、「破ったならば死を」と思えるというのは
>余程の考えなしか、無鉄砲なガキかのどちらかという事は解る。
>君には守らなければならない家族や、責任というものがないのだろう。
あぁ、俺は家族もいない天涯孤独の身だって言うんですか。
橋の下で生まれた野郎だって言いたいんですか、酷いもんだねぇ(泣)
>自分の祈りを叶えたが、自分の思い描いたものとは違うというだけで
>退転している点を見ても、かなりの甘ったれなのは読み取れるがな。
まぁ何も知らないで、そういうことを言えるとは。
ネットだから安心し、油断してるんだろうね、
そういうことは相手に殴られる圏内でのみ言ってよし。
覚悟もないのに大層な口きくもんじゃないと思うがね。
>自分の狭く偏った考え方に固執していると見受けられる。
ほんとにそれが身に沁みて重要だと感じているなら、
名無しで書き捨てるような真似はしないと思いますがね。
だって仏も、仏の使いもそんなことしませんから。
>>650 素敵な答えだと思います。ありがとうございます。
>「私はどう彼らを批判しても彼らのことが好きなのです。」と言えるのは
>何かしら君に感じるものがあるからじゃないのか?
人を好きになるのは大抵、誤解からとも言いますよ。
よい誤解はあえて解かないというだけです。
656 :
乾闥婆:2005/11/23(水) 01:49:10 ID:???
>>651-652 滝山さん。
>誤解させてしまったようですが、俺には自殺願望はありません。
それは分っています。そうではなくて「「もういつ死んでもいいかな」「俺はもう死人なの
だな」「死刑囚だな」という心境が非常に強くなっていきました」という感じ方、のことを
言っているのです。また「誓いを破れば死ぬものだと俺は信じていたし、信じたかったの
です」という考え方のことですね。自殺願望などなくても、誓いを破れば死ぬべきだ、と
考えて死ぬのであれば、願望云々と関係なく、単に自殺です。そして滝山さんは自分でも
おっしゃっていますが、死にませんでした。
>真実が失われるなら、死んだほうがましだ、という感じでしょうか。
>仏教徒であれば肯定しなければならないかもしれませんよ。
何故なら経典によれば、ゴータマ・ブッダは認めているようですから。
メランコリー、ナルシズム、といった言葉で伝わらないのであれば、ヒロイズムとでも言
いましょうか。仏教において、身を法にささげる供養は説かれております。焼身供養です
ね。法華経の薬王菩薩品に説かれていますし、その実践者もいます。ベトナムのクアン・
ドゥック師のことはご存知ですか。しかしそういった実践者をヒロイズムであるとは私は
言いません。なぜなら彼らは本当に身を供養するからです。また誓いを破ったから死ぬの
でもありません。誓いを成就するために身を焼くといってもいいでしょう。それらは法の
ために命を捨てる行為です。そうでなければ仏性を信じるものが、無為にその仏性を宿す
命を捨てるようなことは、してはならないのではないでしょうか。「誓いを破れば死ぬ」と
いう死は犬死であり、しかも死なぬのであるならば、それはヒロイズム以外の何者でもな
いのでは、と言っているわけです。
657 :
乾闥婆:2005/11/23(水) 01:49:44 ID:???
(続き)
率直に言って「死ぬまで1時間の唱題を毎日続けるという誓い」を破ったら死ぬべきだ、
という考え方を私はまったく肯定しません。そんなことで死ぬぐらいなら、その命を法の
ためにささげるべきでしょう。だからそのような誓いなら何度でも立てればよい、といっ
たのです。「いわゆる「目標」と「誓い」は別物だと認識しています」と滝山さんが言われ
たとおり、「死ぬまで1時間の唱題を毎日続ける」とは「目標」であり「手段」です。何の
ために滝山さんは「死ぬまで1時間の唱題を毎日続ける」と誓ったのですか? その大元
の誓いを思わずして「手段」の一頓挫に一々命を落としていては、何を成就できるという
のでしょう。「死ぬまで1時間の唱題を毎日続ける」と誓った根本の動機に目を向けるべき
です。そのようなことに目を向けずに「もういつ死んでもいいかな」「俺はもう死人なのだ
な」「死刑囚だな」などとニヒリズムに浸って生き延びているいるようであれば、それは咎
めなければいけない、と私は思ったのです。
滝山さんがどういう経緯の中で自殺願望者をとどめたのかは分りませんが、不軽菩薩の振
る舞いを思い起こしても、「皆菩薩の道を行じて当に作仏することを得」る命を、捨てさせ
なかったということではないのですか? 私は法華経を読まれているであろう滝山さんは、
そのような根本の思いに基づいて、とどめられたのであると考えていました。だからその
同じ原理で考えれば、あなた自身が法への供養以外で命を絶とうと考えたことは、矛盾で
はないか、といったのです。
658 :
乾闥婆:2005/11/23(水) 01:50:22 ID:???
(続き)
>勧諫は誓いと関係ないと思いますが。
関係はあります。国家諫暁は手段ですが、結局は「開目抄」にいう三大誓願へと収斂する
ことでしょう。そのための国家諫暁であったはずです。蓮祖はそのような大きな思いの中
で、国家諫暁の挫折を経ても、死ななかったのではないでしょうか。身延隠棲に対する評
価は種々あるでしょうが、三大誓願を捨てていない蓮祖は死ぬわけにはいかなかったので
しょう。それこそ身を挺して法を訴えてきたのです。命とはそのように使うべきではない
でしょうか。「死ぬまで1時間の唱題を毎日続けるという誓い」を破ったら死ぬべきだ、な
どということを聞いたら、蓮祖は激しく叱ると思いますよ。一遍でさえ尊いというのに。
659 :
乾闥婆:2005/11/23(水) 01:51:15 ID:???
>>653 >百聞は一見にしかず、と言います。
私はそのような言い方を信じておりません。一見しても間違えるものです。むしろ百聞し
て一見することこそ肝要でしょう。しかも一見できないわけです。百聞するしかいないで
しょう。
>乾さんはご自分でも「物語」だと言っているではないですか。
はい。ですから「物語」を大切にしているのです。蓮祖という物語は文献の中にしかあり
ません。
>ホントにゴータマ・ブッダ本人を知ってたら
あんなことやそんなことは言わないでしょう。
俺は観念の話をしているのではないのです。
それは重要なテーマであるわけです。そのことをこの掲示板で何度も語り合ってきたわけ
ですが、滝山さんはそういった方向へ話しが行くことに意味を感じないといわれていたは
ずです。ですので、そのような時間軸に立った仏教学の話をせずに、端的に蓮祖の目に映
った釈尊のことを言ってみたわけですが、それは当に蓮祖の体験であり、観念ではないで
しょう。観心ではありますが。
660 :
乾闥婆:2005/11/23(水) 01:51:50 ID:???
>>655 >人を好きになるのは大抵、誤解からとも言いますよ。
よい誤解はあえて解かないというだけです。
ちょっと違いますね。滝山さんは、ちょっと普通の創価学会員と違うでしょう。こういう
ところに書き込みをするところもね。創価学会の教義上の矛盾とか、知っていてやってる
でしょう。そこに私は引っかかるのだと思います。自分が苦労してやっていることを、こ
の人もやるであろう、そういう道を歩むであろう、という、まあ、観測のようなものです
ね。だから心配であったり、気になったりするのでしょうね。でも、まあ、信仰から完全
に逸脱してしまうのであれば、やっぱり誤解していたということなのでしょう。正直、あ
なたが「ホントにゴータマ・ブッダ本人を知ってたら あんなことやそんなことは言わない
でしょう」と言うとは考えもしませんでした。結構驚いてますよ。そんなことは百も承知
でやってきたくせに、ってね(笑)。
>>648 ひゃっきまるさん。
>おいそがしいようですが、お体に気をつけて無理のない程度でお付き合いください。
お気遣い、ありがとうございます。明日も仕事ですので、お言葉に甘えさせていただいて、
今日はこれで失礼させていただきます。またレスいたします。
>>656 何と言いますか…
乾さん、俺が次に誓いを立てればそれも破るってことを
前提にして話されてますね?いい加減にしてくださいよ。
あなた、未来を予見して俺がどんな誓いを立てるというのか
見えているんですかね?何様ですか、いったい。
それに「死刑囚」という自覚は間違っていませんよ。
実際、死なない人間など、いないわけです。
事故で九死に一生を得た人が、「生」の実感を得るというのは
まま聞く話ですが、それにはまだ及ばないのかもしれないが、
日常性から超えた、そうした自覚からくる「生」の実感。
俺はそれを結局最終的に言ったつもりなんですがね。
>>657 概ねその通りです。
そして咎められる謂れというのはありません。
自殺者云々は要するにまぁ普通なんですよ。
おなかが減ったらご飯を食い、眠くなったら寝て、
遊びたくなったら遊んで、好きな子がいたら愛して、
自殺ほのめかす人がいたら励ますんですよ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
法華経がどーたらだとか仏性がどーたらだとか
んな時に考えてどーすんですか?馬鹿ですか?????????????????????????
ガガガッとしゃべらせ、ガガガガガガガガガしゃべり、
バチチッと火ぃつけるんです!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
調子の悪い湯沸かし器みたいなもんなんですよ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
唱題してたら自然とそーなるんじゃないですかね!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
>あなた自身が法への供養以外で命を絶とうと考えたこと
はぁ?いつ、俺が考えました!!!!!!!!!!!!!!!!????????????????????????????
>蓮祖は激しく叱ると思いますよ
そりゃそうでしょうね、
どんな力が働いてお前を殺すっていうんだって言う。
んなこたわかってるんですよ。
要するに、自分にむかついてただけですから!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
>>659 自分で行動しなきゃ知ることは出来ねーんだよ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
本で解るか!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
>>660 仏のことは仏しかわかんねーんだよ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
だから俺は全然知らないっつってんだ、馬鹿!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
もう2度書かない。さいなら。
人と人は分かりあえない。どうあっても。
だから分かろうと努力する。
せめて「少し」我慢する。
そして最後まで分からなくとも尊重する。
そんな風に振舞うのは難しいが、そういうふうにして人に接したいと思っている。
滝山の本心ではないと思うが、例えその場のノリのようなものであっても、同意できないから、
理解できないから、といって、礼に対して礼を失するのは絶対やってはいけないはずだ。
「無知の知」というのは何も歴史人物や知識に関してのことだけではないと思う。世の中の
あらゆる事に関してそうじゃないかな。分かったつもりにならないことで、人は自然に謙虚
になれると思うよ。それに「分からない」ということは、「分かる努力をしなくていい」ってことじゃない。
ひゃっき、ちがうぞ。
おまえと俺は極論すれば、殴りに行こうと思えば、殴りに行ける。
最悪、殺そうと思えば殺しに行ける、そういう間柄の関係だ。
だからいつでもある種の緊張感があるやりとりとなっているはずだ。
乾闥婆さんははたでそれを見ていて恐らく何か勘違いしたのかもしれない。
言葉上は礼儀正しくても、中身はそうではないという風に明確に感じた。
同意できないからでもなければ理解できないからでもない。
それこそあれは解ってるくせに釣ってきている風だ。
俺の直感はそう言っている(♂には鈍いが)。
要するに、何か普通じゃない。
俺と乾闥婆さんはそういう関係じゃないんだっていう。
とても感覚的なことで、言い表しようがないがな。
おはよぉ御座います<(_ _)>
遊び呆けてたらこんな時間に(汗)。
えーっと、ポッと出の横槍で申し訳ないんですけどね…
ひゃっき君と滝の痴話喧嘩は内々でやった方がいいんじゃないかと…w
文字のやり取りするより早いでしょうしw
>>ひゃっき君
ん〜、『わかりあえない』とか断言したらダメっすよ。
経験の違いや、価値観の違いとか色々あって、全てを理解する事はできなくても
何か知らないけど分かり合える事ってあるよ。
後は付き合いの長さが物を言う d(`・∀・´)
>>滝
乾闥婆さんは、滝のレス見て心配してくれてるだけだと思うのね。
その部分だけは解ってあげた方がいいと思われ。
んでは失礼しましたぁ<(_ _)>
おやすみなさいw
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・痴話?
>>664 直感を根拠に出されたらどうにも言いようがないけれども、それでも乱暴な言い方は慎むべきだったと思うよ。
だいたい「直感」なんてのは、一般的には言葉でうまく言い表せないことを一言で片付けてしまうのにも使われる
単なる便利な言葉だったりするので、それで素晴らしい芸術作品を作るとか素晴らしいアイデアを出すのならともかく、
人のなりや真意を判断する根拠にしてはいけないだろう。
実際そう思ったとしても、何割かはその直感を全面的には信用しないで、逆にその直感の出処を分析した方がいいん
じゃないかな。
乾さんと滝山の話をロムしてて、俺は「ああ、いい話になってるな」と思った。それは、お互いに自分の理や美学をもって
いることがわかって、それがきちんと言葉の応酬で表現できていたから。お互いに理解することは難しいと思ったけれども、
ちゃんと言葉のやりとりとして成立していることに感動したんだ。乾さんに釣る意図なんて微塵も感じなかったよ。
>おまえと俺は極論すれば、殴りに行こうと思えば、殴りに行ける。
>最悪、殺そうと思えば殺しに行ける、そういう間柄の関係だ。
>だからいつでもある種の緊張感があるやりとりとなっているはずだ。
俺はどんなに話が激化しても、絶対に滝山を殴ろうとか殺そうとか思わないよ。そんなことはすごく馬鹿馬鹿しいことだと
思うし。生き方や信念を通すためなら命をかける、というのが滝山の美学だと思う。確かに一時期俺はそういう考え方に
強く共感していたときもあったけど、今はそう思っていない。
でも、「言葉で人を殺すことができる」というのはよく思う。だから俺には、リアルとネットの切実感にはそんなに大差はない。
ネットの方が心の奥深くにまで入りやすいとさえ思っているから。言葉というのは人間が発明した最大の兇器だと思うから、
その扱いには細心の注意が必要だ。
>>665 >何か知らないけど分かり合える事ってあるよ。
ありがとう。分かってますよ。ご心配なく。
滝山さん、おひさ。
なんかいつもの冷静な、滝山さんでないね。
>>654 >信仰だって本来、命賭けなきゃ意味ないと思ってます。
命懸けの信仰と、命を賭ける信仰とでは違う。
君は大切な相手に命を賭けて信仰しろと言えるのか?
俺には言えんね。
>あなただってね、ネットだから偉そうなことが言えるのです。
ネットだから言うなんていう事はない。
現実もネットも俺は俺でしかないから安心したまえ。
>いつまでも生きられるなんてただの願望・妄想なんだから。
人は生まれた限り、かならず死ぬのは当たり前のことだ。
だが責任がある限り、おちおち死んでられんと思うのも現実だ。
君は妻子を残し、そんな事を言えるか?
俺には言えんね。
>あぁ、俺は家族もいない天涯孤独の身だって言うんですか。
>橋の下で生まれた野郎だって言いたいんですか、酷いもんだねぇ(泣)
大根役者みたいだな。
>>566 >覚悟もないのに大層な口きくもんじゃないと思うがね。
「破ったら死」というのは、そんなにも大層な覚悟なのか?
もしくは真実を突かれて殴りかかりたい気持ちを表しているのかな?
>名無しで書き捨てるような真似はしないと思いますがね。
名無しであろうが責任を持ってレスを返しているじゃないか。
匿名板である限り嫌味を言われても乗る気はない。
>素敵な答えだと思います。ありがとうございます。
言いたい事が通じたならよかった。
>人を好きになるのは大抵、誤解からとも言いますよ。
>よい誤解はあえて解かないというだけです。
君はへそ曲がりだな。
>>661-662 君のレスの中で一番解りやすいレスだな。
初めからそのようにシンプルに書いたなら俺も君にレスする事は無かっただろう。
>>665 d(`・∀・´d)
いや、痴話じゃないからw
心配?…ちがうと思うんだけど。とりあえず…早く寝れw
>>667 ひゃっき
>その直感を全面的には信用しないで、逆にその直感の出処を分析した方がいい
宿無しの直感に宿を与えることが「言葉を使う」だと思う。
これは本来ほぼ同時だけど、前回はベッドメイクまだ間に合わなかった。
だから「直感」という簡易な「宿」でとりあえず済ませた、というわけ。
>乾さんに釣る意図なんて微塵も感じなかったよ。
うむ、これ以上この件について、当人以外と話すのは止めておくことにする。
>そんなことはすごく馬鹿馬鹿しいこと
信仰の話はそれぐらいの覚悟を、ということ。趣味じゃないんだから。
>言葉で人を殺すことができる
ふふふ・・・少なくともそんなもので俺を殺すのは100%無理な話だぞ。
ただ、他人もそうとは限らんので、他人を殺すことは可能なのかもしれない。
>リアルとネットの切実感にはそんなに大差はない
ネット上の匿名の関係は、どれほど無神経なことを言っても
自分の身が害される恐れはないからやっぱり違うと思う。
それは特別、勇気を必要としないし、緊迫感にどうにも欠ける。
これを「切実感」と呼ぶのは別に悪くないかもしれないが、
それはリアルでの切実感とはまた違う、特有の別物であるだろう。
>>669 ども、お久しぶりです。わりと冷静ですよ、中の人は。
11/24
>君は大切な相手に命を賭けて信仰しろと言えるのか?
言うも言わぬも「南無」ってそういう意味じゃん。
>現実もネットも俺は俺でしかないから安心したまえ。
初対面の人に「こんばんは〜」の代わりに「我見だな〜」って言うのか。
…あんたとは友達になりたくねぇ。
>君は妻子を残し、そんな事を言えるか?
だから人は保険に入るんだよ。
だから隣のおばちゃんは保険のおばちゃんになるんだよ。
>大根役者みたいだな。
ちがうな、これ文章だから大根脚本家って言うのが正解だ。
>「破ったら死」というのは、そんなにも大層な覚悟なのか?
違う、違う。「退転してる」なんて言葉を簡単に
ネットで使うんじゃ〜ないってことを言ってるんだ。
>名無しであろうが責任を持ってレスを返しているじゃないか。
そうだったねぇ、あんたは偉い!
>君はへそ曲がりだな。
違う、根性が曲がってるんだ。へそじゃない。
>君のレスの中で一番解りやすいレスだな。
要するに「日蓮って」…「ご本尊書いた人だよ」ってことでこのスレ終わりってことだ。
>>666ひゃっき君
>>672滝
別に『ホモ達の仲』なんて思ってないから大丈夫よw
痴話喧嘩や夫婦喧嘩みたいに、犬も食わない…
所謂、友達同士の喧嘩に周囲がまざると、ややっこしくなったり、話が脱線して
変な方向に向かってしまったりするから『内々でやった方がいいんじゃないか?』とw
それに、ココは一応公の場だしね。
言葉足らずでゴメンナサイw
単なる横槍なので、これにて失礼します<(_ _)>
>>乾さん
俺が日蓮に対し「全然知らない人」だと言った事に対し、
乾さんは「信仰から逸脱した」という評価を下されましたが、
それはまったく間違った見解だと思いました。
何故ならば、私の信仰はそもそも日蓮という名も知らぬ時点から
既に始まっているものであるからです。
御本尊を書いた人が誰であるか、何者であるか知らなくても、
信仰というものは全く問題なく成立してきている事実があります。
だから、仮にあなたの言う「知っている」を認めたとして、
俺が日蓮やゴータマに対し「全然知らない人」と言ったとしても、
「(日蓮が)ホントにゴータマ・ブッダ本人を知ってたら
あんなことやそんなことは言わないでしょう。」と言ったとしても、
信仰が逸脱したことにはならないのです。
何も知らない子供でもできるのが信仰というもの。
そんなことは子供でもわかっていることのはずです。
だから俺は言ったのです、子供でもわかる行動に真髄がある、と。
俺は動物だって信仰心があるんじゃないかと思っているぐらいです。
学術的に見るなら、反証可能という態度を捨てることは許されません。
どんなに説得力があっても「有力な仮説」の域を出ることは有り得ません。
要するに学術的に見るなら、わかることは永遠にありません。
宗教的に見るなら、仏のことは仏にしかわかりません。
要するに宗教的に見ても、凡夫には永遠にわからないということです。
俺は修行者という立場を捨てて語る蛮勇など持ち合わせていないのです。
俺はそうした分からないことは分からなくてよいことだと思っています。
宇宙の始まりや終わりを分からなくてもよいのと同じことです。
分かろうとしなくていいことと、分からなければいけないことを
分別して分かることが真実、本当の賢さであろうと思います。
人の命は短く、現実的向上を求めるならば戯論に関わる余裕などありません。
実践哲学的な事柄について探求するのは大変よいことだと考えますが
分からなくていい分野を分かろうとする、それに価値がある
というのは学者と趣味人の特殊な言い分ではないでしょうか。
日蓮のことを「大変勇気のある人」「民衆のことを深く想っていた人」
等と言う人はいるでしょう、しかしそれは日蓮のことを知っていて
言うのではなくて、その人が言いたいから言うっていうそれだけのことです。
何か物的根拠があってもそんなものでしょう。それは所詮経験を離れたイメージです。
だから組織が教える「五時八教」や「五重の相対」に対しても、
あなた方と俺では随分まぁ受け止め方というものが違ったというわけです。
観心に対しては、その信心と実践の深さを認めるというに止めたい。
まさに仏と仏のみぞ知るという事柄であり、それは他人が議論するために
ある事柄であるなどとは認められません、そもそも不躾です。
また、俺は「祈りが叶った」と書いたのであり、「叶わなかった」とは書いていません。
つまり俺は、題目を認めているということであります。
ゆえに「退転」「信仰を逸脱」という見解は間違っています。
不信とは「当時の俺」の話です、ちゃんとそういう風に書いています。
日蓮やゴータマに対して「全然知らない人」だとか「あんなことやそんなことは
言わないでしょう」と書き、会や教義に対する積極的擁護論的立場を放棄し、
活動もしていないと書いてはいても、会にも教義にも日蓮にもゴータマに対しても
批判していません。唱題してないともただの一言も書いておりません。
観心は別として、日蓮とゴータマは時代も国も違うわけですから、
「本人を知らない」と書いたところで、一体どこが間違いであったり
批判であったりするというのですか?常識を疑いたくなります。
結局「日蓮=御本尊書いた人」で現実的にみて、生活上何ら困ることはありません。
乾さん、俺に自殺願望がないと知り、次の俺の誓いの内容を知らないならば、
(俺もまだ知りませんが)何故これ以上の余計な水掛論争をする必要があるでしょうか、
あなたや名無しのオッサンが言ってることは言われるまでもなく弁えていることです。
「全然知らない人」に対するあなたの批判についても前回と今回で
十分に答えを尽くせたと思います。これ以上いったい何かあるでしょうか?
おかげ様で俺は最近これが気にかかって仕事があるのに眠れず今日も徹夜です、
昨日は結局、ストレスから二十四時間何も飲食しませんでした。
何もなければ終わりにしたいと思いますがいかがですか。
679 :
乾闥婆:2005/11/24(木) 11:12:38 ID:???
>>678 滝山さん。
>おかげ様で俺は最近これが気にかかって仕事があるのに眠れず今日も徹夜です、
昨日は結局、ストレスから二十四時間何も飲食しませんでした。
インターバルをおきます。まず滝山さんの生活状況を立て直してください。コンディショ
ンが悪いまま掲示板に書き込みを続けることはメリットがありません。
それともう一つ、私ははじめに申し上げたとおり、滝山さん自身に私と話す意志がないの
であれば、終了します。意志がおありでしたら、続けましょう。コンディションがよくな
ってから、再度、その旨、投稿ください。レスを続けます。
>>675 >それに、ココは一応公の場だしね。
そのことに関しては大変申し訳なく思っています。すみません。
>>672 >宿無しの直感に宿を与えることが「言葉を使う」だと思う。
>これは本来ほぼ同時だけど、前回はベッドメイクまだ間に合わなかった。
>だから「直感」という簡易な「宿」でとりあえず済ませた、というわけ。
言いたかったのは、他人の人間性について我見で断定するな、ってことと、礼儀は守りましょう、ということだよ。
>ふふふ・・・少なくともそんなもので俺を殺すのは100%無理な話だぞ。
>ただ、他人もそうとは限らんので、他人を殺すことは可能なのかもしれない。
滝山はここ数日ずいぶん言葉で苦しんでいるようだが・・・?
ところで本当に言葉で死ぬ人というのは、最終的には自分の言葉に殺される場合が多い気がする。
ところで一つ気になることが。
>>662 >もう2度書かない。さいなら。
滝山以外の人が書いたことなら別段気にも留めないが、少し気になった。
どういうつもりでこの言葉を言ったの?
>>677 横レスだけど、話の本題と全く関係ないので無視してよいです。
>宇宙の始まりや終わりを分からなくてもよいのと同じことです。
>分かろうとしなくていいことと、分からなければいけないことを
>分別して分かることが真実、本当の賢さであろうと思います。
全くもって「もっとも」で、信仰として100%正しいと思うのだけど、俺は「宇宙の始まりや終わり」、
なんかを考えることがこよなく好きで、それは俺の信仰心と決して無縁ではないのだよね。
この辺は価値観の違いとしかいいようがないけど。
>>673 >言うも言わぬも「南無」ってそういう意味じゃん。
南無は帰依するという意味だからな。
でも君は
>>640で 誓った際に「破ったならば死をということを と言っていたね?
それは誓願でもなければ、帰依という意味でもない。
ただ
>>662で書いた事が本音ならば、これ以上は君にこの事で追求する事はやめよう。
>…あんたとは友達になりたくねぇ。
そうか。それは残念だ。
>だから人は保険に入るんだよ。
保険に加入すればそれで済むという事はないだろう。
妻子が生活していく上で、保険だけで補う事ができるとは到底思わない。
また保険だけで食べて行けるようにと何億という保険に加入した場合
月々の支払額を想定したことがあるか?
残念ながら安いものではないため小遣い制の俺には厳しい。
>ネットで使うんじゃ〜ないってことを言ってるんだ。
そうか。了承したが君は退転しているわけじゃないのだな?
それならそうと初めから素直に言えばいい。
しかしながら、君は根性が曲がっているらしいから仕方の無いことなのかもしれぬな。
>要するに「日蓮って」…「ご本尊書いた人だよ」ってことでこのスレ終わりってことだ。
君の中でそのように整理がついているならそれでいいじゃないか。
他人に同意を求めるようにレスを続けている時点で、君の中で終わっているとは思えないが?
本当に終わるという気持ちがあるのなら書きこまないことだな。
683 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2005/11/24(木) 23:57:50 ID:4Q6MJhI4
な、なんじゃあれはーっ! 指一本触れてもいないのに滝山が苦しみだしたぞーっ!
ま、まさかあれは・・・
ぬう、知っているのか雷電!?
ああ、あれこそは「ひたすら丁寧に矛盾つつき」の技・・・、まさか乾闥婆がその使い手とは・・・
相手が傲慢であればあるほど効果を発揮する恐ろしき技よ。
これを喰らった相手はレスせずにいられず、最終的には衰弱し死に至るという・・・
た、滝山ーっ! 今すぐレスをやめるんじゃーっ!
言葉で殺すってこんな感じでつか
乾闥婆のレスって、ほんと完璧だよな?
いつも「すげ〜な」と思って読んでるけど、今回は特にね。
滝山=自己愛性人格障害 晒しage
>>679 乾闥婆さん
ま、冗談なので続行してください。ただ速度は落とします。
>>680 ひゃっき
>滝山はここ数日ずいぶん言葉で苦しんでいるようだが・・・?
苦しんではいない、不快なだけ。不快感の伝達信号を発しただけ。
>最終的には自分の言葉に殺される
たぶんその通り。
>どういうつもりでこの言葉を言ったの?
なんとなく、あきまん。
>>681 自然や宇宙に対する畏敬や考察が信仰と関連するのはまぁ普通のこと。
>>682 >そうか。それは残念だ。
冗談ですよ。
>月々の支払額を想定したことがあるか?
なるほど、想定の範囲外でした。
>君は根性が曲がっているらしいから仕方の無いことなのかもしれぬな。
本来ならば、言う必要などないことですから。
>他人に同意を求めるようにレスを続けている
否、信を認め我が信を説示し、ただ沈黙を求めるのみ。
>>683 男塾?
>>685 >>1を参照すれ。
>>675 すまんのぅ。
もう終わったから大丈夫。
>>686 >苦しんではいない、不快なだけ。不快感の伝達信号を発しただけ。
ストレートに伝えた方が伝わると思うよ。
文章考えたり書いたりするの大変だろうに・・・。
>>688 根性もへそも曲がってるから、あとナニも。
>>乾闥婆さん
おさらいをして見ます。
>メランコリー
医者や学者が便宜上つけた単なる名称に過ぎません。
うつ病などの病気に発展するなどした場合に問題とすべきことです。
>当の宗祖や釈尊を「全然知らない人達」などと言うべきではない
組織と私の彼らに対する見解は異なります。
その見解の違いによって、現場では争いが生じます。
しかし「全然知らない人達」という共通見解を導入することで
基本的には争いが沈静化する方向に向かっていきます。
>私はメランコリーであり、ナルシズムであると言ったのです
いえ、素朴な言霊信仰といったようなものです。
>それを私は信仰者、求道者の姿として認めません
乾さんに他人の信仰を云々する資格は、客観的に見て全く認められません。
>我々は、諸文献から知り、そして感じ、信仰に至るのでしょう。
あなたはそうかもしれませんが、私は違います。
>その仮定にはほぼ意味がありません。そのようなことは起こらないからです
思考実験のようなものです。
あなたのように実験そのものを拒否するのも類型の一つでしょう。
>仏教において、身を法にささげる供養は説かれております
ゴータマが自殺を認めているという私の見解に対し、
「焼身供養」の例をあなたは提出されましたが、
「法に対する供養」とは全く違う例も経典中には存在します。
>百聞して一見することこそ肝要
百聞して一見しても間違えることは多いでしょう。
>ちょっと普通の創価学会員と違うでしょう
普通の創価学会員という人を、私は未だに見たことがありません。
>創価学会の教義上の矛盾とか、知っていてやってるでしょう
具体的に述べてください。
>この人もやるであろう、そういう道を歩むであろう
妄想です?
>信仰から完全に逸脱してしまうのであれば、やっぱり誤解していた
あなたは仏だったのですか?
692 :
乾闥婆:2005/11/26(土) 02:09:26 ID:???
>>686 滝山さん。
>ま、冗談なので続行してください。ただ速度は落とします。
では、私と話をする意志があると受け止め、続けさせてもらいます。しかし冗談は止めて
ください。私はまじめに話をしたい。まあ、どちらにしろ無理はなさらないでください。
私も忙しいので、それほど早いレスは返せないでしょうから。
693 :
乾闥婆:2005/11/26(土) 02:10:58 ID:???
>>661 >乾さん、俺が次に誓いを立てればそれも破るってことを前提にして話されてますね?
いいえ。そんなことは言っておりません。
>あなた、未来を予見して俺がどんな誓いを立てるというのか見えているんですかね?
そんなことは一度も言っておりません。滝山さんがどんな誓いを未来に立てるか、どうし
て私に見えるのでしょうか。なぜそのような質問が私になされたのか分りません。
>何様ですか、いったい。
私はあなたのことを同志であると思っています。
>それに「死刑囚」という自覚は間違っていませんよ。 実際、死なない人間など、いないわけです。
そうです。あなたがそのような自覚に立っていることは間違いないのでしょう。だから私
はあなたのそのような態度を批判したのです。「もういつ死んでもいいかな」「俺はもう死
人なのだな」「死刑囚だな」と思いながら生きている人間に、私は甘えを感じます。私自身
がそのように感じながら生きている時期がありましたし、今でもそのような認識が私を襲
うことがあるから言うのです。
>日常性から超えた、そうした自覚からくる「生」の実感。
俺はそれを結局最終的に言ったつもりなんですがね。
「もういつ死んでもいいかな」「俺はもう死人なのだな」「死刑囚だな」といった認識を持
つことが「日常性から超えた、そうした自覚からくる「生」の実感」でありえましょうか。
日常性に打ちのめされた、むしろ「生」の喪失ですらあるのではないのですか。「もういつ
死んでもいいかな」「俺はもう死人なのだな」「死刑囚だな」といった発言に、私は「生」
の実感などというポジティブな認識を見出すことができません。他の方々には「生」の実
感といえるようなものが、このような発言から汲み取れるのでしょうか。
694 :
乾闥婆:2005/11/26(土) 02:11:35 ID:???
>概ねその通りです。そして咎められる謂れというのはありません。
いいえ、同志として咎めさせていただきます。
>おなかが減ったらご飯を食い、眠くなったら寝て、
遊びたくなったら遊んで、好きな子がいたら愛して、
自殺ほのめかす人がいたら励ますんですよ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
法華経がどーたらだとか仏性がどーたらだとか
んな時に考えてどーすんですか?馬鹿ですか?????????????????????????
ガガガッとしゃべらせ、ガガガガガガガガガしゃべり、
バチチッと火ぃつけるんです!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
調子の悪い湯沸かし器みたいなもんなんですよ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
唱題してたら自然とそーなるんじゃないですかね!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
あなたはそのような態度でその自殺願望を持つ者の自殺をとどめたのですか。調子の悪い
湯沸かし器のように扱ったということですか。唱題をしていると、そんな無神経な振る舞
いに自然と及ぶというのですか。私がもしそのようなことをされたら自殺しますね。あな
たを殺して自分も死にますよ。法華経や仏性を信仰しながら、そのことが身についていな
いから、大事なときに思い出せないのでしょうか。このレスには正直悲しくなりました。
695 :
乾闥婆:2005/11/26(土) 02:13:00 ID:???
>>662 >はぁ?いつ、俺が考えました!!!!!!!!!!!!!!!!????????????????????????????
「誓いを破れば死ぬものだと俺は信じていたし、信じたかったのです」。そしてその誓いと
は「死ぬまで1時間の唱題を毎日続けるという誓い」、しかしそれは方法であり手段である
と話は進みましたね。私はそのような一手段の挫折に命を捨てると考えてはいけないと言
ったのです。その流れの中で、私は「あなた自身が法への供養以外で命を絶とうと考えた」
と言ったわけです。命を懸けるべきはその方法や手段を通して求められるべきものであり、
それを私は「法への供養」と呼んだのでした。ですので、私はあなたにこのように問うた
わけです、何のために滝山さんは「死ぬまで1時間の唱題を毎日続ける」と誓ったのです
か? と。
>要するに、自分にむかついてただけですから!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
自分にむかつくことはよくあることです。しかしそれでも心を平静に保つべきでしょう。
「誓いを破れば死ぬものだと俺は信じていたし、信じたかったのです」と、そのようなむ
かつきにまかせて軽々しく言うものではありません。
>自分で行動しなきゃ知ることは出来ねーんだよ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
本で解るか!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
両方必要でしょう。信行学、ではありませんか。御書根本ではなかったのですか?
696 :
乾闥婆:2005/11/26(土) 02:13:37 ID:???
>仏のことは仏しかわかんねーんだよ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
だから俺は全然知らないっつってんだ、馬鹿!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
そのような論法は誰にでも当てはまるのです。例えば私のことは私にしか分らない、滝山
さんのことは滝山さんにしか分らない、ひゃっきまるさんのことはひゃっきまるさんにし
か分らない。そしてそのような論法にはなんら意味がないわけです。そうであるなら誰と
も何事も会話を交わす必要はなくなりますからね。
>もう2度書かない。さいなら。
そして滝山さんはまだ書いています。滝山さんのことは滝山さんにしか分らない、私のこ
とは私にしか分らない、であったならば、「もう2度書かない」は正解です。でもあなたは
書くわけです。それは分かり合いたい衝動が心の中にあるからなのではないでしょうか。
697 :
乾闥婆:2005/11/26(土) 02:15:15 ID:???
>>664 >乾闥婆さんははたでそれを見ていて恐らく何か勘違いしたのかもしれない。
どのような勘違いを私はしているのでしょうか。具体的に書いてください。
>言葉上は礼儀正しくても、中身はそうではないという風に明確に感じた。
私は礼儀正しくあなたを批判しているのです。礼儀正しい言葉を使っているから批判を含
まない、などということはありません。私は滝山さんがかつてこちらに熱心に書き込みを
している姿を知っております。電波男さんに食ってかかっていたころの、あなたの姿を知
っております。そのころの高い矜持を持った滝山さんと比べて、私は今のあなたの発言や
その発言態度に、何か荒んだものを感じています。それを悲しく思い、心配もして、この
ように話をさせてもらっているのです。もちろんそのような私の感情をうざったいと思い、
止めてくれというのでしたら止めます。ですので私は滝山さんの意志を確認したわけです。
私と話をする気があるのか、と。
>同意できないからでもなければ理解できないからでもない。
それこそあれは解ってるくせに釣ってきている風だ。
釣る、とは何でしょうか。釣る、というのは私に何かメリットがあることなのでしょうか。
私とあなたの関係において私があなたを釣るということがどういうことなのか、よく分か
りませんのでお教えください。
698 :
乾闥婆:2005/11/26(土) 02:16:55 ID:???
>>676 >俺が日蓮に対し「全然知らない人」だと言った事に対し、
乾さんは「信仰から逸脱した」という評価を下されましたが、
それはまったく間違った見解だと思いました。
私が言う信仰とは顔も形もある信仰です。日蓮仏法、法華経、釈尊、といった固有の宗教
に対する信仰を、信仰といっています。
699 :
乾闥婆:2005/11/26(土) 02:17:24 ID:???
>何故ならば、私の信仰はそもそも日蓮という名も知らぬ時点から
既に始まっているものであるからです。
御本尊を書いた人が誰であるか、何者であるか知らなくても、
信仰というものは全く問題なく成立してきている事実があります。
だから、仮にあなたの言う「知っている」を認めたとして、
俺が日蓮やゴータマに対し「全然知らない人」と言ったとしても、
「(日蓮が)ホントにゴータマ・ブッダ本人を知ってたら
あんなことやそんなことは言わないでしょう。」と言ったとしても、
信仰が逸脱したことにはならないのです。
それでは鰯の頭でもいいことになってしまいませんか。私が信仰しているのは日蓮仏法で
あり、曼荼羅であり、唱題行です。そのほかの何者でもありません。そして、それらには
長い歴史があります。その歴史をたどるべき文献もあります。私にしろ、ひゃっきまるさ
んにしろ、蓮祖をさらに遡り、インドに始まる仏教史を学んだことで、創価学会の信仰に
距離をとった、という経緯もあるわけです。つまり、私たち二世にとっては滝山さんと同
じように「私の信仰はそもそも日蓮という名も知らぬ時点から既に始まっている」と言い
得ますが、その後に信仰を失う条件は簡単に整うわけです。逆に信仰をそのような歴史性
や固有性から切り離してしまえば、先に言いましたとおり、鰯の頭でもよくなってしまい
ます。「全然知らない人」と言い切ることは、確かに信仰の確保には役立つでしょう。それ
は目隠しをされ、ただ信じろ、といわれているに等しいわけです。しかし普通の言語活動
をしていれば、自分の生まれ育った信仰について感心を持つのは自然なことでありますし、
それを学んでいくことも当然でしょう。つまり否が応でも知ってしまうのです。知った上
で、なおかつ、信仰を保ち続けられるのか、そのことを私はずっと問うていたわけであり、
「全然知らない人」と言い切る滝山さんに、私は不誠実な作為を感じるのです。知ってい
るくせに、と。事実からの、逃げ、とでも申しましょうか。私はそのような態度に対して、
滝山さんが、いずれ日蓮仏法から逸脱するのではないだろうか、と述べたのでした。
700 :
乾闥婆:2005/11/26(土) 02:17:54 ID:???
>何も知らない子供でもできるのが信仰というもの。
そんなことは子供でもわかっていることのはずです。
だから俺は言ったのです、子供でもわかる行動に真髄がある、と。
俺は動物だって信仰心があるんじゃないかと思っているぐらいです。
子供だましの宗教ということだってありえるのです。この世の中は。オウムのような宗教
でも、強い力を持ってしまうわけですから。
>要するに学術的に見るなら、わかることは永遠にありません。
宗教的に見るなら、仏のことは仏にしかわかりません。
要するに宗教的に見ても、凡夫には永遠にわからないということです。
俺は修行者という立場を捨てて語る蛮勇など持ち合わせていないのです。
学術的な視点を持ったからといって、修行者という立場を捨てるわけではありません。ど
ちらも必要である、と思っています。一点気になる発言があります。「宗教的に見るなら、
仏のことは仏にしかわかりません。要するに宗教的に見ても、凡夫には永遠にわからない
ということです」とは成仏の否定でしょうか。滝山さんは現在そのような認識に至ってい
るのでしょうか。
701 :
乾闥婆:2005/11/26(土) 02:18:45 ID:???
>>677 >分かろうとしなくていいことと、分からなければいけないことを
分別して分かることが真実、本当の賢さであろうと思います。
そうですね。無記とはまさにそのような態度であると思います。
>分からなくていい分野を分かろうとする、それに価値がある
というのは学者と趣味人の特殊な言い分ではないでしょうか。
どちらかといいますと、私は歴史など分かる範囲では分かっていなければならないと思っ
ています。それは事実上の信仰に影響を与えます。蓮祖の教学や天台教学は、インド仏教
からの長い伝播の過程を経て変化していることなど、分かっていることなのですから、そ
こから目を逸らすべきではない、それは趣味の問題ではない、と考えています。
>日蓮のことを「大変勇気のある人」「民衆のことを深く想っていた人」
等と言う人はいるでしょう、しかしそれは日蓮のことを知っていて
言うのではなくて、その人が言いたいから言うっていうそれだけのことです。
何か物的根拠があってもそんなものでしょう。それは所詮経験を離れたイメージです。
人間の生きた振る舞いに対する評価は、時代や評価する層によっても変わるのでしょう。
しかし人がその振る舞いを評価するときに用いる尺度は、基本的には自身の経験則ではな
いでしょうか。結局振る舞いに対しては物的証拠を持ち出して語ることはできません。そ
れらは価値判断に属する事柄だからです。そしてある種の価値判断が大勢を占めたときに
その人物に対するひとつの評価が成り立つのです。そういうものです。かつてもこのこと
は語ってきたことですが、事実判断と価値判断は混同してはなりません。
702 :
乾闥婆:2005/11/26(土) 03:11:09 ID:???
>だから組織が教える「五時八教」や「五重の相対」に対しても、
あなた方と俺では随分まぁ受け止め方というものが違ったというわけです。
このことはまさに一つの価値判断基準として捉えるのであれば、私は肯定するところです。
事実判断としたときに、私やひゃっきまるさんは強く反発することでしょう。それだけの
違いではないでしょうか。
>観心に対しては、その信心と実践の深さを認めるというに止めたい。
まさに仏と仏のみぞ知るという事柄であり、それは他人が議論するために
ある事柄であるなどとは認められません、そもそも不躾です。
観心に関して私は特にいま議論をするつもりはありません。蓮祖がまさに法華経を身で読
む経験の中で、己心に仏を見たということであり、私も唱題行とはこの己心の見仏にある
と思っています。それぞれが唱題行に励めばよいことでしょう。しかしこの見仏を私は「知
る」と呼ぶでしょう。四仏知見の開示悟入です。「衆生をして仏知見を開かしめ清浄なるこ
とを得せしめんと欲するが故に、世に出現したもう。衆生をして仏知見を示さんと欲する
が故に、世に出現したもう。衆生をして仏知見を悟らせめんと欲するが故に、世に出現し
たもう。衆生をして仏知見の道に入らしめんと欲するが故に、世に出現したもう」です。
703 :
乾闥婆:2005/11/26(土) 03:12:03 ID:???
>また、俺は「祈りが叶った」と書いたのであり、「叶わなかった」とは書いていません。
つまり俺は、題目を認めているということであります。
ゆえに「退転」「信仰を逸脱」という見解は間違っています。
蓮祖を、釈尊を求めていないのだ、と読めたのです。あなたにおける題目とは別に鰯の頭でもよいのだな、と思った次第です。
>観心は別として、日蓮とゴータマは時代も国も違うわけですから、
「本人を知らない」と書いたところで、一体どこが間違いであったり
批判であったりするというのですか?常識を疑いたくなります。
そんなに私は非常識なことを言っているのでしょうか。私は教学を学びえる立場にいなが
ら、「全然知らない人」と言い切る滝山さんに、知りうることに向き合おうとしない不誠実
な態度を感じたのです。御書根本でも、信行学の実践でもないのだな、とあなたに対して
残念に思ったのでした。
704 :
乾闥婆:2005/11/26(土) 03:12:44 ID:???
>>690 >しかし「全然知らない人達」という共通見解を導入することで
基本的には争いが沈静化する方向に向かっていきます。
人により、でしょうね。現に私とは争いが生じているわけですから。
>いえ、素朴な言霊信仰といったようなものです。
「もういつ死んでもいいかな」「俺はもう死人なのだな」「死刑囚だな」のどこが言霊信仰
なのですか。自己満足の自己陶酔のどこが言霊信仰なのですか。よく分からないので説明
をしてください。
>乾さんに他人の信仰を云々する資格は、客観的に見て全く認められません。
他人の信仰を云々する資格とは客観的に言ってどのようなものなのでしょうか。
>あなたはそうかもしれませんが、私は違います。
そのようですね。御書根本は捨てられたのでしょう。学会の指針からもそれているわけで
すね。
>思考実験のようなものです。
あなたのように実験そのものを拒否するのも類型の一つでしょう。
なるほど。
705 :
乾闥婆:2005/11/26(土) 03:13:19 ID:???
>>691 >「法に対する供養」とは全く違う例も経典中には存在します。
なるほど、それは知りませんでした。
>百聞して一見しても間違えることは多いでしょう。
異議はありません。
>普通の創価学会員という人を、私は未だに見たことがありません。
なるほど、それは言いえて妙ですね。
>具体的に述べてください。
本当ですか? そんなことは何年も前に散々やってきたではないですか。天台五時がどう
のとか、無量義経がどうだとか、結構うんざりする話ですよ。
>妄想です?
どうやら、そのようですね。
>あなたは仏だったのですか?
そうなのですか? 気づきませんでした。
>乾さん
深夜までお疲れ様です。
実際のところ、乾さんの書き込みは読んでいて大変面白くまた勉強になります。
しかし、ここまでの力作であれば本当にお体の事が心配になってきてしまいました。
乾さんとしては放っておくわけにはいかないということで書き込みを続けているのだと思いますが、
重ね重ね、どうか無理をなさらないようにお願いします。
>>602 乾さん
遅レスですが・・・。
>似たような経緯を私も経てはいますが、私はそれほど悲壮な思いは抱いていないんですね。
>自分の判断にはむしろ信頼を置いています。懐疑主義という言い方も用いません。いうな
>れば縁起主義とでも言いましょうか。そのような世界の捉え方こそ、「諸法の実相」を如実
>に見ることなのだと、信じています。
そうですね。乾さんの話は、常に縁起主義を軸にして話が展開されていて、ブレがないように思います。
ブレがないということは自己矛盾がないということでもあり、精神衛生上も大変よいのでしょう。
懐疑主義という言葉を
>>583ではネガティブなニュアンスで使いましたが、僕はポジティブに捉えている
こともあります。疑問を持って決定を出さないということは、言い換えれば好奇心を持ち続け探求し続け
るということでもありますから。
また、自分の過去の行動、発言、考えなどを撤回するというのは、社会的責任を負った立場では特に
非常に勇気がいることが多いのですが、心の底にこのような懐疑主義があるからなのか、それに踏み
切りやすいという事があります。過去を否定することは自己否定にはならないからです。
自己矛盾ということで言うと、矛盾を抱え続けてあらゆることに問いを続け揺れながら生きるのが結局
僕らしいのかな、と思っています。
あまり関係ないのかも知れませんが、僕は朝起きるとき、夢から徐々に目が覚める過程で、自分と自分
で会話しているのです。大体2、3人でになっていて、急に起きたのでなければ必ず毎朝そうなります。
人格が違う人達というわけでなく全て同じ性格なのです・・・。少し不思議ですが、僕の性質をよく象徴して
いる気がします。
>>602 乾さん
>私の場合、自分の意志に基づいて選択した「真実」に対しては責任を負おうという、情熱
>のようなものはあります。
なんとなくわかるように思います。僕の場合は、僕の中での「物語」というのをなんとか外に出せるように
形にし、表現にして伝えたい、という使命感のようなものがあります。そのために生まれてきたのだ、と
思うこともあるくらいです・・・。
>>692 >まあ、どちらにしろ無理はなさらないでください。
お気遣いありがとうございます。
>>693 >私はあなたのことを同志であると思っています。
はて、あなたは何か志をお持ちだったんですか?
>「もういつ死んでもいいかな」「俺はもう死人なのだな」
>「死刑囚だな」と思いながら生きている人間に、私は甘えを感じます。
まぁ私もそう思いますね、で、それはいったい何時の話なんですか?
>>694 あなたが自殺をしようとしまいと、あなたと彼は違いますから問題ありません。
また、ここで何を書いても書かなくても彼が死ぬことはありませんから問題ありません。
あなたが信じるのも信じないのも全くの自由です。
>>695 ところで私は法への供養ということでの自殺ですら、する気が全く起こりません。
>両方必要でしょう。信行学、ではありませんか。御書根本ではなかったのですか?
ほう・・・ではあなた御自身、弘教は?大願は?弘教は最近いつされました?
私は口だけの人間が何を言おうと信用しません。
>>696 >そのような論法は誰にでも当てはまるのです
一般論で言えば、苦労していない人は苦労している人の苦労を解らないということです。
あなたの言っていることは似ているようで異なることです。
>それは分かり合いたい衝動が心の中にあるから
いえ、猫が猫じゃらしをひっかくのと似た衝動があるのみです。
>どのような勘違いを私はしているのでしょうか。具体的に書いてください。
私と何か「親しい」と勘違いなされているご様子に見受けられました。
>>697 当時の私は「学会」という看板を背負ったつもりでここに書いていました。
今はその看板を背負っていないから、荒んだものを感じるのではありませんか。
悲しくなるならば、あなたが看板を背負って書けばよいだけのこと、
姜子さんや牛車さんならばともかく、あなたから心配される謂れがありません。
>釣る、というのは私に何かメリットがあることなのでしょうか。
知りません、ただ私はあなたを信用していないということです。
>>698 >日蓮仏法、法華経、釈尊、といった固有の宗教に対する信仰を、信仰といっています。
私とは考え方が違うようです。
私にとっては、その人が信仰しているといえばそれが信仰です。
>>699-700 >それでは鰯の頭でもいいことになってしまいませんか
これは大いに笑えます、いや、悲しむべきお答えです。
鰯の頭を信じたことも信じる気もありませんから私には比較はできませんが、
そうおっしゃられるなら是非自分で実験してみてください。
日蓮のことは「知りません」が、唱題には厳然として功徳があることを
私は「知っています」から、そうはならないんじゃないかと私は思います。
あなたは肝心のことをまるでご存じないようです。
>インドに始まる仏教史を学んだことで、創価学会の信仰に
>距離をとった、という経緯もあるわけです
それははっきり言って、単に学びが浅いというだけのことでしょう。
ゴータマのこともろくに調べずにどうしてそうした結論になるのですか。
私も仏教史について学びましたが、あなた方とは結論が全く違います。
私は大乗仏教が非仏説であるのはなかなか素晴らしいことだと考えていますし、
本仏をゴータマとするのではなく、日蓮とするのも良いことだと思っています。
ちなみに私が教学について深く知ろうとしたきっかけ。
それはある先輩に日蓮について質問した時に返ってきた答えが
「・・・そりゃあ、お前・・・御本尊書いた人じゃん?」
というものだったことに始まります。
彼は年間5世帯ほどの弘教を毎年している人でしたが、
それ以上の答えはとうとう彼の口から返ってきませんでした。
私はそれで、そんなものでいいのかな?と気になり、本格的に勉強し始めたのです。
沢山の事を学びました。上から下まで多くの人とも現実で語り合いました。
そうして遠回りをしてきて、とうとう私は「それでいいのだ」
「それこそが大事なのだ」という確信を得られました。
あなたが言っていることは結局、一介の生活に苦しむ民衆には通じないでしょう。
ネットでばかり人を選んで語って、現実で学のないような人と徹底して
語っていないから、そういうことを簡単に言えるのではありませんか?
目が悪かったり、本を読むような習慣をこれまで全くもってこなかった方には
あなたの言っていることは全く通じないのです。
そうした方を見て、あなたは「オウム」と同じだと思うのですか?
はたまた「鰯の頭も信心」と思うのですか?
そのようなことを思うのなら、あなたこそが実に盲信しているに違いないと
思ってよいと思われます。
戸田先生の指導を心底馬鹿にしているのでしょうね。
>凡夫には永遠にわからないということです」とは成仏の否定でしょうか
私は仏の境涯から仏について語るようなことはしないということです。
成仏の否定などということは、何ら言及しておりません。
>>701 >そこから目を逸らすべきではない、それは趣味の問題ではない
別に目を逸らせとは言っておりません。
>事実判断と価値判断は混同してはなりません
はて、混同してますか?
>>702 >事実判断としたときに、私やひゃっきまるさんは強く反発することでしょう。
あなたは価値判断としても否定されていると私には思えます。
>私も唱題行とはこの己心の見仏にあると思っています
それは私の言っていることと矛盾しません。
>>703 >蓮祖を、釈尊を求めていないのだ、と読めたのです。
求めていませんし、渇仰もしていません。それが彼らへの私なりの礼儀です。
>知りうることに向き合おうとしない不誠実な態度を感じたのです
笑えます、その上から見た物言いは。
あなたが知らないことを私が知っているということだってありますからね。
それに信行学と言いますが、あなたは実際どれほど弘教しているんですか?
まさか自分のことを棚に上げて人を批判していやしないでしょうね?
>>704 >により、でしょうね。現に私とは争いが生じているわけですから。
確かに油断をしました。というよりもあなたを買いかぶっていました。
>よく分からないので説明をしてください。
非常に礼儀知らずの言葉が並んでおり不愉快です。
この程度も解らないようでは、仏教史もなぞる程度しか知らぬということでしょう。
(私もなぞる程度ではありますがね)
馬鹿馬鹿しいので解らなければご自分で調べなさい。
>御書根本は捨てられたのでしょう学会の指針からもそれているわけですね。
実にあなたに言われる筋合いではないことです。答える義理も感じません。
>天台五時がどうのとか、無量義経がどうだとか、結構うんざりする話ですよ。
呆れます、実に下らないことで困っているのですよね。
輪廻からの解脱を説くゴータマvs解脱などハナから眼中にない学会
とかそういうことのほうが考える分には楽しいことです。
>そうなのですか? 気づきませんでした。
自分の傲慢には気づいたほうがいいですよ。
714 :
乾闥婆:2005/11/26(土) 09:08:27 ID:???
それで、滝山さんに、まだ私と対話する気持ちは残されていますか?
残されているのであれば、時間は掛かると思いますが、全てにレスをつけます。
傲慢といわれようと、まだ私はあなたを本気で心配しております。
715 :
乾闥婆:2005/11/26(土) 10:23:20 ID:???
もう仕事へ行きます。一点だけ追加しておきます。「知りません、ただ私はあなたを信用し
ていないということです」。滝山さんは、まったく私に対する信用はない、ということでし
ょうか。私がなぜあなたと話そうとするのか、それは、あなたに対する信頼があるからで
す。妄想、勘違いといわれ、そうなのかもしれないと思いつつ、あなたに対する信用をま
ったくなくしているわけではないので続けているのです。もし滝山さんが、私に対する信
用がゼロであるといわれるのでしたら、もう話を続けることは止めましょう。もしそれで
も続ける、というのであれば、それはあなたのプライドがそうさせているだけなのでしょ
う。あまりよい話は出来ないものと思われます。
ひゃっきまるさん。
なかなかレスできなくて申し訳なく思っています。
お二人の議論が大変有意義な方向に進んでいて非常に喜ばしいと思っています。
いわゆるガチンコの勝負といった醍醐味を感じます。
しかし、できるだけ言葉遣いは穏便にお願いします。
乱暴な言葉、粗雑な言葉というのは、相手より自分への影響の方がはるかに大きいものですし、
そもそも煽り煽られのような言葉のやり取りは議論を拡散させる作用があります。
おおまかには議論は収束の方向に向かっていると思うのですが、それを恐れます。
これだけ有意義な議論であるのに、表面上の険悪さから単なる口喧嘩などと思われてしまうの
も非常にもったいないと思います。
夜に文章を書くと過剰に感情的になってしまうという話もありますから、レスを書いたら一日
インターバルを置いて、読み返して修正してから投稿するというのも一つの手かと思います。
(ペースが早く身体に負担をかけてしまうことへの対策としても)
>>714-715 乾さん
あなたがおっしゃる「心配」とは、
偽善というオブラートに包まれたエゴであると私は確信しています。
あなたが弘教を実践している丈夫ならば、
面識はなくとも信仰上の話において多少は信用も致しましょう。
しかし、そうした実践もない。功徳の実感もない。挙句に批判ばかりしている。
そのような人物に対して、信用を寄せるなどというのは、
私にとって、全面的に危険なことであろうと私は考えています。
プライド云々の話ではありません。
既にあなたとは「対話」をしているつもりが私にはありません。
上からモノを見る態度で、ネチネチ下らない一方的な思い込みで
批判しておいて今更「対話」などと言い出すのは偽善そのものでしょう。
「へらへらしているところを突如バッサリ斬られてしまった」
というのが私の偽らざる感覚でした。
殴りかかってきておいて、「喧嘩じゃないです、対話です」
などという輩を信用できるわけがないのです。
喧嘩ならば喧嘩だと最初から言うものであり、
そちらのほうがよほど信用できるというものです。
私はもう「乾闥婆」という製品名のダンボールの緩衝材を
ただただプチプチ潰しているだけです。
プチプチ言わなくなったならばゴミ箱に棄てるまでです。
718 :
悠:2005/11/27(日) 01:32:10 ID:???
数年前から、このスレの存在は把握しておりましたが、真面目に参加させて頂くのは
初めての事と思われます。
突然の乱入でご迷惑かとも思われますが何卒宜しくお願い申し上げます。
>>滝山さん
願いを叶えた→不信というのは薄々感じていました。
> そこで、「死ぬまで続ける」ということで、もう続けていないため、
> 「もういつ死んでもいいかな」「俺はもう死人なのだな」「死刑囚だな」
> という心境が非常に強くなっていきました。
ここまで悪化していたとは思ってもいませんでしたが。
過去において、どの様な心境だったかは別とし、現在もこの心境に変化が無いのでしょうか?
(他のレスを読む限り、大丈夫そうですが…。)
現在、「このようには想っていない」と言うならば、別段大した問題じゃないと思われます。
人間死にたくなる事も、死んでもいいかな?と思う事も、生きた屍だと思う事も
現実から目を逸らしたくなる事も、疲れを感じる事も、信仰を抜きにしても多々あるものですから。
私的には、後ろに気を取られる事より、前を向いて行く事の方がより大切な事と思っております。
不信も同様ですね。
『これだけ願い祈ってきたのに…』と思っても、悪い事が起きる時は起きる。
人生投げ出したくなるような事だって起きる。
幾ら『難を乗り越える信心』と言われても、心が付いて行かない時もある。
それでも、何かの縁を切っ掛けに、再び発心したりもする。
皆、不信と発心を繰り返しながら信心してるんじゃないかな?
…と偉そうに言っている私もそうなんですけどねw
719 :
悠:2005/11/27(日) 01:33:36 ID:???
> (大聖人と釈迦)大昔に死んじゃっていて、実際のところ全然知らない人達ですから。
そうですね。
自分の目で見、耳で聞き、言葉を交わし、触れる事の出来ない方々ですから。
御書や歴史的に紐解いて感じる事しか出来ないですね。
文献を読んだから『知っている』。
話に聞いた事があるから『知っている』。
歴史で習ったから『知っている』。
人が“知っている”と答えるのには色々なパターンがありますね。
それらは『その自分物の一部分でしかないのだから“全然知らない”に等しい』と考えるのも
考えないのも、その人の価値観の問題じゃないかと思います。
ちなみに「日蓮って知ってる?」と訊かれたら、私は笑顔で「知ってるd(`・∀・´)」と答えますがw
だって人法一箇である御本尊に向かって唱題させて頂いている限り
「全然知らない」と断言するのは、ちょっと気がひけますw
> あらゆる仏教徒に対して、批判することも擁護することも、
> 自分自身にとって既に何ら資することがないことだと考えているのです。
これはネットという世界を指しているのかしら?
それとも現実という世界においての事かしら?
仮に現実という世界の事と想定し、お聞きします。
平和主義でいい事だと思いますが、他宗教の方を折伏する場合、如何なされるのでしょう?
また、無宗教の方でも「念仏でも何でもいいじゃないか」と言われた時、如何なされるのかしら?
どちらにせよ…
私の知っている滝山さんは『批判する事も、擁護する事もしない』というタイプには思われませんが?w
きっと凄い勢いで、仏教対話始める気がするのは…私の気のせいかしら?
720 :
悠:2005/11/27(日) 01:34:35 ID:???
>> 仏教徒として自殺を肯定しますか
> 仏教徒であれば肯定しなければならないかもしれませんよ。
> 何故なら経典によれば、ゴータマ・ブッダは認めているようですから。
仏教徒の恥じと言われようとも、私は間違いなく自殺を完全否定するけどね。
滝山さんが、レスしていた『もし仮に再来したなら』という話じゃないけど、「釈迦の生まれ変わりだ」という人が
現れたならば、その経典で頭をはたいてやります。
「お前は間違っている」と(まぁ、本仏が釈迦じゃないから、いいけど…)。
> 本で解るか!
解らんね。
御書根本とは言え、実践の伴わない教学は、単なる理でしかないから。
簡単に言うと『教学馬鹿』もしくは『頭でっかち』。
実(経験)のない話を、幾ら語られても、誰も聞いてはくれない。心に響かないから。
仏法用語を連ねた所で、普通の人には解らない。
教学も、自分の経験を通して語らなければ、意味がない。
『行学の二道をはげみ候べし、行学たへなば仏法あるべからず、
我もいたし人をも教化候へ、行学は信心よりをこるべく候、力あらば一文一句なりともかたらせ給うべし』
『学』は『行』のために使う。
それが根本だものね?
> 仏のことは仏しかわかんねーんだよ!
その通り。
残されている御文以外の事は解らないね。
だけどね、皆仏性があるんだから、解る時が来るかもしれないよね。
721 :
悠:2005/11/27(日) 01:35:17 ID:???
> 何も知らない子供でもできるのが信仰というもの。
> そんなことは子供でもわかっていることのはずです。
> だから俺は言ったのです、子供でもわかる行動に真髄がある、と。
子供でもわかる行動…それが全てにおいて根本だろうからね。
子供でも出来る勤行唱題・人を助けて行こうとする心。そして信じる心。
それ以外は、私も大して重要視していないな。
教学は、自分の信仰や、相手を助けるためのサプリメントみたいなもの。
そんな感覚。
> 「日蓮=御本尊書いた人」で現実的にみて、生活上何ら困ることはありません。
確かに困らない。
正確には『困った事がない』だねw
私の感覚で言うなら、あと『サプリメントである御書を残して下さった人』。
そして『人法一箇』である。
…という事だね。
イメージが広がろうが、現実的なもののみを直視しようが、その人その人違う。
年々増えていくかもしれないし、減って行くかもしれない。
そんな事より、この信心を『信じられるか・否か』の問題の方が大切だと思われる。
信じて信仰してるなら、認識の個人差等、微塵でもないと思っていたりする。
722 :
悠:2005/11/27(日) 01:36:47 ID:???
>>乾闥婆さん
板では初めまして。
> 仏教において、身を法にささげる供養は説かれております。焼身供養ですね。
> 法華経の薬王菩薩品に説かれていますし、その実践者もいます。
> 誓いを成就するために身を焼くといってもいいでしょう。
> それらは法のために命を捨てる行為です。
個人的な意見で申し訳ないのですが、『法のため』という名目があれば、焼身供養が通じるというのも
おかしな話だと思われます。
宗教弾圧において、それらに反発し、願いを込め焼身する。
とても綺麗な話のように思われますが、生きて尚、反発を続ける事こそ、本来、大切な事ではないのでしょうか?
宗教弾圧にて『殺される』のと『自ら死ぬ』のでは違います。
例えば、滝山さんが激しい宗教弾圧に遭った時『この法華経のため』『誓いを成就させるため』と言い、
身を焼こうとしたならば、私は間髪入れずに「お前は馬鹿か?」とドッ突きます。
それは、ひゃっき君が相手でも、乾闥婆さんが相手でも一緒ですけどね。
さて、何が言いたいのかと申しますと、単に「仏教的な面で見た場合の自殺」を譬えに出し
比較し、相手の自殺云々を破折する事は無理だと思われる…という事です。
供養であろうが、手段であろうが、単なる犬死だろうが、何だろうが、如何なる理由を付けようが
「命を粗末にする考えははよくない」と仰った方が早いかと。
命を賭けて…等、覚悟の問題であって、誓いでもなければ誓願でも何でもないのですから。
> 鰯の頭でもいいことになってしまいませんか。
> 私が信仰しているのは日蓮仏法で あり、曼荼羅であり、唱題行です。
日蓮仏法という法の中で、この御本尊に向かい、題目を唱えている限り
鰯の頭と譬えようが、何と仰ろうとも問題ないと思われます。
あえて言わせて頂くならば、教学や知識が中心となり、理屈ばかりを追った信心よりも
何も解らなくとも、素直に御本尊に向かって行ける、素直な信心の方が優れていると思っている位です。
まず第一に、信じる心から始まるのが信仰なのではないでしょうか?
723 :
悠:2005/11/27(日) 01:42:22 ID:???
> 子供だましの宗教ということだってありえるのです。
否定しません。
ただ学会員同士でのレスのやり取りの中で、他宗教を取り上げ「子供だまし」と仰るのは
いささか如何なものかと思われます。
話の流れから読むに、滝山さんが他宗教を踏まえた上で、信仰の話をしているとは到底思えません。
> 蓮祖の教学や天台教学は、インド仏教 からの長い伝播の過程を経て変化していることなど、
> 分かっていることなのですから、そ こから目を逸らすべきではない、それは趣味の問題ではない、と考えています。
敢えて真っ向から否定させて頂きます。
乾闥婆さんは、一体、何のために各仏教の流れの変化を学ぶのでしょうか?
「私が信仰しているのは日蓮仏法であり」と仰っているにも関わらず、教学の変化を追って何の得になるのでしょうか?
乾闥婆さんが、何を根本にし、何を求め、何のために教学の変化を学ぶのか、私には理解できません。
本当に必要不可欠な物である!と、説明できない限り、趣味の範囲を超える事が出来ないと思われます。
また
> インドに始まる仏教史を学んだことで、創価学会の信仰に距離をとった、という経緯もあるわけです
と本気で仰っているのであれば、私はきっと開いた口が塞がらなくなります。
簡潔に理由を述べさせて頂きますと…『日蓮仏法を信仰している』という言葉に矛盾が生じるからです。
大聖人の頃の仏法のままに…と仰るなら、理解もしますが、インドに始まる仏教史を学び…ですか?
乾闥婆さん?何を信じ、何を信仰しているのですか?
とてつもない矛盾を感じるのは私の気のせいでしょうか?
724 :
悠:2005/11/27(日) 01:42:43 ID:???
>>ひゃっき君と、その他のスレ住人の方々
とても長々書かせて頂いた上、言いたい放題言わせて頂きました事、感謝するとともに、
深くお詫び申し上げます。各方々から御返事を頂き、納得しました時点で、立ち去らせて頂きますので、
暫くの間、お付き合いの程、宜しくお願い致します。
>>滝山さん&乾闥婆さん
今まで遣り取りを見させて頂いており、スッキリしない部分が多々あったため
纏めて一気に書かせて頂きました。
不躾な内容となっておりますが、お暇な時にでもご返事の程、宜しくお願い申し上げます。
滝山=だだをこねる幼児
悠=その幼児を甘やかす母親
>>724 悠さん
お詫びなどととんでもないです。こちらこそ感謝いたします。
良識ある方が増えることでこのスレッドが有意義な対話の場所になることを望みます。
727 :
乾闥婆:2005/11/27(日) 22:52:54 ID:???
>>717 滝山さん。
>などという輩を信用できるわけがないのです。
分かりました。これにて終了いたします。
>「へらへらしているところを突如バッサリ斬られてしまった」
というのが私の偽らざる感覚でした。
そういうことなのでしょうね。私の勘違いは以前の書き込みに見られた滝山さんのお姿に
対する過剰に高い評価にあったのでしょう。その勘違いしてしまった滝山さんのイメージ
から、随分と違っていた今のあなたに、一方的な自分のイメージを押し付けてしまったの
でしょう。不愉快な思いをさせてしまったこと、お詫び申し上げます。
728 :
乾闥婆:2005/11/27(日) 22:54:10 ID:???
>>724 悠さん。この板では、はじめまして。
悠さんが滝山さんとともにチャットで話されていたとき、参加させていただいたような気がします。
>お暇な時にでもご返事の程、宜しくお願い申し上げます。
残念ながら、悠さんの書き込みへ答えることは、滝山さんとの遣り取りの延長になってし
まいます。それは控えたいと思います。
また別の流れでレスを交わすことがあるようでしたら、よろしくお願いいたします。
>>718 >過去において、どの様な心境だったかは別とし、現在もこの心境に変化が無いのでしょうか?
今は当然違いますよ。
現在も変化がなかったら、俺は毎日「やめてくれー!!」
と叫んで跳ね起きてなければなりません。
あのような夢は一度見れば、もう「こりごり」です。
また、「死刑囚」について、色々書きましたが、これも心境というわけではなく、認識としてです。
>後ろに気を取られる事より、前を向いて行く事の方がより大切な事
その通りだと思います。
過去の歴史の仔細に気を取られて足元が留守になるよりも、
現在・未来に向かって確実に歩を進めていく事が大切な事だと思います。
>それらは『その人物の一部分でしかないのだから“全然知らない”に等しい』
>と考えるのも考えないのも、その人の価値観の問題じゃないかと思います。
いえ、その断片が真実正統に一部分であるか否か確認することも、
我々には不可能です。「形あるものは必ず崩れ去る」というのは、ゴータマも日蓮も例外ではありません。
『スッタニパータ』においてゴータマは次のように説きます。
790 (真の)バラモンは、(正しい道の)ほかには、見解・伝承の学問・戒律・道徳・思想の
うちのどれによっても清らかになるとは説かない。
1078 「ナンダよ。世のなかで、真理に達した人たちは、(哲学的)見解によっても、
伝承の学問によっても、知識によっても聖者とは言わない。(煩悩の魔)軍を撃破して、
苦悩なく、望むことなく行う人々、──かれらこそ聖者である、とわたしは言う。」
俺はこれらの文章について賛同しています。
また我々の信仰とは、日蓮に向かい合うものではなく、
日蓮が向いていたのと同じ方向を向くものであろうと俺は思っています。
日蓮は既に死んでいます。だから日蓮のことは我々も死んだ後に会って、
それから知ればいいのではないでしょうか。
生きている間は生きている人間のことをまずは知るべきであり、
死んだ人のことを知っているとか知るべきというのは順序が違うわけです。
順序を逆に考えるのは生者の「傲り」であり、「愚かさ」というものでしょう。
御書にもあるように「蛇は自ら蛇を識る」です。
今を知り、今を生きるために、過去については「学ぶ」だけで実に十分で、
「知る」必要はありません。
日蓮のことをそれほど、知りたいならば、思いたいならば、
優先したいならば、祈りたいならば、会いたいならば、
我々は生きている人間のことを日蓮と思って知るべきであり、
思うべきであり、優先すべきであり、祈るべきであり、会うべきであると思います。
日蓮が(日蓮でなくとも)現実を重視した人ならば、そう言うのではないでしょうか。
それが仏性を信じるということにも通じ、当如敬仏という姿勢にも通じるであろうと思います。
ゴータマも日蓮も我々にとって本来、甘えるべき存在ではありません。
自己の理想像を彼らに重ね合わせるというのもエゴの為せる業でしょう。
敬うというのはそういうことではないと俺は思っています。
>だって人法一箇である御本尊に向かって唱題させて頂いている限り
>「全然知らない」と断言するのは、ちょっと気がひけますw
「全然知らない」という言葉の捉え方によると思います。
>私の知っている滝山さんは『批判する事も、擁護する事もしない』という
>タイプには思われませんが?w
批判や擁護自体は、自分自身に資することは多分ありません。
しかし、相手にとって結果的に資することがあることは否定していませんから、
場合によってはすることもあるのではないでしょうか。
>現れたならば、その経典で頭をはたいてやります。
>「お前は間違っている」と(まぁ、本仏が釈迦じゃないから、いいけど…)。
阿含経で殴ってやって下さい。殴るといい声出して喜びます。
>『学』は『行』のために使う。
>それが根本だものね?
その通りです。都合よく「はしょる」のは「御書根本」ではないので、
正直者ならば潔く「御書根本ではない」と言うだろうと思います。
身の程知らずの嘘つきほどそういうことを言って他者を批判するものです。
>だけどね、皆仏性があるんだから、解る時が来るかもしれないよね。
仏界が開かれたならば、わかるでしょう。
でもこういうものを書いている時、仏界が開いていることは
決してないため、今後も決して解ると書くことはないでしょう。
>教学は、自分の信仰や、相手を助けるためのサプリメントみたいなもの。
>そんな感覚。
俺もそんな感覚です。戸田先生も教学は「退転を防ぐ薬」と言っています。
>そんな事より、この信心を『信じられるか・否か』の問題の方が大切だと思われる。
>信じて信仰してるなら、認識の個人差等、微塵でもないと思っていたりする。
その通りです。
種は必ず花を咲かせるものですから。
>>727-728 乾闥婆さん
あなたは弘教していないということですか、わかりました。
では話はこれで終了とさせて頂きます。
長々とお付き合いいただきまして、ありがとうございました。
これまであなたには失礼なことばかり申し、心苦しく思っています。
この場を借り、全ての非礼に対して謝罪いたします、申し訳ございませんでした。
>残念ながら、悠さんの書き込みへ答えることは、滝山さんとの遣り取りの延長に
>なってしまいます。それは控えたいと思います。
あなたとの話は今回をもって全て終了致しました。
私が口出しすることももうありませんし、私に遠慮する必要は
全くありませんので、できたら答えてあげたらどうでしょうか。
>>603 レスが遅くなり、放置プレイで申し訳ないです。
その間いろいろと大変なようですね
生きるということに真正面から対峙しているならば、
鬱にはならんでしょう
生きるということに迷いがあるから鬱となるのでしょ
しかし、学会の信仰ってのは救いようがありませんな
日蓮さんの穴ばかり追い回して、己の生はそっちのけ
一体何が起こってる(いた)のでしょうか...?
いえ、火が消えているなら、そのまま俺も消え去ります(笑)
735 :
悠:2005/11/30(水) 01:44:47 ID:???
>>728 乾闥婆さん
> 悠さんが滝山さんとともにチャットで話されていたとき、参加させていただいたような気がします。
チャットでは何度かお話させていただきました。
当時は大概、波木井さんがご一緒だったと記憶しております。
(波木井さんは、板で見かける限り、相変わらずお元気そうですね。)
> 残念ながら、悠さんの書き込みへ答えることは、滝山さんとの遣り取りの延長になってしまいます。
> それは控えたいと思います。
解りました。
滝山さんとの交換日記を、誤って見てしまった…という事にしておきます。
> また別の流れでレスを交わすことがあるようでしたら、よろしくお願いいたします。
乾闥婆さんが独り言でもする機会がありましたら…という認識にて、心にとめておきます。
それでは失礼致します。
>>733 Sbさん
んなこたーない。
>>734 T.Rさん
お元気そうで何より。
野次馬ご苦労様ですw
でも消火は済んだみたいですよ?w
736 :
悠:2005/11/30(水) 01:45:25 ID:???
>>729-732 滝山さん
大聖人を…釈迦を知っている・知らないについてですが
1つ1つにお返事を返すと、似たような事を書くはめになるので、途中まで1つに纏めさせて頂きます。
まず、滝山さんが如何なる理由を述べ『知らない』と答えたとしても
本来それらを否定するつもりも、肯定するつもりもありませんが、
そう言い切ってしまっては、レスを返す意味も無いので、敢えて書かせて頂きます。
『知らない人』が言い残した自行化他。
信じる心があるから行うんじゃないのかしら?
『知らない人』と同じ方向を向く。
信じてるから、同じ方向を向こうって思えるんじゃないのかしら?
私が何を言いたいのかは、きっと、解ってて書いてるんだろうけど。
意地っ張りだから。
ま、個人的な感覚としては…
何かに対し「ゴータマが説いた」「われわれの信仰とは日蓮と同じ方向を」と言っている時点で
『知らない人』と言い切るのは、心持頼りないな…とは思います。
知らない人と言い切る位ならば、知識をゼロにし、真っ白にならないと厳しくないかな?w とね。
ちなみに『行学たえなば仏法はあるべからず』。
形あるものは何時しか必ず崩れ去るが、残るものは残る。
…と言っても、未来永劫、仏法が消滅する事なく残るかは知るよしも無いが。
737 :
悠:2005/11/30(水) 01:46:05 ID:???
> 『スッタニパータ』においてゴータマは次のように説きます。
> 790 (真の)バラモンは、(正しい道の)ほかには、見解・伝承の学問・戒律・道徳・思想の
> うちのどれによっても清らかになるとは説かない。
> 1078 「ナンダよ。世のなかで、真理に達した人たちは、(哲学的)見解によっても、
> 伝承の学問によっても、知識によっても聖者とは言わない。(煩悩の魔)軍を撃破して、
> 苦悩なく、望むことなく行う人々、──かれらこそ聖者である、とわたしは言う。」
> 俺はこれらの文章について賛同しています。
釈迦の教えは、詳しくは知らない。
滝山さんが賛同するのは、それはそれでいいと思うよ。
ただ、苦悩なく、望む事なく…っていうのは厳しいなーとは思うけどね。
苦しいから、悩むから、御本尊に向かう私が居るわけだし。
まっ、私は聖者じゃなくて゚+.(o´∀`o)゚+.゚イイ!!
超ウルトラ凡夫な私は難を乗り越える信心で頑張るからw
滝山さんは聖者目指して頑張りなw
> 今を知り、今を生きるために、過去については「学ぶ」だけで実に十分で、
> 「知る」必要はありません。
> 日蓮のことをそれほど、知りたいならば、思いたいならば、
> 優先したいならば、祈りたいならば、会いたいならば、
> 我々は生きている人間のことを日蓮と思って知るべきであり、
> 思うべきであり、優先すべきであり、祈るべきであり、会うべきであると思います。
> 日蓮が(日蓮でなくとも)現実を重視した人ならば、そう言うのではないでしょうか。
> それが仏性を信じるということにも通じ、当如敬仏という姿勢にも通じるであろうと思います。
> ゴータマも日蓮も我々にとって本来、甘えるべき存在ではありません。
> 自己の理想像を彼らに重ね合わせるというのもエゴの為せる業でしょう。
> 敬うというのはそういうことではないと俺は思っています。
同意。
738 :
悠:2005/11/30(水) 01:46:55 ID:???
>> 現れたならば、その経典で頭をはたいてやります。
>> 「お前は間違っている」と(まぁ、本仏が釈迦じゃないから、いいけど…)。
> 阿含経で殴ってやって下さい。殴るといい声出して喜びます。
最近、アヤスィお坊ちゃんが菩提樹で瞑想しているらしい。
巷(インド)ではブッタの再来か?と騒がれているらしいね。
個人的には結構うけたw
>> 『学』は『行』のために使う。
>> それが根本だものね?
> その通りです。都合よく「はしょる」のは「御書根本」ではないので、
> 正直者ならば潔く「御書根本ではない」と言うだろうと思います。
> 身の程知らずの嘘つきほどそういうことを言って他者を批判するものです。
身の程知らずの嘘吐きの称号どうも有り難う。
その言葉、生涯忘れないから、安心して(o´∀`o)b
>>一体何が起こってる(いた)のでしょうか...?
滝山がひゃっきまるの個人情報をばらしたのが発端。
ひゃっきまるに抗議された滝山は平静さを装うため、つい饒舌になってしまったが、
そこで述べたことに関して乾闥婆からいくつか指摘を受けた。
乾闥婆の指摘があまりにも正鵠を得ていたので、滝山が逆切れし、乾闥婆を口汚く罵って去った。
簡単に言うと、こういうことだ。
以前、滝山はゆりというアホをかばって電波男に謝罪したことがあった。
その時は男らしいやつだなと思ったけど、今回はあきれて物もいえん。
滝山の乾闥婆に対するそれは近親憎悪かもしれんな。
滝山、乾闥婆、ひゃっきは実は同じようなところにいる。
しかし滝山は組織側で折伏していて、乾闥婆、ひゃっきは非組織側で折伏を否定している。
滝山は自分の立場が正しいと主張するために、教義面での問題も含めて上記までのような理論展開をして自分を納得させていた。
しかし乾闥婆と議論しているとそれが崩壊しそうになってしまうと、無意識に恐怖したんではないか。
逆切れして”自分自身に対して”ごまかすしかなくなってしまったのだろう。
それに滝山の考えは一般的な学会印とも違う。
それで、悠にもつっこまれてしまった。
滝山は一般の学会員は無知なら無知で信じられるならいいという考えをもっているっぽいので、悠には本気で相手しないだろう。
>>734 T.Rさん
あれまぁ、お久しぶりですw
>>736-738 悠
>知らない人と言い切る位ならば、知識をゼロにし、真っ白にならないと厳しく
ないかな?w
フーッw
だからずっと言ってきているわけじゃん?
「真実」に関する知識はそもそもゼロだよって。
そしてそれは俺だけじゃないでしょうって。
悠が言っているような意味での「知っている」だったら、
俺もそれなら別に「知っている」でいいんじゃないかと思うよ。
「全然知らない」ってのは別の意味で言ってるわけだけどね。
>ただ、苦悩なく、望む事なく…っていうのは厳しいなーとは思うけどね。
フーッw わかってると思うけどw
そっちはオマケでついてきてる箇所だから・・・ねw
>同意。
うむw
>身の程知らずの嘘吐きの称号どうも有り難う。
ありゃ、知らなんだ。
悠は嘘つきだったんかい?w
とかまぁ簡単に答えてみたけど、とりあえずこの問題はこれで一旦切り上げたいと思う。
何かまだ質問があれば個人的にお願いします。
>>739 ん?俺の記憶によると、俺は別にゆりタソを庇ってないんだけどな。
電波に対して誤解に基づいた過激な批判をしたから、それに対して俺は素直に謝罪しただけだ。
あまり書きたくはないが、今回のことについても誤りがある。
正しくは「逆切れ」ではなくて「ヤケクソ」であるからだ。
「前と比べて荒んでる」だけなら「正鵠を得ている」ので素直に受け止めたかもしれない。
しかし、他の部分で誤解に誤解を重ねてしまい、ああいう形になってしまったわけだ。
乾闥婆さんはアンチであり俺はそうではないわけだから、一つの台詞に対しても、
立ち位置、見解の違いによって自ずとそこに込められる意味は異なっていたのだが、
その溝に十分に気がつかずに俺は感情的になっちまったってわけで、切れたのも
罵ったのも事実だが、それはヤケクソになったということであり、「逆切れ」という見方を
本人的には認めることはできない。あと「平静さを装う」というのも違う。
ま、呆れるのは各人の好き好きだけどな、ご勝手にどうぞ。
>>740 野次馬ですか...(笑)
滝山氏には親近感を持ち、ひゃっきまる氏に関しては恩義を感じている
人間として、両者の行き違いがあるなら解消できるように努力しよう、と
考えたことが「野次馬根性」であると定義なさるなら、そうでしょう。
行き違いの解消は済んでいるようだと感じたので、(いた)と書き込んだ訳
ですけれどもね。
なんだか、他人のレスの読み方がずいぶん簡略になってしまわれたように
感じます。
>>741 滝山氏
お久しぶりです。ほぼ2年半ぶりですか(笑)
にもかかわらず、いきなり思いっきりなことを申し上げるのをお許しくださいm(__)m
>それはヤケクソになったということであり、「逆切れ」という見方を
>本人的には認めることはできない。
やけくそになって他人を罵ることも逆切れと表現するのだと思ってましたが、
違うんですか?
過ちを認めるのに、余計な言葉は不要だと思いますよ。なおさら感情的な
対立を深めるだけですから。きっと。
このスレは、いろんな視点から見て良スレであり、そこを挨拶やら対立やらで
埋めるのは、悲しすぎます。
俺のような低レベル君にとっては、このスレは仰ぎ見る存在でした。
ここに俺がこうやって書き込んでいる時点で、大きなスレ汚しだと思ってます。
あなたまで、その仲間入りをなさる必要はないでしょう?
いえ、大きなお世話なんでしょうけど(苦笑)
>>743 訂正m(__)m
いきなり誤爆してもうた...(TT)
きっと滝山氏のせいだ、そうに違いない...(自嘲笑)
>>743でのアンカー、
>>740を、
>>735に訂正してください。
>>740氏、とんでもない誤爆を、心よりお詫び申し上げますm(__)m
滝山が乾闥婆にしたことを世間一般に「逆切れ」という。
お二人の対話の内容は個人的には非常に興味深かったので、終わってしまったようで残念です。
滝山を同志と思うからこそあえて心配して咎める、という乾さんに対し、弘教していない乾さんを
信用することはできない、同志ではない、咎められるいわれはない、という滝山の態度はどうか
と思う。結局すれ違ったまま終わってしまったようで、残念に思う。しかし非礼に対して謝罪して
いるのは潔くてそこだけは偉いと思う。
>>733 Sbさん
お久しぶりです。礼儀云々のことを考えていたら、いぜん僕もSbさんにいろいろと失礼なことを言
ってつっかかっていたことを思い出しました。いまさらですが、申し訳ありませんでした。
>しかし、学会の信仰ってのは救いようがありませんな
>日蓮さんの穴ばかり追い回して、己の生はそっちのけ
それは、乾さんや滝山、悠さん、他全ての信仰者に対して言っているのでしょうか?
そうだとしたら、具体的にどのような意味で「穴ばかり追い回して」いるというのですか?
>>734 >>743 T.Rさん
お久しぶりです。恩義・・・? いったい以前どのようなやりとりがあったんでしょうか・・・。覚えて
いなくてスミマセン。
滝山との行き違いの件は解消されてはいませんが、これ以上話しても無理だろう、と打ち切っ
たということです。しかし心配していただいたこと、本当にありがたく思います。
>>743 T.Rさん
以下横レスになってしまいますが、
>俺のような低レベル君にとっては、このスレは仰ぎ見る存在でした。
>ここに俺がこうやって書き込んでいる時点で、大きなスレ汚しだと思ってます。
>あなたまで、その仲間入りをなさる必要はないでしょう?
T.Rさんにそんなこと言われると、僕の立場がなくなってしまいますヨ。知識の上でも心意気の
上でも、僕は他の常駐者の足元にも及ばないと思います。また、思い上がったことを言ってし
まったり、激昂してトンチンカンな議論をしてしまったことも何度もあります。後でたまたま読み
返したときに顔から火をふく思いをするのですが・・・。
このスレが良スレだ、というのは僕も思っているのですが、それは、真面目に議論がされてい
るから、というのが一番の理由ではなく、アンチだとかそうでないとかいう立場に関係なく、お
互いに一個の人間と人間として認め、尊重しあう空気があるからだと思うのです。
立場が違えば同じ客観的事実に対しても捉え方考え方が違うのは当然のことなので、はじめ
は激しくすれ違ったりするのですが、不思議なもので何度も何度も対話を続けているうち、いつ
のまにかより深いところで同じものを見出すことができたりして、相手に対する信頼が深まって
いくのですね。
例えば、はじめて僕が乾さんと接触したときなども非常に激しく議論して、最終的には結論を
出すことはできなかったように記憶しています。
>>748-749 ひゃっきまる氏
もし、レスの途中なら、割り込み失礼いたしますm(__)m
>滝山との行き違いの件は解消されてはいませんが、これ以上話しても無理だろう、と打ち切っ
>たということです。
俺の言葉足らずを自戒せざるを得ません。
打ち切りをも含めて「解消」と申し上げたつもりです。
>恩義・・・? いったい以前どのようなやりとりがあったんでしょうか・・・。覚えて
>いなくてスミマセン。
日蓮宗@一致派さんとの遣り合いの際、止めに入っていただいたことです(笑)
結局、俺の方から、せっかくの仲裁を蹴っちまいましたがね。あの節は失礼
いたしましたm(__)m
>お互いに一個の人間と人間として認め、尊重しあう空気があるからだと思うのです。
それも含めて、このスレは良スレです。その他にも、様々な視点から良スレ認定
する人は多いでしょうね。
無論、俺とは正反対の立ち位置から眺めれば、糞スレ認定する人もいるでしょうが。
それも、個人の見方なので、頭から否定しないようには心がけますが。
>例えば、はじめて僕が乾さんと接触したときなども非常に激しく議論して、最終的には結論を
>出すことはできなかったように記憶しています。
覚えてます(笑)
あれが、俺がこのスレへの立ち入りを逃げた第2の理由ですから(笑)
ちなみに、第1の理由ってのは、その他のコテハンの皆さんのレベルの高さに唖然と
したことです(笑) 学会員側の論客の方にしても、精緻な論の展開をなさってましたし。
にしても、文底さんと第7の外道さんのお二方には、近寄りたくなかったですねぇ(笑)
後には、あなたと乾闥婆さんがその方々と同じカテゴリーに入りました(笑)
すいません、スレ汚しを長々とm(__)m
> ん?俺の記憶によると、俺は別にゆりタソを庇ってないんだけどな。
確認してみた。
滝山の言う通り、ゆりをかばって電波男に謝罪したんじゃないね。
記憶違いだった。
お詫びします。
でも、今の滝山はちょっとおかしいよ。
乾闥婆への対応は人間としてどうかね?
>>747 ひゃっきまるさん、レスをしようと思っていたのですが、乾さん宛でいっぱいいっぱいになっていたので出来ませんでした
>>具体的にどのような意味で「穴ばかり追い回して」いるというのですか?
日蓮さんと同じ方向を向くとか書いてあるじゃないですか、
でも、それは日蓮さんの方向ではなくて、自分の方向でしかないわけですよね
日蓮仏法は日蓮さんの生き方そのもの、いくら素晴らしかろうと他人が歩けるものではない
日蓮仏法を得んとするならば、日蓮仏法を捨て、己の道を歩むしかない
日蓮本佛など愚論の骨頂でしょう、己に本佛を抱かずの仏などそれこそ只の偶像
御本尊も題目も捨ててこその宝、それに執着し,迷いにも気づかず、与えられたカタルシスに溺れるなど
仏道ではないのですよ
捨てる必要がない、捨てることなど出来ない、そう思い込んでいるだけなのにね
捨てるのが怖い、捨てられない、だけなのにね
ありもしない、はじめから違うもの、なのにね
門前の旗ざおを倒せ!
>>750 T.Rさん
>無論、俺とは正反対の立ち位置から眺めれば、糞スレ認定する人もいるでしょうが。
>それも、個人の見方なので、頭から否定しないようには心がけますが。
含みのある言葉と思いましたので、若干その辺について書き綴ってみたいと思います。
僕は創価学会員とそれに反対する様々な立場の人が、簡単に和解し、友達のような関係になる
ことは矛盾したことと思っています。宗教者にとっての信仰というものは最も大切なものですし、
アンチもアンチの立場をとる重い理由があるからです(中にはそうではない人もいるでしょうが)。
現実の付き合いでは考え方の違い、ということで割り切ることもできるかも知れませんが、その
肝心について真っ向から議論をしようとすれば、どうしても感情抜きにはすまされないと思います。
このスレでは、真面目に議論しようとする人はどなたも礼儀に関しては最大限の注意を払ってきた
と思います。それは、賢く見られたいだとか、議論を有利に進めるためだとかいうためではありません。
この問題が相手の感情を簡単に刺激してしまうような最大級にナイーブな問題であることをよく
心得ているからだと思います。
そして正確な議論をするためには、感情のぶつけ合い、罵り合いが邪魔にしかならないことを
よく理解しているからです。
感情のぶつけあいが必要なこともおそらくあるでしょう。しかし、歴史の変遷や文献など客観的
事実に関する内容を議論する際には、まさにその点について速やかに議論が進行するような
方法を自ずと採択するということになると思います。
ただ最近は教義についての議論自体が行われなくなって久しいので、このスレの存在意義も
怪しくなってきました。僕も自分からふっかけてまで議論したいとは思ってはいませんが、教義
に関して疑問を感じている学会員の方がいれば語りたいとは思います。
T.Rさんもスレ汚しなどと謙遜をおっしゃらずに、議題提供していただければありがたいです。
>>752 Sbさん
>>>具体的にどのような意味で「穴ばかり追い回して」いるというのですか?
>日蓮さんと同じ方向を向くとか書いてあるじゃないですか、
>でも、それは日蓮さんの方向ではなくて、自分の方向でしかないわけですよね
>日蓮仏法は日蓮さんの生き方そのもの、いくら素晴らしかろうと他人が歩けるものではない
>日蓮仏法を得んとするならば、日蓮仏法を捨て、己の道を歩むしかない
>日蓮本佛など愚論の骨頂でしょう、己に本佛を抱かずの仏などそれこそ只の偶像
>御本尊も題目も捨ててこその宝、それに執着し,迷いにも気づかず、与えられたカタルシスに溺れるなど
>仏道ではないのですよ
文脈からすると、Sbさんの言う「日蓮さんの穴」というのは、「日蓮さんの落ち度」という意味ではなく、
「日蓮さんの生き方」という意味なのですか?
あと、Sbさんの日蓮仏法に対しての考え方はおそらく様々な点で誤解があると思いました。僕は反論
しませんが・・・。
>>740 >滝山、乾闥婆、ひゃっきは実は同じようなところにいる。
いや、仏教史を学んでいるという点で共通するだけです。
>逆切れして”自分自身に対して”ごまかすしかなくなってしまった
今回はそもそも、そうした突っ込んだ話にはなっていませんから。
>>743 T.Rさん
>やけくそになって他人を罵ることも逆切れと表現する
T.Rさんは人から侮蔑されて怒りを感じた場合、
それを「逆切れ」と思うわけですか?
>>746 ひゃっき
>滝山の態度はどうかと思う。
姜子さんもひゃっきのことを「心配」して色々と語っていたが
どう感じたか、思い出してみてほしい。
>>751 >乾闥婆への対応は人間としてどうかね?
整理してみたので、まぁ流れを見てみてください。
>>641で俺は「思い上がり」と書いていますが、文脈からしてわかるように、
これは乾闥婆さん個人宛の批判として書いているわけではありません。
だから乾闥婆さんもそのことに対しては特に反応はしていません。
>>653で俺は以下のように書いているが、これが火種でしょう。
>(日蓮が)ホントにゴータマ・ブッダ本人を知ってたら
>あんなことやそんなことは言わないでしょう。
これに対して、乾闥婆さんは
>>660のような反応を示します。
乾闥婆さんにしては珍しく(笑)までつけています、
今思えば、おそらく乾闥婆さんはこの内容自体や「あんなことやそんなこと」
という言い回しに対して、自分の信じるものを侮辱されたと感じたのでしょう。
しかし、俺の書いたことはまったく常識の範囲内のことであろうし、
日蓮がゴータマを知らないということを批判しているわけでもありません。
また、俺が砕けた表現を用いるのは周知の事実でしょう。
だから、俺は
>>660を名指しの侮辱行為であると判断し、
猛烈に不快感を示したというわけであります。
乾闥婆さんは「心配」と称するばかりで
>>660の発言の内容は取り下げず、
むしろ補強し、最後に「謝罪」と称して強調しているのが実態です。
あなたは何か見誤っているのではありませんか?
>>757 例えば女性に対して、
「これまで女性だと思っていたが、女らしさから完全に逸脱してしまうようであれば
やっぱり俺は誤解していたのだな。」
と言った場合、これが侮辱ではないと通ると思われますか?
>>754 すみません、けつです、お尻
日蓮さんの後ろをついていっても日蓮さんの道は歩けないってことです
>>759 まぁ俺はそれに対し、既に
>>710-711でレスをつけている。
また、
>>730でも悠に対してのレスで、関連することをレスしている。
要するに乾闥婆さんの考えというのは・・・
ゴータマが「真のバラモンは〜」と言う、
大乗経典編纂者が「釈尊は〜」と言う、
日蓮が「教主釈尊は〜」と言う、
学会は「大聖人は〜」と言う、
しかし実態はただ名前を借りているだけで、
それぞれ独自の教説が展開されている。
だから信仰とはそういうことなのであり、
「日蓮の真実」を「知っている」のに、そんなことはまるで知らないように、
独自のイメージを形成し、実行していくこと、
それが信仰であり、
だから本来的には「知らない」とぶっちゃけるのは信仰からの逸脱だ、
ということだろう。
>>660で「そんなことは百も承知でやってきたくせに」
というのもそういった流れのものなのではないか。
俺の考えは違う。
ゴータマが「真のバラモンは〜」と言う、
大乗経典編纂者が「釈尊は〜」と言う、
日蓮が「教主釈尊は〜」と言う、
学会は「大聖人は〜」と言う、
しかし実態はただ名前を借りているだけで、
それぞれ独自の教説が展開されている。
だから信仰とはそういうことなのであり、
「日蓮の真実」を「知らない」ことは了解済みながら、
実際の自分の経験による「真実」自体は知っているため、
知っているように語り、イメージを形成し、実行していくこと、
それが信仰であり、
だから本来的には「知らない」とぶっちゃけるのは信仰からの
逸脱でもなんでもなく、基本のことなのである。
ん〜〜うまく表現できているかどうか微妙だが、とりあえずこんな感じ。
>>760 Sbさん
肩並べて隣ですよ。
>>762 同行二人ってかい?
その前にあんた書いてるじゃない、それぞれ独自ってさ
隣に日蓮さんなんか居ないってことだよ
居もしない影、幻想、思い込み
まぁ、いるっちゃーいるでいいとも思うけどね
隣に居るのと居ないのとが同じことになってなきゃだめでしょね
阿弥陀様に生かされている、でどっすか?
764 :
悠:2005/12/02(金) 21:36:39 ID:???
>>741 滝山さん
> 「全然知らない」ってのは別の意味で言ってるわけだけどね。
言葉遊びしているわけじゃないから、これについて返事を書いてもしかたない事なのかも…と最近思う。
>> ただ、苦悩なく、望む事なく…っていうのは厳しいなーとは思うけどね。
> そっちはオマケでついてきてる箇所だから・・・ねw
省いても問題なさそうなので省いたまで。
> 何かまだ質問があれば個人的にお願いします。
ん…直に遣り取りした方が早いからね。
そのうち、週末で暇な日があったら、チャットという形をとりましょう。
取り敢えず、こちらは終了という事で、返事は結構ですd(`・∀・´d)
765 :
悠:2005/12/02(金) 21:37:11 ID:???
>>743 T.Rさん
> 滝山氏には親近感を持ち、ひゃっきまる氏に関しては恩義を感じている
> 人間として、両者の行き違いがあるなら解消できるように努力しよう、と
> 考えたことが「野次馬根性」であると定義なさるなら、そうでしょう。
…T.Rさんの口から親近感と恩義という言葉が出るなんて…(驚)。
解消できるように努力しようだなんて…(驚愕)。
私の中で、T.Rさんは『怒涛のような追撃』が中心の方で、尚且つ粘着であり
雑談の時のみ温厚という、失礼なイメージしかなかったもので…(汗)。
想像もつきませんでした(済みません…)。
というわけで、重ねてお詫び申し上げます<(_ _)>
>なんだか、他人のレスの読み方がずいぶん簡略になってしまわれたように感じます。
私は元々そんなに深読みしたり、思量したりしないですね。
人と接するのと違い、文字の世界は尚の事…それでよく失敗するんですけどねw
以後、気をつけます<(_ _)>
>>752 Sbさん
一言だけ。
何か勘違いなさっているか、解ってらっしゃらないだけなのか…よく解りませんが、
日蓮と同じ方向というのは、きっとSbさんが考えていらっしゃる事柄とは違うと思われます。
>>755 >T.Rさんは人から侮蔑されて怒りを感じた場合、
>それを「逆切れ」と思うわけですか?
>>756も併せて読み、
>>660の乾闥婆さんの発言も読み直しました。
その上で申し上げます。
あなたが
>>660にあるとされる侮蔑の気配など「俺には」読み取れ
ないし、乾闥婆さんにもそのような意図はないのではないか、と。
まず最初に一般論を申し上げますが、侮蔑されたと思い込んで、
感情的に反応することも、「逆切れ」と表現するだろうと思います。
>自分の信じるものを侮辱されたと感じたのでしょう。
申し訳ないが、これも大間違いなのでしょう。
>>660 >そんなことは百も承知でやってきたくせに、ってね(笑)。
あなたが「あんなことやこんなこと」と言っていることは、乾闥婆さんも
百も承知である、としか読み取れません。感情を抜きにすれば。
>>766の続き。
いえ、俺は乾闥婆さんではないので、この読み取りが正解であるか
どうかは知りません。あなたの仰る通り、本人じゃないのだから、
そんなことは「全然知らない」としか言いようがないです。
ただし、文脈をつなぎ合わせて判断している俺や他の名無しさんが
口を揃えて「逆切れ」と言う意味を考えてはいただけませんか?
みんな、乾闥婆さんの発言からは侮蔑を読み取れない訳ですから。
>>758なんぞ、例えにもなりゃしません。
女性であること(DNAに縛られていること)と自分と似ているという
主観とをごっちゃにして話したって、誰にも通じやしませんよ。
繰り返します。もう止めにしましょうや。
やりたかったら、どこぞの死にスレをのっとって、そこでやってください。
これ以上このスレを汚すようなことには、徹頭徹尾、反対いたします。
>>755 >
>>746 ひゃっき
>>滝山の態度はどうかと思う。
>姜子さんもひゃっきのことを「心配」して色々と語っていたが
>どう感じたか、思い出してみてほしい。
もう少し正確に言い直すと、
>弘教していない乾さんを 信用することはできない、同志ではない、咎められるいわれはない
という主張を滝山がすること自体は責めるつもりはないよ。
しかし、乾さんの意図は、
>滝山を同志と思うからこそあえて心配して咎める
というものだったし、少なくとも煽っているようには思えなかった。
姜子さんも、今回の滝山も、礼を守って話そうとする人間に対し、無礼で答えた。
そのことは非難されるべき行為と思う。
続けるなら、ここでもいいんじゃね?
続けても建設的な議論になるかどうかわからないけど。
日蓮に対し「全然知らない人」と発言する学会員の考えを詳しく考察するのは、このスレがふさわしい。
>
>>758なんぞ、例えにもなりゃしません。
禿同!!
性別は生まれる前から決まっているけど、信仰は生まれた後で自分が選択するもんだよな。