【仏罰】本尊焼いてうpしました10【落ちない】

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悪魔の証明
>出典: フリー百科事典『ウィキペディア (Wikipedia) 』
>モノ・行為における存在の有無をめぐって、「ない」ことを証明することは非常に困難である。
>これを悪魔の証明(あくまのしょうめい、羅: Probatio diabolica)という。もともと、西洋中世のカノン法用語らしい。
>「有ることの証明」は、証拠を提示すれば一瞬で完了する容易なことだが、
>その反面、「無いことの証明」は調査範囲が限定されたケースを除き、立証は事実上不可能である。
>なぜならば、この世の全ての可能性、或いは森羅万象、を完全に調査しなければならないからである。
>ゆえに、公平の見地から立証責任は「ある」と主張する肯定側が負うことになっている。
>証明できなければ無いものと見なされる。

>>426
>すりかえんな。
>言い換えようか?「何か」を主張したい連中Aがいる。そのAに反論したい連中Bがいる。
>(ここ重要。BはAの存在を否定したいのではなく、Aの主張を否定したいだけ)

この場合のAとBの関係を明確にすれば自ずと分かる事だが
Aが「モノ、行為の存在の有無」について肯定派であれば
Bはその主張を否定したい、つまり「モノ、行為の存在の有無」について否定派である
当然、証明責任はAが負う事になる

華元は(A=仏罰否定派)であるとし
証明責任が仏罰否定派にあるとして証明を要求している訳だが
当然の事ながら、仏罰否定派は「モノ、行為の存在の有無」について否定派である(前段のBの立場)
よって証明責任は仏罰否定派には存在しない事になる(むしろ華元にある)
華元の主張にはこの時点で矛盾が生じる

なぜ矛盾が生じたか
華元が悪魔の証明の適用に際して、「モノ、行為の存在の有無に関する議論」にという条件に加え
「行為の可不可」という条件を勝手に追加して(笑)話をしているからである
華元は「行為の存在の有無」=「行為の可不可」だと前スレにて主張したが
「行為の存在の有無」は「行為の可不可」に先立つ物であるから、同一次元で扱うのは不自然だろう