【政教分離】創価学会と公明党2【政教一致】

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508山椒島
>>501-502 法律ヲタ さん
解釈の変更を可能にした理由と、それにともなう混乱の原因は、ともに宗祖日蓮師が
はっきりと戒壇建立の義に関して定義していないからだったと記憶しています。
蓮師は、「広宣流布が成り、時の国主が(日蓮の)法華経に帰依した暁(王仏冥合)に、
勅宣を以って景勝の地に本文の戒壇を建立せよ。王臣揃ってこれに参拝せよ」との
趣旨の事を述べています。これを"国立戒壇"と称したのは、国柱会の田中智学で、
明治に入ってからのことです。その後、本門の戒壇に安置するご本尊を巡る論争の
過程で、正宗サイドに"国立戒壇"の概念が伝播したようですね。

この"勅令による戒壇建立"を、戦後の国体の変化に合わせて解釈しなおしたのが、
戸田氏と当時の宗門でしょう("国会議決による戒壇建立")。
>>303で引用している通り、戸田氏の政治参加の姿勢であれば、これで特に問題は
ないという考えだったのでしょう。事実、現在よりも厳しく"政教分離"してますね(笑
民衆レベルで広宣流布が進めば、自ずと戒壇建立の議決は成るということですね。

その後池田氏が会長に就任し、戸田氏の折伏大行進の余勢を駆って、創価学会は
爆発的に拡大しますが、昭和30年代末には勢いが衰え、40年代に一旦止まります。
この流れを危惧した池田氏が、天下取りと広宣流布の偉業達成のショートカットと
して作ったのが公明党(と衆議院進出)であり、正本堂です。
509山椒島:2005/09/01(木) 10:53:01 ID:???
(続きです)
戸田氏以来の言葉を反故にし、内部の指導でも盛んに"王仏冥合"路線を称揚したの
ですから、当然のように批判が起きました。党綱領にも明記していましたしね。
この批判をかわすため、そして、とっとと戒壇としての正本堂を建立してしまうために
編み出されたのが"民衆立戒壇"の概念です。生々流転の戒壇義ですね(苦笑

正本堂に関しては、その意義付けを巡って揉めに揉めたのですが、ここでは略します。
事情によりソースを提示できない事項が多く、またかなりの部分を記憶に頼って書いて
いますので、この2レスに関しては物語程度の感覚でお読み下さい。また細かな部分で
記載ミスもあるかもしれません。大まかな流れはこうであった、ということです。

私が以前この板にいた頃には、このような事項も適切なソースを沿えて詳細に語られる
論客が数多くいらしたものですが(法律ヲタさんもご存知ですよね)。
私ごときが口を挟む隙もなく、ほとんどROMの日々でした。少し寂しい気もしますね。
510山椒島:2005/09/01(木) 11:35:00 ID:???
>>508-509の訂正です。

通して読むと、政教一致批判が起きた原因が、公明党結成と衆議院進出であるかのように
読めますが、>>462-463と照らし合わせてみた場合、公明政治連盟(昭和36年)から公明党
結党(昭和39年)の間に、既にそのような批判は起きていたと考えるのが正しいようです。

それを受けて民衆戒壇義発表(昭和41年)→衆議院進出(昭和42年)という流れですね。

まぁ真っ向否定されたらそれまでの物語ですが、一応念のために訂正しておきます。